11 バイブル・スタディーの極意七か条(Seven Points on How to Study the Bible)

聖書はその著者がその読者を夢中で愛する唯一の本である。

聖書はあなたを真理によって突き刺すことがあるかもしれないが、あなたを嘘によって慰めることは決してしない。

「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。

そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。

そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。」(ヨシュア1:8)

「少しばかりやってみただけで喜びがもたらされるような学習は存在しない。」(アレクサンダー・ホープ)

「神があなたに最も望んでおられるのは、あなたの愛です。

そして、神への愛と従順を示すための、神が望まれる一つの方法は、神についての学習です。

神が創造された知力を使って、神について、また神の道、言葉、世界について学ぶ時、

神は栄光をお受けになります。」(ドナルド・ホイットニー)

「神の言葉は、私たちの頭を通らないことには、心と人生を変えることができません。」

(ドナルド・ホイットニー)

「年齢と経験だけで霊的成熟度が増すわけではありません。たまたまイエスのようになったり、

誕生日が過ぎるたびに自動的にそうなったりするのではありません。

・・・学ぼうとしない人たちは、偶然に、あるいはたまたま都合が良かった時にしか、霊的知識や聖書の知識を得られません。

彼らは時折、誰かから聖書からの事実や原則を聞いて、そこから益を得ます。たまに、その主題に対する興味がわくのです。

しかし、それは信心深くなる道ではありません。学びの鍛錬は、私たちが行き当たりばったりに学ぶ者ではなく、

意図的に学ぶ者となるのを助けます。・・・意図的に学ぶ者となるには、鍛錬が必要なのです。」(ドナルド・ホイットニー)

「欠乏感を持たないで聖書に接する人は、聖書の深い意味を見失っている。何かを求めて接する時に、聖書は新しい書物になる。神の書を読む時に、開かれた知性と欠乏感のある心で接近しなければならない。ーーそうすれば、聖書が私たちにとってこの世で最大の書物になるであろう。」(ウィリアム・バークレー)

「クリスチャンとして、私たちは、ただ精神や力をつくすだけではなく、知力もつくして神を愛するべきです。

そして、神の真理について勉強することは、神への愛を表すための最も良い方法の一つです。

主がどのような方なのか、主の真理がどのようなものなのかを知りたいと思うことに、それが表されるのです。

ですから、キリスト教の教義を勉強することは、神の真理を愛し、知るよう、思いを鍛錬することによって、

神への愛を表す一つの方法なのです。

教義を勉強することは、知力をつくして神を愛していることの表れです。」(ウィリアム・レーン・クレイグ)

「要するに、聖書には心地よいものなど存在しないーー自分にとって心地よいものとなるくらいなじんでしまうまでは。

・・・私たちはこの書物を問うことをやめ、この書物から問われることがなくなっているだろうか。

私たちはこの書物と戦うことをやめただろうか。もしそうなら、おそらくこの書物をもはや真剣に読んではいないのだ。

たいていの人にとって聖書を理解することは戦いであるし、またそうあるべきだ。

参考文献を見れば書いてあるような意味を探すばかりでなく、

聖書そのものの中にある紛れもないスキャンダルと矛盾に、自分なりに折り合いをつけようとする戦いである・・・。

聖書に驚かなくなったからといって、聖書が自分にとって問題でなくなったからといって、

聖書を知っていると過信しないように気をつけよう。」(トマス・マートン)

ゼーレン・キェルケゴールは、聖書の難しい部分に挑む読者のために2つ提案をしている。

まず、その箇所をラブレターのように読むこと。

言語や文化などの障害と格闘しているときは、あなたを愛している誰かからのおもな、重要なメッセージをつかむために、

これは必要な作業だと思う。第二に、理解していることに従って行動すること。

キェルケゴールは、「聖書にはあいまいな箇所がとても多い。聖書全体がほとんどなぞなぞである」という反対意見を、

理解しやすい箇所のすべてに完全に従った人かrなお意見だったら考えようと言って退けている!

"Bible study is the metal that makes a Christian." - Charles Spurgeon The Prince of Preachers

「バイブル・スタディーは、キリスト者をつくり上げる地金である。」(チャールズ・スポルジョン 説教のプリンス)

「私は無智の者である、だから聖書研究の必要がある。」(内村鑑三)

聖書はゆるがぬ岩のように、

時という荒れ狂うあらしのさなかに立っている

そのページは永遠の真理で燃やされ、

崇高な光で輝いている

丘々が揺れ動いても、聖書は立っている

大地がくずれ去る時も、それはしっかりと立つであろう

私は、その堅固な土台の上に、足を置こう

なぜなら、聖書が立っているから!

ハルドア・リレナス

「神御自身の栄光、人間の救いと信仰と生活とのために必要なすべての事柄に関する神のご計画全体は、

聖書の中に明白に啓示されているか、正当で必然的な結論として聖書から引き出される。」 (ウェストミンスター信仰告白)

"The Bible will keep you from sin, or sin will keep you from the Bible." Dwight L. Moody

「聖書は人類が所有しているもののうち、最も価値のあるものである。」(ヘンリー・H・ハーレイ)。

「いかなる世界の歴史におけるよりも、聖書の中にはより確かな真理が存する。」(アイザック・ニュートン)

「人類のあらゆる発見は、聖書に収められている真理を、いよいよ強く証拠だてる目的でなされているにすぎないように思われる。」(ウィリアム・ハーシェル)

「私が自分の存在を疑わないのと同様に、あの書の真理も疑わない。」(D・L・ムーディー)

「聖書は、これまでに印刷されてきた他のすべての書物に値する。」(パトリック・ヘンリー アメリカ合衆国建国の父の一人)

「青年よ、あなたへの私の忠告は、聖書を知れ、そして聖書をかたく信ぜよ、ということである。」(ベンジャミン・フランクリン アメリカ合衆国建国の父の一人)

「私の成功の秘密?それは単純です。その秘訣は聖書にあります。『あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる(箴言3:6)。』」(ジョージ・ワシントン 初代アメリカ合衆国大統領)

「聖書には、私がこれまでに見てきたすべての図書よりも多くの哲学が含まれている。そして私の取るに足らない哲学と一致できないような部分は、これからの調査のために、後回しにしておく。」(ジョン・アダムス アメリカ合衆国第二代大統領)

「福音書は人間に与えられた最も有益な道徳律であり、聖書の学びは私たちをよりよい市民、父、夫につくりあげる。」(トーマス・ジェファーソン アメリカ合衆国第三代大統領)

「万民の注目に値する最初で、かつ唯一とも言える書物は、聖書である。私はこの世の一人の人間として語る。私は、聖書に非常に尊敬を払っているので、私の子供たちが祖国において立派な国民となり、尊敬される社会人となるようにとの私の願いは、子供たちが、聖書を読み始めるのが早ければ早いほど、確実にかなえられると考えている。私は何年もの間、年に一回は聖書全体を通読することを習慣にしている。」(ジョン・クインシー・アダムス アメリカ合衆国第六代大統領)

「君よ、その書こそわれわれの共和政体がよりかかる岩なのである。」(アンドリュー・ジャクソン アメリカ合衆国第七代大統領)

「われらの父祖が、その生まれた国の岸辺を荒野のために捨てたのは、この偉大なる、良き書物の、真理に対する愛の故であった。」(ザカリー・テイラー アメリカ合衆国第十二代大統領)

「私は聖書を、これまでに神が人類に与えた最上の贈り物であると信じる。世界の救い主から発する一切の良きものは、この書を通してわれわれに伝達される。」(エイブラハム・リンカーン アメリカ合衆国第十六代大統領)

「文明においてなされた進歩に対し、私たちはあの書の影響力に負い目がある。またわれわれは、未来におけるわれわれの指針として、この書を見つめなければならない。聖書は、われわれの自由のたのみの綱である。」(ユリシーズ・グラント アメリカ合衆国第十八代大統領)

「聖書を教えない教育は、無責任な人にピストルを渡すようなものです。」(セオドア・ルーズベルト アメリカ合衆国第二十六代大統領)

「自分自身から聖書の知識を剥奪してきた人は、世界に存在する最高のものを自分自身から剥奪してしまっている。」(ウッドロウ・ウイルソン アメリカ合衆国第二十八代大統領)

「聖書ほど、異なる多様性を持つ本は、あるいは集中した知恵にこれほども満ちた本は他にない。それが法律であれ、ビジネスであれ、道徳であれ、何であれ‥‥導きを求める者は‥‥その内側を見て啓蒙を見出すことができる。」(ハーバート・フーヴァー アメリカ合衆国第三十一代大統領)

「共和党の初期の時代における聖書の影響力は、国家を可能にした人々の著書や思考において、明白に表されている‥‥彼らは彼らの進路を方向づけ、彼らの大義を決定したものを、聖書の中に発見した。」(フランクリン・ルーズベルト アメリカ合衆国第三十二代大統領)

「聖書を読むということは、霊が力づけられ、信仰が新たにされる美しい国へ、旅行するようなものだ。」(ドワイト・D・アイゼンハワー アメリカ合衆国第三十四代大統領)

「私の言うことを信じて下さい。私はいつも非常に疲れてはいるが、床につく前に神の御言葉を読まずに夜を過ごしたことは一度もない。」(ダグラス・マッカーサー)

「聖書は学者の書であり、無学者の書であり、万人によって万人に学ばれるべく、万人によって解されるところの人類の書なのである。われわれが謙虚になって聖書をひもといて見れば、それ(知識)は最も基本的な形において聖書に示されておる。これを今日の社会情勢と、人間の知識の進歩と、世界の複雑性に照らし合わせて応用すればよいだけです。根本は聖書に示されている通りであります。」(矢内原忠雄 東京大学総長)

「今日、見える賜物の中で、聖書は最大の賜物である。」(笹尾鉄三郎 大衆伝道者。淀橋教会初代牧師、東京聖書学院初代院長)

「私は戦時中に敵を知ろうと、キリスト教を調べ聖書にぶつかった。初めは文明を誇る白人がなぜこんなものを信じるのかと笑ったが、聖書が歴史的事実と知ったとき、聖書から離れられなくなった。」(三笠宮崇仁親王 今上天皇の叔父)

「もし聖書の根本的教えに従うなら、われわれの国は繁栄の道をたどり、栄えるであろう。しかし、もしわれわれとわれわれの子孫が、その教えを拒否し、その権威を認めないようなことがあれば、すぐに破局がわれわれをおそい、輝かしい栄えは、一瞬にして、深い暗黒のうちにおおわれてしまうであろう。」(ダニエル・ウェブスター 19世紀米国を代表する政治家)

「人間のための書物としての聖書の存在は、人類がかつて経験した中で最大の恵みである。その価値を減らそうとのいかなる企ても、人類への罪悪となる。」(インマヌエル・カント ドイツの哲学者、思想家)

「わたしは三種の教育を受けた。世間と学校と聖書で、最終的には聖書が最も重要である。聖書はわれわれが所有すべき唯一の本であろう。」(デューク・エリントン 米国 20世紀のジャズの巨匠)

「どれだけ疲れていようとも、聖書を読まずして、夜、床につくことなどない。」(ダグラス・マッカーサー)

「英語の聖書、この書は、われわれの言語の他のすべてのものが滅び去ったとしても、ただそれだけで、その美と力との広がりを示すに十分なものであろう。」(トーマス・マッコーリー、イギリスの歴史家、1800-1859)

「人類の進歩に関する一切の希望は、聖書の絶えず増し加わる影響力にかかっている。」(ウィリアム・ヘンリー・セワード、アメリカの国務長官、1801-1872)

「私の困惑と苦悩の時、聖書は常に私に光と力を与えてくれた。」(ロバート・E.リー、アメリカの将軍、アメリカの南北戦争における南軍の司令官、1807-1870)

「私が著作したことで何か功績があるとすれば、それはひとえに、私が幼かった時、母が日毎に聖書のある箇所を読み聞かせ、暗唱させたということにある。」(ジョン・ラスキン、イギリスの著述家、1819-1900)

「イギリスが最高帝国になったという理由はこの書の故にある。イギリスはイエス・キリストにおける真の神の知識によって偉大になり、幸福になった。」(ヴィクトリア女王、イギリス女王、1819-1901)

「聖書は貧しき者、しいたげられた者の大憲章である。人類は、聖書を捨てうる立場にはない。」(トマス・ハックスリー、イギリスの生物学者、1825-1895)

「聖書のような美しい章句という宝石を散りばめられた書物の中で、最も美しい章句を選択するのは困難なことである。」(マーク・トウェイン、アメリカの著作家、1835-1910)

「私は60年以上ほとんど毎日聖書を読んでいるが、それがいつでも新しく、毎日変わりゆく必要に驚くほど合ったものであることに気づかされる。」(映画「十戒」を制作したセシル・B・デミル 1881–1959)

「問題の解決を、神が定められた永遠の原理に基づいて見出すのではなく、むしろ、便宜的な見地に立って見出している人が多いこの不安定な時代にあって、聖書研究の重要性とその価値をどんなに強調してもしすぎることはない。」(ジョン・ワナメイカー 米国のデパート王)

「私は生涯でたくさんの買い物をしてきました。何千ドルもするような物を購入してきたのです。でも、最高の買い物をしたのは、私が12歳の時でした。2ドル50セントを出して聖書を買ったのです。それが私の最高の買い物だったのです。その聖書のお陰で、今日の私があるからです。」(ジョン・ワナメイカー)

第一条 「聖書は神のことばと知るべし!」

聖書は、神のことばである。

「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」(1ペテロ1:23)

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

「・・・御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」(エペソ6:17)

「神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで・・・」(ヘブル6:5)

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)

「・・・天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、・・・」(2ペテロ3:5)

「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって。」(詩篇33:6)

「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。」(イザヤ40:8)

「神のことばは、すべて純粋。神は拠り頼む者の盾。神のことばにつけ足しをしてはならない。神が、あなたを責めないように、あなたがまやかし者とされないように。」(箴言30:6)

「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓に仕えるのはよくありません。」(使徒6:2)

「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(1テサロニケ2:13)

「神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者ではないからです。」(ヨハネ8:47)

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによって生きるのです。」(マタイ4:4)

「神から出ることばで、実現の力のないものは一つもありません。」(ルカ1:37 詳訳聖書)

「聖書は、人間の意志ではなく、聖霊なる神の意志によって書かれた」(ペテロ1:21)。

「聖書は、すべて、神の霊感によるもので、誤りがない(原典のみ)」(テモテ3:16)。

「聖書は、御名の上にかかげられた神的最高・最終権威である」(詩篇138:2「御名のゆえに」→「御名の上に」とも訳される)。

「聖書は、永遠不滅で変わることはない」(イザヤ40:8)。

「聖書は、神の意志でもあり、神の意志を確実に実行する」(イザヤ55:11)。

「聖書は、人知を超えた識別力を備えた神の力」(ヘブル4:12)。

「聖書は、預言書(聖書の1/3は預言)として100%の的中率を誇る」(2ペテロ1:19)。

「聖書とは、古いものでも、新しいものでもない。それは、永遠なるものだ。」(マルチン・ルター)

「すべての霊は、教会の面前において、聖書を基準として、吟味されなければならない。なぜなら、聖書が太陽よりも明るい霊的な光であって、特に救いや、(クリスチャンにとっての)生活の基準を知るための光であるということは、クリスチャンにとっては、何よりもまず必要とされ、無条件の真理として保持されなければならないからである。」(マルチン・ルター)

「聖書は神が、そこで我々と語り、我々に彼の意志を知らせておられるのである。」(ジャン・カルヴァン)

「聖書は世界無二、宇宙第一の書物である。」(山室軍平)

「私は、本では詩集を読むのが一番好きです。しかしそれすらなくてもすませます。しかしもし、私から聖書をとられてしまったら、 私は全く、頼りない気持ちになってしまいます。世界中のすべての詩の本が滅びても、私は一冊の聖書があれば、少しもさびしいことはありません。」(八木重吉)

「現代は、聖書ははたして神のことばなのかと問われる時代である。聖書は、初めから終わりまで神の言葉であり、聖霊の霊感を受けて書かれている。 聖書に聴くとき、私は真実のことばを読んでいることを実感する。私は毎日、聖書に聴くようにしている。」(ビリー・グラハム)

「『聖書は神の言葉である』という理解は、歴代の教会の共通した告白。」(B・B・ウォーフィールド)

「聖書の一つ一つの文書、一つ一つの章、一つ一つの節、一つ一つの言葉、一つ一つの音節、一つ一つの文字が至高者の口から直接に出てきた。」(J・W・バーゴン)

「神が我々に語ろうとし、事実語られるのは、聖書のみ言葉を通してであり、それ以外ではないので、言語霊感以外の霊感観は考えられない。」(ジェームズ・スマート)

「聖書の用い方というものは、その人が聖書をどのような書物と考えているかによって決まってくる。聖書を神による霊感の書と認めるならば、聖書はもはや数多い文書の一つではない。それ自身独自な文書として勝手気ままな扱いを許さない価値あるものとなる。私は、聖書を神の霊感の書と認める。聖書はそれによって神を学ぶ書である。私共の知性は完全というものからほど遠い。だから、この聖書を二度三度と読み返し、新しい意味で把握していかねばならない。」(鉱物学の世界的権威、米国マサチューセッツ工科大学教授 マーティン・J・バーガー博士)

「聖書はこれまでに書かれた本のうちで最も現実的な本である。神がどのようなお方であるかを述べているだけではなく、私たちがどのような者であるかをも述べている。それは私たち自身の性質と運命について、人間の性質と運命について、明確な洞察を与えているのである。」(ポール・リトル)

「聖書を神の言葉として読むためには、全身全霊を打ち込み、心からの期待をもって、神と語り合いながら、聖書を読まなければならない。聖書を無思慮に・不注意に・学問的に・職業的に読むことは、聖書を神の言葉として読むことではない。愛の手紙を読むように聖書を読むとき、その人は聖書を神の言葉として読んでいる。神の言葉を読むべきであるように、その人が聖書を読むまで、聖書は彼の魂にとって神の言葉ではない。」(バーナード・ラム)

「聖書は人間の最大の悲惨である永遠の刑罰としての地獄について、人間の最大の祝福である天国について、人間の最大の経験である救いについて語っている。聖書は、以上のことが神の権威によって教えられている、と公言する。その神の権威は、聖書記者たちの超自然的信任状によって裏書きされている。人類の前に置かれた、これら以上に大きな問題はない。」(バーナード・ラム)

「聖書の権威は、キリスト教信仰において尊重されるべきもので、受け入れる価値のあるものであると私は思う。聖書は、すべての人にたやすく読める一方で、その深いところでは偉大な奥義を宿している。それは、きわめて分かりやすい言葉と素朴な文体によってすべての人に示している一方で、能力を与えられた人々によって厳密に研究されることを要求する。その開かれた腕の中にすべての人を受け入れるものの、その狭い隙間を通って神に至る人は少ない。聖書が権威の高みにとどまり、その神聖なる謙遜さによって多くの人を抱き寄せなかったとしたら、神に至る人ははるかに少なかったであろう。」(アウグスティヌス)

「私たちの聖書が消え失せたら、聖書を信じてはならないと教えられたら、一体どこに行けば良いのでしょうか。聖書のどの箇所が霊感を受けて書かれ、どこはそうではない、というのなら、そんな疑いだらけの書物は聖書ではありません。」(チャールズ・スポルジョン)

「どんなに学識がある教会聖職者でも、聖書を無視するならば、聖書を手にする田舎者の方が神を知っているのだ。」(ウィリアム・ティンダル)

「聖書に対するどんな批判も、必要十分な答えは聖書そのものの中に見つけることができる。しかし、聖書がまったく誤りのない生ける神のことばであることを思えば、これは当然のことである。」(グリーソン・アーチャー)

「聖書は、書く力があったとしても書こうと思いつくような本ではなく、書こうとしても書き得ない書である。」(L・S・シェイファー)

「25年以上その生命を保つ本の率はきわめて低く、100年となると更に低くなり、1000年も寿命の続いた本といったら、きわめてわずかなものであることを考えるとき、聖書が他に比べることができない、独特の本であることに気がつく。」(ヘンリー・シーセン)

「聖書は神の霊感を受けた書であるが、人々に霊感(インスピレーション)を与える源でもある。社会面や倫理面でも、文学的創作においても、その影響力は比類なきものである。われわれはややもすると、聖書が芸術としても評価されるべきものだということを忘れてしまう。聖書の登場人物の生涯はドラマチックであり、その出来事は時代を越えたものであり、その勝利と敗北の物語は読む者を圧倒する。彼らの涙は読む者の心を動かし、その叫びは胸に突き刺さる。聖書中の詩は、いにしえの言葉でありながら永遠である。その詩は個々においても全体においても、時代と空間を超えて読む者の心に語りかける。」(エリ・ウィーゼル 小説家・ノーベル平和賞受賞者)

「聖書を弁護しようなどとは、ライオンを保護しようとするのと同じである。両者とも解き放ってやれば自らを弁護するのだ。」(チャールズ・ハッドン・スポルジョン)

「私は聖書が霊感(inspired)によるものだということを知っている。なぜなら、それは私を鼓舞(inspire)させるから。」(D・L・ムーディー)

「旧約聖書も新約聖書も、神が歴史の中で働いてきたことを告白している書物です。」(隅谷三喜男 経済学者、元東京大学名誉教授、元東京女子大学学長)

「聖書はすべて神のことばである。」(菅野猛 元東京大学工学部長)

「聖書は人間の言語で与えられた神のことばだ。」(マックス・ルケード)

「聖書は、私たちの教科書であり、唯一の根拠である。聖書はさらに、私たちの唯一の権威でもある。聖書を離れては、神についても、キリスト者の生活についても、ほんとうの意味で何も知ることができない。」(D・M・ロイドジョンズ)

「この偉大なる古い書物は、今も変わらない。この古い地球、その1ページ1ページがめくられ、考察されればされるほど、この地球は、さらにこの聖なる書物を裏付けし、また例証するのである。」(チャールズ・ダナ、アメリカのニューヨーク・トリビューン、及びニューヨーク・サンの新聞編集者、1819-1897)

「聖書は、人によって書かれてはいるものの、人間の思考の産物ではないという証拠は無数にある。数えきれないおびただしい数の人々によって、聖書は常に、宇宙の創造主からの私たちに対する交信としてあがめられてきた。」(アンブローズ・フレミング イギリスの発明家、 1849-1948: 彼はイギリスにおける電燈、電話、及び無線電報の開発の煽動者であり、最初の電子管の発明者であった )

「最も博学で鋭く勤勉な研究者がどれだけ長生きしても、聖書の知識すべてを得ることはできません。鉱山は深く掘り下げるほどに、鉱石がますます豊かに、大量に見つかるのです。」(サー・ウォルター・スコット 1771–1832 スコットランドの詩人、小説家)

聖書って本当に神様のことばなんですか?

第二条 「聖書のもたらす力と働きを知るべし!」

“聖書の働き” 「聖書はすべて、神の霊感によるもの(神のことば)で、教え(正しい事を示す)と戒め(間違い[罪]を示す)と矯正(どうのようにして正しくなるか)と義の訓練(どのようにして正しくあり続けるか)とのために有益です」(Ⅱテモテ3:16)。

★聖書の効力を実体験するための条件:「信じること」(テサロニケ2:13 ヘブル4:2)。

聖書の具体的効力)

✜ “人を救う” ➔ ヨハネ20:31 テモテ3:15ヤコブ1:21

✜ “人を生かす” ➔ マタイ4:4 詩篇119:50

✜ “人をいやす” ➔ 詩篇107:20

✜ “霊的に成長させる” ➔ 使徒20:32 ペテロ2:1~2

✜ “信仰を与える” ➔ ローマ10:17

✜ “聖める” ➔ エペソ5:26ヨハネ15:3 ヨハネ17:17

✜ “唯一の武器となる” ➔ エペソ6:16~17

✜ “喜び・楽しみとなる” ➔ エレミヤ15:16

✜ “忍耐、励まし、希望を与える” ➔ ローマ15:4

✜ “善悪を識別する” ➔ ヘブル5:11~14

✜ “罪を犯さないようにさせる” ➔ 詩篇119:9〜11

その他参照箇所) 詩篇19:7~11 詩篇119篇(“みことばの賛歌”)。

「男たちは酒と女たちで身をあやまる恐れがある。ならば酒を禁止し、女を殺せというのか。太陽と星がわれわれを惑わすとすれば、それを空からもぎ取らねばならないのか。そういう性急さや暴力は神に対する信頼の欠如を暴露している。私は祈り、説教をすることしかしなかった。だが、神が私によってどれだけ多くのことを成就したもうたかを考えてみよ。御言葉がそれをすべてなしたのである。」(マルティン・ルター)

「私は聖書を読むことによって多くの益を得ている。理解力により、この書からできる限りを受け入れ、残りを信仰によって受け取るなら、あなたはより良い人間として生き、また死ぬであろう。これは神が人間に与えられた最高の書物である。」(エイブラハム・リンカーン)

「私が毎日、もっとも愛読する書物、それは聖書です。私の辞書に”悲惨”という文字はありません。 聖書はダイナミックなカであり、変わることのない理想を示すものです。」(ヘレン・ケラー)

「事典は私の知識を増すかもしれない。しかし生きる力も、神を求める謙遜さも、人々を心から愛する力も、罪を潔める力もない。 聖書のみがあらゆる人生の惑いに答えてくれた。人生は孤島に似ている。私にとって聖書は、孤島における只一冊の本である。」 (三浦綾子)

「聖書は不思議な本で、たとえ私たちが読み通さなくても、私たち人間を根本から作り変える力がある。生きる力を与え、望みを与える本なのである。」 (三浦綾子)

「聖書は単なる書物ではない。それはそれに反対するすべてのものを征服する力を持つ、 生き物である。‥‥アレキサンダー、シーザー、シャルル・マーニュ、そして私自身も帝国を築いてきたが、これらのわれわれの奇才による創造物は、一体何の上に依存しているのか?−−武力の上にである! イエスだけが、その帝国を愛の上に築かれた。そして今日に至るまで、イエスのためなら、喜んで死ぬ者が何百万人といる。」(ナポレオン・ボナパルト)

「東洋で生まれ、東洋の形と象徴とを身に帯びて、聖書は全世界の道を物なれた足取りで歩き、国から国へと渡り行き、どこにおいても自分の国を見いだす。それはこれまで幾百カ国のことばをもって人々の心に語りかけてきた。子供たちはそれに書かれた物語に、驚きと喜びとをもって耳を傾け、賢者たちはそれらを人生のたとえとして熟考する。邪悪な者、高慢な者はその警告に恐れおののく。しかし傷ついた者、悔い改める者にとっては、それは母の声である。それはわれわれの最も尊い夢を織りなし、愛、友情、同情、献身、思い出、希望などは、その貴重なことばの美しい衣を着ている。この宝を自分のものとして持っている者は、決して貧しくも、孤独でもない。あたりが暗くなり、震えおののく巡礼が死の陰の谷に近づく時、彼はそれに入ることを恐れない。彼は聖書のつえを手に持ち、友達や同胞に言う、『さようなら、また会いましょう』。そしてそのつえに支えられ、闇を抜けて光に至る人として、そのさびしい道に向かう。」(ヘンリー・ヴァン・ダイク)

「私の思想や文体に推賞されるべきことがあるとすれば、その功績は、早くから聖書を愛することを私に教えてくれた両親にある。もしわれわれが、聖書の教える原理を保持するなら、わが国は栄えに栄えるであろう。しかしもしもわれわれとわれわれの子孫が、聖書の教訓と権威を無視するなら、最終的破滅が如何に突然われらを圧倒し、われらの光栄を深い闇の中に葬り去るかを誰も知ることができない。」(ダニエル・ウェブスター)

「一日は貴い一生である、これを空費してはならない。そして有効的にこれを使用する道は、神の言を聴いてこれを始むるにある。」(内村鑑三)

「神と聖書なしに、この世を正しく統治することは不可能である。」(ワシントン)

「聖書を読むこと、そのことが教育である。」(アルフレッド・テニスン 英国の世界的著名な詩人)

「この豊かな書物の内には、あらゆる奥義の内の奥義がある。彼らの神から読むための、恐れるための、望むための、祈るための、 かけ金を外し、道を押し進むための、恵みを与えられてきたこの世の人は幸いである。しかし疑いをもって読み、あるいはあざけるために読む者は、生まれなかった方がその人のためである。」(ウォルター・スコット スコットランドの小説家、詩人)

「聖書は私たちに、最も善良な生活の仕方と、最も高尚な苦労の仕方と、最も安全な最後の遂げ方を教えてくれる。」(フレーベル)

「学問とは真理を探求することである。真理探求は真理に基づく聖書を学ぶことである。」(矢内原忠雄)

「神の御言葉を読む人や、御言葉について論理的な説明や討論を聞く人はだれでも、すぐに毎日成長し始め、ついには完全な人になります。それが神の御言葉の特徴です。」(ウィリアム・ティンデル)

「この本(聖書)はあなたを罪から遠ざけ、罪はこの本からあなたを遠ざける。」(D・L・ムーディー)

「聖書を読んでいる人々を精神的に、あるいは社会的に奴隷にすることは不可能である。聖書の原理は、人類の自由の土台である。」(ホーラス・グリーリー、顕著なアメリカの新聞編集者、及び出版者 1811-1872)

「禁じられ、焼かれ、愛された聖書は、歴史上のどの書物よりも広く読まれ、最も頻繁に攻撃されている。知識人たちは何世代にも渡って聖書の信用を落とそうと試み、諸時代の独裁者たちは聖書を違法とし、それを読む者を処刑して来た。それでも、聖書は武器よりも力強いと信じる兵士たちが、聖書を持って戦場に行く。独房にこっそり持ち込まれた聖書の切れ端が、冷酷な殺人者たちを心優しい聖人に変えてきた。」(チャールズ・コルソン 1931–2012 ニクソン米元大統領の特別補佐官。ニクソン政権で初めてウォーターゲート事件関連で有罪になって投獄され、連邦刑務所に7ヶ月間服役中に回心)

第三条 「聖霊の助けを仰いでとにもかくにも祈るべし!」

「聖書研究のための祈り」(詩篇119:18)。

「聖霊の照明が絶対不可欠」(コリント2:10~14)。

「聖霊が究極の聖書教師」(ヨハネ16:13 ヨハネ2:27 エペソ4:11)。

聖書の全的堕落の教理から、ノンクリスチャンに聖書を解釈する能力はなく、聖書は新生した者が、聖霊の解明によらなければ理解することができない、とされる。

「すべての知恵と知識の源にています主よ、あなたはみ心のままにわたくしに、生涯を通じて潔く正直に自らを保ちうるように、若き日に教えを受けるみちをお与えになりましたゆえに、どうか生来理解力の乏しいわが知恵を照らし、授けられる教えを理解しうるに至らせてください。願わくは、わが記憶を確かにして、教えをよく覚えさせ、またあなたがわたくしにお与えになる機会を、不熱心のゆえに失うことなきようわが心を導き、心からふさわしき希望をもって教えを受け容れるものとならせてください。」(カルヴァン著『ジュネーヴ信仰問答』より)

「私たちには、聖書を読む前に祈ることと、祈り深い態度で聖書を読むことの両方が必要である。また、光を与えられるために、聖書自体の中にある祈りのいくつかを用いるのが役に立つことに気がついている信仰者は少なくない。」(ジョン・ストット)

「われわれは単なる理性で聖書を批判したり、判断すべきではない。熱心に、祈りをこめて聖書を深く思いその意味を求めるべきである」(マルティン・ルター)。

「聖書のみことばを祈りとともに読む新しい方法を通して、あなたは花の中に深く入り込む蜂のようになるでしょう。神様の啓示が示されてある甘い香りとともに花の中に深く隠れてある蜂蜜を得るようになるでしょう」(J・ギオン)。

「みことばもよく読まず祈ることも少ないのは、霊の生活の死を意味する。みことばだけを知っていて祈らないのは、病的な生活である。みことばは知らないが祈りはよくするのは、健全な生活に近いが全く健全とは言えない。みことばもよく知り、よく祈る時、初めて健全な祈りの生活と言える」(アンドリュー・マーレー)。

「敬虔な聖書研究と祈りとをもって一日を始めることは、自己と罪とサタンとのその日の戦いのために人を整えることである」(J・R・モットー)。

「祈り以外にサタンの恐れるものはない。・・・キリストを見失った教会は、善行はさまざまに行なう。活動は盛んになるが、みことばを黙想することがない。組織は充実してくるが、祈りがない。魂は、悪しき道にsまようのはもちろん、善行の中で失われていくであろう。サタンの関心事は、聖徒を祈りから遠ざけることである。祈りを欠いた研究も、祈りのない善行も、祈らない宗教も、等しくサタンの恐れるところではない。サタンは我々の努力を笑い、知恵をあざける。しかし、我々が祈る時、サタンは震え上がる」(サムエル・チャドウィック)。

「聖書を否認して、神に直接入っていく何らかの道があると空想するものがいるが、これは誤謬にとらえられているというよりは、むしろ、狂気に駆られているとみなすべきである。すなわち、近年目のくらんだものどもがあらわれ、非常なうぬぼれをもって『自分たちは御霊を教師としている』ということを口実に、聖書を読むことを全く軽んじ・・・あえて見くだすまでに彼らを霊感によって尊大に思いあがらせるこの霊とは、どういう霊なのか、彼らに説明してもらいたい。・・・我々に約束された聖霊の働きは、新奇な、まだ聞いたこともない啓示を造り出したり、あるいは、我々をひとたび受けた福音の教理から遠ざけるための、新しい種類の教理を捏造したりすることではない」(ジャン・カルヴァン)。

「聖書の読みたいと思う個所を読んで、そこから喜びを受けなさい。しかし、御言葉を読んでも、もし、あなたがひたすら神の御霊だけに心を向けず、神と心を一つにして、完全にそのお方に拠り頼まないとしたら、依然としてあなたは貧しく、空虚で、何も変らないだろう」(ウィリアム・ロー)。

「私たちは、聖書を他の本のように読んだり、解釈することはできない。なぜなら、聖書は他の本とは全く異なった者だからである。・・・聖書が他の本の中にあるのは、あたかも人なるキリスト・イエスが人々の中におられるようなものである。イエスが1つの人格において神であられまた人であられたように、聖書は神のことばであるとともにまた人のことばである。それゆえ、私たちは、御霊によってのみみことばの真の意味を悟ることができるのである」(アドルフ・サフィア)。

「諸君は原典を調べ、註解書を読み、深く瞑想をするがよい。しかし、力一杯に神の霊に向かって叫ぶことを怠けるならば、諸君の勉強は何の役にも立たない」(スポルジョン)。

「我々は神聖な聖書によって導かれるなら、過ちを犯すことはない。なぜなら、聖書の中で語っておられる方は聖霊だからである。」(十字架のヨアンネス)

「神のことばも、しばしば人の理性によって解釈され、かえって大きな誤りに陥ることがあります。私たちは、神のことばである聖書がすべて聖霊によってしるされたものであることを忘れてはなりません。それゆえ、一つ一つのみことばはその同じ聖霊によって解釈されなければならないのです。この解釈は上からとか周囲からとか思想としてやって来るものではなく、内住の御霊によって与えられるものです。その内的生命が御霊に支配されている霊的な人だけが、みことばの霊的真意をわきまえることができます。みことばと聖霊とをともに豊かにうちに宿し、これに従うのが御霊に導かれる最も安全な道です。」(アンドリュー・マーレー)

「聖書を読むそのことだけで、聖霊は私たちの心を照らし、内に働いてくださることができる。みことばを読む時に、そのメッセージは、私たちが気付くかどうかにかかわりなく、心に浸み込んで来る。神秘的な力を備えたみことばは、私たちの人生に影響を及ぼし、その力を与えてくれる。・・・御霊は聖書を通して今日も人生を変え、震い立たせる力を持っておられる。」(ビリー・グラハム)

「聖書の注解書を読むと頭に多くの見解が貯えられる。それは私も経験している。しかし祈りと黙想を通して御霊に教えられると、ハートが感動する。前者の種類の知識は人を高慢にさせ、他の注解書が別の説を提示すると、最初の説は捨て去られてしまったり、実践には何の役にも立たないことが判明したりする。後者の種類の知識は人を謙遜にさせ、喜びを与え、さらに神に近づけさせ、たやすく論破されることがない。そして神から得られ、ハートの中に入り、私たち自身のものとなっているので、効果的なのである。」(ジョージ・ミュラー)

「聖書は精神の書でありますから、我が精神さへ聖書の精神に合へば之を学ぶのは至て易い事であります。」「聖書は神の言辞であります、即ち神の心を私共に伝ふる書であります、然しながら心は文学ではありません、心は文字に於て顕はるる者であります、即ち文字の中に含まれ居る者であります、私共は聖書の不完全なる文字の中に完全なる神の心を探るのであります、是れ即ち聖書研究の目的であります。」「神の聖書を研究するに当たってよるべきは人の説にあらずして、聖霊の光なり。考証、いかに核博をきわむるとも、研鑽 如何に深遠にわたるとも、もし天よりのこの光なかりせば、聖書はわれらにとりて一大迷語たるに過ぎず。聖書研究については博学恐るるに足らず、老練頼むにたらず、ただ、直接神にのみ教えられし者のみ真性の知識を有す。」(内村鑑三)

「神の知識に達するために、私たちは、神の御霊への依存と、私たち自身の研究とを結びつけるように指示されている。それで、神がこのように結び合わされたものを分離するようなことをしないようにしよう。」(チャールズ・シメオン)

「私は、ほかの本をみな、わきにやって、可能なかぎり、各行各語を祈りながら、ひざまずいて、聖書を読み始めた。これは私の魂にとって、まさしく肉となり、まさしく飲み物となった。私は日ごとに、上から新しいいのちと光と力を受けた。」(ジョージ・ホイットフィールド)

「祈りは諸君の内的な目を清めて、神の光の中で真理を見るようにする。聖書のテキストは、しばしば祈りの鍵をもってそれを開くまでは、その宝を開き示すことを拒否するであろう。」(チャールズ・スポルジョン)

「自分を全く主に明け渡して聖書を読み出す時は、聖霊を受けずに一生かけて読み続けるよりも多くの恵みを悟ることができる。」(ジョン・ブラウン)

「聖霊の助けなしに聖書を読むのは、まるでケーブル接続のない状態でテレビを見るようなものです。」(ライス・ブルークス)

「われらは聖霊あっての聖書であり、極論すれば聖書がなくとも聖霊さえあればよいと信じておるものであるけれども、すでにそのみことばをしるしたるところの聖書が与えられあるから、聖霊によりて聖書を悟り、聖書によりて聖霊の御思いを知るようにしておるのである。もし聖書の文句にばかりとらわれて、聖霊をあがむることをせなければ、儒教のいわゆる腐儒(ふじゅ)となるように、聖書が一種の儀文となるような恐れがある。『儀文は殺し、御霊は生かせばなり』(Ⅱコリント三・六)とあるのはこのことである。同じく聖句を引照するにしても、聖霊をあがめなければ、その聖句は人を生かすいのちのことばとならないのである。さればどこまでも聖霊をあがむることを第一にせねばならぬ。」(中田重治)

「聖書を学ぶことも幸いなことであり、また必要なことであるが、それ以上に聖霊をあがむるようにせねばならぬ。なぜならば、聖霊は聖霊であって、聖書の知識は聖霊の代わりになるものでないからである。あたかも熱心に伝道することが聖霊のバプテスマの代わりにならぬと同じである。いわんや壮厳なる儀式または社会奉仕においてをや。かかるものはけっして聖霊の代理をなしうるものでない。」(中田重治)

「神の霊はかつて聖書の著者たちに霊感を与えられたばかりでなく、真剣な祈りをもってそれを読む読者たちにも霊感を与え、超自然的な助けを与えられるのである。」(ジョン・ウェスレー)

第四条 「聖書はイエス・キリストを中心に読むべし! 」

自己中心的(自己実現のためなど)に、イエス・キリスト以外のテーマを求めて読もうとしても聖書は分からない。

聖書66巻全体のテーマはイエス・キリストである。難解な箇所にもイエスは発見でき、無味乾燥だと思っていた箇所もイエスを発見できる喜びに変えられる。

参照)ルカ24:2744 ヨハネ5:39~46

聖書を学ぶ目的・動機は、生けることば(ロゴス)であるイエスを知ること(ヨハネ17:3)。

バイブル・スタディーは単なる勉強会ではない。学ぶ前よりも、学んだ後、イエスのことをより深く個人的に知ることを目指す。学識を深めるのではなく、イエスとの人格的交わりを深めることを目的とする。

神に最も喜ばれること、つまり神を知ることが、クリスチャン人生の目的(ホセア6:6 エレミヤ9:23~24)。

「実際、聖書を 知らないことは、キリストを知らないことである。」(聖ヒエロニムス)

「聖書はそれ自身が目的なのではない。聖書は人々を満ち足りた神の知識へと導く手段である。それは、人々が神の臨在を楽しみ、彼らの心の中心において、神ご自身の内なる甘美さを味わい知るためである」(A・W・トウザー)

「聖書は、その中にキリストが横たわっている飼い葉桶である。・・・母親が赤ん坊を見出すだけの目的で揺りかごに行くように、私たちはキリストを見出すだけの目的で聖書を読むべきだ。」(ルター)

「預言者たちは星であり月である。しかしキリストは太陽である。キリストの預言に反対するものはすべて無である。キリストは天への梯子の最初の段でもあり、最後の段でもある。キリストを通して我々は前進を初めなければならず、キリストを通して生命へ到らなければならない。私は聖書の中にただ、十字架に付けられたキリストのみを理解する。」(ルター)

「もしあなたが適切に、安全に解釈しようとするなら、あなたとともにキリストを受けよ。なぜなら、キリストはすべてのものが関与しているお方であるから。」(ルター)

「われわれは、聖書を読む時、その中にキリストを見出そうという意図を持って読まなければならない。」(カルヴァン)

「聖書研究の目的はイエス・キリストを知らんがためである。研究のための研究でない。イエスを知らんがためである。彼を知るは生命である。 いかなる労苦をも惜しまず彼を知るべきである。そしてイエスを知るために聖書全部を知る必要がある。新約のみならず旧約をも知る必要がある。 ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセを知る必要がある。すべての士師とすべての預言者を知る必要がある。 大人物は一朝一夕にして知ることのできる者でない。一生涯の研究が必要である。それゆえに、早く聖書研究を始めよというのである。 小児を日曜学校に送り、イエス研究の準備として聖書研究を始めしめよというのである。人生をして意義あらしむるものはイエスを知ることである。 彼を知ると知らざるとの差は、生と死との差である。聖書を生命の書と称するは、神が人に賜いし生命の因(もと)たる、 そのひとり子イエスを紹介するからである。古書研究のための聖書研究ではない。人らしく今生きんためのこの研究である。 ゆえに、教うる者も学ぶ者も、燃ゆる熱心をもってこれに当たらねばならぬ。冷静なる聖書研究はあり得ない。 そは、「冷静なる生命」は蛇の生命であるが、人の生命ではないからである。」(内村鑑三)

「聖書は神を、霊と人格としてばかりでなく、聖なる・義なる方として提示しています。創世記から黙示録まで、全聖書を通じて、 神はご自身を聖なる神として啓示しています。神は、あらゆる点において、完全無欠な・絶対的なお方です。 ・・・われわれがキリストの死の理由を見出すのは、神の聖性においてなのです。神の聖性は、罪に対する最も厳正な刑罰を要求します。 そして神の愛は、人間の刑罰を償うためにイエス・キリストを備えられ、人間に救いの道を与えられたのです。」(ビリー・グラハム)

「イエス・キリストは聖書の中に隠れている宝物です。ですから、聖書はイエス・キリストを見つけるために読まなければなりません。」(ジョージ・ホイットフィールド)

「旧約聖書は一つの民族について記している。新約聖書はひとりの人について記している。その民族は、この世界にその人をきたらせるために、神が創始され、育成されたものである」(ヘンリー・ハーレイ)。

「新約聖書の中で、主の十字架に関しては375回、復活に関しては144回、再臨については318回しるされている。」(R・A・トーレー)

「主の再臨は旧約聖書に1527節、新約聖書に319節ある。」(ルネ・パーシュ)

「新約聖書で‘新生’は九回、悔い改めはほぼ70回書き出されている。バプテスマは20回ほど書かれている。しかし、キリストの再臨は何百回も書かれている。」(ビリー・グラハム)

「聖書はイエス・キリストの肖像画である。」(ジョン・ストット)

「創世記の始めから黙示録の終わりまで、聖書を一貫するものはキリストである。」(笹尾鉄三郎)

「真実の神の言葉は、聖書ではなく、キリストご自身である。教師による良いガイドに導かれ、正しい心で読まれる聖書は我々をキリストへと誘ってくれるのである。」(C・S・ルイス)

「真の神のことばは、キリストご自身であって聖書ではない。正しい霊で読み、良い教師らの指導によって読む聖書は、私たちをキリストのもとへ導くものとなる。私たちは聖書を百科事典から引くように聖句を武器として使用してはならない。」(C・S・ルイス)

第五条 「聖書の教えは聖書により吟味すべし!」

「聖書の教えは、鵜呑みにせず聖書により吟味せよ」(使徒17:11~12)。

「霊を見分けよ」(テサロニケ5:20,21 ヨハネ4:6)。

「みことばを正確に分析するために献身せよ」(テモテ2:15)。

「聖書に精通することは、大学教育にまさる価値がある」(セオドア・ルーズベルト)。

「 私は聖書の学びに夢中になって没頭している。私はそれが神のことばであると信じている。なぜならそれは私がどこにいるのかを探し出すからだ」 (エイブラハム・リンカーン)。

「最良の教師は、自分の意味を聖書に持ち込む人ではなく、聖書から意味を引き出してくる人である」(ルター)。

「聖書を開き、みことばを読み、その章全体を読み通す。それなのに、目の前のページに書いてあることとは全く異なった結論を引き出している場合さえある。このような危険に陥るのは、私たちに自分の意見をもって聖書に近づく傾向があるからである。自分の意見をもって聖書に近づくために、読むことがみなそれに支配されてしまう。しばしばこういう経験をすることがある。自分の思ったことは、なんでも聖書から証明できるとも言える。このようにして異端が起こってきた。・・・異端者は、必ずしも不誠実な人ではなかった。彼らは誤りをした人なのである。彼らは、故意に誤りの道に行き、誤りを教え、説く人であるかのように考えてはならない。彼らは教会の歴史において、まじめな人物と数えられる人である。問題はどこにあるのだろうか。それは次のような点である。つまり彼らは、ある見解を展開させた。もちろん、彼らはそれが気に入っていた。そこで彼らは、この見解をもって聖書に立ち返った。そして、彼らは聖書の至る所で、自分を同じ考えを発見するように思ったのである。・・・自分の見方や先入観をもって、あるいは自分の気に入った考えをもって聖書を読むことほど、危険なことはない。」(マーティン・ロイドジョンズ)

「求道の初めに、私は自分は愚か者だと自分に言って聞かせた。全くそのとおりなのだ。私が確実に知っている一つのこと、それは、私が自分の宗教について何も知らないということだ。だから私がすわって聖書を調べるのは、聖霊に導かれて書いた著者たちに何かの意味を押しつけるためではない。著者たちがそれを私に示すままに、それを受け入れるためなのだ。私が彼らを教えようなどとは思わない。私は子どものように彼らから教えを受けたいと思う。」(チャールズ・シメオン)

「著者がこう言うべきであるとわれわれが考えることを著者に押しつけるのでなく、 著者が言っていることを著者に言わせるのが、解釈者の第一の仕事である」(カルヴァン)。

「あなたは、あなたの前に聖書解釈の分野で労してきた神学者や学識のある人々の業績の助けを借りなくても、聖書を解明することができると考えたり、言ったりするほど知者ではない。・・・聖霊が自分自身に示されることについて多く語る人々が、聖霊が他の人々に示されたことをほとんど考えてなくてもよい、というのでは片手落ちのように思われる」(チャールズ・ハッドン・スポルジョン)。

「私は、聖書からそこにあるものを明らかにするように努め、そこにあるかもしれないと自分が思うものを、押しつけないようにしています。私はこのことに責任を感じて、きびしく気を配っています。解き明かしている個所で、御霊の心と私が信じるよりも多くも少なくも語るまいと努めています。」(チャールズ・シメオン)

「他の助けを借りなくても、十分聖書を理解できると主張する信仰深い人がいる。『私は人間の書物を読んだり、人間が書いた注解書を参照したりしない。聖書が自ら述べていることを知るために、私は直ちに聖書のもとに行く』と。この言葉は非常に霊的に聞こえ、聴衆の『アーメン』を得る。しかし、これは賢明な道か。教会の神学を無視する権利を有する人がいるとは思えない。第一に、単なる人間の書物を無視し、聖書そのものに直行するという主張は、信仰深く聞こえるが、その実、とんだ『高慢が隠されている』。それは、カルヴァン、ベンゲル、アルフォード、ランゲ、エリコット、モールのような人々のたゆまない敬虔な聖別された学識を無視して、だれでも聖書を適切に理解しうるという、ずるい主張だ。第二に、この主張は、聖霊の霊感と聖霊の照明を混同している。聖霊の作用は、『新しい』真理の伝達でも、『未知の事柄』の教授でもなく、聖書の啓示の照明だ。神学研究不要論に、イザヤ書のツロ、シドン、キティム、シホル、モアブ、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ、カルノ、カルケミシュ、ハマテ、アヤテ、ミグロン、ミクマス、ゲバ、アナトテ、ライシュ、ノブ、ガリムという言葉の意味が、ただ熱心に祈るだけでわかるのか尋ねたい。これらの言葉に当てうる唯一の光は、注解書あるいは聖書辞典だ」(バーナード・ラム)。

「聖書を翻訳で読むのは、愛する恋人にハンカチーフの上からキスするようなもの。」(イスラエル建国の父、初代首相 ベン・グリオン)

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません」(ヤコブ1:21~22)。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます」(マタイ7:24)。

「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます」( ピリピ4:9)。

「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」( ヨハネ13:17)。

「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである」( エズラ7:10)。

「聖書には多くの翻訳がある。しかし、この世で最も素晴らしい聖書翻訳があるとしたら、それは自分の生活を通して聖書の御言葉を実践することである。」(R・A・トーレー)

「私がこの幸いで有益な奉仕を続けることができたのは、聖書を愛していたからである。私は年に4回通読し、祈りに満ちた霊をもって、みことばを心に適用し、また実行することを習慣としていた。私は69年間、幸せな人間であり続けた。」(ジョージ・ミュラー)

「霊的生活の力強さは、私たちの生活と思想において、聖書がどのような位置を占めているかということに比例する。」(ジョージ・ミュラー)

「汝が聖書全部を、またすべての哲学者のことばをそらんじたとしても、神の愛と恵みとがなければ、汝にどんな利益があるというのか。」(トマス・ア・ケンピス)

「聖書は、読めば読むほどすばらしくなる。聖書は、理解が進んで、この自分と関わりがあるとわかるにつれ、美しくなる。」(ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ)

「聖書は私たちの知識を増やすためのものではなく、私たちの生涯を変えるものである。」(ドワイト・L・ムーディー)

「聖書研究に一番役立つことは、学ぶ事ではなく生きる事です。」(ウォーレン・W・ワースビー)

「神は、聖書を読む者がみことばに対して示す反応に関心を持っておられる。また、私たちがどのくらい敏感に、また喜んで聞き従うかが、私たちの理解の程度の大きな決め手となる。」(ジョン・ストット)

「聖書研究とは、まだ自分が実践していない神の真理がないかどうかを探ることである。」(中川健一)

「困惑しているのは、聖書の理解できない箇所じゃないんだ。実は理解できる箇所なんだ。」(マーク・トウェイン)

「聖書が聖書自体の解釈者である。」(ルター)

第六条 「聖書の学び方を学ぶべし!」

“国語的読み方”=基礎的読解力を身につける。

参考)「5W1H」の原則。だれが(WHO)、いつ(WHEN)、どこで(WHERE)、何を(WHAT)、誰に(WHOM)、どうやって(HOW)語られたのか?

“帰納的聖書研究法”:「帰納法」=個々の具体的な事実、いくつかの事例の共通点を探して、広く一般に通ずる結論を導き出すこと。

「観察」→「解釈」→「適用」の順で学ぶ。

【観 察】: 先入観、思い込みに囚われずに純粋に読む。先入観(過去に見聞きした誰かのメッセージや本の解釈)は誤解を生む可能性がある。

✤ テキストを繰り返し精読する。別訳(英訳等も含め)と比較し、照合する。

✤ 章・節にとらわれない。章の切れ目が縁の切れ目ではない。巻物として読む。

✤ 並行箇所や引照箇所(コンコーダンス利用)とも比較し、視点を広げる。

✤ 頻度の高い言葉、特殊な表現(特有の用語、文体)を検出することで、各書のキーワード・テーマを特定。

✤ アウトラインを作成して、まとめる(注解書やハンドブック等を参考)。

【解 釈】: 観察に基づいて解釈。観察をしっかりやらないといい加減な解釈となる。

✤ 基本的に文字通り読むことで、私的解釈は避けられる。

✤ 霊的・象徴的・比喩的解釈は、聖書が明示していない限り(例:「たとえで話された」「○○のよう」等)、極力避ける。

✤ 文脈に沿って解釈。前後の流れを把握して文脈を無視しない。

✤ 「聖書は聖書によって解釈する」「聖書は聖書自身の解釈者である」が鉄則。旧約は新約で、新約は旧約によって理解。

✤ 時代背景、地理、文化、慣習、執筆者、執筆事情を把握すること(ヘンリー・H・ハーレイ著『新聖書ハンドブック』がおすすめ)。

✤ 可能なら原語や文法を確認する(原語辞書レキシコン活用)。

✤ 聖書66巻全体を踏まえてバランスを考慮(使徒20:27)。

✤ 注解や講解説教等も参考にして、自分の解釈が極端でないかを確認。

✤ 自分の考えや都合に合わせた無理な帳尻合わせは禁物。

✤ みことばを乱用して、自分の考えを正当化し、教理化しない。

✤ 分からない箇所は分からないままでも良い。聖書が触れないことには深入り無用。

☢ 警 告!!! 聖書は「曲解してはならない!」。

参照) 申命記4:2 箴言30:5~6 ペテロ3:16 黙示録22:18~20

【適 用】:最重要!!! バランスのとれた健全な解釈がバランスのとれた健全な信仰生活へと導く。

✤ 実践的適用:「~すべき」・「~しなければならない」。

✤ 神のことばが自らのうちに受肉することを求める。

✤ 個人の信仰生活・奉仕(ミニストリー)に対する適用。

✤ 教会・クリスチャン全般に対する適用。

〈聖書の誤りと思われ易い箇所を理解するための原則〉(ジョシュ・マクドウェル)

1. 説明の仕方がわからないというのは、必ずしも説明不可能ということではない。

2. 解釈に誤りがあったとしても、啓示が間違っていたということにはならない。

3. 各聖書箇所の文脈を理解せよ。

4. 難解な箇所は平易な箇所を基に解釈せよ。

5. 不明瞭な箇所を基にして教理を打ち立ててはならない。

6. 聖書は人間が書いた、人間の特色を持った書である。

7. 記述が不完全だとしても誤りだとは限らない。

8. 新約聖書による旧約聖書の引用は必ずしも精確でなくともよい。

9. 聖書は、記録されていることをすべて是認・推奨しているわけではない。

10.聖書は専門用語ではなく日常語を用いている。

11.聖書は精確な数を用いることもあれば、概数を用いることもある。

12.聖書は様々な修辞的技巧を用いている。

13.写本に誤りがあっても、それは原本に誤りがあるということではない。

14.総論的なことばは必ずしも普遍的な約束ではない。

15.後に与えられた啓示は、先に与えられた啓示に勝る。

「帰納的聖書研究法」について詳しくは以下のサイトを参照

Japanese Inductive Bible Study(日本語)

「聖書は旧約・新約を、一度通読しただけで、大きな読書力が養われ、たいていの本を読めるようになる」(賀川豊彦)。

「私は、男性にとっても女性にとっても、大学教育は望ましいものであると思っています。しかし・・・大学教育を受けなくても、聖書の知識を持っている人は、大学教育を受けても、聖書の知識が何もない人よりはるかにまさっていると思います。聖書の十分な知識を有する人が、真に教育のある人と呼ばれるのにふさわしいのです。 どんなにほかのことを勉強しても、どんなに多くのことを学んでも、それらを聖書の知識に置き換えることはできません」(ウィリアム・ライアン・フェルプス 1865-1943年 20世紀米国の大学教育の専門家、文芸評論家)。

「聖書が人間の思想や知恵、哲学、文学、芸術、理想に与えた影響は、他の本すべてが与えた影響を上回る。……聖書抜きの大学教育より、大学教育抜きの聖書の知識のほうが価値がある、と思う。」(ウィリアム・ライアン・フェルプス 米国の教育者)

「聖書の深い知識を持っている人はすべて、ほんとうに教育のある人と言えよう。他の学問や教養がどれほど広範なもの、洗練されたものであろうと、どれも……ふさわしい代用にはなり得ない。」(ウィリアム・ライアン・フェルプス 米国の教育者)

「旧約聖書の中に新約聖書は、隠されている。新約聖書の中に旧約聖書は開かれている」(アウグスティヌス)。

第七条 「聖書を学ぶ者は、イエスのようになるべし!」

イエスを個人的なレベルで知れば知るほど、イエスの似姿に近づく。イエスと時間を共に過ごせば、過ごすほど、だんだんイエスに似てくる。

「学ぶ」の古語は「まねぶ」と言い、「まねる」の意。イエスを学ぶということは、彼を真似ることに他ならない。 キリストの花嫁である教会は花婿イエスと似た者夫婦となることを目指す。

「光、暖かさ、健康、力はすでにもう存在しているのだから、スイッチを入れさえすればよいのだ。

電線そのものは別に何でもない。絶縁された二、三本の銅線にすぎないのだ。

しかし、その線の中をプラスとマイナス二つの電流が流れると、すべてが変わってくる。

暗黒は失せ、冷気はなくなり、仕事もたやすくできるようになる。

聖書は単なる本にすぎないが、神の御霊によって霊感されている聖書の各ページを、

神の義と愛とが、プラス・マイナス二つの電流のように流れ、キリストの十字架で合流している。

聖書だけが、私たちに救い主を示してくれる。

そのことによって聖書は、私たちの全生涯を造り変えることができる力の泉となるのだ。

あなたは誘惑にあい、疑惑と敗北と弱さに満ちたご自分の生活に倦み疲れてはいないか。

また、不安や心配にあきあきしてはいないか。スイッチを入れなさい。聖書を読みなさい」(トーマス・エジソン)。

「聖書は戸外で読むのが最善で、その内容を最もよく理解することができます。人里離れた場所であればあるほどいいのです。少なくとも私にとってはそうでした。壁に囲まれた屋内で読むと、非現実的で信じ難いように思われる言葉も、屋外ではごく自然に聞こえます。それは私たちが戸外で、あらゆる驚異に遭遇するからです。そこでは奇跡的な事象が非凡な存在ではなく、ごく日常的なものであるとわかります。それは私たちの日ごとの糧なのです。野のゆりや空の鳥について考え、またそれらが、冷たく空虚な宇宙の中の、この暖かい世界に存在していることがどれだけありえないことであるかを考えたことのある人なら、水がワインに変わったからといって、それほど大騒ぎしないことでしょう。それは結局のところ、ごくちっぽけな奇跡にすぎません。私たちは水が(土と日光の助けを借りて)ブドウに変わるという、今なお続いているもっと大きな奇跡のことを忘れているのです。」(ウェンデル・ベリー)

※ 聖書はすべて新改訳聖書を使用。

【ルター流聖書の読み方】

ルターはまず第一に、聖書は「祈り」をもって読むべきだ、と言う。詩篇の第119篇を引きながら、自分に「示してください」「教えてください」と祈りの心をもって読まなければ、聖書の真理は心に入ってこないと説く。第二に、聖書は黙想して繰り返し読むべきだ、と言う。これには少し説明が必要だろう。黙想というにもかかわらず、ルターは声を出して読み、ときには歌うことすら勧めている。五感のすべてを挙げて繰り返し取り組むことで初めて、聖書のことばは心に深く入ってくることを説いているのである。第三に、聖書は試練をもって、試練のただ中で読め、と言う。修道生活のように世俗の生活から離れて聖書を静かに瞑想するのではなく、試練の多い実生活のただ中で読むとき、聖書のことばは生きて心に働きかけるという。

『マルティン・ルター ことばに生きた改革者』(徳善義和著)より

聖書についての5つの真実(ジョン・ストット)

1. 聖書は現代にたいして意図されてかかれている(1コリント10:11): 「これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである」。パウロは言っている、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」(2テモテ3:16)。

2. 聖書は包括的な価値をもつ:詩編69:9のみならず、聖書全体が教育に利益をもたらす。

3. 聖書はキリストに焦点を合わせている:主イエスは、聖書全体が御自身について語っている、と言われた(ルカ24:27、ヨハネ5:39)。

4. 聖書の実際的目的:聖書の実際的な目的は何か? それは、我々に罪からの救いの希望を与え、救いに至るように、我々を賢明にし、励まし、神の栄光の希望を与え、永遠の命の希望を与え、体の贖いの希望を与えることである。新しい天と新しい地への希望をも与え、究極の幸福である、神と共に生きる希望を与える。

5. 聖書は神のメッセージである:ローマ15:5は、神自身が聖書を通じて我々に語っていると言っている。だから、真の福音の説教者は、政治、心理学、科学、哲学を語らない。真の福音の説教者は神の言葉を説く。これによってのみ、我々を正しく教え、霊的な体力を増強させ、憂うつな者をも励ますことができる。我々の生活に真の希望と救いを与えることができる、主であり大祭司であられる王として来られるイエスのみに信頼し、我々を天の国に引き上げるのは、神の言葉である。

【聖書の有益な読み方】(トマス・ワトソン)

聖書を読むことは、1つの礼拝行為である。聖書に対する姿勢は、そのままキリストに対する姿勢でもある。ある人を愛するなら、その人について書かれたものを読みたいと切望する。聖書を読むことがキリストへの礼拝行為であると考えるようになりさえすれば、それを軽々しく扱うことはなくなるだろう。

キリスト者であることは、光栄なことである。人間が持ちうる最も光栄な特権は、救い主であり導き手であるキリストと手を取り合って、人生を共に歩むことである。より実際に即した表現をするなら、キリストに手を引かれて、よちよち歩きをしていく、ということになる。つまずいてばかりだとしても、手を離すことは決してない。

私たち1人1人が持つ、キリストとの個人的な関係は、人生において最も親しい関係である。しかし、それについては、あまり語られることがない。神の御名で呼ばれるには、自分はあまりにもふさわしくないと思っているのだろうか。万物の造り主がなぜ、よりによってこの私に心を留められるのか、と。しかし心の深い部分で、真剣に問うなら、私たちにはわかっている。私たちは弱く、この世的な性質を持ち、軽薄で自己中心的で、罪深い存在である。だから、この世界の何よりもキリストが必要なのである。神は私たちの父である。私たちは、より正気な状態では、意図的に神を怒らせたり、傷つけたりしてはいけないことを知っている。私たちを愛してくださる神を、私たちが愛している神を、どうして意図的に傷つけることができようか。私たちには思慮が足りないのである。

聖書は、キリストと、私たちに対するキリストの無限の愛について書かれた書物である。キリストを愛していながら、キリストのことばについて全く無関心ということがありうるだろうか。そんなことは、ありえない。1人1人、毎日、選び取らなければならない。この世ではなく、神に仕えることを。聖書は、それをどのようなすればよいのか、教えてくれる。

ヘンリー・H・ハーレイ

【聖書を学ぶ5つの理由】(山室軍平)

1.神様とイエス様を知るため。

2.イエス様を信じて救われ、新しいいのちに入るため。

3.きよい生活に入るため。

4.神様の恵みの中に生活し、かつ成長するため。

5.神様の霊の力を得るため。

「性急なる者よ、静かに座してヨブと交われ!一徹なる者よ、モーセとペテロの記事を!柔弱なる者よ、エリヤを見よ!心に歌なき者よ、ダビデに聞け!政治家よ、ダニエル書を読め!失意と暗黒にある者よ、イザヤ書を読め!心の冷やかなる者よ、愛の使徒ヨハネに近づけ!信仰の薄き者よ、パウロに目を注げ!安逸をむさぼる者よ、ヤコブ書を忘れるな!将来に望みなき者よ、黙示録を読んでヴィジョンを!誰でも、また如何なる時でも、み言葉を聞け!」(リチャード・バクスター)

「詩篇は祈り方を教え、ヨブ記は苦しみ方を教え、雅歌は愛し方を教え、箴言は生き方を教え、伝道者の書は楽しみ方を教える。」(オズワルド・チェンバーズ)