以下は、高木慶太著『信じるだけで救われるか』からの抜粋
【必要なのは神の義】
人間は、いくら努力しても、神に受け入れていただくにふさわしい状態に自分をもっていくことはできない。たとえ今から死ぬ時まで一度も罪を犯さなかったとしても(もちろんそんなことは不可能であるが)、神に受け入れられるに十分ではない。その第一の理由は、生れてから今までの罪があるからである。そして第二の理由は、神に受け入れられるために必要なのは、人間の義ではなく神の義だからである。つまり、単なる完全さではなく、神の義そのものが必要だからである。フロリダ聖書大学神学部長のリチャード・A・シーモア博士はこの点を次のように述べている。
「たとえ人が十戒を完全に守ったとしても、天国に行くことはできない。一生涯何の悪いこともせず罪を犯さなかったとしても、それでその人は天国に行けるわけではない。なぜなら、聖書によると、天国に行くために必要なのは人間の義ではなく、神の義だからである。単なる完全さではなく、神の完全さが必要なのである。」
これらのことから明らかなように、われわれが未信者に語るべき福音メッセージは、本質的には「罪をどうこうせよ」ではなく「キリストを信ぜよ」である。ということは、罪や悪習慣を自分でどうすることもできない罪人も、その罪や弱さをもったありのままの姿でキリストのもとに来ることができ、自分が地獄の滅びに行かなくてもよいように、自分の罪の身代わりになってくださったイエス・キリストを「信じる」という唯一の条件だけで救われるのである。そして、信じた時に神はその罪人を義と認めてくださるのである。「義と認める」とは、「信じる罪人を、罪をもったままの状態で『正しい者』と宣言してくださる神の主権的な恵みの行為」(ルイス・スペリー・チェイファー博士)である。
【救いは受け取るもの】
救いは、われわれが何かを「差し出す」というようなものではなく、「受け取る」ものである。神が恵みによって備えてくださったものを受け取るだけで、われわれは救われるのである。救いは、「神からの賜物」(エペソ2:8)すなわち無料の贈り物である。与えてくださるのは神であり、受け取るのは人間である。
「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ1:12)
「神は、実に、そのひとり子をお与えになった・・・」(同3:16)。
「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」(同10:28)。
救いが、受け取るだけで与えられるものであることは、「救いを受ける方法」について説明するためにキリストが用いられた幾つかの象徴的表現からも明らかである。
たとえば、ニコデモに対しては、昔、イスラエルの民が荒野で経験したことを例に挙げて救いを説明された。モーセに率いられた民のうち多くの者が、荒野で神に逆らったため、神の罰を受けて蛇にかまれて死んだ。しかし、死にかかっていた者のうち、モーセが旗ざおの上に付けた青銅の蛇を仰ぎ見た者はみな救われたのである。キリストは、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです」(ヨハネ3:14,15)と言われたが、ここで注意すべきことは、「キリストを信じること」が「青銅の蛇を仰ぎ見ること」と対照されている点である。すなわち、「仰ぎ見る」ということばの中に、「自分の人生を改革する」とか、「何かを差し出す」などのニュアンスが含まれていないように、「信じる」という行為の中にもそれらのニュアンスは含まれていないのである。
また、キリストは、サマリヤの女に救いを説明されたときに、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」(同4:14)と言われたが、この「飲む」という概念も、「水を口に受け入れる」という一方通行の動作であり、相手に何かを「与える」とか「ささげる」とかの意味合いを含んでいない。
さらに、また別の時にキリストは、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています」(同6:54)と言われたが、ここで使われた「食べる」「飲む」という動詞も自分の中に一方的に取り入れる動作を表わしている。
このように、キリストは、「信じる」ということを、「見る」「飲む」「食べる」などの動詞に置き換えて説明されたが、これらすべて、救いが単に「受け取る」ものであることを表わしている。
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