8 牧仕による聖書連続講解説教集(Listen To Bible Teachings)




「キリスト教会の浅薄さの原因は、聖書を真剣に取り上げないこと、聖書をありのままに取り上げないこと、
聖書の語りかけを受け付けないことである。」(D・M・ロイドジョンズ)




1abu146.gif このサイトのご利用に際しては、以下の利用規約をご確認いただき、これらの条件に同意された場合にのみご利用いただけます。

 

「ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」

(使徒17:11)

 

 上記の聖句に基づき、すべてのバイブル・メッセージを聖書本文と照合しながら吟味し、鵜呑みにしないこと。

 


「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、
ますますそうしようではありませんか。」 (ヘブル10:25)

 

 上記の聖句に基づき、本サイトを教会における公の礼拝の代用(教会で礼拝をしない口実)としないこと。

 

「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」(マタイ10:8)

 

 上記の聖句に基づき、本サイトのバイブル・メッセージ、及び週報はすべてコピーも配布も自由です。ただし、販売、変更、改変はご遠慮願います。

 

「何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)

 

 

 上記の聖句に基づき、本サイトのバイブル・メッセージを個人の学び以外にも家庭集会等、祈りつつ主の栄光を現わすために広く用いていただければ幸いです。

 

 同意する場合は、「アーメン!」と言うこと。





   
   
 
2種類のサイトから最新の礼拝メッセージ/バイブル・スタディー及び過去のバックナンバーを聴くことができます
(ダウンロードに数十秒かかる場合があります)。


以下をクリック 
 


    
down arrow flashing green and red以下をクリックdown arrow flashing green and red 
   


上記のファイルを開くことができない場合はメールで気軽にお問い合わせください。
尚、スマートフォンやタブレット端末をご利用の方から不具合があるとの報告を受けています。
現況では改善できませんので、コンピューターからダウンロードするなどしてご利用ください。
 

"Simply teach the Bible simply."  - Chuck Smith, a founder of Calvary Chapel

horizontal line - rolling color barhorizontal line - rolling color bar
 
 
             
 

    あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。
その聖書が、わたし<イエス・キリスト>について証言しているのです」(ヨハネ5:39)。
 
「信仰は、聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)。
 
      「福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。
みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」(ヘブル4:2)

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神のの使信のことばを受けたとき、
それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。
この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているうちに働いているのです。」(1テサロニケ2:13)


「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。
また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:21~22)

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:24)

「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」(ピリピ4:9) 

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。」(ヨハネ13:17)

「みことばをさげすむ者は身を滅ぼし、命令を敬う者は報いを受ける。」(箴言13:13)

聖書を学ぶ時はノートを取るように

実行するために
インプットするためだけではなくアウトプットするために

「主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。」(ハバクク2:2)

「彼がその王国の王座に着くようになったなら、レビ人の祭司たちの前のものから、自分のために、このみおしえを書き写して、自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」(申命記17:18−19)


 


 
    animated line left to right green to red
 
       
 

【講解説教について】

「説教が、みことばに関する講義ではなく、みことばそのものが開かれ説かれて、明らかに神のことばそのものである時、はるかに強い力をもって聞き手の良心に突き刺さるのだ。あなたがたが聖句を背後に押しやって自分の考えを述べたりしないのは、霊感のすばらしさのゆえなのである。兄弟たち、もしあなたがたが聖書の正確な意味を伝える講解説教を習慣としているなら、私はあえてお勧めしたい。聖霊によって与えられたみことばそのものを堅く守り続けよ。多くの場合、主題説教は許容されるだけでなく適切なものであるが、聖霊によるみことばそのものの講解説教は、大部分の会衆にとって非常に有益であり、また喜ばれるものだからである。」「私は、どのような説教も、講解説教ほど永続性があり、教会生活をすばらしく建て上げるものはないと確信している。もちろん、奨励的な説教を全く放棄し、講解のみに専念することはまた、ばかげた極端に走ることになる。しかし、〈牧会活動が永続的で有益なものとなるためには講解者にならなければならない〉ということをいくら熱心に主張しても主張しすぎることはないと思う。(説教のプリンス チャールズ・H・スポルジョン)

 

「私は、今日の教会に最も必要なことは、講解説教に帰ることであるという強い確信を持っている。」「すべて説教は講解的であるべきです。ある思想をもって始めてはいけません。たとえそれがどんなに正しく、すぐれていてもです。それから始め、それに関する話を創作してはなりません。決してしてはならないのです。もしそれをするなら、あなたは何度も同じ事を語り、いつまでも同じことを繰り返すことになるでしょう。講解説教に関してほかの論点がなければ、以上のことを言うだけ充分だと思います。それはあなたの説教において多様性と変化を保ち、保証します。また同じことの繰り返しを省いてくれます。これは自分自身にも会衆にも益となるでしょう。」(20世紀最大の説教者 D・M・ロイドジョンズ)


「講解説教は、最も求めるところの多い、しかしまた最も事柄に即した聖書本文の講解の形式である。人は開かれた聖書をもって説教の後を追うように教会を教育すべきであろう。このことはまた牧師のための教育をも意味している。基本的には、聖書講義と説教との間には区別なはい。主題説教には、提起された問題と与えられた答えとが後に残るという危険性が伴っている。すなわち弁証が前面に出て、聖書本文がなおざりにされるという危険性がその中にひそんでいる。講解説教かあるいは主題説教かという問題を考える場合にも常にそうであるように、究極の目的を支配するのは、説教の何が(Was)であることは許されず、誰が(Wer)でなければならない。すなわち、今言われていることにおいては、彼(ER)が、神が、あなたに語りたもうのである。」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)

「連続的講解は聖書の全体に目を向ける。そこで聖書の全体への束縛が成立する。ツヴィングリとカルヴァンの影響の下で、そのことは改革派教会では特に重んじられている。ルターもまたそのことを自分でも行い、たとえば彼の詩編による説教ではそれを勧めている。しかし彼は、そのことのできる霊的に満たされた説教者はほんの僅かしかいない、というところの困難な点を見出した。説教者の関心をもって彼はその聖書講義を書いた。ローマ人への手紙からヨハネの福音書に至るまで、聖書の全体をあまねく取り上げて説教することにしりごみすべきではないであろう。連続的講解は、教会暦による聖書日課に従って説教することと、説教のテキストの自由な選択との間の中間の位置を保持する。それは成熟した教会にとっての関心事である。教会にとって、もし聖書が格言集や静想の手引書であったり、聖書本文が自分勝手に引用して用いられているとするなら、聖書はなおただ疑わしく細分化された言葉の寄せ集めにすぎない。そのことには反対しなければならない。なぜなら、聖書には一つの統一があるのだからである。」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)


「真の教会成長は、聖書を創世記から黙示録まで、全体を地道に学び、それに従うところにある。それは、決して新しい方法ではないが、根を張り確実に成長していく唯一の道である。」(グレッグ・ローリー)

「聖書は、神の言葉であるとわれわれは信じております。われわれを支える共通の説教理解を言い表すひとつの重要な文章は第二スイス信条の命題です。「神の言葉の説教は神の言葉である」。前者の「神の言葉」は聖書を意味します。後者の「神の言葉」は今ここで聴く神の言葉です。大切なことは、聖書の言葉がそのまま神の言葉であるとは言っていないということです。聖書を説く説教があって初めて聖書が神の言葉となる、ということです。
 講解説教は、一書を連続して説き続ける講解説教であろうと、一回限りの講解説教であろうと、聖書の言葉がそのまま朗読されればそれでよいというのではなくて、それが説教の言葉となって聴き手に届くことがあって初めて神の言葉になるということを真剣に考え、そこに自分の課題を見出します。それは、聖書の言葉が、常に新しく語り出す神の言葉だということだとも言えます。いつも今ここにおける神の言葉となるのです。われわれは、その言葉を聴くために祈り、また備えます。その言葉が語り出されるために自分の説教が用いられることを信じます。そのための言葉をどのように語れるようになるかを問い続けます。聖書の言葉が、今ここで生きた言葉となることを信じるからです。そのとき、われわれはその聖書の言葉に自分が捕らえられるために備えます。われわれが聖書の言葉を動かして現代にも通用する歴史の言葉とするのではありません。聖書の言葉が、今ここでわれわれを動かす言葉となることを待望するのです。そのために聖書を読むのです。聖書を通じて神が語ってくださる言葉がわれわれを捕らえることを期待し、信じて、われわれが読むのです。詩篇第一一九篇一三〇節は忘れ難い言葉です。聖書学者であり、説教者としても私に大きな感化を残しくださった渡辺善太先生が、まだ若い学生であった私ひとりに大きな声で暗唱して聴かせてくださった言葉です。

御言葉が開かれると光が射し出で無知な者にも理解を与えます。

 「御言葉うち開くれば光を放ち、愚かなる者をさとからしむ」という文語の言葉を渡辺先生から聴きました。大きな確かな約束の言葉をいただいたと思いました。この「み言葉の光」を待つのです。そこから講解説教が始まります。そしてわれわれ自身がその光の言葉の語り手となる光栄のなかに立つに至るのです。もとより聖霊の働きを待たなければなりません。しかも、それと共に、われわれ自身が確信をもって語り、働くことをも求められます。そのように神の言葉に仕える者として語りかけられ、捕らえられることを信じて探求します。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。この主の約束は、ここにおいても信じられるべき、励ましの言葉です。」(加藤常昭)

「講解説教は教理と無縁どころか、むしろまさしく聖書を説くことによって教理を説く説教なのである。」(加藤常昭)

「講解説教をしない説教者は後悔説教者となる。」(キリストバカ)


「私たちの任務は、私たちの時代の持つ言語で無時間的なもの(同じ昨日、今日、そして明日)を提示することである。悪い説教者はこれとは正反対のことを行なう。彼は私たちの時代の思想を持ち出して、それらの思想をキリスト教の伝統的な言語で飾り立てるのである。」(C・S・ルイス)





【キリスト教の説教】

「神のことばの説教は神のことばである。」(ルター)


「みことばを省くよりは、他のすべてを省く方がましである。」(ルター)


「神の言が説教されなければ、歌いも朗読も集まることもしないほうがましである。」(ルター)


「説教はすべてに優先する。」(オラフ・ペーテルソン)


「神への奉仕の中において最も重要な要素は説教である。」(カール・F・ヴィストロフ)


「説教は、人が召されてすることのうちで最も偉大で栄光に富んだものである。」(D・M・ロイドジョンズ)

「説教の充実が世界の最も大きな、緊急の必要である。」(D・M・ロイドジョンズ)

「神のことばを説教することが教会とその教職者、指導者の第一の責務。」(D・M・ロイドジョンズ)

「教会員の霊的成長に心を砕く牧師は、神と神のことばを自身のミニストリーの中核としなければならない。」(スティーブ・J・ローソン)
 
「罪以外の何ものをも恐れず、神以外の何ものをも欲しない百人の説教者をわれに与えよ・・・このような人々のみが地獄の門を揺るがし、
天の御国を地上に打ち立てるのである。」(ジョン・ウェスレー)

「日々の罪を認めるために、クリスチャンは進んで自らを吟味しなければならない。また他の人たちにもそう勧めるべきだ。
ピューリタンは良心を『引き裂く』説教者を評価した。このような説教者が今日はもっと必要だ。私たちのプライドにとっては辛いことだが、
自己吟味が必要なのだ。」(J・I・パッカー)

「説教者は人々の注意を喚起するためにある程度まで感情に訴える必要もある。しかしそのあとは必ず彼らの良心に迫らなければならない。
感情に訴えるだけでは罪人を回心させることはできない。
もし説教者が感情だけに訴えるとしたら、人々を興奮させることはできても、感情の波は全会衆を浮き立たせ、
ついには偽りの希望を持たせるようにしてしまう。健全な回心をさせる唯一の道は良心を取り扱うことである。
もし注意がゆるんだと見たら、感情に訴えてこれを引き立てるがよい。しかしほんとうの仕事は良心に対してなされなければならない。」
(R・A・トーレー)

「私が説教している間、会衆が私の顔を見ている限り、私の説教は失敗だったと分かる。
人々が自分の罪に心底気づいて頭をたれるとき、神さまが私の傍らで働いておられ、人々の心を造り変えておられるのが分かる。」
(チャールズ・フィニー)

「偽りの預言者とは、人々に満足を与える牧師のことである。彼は福音の説教者、牧会者、奉仕者と呼ばれるが、しかし彼は人間たちの被用者にすぎない。
彼は自分が神の名において語っていると夢想しているが、彼は世論の名において、立派な人々の名において語っているに過ぎない。
キリスト教はあなた方にとって好ましく重要なものである。あなた方は生活の美しい飾りとしてそれを好む。
しかし、神の霊とこの世の霊との間には平和はない。
神の意志と人間の意志との間の平和を説教し、現在の生と新しい生を穏やかに賢く結び付け、
民が築く隙間の多い壁に宗教と言う漆喰を上塗りし、人々を満足させようとする、そのようなことには何の意味もない。」(カール・バルト)

「あぁ! 神よ、こころを探り切り裂くような預言的な説教を私達に与えよ! 
殉教した説教者たち、すなわち、免れない裁きと頑迷なものへの終わることの無い地獄の思いの下、
苦悩し、屈折され、倒れ、砕かれた者たちを私達に与えよ!」

「もしイエスが今日の説教者と同じ説教をしていたなら、決して十字架刑にはされなかったであろう。」

「偉大な説教の飢饉がある。人の内面を睨みつける説教の飢饉がある。こころを砕く説教の飢饉がある。
魂を引き裂く説教の飢饉がある。我々の父親が知っている、地獄への恐怖のゆえに夜どうし目を覚まさせるような説教の飢饉がある。
繰り返して言うが、“主の御言葉の飢饉がある”。荘厳な福音の説教の飢饉があるのである。」

「ほんの数日前に、ある立派な説教者の弟が私にこう言いました。“この国には偉大な説教者は一人もいない”と。私は、彼が言っている意味を理解していると思います。
すなわち、“主が呼ばわる”秀でた説教者、聖霊の働きのもと、説教するもの。私達は、説教に長けた、芸のある説教者・・・有名な説教者、うまく纏める説教者はいるが、
どこに、あぁ、どこに預言的な発言でもって国を揺るがす説教者はいるのか?偉大な説教の枯渇・・・意識に刺さる説教の枯渇、こころを砕く説教の枯渇、魂の涙が流れる説教、
私達の父が聞いた、眠ったら地獄へ落ちるような思いにさせる、夜も眠れないような説教の枯渇がる。繰り返して私は言うが、“主の言葉の枯渇がある”。健全な福音の説教の枯渇がある。」
(レオナルド・レイヴンヒル)

「ほかのすべては語っても地獄の現実を語らない説教者は感じのいい福音の背信者(裏切者)である。」(レイ・コンフォート)


「私は、今、罪人に語りかけることをしない説教を決してしてはならないと思う。
罪人に語りかけることなしに説教できる牧師は、いかにして説教するかを知らないのだと強く思う。」(スポルジョン)

「説教を真に活かすものは聖霊である。」(スポルジョン)

「教会は説教者の学校である。ここで彼は学ぶ。教会は説教者の病院である。ここで彼の病気は治療される。教会は説教者の戦場である。
ここで彼は神と人の敵と戦うことを学ぶ。」(チャールズ・エドワード・ジェファソン) 

ジョン・ウェスレーは、説教の後、こう祈るのが常であった。
「神さま、今語った言葉を確かなものとして、聞いた者のうちに真理を証しし、聖霊によってその者の心に記してください。」

「説教者を判定する鍵は、会衆が立ち去るときに、『何と素晴らしい説教だろう』というのではなく、『よし、何かをしよう』と言うかどうかにある。」(フランソワ・ド・サル)

「真の説教は血の滴りである。」(ジョセフ・パーカー)

「私は再び説教することはあるまいと思って説教した。死に行くものが死に行くものに語るように。」(リチャード・バクスター)

「病人に病であると告げることを恐れてついに死なせてしまうのは、最も愚かな医師であり、最高に不忠実な友である。
同様に、もし私たちが、友を怒らせたり、友から嫌われたちするのを恐れるあまり、何も言わずにその者が地獄へ向かっていくのを黙って見ているなら、
私たちは最悪の恥知らずだ。」 (リチャード・バクスター)

「説教はキリスト者の霊的いのちの血である。説教者は説教中に死ぬ。講壇はゴルゴタであり、そこに説教者は世界のために彼のいのちを捧げる。」
(チャールズ・エドワード・ジェファーソン)

「自分のたましいの中でする説教だけが、人に影響を与えられる。」(ジョン・オーウェン)

「私は聞きにくい、退屈をさせるようなメッセージをたくさん、苦しみながら聞いたことがある。
しかし、もし説教者が私にキリストを見せてくれれば、そのメッセ ージが長くてみじめであるとは、決して思わない。」(A・W・トウザー)

「私たちはしばしば主日説教を、広告に接しているように聞いています。それが良いもののように魅力があって、関心を引くものであれば、
あるいは、自分に確実な利益を与えるものだと思うのであれば、
それから私たちは説教を受け入れます。主よ。私たちが品物を選ぶかのように主の御言葉を判断しないようにしてください。」(J・I・パケル)

「会衆が死んだも同然の状態にあるのは、死人が説教しているからだ。」(ジョージ・ホィットフィールド)

「兄弟たち、私はこう信じる。神の教会が衰退するときはいつでも、それを最も効果的に生き返らせる方法は、聖霊について多くの真理を説教することだ。
結局のところ、ご聖霊が教会の息吹そのものだからである。
神の御霊がおられるところに力がある。もし、御霊が退かれたら、敬虔さの活力が減り、堕落してしまう。
神の御霊に対して、『あなたの道に私たちを急がせてください。』と叫ぼうではないか。
もし、どの教会でもなまぬるくなっているのを悲しくも見るのであれば、聖霊が恵みをもってリバイバルを起こしてくださることを、
私たちの祈りとしようではないか。主に立ち返ろうではないか。聖霊のバプテスマを、火を受けることを再び求めようではないか。
主のすばらしい御業を再び見るために。もし、聖霊が私たちの前に門戸を開いてくださっているのに、私たちが入らないのであれば、
非難を受けるべきは私たち自身である。」(チャールズ・スポルジョン)

「聖霊の力で語られた一回の説教は、聖霊なしでかたられた10万回にまさります。」(チャールズ・スポルジョン)

ジョン・ウェスレーが持っていると断言したのは、「ただ1つの視点である。すなわち、できる限り生きた実践的宗教を推進すること、
そして、神の恵みによって、人々の魂に神の生命を生み、保ち、増し加えることである。」

「『聖書を知らない牧師ほど、教会における無用の長物はないと思う』と断言する。
それはちょうど、法律を知らないで裁判官になっているようなものである。」(渡辺善太)

「福音主義教会における説教は、『聖書的説教』を、その中心としなければならないし、また中心とせられていると思われる。」(渡辺善太)

「聖書的説教とは、どういう説教か。それは定義的に言えば、『徹頭徹尾聖書に始まり、聖書により、聖書に終わる』説教である。
そして構造的に言えば、そのテキストが、聖書の聖句からとられるだけでなく、そのテキストが示している主題が、首尾一貫し、一つの論理によって貫かれ、
そして高められ、深められ、広げられて、その全体が上昇的にまたは下降的に、あるいは帰納的にまたは演繹的に発展させられ、
そして全体が徐々にしぼられて、聖書的に結論づけられる説教である。」(渡辺善太)

「誰にでも分かる言語を用いながら、しかもその内容は非常に深遠なものである場合がある。これが教会の宣教者に求められることである。
いったい教会の用語というものは、『外』の人には、別の世界のそれのようにひびく。・・・そこでもう一度書く。
教会の宣教者は、ことに聖書的説教と聖書解説とをする場合、その内容を低めず、略さず、薄めず、割り引きせず、
『分かりやすい用語で』述べる練習をしなければならない。『やさしいことばで、むずかしいことを!』が、
今日の教会の宣教者の標語でなければならないと私は思っている。」(渡辺善太)

「教会は説教によって立ちもし倒れもするのです。」(加藤常昭)

「説教は、神の臨在を示し、聞く者にその現実的な救いをもたらすものである。」(加藤常昭)

「説教者はみずから、彼の語る教えを我が家として住んでいるでしょうか。彼はその中に<実存>しているでしょうか。
自分の語る教えをわが家として住むこと-それは、人間がその中で、それによって実際に<生活する>ことができる時にこそ、
ほんものと考えることができるのであります。」(ヘルムート・ティーリケ)

「説教者の第一使命は、口をもって御言を語るということにあるのである。しかし、口さえあれば、その使命を果たせるというわけではない。
説教は、夜店の香具師のように、ただうまくしゃべれば、それでことたりるというわけのものではない。口を通して語るそのことは、語る人そのものの、
信仰と知識と生活からあふれでるものでなければならない。」(後藤光三)

「説教とは、言わば説教者という人格に、神の御言の使信が溶け込み、一体となり、
分かちがたいまでのものとなり、その信仰を通して語られるのである。」(後藤光三)


「決して愚かな者になってはならない。人々が、諸君と諸君の牧師としての務めに対する評価を作るのは、諸君が公に語ることばかりではなく、
個人的に語るところを観察することに依るのである。
多くの若い人々は談話室において軽率な振舞いをすることによって、説教壇における自分自身を破滅させてしまったのである。」
(チャールズ・スポルジョン)

「私たちの説教壇にもっと地獄があったのなら、会衆の席にはもっと地獄が少なくなったであろう。」(ビリー・グラハム)

「説教は説教者が『アーメン』と言う時に終わるのではない。むしろ、その時から本当の説教が始まる。」(ジョエル・ビーク)

「聖書箇所が説教者を支配する。」(ハッドン・W・ロビンソン著『講解説教入門』より)

「説教とは全教会の組織されたハレルヤの叫びである!」(P・T・フォーサイス)

「説教における私の重要点はかたくなな心を砕いて、砕かれた者をいやすことである。」(ジョン・ニュートン)


★ある教会員が、涙ながらに訴えてきた。
「先生、私は、本当に教会に行きたいのです。しかし、教会に行って礼拝の席にいると、どうしても、これが聖書を語っている言葉だと思えないのです。1週間の生活の中から、説教を聴くことを通して、慰められ、励まされ、厳しく打たれたいのです。しかし私の教会では、それが聴けないのです。どうしても、聞こえてこないのです。」(石井錦一)




「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。 

というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、

次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

しかし、あなたは、どのような場合にも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。」

(2テモテ4:1−5)


”Afflict the comfortable; comfort the afflicted.” 「快適にしている人を悩まして、悩んでいる人を慰める。」



 「正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚かな者は思慮がないために死ぬ。」(箴言10:21)
「知恵のある者はおしえはいのちの泉、これによって、死のわなをのがれることができる。」(箴言13:14)



【キリスト論的説教】

「説教はキリストのあかしでなければならない。そうでなければ、それはキリスト教的説教ということはできない。」(C・F・ヴィスロフ)

私の兄弟たちよ、キリストを説教しなさい。いつでも、絶えずキリストを説きなさい。キリストこそ福音の全体である。
キリストの人格、その務め、そのみ業は、われわれの唯一の、偉大にしてすべてを包括する主題でなければならない。
キリストが、すべてであるような説教こそ祝福されるべきである。(チャールズ・スポルジョン)


「もし毎回の説教で、我々がキリストを語らないとするならば、我々は説教の務めからただちに退いて、他の務めを探すほうがましである。」(J・S・ステュワート)



「キリスト教の説教とは、キリストを説教することである。ところが多くの説教がキリストについてのお話になっている。」(ジョン・M・ドレッシャー)


〈キリストを説教するための五つの条件〉(ジョン・M・ドレッシャー著『若い牧師・教会リーダーのための14章』)

1)「私は、キリストを、かつて存在した歴史上の人物としてではなく、今日もなお生ける存在として紹介することを心がけたいと思う。イエスは現に生きておられる。イエスは、よみがえられた栄光の救い主、主であられる。キリストの復活がキリスト信仰の核心であるのは、このためである。」

2)「私は、自分自身が「キリストの使節」(2コリント5:20)であると述べ、生ける神からのメッセージを伝えることを心がけたいと思う。説教とは、キリストの御思いとみことば、キリストのメッセージを語るのであって、私自身の思いやことば、メッセージを語るのではない。」

3)「罪の力から解放してくださるお方としてキリストを紹介したいと思う。」

4)「キリストの教えを説教することを忘れないようにしたいと思う。イエスがまことの主、まことの主人であるならば、その主人のメッセージは私たち説教者にも語られたものである。そしてそれは、私たちがまた語らなければならないメッセージでもある。」(福音書に語られている教え)

5)「キリストを説教するときに、私は人々を自分自身へではなく、もっとキリストのもとへ招きたいと思う。それはあくまでもキリストのもとへであって、何かの信仰的遺産や統一の教義、『唯一の真理』へではない。」



「イエス・キリストは説教者中の王者であられる。」(スポルジョン)


われわれが目指す説教は、
1.神ご自身が今ここで語ってくださる説教である。
2.そこで、聖書の言葉が神の言葉として語り始める説教である。
3.そこで、説教者自身を含め、礼拝する教会の群れが、その流れの中に巻き込まれるような<言葉の流れ>としての説教である。
4.そこで、「目に見えない方を見ているように」、望みの現実に生きる説教である。
5.説教者は、会衆に先立って、この<恵みの言葉の流れ>の中に身を置いた者として、その存在そのものをも言語化して語る。
6.この<言葉の流れ>を生きる説教の言語は、それ自体生きた言葉である。いのちを映すイメージ豊かな言葉である。
(加藤常昭)


 説教が説教として成り立つためには、説教者自身が納得して語っていることが必要だと、しばしば言われる。「どんなに(教理的に)正しい説教でも、説教者が納得して語っているのでなければ、説教にならない」と。しかし説教は、神の言葉として「聞かれる」ものである。たとい説教者が納得していなくても、神の言葉として聞かれているのであり、説教者自身よりも聞く者に納得されるということさえありうる。

 極端なことを言えば、説教者が納得しているかどうかは、説教の成立用件にはならない。しかし納得しないで語る説教は、説教者自身を疲れさせ、正しさの中に留まる力を失せさせる。そして、たぶん多くの場合は、聞く者にとってもつまらない。つまらない説教は、会衆のみことばへの集中を妨げる。

 正しい説教を深く納得して語るためには、説教者は苦悩し、「みことば」と格闘しなければならない。その格闘の様は、説教において明らかに発音されるわけではない。しかし教会の礼拝で、その説教を聞く信徒たち会衆は、説教者がその格闘をした上でこの説教に至っていること、そして今も格闘を続けていること、場合によっては、このときにも未だ納得していないことまでも感じ取っている。そのみことばとの格闘を、会衆も共にしている。格闘を回避し、あるいはさっさと納得してしまって、会衆を置き去りにしてはならないのだ。

大住雄一(おおすみ・ゆういち=東京神学大学教授)


もし私たちが本当に「神のみことばは生きていて、力がある」と信じているならば、どうしてこの神のことばをより深く、より正しく伝えることに熱心になるのではなく、自分の考えや主張を訴えることに熱心になのでしょう?もし本当にみことばを宣べ伝えることによって人々を「キリストにある成人として立たせる」ことができると確信しているならば、どうして私たちは「知恵を尽くして」みことばの学びに取り組もうとしないのでしょう?
神のすばらしさを伝えたいと思うならば、私たちは神のすばらしさを明確に現すみことばを説き明かさなければなりません。キリストのすばらしさを伝えたいと思うならば、私たちはキリストのすばらしさを明確に現すみことばを告げ知らせなければならないのです。時に説教者は、聖書の教えを正しく語ることに献身していないがゆえに、キリストのすばらしさを人々が知ることを妨げることがあります。「主を見たいのに、あなたが前に立っていて主を見ることができません!」と信徒たちが訴えているかも知れません。

主のすばらしさを伝えるために必要なのは、偉大な話術でも、分かりやすい例えでも、おもしろいお話でも、感動を与える物語でもありません。これらのものは真理を伝える助けになるかもしれませんが、絶対不可欠なものではありません。必要なのは、聖書の真理が伝えられることなのです。その真理が伝えられるとき、聖霊はみことばをもって人々を聖め、キリストに似た者に変える働きをなします。なぜなら聖書は生きた、力ある、有益で、信徒をキリストの御前で成熟した者として立たせることができる神のみことばだからです。

教える者は、みことばを学び続けなければなりません。それを怠っては決して正しく聖書の真理を伝えることはできません。聞く者は、教える者がみことばを学ぶことができる環境を整えて上げなければなりません。その学びがなければ自分たちがより主を喜ばせる者へと変わっていくことができないからです。パウロは「みことばを宣べ伝えなさい」と言います。他の手段を選ぶのではなく、主の働き人はこの一時に熱心に励むべきなのです。これこそが教会を導く者たちに与えられている第一の責任であり、教会にとって最も必要なことなのです。


岡田大輔(おかだ・だいすけ=日本聖書学院院長)



PREACH acronym

(1) Passion for God’s glory
(2) Right application of the Word,
(3) Experience of the power of the Word for yourself,
(4) Apprehension the gospel,
(5) Consideration of the flock, and a
(6) Heart for people


「最高の説教は、よい手本を示すことだ。」(ベンジャミン・フランクリン)

ロイドジョンズが後輩の牧師に残したとても有名な言葉があります。

「講壇に立つ時はライオンになってください。けれども講壇から降りてきたら羊になってください。聖徒たちの魂を限りなく愛してください。しかし、その魂を神様の御前に導くときは、限りなく過酷になってください。」

 
 


Yahoo!ボックスからMGF週報バックナンバーをダウンロードして開いてください




 

クリックひとつで、聖書の世界が広がる ・・・
 
 
http://park10.wakwak.com/~ebible/bsrch/

http://kwve.com

The Word For Today
Calvary Costa Mesa
 
http://www.hischannel.com
 
 



 
Comments