33 携挙と再臨(Rapture & Second Coming)

携挙(空中再臨)に関する聖句

ヨハネ14:1−3
1コリント15:1−53
1テサロニケ4:13−18
ローマ8:19
1コリント1:7−8
1コリント16:22
ピリピ3:30−21
コロサイ3:4
1テサロニケ1:10
1テサロニケ2:19
1テサロニケ5:9
1テサロニケ5:23
2テサロニケ2:1、(3)
1テモテ6:14
2テモテ4:1
テトス2:13
ヘブル9:28
ヤコブ5:7−9
1ペテロ1:7、13
1ヨハネ2:28−3:2
ユダ21
黙示録2:25
黙示録3:10


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再臨(地上再臨)に関する聖句

ダニエル2:44−45
ダニエル7:9−14
ダニエル12:1−3
ゼカリヤ14:1−15
マタイ13:41
マタイ24:15−31
マタイ26:64
マルコ13:14−27
マルコ14:62
ルカ21:25−28
使徒1:9−11
使徒3:19−21
1テサロニケ3:13
2テサロニケ1:6−10
2テサロニケ2:8
2ペテロ3:1−14
ユダ14−15
黙示録1:7
黙示録19:11−20:6
黙示録22:7、12、20



再臨を祈らぬ教会

聖書を信じまた使徒信経を信条として信じている教会であるならば、主の再臨を信ぜぬわけにはいくまい。しかしこれを信じているばかりで、それを祈り求めぬならば、黙示録二二章にある「主イエスよ、来たりたまえ」と祈りえぬ教会は教会という名があっても、花嫁たる教会ということはできない。世の教会の大多数はこの種の教会である。そのおもなるものは天主教会である。もちろん主の祈りを唱える教会がある。しかしはたして心の底から御国をきたらせたまえと祈っているかが疑問である。形式的に祈っているのでは、これを祈らぬ教会の部類に属していると申してもよい。

聖潔派は概して主の再臨を祈る教会と申してもよい。しかし細別すると種々の信仰に区別されている。その一は、主はくるにはくるが、まず福音がすべての人に伝わり、教会すなわち花嫁のよそおいが十分できてからくるというような千年期後再臨説の焼き直しを説いているのもある。これではとても主の再臨を早めたまえと祈ることができない。その二は、主の再臨は主のご都合次第のものであるから、何ほど信者が祈ったとてだめである。むしろなりゆきにまかせておけばよい、という宿命説である。かかることを信ずる人には真剣に祈る迫力がない。されば父なる神はその権内におきたもう時と期をば、信仰よりいずる祈りに答えてどうでもなしうる御方であると信ずることが足りない。その三は、主の再臨を祈ることは祈っておるけれども、これを第一においていないで、ついでに祈るというのもあるが、これをつけたりの祈祷にしている教会がある。われらはかかる教会を目して再臨を祈る教会とは申さない。聖潔派の教会にかかる教会はなかろうか。反省すべきである。第四は、信仰をもって主の再臨を祈ったから、しかも願うところのものをえたりと信じて祈ったから、携挙せられた、主が再臨した、悪魔が底なき穴に投ぜられたと信じてよろしい。もう主よ、来たりたまえと祈らんでもよろしい。感謝し賛美しておればよろしいと、新しい異端を説く者が起こった。これもこの祈祷を否定し、少なくもこの祈りをわきへそらそうとする悪魔の詭計である。これにひっかかっている者が聖潔派の教会内に起こった。これは大いに警戒すべきことである。第五は、主の再臨の信仰はわれらといささかも違ってはいないが、これを祈り求めることをしない教会である。頭では合点している。しかし祈り求めない。われらとは大いに共鳴する。しかしいっしょに祈り求めない。むしろこれを避けている。かかる教会は主を愛し慕う教会ではない。われらはかかる教会と歩調をともにするわけにはいかない。悪魔のいちばんいやがることはこの祈りをすることである。さればなんのかんのと種々の口実を設けて、この祈りをさせぬように努めている。いかにりっぱな理由があるにしても、この祈りをする口を封ぜんとすることはことごとく悪魔来のものとして排除するがよい。この祈りをする数の中には、脱線屋も起こるだろう。口不調法の者も起こるだろう。しかしそのゆえをもってこの最高、最大、最終の祈りをすることを禁ずべきではない。むしろ指導者は適当に指導していくべきである。

携挙と警告

主イエスよ、来りたまえと祈る祈りは、いよいよ激しくなってきた。聖徒の携挙は実に間近い。かかる際に再臨の主を迎うるために、あれも必要だこれも必要だと種々のことを持ち込まれて、この祈りを弱められるようなことをされぬよう注意せねばならぬ。

伝道も可、牧会もけっこう。しかし主イエスに来ていただくことにまされるものはないではないか。救霊のためにまた花嫁の準備のために、御再臨を延ばしてもらいたいと思う者は、聖潔派の人のうちにおそらくあるまい。もしあらばそれは主の千年期前再臨を信じない人である。

しかしいまこられては滅びるたましいをどうするかと思うあまり、もうしばらくの時がほしいと思うところに認識不足がある。われらは携挙せられたのちに患難の時代がくると信じている。その時なおイスラエルを始めとして、全世界の民が悩むと聖書にしるされている。かくして残されている者は主を叫ぶようになり、またイスラエルがことごとく救われるとある。その時は千年王国少し前で大リバイバルが起こるのである。いまわれわれがやっているような救霊運動のごときものではなく、実に全世界にわたるところのものである。しかし記憶せよ、これは全世界の民が三分の一に減じてのちの出来事であって、第二機会説のような気楽なことではない。いまは恩恵の時または救いの日であるが、その時をあてこんでいるような人はずるい人間であるから残される部類に属する人ではないか。

今夜にも携挙があるとすれば、これにまさる警告は他にあるまい。聖徒がかねがね警告しているとおり携挙されるならば、そのことが千百の説教、万の特別集会にまさるものであって、残されし人々の胸に異様の衝動を与えるに相違ない。それによっていかほどの人々が主を呼ぶようになるかわれらは明言することはできない。とにかくある一部には大恐慌をきたすに相違ない。運よくまた神の特別な御取り計らいにより、かろうじて患難の時代を通過して、イスラエル人とともに主を呼び求める仲間にはいることができるとすれば、彼らは栄化の恵みにあずかることができぬにしても、千年王国の住民となることができるだろうと思う。これを思う時には、よしいまのわれらの警告が携挙前に効果を現わせぬにしても、いつかまたはどこかで実を結ぶと信じて、いっさいを主の御手にまかせて最善を尽くすべきである。いわんやわれらのことばかりでなく、主はわれらの待ち望みの祈りに答えたもうて、われらを携挙なしたもうことが事実となって現われるにおいてをや。それゆえどんなにかれこれ言っている人でも事実の前に降参するに相違ない。われらはこれを信じているから、何はともあれ、主よ来たりたまえと祈るのである。これは自分さえ栄化すればよいという自己満足のためではない。実に全世界の民に対する最大の警告であるからである。もちろんこれはサタンに対する大鉄槌である。

もしこの真理がわかるなれば、なんの思い煩いもなく、主よ来たりたまえと、心底より祈ることができる。なぜなれば、主は再臨したもうならば万物がみな復興するからである。

主の再臨と救霊

この二つは比べて論ずるほどのものではないが、近ごろどちらが肝要であるかと問うだけやぼである。言うまでもなく主の再臨は教会の目的で救霊は使命である。目的と使命とを取り違えるようでは困る。どちらがたいせつであるか問わずともわかることではないか。救霊もたいせつである。しかし主の再臨はこれよりもたいせつである。左に例にしたがい個条書きにするから、祈りつつ読んでもらいたい。

一、神の国と教会がどちらがたいせつかと言えば、むろん神の国がたいせつである。これは主の御目的であり、また教会は何よりもまずこれを求むべきである。

二、全世界の民が救われると神の国ができるのではない。人々がみな救われぬうちに主は再来したもうのである。されば人々の状態いかんにかかわらず、主の御再臨を祈るべきである。

三、されば、主イエスよ来たりたまえと祈ることは、罪人を救いたまえと祈るよりもはるかに重大な祈りであるから、第一になすべきである。

四、祈祷と伝道とどちらに重点をおくべきかというに、言わずともしれたことで、祈祷は第一でそれに重点をおくべきだ。

五、祈りばかりをしておれば伝道せずともよいと言う者があるならば、それは祭司の一面のみを見ているので、神の御旨を確かめて人々に警告する人ではない。伝道することが罪であるように言う者があるとすれば、それはいわゆる脱線屋である。聖霊に全く信頼している者は、よく祈る者であるが、そのおさしずのもとに救霊にもあたるべきである。

六、従来は救霊のための祈りであった。実は祈った結果、救霊となって現われるとなるのがほんとうである。われらは後者をば真の救霊事業と言う。前者は伝道事業を本位とする傾向があるから、主の再臨を待ち望まない。したがって祈りが下火になるのである。

七、われら主の再臨を待ち望む者をば、主のためにあかしもせず、警告もせずにおる者と見るか。福音使はあちこちにつかわされて、祈りの祭壇を築き、また時々聖別会や聖会を開くのはなんのためであるかを知るならば、そう見る人がないはずである。

八、祈りのみして伝道せずにおる人と、伝道ばかりしてろくろく祈りもしない人と、どちらに組みするかと予に問う人あらば、予は前者に加担すると答える。できるならば、聖霊に導かれて野に行きたまいし主と、十日間エルサレムの高殿において、祈りばかりしていた弟子たちのごとくなりたいとは予の念願である。

九、主の再臨を祈る人は神の国を求める人であるから、その一部である天国、すなわち千年王国を待つ者である。されば千年王国の中心的国民であるユダヤ人の回復を祈るようになるのは当然である。伝道は主の花嫁なる教会の完成であると言う人があるが、その完成は主がなしたもうことで、教会がなすべきものではない。教会がおもに求むべきは神の国である。

十、祷告と警告、祷告は第一のもので、警告は次のものである。近日のうちに主は来たりたもうとすれば、何よりもまず祈祷に身をわたすべきではないか。

警戒せよ、悪魔のごまかしを。

中田重治

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