「私はクリスチャンじゃないけど、イエス・キリストを知りたい、聖書について知りたい、クリスチャンになりたい」
という人のためにわかりやすくて、助けになるサイトを紹介する。
また、理屈っぽい人の疑問にもズバリ答えてくれるサイトも用意した。
クリスチャンは”ウェブ伝道用のツール”として大いに活用してほしい。
「神について語ることなしに生涯を終える人もある。」(マルテル)
人生はさまざまである。競馬、競輪、マージャンなど、賭け事にその関心のすべてを向けて一生を送る人がいる。
かと思うと、全く、賭け事は無関心で暮らしている人がいる。音楽が好きで、どのように高い切符でも、音楽会の切符には金を惜しまぬ人もあれば、
音楽会など、切符をもらっても金輪際行きはしないという人もいる。その人生に於て向ける関心は、誠に人さまざまである。
「神を信ずると信じないに関わらず、神を一度も問題にしない人間をぼくは信用しない。その精神生活の低さを思うからだ」と何かで読んだことがある。
神を信じられなくても、せめて神について語る生活を持ちたいものである。
三浦綾子 「どのような時でも、福音を伝えなさい。そして必要なら ことばを用いなさい。」(アッシジのフランシスコ)
伝道の対象
効果的な伝道のために対象をよく知る必要がある。パゼット・ウィルクス(救霊の動力より)
●その願い
人は神を好まない。人は聖潔を好まない。人は神の支配を好まない。人は救い主を好まない。
●その理解力
神を認めない。神の賜物を知らない。人は自分の真相を知らない。人は道を知らない。
●その意志
偏見の束縛。肉欲の奴隷。高慢の奴隷。恐怖の奴隷。
●その願望
安息に対する願い。喜びに対する願い。力に対する願い。光と確信に対する願い。永遠のいのちに対する願い。
●その罪
自己を傷つけるものとしての罪。他人を傷つけるものとしての罪。律法を破るものとしての罪。父の愛に対する罪。
「福音宣教は、ひとりのこじきがもうひとりのこじきに食物のある所を告げるようなものである。」(D・T・ナイルズ)
無神論者からのチャレンジ
無神論者ペン・ジュリエットは、長年ラスベガスでコメディーやマジックなどのショーを行ってきた2人組、ペン・アンド・テラーの1人である。
ペンは自分が神を信じていないことを全く恥じておらず、ベストセラーになった本や記事で、しばしば自分の信念について述べてきた。
しかしある動画ブログ(ユーチューブで視聴可能)では、親切なクリスチャンビジネスマンが聖書(ギデオンの贈答用新約聖書)をプレゼントしてくれた時の話をしている。
そして、伝道しないクリスチャンは、本当は人を憎んでいるに違いにないということを指摘するためにこの話を用いている。以下はその動画からの言葉である。
俺は今までずっと、伝道しない人なんて尊敬しないと言ってきた。全然尊敬できないね。もしあんたが、天国や地獄があると信じているなら、
また、地獄に行ったり、永遠のいのちを持てなくなったりすることがあると、本当に信じているなら、いかなる場合でも伝道するはずだろう。
伝道すると社会ではやりにくくなるとか、相手は「俺に構わないで、信仰は自分だけのものにしてくれよ」なんて言う無神論者だとかいった理由で、伝道しないのなら、
それはおかしい。永遠のいのちがあることを知っていながら、それを伝えないのは、その人を憎んでいるのと同じことだ。
どれくらいの憎しみを持てば、伝えないでおれるのかな。例えば、トラックが前方から走って来て君をひきそうになる。
俺なら、君がひかれる前にタックルして、君を助けるよ。伝道するかどうかは、トラックにひかれそうになっている人を助けるかどうかよりも、もっと重大なことだろう。
以下はそのペン本人のブログ映像(英語のみ)
不信心者の宣言 「何百万もの人がしていると言っているように、もしこの私が、この地上でのキリスト教の知識と実践が来世の運命を左右すると堅く信じるとしたら、 キリスト教は私にとってすべてとなるだろう。 私は地上の楽しみをくずのように、地上の気づかいを愚かな考えのように、地上の思いと感情を空虚なもののように捨てるだろう。 キリスト教は、私が目覚めたときの最初の思いとなり、眠って無意識の中に沈む前の、最後の映像となるに違いない。私は、その信条のためにのみ労するはずだ。 私は、永遠の朝のことだけを考えるだろう。天国のために一人のたましいが獲得されるなら、そのために一生をかける価値があると見なすだろう。 地上での成り行きは、決して私の掌中にとどまることなく、私の口を封じることもあってはならない。喜びと悲しみを含む地上のことは、片時も私の思いを占めないことだろう。 私は永遠のみを見つめることに励むだろう。また、まもなく永遠の悲惨か永遠の幸福を、迎える、周りにいる不滅のたましいを見つめようと努力するだろう。 私は、この世界に出かけて行き、時が良くても悪くても、人々に宣教することだろう。 そして『人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう』(マルコ8:36)というのが、私の主題となるだろう。」 『主の喜びで満たしてください』(ある英国の説教者著)より 「イエス・キリストのほかに希望はないと信じていて、わずかでも愛や親切心をもち合わせていたら、
この救い主に向けて人々を引き連れて来ようと、やっきにならないではいられないはずだ。」(マイケル・グリーン)
「あかしとは、イエス・キリストをよく見、それから、見たことを他の人に告げることである。」(ローン・サニー)
「だれでもキリストが私たちのためになしてくださったことについて歌ったり語ったりしないならば、 その人は自分が本当に信じていないことをそれによって示しているのです。」(マーティン・ルター) 「キリストを口であかししないこと、これほど大きな過ちはない。」(ヘンリー・クレイ・トランバル) 「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に、満足して生活していることだろうか。 キリストが罪人たちのために涙を流し、同情されたと同じ感情を、私は何と少ししか感じることができなかったのだろうか。 私たちの心に、休むことができないほどに魂への愛が満ち溢れていたならば、私たちは、今の私たちとは非常に違った存在になったであろう。」(アンドリュー・マーレー)
「Romans Road ローマ書の道」
それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の救いの道が現れるというものである。
3章23節「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」 ↓ 5章8節「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、 神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」 ↓ 6章23節「罪から来る報酬は死です。」 ↓ 10章9節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、 あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」 ↓ 10章13節「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」
みことばで語る
まだイエスを信じたばかりの人が、無神論者のもとへ行って伝道したが、当然のことながら拒否された。 「神などいないのですよ」 「でも聖書では『信じない者は罪に定められる』と書いてあります」 「神など私は信じていません」 「ええ、それでも『信じない者は罪に定められる』と聖書に書いてあります」 怒った無神論者はそのまま帰ってしまった。 まともな伝道ができなかったと失望したクリスチャンは、どうしたらいいか分からないので神に祈った。 「神さま、あの人をあなたが救ってください」
家に帰ってベッドに入った無神論者はなかなか寝付くことができなかった。 「信じない者は罪に定められる」ということばが耳から離れないのだ。ついに彼は、たまりかねて祈り始めた。 「神さま、もしあなたがおられるなら私をお救いください。私に、『あなたの救い主だ』と言われるイエスさまを信じさせてください」 神はその祈りを聞いてくださり、無神論者は救われたのであった。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。 世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)
無神論者を自称する人へのチャレンジ
「人は信じることができないのではなく、信じようとしないのである」(ポール・リトル)
「もしキリスト教が合理的であり、真実なものであるとするなら、なぜ最も高い教育を受けた人々がそれを信じないのか」―こういった質問はしばしばなされる。 答えは簡単である。彼らは、大部分のそんなに教育のない人々と同じ理由で、信じないのである。彼らは信じたくないのである。これは知力の問題ではない。 なぜなら芸術や科学の領域に傑出したクリスチャンがいるからである。これはまず第一に、意志の問題なのである。
「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:40)
「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」(同7:17)
「神を信じないのは、信じたくないからだ。」(ジョルジュ・ベルナノス フランスの作家)
世に無神論者という、あやしげな論者がある。 「あやしげ」と敢えて言ったのは、「ぼくは無神論者ですから、神を信じません」という人に、「論」というべきものを持たぬ人が多いことに気づいているからである。 神を求めたこともないのに、「神はない」といっているだけの「無神論者」がいる。神を信じない人の大部分が、求めたこともない人なのだ。 求めないというのは、つまり、神を信じようとしていないということであろう。とにかく、「神を信じたい」と思うならば、何としてでも求めるはずだからだ。 本当に神を信じたければ、教会に行き、聖書を読むという生活を、少なくとも3年は続けるであろう。 キリスト教禁制の時代、高山右近は国外に追放されても神を信じた。「神を信ずる」というのは、このように大変なことなのだ。 「神を信じない」という人の多くは、確かにベルナノスの言う如く、「信じない」のではなく、「信じたくない」のであろう。
三浦綾子 単純な人たちが理屈なしに神を信じるのを見て驚いてはいけない。 神は、彼らが神を愛し、自分自身を嫌悪するようにさせている。神を信じる心へ導いているのだ。 もし神が我々の心に触れていkれなければ、我々は決して、疑いのない、しっかりした信仰で神を信じることはない。 しかし、神が我々の心に触れようものなら、瞬時に我々は信じるだろう。 神を知ることができるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってであり、また、その信仰自体が神から与えられるものである。 ブレーズ・パスカル 「私は、イエスを偉大な道徳教師と認めることにはやぶさかでないが、自分は神であるとする彼の主張を認めるわけにはいかない。」 これだけは、我々は言ってはならない。単なる人間でありながら、イエスが言ったようなことを言うなら、その人は偉大な道徳教師であろうはずがない。 精神異常者ーー「俺はポーチドエッグだ」と言うような輩と同類ーーか地獄の悪魔であろう。我々は、決断を下さなければならない。 この人物は神の御子であった、今もそうであると考えるのか、それとも気違いか、もっとひどい奴であるか。 彼を愚か者と締め出すことも、つばを吐きかけ、悪魔だと言って殺すこともできるし、彼の前にひれ伏し、わが主、わが神と呼ぶこともできる。 ただし、彼が偉大な人間教師であるとするばからしいことだけはやめよう。彼はそう呼ばれる余地を残していない。そうなるつもりさえなかったのだ。 C・S・ルイス
GOSPEL=GOOD NEWS
How To Know God (英語) カルバリー・チャペルの枝教会ハーベスト・クリスチャン・フェローシップの牧師. ハーベスト・クルセードのメイン・スピーカーのグレッグ・ローリーによる福音のプレゼンテーション(5分30秒)。 The G.O.S.P.E.L. Rap(英語) ラップによる4分間の福音のプレゼンテーション The Gospel Message (英語) Video animation explains the Gospel Message of Jesus Christ. BIBLE
「聖書と私」(三浦綾子)
結婚以来私たちは、ほとんど毎日共に聖書を読んできた。ある時は旧約聖書3章新約聖書1章を読み、 ある時は新約聖書の1節しか読まぬことがあっても、とにかく共に聖書を読まない日はなかった。そして、共に神に祈る日をつづけてきた。 これが私の結婚生活の土台であった。いや結婚する前から、会えば二人で聖書を読んだ。 ギブスに伏している私を見舞ってくれた初対面の三浦に、一番好きな聖書の箇所を読んで欲しいと、私は頼んだ。 三浦はためらわずに、ヨハネによる福音書第14章をひらいて読んでくれた。 戦争中に小学校の教師であった私は、敗戦を迎えて、ひどく虚無的な、そして懐疑的な人間になった。 その私を敗戦後7年にして変えたのは聖書であった。聖書は私に、生きる方向を変えさせた。今まで背を向けていた光なる神のほうに、ふり向かせた。 光に背を向けている間は、私は自分の黒い不気味な影だけを見つめていた。が、光のほうを向いた時、影は消え、聖なるあたたかい光だけがあった。 聖書の光に映し出された私の姿は、私が知っているよりも、はるかに卑小であり、傷だらけであり、醜かった。 私は戦慄にも似た激しい感動を受けた。この自分の罪のために死んでくれた人がいた、というそのことが、理屈ではなく肌身に沁みてわかったのである。 私が聖書に出会ったことは、すなわち神の子イエスに出会ったことでもあった。その神の子の愛が私を変えた。 こうして聖書は、私にとってなくてはならぬものとなった。 聖書の言葉には力がある。ひとことの聖句で死を思いとどまった例を、私は知っていたのである。 私のおこがましい願いを、神は聞き入れてくださったのか、私の小説を読んで聖書を読むようになり、 人生が変わった、という手紙が毎日のように寄せられてくる。まことにありがたいことである。 私は今後も、聖書を土台として書きつづけていきたいと思っている。 <いのちのことば社・全国家庭文書伝道協会(EHC)>
「聖書大意」(内村鑑三)
以下は、明治の著名なキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者の内村鑑三(1861~1930年)のまとめた「聖書大意」である。
聖書は六十六巻より成る。そのうち三十九巻が旧約であって、二十七巻が新約である。66と39と27である。いずれも3をもって除することのできる数である。ことに新約の27は3の三乗である。聖書にありては、3は聖数である。父、子、聖霊の三位がある。信、望、愛の三徳がある。聖なる、聖なる、聖なるかなと天使が三唱するを預言者は聞いた(イザヤ六章)。すべてがそのとおりである。聖書の聖書たるゆえんは、その巻数においてもあらわれている。
聖書は創世記をもって始まり、黙示録をもって終わっている。創世記は天地創造の記録、黙示録は天地完成の記録である。
「はじめに神、天地をつくりたまえり」というに始まりて、「われら新しき天と新しき地を見たり。さきの天とさきの地はすでにすぎさり、海もまたあることなし」というに終わっている。すなわち永遠に始まって永遠に終わっている。こんな偉大なる書はほかにない。国民史にあらず、世界史にあらず、宇宙史である。宇宙が成りし由来、その目的、その終極、これをしるしたるものが聖書である。しかも泡のごとくに消えたというのでない。無よりいでて無に帰ったというのでない。ある確実なる目的をもって造られ、その目的が完成せられて終わったというのである。愛の神よりいでて神に帰ったというのである。聖書は宇宙を取り扱う書であって、しかも恩恵的に取り扱う書である。無限的に偉大なればとて、曠空的に尨大でない。聖書は、アブラハムやヤコブの伝記をしるすように、宇宙の始終をしるしている。すなわち神の恩恵の目的物として宇宙と人生とを取り扱っている。荘厳かぎりなき、慈愛きわまりなき書である。
かくのごとき書は二つはない。論語がえらい、孟子がえらい、ダンテがえらい、シェクスピヤがえらいというて、とうてい聖書におよばない。他の書がことごとく消えてのちに聖書がのこる。聖書は世界唯一の書である。ジョン・ラボックという、英国の銀行家にして大天然学者が、世界の大著述百種をえらんで、その第一に聖書をおいた。聖書は古いからえらいのではない。えらいから古びないのである。人類は大著述をして死なしめない。ゆえにほかの書はことごとく死にうせても、この書だけは死なない。そしてほかにどんな大著述が出ても、聖書と寿命をともにし得ようとは思われない。今日までに聖書を攻撃した書はたくさんに出た。しかしそのいずれもが朝露のごとくに消えうせて、聖書のみが残った。
詩人ハイネが聖書を読んで彼の感想を述べた有名の言がある。左のごとし。
なんという書であるか。世界だけそれだけ広くかつ大きく、造化の根底に根ざし、青空の密室にまでそびゆ。日の出と日の入りと、約束と成就と、生と死と、人類のすべての理想とはこの書の中にあり。
詩あり、歌あり、哲学あり、歴史あり、伝記あり、預言あり、最大の思想、最高の理想、人のすべて思うところにすぐる悲しみとよろこび、すべてがこの書の中にある。ゆえに他の書は読まずとも、この書だけは読まねばならぬ。この書を怠りて、人生最大のものを怠るのである。聖書知識にとぼしき教育は不完全なる教育である。まことに聖書は「生命の書」である。この書を学ばざる人に生命なく、この書をしりぞくる国に生気がない。世界の歴史、偉人の伝記がことごとくこのことを語る。
聖書は人類の救済史である。神は人を救うにあたりて、哲学者や道徳家のごとくに倫理道徳をもってしたまわない。救済の事実をもってしたもう。まず個人を救い、しかるのちに社会国家を救い、ついに人類を救いたもう。人類の救済は、アブラハムの救いをもって始まった。つぎに彼の家を救い、彼よりいでしユダヤ国を救い、ついに彼の裔(すえ)として生まれしイエス・キリストをもって人類救済の道をそなえたもうた。そしてその長い歴史を伝えたものが聖書である。聖書は神が人類を救いたもう事実とその順序を示した書である。倫理書にあらず、いわゆる経典にあらず、歴史である。神の聖業の記録である。それがゆえにことに貴重なるのである。考えて成った教えではない。おこなってできた救いの記録である。人が新たに聖書を作ることのできない理由はここにある。聖書は儒教や仏教の経典とは全くその性質を異にする。聖人がいうたことばを伝えたものでない。神がその選びたまいし人と国の上にほどこしたまいし救いの記録である。
人類の救いにかかわる書であるがゆえに、人種民族の差別なく、読まれ、かつ消化せらるる書である。今日までにすでに5百以上の国語に訳された。聖書を学んで人ははじめて世界人になる。西洋人の書でありまた東洋人の書である。南洋人の書でありまた北洋人の書である。われらは聖書を読んで、欧米人のみならず世界万国民と理想をともにし、希望を一にする。この書を読んで、人は深くせられ、また広くせらるるのである。
<『聖書之研究』より抜粋> 聖書(新改訳第三版)の統計 巻数:66巻(旧約39巻 新約27巻) 章数:1189章(旧約929章 新約260章) 節数:31000節(英語欽定訳31102節) 頁数:2038頁(旧約1562頁 新約476頁)
創世記から黙示録までの絵本物語。諸国語で観ることができる。
以下はYouTube投稿映像 Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(1) Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(2) Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(3) Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(4) Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(5) Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(6) Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(7) Japanese: God's Story ゴッド・ストーリー(8)
映画『Jesusジーザス』 (日本語吹替は”Japanese”をクリック) The JESUS Film Project。ルカの福音書に基づいたイエス伝映画。観客動員数はこれまでに219カ国で11億2千97万7663人が観たと言う(ギネス世界記録)。吹き替え版も410言語版があり、さらに220言語での上映が準備中。この数字は世界全人口の85%以上が観たことになり、各言語版の数も映画史上最多。この映画を通して約5600万人がイエスに従う決心をしている。映画はビデオ化され、既に200万本が世界各地に配布されている。
日本キャンパス・クルセード・フォー・クライスト(上記の映画を製作した団体)。平明ながらしっかりポイントを押さえている。ジーザス・フィルムはこちらからも観ることができる。
豊かな人生のための四つの法則 イエスを知るには
日本キャンパス・クルセード・フォー・クライスト。ウィキペディアにまで載る超有名な法則。福音のシンプルな図解。
イエス・キリストとは誰ですか Who is Jesus? Global Media Outreach。日英でかなり詳しく学ぶことができる。英語オリジナルhttp://www.whoisjesus-really.com/
Global Media Outreach。ステップ1~ステップ6まで、救いから教会生活までのクリスチャン生活の手引き。音声メッセージもある。
JESUS-FOLLOWER/イエスに従う人たち 求道者・初信者向け。伝道用・弟子訓練用ツール。聖書の学び方(PDF)・ビデオ等。
日本の学生 日本の学生の素朴な疑問や悩みに答える。メールで質問もできる。
神様にコネクトされるとは? 神様にコネクトされた人たちの証し、キリスト教ミニQ&A等。
神についての全て All about Godの日本語版。「神とは誰ですか?」「弟子訓練」「福音伝道」の3つのカテゴリーの中に多くの項目がある。質問もメールでできる。
英語オリジナルhttp://www.allaboutgod.com/
聖書は真実なのか? 神は存在するのか? イエスって誰ですか?英語オリジナルhttp://www.allaboutthejourney.org/
聖書に関する質問の答えは定評がある。疑問だらけの人におすすめ。
世界中のろすふぁんスペシャリストが回答!聖書的お悩み解決サイト Interview with God Japanese 神さまへのインタビュー FLASHムービー 。美しい映像とともに。英語オリジナル・バージョン
Father’s Love Letter (日本語バージョンダウンロード)
The Kristo (英語) 福音を約1分間で伝えるムービー。
Marre(マレ)の映画解説とコラム
Marre(マレ)の映画解説とコラム
「キリストによって人間が救われるということはどういうことなのか。
それは人間が神とともに働き、そして最初の人間アダムの堕罪以前の状態すなわち恩寵に満たされ、
何らの不足も不満も不安もない、そして神とともにあたかもその友となって暮していた状態、
神の友となるという状態への回帰です。まさに神の友である以上、もはやこの世の何者をもその心の主とする必要もない。
したがってだれの手下でもないということ、それゆえ、本当に自主的であるという状態です。」
(4世紀の神学者ニュッサのグレゴリオス)
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