時という荒れ狂うあらしのさなかに立っている そのページは永遠の真理で燃やされ、 崇高な光で輝いている 丘々が揺れ動いても、聖書は立っている 大地がくずれ去る時も、それはしっかりと立つであろう 私は、その堅固な土台の上に、足を置こう なぜなら、聖書が立っているから! ハルドア・リレナス
「神御自身の栄光、人間の救いと信仰と生活とのために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、 聖書の中に明白に啓示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。」
ウェストミンスター信仰告白
有名なバイブル・マニアたちの聖書観
"The Bible will keep you from sin, or sin will keep you from the Bible." Dwight L. Moody 「聖書は学者の書であり、無学者の書であり、万人によって万人に学ばれるべく、万人によって解されるところの人類の書なのである」(矢内原忠雄)。
「今日、見える賜物の中で、聖書は最大の賜物である」(笹尾鉄三郎 大衆伝道者。淀橋教会初代牧師、東京聖書学院初代院長)。
「私は戦時中に敵を知ろうと、キリスト教を調べ聖書にぶつかった。初めは文明を誇る白人がなぜこんなものを信じるのかと笑ったが、聖書が歴史的事実と知ったとき、聖書から離れられなくなった」(三笠宮崇仁親王 今上天皇の叔父)。
「もし聖書の根本的教えに従うなら、われわれの国は繁栄の道をたどり、栄えるであろう。しかし、もしわれわれとわれわれの子孫が、その教えを拒否し、その権威を認めないようなことがあれば、すぐに破局がわれわれをおそい、輝かしい栄えは、一瞬にして、深い暗黒のうちにおおわれてしまうであろう」(ダニエル・ウェブスター 19世紀米国を代表する政治家)。
「人間のための書物としての聖書の存在は、人類がかつて経験した中で最大の恵みである。その価値を減らそうとのいかなる企ても、人類への罪悪となる」(インマヌエル・カント)。
「わたしは三種の教育を受けた。世間と学校と聖書で、最終的には聖書が最も重要である。聖書はわれわれが所有すべき唯一の本であろう」(デューク・エリントン 米国 20世紀のジャズの巨匠)。
「問題の解決を、神が定められた永遠の原理に基づいて見出すのではなく、むしろ、便宜的な見地に立って見出している人が多いこの不安定な時代にあって、聖書研究の重要性とその価値をどんなに強調してもしすぎることはない」(ジョン・ワナメーカー 米国のデパート王)。
第一条 「聖書は神のことばと知るべし!」
「聖書は、人間の意志ではなく、聖霊なる神の意志によって書かれた」(Ⅱペテロ1:21)。
「聖書は、すべて、神の霊感によるもので、誤りがない(原典のみ)」(Ⅱテモテ3:16)。
「聖書は、御名の上にかかげられた神的最高・最終権威である」(詩篇138:2「御名のゆえに」→「御名の上に」が適訳)。
「聖書は、永遠不滅で変わることはない」(イザヤ40:8)。
「聖書は、神の意志でもあり、神の意志を確実に実行する」(イザヤ55:11)。
「聖書は、人知を超えた識別力を備えた神の力」(ヘブル4:12)。
「聖書とは、古いものでも、新しいものでもない。それは、永遠なるものだ」(マルチン・ルター)。 「聖書は世界無二、宇宙第一の書物である」(山室軍平)。 「私は、本では詩集を読むのが一番好きです。しかしそれすらなくてもすませます。しかしもし、私から聖書をとられえしまったら、 私は全く、頼りない気持ちになってしまいます。世界中のすべての詩の本が滅びても、私は一冊の聖書があれば、少しもさびしいことはありません」(八木重吉)。 「現代は、聖書ははたして神のことばなのかと問われる時代である。聖書は、初めから終わりまで神の言葉であり、聖霊の霊感を受けて書かれている。 聖書に聴くとき、私は真実のことばを読んでいることを実感する。私は毎日、聖書に聴くようにしている」(ビリー・グラハム)。 「聖書の用い方というものは、その人が聖書をどのような書物と考えているかによって決まってくる。
聖書を神による霊感の書と認めるならば、聖書はもはや数多い文書の一つではない。
それ自身独自な文書として勝手気ままな扱いを許さない価値あるものとなる。
私は、聖書を神の霊感の書と認める。聖書はそれによって神を学ぶ書である。私共の知性は完全というものからほど遠い。
だから、この聖書を二度三度と読み返し、新しい意味で把握していかねばならない」
(鉱物学の世界的権威、米国マサチューセッツ工科大学教授 マーティン・J・バーガー博士)。
「聖書はこれまでに書かれた本のうちで最も現実的な本である。神がどのようなお方であるかを述べているだけではなく、私たちがどのような者であるかをも
述べている。それは私たち自身の性質と運命について、人間の性質と運命について、明確な洞察を与えているのである」(ポール・リトル)。
「聖書を神の言葉として読むためには、全身全霊を打ち込み、心からの期待をもって、神と語り合いながら、聖書を読まなければならない。聖書を無思慮に・不注意に・学問的に・職業的に読むことは、聖書を神の言葉として読むことではない。愛の手紙を読むように聖書を読むとき、その人は聖書を神の言葉として読んでいる。神の言葉を読むべきであるように、その人が聖書を読むまで、聖書は彼の魂にとって神の言葉ではない」(バーナード・ラム)。
「聖書は人間の最大の悲惨である永遠の刑罰としての地獄について、人間の最大の祝福である天国について、人間の最大の経験である救いについて語っている。聖書は、以上のことが神の権威によって教えられている、と公言する。その神の権威は、聖書記者たちの超自然的信任状によって裏書きされている。
人類の前に置かれた、これら以上に大きな問題はない」(バーナード・ラム)。
「聖書の権威は、キリスト教信仰において尊重されるべきもので、受け入れる価値のあるものであると私は思う。聖書は、すべての人にたやすく読める一方で、
その深いところでは偉大な奥義を宿している。それは、きわめて分かりやすい言葉と素朴な文体によってすべての人に示している一方で、
能力を与えられた人々によって厳密に研究されることを要求する。その開かれた腕の中にすべての人を受け入れるものの、
その狭い隙間を通って神に至る人は少ない。聖書が権威の高みにとどまり、その神聖なる謙遜さによって多くの人を抱き寄せなかったとしたら、
神に至る人ははるかに少なかったであろう」(アウグスティヌス)。
第二条 「聖書のもたらす力と働きを知るべし!」
“聖書の働き” 「聖書はすべて、神の霊感によるもの(神のことば)で、教え(正しい事を示す)と戒め(間違い[罪]を示す)と矯正(どうのようにして正しくなるか)と義の訓練(どのようにして正しくあり続けるか)とのために有益です」(Ⅱテモテ3:16)。
聖書の効力を実体験するための条件:「信じること」(Ⅰテサロニケ2:13)。
聖書の具体的効力)
✜ “霊的成長” ➔ 使徒20:32; Ⅰペテロ2:1~2。 ✜ “信仰を与える” ➔ ローマ10:17。 ✜ “聖める” ➔ エペソ5:26。 ✜ “唯一の武器” ➔ エペソ6:16~17。 ✜ “喜び・楽しみ” ➔ エレミヤ15:16。 ✜ “希望を与える” ➔ ローマ15:4。 ✜ “善悪を識別する” ➔ ヘブル5:11~14。
「私が毎日、もっとも愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に”悲惨”という文字はありません。 聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです」 (ヘレン・ケラー)。 「事典は私の知識を増すかもしれない。しかし生きる力も、神を求める謙遜さも、人々を心から愛する力も、罪を潔める力もない。 聖書のみがあらゆる人生の惑いに答えてくれた。人生は孤島に似ている。私にとって聖書は、孤島における只一冊の本である」 (三浦綾子)。 「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力をもつ生き物である」(ナポレオン)。
「東洋で生まれ、東洋の形と象徴とを身に帯びて、聖書は全世界の道を物なれた足取りで歩き、国から国へと渡り行き、どこにおいても自分の国を見いだす。
それはこれまで幾百カ国のことばをもって人々の心に語りかけてきた。子供たちはそれに書かれた物語に、驚きと喜びとをもって耳を傾け、賢者たちはそれらを人生のたとえとして熟考する。邪悪な者、高慢な者はその警告に恐れおののく。しかし傷ついた者、悔い改める者にとっては、それは母の声である。
それはわれわれの最も尊い夢を織りなし、愛、友情、同情、献身、思い出、希望などは、その貴重なことばの美しい衣を着ている。
この宝を自分のものとして持っている者は、決して貧しくも、孤独でもない。あたりが暗くなり、震えおののく巡礼が死の陰の谷に近づく時、
彼はそれに入ることを恐れない。彼は聖書のつえを手に持ち、友達や同胞に言う、『さようなら、また会いましょう』。
そしてそのつえに支えられ、闇を抜けて光に至る人として、そのさびしい道に向かう」(ヘンリー・ヴァン・ダイク)。
「一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用する道は、神の言を聴いてこれを始むるにある」(内村鑑三)。
第三条 「とにもかくにも祈るべし!」
「聖書研究のための祈り」(詩篇119:18)。
「われわれは単なる理性で聖書を批判したり、判断すべきではない。熱心に、祈りをこめて聖書を深く思いその意味を求めるべきである」(マルチン・ルター)。
「聖書のみことばを祈りとともに読む新しい方法を通して、あなたは花の中に深く入り込む蜂のようになるでしょう。
神様の啓示が示されてある甘い香りとともに花の中に深く隠れてある蜂蜜を得るようになるでしょう」(J・ギオン)。
「みことばもよく読まず祈ることも少ないのは、霊の生活の死を意味する。みことばだけを知っていて祈らないのは、病的な生活である。みことばは知らないが祈りはよくするのは、健全な生活に近いが全く健全とは言えない。みことばもよく知り、よく祈る時、初めて健全な祈りの生活と言える」(アンドリュー・マーレー)。
「敬虔な聖書研究と祈りとをもって一日を始めることは、自己と罪とサタンとのその日の戦いのために人を整えることである」(J・R・モットー)。
「祈り以外にサタンの恐れるものはない。・・・キリストを見失った教会は、善行はさまざまに行なう。活動は盛んになるが、みことばを黙想することがない。
組織は充実してくるが、祈りがない。魂は、悪しき道にsまようのはもちろん、善行の中で失われていくであろう。
サタンの関心事は、聖徒を祈りから遠ざけることである。祈りを欠いた研究も、祈りのない善行も、祈らない宗教も、等しくサタンの恐れるところではない。
サタンは我々の努力を笑い、知恵をあざける。しかし、我々が祈る時、サタンは震え上がる」(サムエル・チャドウィック)。
「聖書を否認して、神に直接入っていく何らかの道があると空想するものがいるが、これは誤謬にとらえられているというよりは、
むしろ、狂気に駆られているとみなすべきである。すなわち、近年目のくらんだものどもがあらわれ、
非常なうぬぼれをもって『自分たちは御霊を教師としている』ということを口実に、聖書を読むことを全く軽んじ・・・
あえて見くだすまでに彼らを霊感によって尊大に思いあがらせるこの霊とは、どういう霊なのか、彼らに説明してもらいたい。
・・・我々に約束された聖霊の働きは、新奇な、まだ聞いたこともない啓示を造り出したり、
あるいは、我々をひとたび受けた福音の教理から遠ざけるための、新しい種類の教理を捏造したりすることではない」(ジャン・カルヴァン)。
「聖書の読みたいと思う個所を読んで、そこから喜びを受けなさい。しかし、御言葉を読んでも、もし、あなたがひたすら神の御霊だけに心を向けず、
神と心を一つにして、完全にそのお方に拠り頼まないとしたら、依然としてあなたは貧しく、空虚で、何も変らないだろう」(ウィリアム・ロー)。
「私たちは、聖書を他の本のように読んだり、解釈することはできない。なぜなら、聖書は他の本とは全く異なった者だからである。
・・・聖書が他の本の中にあるのは、あたかも人なるキリスト・イエスが人々の中におられるようなものである。
イエスが1つの人格において神であられまた人であられたように、聖書は神のことばであるとともにまた人のことばである。
それゆえ、私たちは、御霊によってのみみことばの真の意味を悟ることができるのである」(アドルフ・サフィア)。
第四条 「聖書はイエス・キリストを中心に読むべし! 」
自己中心的(自己実現のためなど)に、イエス・キリスト以外のテーマを求めて読もうとしても聖書は分からない。
聖書66巻全体のテーマはイエス・キリストである。難解な箇所にもイエスは発見でき、無味乾燥だと思っていた箇所もイエスを発見できる喜びに変えられる。
参照)ルカ24:27,44; ヨハネ5:39~46。
聖書を学ぶ目的・動機は、生けることば(ロゴス)であるイエスを知ること(ヨハネ17:3)。
バイブル・スタディーは単なる勉強会ではない。学ぶ前よりも、学んだ後、イエスのことをより深く個人的に知ることを目指す。学識を深めるのではなく、イエスとの
人格的交わりを深めることを目的とする。
神に最も喜ばれること、つまり神を知ることが、クリスチャン人生の目的(ホセア6:6; エレミヤ9:23~24)。
『実際、聖書を 知らないことは、キリストを知らないことである。』(聖ヒエロニムス) 「聖書はそれ自身が目的なのではない。聖書は人々を満ち足りた神の知識へと導く手段である。
それは、人々が神の臨在を楽しみ、彼らの心の中心において、神ご自身の内なる甘美さを味わい知るためである」(A・W・トウザー)
「聖書は、その中にキリストが横たわっている飼い葉桶である。・・・
母親が赤ん坊を見出すだけの目的で揺りかごに行くように、私たちはキリストを見出すだけの目的で聖書を読むべきだ。」(ルター)
「預言者たちは星であり月である。しかしキリストは太陽である。キリストの預言に反対するものはすべて無である。
キリストは天への梯子の最初の段でもあり、最後の段でもある。キリストを通して我々は前進を初めなければならず、
キリストを通して生命へ到らなければならない。私は聖書の中にただ、十字架に付けられたキリストのみを理解する。」(ルター)
「聖書研究の目的はイエス・キリストを知らんがためである。研究のための研究でない。イエスを知らんがためである。彼を知るは生命である。 いかなる労苦をも惜しまず彼を知るべきである。そしてイエスを知るために聖書全部を知る必要がある。新約のみならず旧約をも知る必要がある。 ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセを知る必要がある。すべての士師とすべての預言者を知る必要がある。 大人物は一朝一夕にして知ることのできる者でない。一生涯の研究が必要である。それゆえに、早く聖書研究を始めよというのである。 小児を日曜学校に送り、イエス研究の準備として聖書研究を始めしめよというのである。人生をして意義あらしむるものはイエスを知ることである。 彼を知ると知らざるとの差は、生と死との差である。聖書を生命の書と称するは、神が人に賜いし生命の因(もと)たる、 そのひとり子イエスを紹介するからである。古書研究のための聖書研究ではない。人らしく今生きんためのこの研究である。 ゆえに、教うる者も学ぶ者も、燃ゆる熱心をもってこれに当たらねばならぬ。冷静なる聖書研究はあり得ない。 そは、「冷静なる生命」は蛇の生命であるが、人の生命ではないからである。」(内村鑑三) 「聖書は神を、霊と人格としてばかりでなく、聖なる・義なる方として提示しています。創世記から黙示録まで、全聖書を通じて、 神はご自身を聖なる神として啓示しています。神は、あらゆる点において、完全無欠な・絶対的なお方です。 ・・・われわれがキリストの死の理由を見出すのは、神の聖性においてなのです。神の聖性は、罪に対する最も厳正な刑罰を要求します。 そして神の愛は、人間の刑罰を償うためにイエス・キリストを備えられ、人間に救いの道を与えられたのです。」(ビリー・グラハム)
第五条 「聖書の教えは聖書により吟味すべし!」
「聖書の教えは、鵜呑みにせず聖書により吟味せよ」(使徒17:11~12)。
「霊を見分けよ」(Ⅰテサロニケ5:20,21; Ⅰヨハネ4:6)。
「聖書に精通することは、大学教育にまさる価値がある」(セオドア・ルーズベルト)。 「 私は聖書の学びに夢中になって没頭している。私はそれが神のことばであると信じている。なぜならそれは私がどこにいるのかを探し出すからだ」 (エイブラハム・リンカーン)。 「最良の教師は、自分の意味を聖書に持ち込む人ではなく、聖書から意味を引き出してくる人である」(ルター)。
第六条 「聖書の学び方を学ぶべし!」
参考)「5W1H」の原則。だれが(WHO)、いつ(WHEN)、どこで(WHERE)、何を(WHAT)、誰に(WHOM)、どうやって(HOW)語られたのか?
「聖書は旧約・新約を、一度通読しただけで、大きな読書力が養われ、たいていの本を読めるようになる」(賀川豊彦)。
「私は、男性にとっても女性にとっても、大学教育は望ましいものであると思っています。しかし・・・大学教育を受けなくても、聖書の知識を持っている人は、大学教育を受けても、聖書の知識が何もない人よりはるかにまさっている思います。聖書の十分な知識を有する人が、真に教育のある人と呼ばれるのにふさわしいのです。どんなにほかのことを勉強しても、どんなに多くのことを学んでも、それらを聖書の知識に置き換えることはできません」」(ウィリアム・ライアン・フェルプス)。
“帰納的聖書研究法”:「帰納法」=個々の具体的な事実、いくつかの事例の共通点を探して、広く一般に通ずる結論を導き出すこと。 「観察」→「解釈」→「適用」の順で学ぶ。
【観 察】: 先入観、思い込みに囚われずに純粋に読む。先入観(過去に見聞きした誰かのメッセージや本の解釈)は誤解を生む可能性がある。
✤ テキストを繰り返し精読する。別訳(英訳等も含め)と比較し、照合する。 ✤ 章・節にとらわれない。章の切れ目が縁の切れ目ではない。巻物として読む。 ✤ 並行箇所や引照箇所(コンコーダンス利用)とも比較し、視点を広げる。 ✤ 頻度の高い言葉、特殊な表現(特有の用語、文体)を検出することで、各書のキーワード・テーマを特定。 ✤ アウトラインを作成して、まとめる(注解書やハンドブック等を参考)。
【解 釈】: 観察に基づいて解釈。観察をしっかりやらないといい加減な解釈となる。
✤ 基本的に文字通り読むことで、私的解釈は避けられる。 ✤ 霊的・象徴的・比喩的解釈は、聖書が明示していない限り(例:「たとえで話された」「○○のよう」等)、極力避ける。 ✤ 文脈に沿って解釈。前後の流れを把握して文脈を無視しない。 ✤ 「聖書は聖書によって解釈する」「聖書は聖書自身の解釈者である」が鉄則。旧約は新約で、新約は旧約によって理解。
✤ 時代背景、地理、文化、慣習、執筆者、執筆事情を把握すること(ヘンリー・H・ハーレイ著『新聖書ハンドブック』がおすすめ)。 ✤ 可能なら原語や文法を確認する(原語辞書レキシコン活用)。 ✤ 聖書66巻全体を踏まえてバランスを考慮(使徒20:27)。 ✤ 注解や講解説教等も参考にして、自分の解釈が極端でないかを確認。 ✤ 自分の考えや都合に合わせた無理な帳尻合わせは禁物。 ✤ みことばを乱用して、自分の考えを正当化し、教理化しない。 ✤ 分からない箇所は分からないままでも良い。聖書が触れないことには深入り無用。
「旧約聖書の中に新約聖書は、隠されている。新約聖書の中に旧約聖書は開かれている」(アウグスティヌス)。
「著者がこう言うべきであるとわれわれが考えることを著者に押しつけるのでなく、
著者が言っていることを著者に言わせるのが、解釈者の第一の仕事である」(カルヴァン)。
「あなたは、あなたの前に聖書解釈の分野で労してきた神学者や学識のある人々の業績の助けを借りなくても、聖書を解明することができると考えたり、
言ったりするほど知者ではない。・・・聖霊が自分自身に示されることについて多く語る人々が、聖霊が他の人々に示されたことをほとんど考えてなくてもよい、
というのでは片手落ちのように思われる」(チャールズ・ハッドン・スポルジョン)。
「他の助けを借りなくても、十分聖書を理解できると主張する信仰深い人がいる。『私は人間の書物を読んだり、人間が書いた注解書を参照したりしない。
聖書が自ら述べていることを知るために、私は直ちに聖書のもとに行く』と。この言葉は非常に霊的に聞こえ、聴衆の『アーメン』を得る。
しかし、これは賢明な道か。教会の神学を無視する権利を有する人がいるとは思えない。第一に、単なる人間の書物を無視し、
聖書そのものに直行するという主張は、信仰深く聞こえるが、その実、とんだ『高慢が隠されている』。
それは、カルヴァン、ベンゲル、アルフォード、ランゲ、エリコット、モールのような人々のたゆまない敬虔な聖別された学識を無視して、
だれでも聖書を適切に理解しうるという、ずるい主張だ。第二に、この主張は、聖霊の霊感と聖霊の照明を混同している。
聖霊の作用は、『新しい』真理の伝達でも、『未知の事柄』の教授でもなく、聖書の啓示の照明だ。
神学研究不要論に、イザヤ書のツロ、シドン、キティム、シホル、モアブ、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ、カルノ、カルケミシュ、ハマテ、アヤテ、
ミグロン、ミクマス、ゲバ、アナトテ、ライシュ、ノブ、ガリムという言葉の意味が、ただ熱心に祈るだけでわかるのか尋ねたい。
これらの言葉に当てうる唯一の光は、注解書あるいは聖書辞典だ」(バーナード・ラム)。 「聖書を翻訳で読むのは、愛する恋人にハンカチーフの上からキスするようなもの」(イスラエル建国の父、初代首相 ベン・グリオン)
☢ 警 告!!! 聖書は「曲解してはならない!」。
参照) 申命記4:2; 箴言30:5~6; Ⅱペテロ3:16; 黙示録22:18~20 。
【適 用】:最重要!!! バランスのとれた健全な解釈がバランスのとれた健全な信仰生活へと導く。
✤ 実践的適用:「~すべき」・「~しなければならない」。 ✤ 神のことばが自らのうちに受肉することを求める。 ✤ 個人の信仰生活・奉仕(ミニストリー)に対する適用。 ✤ 教会・クリスチャン全般に対する適用。
「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:21~22)。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ7:24)。
「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」( ピリピ4:9)。
「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」( ヨハネ13:17)。
「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである」( エズラ7:10)。
「私がこの幸いで有益な奉仕を続けることができたのは、聖書を愛していたからである。私は年に4回通読し、祈りに満ちた霊をもって、
みことばを心に適用し、また実行することを習慣としていた。私は69年間、幸せな人間であり続けた。」
「霊的生活の力強さは、私たちの生活と思想において、聖書がどのような位置を占めているかということに比例する」(ジョージ・ミュラー)。
「汝が聖書全部を、またすべての哲学者のことばをそらんじたとしても、神の愛と恵みとがなければ、汝にどんな利益があるというのか」(トマス・ア・ケンピス)。
「聖書は、読めば読むほどすばらしくなる。聖書は、理解が進んで、この自分と関わりがあるとわかるにつれ、美しくなる」(ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ)。
「聖書は私たちの知識を増やすためのものではなく、私たちの生涯を変えるものである」(ドワイト・L・ムーディー)。
第七条 「聖書を学ぶ者は、イエスのようになるべし!」
イエスを個人的なレベルで知れば知るほど、イエスの似姿に近づく。イエスと時間を共に過ごせば、過ごすほど、だんだんイエスに似てくる。「学ぶ」の古語は「まねぶ」と言い、「まねる」の意。イエスを学ぶということは、彼を真似ることに他ならない。 キリストの花嫁である教会は花婿イエスと似た者夫婦となることを目指す。
「光、暖かさ、健康、力はすでにもう存在しているのだから、スイッチを入れさえすればよいのだ。
電線そのものは別に何でもない。絶縁された二、三本の銅線にすぎないのだ。
しかし、その線の中をプラスとマイナス二つの電流が流れると、すべてが変わってくる。
暗黒は失せ、冷気はなくなり、仕事もたやすくできるようになる。
聖書は単なる本にすぎないが、神の御霊によって霊感されている聖書の各ページを、
神の義と愛とが、プラス・マイナス二つの電流のように流れ、キリストの十字架で合流している。
聖書だけが、私たちに救い主を示してくれる。
そのことによって聖書は、私たちの全生涯を造り変えることができる力の泉となるのだ。
あなたは誘惑にあい、疑惑と敗北と弱さに満ちたご自分の生活に倦み疲れてはいないか。
また、不安や心配にあきあきしてはいないか。スイッチを入れなさい。聖書を読みなさい」(トーマス・エジソン)。
※ 聖書はすべて新改訳聖書を使用。
聖書を読むことは、1つの礼拝行為である。聖書に対する姿勢は、そのままキリストに対する姿勢でもある。ある人を愛するなら、その人について書かれたものを読みたいと切望する。聖書を読むことがキリストへの礼拝行為であると考えるようになりさえすれば、それを軽々しく扱うことはなくなるだろう。
キリスト者であることは、光栄なことである。人間が持ちうる最も光栄な特権は、救い主であり導き手であるキリストと手を取り合って、人生を共に歩むことである。より実際に即した表現をするなら、キリストに手を引かれて、よちよち歩きをしていく、ということになる。つまずいてばかりだとしても、手を離すことは決してない。
私たち1人1人が持つ、キリストとの個人的な関係は、人生において最も親しい関係である。しかし、それについては、あまり語られることがない。神の御名で呼ばれるには、自分はあまりにもふさわしくないと思っているのだろうか。万物の造り主がなぜ、よりによってこの私に心を留められるのか、と。しかし心の深い部分で、真剣に問うなら、私たちにはわかっている。私たちは弱く、この世的な性質を持ち、軽薄で自己中心的で、罪深い存在である。だから、この世界の何よりもキリストが必要なのである。神は私たちの父である。私たちは、より正気な状態では、意図的に神を怒らせたり、傷つけたりしてはいけないことを知っている。私たちを愛してくださる神を、私たちが愛している神を、どうして意図的に傷つけることができようか。私たちには思慮が足りないのである。
聖書は、キリストと、私たちに対するキリストの無限の愛について書かれた書物である。キリストを愛していながら、キリストのことばについて全く無関心ということがありうるだろうか。そんなことは、ありえない。1人1人、毎日、選び取らなければならない。この世ではなく、神に仕えることを。聖書は、それをどのようなすればよいのか、教えてくれる。
ヘンリー・H・ハーレイ
「性急なる者よ、静かに座してヨブと交われ!一徹なる者よ、モーセとペテロの記事を!柔弱なる者よ、エリヤを見よ!心に歌なき者よ、ダビデに聞け!政治家よ、ダニエル書を読め!失意と暗黒にある者よ、イザヤ書を読め!心の冷やかなる者よ、愛の使徒ヨハネに近づけ!信仰の薄き者よ、パウロに目を注げ!安逸をむさぼる者よ、ヤコブ書を忘れるな!将来に望みなき者よ、黙示録を読んでヴィジョンを!誰でも、また如何なる時でも、み言葉を聞け!」(リチャード・バクスター)
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