「今教会では、大抵の場合人間がすべての席を占め、神はとても小さくなっている」(ジャン・デゥトウール 1920年~ フランスの作家)。
「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒2:42)。
MGFは初代教会にならい、①「聖書の学び」、②「交わり」、③「聖餐式」、④「祈り」を教会活動の四本柱としています。
これらの4つを基本的土台に据えることで、教会は健全に成長すると信じます。
MGFは聖霊によって満たされ、聖霊によって導かれ、聖霊によって力を与えられた教会を目指します(使徒13:2、3;同15:28;16:7)。
「現代のキリスト教信仰と、これらの手紙(新約聖書の書簡)に描かれている信仰の大きな相違は、私たちが主として行なおうとしていることを、彼らは現実に経験しているという相違である。私たちはキリスト信仰を、単なるおきてか、せいぜい心と生活の規則にしてしまいがちである。だがこの人たちにとって、それは明らかに、まったく新しい性質をもったいのちの侵入であった。このことを彼らは、『キリストが自分たちの中に生きておられる』と堂々と言い表した。」(J・B・フィリップス 『若い教会への手紙』より)
「クリスチャン生活は、生活の改善から始まるのではなく、『変えられる』ことから始まります。私たちが、心を入れ替えて生活を一新しようと自分から努力することによってではなく、神ご自身が、私たちに全く新しいいのちを与えてくださること、すなわち、神のいのちそのものが、私たちのものとなることによって始まるのです。」(The Navigators)
「教会が衰退するのは、神を瞑想することをおろそかにしたからである。」(アンドリュー・マーレー)
MGFでは、聖書66巻を書物ごと、章ごと、節ごとに学ぶ講解説教と、プレイズ&ワーシップの賛美スタイルを基調とした、シンプルでアット・ホームな集会をビルの一室(長野クリスチャンセンターを借りて)で毎週行なっています。主イエス・キリストをこよなく愛し、みことばに飢え渇くジーザス・フリーク、バイブル・マニアの老若男女が集まっています。平日の公開バイブル・スタディーは、MGFのメンバー以外でも聖書を学びたい方なら信者、未信者問わず歓迎します。
MGFでは、いわゆる礼拝厳守、奉仕当番、献金等を強いるような律法主義的な教会員制度はありませんので出入り自由です。ただし、MGFは聖書に基づいたメンバーシップの存在意義は認めています。MGFのメンバーシップは、単なる名簿上の会員ではなく、キリストのからだの生きた各器官を意味します(Ⅰコリント12:14,18−20,22−24,27)。各器官(英語で器官のことをメンバーと言う)には、主からの召命と御霊の賜物(役割・機能)が与えられていますので、強いられることなく、プレッシャーを感じることなく、喜びと平安をもってなすべき働きを自発的に行うようになると信じます。
MGFでは、聖書における牧会者(羊飼い)は、神と教会とに仕える者なので、「牧仕(ぼくし)」という呼称(造語)を用い(Ⅱコリント4:5)、牧仕を「先生」と呼ばず、教会員もみな互いを名前で呼び合います。MGFのかしらは、牧仕ではなく、大牧者である主イエス・キリストです(コロサイ1:18; 2:10; Ⅰペテロ5:4)。したがって、MGFではキリストが受け入れてくださる人、大牧者が連れてきてくださる羊なら誰でも受け入れます。
MGFでは、礼拝プログラムの中に、いわゆる献金袋が回ってくる”献金の時間”を設けていません。その代わり、会場内のテーブルの上に献金箱(木製教会型の入れ物=アガペー・ボックス)が設置してありますので、主に対して自由にささげてください(マラキ3:7~12; Ⅱコリント9:7,8; マルコ12:41~44; ルカ11:42)。MGFでは献金は単なる教会運営維持費としてではなく、賛美や奉仕同様、礼拝行為として重視しています。 MGFはカルバリー・チャペルの以下の声明に賛同します。「カルバリー・チャペルは、決して献金を要請したりしません。教会員に『信仰の献金』や年ごとの約束献金を求めたりしません。ラジオやテレビなどのために寄付を呼びかけたことも、一度もありません。お金を乞うことは、神に対する不信仰の表れであるというのが、私たちの不文律の一つとなっています。」(チャック・スミス著『収穫の時代』より)
MGFでは、おそらく日本一長い聖書講解・注解説教を礼拝、及びバイブル・スタディーで聴くことが出来ます。みことば三昧を堪能したい人には満腹保証します。ただし、典型的な日本の教会の平均説教時間20~30分に慣れてしまった人は、その3~5倍の長さの説教を楽しむメンバーの姿にカルチャーショックを受けるでしょう。そして秘かに日本一ド派手でにぎやかなホームページを目論んでいます。
MGFが模範(モデル)とする教会は、聖書においては使徒の働きのエルサレムの初代教会、黙示録3章の小アジアのフィラデルフィアの教会で、現代においてはアメリカのカルバリー・チャペルです。MGFも以下のようなカルバリー・チャペルと同様のスタンスをとっています。「カルバリー・チャペルでは安易なクリスチャン生活をするための説教をするつもりは、一切ありません。しかし、極端に厳しい教えを説くつもりもありません。映画に行くことも、ダンスに行くことも、たばこを吸うことも禁止して、若者たちをすべて教会から追い出してしまう教会すらあります。私たちカルバリー・チャペルで、このような間違いを犯すことがありませんように。それよりも、神に信頼して、一人ひとりの内におられる聖霊の働きを重視するようにしましょう。御霊に導かれて変わる方がより感動的で真実で、自然なことです。きれいに髭をそり、髪も短く、きちんとした服装といった西洋的クリスチャン社会の慣例をお金持ちになりたいという欲、人生おもしろおかしく過ごせればよいといった生き方に、真の充足や究極的な意味を見いだせないことだけを私たちは宣言します。なぜなら、それらすべての最終地点にあるものは、空しさと失望だからです。」(チャック・スミス著『収穫の時代』より)
「教会にはたくさんの悲しい人が集まる。それはあまりにも多い。というのは教会が一つの祝宴の場だからであるが、
それは王の宮殿ではなく、愛の茅屋(ぼうおく)である」(ディディエ・ドゥコワン 1945年~ フランスの作家)。
「教会とは、その会員の資格として、自己の無価値を認めることを要求する世界で唯一の団体である」(ロバート・B・マンガー)
礼拝のようで礼拝にあらざるもの・・・
日曜日だけクリスチャンになる事。
日曜日だけが礼拝日だと考える。
特に用事がない時の余暇としての礼拝。
クリスチャンは何処でも、いつ何時でも礼拝できるので、教会にわざわざ足を運ばなくてもよいと言い訳する事。
親睦目的、ご利益目的等、神をほめたたえる事以外の他目的礼拝。
礼拝に遅刻しそうになって慌てて苛立つ事。
教会に着ていく服装のことで口論する事。
礼拝に向かう車中で喧嘩し、教会に到着すると何もなかったかのように敬虔なフリをする事。
礼拝に堂々と遅刻して人目をはばからない事。
教会の椅子を他人の礼拝を観覧する為の客席とする事。
礼拝厳守しない人を蔑視し、さばく事。
賛美を説教前の前座、ウォーミングアップ程度だと考える事。
何も考えずに国歌や校歌のように賛美を習慣的に口ずさむ事。
カラオケのように賛美を歌い自分の歌声に酔いしれる事。
自分に引きつけるような賛美のリード、発表会のような賛美演奏。
人に聞かせる、作文のように読み上げる祈り。
あたかも神が何も知らないかのように情報を並べ立てる祈り。
念仏を唱えるような主の祈り。
長い祈り、美辞麗句のオンパレードが立派な祈りだと考える事。
退屈な決り文句を繰り返す、実のない無味乾燥な祈り。
人の祈りの最中、別のことを考える事。
祈りの課題を他人事として聞き流す事。
礼拝中、時計をチラチラ見る事。
礼拝前に遊び疲れて説教中に居眠りする事。
説教を興味のない講義のように散漫な心で耐え忍ぶ事。
先週の説教内容を忘れる事。
説教を聖書によって吟味せず鵜呑みにする事。
説教をいわゆるお説教として個人攻撃の場とする事。
説教を寄席の興業、独演会のような小劇場だと考える事。
説教を仕込みや下ごしらえを要する手の込んだ料理ではなく、レトルトやインスタント食品のように提供する事。
説教後に説教のポイントを確認するような説教じみた祈りをする事。
神が貧乏であるかのように献金のアピールをする事。
献金を搾り取るような礼拝集金プログラム。
神ではなく、人目を気にしながら献金する事。
会費のように支払う献金。
税金のように嫌々渋々支払う献金。
プレッシャーの伴う献金、プライドの伴う献金。
献金に見返りを求めるご利益主義。
献金で牧師を食わしてやっているという思い上がり。
献金を地域清掃に参加しない出不足金のように考える事。
当番だから、他にやる人がいないから否応なしに機械的にする奉仕。
奉仕に気を取られ、奉仕にかまけて礼拝どころではなくなる事。
主の晩餐よりも今夜の晩餐の方が気になる事。
キリストの裂かれた体と血を象徴するパンとぶどう液をスーパーの試食の如く軽率に口にする事。
同じ礼典でも聖餐式を自分の洗礼式の時のように新鮮な気持ちで受けていない事。
究めつけは、礼拝後が礼拝前よりもキリストの似姿に変えられていない事。
これら全ては礼拝にあらざるもの。私たちは礼拝中に自分が礼拝していない瞬間を断続的に持つ。これら一つ一つを改めていけば、私たちの礼拝はより一層、神に喜ばれるものとなる。礼拝は自分や人を喜ばせるものではなく、神を喜ばせ、主の栄光を現わすもの。天のまことの教会における礼拝者は全てキリストに似た者とされている。そこで私たちは完全な礼拝をほふられた小羊に永続的に捧げるのだ。MGFは地上で礼拝を捧げながら携挙を待ち望みつつ、天の礼拝を目指す。
<2004年8月8日 MGF週報より 筆:菊地一徳>


May God bless you abundantly in His love as we worship and learn of Him together!
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