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★MGFメンバーによる祈りのリクエスト(MGF Member's Prayer Request)

  プレイステーション(PrayStation)2012  
 
祈り中毒を目指して (ゲーム機のPlayStationを文字ってゲーム中毒ならぬ祈り中毒を狙う)
 
 
「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)。
 
「祈祷は祈闘。クリスチャンはみな祈闘士。」(キリストバカ)

「祈りはクリスチャンの職業である」(マルチン・ルター)。

「祈るために、仕事を中断する必要はないのです。仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです」(マザー・テレサ)。
 
 
 
 
「祈りで他の人たちを愛することは、非常に美しいことです。本当に愛が無限になるからです。困っている人の所へ、世界のどこであれ、旅をして、助けの手を差し伸べることができたら、なんと素晴らしいことではないでしょうか。祈りによって私たちにもそのような働きができるのです。地理的にも、文化的にも、物理的にも、霊的にも、実際には行くことが難しくても、神様が行くことがおできになる所ならば、祈りも『行く』ことができるのです。私たちのとりなしの祈りは、人々がいるその場で、その人々に『触れる』のです。神様がその人々の所にいて、私たちの求めにしたがって、その人々に『触れて』くださるからです。」(ディヴィッド・ブライアント) 

「もっと軽い荷物にして欲しい、と祈ってはならない。もっと強い背中にして欲しい、と祈りなさい」(セオドア・ルーズヴェルト(1858-1919年 第26代米国大統領)

 
◎以下の祈りの課題は、MGFメンバーから提出されたものである。原則1ヶ月ごとに更新(2012年2月2日現在)。
 
 
カズさんと有基子さんの健康が守られますように。
 
カズさんが牧してくださる、私たち羊が成長し、羊飼いの負担が軽減されますように。
 
Kids Chapelを見てくださる有基子さんの負担も軽減されますように。
 
賛美リーダーが与えられますように。
 
迫害されているクリスチャン信仰と安全が守られますように。
 
兄弟姉妹が愛し合えますように。
 
イスラエルを通してメシアが与えられ、私たち異邦人も救いに与る恵みをいただきました。周辺から攻撃されていますが、神さまのあわれみが注がれ、守られますように(エゼキエル38、39章に預言されているイスラエル対ロシア・アラブ連合国の戦争がいつ始まって不思議ではない状況になってきました)。
 
MGFが主に喜ばれる教会に成長し、主がお建てになる会堂の建築のためにも一致できますように(建築予定地も与えられ、会堂設計も完了しました)。
 
月1回の午前の礼拝がスタートしました(感謝!)。
 
MGFの教会スケジュール・カレンダーもチェックして諸活動のためにもお祈りください。
 
カルバリー・チャペル・バイブル・カレッジ沖縄校で学ぶ中村彩さんのために。
 
東北地方太平洋沖地震・福島原発放射能漏れなどの災害を通して主に仕えるため。
 

 
祈りは、祈られない限り、答えられることはない。
日常生活の中で短い祈りを数多くするなら、緊急事態において長い祈りをする必要性が減少される。
間違いの修正のために祈るのはいいことだが、早めに祈るならそんなに多くの間違いを犯さないですむ。
短い祈りでも恵みの御座に届く−−もし、あまりにもそこから遠く離れて暮らしていないなら。
膝まずいているなら、つまずくことはない。

 
                                       マラナサ! 私たちの主よ、来てください!
 
 
 
 
 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」 詩篇122:6,7 


「クリスチャンのまずなすべき仕事は、誰の場合であっても祈ることです。単純、明快です。
ところが、ただ祈るだけでは足りないのではないかと私たちは思ってしまいます。
神のために何か大切なことをしたい、神にとって大切な人間になりたい、と思うのです。何かを建設したい。人々を動員したい。
私の力を示したい。影響力を行使したい…。そういったことに比べると、祈りはいかにも小さいことに思われるのです。
殆ど目にもつかない、小さいことに思われてしまいます。

けれども、イエスはそう言われませんでした。イエスにとって、祈りは全てでした。特権であり、同時に義務でした。責任であり、しかも権利でした。

祈りを最後の手段と考える傾向が、私たちにはあります。しかしイエスはそれを『戦い』の第一線におくように望まれました。
他にどうすることも出来ない時に、私たちは祈ります。しかしイエスによれば、何をするよりも先に、まず祈るべきなのです。
大部分の人は、すぐに結果を見ることができるような何かをしたがります。
神にとって最もふさわしい時に、神が解決してくださるのを、私たちは待ちたくありません。
神にとって『ふさわしい時』というのが、私の考えるふさわしい時と、あまり合わないことが多いからです。そこで、私たちは神のお手伝いをしたがります。
時には自分の祈りに自分で答えようとさえします。たくさんの人の目に神がよく映るようにすることができれば、
もっと多くの人がクリスチャンになるのではないか、というようなことを考えます。

そこで、神は祈りに答えてくださるということを証明して、神が寛大であられることを、人々に納得させようとします。
神のイメージがもう少し立派なものになるように手助けすれば、もっとたくさんの人々を神の側に勝ち取ることができるのではないか。
そして、神はそのことを私たちに期待していらっしゃる。そうではないか。

いいえ、そうではありません。神が私たちに期待していらっしゃるのは、祈ることです。
いつでも祈り、そして全てについて祈るのです。喜びの時も、悲しみの時も、です。
神について語るのではなく、神に向かって語りかけることを求めておられます。
神のことを未信者に話すよりも、その前に彼らのことを神に語って欲しいと、神は思っておられます。

祈りは神が私たちに課しておられる日課ではありません。私たちのなすべき仕事なのです。なすべきただ一つの仕事です。
祈りは私たちの聖なるわざです。単純で明白です。」


(スコットランドの説教者・伝道者・神学校校長オズワルド・チェンバーズ 1874~1917)
 
 
 
 
 
 

 
聖書とは祈りの書である。記録されている667の祈りの内、答えが記録されているものの数は454ある。

祈りの名手による祈りに関する名言
 
 
●マルチン・ルター(1483~1546年。ドイツ)
 
 「祈りはとりなしによって活発され、懇願によって差し迫ったものとなり、感謝によって喜ばしい、神に受け入れられる祈りとなる。力強く、かつ受容的な態度で祈ることによって私たちは願うものを確かに受けるのである。」
 
「いかなる場合にも、キリスト者が『主の祈り』を正しく祈るなら、その祈りは十分以上であると、私は確信する。」
 
 「私が祈れないときはいつも歌います」(マルティン・ルター)。
 
 
●ジャン・カルヴァン(1509~1564年。フランス)
 

 「正しい祈りの第一のルールは、我々の心と精神が、神との対話に入るものとしてふさわしく整えられることである。」

 

 「神の子たちの主な務めは祈ることである。なぜなら、そうすることが彼らの信仰の真のあかしだからである。祈りは、その人の内になる信仰の不可避的な結露である。信仰が存在するところではどこでも、祈りは生き生きとその存在を表す。」

 

 
 

●「祈りの勇者」E.M.バウンズ(18351913年。米国)

 

 「心臓が鼓動をやめても、祈りは神の前に生きている。」

 

 「この世の中で主のために一番多くのことをした人は、朝早く膝をついた人である。」

 

 「祈りの人でなければ主のために偉大なことをすることはできない。」

 

 「祈ることで失敗することは、人生全体に失敗することを意味します。」
 
 「祈りは死なない。祈った人が世を去った後にも、その祈りはあとに残って 活動を続ける。祈りによって私たちは、後世まで子孫に尽くすことができる。祈りは人 が後の代に残すことのできる最大の遺産である。」
 
 「私たちが祈ることをやめるのは、霊的に生きることをやめるのと同じである。」

 「弱い聖徒たちでさえも、御前にひざまずくときには、サタンがおそれおののく。」

 

 「いま教会が必要としているのは、もっとよい機械・器具でも、新しい組織でも、あるいはもっと多くの新奇な方法でもなく、聖霊が用いたもうことのできる人、すなわち、祈りの人、祈りにおいて力のある人なのです。聖霊は、方法を通してではなく、ただ人を通してのみあふれ注がれるのです。聖霊は計画などではなく、ただ人―祈りの人の上にだけその力をお与えになるのです。」

 

 「祈りは教会学校の一貫したカリキュラムになっているだろうか。日曜学校、家庭、あるいは大学で我々は、祈りの学校の卒業生を出しているだろうか。教会は祈りという大学から卒業証書をもらった人を生み出しているだろうか。祈り方を知らない者は、神を知らない。祈りによって知性を広くされ強められ、明瞭にされ、高揚されていないのは、神を学んだことがないからである」。
 
 「神の事業の最も力ある成功は祈りによって造られ、かつ遂行される。」

 

 「祈り深い人にとって神は最も現実的な力である。」

 

 「神はいつでも祈りを聞かれるということは真実です。神は、ご自分の子どもの叫びにいつも注意を払っておられます。しかし、電話で話すときのように、ふたことみことで祈りを済ませるようにするなら、決して主を知ることはできません。主との交わりはより親密になっていくことが必要です。」

 

 

 

●「説教のプリンス」チャールズ・スポルジョン(18341892年。英国)

 

 「教会の状態は、祈り会を見れば実に正確に判断できる。すなわち、祈り会は恵みの尺度であり、それによって我々は、人々の前で働かれる神のみわざの偉大さを計り知ることができる。もし、神が教会に近くおられるなら、教会は祈るはずであり、近くおられぬなら、神不在のしるしとして、まず祈らなくなる」。

 「個人的な祈りが、奉仕の上にもたらす素晴らしい祝福は、言い表すこともできず、比べるものもないほどものです。―それは、聖書より来る油を注がれることです。もし、私たちが受けている力が、万軍の主から来たものでないとしたら、私たちは偽る者です。なぜなら、その力はただ祈りによってのみ受けることができるのですから。私たちは差し迫った、絶え間ない、熱心な願いをなし続けようではありませんか。あなたがたの羊の毛を祈りの打ち場に置いて、それが天よりの露にしっとり濡れるまで、祈り続けようではありませんか(士637 ギデオンの故事に由来する言葉)。」
 
 「他人のことはいざ知らず、私が自分について言うと、いやしくも自分が何かを知っていることがあるとすれば、祈りの息吹きは決して水泡に帰すことがないと私は自信をもって言うことができる。ここにいる者のうち、だれ一人としてそう言えなくても、私はあえて言う。そして、私はそれを証明できることを知っている。私自身の救いも、長年の、愛のこもった、熱心で粘り強い祈りの答えなのである。私のために両親が祈り、神はその祈りを聞かれた。そして、今、私はこうして福音を語って来ている。以来私は、自分の能力をはるかに超えたことに挑んできたが、1度も失敗したことがない。なぜなら、自分を主にゆだねるからである。」
 
 「祈りたい気持ちの時には、祈るべきである。というのは、そのようなよい機会を無視するのは、罪深いことであるから。また、祈りたくない気持ちの時も、祈るべきである。というのは、そのような不健全な状態に留まるのは、危険なことであるから。」
 
「祈りは私たちに自分が無価値な者であることを教えてくれる。もし神が、私たちの祈りなしに恵みを与えたもうたとすれば、私たちは決して、自らの貧しさを知ることはないであろう。真の祈りは、自分に欠けているものの目録であり、自らが抱える必要を列挙したカタログであり、人目にはつかない隠れた貧困の暴露である。それは神の富を求めるものだが、また人間の空虚さを告白するものでもある。」

「いつも嘆願すべきことがあるようにしよう。嘆願こそ祈りの真髄なのだか ら。ふさわしく嘆願する人こそ神に聞き入れられる秘訣を知っている人である。」
 

 

●「米国を代表するリバイバリスト」ジョナサン・エドワーズ(17031753年。米国)

 

 「もし、自分の牧師のことに不満ばかり言い続けているクリスチャンが、人前でそんなことを言うのをやめて、神の前でその牧師のために全力を尽くして祈ってさえいたなら―へりくだった熱心な絶え間ない祈りによって、いわば天の御国を激しく攻めたててさえしていたら―その牧師たちはもっともっと成功していたことでしょうに。」

 

 

●「世界的神学者」RA・トーレー(18561928年。米国)

 

 「今日に必要なのは、祈ること。もっともっと祈ることである。それほど多くの説教がなされていないのに、リバイバルが起きたことはある。しかし、力強い祈り抜きで、力強いリバイバルが起きたためしはない。」

 

 

●「偉大なメソジストの指導者」サムエル・チャドウィック(18601912年。英国)

 

 「祈り以外にサタンの恐れるものはない。・・・キリストを見失った教会は、善行はさまざまに行なう。活動は盛んになるが、みことばを黙想することがない。組織は充実してくるが、祈りがない。魂は、悪しき道にさまようのはもちろん、善行の中でも失われていくであろう。サタンの関心事は、聖徒を祈りから遠ざけることである。祈りを欠いた研究も、祈りのない善行も、祈らない宗教も、等しくサタンの恐れるところではない。サタンは我々の努力を笑い、知恵をあざける。しかし、我々が祈る時、サタンは震え上がる。」

 

 

●「牧師・伝道者・著述家アンドリュー・マーレー」(18281917年。南アフリカ共和国)

 「祈らない罪はすべての悪の最も深い根。」
 
 「祈れば祈るほど、私はみことばの必要性を感じる。神のみことばを読めば読むほど、もっと私は祈らなければならないと思う。そうすれば、祈りに力が増し加わってくる。」

 

 「継続的な祈りの量が、教会で働く御霊の量となる。」

 

 「祈りとは神を待ち望むことです。」

 
 
 

「人が、神と人のためになしうる最大のことは祈りである。それが唯一のことではないにしても、主要なことである。今日、地上に住む最も偉大な人々は、祈る人々である。私がここで言っているのは、祈りについて語る人々や、祈りの力を信じている人々、あるいは祈りについて説明のできる人々のことではなく、祈りそのものに時間を費やす人々のことである」SJ・ゴードン)。

 

「祈り以外の活動は、われわれのできることを生み出す。しかし、祈りが生み出すものは神のみわざである」(ヴァージニア・ホイットマン)。

 

 「神は、御自分の民が、祈り以外に望みはない、というところまで追い込まれるのを願っておられる。ここにこそ教会の、世に立ち向かう力がある」(アンドリュー・ボナー,
スコットランドの牧師 18101892)。
 
 「あなたがたは祈ったあと、祈り以上のことをすることができる。しかし祈るまでは、決して祈り以上のことをすることはできない」(A・J・ゴードン)。
 
  「祈りは信仰を生み、信仰は愛を生み、愛は貧しい人々のためへの奉仕を生みます」(マザー・テレサ)。
 
 「すべての祈りに先立つ祈りとは、『真の自分になって祈れますように。真の神に向かって祈れますように』である」(C・S・ルイス)。
 
「あなたの祈りを、言葉の羅列で終わらせてはならない。むしろ生活全体を、神への祈りとしなさい」(シリアのイサク)。
 
 「神の前にひざまずいて祈る。これこそが人間の本来のあるべき姿であって、我々はそれ以上でもそれ以下でもない」(ロバート・マーレイ・マックシェーン)。
 
 「祈りは、神に向かって回答するための言葉である。最初に来ることばは、神のことばである。祈りは人間の言葉である。それは、決して最初に語る言葉でも、ものごとを形作る言葉でもない。なぜなら、神を差し置いて、私たち人間が先になったり、中心になったりすることはあり得ないからである」(ユージン・ピーターソン)。
 
 「どんなに言葉が多くても、祈りは数学ではありません。どんなに美しくても、祈りは巧みは言葉ではありません。どんなに長くても、祈りは自分の計画を作るのではありません。どんなに声が美しくても、私たちの祈りはリズムではありません。どんなに整然としていても、祈りは理屈ではありません。どんんあに順序正しくても、祈りは方法ではありません。祈りの熱心さこそ、大きな力を秘めているのです。人のために祈ること以上に、その人への愛を深めるものはありません。心を尽くしてひとりの人のために祈れるようになれば、あなたはすべての点で親切で正しい行いをする備えができたのです。毎日、この厳粛な奉仕に全力を打ち込みましょう。自分のためにするように、十分な時間をかけ、失望することなく、熱心に他者のためにお祈りください。すると、ささいな悪い欲望は消えて、あなたの心は大きく豊かなものに成長するのです」(ウイリアム・ロー)。
 
 「祈りが願掛けであると考えている人々は、物乞いに過ぎない。私は、キリストの教えの真理を汲んでいる物乞いに出会ったことがない」(サンダー・シング)。
 
 「私たちが祈っている時に抱く神についての観念は、神ご自身が啓示したものと一致しなければ無価値なのである」(ポール・リトル)。
 
 「祈りと涙とは教会の武器である」(マシュー・ヘンリー)。
 
 「勝利ある祈りは、執拗な祈りである」(チャールズ・フィニー)。
 
 「神様が大陸を与えようとしておられるのに、どうしてピーナッツのために祈るのでしょうか」(ドーソン・トロットマン)。
 
 「私は、だれかに会う前に祈るべきだと思う。私のたましいが、他のものに近づく前に、神に近づき、御顔を拝し、神とともに始めることは、とてもたいせつだと思う」(ロバート・マーレー・マックシェーン)。
 
 「苦悩と当惑は私を祈りに駆り立て、祈りは苦悩と当惑を取り去ってくれる」(フィリップ・メランヒトン)。
 
 「自分はつたない言葉しか出てこないのに、人が自由にかつ流暢に祈るのを聞いたことがあるでしょう。そういう時には、ややもすると、その人を賞賛し、自分を責めたりしがちです。あたかも、美しくかたどられた鍵が、戸をよりうまく開くと言うかのように」(ウィリアム・ガーナル)。
 
 「王の御前に出なさい。大きな願いを持って出なさい。その恵みは測り知れないのです。求めて求めすぎることはないのです」(ジョンー・ニュートン)。
 
 「祈りの力は距離によって弱まることはありません。年齢や病弱、政治の変化、あるいは政治的束縛によって弱まるものでもありません。忠実なクリスチャン生活における祈りの力は、祈りの怠慢という原因によってのみ弱まるのです」(デーヴィド・ベントリ・テーラー)。
 
 「最も大切な点は、答えが与えられるまで祈り続けることです。私は昔の友人のふたりの息子のために、52年間毎日、祈り続けています。彼らの心はまだ変えられていません。しかし、必ず変えられます! 神の子らの犯すあやまちのうち、祈りを途中でやめてしまうことほど大きなものはありません。彼らは長く続けられないのです。もし神の栄光のために本当に何かを望むなら、それを得るまで祈り続けるべきです」(ジョージ・ミュラー)。
 
 「祈る人ほど、今日の世界で重要な人はいない。それは祈りについて語る人でもなければ、祈りについ説明できる人でもない。時間をさいて祈る人である。彼らには時間がない。それは、ほかのことを犠牲にした時間であろう。ほかのことも大切であり、また、差し迫ったものである。しかし、祈りほど重要で、差し迫ったものはない」(S・D・ゴードン)。
 
 「祈りは地上で最も強い力である。私たちのうち十分な数の者が、もし十分に祈ったならば、世界を救うことができた。そう、十分に祈ったならば」(フランク・ラウバッハ)。
 
 「祈りの活力がみことばにより供給されるのでなければ、祈りはその切なる願いにおいて熱心で大声であったとしても、実に弱い気抜けしたものである」(ウィリアム・バーンズ 1815-1868年 英国長老教会の最初の中国宣教師)。
 
 「祈りにおいて生命力がないのは、生涯を再建し更新するために、神のことばを常に供給することをしないからだ。力ある祈りを習得したい人は、まず、みことばを学び、その記憶に、思想に、貯蔵することをしなければならない」(ウィリアム・バーンズ)。