22 MGFメンバーによる祈りのリクエスト(MGF Member's Prayer Request)

祈り中毒を目指して (ゲーム機のPlayStationを文字ってゲーム中毒ならぬ祈り中毒を狙う)

「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5:17)

「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:18)

「苦しんでいる人はいますか。その人は祈りなさい。」(ヤコブ5:13)

「私たちが祈っているのは、祈って何かを得るためよりも、祈りなさいという主の命令に従うためです。」(オズワルド・チェンバーズ)

「服を作るのが仕立て屋の仕事であり、靴を直すのが靴屋の仕事であるように、祈ることはクリスチャンの仕事です。」(マルティン・ルター)

「祈るために、仕事を中断する必要はないのです。仕事を祈りであるかのようにし続ければよいのです。」(マザー・テレサ)

「神はご自分の民が、祈り以外には望みがない、というところまで追い込まれるのを願っておられる。ここにこそ教会の、世に立ち向う力がある。」(アンドリュー・ボナー)

「祈祷は祈闘。クリスチャンはみな祈闘士。」(キリストバカ)

「大事なことは3つ。祈り、祈り、祈り、です。」(ビリー・グラハム)

「新生したクリスチャンがなすことのできる最も重要なことは祈ることです。」(チャック・スミス)

「主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」(イザヤ59:16)

「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった。」

(エゼキエル22:30)

「まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。

私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。

私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。」(2サムエル12:22−23)

「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(ルカ10:2)

「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」

(ルカ21:36)

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(1ペテロ4:7)

「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださること、これこそ神に対する私たちの確信です。」(1ヨハネ5:14)

「もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。」(詩篇66:18)

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ4:3)

「そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。

なぜなら、彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、わたしの忠告を好まず、わたしの叱責を、ことごとく侮ったからである。」(箴言1:28−30)

「耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。」(箴言28:9)

「悪者のいけにえは主に忌みきらわれる。正しい者の祈りは主に喜ばれる。」(箴言15:8)

「主は悪者から遠ざかり、正しい者の祈りを聞かれる。」(箴言15:29)

「あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。」(イザヤ1:15)

「祈りとは神のご意志に一致することのために、キリストの御名によって、

私たちの罪の告白と神のあわれみへの感謝に満ちたお礼を添えて、神に私たちの願いをささげることです。」

(ウェストミンスター信仰告白)

「祈りで他の人たちを愛することは、非常に美しいことです。本当に愛が無限になるからです。

困っている人の所へ、世界のどこであれ、旅をして、助けの手を差し伸べることができたら、

なんと素晴らしいことではないでしょうか。祈りによって私たちにもそのような働きができるのです。

地理的にも、文化的にも、物理的にも、霊的にも、実際には行くことが難しくても、

神様が行くことがおできになる所ならば、祈りも『行く』ことができるのです。

私たちのとりなしの祈りは、人々がいるその場で、その人々に『触れる』のです。

神様がその人々の所にいて、私たちの求めにしたがって、その人々に『触れて』くださるからです。」

(ディヴィッド・ブライアント)

「もっと軽い荷物にして欲しい、と祈ってはならない。もっと強い背中にして欲しい、と祈りなさい」

(セオドア・ルーズヴェルト(1858-1919年 第26代米国大統領)

◎以下の祈りの課題は、MGFメンバーから提出されたものである。不定期に更新(2017年7月20日現在)。

カズさんと有基子さんの健康が守られますように。参照)牧師も祈られることが必要です(OMFの『世界の祈り』より〈PDF〉)

カズさんが牧してくださる、私たち羊が成長し、羊飼いの負担が軽減されますように。

Kids Chapelを見てくださる有基子さんの負担も軽減されますように

賛美リーダーが与えられますように(賛美奉仕者が与えられました!さらに多く与えられるように)。

迫害されているクリスチャン信仰と安全が守られますように。

兄弟姉妹が愛し合えますように。

イスラエルを通してメシアが与えられ、私たち異邦人も救いに与る恵みをいただきました。周辺から攻撃されていますが、神さまのあわれみが注がれ、守られますように(詩篇83篇に預言されている中東戦争、エゼキエル38、39章に預言されているイスラエル対ロシア・アラブ連合国の戦争がいつ始まって不思議ではない状況になってきました)。

2016年より毎週日曜日午前礼拝を主体にすることができました。今は日曜夜の礼拝を不定期に行なっていますが、これも定期的にささげられますように。そのための奉仕者も整えられますように。

MGFの教会スケジュール・カレンダーもチェックして諸活動のためにもお祈りください。

MGFメンバーの肉の家族の救霊のために。

教会所在地である長野市の救霊のために。

祈りは、祈られない限り、答えられることはない。

日常生活の中で短い祈りを数多くするなら、緊急事態において長い祈りをする必要性が減少される。

間違いの修正のために祈るのはいいことだが、早めに祈るならそんなに多くの間違いを犯さないですむ。

短い祈りでも恵みの御座に届く−−もし、あまりにもそこから遠く離れて暮らしていないなら。

膝まずいているなら、つまずくことはない。

「人生における最大の悲劇は、祈りが答えられないことではなく、祈りがささげられない ことである。」(F・B・マイヤー)

主イエスから、世界に福音を伝えるという大事な仕事を任された人々は、

イエスのもとに来て一番大切なことを願い求めました。

彼らは「主よ、どのようにして説教すべきかを教えてください。」とも、

「主よ、どうすれば奇跡を行うことができるか、それを教えてください。」と求めるよりも、

「主よ、私たちに祈ることを教えてください。」と願ったのです。

ビリー・グラハム

エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。

おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」 詩篇122:6,7

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、

また王とすべての高い地位にある人々のために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

それは、私たちが敬虔に、また威厳をもって、平和で静かな一生を過ごすためです。

そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」(1テモテ2:1−3)

現内閣総理大臣:安倍晋三氏

現長野県知事:阿部守一氏

現長野市長:加藤久雄氏

「我が国のために」(賀川豊彦)

神よ、

我らの国全体をあなたのお守りのもとにおき給え。

我らの輝ける光なる神よ、

この国から罪を取り除き、悲しみの深淵から引き上げ給え。

すべての国々の主よ、

我らを嘆きと不幸から救い給え。

あなたの知恵によって我らを祝福し、貧しいものが抑圧されないように、

また富めるものが抑圧するものとならないように。

この国が、神以外の支配と、愛以外の権威をもつ国となりませぬように。

アーメン

神に祈ることが今日多くの人たちにとっては一つの問題となっています。ある人たちは、意味も知らずに、ただ習慣的に祈っています。またある人たちは静寂を守ることや超越的な瞑想と取り替えてしまっています。しかし大半の人々は、おそらく祈ることを全く止めています。

何が問題でしょうか。あまりにも明白です。人々は神についての自分たちの考えが混乱しているために、祈りについて疑っているのです。神が存在すること、人格を持った方であり、善であり、物事を支配しておられ、あなたや私のような平凡な人間を心にかけてくださる。このようなことがはっきりしていないのです。そこで、祈ることなどつまらないとは言わないまでも、全く意味のないことであり、したがって祈らない、という結論を出さずにはおられなくなるのです。

ところが神をクリスチャンが信じているように、イエスが神のかたちである――すなわち神はイエスのような方である――と信じるなら、そのような疑問はいだかないでしょう。またイエスが天の父に祈り、またはイエスの公生涯において弟子たちが彼と会話したと同じように、御父と御子に祈るのは私たちにとってごく自然なことであると認めるでしょう。 (J・I・パッカー)

「クリスチャンのまずなすべき仕事は、誰の場合であっても祈ることです。単純、明快です。

ところが、ただ祈るだけでは足りないのではないかと私たちは思ってしまいます。

神のために何か大切なことをしたい、神にとって大切な人間になりたい、と思うのです。何かを建設したい。人々を動員したい。

私の力を示したい。影響力を行使したい…。そういったことに比べると、祈りはいかにも小さいことに思われるのです。

殆ど目にもつかない、小さいことに思われてしまいます。

けれども、イエスはそう言われませんでした。イエスにとって、祈りは全てでした。特権であり、同時に義務でした。責任であり、しかも権利でした。

祈りを最後の手段と考える傾向が、私たちにはあります。しかしイエスはそれを『戦い』の第一線におくように望まれました。

他にどうすることも出来ない時に、私たちは祈ります。しかしイエスによれば、何をするよりも先に、まず祈るべきなのです。

大部分の人は、すぐに結果を見ることができるような何かをしたがります。

神にとって最もふさわしい時に、神が解決してくださるのを、私たちは待ちたくありません。

神にとって『ふさわしい時』というのが、私の考えるふさわしい時と、あまり合わないことが多いからです。そこで、私たちは神のお手伝いをしたがります。

時には自分の祈りに自分で答えようとさえします。たくさんの人の目に神がよく映るようにすることができれば、

もっと多くの人がクリスチャンになるのではないか、というようなことを考えます。

そこで、神は祈りに答えてくださるということを証明して、神が寛大であられることを、人々に納得させようとします。

神のイメージがもう少し立派なものになるように手助けすれば、もっとたくさんの人々を神の側に勝ち取ることができるのではないか。

そして、神はそのことを私たちに期待していらっしゃる。そうではないか。

いいえ、そうではありません。神が私たちに期待していらっしゃるのは、祈ることです。

いつでも祈り、そして全てについて祈るのです。喜びの時も、悲しみの時も、です。

神について語るのではなく、神に向かって語りかけることを求めておられます。

神のことを未信者に話すよりも、その前に彼らのことを神に語って欲しいと、神は思っておられます。

祈りは神が私たちに課しておられる日課ではありません。私たちのなすべき仕事なのです。なすべきただ一つの仕事です。

祈りは私たちの聖なるわざです。単純で明白です。」

(スコットランドの説教者・伝道者・神学校校長オズワルド・チェンバーズ 1874~1917)

祈りというものは、ふしぎなものだとつくづく思う。朝起きて一分祈る人、五分祈る人、一時間祈る人・・・と。

時間は別々だが、祈る時間の多い人ほど、更にその祈りの時間をふやしていく。一日も欠かすことがない。

反対に、祈る時間の少ない人は、毎日祈ることを次第にやめ、三日に一度、十日に一度というように間遠くなり、遂には祈ることをやめてしまう。

歴史上の信仰者たちの生活を見ても、大きな仕事をした人ほど、毎日長い時間をかけて祈っている。

こうした人たちは、例外なく多忙な人たちだ。ところが、祈りの少ない人ほど、ふしぎに暇があるのである。

「忙しくて祈れない」

という弁解は、どうやら成り立ちそうもないのである。

★【射禱(しゃとう)】

「どのように祈ったらいいか、わからない」とか、「祈りがむずかしい」とか言って、祈りを敬遠する人がいる。

が、祈りは必ずしも長くなくていいのだ。心が本当に、キリストの父なる神に向かっているならば、極く短い祈りでもいいのである。

射禱というのは、自分が今問題としている事柄を、幾日に幾度となく祈ることなのだ。

もし、自分の性格をもっとやさしくしたいと思っているならば、そのことを絶えず祈るものである。これが射禱である。

例えば、「神さま。どうか私をやさしい人間に変えてください。キリストの御名(みな)によって祈ります」

これを幾度となくくり返すのである。すると自分の心が導かれて、きつい言葉が出そうになった時も、今までとはちがった言葉で、人に対することができるようになる。

私たち人間には、いろいろと問題が多い。

また自分の心を自分でどうしようもない弱い者であるから、こうした短い祈りを絶えず捧げ、心を導いていただくことは必要なことである。

「どうか、人に悪意に持つことがありませんように」という射禱、

「常に感謝することを教えてください」という射禱、

「どうか、いらだちやすい心を、おだやかにさせてください」という射禱、

そうした射禱が、どれほど大きな結果をもたらすか、やってみれば必ずわかるものであると聞く。

三浦綾子

★「祈れるようになるまで祈り続けるように。」 (ピューリタンの格言)

聖書とは祈りの書である。記録されている667の祈りの内、答えが記録されているものの数は454ある。

〈祈りの名手による祈りに関する名言〉

●マルティン・ルター(1483~1546年。ドイツ)

「よく祈る者は、よく学ぶ者である。」

「祈りはとりなしによって活発され、懇願によって差し迫ったものとなり、感謝によって喜ばしい、神に受け入れられる祈りとなる。力強く、かつ受容的な態度で祈ることによって私たちは願うものを確かに受けるのである。」

「祈りをささげる者はすべて詩篇を用いるべきであり、それを暗誦するほどなじまなければならない。」

「いかなる場合にも、キリスト者が『主の祈り』を正しく祈るなら、その祈りは十分以上であると、私は確信する。」

「私が祈れないときはいつも歌います。」

「祈りは大いなる力を発揮する。なぜなら神は、自らをそこにしばりつけ、結びつけておられるからだ。」

「今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間を取らなければならない。 」

「もし私が毎朝2時間祈らなかったら、その日一日悪魔にやられてしまいます。私にはあまりに沢山の仕事があるので一日3時間は祈らなければどうしてもやっていけないのです。」

「静かに一人で神様と会話をしようとするなら、祈り始める前に五万種類の妨害するものが一気に駆け寄ってきます。サタンは様々な理由を総動員して、祈れないように四方から取り囲み、猛烈に妨害工作を展開します。一生懸命祈ろうと決意すればするほど、サタンは多様な雑念をもたらし、祈ることさえできないように食い下がってきます。」

●ジャン・カルヴァン(1509~1564年。フランス)

「正しい祈りの第一のルールは、我々の心と精神が、神との対話に入るものとしてふさわしく整えられることである。」

「神の子たちの主な務めは祈ることである。なぜなら、そうすることが彼らの信仰の真のあかしだからである。祈りは、その人の内になる信仰の不可避的な結露である。信仰が存在するところではどこでも、祈りは生き生きとその存在を表す。」

「信仰者は、神が知らないことを知ってもらおうとして祈るのではない。あるいは神に義務を果たしてもらおうとするのでもないし、渋る神を説得しようとしているのでもない。全く逆に信仰者が祈るのは、自分自身を励まして神を求めるようにするためであり、神の約束を思い巡らすことにより自分の信仰の実践とするためであり、自分の思い煩いを神の御胸のうちに注ぎ入れることによりそうした思い煩いから解放されるためである。要するに、祈ることにより信仰者は、自分にとっても他の人々にとっても、すべてのよきものを神からのみ希望し、期待することができると宣言しているのである。」

●「祈りの勇者」E.M.バウンズ(1835~1913年。米国)

「心臓が鼓動をやめても、祈りは神の前に生きている。」

「この世の中で主のために一番多くのことをした人は、朝早く膝をついた人である。」

「祈りの人でなければ主のために偉大なことをすることはできない。」

「祈ることで失敗することは、人生全体に失敗することを意味します。」

「祈りは死なない。祈った人が世を去った後にも、その祈りはあとに残って 活動を続ける。祈りによって私たちは、後世まで子孫に尽くすことができる。祈りは人 が後の代に残すことのできる最大の遺産である。」

「私たちが祈ることをやめるのは、霊的に生きることをやめるのと同じである。」

「弱い聖徒たちでさえも、御前にひざまずくときには、サタンがおそれおののく。」

「いま教会が必要としているのは、もっとよい機械・器具でも、新しい組織でも、あるいはもっと多くの新奇な方法でもなく、聖霊が用いたもうことのできる人、すなわち、祈りの人、祈りにおいて力のある人なのです。聖霊は、方法を通してではなく、ただ人を通してのみあふれ注がれるのです。聖霊は計画などではなく、ただ人―祈りの人の上にだけその力をお与えになるのです。」

「祈りは教会学校の一貫したカリキュラムになっているだろうか。日曜学校、家庭、あるいは大学で我々は、祈りの学校の卒業生を出しているだろうか。教会は祈りという大学から卒業証書をもらった人を生み出しているだろうか。祈り方を知らない者は、神を知らない。祈りによって知性を広くされ強められ、明瞭にされ、高揚されていないのは、神を学んだことがないからである」。

「神の事業の最も力ある成功は祈りによって造られ、かつ遂行される。」

「祈り深い人にとって神は最も現実的な力である。」

「神はいつでも祈りを聞かれるということは真実です。神は、ご自分の子どもの叫びにいつも注意を払っておられます。しかし、電話で話すときのように、ふたことみことで祈りを済ませるようにするなら、決して主を知ることはできません。主との交わりはより親密になっていくことが必要です。」

「短い祈りが効果的でかつ有効的なものになるためには長い祈りが先行します。長い時間をずっと祈りで神様と戦わなかった人は、短いが効果的な祈りはできません。」

「四つのことを常に心に刻んでください。主が祈りを聞いてくださること。主が祈りに注意を払ってくださること。主が祈りに答えてくださること。主が祈りを通して救ってくださることです。」

「私たちがこの世で神様のためにできる最大なことは、朝早く膝をかがめることです。朝が与える機会と新鮮さを祈りではないもので浪費する人は、その日の残りも神を追い求めることはほとんどないことでしょう。」

「神様の御言葉(聖書)は、祈りが育てられ、強くされるたましいの糧です。」

「神のみ言葉は、その滋養で“祈り”を養い育てる食べ物である。」

「私たちは、祈りなしでは何事もなしえない。全てのことは、“執拗な祈り”によって成し遂げられる。その祈りは、全ての障害を超え、あるいは脇に押しやり、抵抗するあらゆる力に打ち勝ち、克服しがたいような妨害を目の前にしながら、目的を達するのだ。」

●「説教のプリンス」チャールズ・スポルジョン(1834~1892年。英国)

「教会の状態は、祈り会を見れば実に正確に判断できる。すなわち、祈り会は恵みの尺度であり、それによって我々は、人々の前で働かれる神のみわざの偉大さを計り知ることができる。もし、神が教会に近くおられるなら、教会は祈るはずであり、近くおられぬなら、神不在のしるしとして、まず祈らなくなる」。

「個人的な祈りが、奉仕の上にもたらす素晴らしい祝福は、言い表すこともできず、比べるものもないほどものです。―それは、聖書より来る油を注がれることです。もし、私たちが受けている力が、万軍の主から来たものでないとしたら、私たちは偽る者です。なぜなら、その力はただ祈りによってのみ受けることができるのですから。私たちは差し迫った、絶え間ない、熱心な願いをなし続けようではありませんか。あなたがたの羊の毛を祈りの打ち場に置いて、それが天よりの露にしっとり濡れるまで、祈り続けようではありませんか(士6:37 ギデオンの故事に由来する言葉)。」

「他人のことはいざ知らず、私が自分について言うと、いやしくも自分が何かを知っていることがあるとすれば、祈りの息吹きは決して水泡に帰すことがないと私は自信をもって言うことができる。ここにいる者のうち、だれ一人としてそう言えなくても、私はあえて言う。そして、私はそれを証明できることを知っている。私自身の救いも、長年の、愛のこもった、熱心で粘り強い祈りの答えなのである。私のために両親が祈り、神はその祈りを聞かれた。そして、今、私はこうして福音を語って来ている。以来私は、自分の能力をはるかに超えたことに挑んできたが、1度も失敗したことがない。なぜなら、自分を主にゆだねるからである。」

「祈りたい気持ちの時には、祈るべきである。というのは、そのようなよい機会を無視するのは、罪深いことであるから。また、祈りたくない気持ちの時も、祈るべきである。というのは、そのような不健全な状態に留まるのは、危険なことであるから。」

「祈りは私たちに自分が無価値な者であることを教えてくれる。もし神が、私たちの祈りなしに恵みを与えたもうたとすれば、私たちは決して、自らの貧しさを知ることはないであろう。真の祈りは、自分に欠けているものの目録であり、自らが抱える必要を列挙したカタログであり、人目にはつかない隠れた貧困の暴露である。それは神の富を求めるものだが、また人間の空虚さを告白するものでもある。」

「いつも嘆願すべきことがあるようにしよう。嘆願こそ祈りの真髄なのだか ら。ふさわしく嘆願する人こそ神に聞き入れられる秘訣を知っている人である。」

「祈りはクリスチャンの息であり、慰めであり、力であり、誇りである。」

「悩みの時に、超自然的存在者に助けを求めることは、人間の本能である。私は、この本能の真実性を信じるし、祈りには何かがあるから人は祈ると言うことも信じる。創造者が被造物に渇きを与えるのは、その渇きを満たす水があるからであり、空腹をつくり出したのは、食欲に応じた食べ物があるからである。同様に、神が人に祈らせるのは、祈りに応じた祝福があるからなのである。」

「わたしたちに、一日の朝と生涯の朝とを神に捧げさせよ。祈りはその日を開く鍵である。」

「試練と誘惑のとき、私たちは神が見捨て給わないように祈ります。しかし、私たちは、いつでもこのように祈る必要があることを忘れがちです。」

「私たちに祈らせようとするすべてが祝福です。」

「祈りはその日の生活を開ける鍵であり、その日を閉じる錠である。」

「長々と祈る信仰者もいるが、まことの祈りは長さではなく、重さで計られる。神の御前での一言のうめきが、長く滔々と唱える祈祷よりも、祈りの豊かさを備えていることもある。」

「祈りの答えが遅れる時、また、明らかに私たちの願いが否定されたような現実に遭遇する時、それは信仰の試練となります。しかし、お約束された方に、神への固い信頼を通して、栄光を現していただくチャンスとなるのです。」

「神との和らぎをもたない人は三重四重の毛布に包まれても安眠ができず、酒や睡眠薬を必要とする。しかし、神は祈りを知らない貴族より信頼を知る平民に安眠を与えておられる。」

「神の御前でしらけた祈りをする人々が、平安を見いださないのは 当然です。祈りを、願いという炉に入れて激しく熱するなら、燃えて天まで立ちのぼるでしょう。『神よ、私のような罪人をあわれんでください』と、通り一遍の形式で冷淡に言うだけの人々は、決してあわれみを見いだすことがありません。嘆願を聞き入れられる人とは、『神よ、この私のような罪人をあわれんでください。この私を救ってくださらないなら、私は滅びてしまいます!』と激しい苦悶を心におぼえつつ叫ぶ人です。天国の門にいたる道にたどり着く人とは、祈る言葉のひとつひとつに、たましいを凝縮させ、みずからの激しさを投影させる人です。求める信仰によって、このような人になれるのです。 」

「口に言い表すことのできないうめきの祈禱は、しばしば神が拒むことのできない祈りである。」

「祈りが過剰になることはあり得ない。」

●「米国を代表するリバイバリスト」ジョナサン・エドワーズ(1703~1753年。米国)

「もし、自分の牧師のことに不満ばかり言い続けているクリスチャンが、人前でそんなことを言うのをやめて、神の前でその牧師のために全力を尽くして祈ってさえいたなら―へりくだった熱心な絶え間ない祈りによって、いわば天の御国を激しく攻めたててさえしていたら―その牧師たちはもっともっと成功していたことでしょうに。」

●「世界的神学者」R・A・トーレー(1856~1928年。米国)

「今日に必要なのは、祈ること。もっともっと祈ることである。それほど多くの説教がなされていないのに、リバイバルが起きたことはある。しかし、力強い祈り抜きで、力強いリバイバルが起きたためしはない。」

「『アーメン。主イエスよ、来てください。』この祈りはクリスチャンの希望の頂点に立っている祈りであり、聖書の最後の祈りです。聖書全体の啓示はこの祈りへ導きます。兄弟たち。私たちは王の王であられるキリストの再臨のために祈らなければなりません。 」

●「偉大なメソジストの指導者」サムエル・チャドウィック(1860~1912年。英国)

「祈り以外にサタンの恐れるものはない。・・・キリストを見失った教会は、善行はさまざまに行なう。活動は盛んになるが、みことばを黙想することがない。組織は充実してくるが、祈りがない。魂は、悪しき道にさまようのはもちろん、善行の中でも失われていくであろう。サタンの関心事は、聖徒を祈りから遠ざけることである。祈りを欠いた研究も、祈りのない善行も、祈らない宗教も、等しくサタンの恐れるところではない。サタンは我々の努力を笑い、知恵をあざける。しかし、我々が祈る時、サタンは震え上がる。」

「驚くべきことは、神様が私たちの祈りを聞いてくださることではなく、神様が私たちの父であることです。より大きな驚きがより小さな驚きも含みます。」

「あせりは祈りの死。」

「祈りの最大の答えは、言うまでもなく、さらなる祈りである。」

●「牧師・伝道者・著述家アンドリュー・マーレー」(1828~1917年。南アフリカ共和国)

「祈らない罪はすべての悪の最も深い根。」

「祈れば祈るほど、私はみことばの必要性を感じる。神のみことばを読めば読むほど、もっと私は祈らなければならないと思う。そうすれば、祈りに力が増し加わってくる。」

「継続的な祈りの量が、教会で働く御霊の量となる。」

「祈りとは神を待ち望むことです。」

「とりなしの業は、キリスト者がすることのできる最大の働きです。あなた自身を、人々のために神にささげなさい。そうすれば、この仕事があなたの栄光となり、喜びとなるでしょう。‥‥聖書は多くの問題のために祈りなさいと言っています。すなわち、すべての聖徒、すべての未信者、王たちと上に立つすべての人々、困難の中にあるすべての人々のために、また働き人がつかわされるため、福音のために労する人々のため、すべての回心者のため、罪に陥った信者のため、私たちが直接交わる友人同志のために。‥‥愛されているキリスト者よ!来て、あなたの全心と全生命とを、とりなしにささげなさい。そうすればあなたはその祝福と力とを知ることができるでしょう。」

「祈りの中に喜びが持てない事は、まだ彼らにとって神がすべてになってない証拠である。」

「力のない祈りは不健全な状態のしるしです。」

「神様は、時々私たちの唇の祈りを聞いて下さいません。なぜなら、この世を求める私たちの願いが神様に対する望みよりも大きく強いからです。」

「何よりも私たちの祈りの中で、神様を制限しないように注意してください。」

「祈りで私たちは自分自身を神に任せますが、聖書の言葉で神はご自身を私たちに示します。」

「信仰の成長のためには祈りが必要です。自己否認と節制ある生活には祈る心と力があります。」

「自己中心は祈りを殺す。」

「祈りとはただ神のもとに行き神に求めることではない.第−に神と交わること、神の聖さと愛との力の下に導かれ神に所有され、すべての真実の礼拝の秘決であるキリストの謙遜を自分の性格全体に刻み込まれることである。」

「しからば祈る何の要かある、神は祈禱に応じて雨を賜わず、また聖者の祈禱に反して種々の難苦を下せり、祈らずして神命に従うに若かず、祈禱の要は何処にあるや。 これ難問なり、余は余の愛するものの失せしより数月間祈禱を廃したり、祈禱なしには箸を取らじ、祈禱なしには枕に就かじと堅く誓いし余さえも今は神なき人となり、恨を以て膳に向い、涙を以て寝所に就き、祈らぬ人となるに至れり。

然り祈禱は無益ならざりしなり、十数年間一日のごとく朝も夕も爾に祈りつつありしが故に今日この思わざるの喜と慰とを爾より受くるを得るなり。

ああ父よ、余は爾に感謝す、爾は余の祈りを聴賜えり、汝かつて余に教えていわく、肉のために祈るなかれ霊のために祈れよと、しかして余は余の愛するものとともに爾に祈るにこの世の幸福を以てせざりしなり、もしそのために祈りし時は必ず「もし御意に叶わば」の語を付せり、自己の願事を聴かば信じ、聴ずば恨むはこれ偶像に願を掛けるもののなす所にして、基督信者の為すべき事にあらざるなり、ああ余は祈禱を廃すべけんや、余は今夕より以前に勝る熱心を以て同じ祈禱を爾に捧ぐべし。」(内村鑑三)

「世に金銭の勢力があり、政権の勢力あり、知識の勢力がある。けれども未だ祈祷の勢力には及ばない。これは実に勢力であって、山をも透し、岩をも砕く勢力である。世の大事業と称されるものは、すべて祈祷の力によって成ったものである。祈祷の力によらないで建てられた国家は虚偽の国家であり、永久的不変の基礎の上に据えられたものではない。祈祷の力によらないで成った美術に天の理想を伝えるものはない。祈祷は精神的生命を得る、唯一の秘訣である。だから祈祷のない国民から、大政治、大美術、はたまた大文学、大発見、その他の大と称せられるものが出て来るはずがない。」(内村鑑三)

「我が祈祷が聞かれないという時に、祈祷以上が聞かれるのである。祈祷が聞かれないのではない。我等が祈求むるところ、思うところよりもいたく過(マサ)りて聞かるるのである。」(内村鑑三)

「祈りの人とは、祈るだけの人ではない。祈りによって事を為なす人である。さらに進んで、祈りによるのでなければ、何事もできない人である。祈りによって学ぶ人である。祈りによって働く人である。祈りによって戦う人である。すなわち、自分の力によらずに、神の力により万事を為す人である。」(内村鑑三)

「なぜ、祈るのだろう? 私はキリスト者となって以来、ほぼ毎日そう問いかけています。特に、神が遠い存在に思われ、祈りとはただ自分に話しかける行為を宗教的な形にしただけのものなのではないかと感じられる時はなおさらです。神学を勉強した時に自問しました。神がすでにご存知のはずのことを繰り返してみたって、何の役に立つのかと。その結論は少しずつしか明らかになりませんが、とにかくここで始めるとします。なぜなら、私にとって、祈りは神の御前に差し出すショッピングリストをはるかに優るものとなったからです。それはすべてのものを再配置しました。宇宙の真理が取り戻され、神の目を通してこの世界をかいま見ることができるように、私は祈ります。」(フィリップ・ヤンシー)

「何よりも、祈ると自分自身の心が見えるようになり、あなたは神の心に沿ったものとなります。祈りとは、神と交わっている所を想像しているだけの、一人芝居ではありません。むしろそれは対話であって、神はそれを通してあなたの心を感化し、神が思い描かれるとおりの存在にあなたを形作るのです。それはまさにクリスチャンへの貴い贈り物であって、直接の答えと、多少間接的な答を通して、イエスに従う者たちは、神から得られるものゆえでなく、神が神であられるがゆえに、神を愛し始めるのです。」(ラビ・ザカリアス)

「祈りとは、私たち自身を表すことです。‥‥私たちは生ける不完全さです。私たちは裂け目であり、満たされることを願い求める空(くう)なのです。」(トーマス・マートン)

「私が祈るのは、祈らなければならないからです。天には何か良きものがあることを、思い出さなければならないからです。確かに、聞いてもらうために祈るのですが、実際、私の人生において祈りという行為が果たす役割は、それ自体深遠です。祈りという行為と姿勢は、私がしばしば失ってしまうものと私とを再びつなげてくれます。それは糸のようにすぐにぷつんと切れてしまうものなのですが、祈りはもう一度、その糸を結んでくれます。祈りはこう言います。私はあなたが天におられることを知っています。あなたを信じます。私はやり遂げることができます。あなたは良き方です、と。祈ることは、私の目に見える以上の何か、私にできる以上の何かが存在すると言っていることです。目に見える以上の何かが進行中なのだと。」(シャウナ・ニエキスト)

「呼吸が命の自然な表現であるように、祈りは信仰の自然な表現です。」(ジョナサン・エドワーズ)

「祈るとき、私は自分自身の利己的さから視点を移します。高木限界の上まで登り、小さな塵である私自身を見下ろします。私は星を眺め、自分をはじめとした私たちすべてがこの理解を越えた宇宙で果たす役割を思い出します。祈りとは神の観点から現実を見るという行為です。」(フィリップ・ヤンシー)

「祈りとは神の完全なる光の中を歩き、自分を抑えることなしに、ただ、『私は人間であって、あなたは神です』と言うことです。」(ヘンリ・ナーウェン)

「鳥にとっての翼、船にとっての帆、それが魂にとっての祈りの役割。」(コリー・テン・ブーム)

「祈ることを教えていただくのは、私たちにとって確かに最大の必要である。正しく祈ることを知らないために、キリスト者生活における本当の素晴ら しい数々の祝福を、私たちはみすみす失っている。私たちは祈りに関して、あらゆる面から教えてもらう必要がある。どう祈るべきか教えられなけれれ ばならないし、何を祈るべきか教えてもらわなければならない。」(D・M・ロイドジョンズ)

「祈りは、まちがいなく人間の魂の最高の働きである。人はひざまずいているとき、最も偉大で最高の状態にあり、面と向かって神にお会いしているのである。」(D・M・ロイドジョンズ)

「私たちの心にある思いや望み、願望、うめき、 溜息など、この世はそれらについて何も知りませんが、神様はすべて知っておられます。ですから、必ずしも言葉は必要ではありません。うめきなど言葉で心を表すことができない時であっても、神様はすべてを知っておられます。」(D・M・ロイドジョンズ)

「祈りの意味は、答えを得ることではなく、私たちが神様を受け入れることです。」(オズワルド・チェンバーズ)

「神は私たちの祈りに答えるのではなくイエスの祈りに答える。神にはイエスによらなくては到達できない。」(オズワルド・チェンバーズ)

「祈り求めることについての重要な点は何かといえば、神をよりよく知ることができるようになるということに尽きます。」(オズワルド・チェンバーズ)

「とりなしという奉仕に誘惑はありません。うぬぼれたり高慢になったりする危険もありません。これは実を結ぶ影の奉仕です。これによって御父は栄光を受けます。」(オズワルド・チェンバーズ)

「自分のことはきっぱりと忘れて他の人のために祈るという祭司の働きを始める用意が、わたしにはできているでしょうか。絶えず自分の心の中をのぞいては、あるべき姿になっているかどうかと問いつづけるのは、かえって自己中心を作り出します。」(オズワルド・チェンバーズ)

「自己実現を願って祈り求めることは、神がわたしたちに願っておられることと真っ向からぶつかります。自己を実現すればするほど、神により頼むことが少なくなるでしょう。」(オズワルド・チェンバーズ)

「祈りの核心は、応答に心奪われるのではなく、主イエス・キリストを掴むことです。」(オズワルド・チェンバーズ)

「私たちは視線を困難にではなく、神に向けて祈らなければなりません。」(オズワルド・チェンバーズ)

「私たちの祈りが聞かれるのは、私たちが敬虔で、苦しんでいるからではなく、キリストが受けた十字架での苦しみの故であることを忘れてはいけません。」(オズワルド・チェンバーズ)

「自分自身がすべきことを埋めるために祈ることがないように気をつけなさい。」(オズワルド・チェンバーズ)

「とりなしとは、私達が個人的な思いを神の御前に持ち出し、私達の願いを神が成して下さるように求めることであると考えてしまわないように気をつけましょう。私達が神に通じる道は、主が私達の罪の身代りになって下さったことへの共感なのです。私達には「イエスの血により聖なるものとされる大胆さ」があります。罪の身代りによるとりなしは、私達が他の人々に持つ自然な同情ではなく、神の彼らに対する関心についてよく考えることです。」(オズワルド・チェンバーズ)

「私たちが祈るたびに、私たちの限界は広げられ、物事に対する私たちの態度は変えられます。それは、時々起こることではなく、祈るたびに起こることです。ですから、私たちが祈らないこと自体、実に驚くべきことなのです。」(オズワルド・チェンバーズ)

「人が、神と人のためになしうる最大のことは祈りである。それが唯一のことではないにしても、主要なことである。今日、地上に住む最も偉大な人々は、祈る人々である。私がここで言っているのは、祈りについて語る人々や、祈りの力を信じている人々、あるいは祈りについて説明のできる人々のことではなく、祈りそのものに時間を費やす人々のことである」(S・D・ゴードン)。

「祈る人ほど、今日の世界で重要な人はいない。それは祈りについて語る人でもなければ、祈りについ説明できる人でもない。時間をさいて祈る人である。彼らには時間がない。それは、ほかのことを犠牲にした時間であろう。ほかのことも大切であり、また、差し迫ったものである。しかし、祈りほど重要で、差し迫ったものはない」(S・D・ゴードン)。

「あなたがたは祈ったあと、祈り以上のことをすることができる。しかし祈るまでは、決して祈り以上のことをすることはできない」(A・J・ゴードン)。

「私たちがひそかに神とともに過ごす時は、最もすばらしい時であり、最高の時である。あなたがいのちを愛するなら、祈りを愛せよ。」(ジョン・フォックス)

「祈り以外の活動は、われわれのできることを生み出す。しかし、祈りが生み出すものは神のみわざである」(ヴァージニア・ホイットマン)。

「神は、御自分の民が、祈り以外に望みはない、というところまで追い込まれるのを願っておられる。ここにこそ教会の、世に立ち向かう力がある」(アンドリュー・ボナー スコットランドの牧師 1810~1892年)。

「祈りは信仰を生み、信仰は愛を生み、愛は貧しい人々のためへの奉仕を生みます」(マザー・テレサ)。

「すべての祈りに先立つ祈りとは、『真の自分になって祈れますように。真の神に向かって祈れますように』である」(C・S・ルイス)。

「あなたの祈りを、言葉の羅列で終わらせてはならない。むしろ生活全体を、神への祈りとしなさい」(シリアのイサク)。

「神の前にひざまずいて祈る。これこそが人間の本来のあるべき姿であって、我々はそれ以上でもそれ以下でもない」(ロバート・マーレイ・マックシェーン)。

「祈りは、神に向かって回答するための言葉である。最初に来ることばは、神のことばである。祈りは人間の言葉である。それは、決して最初に語る言葉でも、ものごとを形作る言葉でもない。なぜなら、神を差し置いて、私たち人間が先になったり、中心になったりすることはあり得ないからである」(ユージン・ピーターソン)。

「どんなに言葉が多くても、祈りは数学ではありません。どんなに美しくても、祈りは巧みは言葉ではありません。どんなに長くても、祈りは自分の計画を作るのではありません。どんなに声が美しくても、私たちの祈りはリズムではありません。どんなに整然としていても、祈りは理屈ではありません。どんんあに順序正しくても、祈りは方法ではありません。祈りの熱心さこそ、大きな力を秘めているのです。人のために祈ること以上に、その人への愛を深めるものはありません。心を尽くしてひとりの人のために祈れるようになれば、あなたはすべての点で親切で正しい行いをする備えができたのです。毎日、この厳粛な奉仕に全力を打ち込みましょう。自分のためにするように、十分な時間をかけ、失望することなく、熱心に他者のためにお祈りください。すると、ささいな悪い欲望は消えて、あなたの心は大きく豊かなものに成長するのです」(ウイリアム・ロー)。

「祈りが願掛けであると考えている人々は、物乞いに過ぎない。私は、キリストの教えの真理を汲んでいる物乞いに出会ったことがない」(サンダー・シング)。

「私たちが祈っている時に抱く神についての観念は、神ご自身が啓示したものと一致しなければ無価値なのである」(ポール・リトル)。

「祈りと涙とは教会の武器である」(マシュー・ヘンリー)。

「勝利ある祈りは、執拗な祈りである」(チャールズ・フィニー)。

「最高の祈りとは、神と論じ合うような祈りです。」(チャールズ・フィニー)

「祈りは自分の言葉を聞くためではない。祈るためには御声が聴こえるまで静まらねばならない。」(セーレン・キェルケゴール)

「神様が大陸を与えようとしておられるのに、どうしてピーナッツのために祈るのでしょうか」(ドーソン・トロットマン)。

「私は、だれかに会う前に祈るべきだと思う。私のたましいが、他のものに近づく前に、神に近づき、御顔を拝し、神とともに始めることは、とてもたいせつだと思う」(ロバート・マーレー・マックシェーン)。

「苦悩と当惑は私を祈りに駆り立て、祈りは苦悩と当惑を取り去ってくれる」(フィリップ・メランヒトン)。

「自分はつたない言葉しか出てこないのに、人が自由にかつ流暢に祈るのを聞いたことがあるでしょう。そういう時には、ややもすると、その人を賞賛し、自分を責めたりしがちです。あたかも、美しくかたどられた鍵が、戸をよりうまく開くと言うかのように」(ウィリアム・ガーナル)。

「王の御前に出なさい。大きな願いを持って出なさい。その恵みは測り知れないのです。求めて求めすぎることはないのです」(ジョンー・ニュートン)。

「祈りの力は距離によって弱まることはありません。年齢や病弱、政治の変化、あるいは政治的束縛によって弱まるものでもありません。忠実なクリスチャン生活における祈りの力は、祈りの怠慢という原因によってのみ弱まるのです」(デーヴィド・ベントリ・テーラー)。

「祈りは地上で最も強い力である。私たちのうち十分な数の者が、もし十分に祈ったならば、世界を救うことができた。そう、十分に祈ったならば」(フランク・ラウバッハ)。

「祈りの活力がみことばにより供給されるのでなければ、祈りはその切なる願いにおいて熱心で大声であったとしても、実に弱い気抜けしたものである」(ウィリアム・バーンズ 1815-1868年 英国長老教会の最初の中国宣教師)。

「祈りにおいて生命力がないのは、生涯を再建し更新するために、神のことばを常に供給することをしないからだ。力ある祈りを習得したい人は、まず、みことばを学び、その記憶に、思想に、貯蔵することをしなければならない」(ウィリアム・バーンズ)。

「真の祈りとは、私の意志に合わせて神のみこころをねじ曲げることではなく、神のみこころに合 わせて自分の意志を曲げることです。」(リチャード・ベネット)

「あなたがたは膝をついて前進しなければならない。」(ハドソン・テーラー)

「祈る力もなくなるほど、キリストのために働いてはいけない。祈ることは、力を要するからだ。 」(ハドソン・テーラー)

「神は祈りなしには何もなされない、すべてはそれに尽きる。」(ジョン・ウェスレー)

「あらゆる神の働きは信仰の祈りの応答としてなされる。」(ジョン・ウェスレー)

「祈りとは、キリストにわたし自身を完全にゆだねること、キリストと完全に一つになること以外の何者でもありません。そしてこのことが、わたしたちを、この世のただ中において観想的にさせるのです。」(マザー・テレサ)

「祈りは聖書から始まります…。話しかける神に耳を傾けるのです。神のことばでいっぱいになったこころで神にお話するのです。神はじっと聞いてくださいます。ともに聴きあい、ともに語り合う、これが本当の祈りです。」(マザー・テレサ)

「私たちが働く場合、私たちが働くことですが、私たちが祈る場合、神様が働きます。」(パトリック・ジョンストン)

「祈りは神様を喜ばせます。また、私たちの必要をすべて満たしてくれます。」(ジェレミー・テイラー)

「あたかもすべてが神に依存しているかのように、祈りなさい。あたかもすべてがあなたに依存しているかのように仕事をしなさい。」(アウグスティヌス)

「祈りのない人生は燃料タンクのない美しい新車のようなものだ。」(チャック・スウィンドル)

「祈りとは、人が起こすことのできる最も強力なエネルギー形態だ。祈りが人間の思考および体に及ぼす影響力は、セクレチン分泌液の影響力と同様に実証することができる。その成果は、順応性や知力の増加、道徳的なスタミナの増加、人間関係の理解の深まりという形で測定することができる。祈りは、完全なる人格の形成に絶対欠かすことのできないものである。祈りによってのみ、私達の精神と体と霊とは完璧に組み立てられることができる。それによって、虚弱な人間的要求にその揺るがぬ力が与えられるのである。私達が祈る時、私達はこの宇宙を回転させている無尽蔵の原動力とつながるのだ。」(アレックシス・カレル博士 外科医 ノーベル生理医学賞受賞者)

「私にとって、祈ることは自分の思いの中にしっかりと刻み込まれた習慣となってしまっているので、私は、神の祝福を求めずして一杯の水でも口に持って行くことをしないし、手紙に封をする際にも必ず祈りの言葉をその中に忍び込ませるし、手紙を郵便受けから取り出す時にも天国に向けて簡単な思いを送るようにしているし、また一つの授業が終わって、士官候補生達が教室から出て行き、別の士官候補生達がそこに入ってくる時にも、必ずその両方の士官候補生達の為にとりなしの祈りをしてあげている。」(ストーンウェール・ジャクソン 米国の歴史を代表する勇将の一人)

「私の発見は全て祈りに対する答えである。」(アイザック・ニュートン)

「望遠鏡を使えば、この大宇宙の何万何億キロも遠くを見ることができるが、望遠鏡から離れて自室に行き、戸を閉ざして、熱心に祈るなら、望遠鏡など、地上の物質的な媒介物の助けを借りるよりも、天をもっと広く見ることができるし、神にずっと近くなることができる。」(アイザック・ニュートン)

「祈りは必ず行動に先立たなければなりません。さもないと、悪魔があなたの機先を制するでしょう。」(エバン・ロバーツ)

「最も大切な点は、答えが与えられるまで祈り続けることです。私は昔の友人のふたりの息子のために、52年間毎日、祈り続けています。彼らの心はまだ変えられていません。しかし、必ず変えられます! 神の子らの犯すあやまちのうち、祈りを途中でやめてしまうことほど大きなものはありません。彼らは長く続けられないのです。もし神の栄光のために本当に何かを望むなら、それを得るまで祈り続けるべきです。」(ジョージ・ミュラー)

「ビジネスや会社のこの果てしない忙しさは、たとえ私の体でないとしても、魂を損なっています。朝早く一人になる時間がもっと必要です。個人のデボーションや宗教的瞑想、聖書を読むことなど、宗教的実践に対して習慣的に割り当てている時間が少なすぎると思います。それゆえに、私はやせて、冷たく、かたくなになりました。‥‥今まで私は夜遅くまで起きていました。それで、朝に大慌ての30分しか一人になる時間が取れないのです。すべての善人の経験は、確かに、しかるべき時間をかけて一人だけで行うデボーションをしないなら、魂はやせ細って行くという定理を裏付けています。しかし、祈りを通してすべてのことがなし得ます。‥‥私が言おうとしているのは、全能の祈りです。‥‥そう言ってはいけないでしょうか? 全能であるものはただ、愛と真理の神の恵み深き叙任によるからです。それならば、祈りましょう。」(ウィリアム・ウィルバーフォース)

「祈りにおいて何よりも重要なことは、神と父と子という関係に結ばれている、関係の確認である。」(ヘルムート・ティリケ)

「祈りとは、誠実に、はっきりした意識をもって、熱意を込め、キリストを通してたましいを神に注ぎ出すこと、また、聖霊の力と助けにより、神の約束、神のみことばにかなうものを求めること、そしてそれは、教会の益を願い、信仰をもって神の御旨に従おうとする思いから出てくるものである。」(ジョン・バニヤン)

「祈りは神様に心を開いて、空いている私たちの魂を神様で満たす手段です。」(ジョン・バニヤン)

「祈る時には、心のない言葉よりもむしろ言葉のない心でしなさい。」(ジョン・バニヤン)

「祈りは罪をやめさせます。罪は祈りをやめさせるために誘惑します。」(ジョン・バニヤン)

「私たちは祈らずに望みを持ちますが、それはwith Him(主と共に)とwithout Him(主なしに)の差です。祈りによって私たちは主と共にすることができますので、祈り以外に希望はありません。」(アンドリュー・ボナー)

「毎朝15分間、私は神様で私の心を満たすために費やします。ですから、私の心に心配の余地はありません。」(ハワード・チャンドラー・クリスティ)

「祈りのために私の心が自由で、整えられれば、他のすべては比較的に容易です。」(リチャード・ニュートン)

「効果的な祈りは神様との関係から出る実であって、祝福を取得するためのテクニックではありません。」(D・A・カーソン)

「神の主権的な恵みと変わらぬ愛を信じて祈るなら、私たちの不安は平安に変わります。」(ランディ・アルコーン)

「あなたにとって祈りはハンドルですか、スペアタイヤですか?」(コーリー・テン・ブーム)

「神は祈りなしでもわたしたちにすべてのものを与えることがおできになるが、子がひざまずいて祈るように、人間が乞い求めるように、賜物を留保なさることがある。」(ジョージ・マクドナルド)

「祈っても、事態はあなたのために変えられないかもしれませんが、祈りが事態に対してあなたを変えることは確かです。」(サミュエル・シューメーカー)

「リバイバルは、多くの人々が捧げる真実な祈りに対する応答として、神の至高の采配によって起こるものである。」(ビル・ブライト)

「祈るとき、言葉数の多さには何の意味もありません。また、同じ言葉をただくり返したり、人々に見せたりする祈りも意味がありません。神様は祈りの数ではなく、ご自身を信じて求めるその祈りを聞いてくださいます。」(トーマス・ボストン)

「祈りをもって神様がおられることを覚えなさい。そして、行く所どこにでも神様がおられることを覚え、感謝しなさい。」(マックス・ルケード)

「クリスチャンの祈りの定義は、簡単に言うと、自分の願いを神様の御心に変えることです。」(フィリップス・ブルックス)

「祈りを私たちの朝を開けるカギとし、夜のかんぬきを掛けるものとしなさい。」(フィリップ・ヘンリー)

「祈りは、行いというよりはむしろ神様を信頼し、委ねる態度です。」(A・W・トウザー)

「祈ることを学ぶと、生活のゆとりではなく、心のゆとりが得られます。」(ポール・E・ミラー)

「私は、言葉数が多い祈りは勧めません。長く論じるような祈りの場合、度々さすらうものになります。」(ブラザー・ローレンス)

「あらゆる祈りの主要な目的は、人間を神に近づけることである。」(P・T・フォーサイス)

「祈りはことばの最高の使用である。」(P・T・フォーサイス)

「祈りは神との格闘である。」(P・T・フォーサイス)

「最悪の罪は祈らない事です。」(P・T・フォーサイス)

「人は苦痛が去ることを願って祈り、熱情をこめて祈るが、その結果精力を消耗し、希望がなかなか叶えられずに病気となり、祈りが失敗に終わるときがある。しかし、そのような祈りよりもさらに高い祈りがあることを知って欲しい。苦痛の除去を祈るよりも、苦痛が神の恵の臨む場とかえられるように祈る方が、はるかに偉大なのである。神が苦痛をして聖餐として下さることを祈願することは、大きな恵にあずかることなのである。苦痛の中で人が除去を祈願したり、それを役に立てようと祈るときにさえも、神はその苦痛を祝したもうのである。どのようなものであれ、われわれを神に駆り立て、神に近づけるものは、神の祝福をその中に宿すのである。そして、もし人がさらに向上しようと欲するならば、苦痛をして賛美に変え、火中にあって神に感謝し、人生を回顧して思いわずらいに費やした力を、神の善と忍耐と慈愛を想起、発見するために用いなければならないのである。そのような 回顧において、人が多くの恵みに開眼するならば、かれが知らなかったさらに多くの、いな、決して知り尽くせない恵みが存在することを確信するにいたるであろう。」(P・T・フォーサイス)

「あらゆる祈りの中で、真の祈りは『神よ、あなたのみこころがなりますように』という祈りである。」(P・T・フォーサイス)

「人は、自分の頭脳が知識に飢え渇いているゆえに、学ぼうとします。聖書の知識でさえも同じです。しかし人は、その魂が神を求めて飢え渇いているゆえに、祈るのです。」(レナード・レイヴンヒル)

「私たちが祈るすべてのことを、神がみさかえなく与えないのは、私たちを愛してくださるからである。」(D・L・ムーディー)

「祈りの能力(ちから)がどれ程強いものであるかは、ただ祈りによりて能力(ちから)を受けしもののみ解し得る処で、理論理屈では到底説明できない。」(ウィリアム ・メレル ・ヴォー リズ)

「あなたは食事の前に祈りを捧げます。すばらしいことです。私はコンサートやオペラの前や劇やパントマイムの前、書物を開く前、スケッチや絵を描く前、水泳、フェンシング、ボクシング、散歩、ダンスの前、そして、インクにペンを入れる前にも祈りを捧げます。」(G・K・チェスタートン)

「祈ることは、今も、いつも、これからも私たちが何事にも神に完全に依頼することを受け入れることです。」(ティム・ケラー)

「祈るとは、努力やコントロールといった人間の領域を越えたところにおられる霊的実在にひざまずくことです。」(ジェームズ・フーストン)

「祈りは、全世界よりも広く、人の心よりも深く、人類の起源よりも古いものです。祈りは神のご性質そのものから生じるからです。祈りの可能性は無限で、祈りについての私たちの探求も膨大なものとなります。」(ジェームズ・フーストン)

「祈る時に、まず、自分は、神様の前に出て、祈るに相応しいだろうかと疑いを持ちます。浄められなければ、良い祈りが出来ないと思うからです。ですから、多くの人が浄められたいと願い努力して、長い階段を上る様に、ありたけの努力をして、途中で疲れてしまう人が多いのです。この時、自分の力ではなくて、神様に依り頼めば、私達ではなく、神様が直ぐに浄めて下さいます。そうして、私達は、祈るに相応しい者に変えられるのです。」(A・B・シンプソン)

「まず知らなくてはならないのは、私たちが状況を支配しているのではないということです。神がそれを支配しておられ、神ご自身のご計画とみこころに従ってそれが実現されるのです。祈りは、決して、神のご計画を変えようとして捧げられるものではありません。祈りとは神のみこころを変え、ご計画を改めさせ、私の願うようになることだと考えることは、非常に間違っています。祈りの真の目的は、神のみこころが実現することで、神のご計画が成就するように私の心の扉を開けることです。」(チャック・スミス)

「もし祈りが大切であるなら、私たちの生活設計の中で、常に二番目の位置を占めるべきではありません。・・・悪魔は絶えず、私たちの半時間の祈りに対して戦いを挑んできます。彼は戦うのに飽きることはありません。時には地獄の雲で私たちの心を襲うかのように、私たちの心を鈍くさせ、時には火のように襲ってきます。」(エミー・カーマイケル)

祈り―――人間の魂が行う最高の活動

「人が神に語りかけているとき、その人は自分の頂点に達している。それは人間の魂が行う最高の活動である。同時にそれは真の霊的試金石である。キリスト者としての生活のいかなるものも祈りに比べれば容易である。施しをすることも、自己訓練をすることも、説教するさえも祈りに比べれば格段に容易である。神に語りかけるよりは人に語りかけるほうがはるかに容易である。神と二人きりでいる時こそ、自分の真の霊的状態を発見する。私たちは一人でいるときのほうが、人々とともにいる時より神に語ることが少ない。しばしばそうなるがそうあるべきではない。神と二人きりになった時こそ、自分の本当の霊的立場がわかる。祈りは自分の霊的状態を計る究極的な試金石である。」(D・M・ロイドジョンズ)

私たちの犯しやすい失敗は、真に求めることを知らない点にある。19世紀、アメリカのリバイバル(信仰復興)のために大いに用いられたチャールズ・G・フィニーの活躍の背後には、ナッシュとクラリーという人物がいた。バードスレイという人物はナッシュについてこのように語った。「彼は驚くべき祈りの力を持った人でした。彼は祈りのリストを作り、その人々のために毎日数回祈りました。その回答は奇跡的に与えられました。何故ならば、彼のつくったリストの中には、集会に出席して救われる可能性のあるような人は一人としてなく、むしろ、心頑なな人ばかりでした。しかしながら、彼の祈りによって、不可能と思われることが可能となったのです。神は実に奇跡の神です。信じて下さい」と。

【祈りの訓練】(賀川豊彦)

★祈りは端的に神への接近であれ

★機械的でなく繰返しをいわず

★見栄坊でなく

★神に説教せず

★自己反省が必要であり、神の前に恨みごとを持っていかず

★祈るときには熱情を注ぎ

★信仰をもって祈れ

祈りには、祈る側と祈られる側の両側があります。多くの時、祈られる側に変化して欲しいなら、祈る側の人がまず変化しなければなりません。

もし相手側に一向に状態の変化が見られないなら、こちら側は神の御前で尋ね求めて言わなければなりません、「主よ! わたしにはどんな変化が必要なのでしょうか? わたしにまだ対処していない罪があるのでしょうか? 手放さなければならない好き好みがあるのでしょうか? わたしは本当に信仰の学課を学んでいるでしょうか? あるいは、わたしには何か別に学ぶべきことがあるのでしょうか?」。

もしわたしたちの側で変化が必要なら、先に変化しなければなりません。自分が変化していないのに、祈っている相手側の変化を期待することはできません。

ウォッチマン・ニー

聖書とは祈りの書である。記録されている667の祈りの内、答えが記録されているものの数は454ある。

もし信仰をもって祈ったのであれば、疑いを抱きながら生活を送れる人などいない。

親友とは、そばにいることによってあなたを暖め、その秘密を打ち明けてくれて、祈る時にあなたのために祈ってくれる人のこと。

霊的に高く成長するためには、人はまず、ひざまずくことを学ばなければならない。

天国のことをはるか彼方のものだと言っている人々がいる。しかし事実、天国は、天国に属する者たちの声の届く範囲内に存在するのである。

どんな時代であっても、国家にとって最高この上ない友人とは、その子供達に祈ることを教えた母親である。

祈りは、祈られない限り、答えられることはない。

人が行動で表すその祈りは、口で言い表す祈りと全く同じくらい重要である。

祈りは、塩のきいたピーナッツを食べるのに似ている。祈れば祈るほど、もっともっとしたくなるからである。

間違いの修正のために祈るのはいいことだが、早めに祈るならそんなに多くの間違いを犯さないですむ。

神からの指示を求めて頭をたれた後で、私達はしばしば神の御心に抵抗して首を曲げる。

神にとって意味のある祈りをしたいのなら、自分にとって何かの意味のある祈りを祈らなければならない。

短い祈りでも恵みの御座に届く--もし、あまりにもそこから遠く離れて暮らしていないなら。

膝まずいているなら、つまずくことはない。

会衆席にいる人々の祈りは、説教壇にいる説教者に力を与えてくれる。

祈る人は、人生の諸問題に直面しても、もっと良く対処することができる。

ひざまずいて、一時間心配しながら時を過ごすのは祈りではない。時には、ある問題を祈りの内に神に託してしまったなら、祈ることをやめ、信頼し、解決策に至るために必要な仕事を行うこと、それこそが私達の任務であることもある。

土着民たちが、土の小屋の中に大勢、ほとんど何のプライバシーもなく暮らしているアフリカの幾つかの地方では、クリスチャンはそれぞれ、森の中の木を一本選んで、そこに祈りに行っては神と二人だけになる。もし誰かが忠実ではなくなって、その祈りの場所へ出かけていくのを怠慢にしていると、他の人がこう呼びかける。 「兄弟よ、あなたの道には雑草が生い茂っていますよ。」

祈りの内にひざまずいているなら、煩いという重荷で私達の背が曲がることはない。

祈りは弱き者に力を、小心の者に信仰を、恐れる者に勇気を与える。

サタンは祈りを妨げるが、祈りもサタンを妨げる。

祈り深い態度でいて、しかも同時に悲観的な態度を取ることは不可能である。

祈りのない魂は、空気のない肺のようだ。

私達の祈りの中で、状況を変えて下さいと祈る事はしょっちゅうあるが、性格を変えて下さいと祈ることが滅多にないというのは、おかしなものだ。

説教は、祈りづけにされるまでは、決して説かれるべきではない。

現代人の問題の大半は、暇がありあまるほどあるのに、ひざまずいて過ごす時間を十分にとっていないことに起因している。

人前で祈りを導く時には、人々に聞こえる程度に大きな声で、また、神に聞いていただけるように誠意をこめて。

私達は祈って、信じて、受け取ることもできるし、祈って、疑って、受け取ることなしに済ませることもできる。

神の目を覚ます祈りというものは、私達の目も覚ますほどのものでなくてはならない。

ちょうど弁護士を扱うように神を扱う人々がいる。ただ、トラブルが起こった時だけ神のところに行くのである。

朝、神のもとから逃げ出す者は、その後の一日中ほとんど神を見つけることはない。

最も偉大なる人も、キリストの御前に来た時は、物乞いをする人にならなければならない。

神をあなたの顧問としなさい。天国は地獄を見渡している。いつでも神には、地獄で企てられているどんな陰謀をもあなたに告げることができる。

愛する人と、人前でしか会えないとしたら、それで満足できるだろうか?

祈りは迅速なる使者である。瞬(またた)く間に天国まで行って、そこから答えを持ち帰ることができる。

祈りとは、ただ私達が神に望んでいることだけではなく、神が私達に望んでおられることを求めることでもある。

私達がデボーションの時間になっても寝ている時に、揺り篭をゆらしているのはサタンである。

人々の中には働きでしか成し遂げられない物事のために祈り、祈りでしか成し遂げられない物事のために働く者が大勢いる。

愛のない祈りには吸引力はない。そんな祈りでは、祝福を地上まで引き降ろすことはできない。

人への愛を起こす最善の方法とは、その人のために祈ってあげることである。

他の人に対する私達の愛は、その人のために祈る私達の祈りの頻度と誠実さによって測ることができる。

ぬかるみを愚痴るのなら、どうか雨のために祈らないでほしい。

祈りとは私達にできる最小限のことではない。それは私達にできる最大限のことである。

私達には、祈りが最後の手段ではなくて、最初の手段であるようなクリスチャンがもっと必要である。

どんな仕事であれ、祈りなしにそれを企てることは、豆鉄砲で宇宙観測機を打ち上げようとするのと同じくらい無益なことである。

祈る気がしない時こそ、一番祈る必要のある時である! どんなことに対しても、物憂げな気分を克服する唯一の方法は、その任務の中に私達自身をもっと注ぎ込むことであって、その中から抜け出ようとすることではない。祈る気がしない時に祈ることは、偽善ではない。それは人生の最大の任務に対する忠実さである。

祈りをあまり重要視しないということは、人生において神を重要視していないということだ。

祈ると、より偉大なる仕事ができようになるのではない。祈りこそが、神のためのより偉大なる仕事なのである。

仕立て屋の仕事が洋服を仕立てることであって、靴直しの仕事が靴を修理することであるように、クリスチャンの仕事は祈ることである。

祈るだけで自分では働こうとしないなら、神をあざけっていることになり、働くだけで祈ろうとしないなら、神から栄光を奪っていることになる。

悪魔の関心事は、聖徒を祈らせないようにしておくことである。祈りの込められていない学習、仕事、宗教など、悪魔は全く恐れてはいない。悪魔は私達の労苦を笑い、私達の知恵をあざける。だが、私達が祈る時、悪魔は震え上がるのだ。

祈っている時ほど、少しの時間を消費するだけで多くのことが成せる時はない。

神の前にひざまずく者は、どんなものに対しても立ち上がることができる。

罪を告白することは、神に知らせることではなく、神に同意することである。

祈りは独白ではなく、対話である。私の声に応じる神の御声が、その最も重要な部分である。神の御声に耳を傾けることは、神が私の声に耳を傾けて下さるという確信を得るための秘訣である。

聖書を祈りに変えなさい。

私達が銀を求めると、神は時々、ノーという答えを金で包んで送られることがある。

もし私達が空っぽで、しかも貧しいなら、それは神に与える力がないためではなく、私達の手が開かれていないためである。

もし神との交わりという面において弱いならば、私達は他のどんな面においても弱い。

クリスチャンの祈りはひそかになされるが、その成果が隠されたままでいることはない。

もし祈る時、神に聞いていただきたいのなら、神が語られる時に、神に耳を傾けていなければならない。

祈りとは、全能なるものに頼る弱さのこと。

一日の説教 (ペンテコストの日)は10日間の祈りの後になされた。だが私達は、ほんの1日の祈りの後で、10日間説教をする。

主が送られるものはすべて必要なものである。主が差し控えられるもので必要なものは何一つない。

ちょうど生まれながらの人が呼吸するのが当たり前であるように、霊的な人が祈るのも当たり前である。

祈りは、魂に対しては盾、神に対してはいけにえ、また、サタンに対してはたたりである。

従順の伴った祈りは力である。従順の伴わない祈りはずうずうしさである!

神の約束を嘆願して祈る時ほど祈りが力強いことはない。

神の耳は、信じる者の唇のすぐ近くにある。

祈った後で神を信頼していないなら、私達は、祈りにおいて神に嘘をついたことになる。

私達が、自分の祈りが答えられたとわかった時に驚くのは、私達の心に不信心がとても深く宿っているからに違いない。

冷たい祈りでは決して暖かい答えを得ることはない。

教会の進展の歴史は祈りの歴史でもある。

ひざまずいているクリスチャンには、つま先立ちしている哲学者よりも物事がよく見える。

神のことを人に語って聞かせるのは偉大なことだ。だが、人のために神に語りかけることの方がはるかに偉大だ。

聖書は神が私達に送って下さった手紙。祈りは私達が神に送る手紙。

ある昼のこと、一人のクリスチャンの農夫が、町でレストランに入り、ハンバーガーとフライド・ポテトを注文した。それがテーブルに並べられると、農夫は静かに頭を垂れ、食べ物を主に感謝した。隣のテーブルに座っていた人たちは農夫を見ると、彼をからかってやろうと思った。そして、一人がこう言った、 「おい、農夫のおっつぁんよ、あんたのとこじゃ、みんなそうするのかい?」 農夫は答えた。 「いいや、豚は祈らんよ。」

祈りとは実に単純なもの

それはまるで静かに戸を開いて

神の御前にそっと忍び込み、

その静けさの中で

御声に耳を傾け、

願い事を申し上げるか、

あるいは、ただ聞くことに専心すること

そのいずれであっても問題はない

祈りとはただ

神の御前にいるということ!

あなたは王に近づこうとしている、

だから大いなるものを願い求めよ。

王の恵みと力は豊かなので、

願い求めすぎることはない。

ある牧師が道路工事の現場で働く人たちを眺めていた。すると、道路の穴に埋めるのに、ある年配の人が、ひざまずいて石を砕いているそのやり方がとりわけ関心を引いた。しかも、その年配の人は、立ちながら働いている人たちよりももっと多くの仕事をこなしていたのである。そこでその牧師は、自分のよく知っているそのひざまずいて働いている年配の人にこう言った。 「ジョン、ちょうど君がその石を砕くような感じで、私も私の説教を聞く人たちの石のような心を砕くことができたらいいんだが!」 すると、目に輝きをたたえて、ジョンは答えた。 「牧師さん、膝まずいて働くなら、そうすることができますよ!」

FBIの局長、J・エドガー・フーバーはこう語っている。 「一国全体が祈っている姿を見ることの方が、原子爆弾の爆発よりも畏敬の念を起こさせるものだ。祈りの力の方が、人造の、あるいは人間によってコントロールされた力のいかなる組み合わせにも勝って大いなるものである。祈りとは、無尽蔵の源を開発する最高の手段だからである。祈りによって神の憐れみと力を刺激することは、悩み、無力な、地に住む人々に、平和と安全とを保証する有効な手段となる。」

ビリー・サンデーは、ある牧師が家庭訪問をしていた時のことをこう話している。その牧師者がある家にやって来ると、子供がドアを開けたので、 「お母さんはいますか」と尋ねた。ところがその子供はこう答えた。 「今、お母さんには会ないです。9時から10時までは祈りの時間だから。」 牧師はその母親に会うのに40分待った。そして、祈りの部屋から出てきた母親を見ると、その顔は栄光の輝きに満ちていた。牧師は、その家庭がどうしてそんなにも明るいのか、また、どうしてその二人の息子が聖職についていて、また娘も宣教師をしているのか、その理由を悟ったのである。 「地獄がどんなに躍起になっても、祈っている母親から息子や娘を引き裂くことはできない。」

ある朝早く起きると

その日の仕事にまっしぐら

しなくてはならない事が山ほどあったので

祈る時間なんてなかった!

するとトラブル続きで

やることなすこと、大変になるばかり

「なぜ神は助けてくれないんだ?」 と考えていたら、

神は答えられた。 「尋ねなかったからだよ!」

私は神の御前に来るために

自分の鍵を全部出してドアを開けようとした

すると神は優しく穏やかにこうたしなめられた

「どうしたんだい。ノックを忘れているよ!」

喜びと美しさを見いだしたかったのに

その日は憂うつ、つらくて暗い一日だった

それで主にどうしてか尋ねると

主は言われた。 「求めなかったからだよ!」

今朝早く起きると

一日の仕事を始める前に、まず時間を取った。

しなくてはならない事が山ほどあるので

祈るために時間を取らなくてはならなかった!

とりなし

あなたの戦いの激しさを、私が理解しないなどと

言ってはならない。

あなたの暗きにあって、私は幾たびも

あなたと一緒だったのだから。

たとえ二人の間に大きな隔たりがあり、

歳月や年令の違いがあったとしても、

その心の中の苦悶、痛みを、

私はしばしば感じたのだから。

ぞっとするような暗黒の中で、たった一人で

戦っていたなどと言ってはならない。

御座にあって、あなたのかたわらで、

私はいつも祈りの中で

あなたと一緒だったのだから。

信仰の楯を持ち、御霊の剣を振るって、

主の御言葉の命じるままに、

あなたの最初の呼び掛けを聞いた時、

あなたのかたわらにあって、

戦いに駆けつけたのだから。

「こんなに遠くの叫びがわかるなんて、

夢物語にすぎない」などと言ってはならない。

私達は、愛する主にあって一つであり、

主の御霊は二人を近づけてくれるのだから。

そして主は、しばしば私の心に

「早く祈りなさい」

との呼び掛けをささやかれる。

だから、たとえあなたが遠くにいても、

私は祈りによって、あなたの所に行けたのだ。

主よ、私の内にあって、私を力づけ、

私の外にあって、私を守り、

私の上にあって、私を覆い、

私の下にあって、私を支え、

私の前にあって、私を導き、

私の背後にあって、私を後押しし、

私の周囲にあって、私の砦となりたまえ。

--ランセロット・アンドリュー

確信を持って祈る』(PDF)

「祈りたいと思う時は祈れ。祈りたいと思わない時にも祈れ。そして、祈りたく思うようになるまで祈れ!」

(グラハム・スクロギー)