10 イエス・キリストを知る/聖書について知る(To Know Jesus Christ / To know about the Bible)

★「私は神と死後の生を信じ、あなたたちは信じないとする。

その場合、神が存在しなくても、どちらも死んで負けになる。

しかし、神が存在するなら、あなたたちはやはり負け、私はすべてを手に入れる。」

(ブレーズ・パスカル)

「私はクリスチャンじゃないけど、イエス・キリストを知りたい、

聖書について知りたい、クリスチャンになりたい」

という人のためにわかりやすくて、助けになるサイトを紹介する。

また、理屈っぽい人の疑問にもズバリ答えてくれるサイトも用意した。

クリスチャンは”ウェブ伝道用のツール”として大いに活用してほしい。

人間という者は、皆さん、いったいどんな者でありますか。まず人間とは、自分をだれよりもかわいいと思う者であります。しかし、皆さん、真に自分がかわいいということは、どんなことでありましょうか。真に自分がかわいいということは、おのれのみにくさを憎むことであります。しかし、我々は自分のみにくさを認めたくないものであります。たとえば、人の陰口を言うことは、男らしくないことだと知りながらも、おのれの言う悪口は正義のしからしむるところのように思うのであります。俗に、泥棒にも三分の理という諺があるではありませんか。人の物を盗んでおきながら、何の申し開くところがありましょう。しかし、泥棒には泥棒の言い分があるのであります。

皆さん、しかしわたしは、たった一人、世にもばかな男を知っております。その男はイエス・キリストであります。イエス・キリストは、何ひとつ悪いことはなさらなかった。生まれつきの盲人をなおし、生まれつきの足なえをなおし、そして人々に、ほんとうの愛を教えたのであります。ほんとうの愛とは、どんなものか、皆さんおわかりですか。皆さん、ほんとうの愛とは、自分の最も大事なものを人にやってしまうことであります。最も大事なものとは何でありますか。それは命ではありませんか。このイエス・キリストは、自分の命を我々に下さったのであります。

彼は決して罪を犯したまわなかった。人々は自分が悪いことをしながら、自分は悪くはないという者でありますのに、何ひとつ悪いことをしなかったイエス・キリストは、この世のすべての罪を背負って、十字架にかけられたのであります。彼は、自分は悪くないと言って逃げることはできたはずであります。しかし彼はそれをしなかった。悪くない者が、悪い者の罪を背負う。悪い者が悪くないと言って逃げる。ここにはっきりと、神の子の姿と、罪人の姿があるのであります。しかも皆さん、十字架につけられた時、イエスは自分を十字架につけた者のために、かく祈りたもうたのであります。『父よ(神よの意)、彼らを許したたまえ。そのなす所をしらざればなり。聞きましたか、みなさん。いま自分を刺し殺す者のために、許したまえと祈ることのでき るこの人こそ、神の人格を所有するかたであると、わたしは思うのであります。(三浦綾子著「塩狩峠」より)

TED(ビリー・グラハムの講演 科学技術と信仰について 日本語字幕付き)

https://www.ted.com/talks/billy_graham_on_technology_faith_and_suffering

「伝道とは、聖霊の力によって、イエス・キリストを世に示し、

人々が、キリスト・イエスを通して、神により頼み、キリストを救い主として、

また教会の交わりにあって、彼らの主、あるいは王として仕えさせることである。」(ビリー・グラハム)

「真の伝道とは、聖霊の力によってキリストをわかりやすく伝え、結果は神にゆだねることです。」

(ビル・ブライト)

「伝道とは救いのおとずれを伝える方法以上のものである。それは聖なる熱情である。それは霊魂から、いっさいを焼きつくしながら、見たところ近づきがたいサタンの堅城に迫るところの、信仰と愛に溢れる精神である。」

(メイナード・G・ジェームズ)

「神について語ることなしに生涯を終える人もある。」(マルテル)

人生はさまざまである。競馬、競輪、マージャンなど、賭け事にその関心のすべてを向けて一生を送る人がいる。

かと思うと、全く、賭け事は無関心で暮らしている人がいる。音楽が好きで、どのように高い切符でも、

音楽会の切符には金を惜しまぬ人もあれば、音楽会など、切符をもらっても金輪際行きはしないという人もいる。

その人生に於て向ける関心は、誠に人さまざまである。

「神を信ずると信じないに関わらず、神を一度も問題にしない人間をぼくは信用しない。その精神生活の低さを思うからだ」

と何かで読んだことがある。

神を信じられなくても、せめて神について語る生活を持ちたいものである。

三浦綾子

「どのような時でも、福音を伝えなさい。そして必要なら ことばを用いなさい。」(アッシジのフランシスコ)

「もし人々が福音のすばらしさ-クリスチャンであるために与えられる喜び、平安、幸福-を知るならば、

キリストのもとに走っていくに違いありません。また、はちみつよりも甘美なものは、

キリストの救いのみことばであることを知るならば、おいしい果物にはえが群がるように、

彼らは救い主を求めるにちがいありません。」

(チャールズ・ハッドン・スポルジョン)

「神によって使命された全ての説教者の最初の目的は、人々を神に導く事でなければならない。

説教者達は、口実として“私は教える牧師として使命されている。私の教会への奉仕として、

私は神の民に供給しなければならない”と言うかもしれない。

しかし、そのような口実は明らかに神の命令への率直な不従順であること私は強調する。

神からの偉大な任務は未だに説教者達に義務付けられているのである。

福音は全ての人々に宣べ伝えられなければならない。・・・チャールズ・スポルジョンは、生涯を通して牧師であった。

そして自分自身を伝道者と呼んだことはなかった。

しかし何千人の人々が彼の奉仕の下で救われた。そしてスポルジョンの教会は、“魂を捕らえる所”と呼ばれた。

教会の説教は、他の場所においても、強硬な伝道的なものであるべきである。」

(ジョン・R・ライス)

「福音を説教するというのは、人々に対して、クリスチャンになるため何かしなさいと訴えることではない。

神がしてくださったことについて、そして人をしてクリスチャンにならしめるものについて、告知し、宣言することである。」

(D・M・ロイドジョンズ)

「自分を救ってくださった主への感謝を表す正しい応答は、全世界に福音を広めることです。」(コーリー・テン・ブーム)

「外界から孤立し隔絶した形で福音が聞かれることはない。福音は、その人の暮らす文化的環境を背景に聞かれるものだ。」

(ウィリアム・レーン・クレイグ)

「どんなことがあっても、私たちは、大いなる委任(大宣教命令)を大いなる提案であるかのように扱ってはならない。」

(チャールズ・スウィンドル)

「[イエスの]計画は行動を求め、その伝え方は、計画の成功を予想していました。

『わたしの証人となるかもしれない』とか『なることもできる』ではないし、

『なるべきだ』でさえなく、ただ『わたしの証人となる』と言われたのです。」

(チャールズ・スウィンドル)

「私は、キリストのために魂を得ることさえできれば、どこでどんな生活をし、どんな苦難をもなめてもかまわないと思った。

眠っているときにはそのことを夢見、朝起きて最初に思うのは、キリストのために魂を獲得することであった。」

(デイヴィッド・ブレイナード)

「もし、神が魂を私にくださらないなら、私は死ぬだろう。」(ジョージ・ホウィットフィールド)

「あなたにはこの世での仕事が一つある――多くの魂を救うことだ。」(ジョン・ウェスレー)

「世界伝道は、全教会が、全世界に、福音の全体をもたらすことを要求する。

教会は、神の宇宙大の目的の中心点であり、福音伝搬のために神が定められた手段である。」

(ローザンヌ誓約 第6項『教会と伝道』)

★「私の後悔はただ一つ、キリストが私のためにしてくださったことを他の誰かに伝えることができなかったことだ。」(スティーブ・マックイーン)

1979年、病気がちだった彼はキリストを信じた。地元のヴェンチュラ宣教師教会に出席し、その後末期ガンだとわかった。その時彼が言ったことばだそうだ。彼の死の直前にはビリー・グラハムも彼のもとを訪れている。

ちなみにスティーブ・マッククイーンは、チャック・ノリスが教える空手の道場に息子のチャドともに生徒として通っており、ノリスに俳優への道を強く勧め、彼の主演作を劇場でともに鑑賞し演技についてアドバイスしている。ノリスはマックイーンからの教えを忠実に守り、スーパースターへと成長した。チャック・ノリスは、キリストを証しする敬虔なクリスチャンである。

伝道の対象

効果的な伝道のために対象をよく知る必要がある。パゼット・ウィルクス(救霊の動力より)

●その願い

人は神を好まない。人は聖潔を好まない。人は神の支配を好まない。人は救い主を好まない。

●その理解力

神を認めない。神の賜物を知らない。人は自分の真相を知らない。人は道を知らない。

●その意志

偏見の束縛。肉欲の奴隷。高慢の奴隷。恐怖の奴隷。

●その願望

安息に対する願い。喜びに対する願い。力に対する願い。光と確信に対する願い。永遠のいのちに対する願い。

●その罪

自己を傷つけるものとしての罪。他人を傷つけるものとしての罪。律法を破るものとしての罪。父の愛に対する罪。

「福音宣教は、ひとりのこじきがもうひとりのこじきに食物のある所を告げるようなものである。」(D・T・ナイルズ)

「新約聖書によれば、伝道とは単に福音を宣べ伝えることである。

これはクリスチャンが自分自身を罪人に対する神のあわれみのメッセージの代弁者とすることに見るコミュニケーションの働きなのである。」(J・I・パッカー)

「キリスト教の伝道とは自分の主張を世に及ぼし、自分の徳をもって人を変化させ、それによって自分の党、自分の弟子をつくることではない。キリスト教の伝道とは自分に罪があることを世に表白し、自分の受けた恩恵(めぐみ)を人に示し、自分の救い主を世に紹介し、それによって彼の従者、彼の弟子をつくることである。世にいう伝道というものとキリスト教の伝道というものとの間にこのような相違のあることを私たちは心にとめておかねばならない。この意味からすれば真正(まこと)のキリスト信者は誰でも伝道に従事することができる。伝道は説教でもなければ牧会でもない。伝道は自分の心に実験した神の救拯(すくい)を世に発表することである。この実験がなくてはどんなに該博な神学教育を受けた者であってもキリスト教の伝道師ではない。また、この実験があれば誰でも有力な伝道師であることができる。」(内村鑑三著『一日一生』より)

「クリスチャンは、伝道せずにいられる者たちであり、伝道したい気持を失ったクリスチャンは、燃え輝くことをやめたろうそくか、鳴かなくなったカナリヤのようなものでしかありません。クリスチャンは伝道することによって、その存在を表します。クリスチャンの救いの喜びは、伝染していくものです。それが伝道であり、その伝染は、この世の人々に最も良い結果をもたらします。伝道しなくなったクリスチャンは、もはや役に立たなくなってしまった塩のように、投げ捨てられてしまいます(マタイ5・13)。」(尾山令仁)

無神論者からのチャレンジ

無神論者ペン・ジュリエットは、長年ラスベガスでコメディーやマジックなどのショーを行ってきた2人組、

ペン・アンド・テラーの1人である。

ペンは自分が神を信じていないことを全く恥じておらず、ベストセラーになった本や記事で、しばしば自分の信念について述べてきた。

しかしある動画ブログ(ユーチューブで視聴可能)では、親切なクリスチャンビジネスマンが

聖書をプレゼントしてくれた時の話をしている。

そして、伝道しないクリスチャンは、本当は人を憎んでいるに違いないということを指摘するためにこの話を用いている。

以下はその動画からの言葉である。

俺は今までずっと、伝道しない人なんて尊敬しないと言ってきた。全然尊敬できないね。

もしあんたが、天国や地獄があると信じているなら、

また、地獄に行ったり、永遠のいのちを持てなくなったりすることがあると、

本当に信じているなら、いかなる場合でも伝道するはずだろう。

伝道すると社会ではやりにくくなるとか、相手は「俺に構わないで、信仰は自分だけのものにしてくれよ」

なんて言う無神論者だとかいった理由で、伝道しないのなら、

それはおかしい。永遠のいのちがあることを知っていながら、それを伝えないのは、その人を憎んでいるのと同じことだ。

どれくらいの憎しみを持てば、伝えないでおれるのかな。例えば、トラックが前方から走って来て君をひきそうになる。

俺なら、君がひかれる前にタックルして、君を助けるよ。

伝道するかどうかは、トラックにひかれそうになっている人を助けるかどうかよりも、もっと重大なことだろう。

路傍の人:道から出なさい!! イエスを信頼せよ

路上の人:私をさばくな!

トラック:神の怒り さばきの日

以下はそのペン本人のブログ映像(英語のみ)

不信心者の宣言

「何百万もの人がしていると言っているように、もしこの私が、この地上でのキリスト教の知識と実践が

来世の運命を左右すると堅く信じるとしたら、キリスト教は私にとってすべてとなるだろう。

私は地上の楽しみをくずのように、地上の気づかいを愚かな考えのように、地上の思いと感情を空虚なもののように捨てるだろう。

キリスト教は、私が目覚めたときの最初の思いとなり、眠って無意識の中に沈む前の、最後の映像となるに違いない。

私は、その信条のためにのみ労するはずだ。

私は、永遠の朝のことだけを考えるだろう。天国のために一人のたましいが獲得されるなら、

そのために一生をかける価値があると見なすだろう。

地上での成り行きは、決して私の掌中にとどまることなく、私の口を封じることもあってはならない。

喜びと悲しみを含む地上のことは、片時も私の思いを占めないことだろう。

私は永遠のみを見つめることに励むだろう。また、まもなく永遠の悲惨か永遠の幸福を迎える

周りにいる不滅のたましいを見つめようと努力するだろう。

私は、この世界に出かけて行き、時が良くても悪くても、人々に宣教することだろう。

そして『人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう』(マルコ8:36)というのが、

私の主題となるだろう。」

『主の喜びで満たしてください』(ある英国の説教者著)より

「公然と名乗る無神論者も、疑いを撒き散らし、信仰を鋭く傷つける説教者に比べたら、その十分の一も危険ではない。」

(チャールズ・スポルジョン)

「今日において、福音の光を絶やすのは、科学的な疑念や無神論、汎神論、不可知論ではない。

むしろ、傲慢で肉欲的で贅沢で、なおかつ不誠実な信仰者たちである。」(フレデリック・ハンティングトン)

「イエス・キリストのほかに希望はないと信じていて、わずかでも愛や親切心をもち合わせていたら、

この救い主に向けて人々を引き連れて来ようと、やっきにならないではいられないはずだ。」(マイケル・グリーン)

「あかしとは、イエス・キリストをよく見、それから、見たことを他の人に告げることである。」(ローン・サニー)

「あかしをするということは、信徒になる可能性のある人を説得するために、クリスチャンのお面をかぶることではありません。

あかしをするということは、正直であるということ、つまり、あなたに日々の言動をさせてくださる神に対して、

真実であるということなのです。」(ジョン・ホワイト)

「だれでもキリストが私たちのためになしてくださったことについて歌ったり語ったりしないならば、

その人は自分が本当に信じていないことをそれによって示しているのです。」(マーティン・ルター)

「キリストを口であかししないこと、これほど大きな過ちはない。」(ヘンリー・クレイ・トランバル)

「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に、満足して生活していることだろうか。

キリストが罪人たちのために涙を流し、同情されたと同じ感情を、私は何と少ししか感じることができなかったのだろうか。

私たちの心に、休むことができないほどに魂への愛が満ち溢れていたならば、

私たちは、今の私たちとは非常に違った存在になったであろう。」(アンドリュー・マーレー)

「もし地獄をみんなに見せたら、必死になって伝道するだろう。」(R・A・トーレー)

「もし人の家が燃えているならばあなたは走っていって救いの手を差し伸べるだろう。

ならば、人の魂が地獄で燃えるようになることを知っていながらもなぜあなたは助けないのか。」(リチャード・バクスター)

「すべての伝道者は、一度は地獄に堕ちなければならないだろう。そして地獄の恐ろしさを知ったならば、

もう、いても立ってもいられない。そして人々を救いに導こうとする力を持つに違いない。」(ウィリアム・ブース)

「私たちがクリスチャンであることは誰かが私たちに福音を伝えたからです。これからは私たちが誰かに伝える番です。」

(ウォーレン・ワースビー)

「もし人がクリスチャンであるなら、証し人であるはずで、もし彼が教会のために奉仕をするが、主を証ししたくないと言うなら、

その人はクリスチャンだと称するのを中止する時である。」(ステファン・ニール 英国国教会監督)

「病人に病であると告げることを恐れてついに死なせてしまうのは、最も愚かな医師であり、最高に不忠実な友である。

同様に、もし私たちが、友を怒らせたり、友から嫌われたちするのを恐れるあまり、

何も言わずにその者が地獄へ向かっていくのを黙って見ているなら、私たちは最悪の恥知らずだ。」

(リチャード・バクスター)

「もし、強盗や放火魔があなたの家族を殺そうとして潜んでいる時、それを知りながら、そのことをあなたから隠し、

あなたに知らせないような友がいるなら、それはもはや友と呼ばれる資格など持っていない。

そして、罪こそ、どんな強盗、殺人者、放火魔よりもまさって危険な存在である。

罪が潜んでいる時に、沈黙や隠蔽は裏切りにも等しい。

私たちの罪を率直に指摘し、気付かせてくれる者こそ、最も忠実な友であり、尊敬と愛を受けるにふさわしい者である。

最初に例に出した友は、偽りの友でしかなく、愛しているような振りはしても、実際は心の中で兄弟を憎んでいる者なのである。」

(ディビッド・クラークソン)

「もしあなたが癌の治療法を持っていたなら、それをシェアしないだろうか?

あなたは死の治療法を持っている。外に出てシェアしよう。」

(カーク・キャメロン)

「『キリストへの信仰』は黙っていることができません。他の人たちもはっきり理解できるようになるのを助けるために、

信仰は知っていることを宣べ伝えます。『私は信じます。それゆえ、私は語るのです』。

信仰はあまりに善良で憐れみに満ちているため、このように貴重な贈り物を独り占めしておくことができません。

ところが信仰が語り始めると、不信仰な偽善者たちは怒り始めます。」(マルティン・ルター)

それは『ローマ書』にあらわれる語句を追っていくことで人間個人の救いの道が現れるというものである。

3章23節「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない。」

5章8節「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、

神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」

6章23節「罪から来る報酬は死です。」

10章9節「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、

あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」

10章13節「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。』のです。」

『四つの法則』

http://yotsunohousoku.com

四つの法則:

  1. 神はあなたを愛しておられ、素晴らしい計画を持っておられる。(ヨハネによる福音書3:16、10:10)

  2. 人は罪によって神と断絶している。そのため神の愛を知ることも、体験することもできない。(ローマ教会への手紙3:23、 6:23)

  3. イエス・キリストは人間の罪からの救いのために神が備えられた唯一のお方である。この方を通してあなたは神の愛を知り、体験し、人生の計画を立てられる。(ローマ 5:8、第一コリント15:3-6、ヨハネ14:6)

  4. 私たちは必ずイエス・キリストを個人的な救い主、主として迎え入れなければならない。それにより、神の愛を知り、体験し、人生の計画を立てられる。(ヨハネ1:12、エペソ2:8,9、ヨハネ3:1-8、ヨハネの黙示録3:20)

みことばで語る

まだイエスを信じたばかりの人が、無神論者のもとへ行って伝道したが、当然のことながら拒否された。

「神などいないのですよ」

「でも聖書では『信じない者は罪に定められる』と書いてあります」

「神など私は信じていません」

「ええ、それでも『信じない者は罪に定められる』と聖書に書いてあります」

怒った無神論者はそのまま帰ってしまった。

まともな伝道ができなかったと失望したクリスチャンは、どうしたらいいか分からないので神に祈った。

「神さま、あの人をあなたが救ってください」

家に帰ってベッドに入った無神論者はなかなか寝付くことができなかった。

「信じない者は罪に定められる」ということばが耳から離れないのだ。ついに彼は、たまりかねて祈り始めた。

「神さま、もしあなたがおられるなら私をお救いください。私に、『あなたの救い主だ』と言われるイエスさまを信じさせてください」

神はその祈りを聞いてくださり、無神論者は救われたのであった。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。

世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

(使徒4:12)

「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。

わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』」(ヨハネ14:6)

「・・・聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。」

(2テモテ3:15)

「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)

「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)

「そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。

必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:11)

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。

寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ4:2)

ティム・ケラー

「ポストモダンの時代、福音を伝える7つの方法」

「絶対真理」を否定するポストモダン時代、果たしてクリスチャンはどのように福音を伝えることができるのだろうか?

ティム・ケラー牧師(ニューヨークリディマー長老教会、CTC理事長)が「センターチャーチ牧師会議」で、その7つの方法を紹介した。

まずティム・ケラー牧師は、ポストモダン以前の世代の人たちに「人生とは何ですか?」と尋ねたら、彼らはおそらく「道徳的な人になること」と答えただろうとし、「しかし現代、ポストモダニズムの影響を受けた人たちは、それより自由を好む。つまり、誰かを傷つけることがなければ、自分の渇望と欲求を満たすことができる自由、まさにそれが欲しい」と言うだろうとした。

彼は「それなら、このポストモダン時代の人々に福音を伝える方法も異なるべきである」とし、「以前の人々はたとえイエスを信じなくても、何らかの道徳的基準を持っていて、それを守れないことに対する罪悪感があった。そのため、クリスチャンのいう罪の話をするのが容易だった。しかし、ポストモダンの時代の人々は、そうではない」とした。

それとともにケラー牧師は、ポストモダンの時代に福音を効果的に伝えることができる7つの方法を提示した。その主な内容が以下の要約である。

1. 彼らと互いに共有する言語を使ってみてください。

契約、義人、救い...これらの言葉はクリスチャンにとってはなじみなのかもしれないが、そうでない人々には非常に不慣れな言葉である。したがって、その意味が何なのか、まず解説したり説明しなければならない。

そうでない場合、彼らは教会の中で、異邦人のような感情を持ち、最終的には福音に拒否感を持つようになる。特に難しい神学的用語を使いながら、自分自身を誇示してはならない。

2. 彼らが尊敬する人物の言葉を引用してください。

いつも聖書のメッセージを伝える必要があるが、それだけではダメだ。伝えようとする聖書のメッセージと一脈相通じる、たとえクリスチャンでないとしても、信じていないこれらの福音より簡単に納得できるように助けてくれる有名人の言葉を引用すればよい。私はアメリカでよくマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉を引用する。なぜなら、彼はクリスチャンに関わらず、ほとんどのアメリカ人が尊敬する人物だからだ。使徒パウロも使徒17章で異教徒の哲学者と詩人の言葉を引用している。それとともに、最終的に彼に伝えるのは神である。

3. 彼らの持っている疑問を理解してください。

ポストモダン時代の人々が、キリスト教の真理に対して持っている疑問や疑いを理解しなければならない。そうではなくただ福音の優位性だけを説くなら、それは信じていない人々の心の扉を開くことはできないだろう。私たちがクリスチャンになったのは、良い行為をしたいからではなかった。信じて献身をしたいからでもなかった。ひたすらキリストの恵みに与ったからではなかっただろうか。クリスチャンであるかどうかは問題なく、すべての人は同じ罪人にすぎないのだ。どうしてクリスチャンではない人に優越感をもっているのか?

4. 彼らが信じていることを最大限に活用すべきです。

第二の方法と似ていますが、少し違う観点だ。誰でも自分が信じているなにかがあるはずだ。次に、それを用いて、福音を伝えることができる。例えば、このようにである。 「あなたはこれを信じていますね?私もそうです。ところで、その部分について、聖書はこう言ってるんです。」決して「私は完全に合っている、あなたはすべて間違っている」という態度で接してはいけない。

5. 信仰は絶対に強制により生じるものではないことを知りましょう。

20年前に韓国人牧師が私を訪ねてきたことがある。 「韓国では若者たちが教会を離れているが、どうしたら教会に若者たちが集まってきますか?」彼らの質問だった。私はこのように答えた。 「若者たちを教会に導くために苦労する必要はない。ただ、彼らにもっと近づき、手を差し伸べるだけだ。」

儒教の影響が強いアジアの国のクリスチャン家庭に、「あなたの子供たちは、なぜクリスチャンになるべきですか?」と尋ねるならば、おそらく多くの人が「私たち家族がキリスト教を信じていますからね。」と答えるだろう。親である私たちが信じているので、子供のあなたも信じなければならないというふうだ。しかし、これは、ポストモダンの時代にはもはや力を発揮することができない。彼らに、なぜ信じなければならないのか、どうしてクリスチャンになるべきなのかを説得力を持って、感動的に伝えることが大事だ。クリスチャンの福音がなぜ真実であり、それがどのように美しく、強力なのか、私たち自身が認識すべきことである。

次に、クリスチャンのアイデンティティとは何か?他の人のそれとどのような点で異なっているかほとんどの人は、二種類のアイデンティティを持っている。一つは、彼らの親を喜ばせたことから来るものであり、他の一つは、自分の夢を達成したいことから来るものである。

前者をポストモダン以前の世代の人々が持っていたアイデンティティであるとするなら、後者は、今日の若者たちのアイデンティティとすることができる。ところが、このような二種類のアイデンティティは、私たちに究極の満足を与えていない。結局は、自分自身行き詰まりを感じるものである。

しかし、クリスチャンのアイデンティティは、このようなものとは根本的に異なっている。それは自分自身から来ない。ただイエス・キリストのためであること、私は親を喜ばせることができず、夢を果たせなかったが、その方は私を無条件に愛しておられること、これがクリスチャンのしっかりとした、そして不変のアイデンティティである。

また、これはキリスト教を他の宗教と区別するための最も重要な真理だ。まさに恵みの救いは、神との愛の関係である。この真理は、今も変わらず、この時代のすべての人々に必要な福音である。したがって、この不動の真理を自分の言葉として伝えることができるはずである。

6. 表面に現れた行動ではなく、その動機に注目してください。

たとえば、なぜ献金すべきであるか、あるいは、これに対して「それがキリスト教の真理だから」とか「よきクリスチャンになるため」としてはならない。現代人にお金と恐怖を同時に抱かせる考えを持たせてはならない。

コリント8章で、パウロはコリントの兄弟たちに献金のことを話す。彼は十分に献金を強要することができた使徒だったが、そうしなかった。その代わりに、イエス・キリストが私たちのために彼のすべてのものを与えてくださったことを、震える思いで伝えた。献金の動機を語ったものである。

7. 律法ではなく、福音を伝えよう。

ここで2つのタイプの信仰がある。一人は、救いを受けるために従う信仰。もう一つは、救いを受けたので、従う信仰。この二つの違いは何か?はじめをパリサイ人であるとすれば、後はクリスチャンである。パリサイ人は、いつも不安である。救いを確信していない。常に他人と比較する。しかし、クリスチャンは嬉しい。自分に与えられた条件のない恵みに胸がいっぱいになる。

そうだ。私たちは、ポストモダンの時代に道徳主義者や宗教人を育てようとするものではない。私たちが伝えるのは、罪人を赦し受け入れる神、イエス・キリストの恵みと愛である。不安なこの時代に平安を示さなければならないのだ。

無神論者を自称する人へのチャレンジ

「わたしが神を否定する論拠は、宇宙があまりにも残酷かつ不公正であるように思われる、ということであった。

だが、そうだとすれば、わたしはこの公正・不公正という観念をいったいどのようにして手に入れたのか。

人は、直線という観念を多少とも持っていなければ、一本の線を見てこれは曲がっていると言うことはできない。

わたしがこの宇宙を不公正と呼んだ時、一体わたしはそれを何と比較していたのか。

もし万物が、いわばAからZまで徹頭徹尾、悪にしてかつ無意味であるとしたなら、

万物の一部であるはずのこのわたしが、その万物に対してかくも激しい抵抗を感ずるというのは、いったいどういうわけなのか。

われわれは水に落ちると、体が濡れるのを感ずる。人間は水棲動物ではないからである。魚は自分が濡れているとは感じないだろう。

むろんわたしは、こんなものはわたしだけの主観にすぎないと言って、この公正の観念を放棄することもできたはずである。

しかし、放棄すれば、神を否定するわたしの論拠も崩壊してしまう――というのは、わたしの議論は、世界は真に不公正であって、

ただたまたまわたしの主観的な好みに合わないというだけのことではない、という主張に基礎をおいていたからである。

こうして、神は存在しない――つまり、実在するものはことごとく無意味である――ということを証明しようとする努力そのもののうちに、

わたしは、実在の一部――すなわち、わたしのもつ公正の観念――は十分なる意味をもっている、

ということを前提せざるをえなくなったわけである。

以上述べたことから、無神論はあまりにも単純すぎる、ということが分かる。

もし全宇宙が無意味だとするなら、それが無意味であることをわれわれは絶対に知りえなかったはずである。

それはちょうど、宇宙に光がなかったら、したがって、目をもつ生物が一つもいなかったら、

われわれはそれが暗いということを知る由もなかったであろう――

と言いうるのと同じである。その場合、暗いという言葉は全く意味のない言葉となるだろう。」(C・S・ルイス)

C・S・ルイスと同じオックスフォード大の教授アリスター・マグラスは無神論について次のように述べている。

「『真実である』と無神論者が主張していることは証明できない。『神はいない』と、どうやって知ることができようか。

実際のところ、無神論とは一つの信仰であり、手に入る証拠の範囲を超えた結論を導き出すことなのだ。」

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「人は信じることができないのではなく、信じようとしないのである」(ポール・リトル)

「もしキリスト教が合理的であり、真実なものであるとするなら、なぜ最も高い教育を受けた人々がそれを信じないのか」

―こういった質問はしばしばなされる。

答えは簡単である。彼らは、大部分のそんなに教育のない人々と同じ理由で、信じないのである。

彼らは信じたくないのである。これは知力の問題ではない。

なぜなら芸術や科学の領域に傑出したクリスチャンがいるからである。これはまず第一に、意志の問題なのである。

「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネ5:40)

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、

わたしが自分から語っているのかがわかります。」(同7:17)

「神を信じないのは、信じたくないからだ。」(ジョルジュ・ベルナノス フランスの作家)

世に無神論者という、あやしげな論者がある。

「あやしげ」と敢えて言ったのは、「ぼくは無神論者ですから、神を信じません」という人に、

「論」というべきものを持たぬ人が多いことに気づいているからである。

神を求めたこともないのに、「神はない」といっているだけの「無神論者」がいる。

神を信じない人の大部分が、求めたこともない人なのだ。

求めないというのは、つまり、神を信じようとしていないということであろう。

とにかく、「神を信じたい」と思うならば、何としてでも求めるはずだからだ。

本当に神を信じたければ、教会に行き、聖書を読むという生活を、少なくとも3年は続けるであろう。

キリスト教禁制の時代、高山右近は国外に追放されても神を信じた。「神を信ずる」というのは、このように大変なことなのだ。

「神を信じない」という人の多くは、確かにベルナノスの言う如く、「信じない」のではなく、「信じたくない」のであろう。

三浦綾子

「神を拒否する理由は、知的要求からでもなく、証拠が足りないからでもない。

神を拒否する人は、自らが神を必要としている事実を認めないという倫理的抵抗により、神を信じないのだ。」

(ラビ・ザカライアス)

単純な人たちが理屈なしに神を信じるのを見て驚いてはいけない。

神は、彼らが神を愛し、自分自身を嫌悪するようにさせている。神を信じる心へ導いているのだ。

もし神が我々の心に触れてくれなければ、我々は決して、疑いのない、しっかりした信仰で神を信じることはない。

しかし、神が我々の心に触れようものなら、瞬時に我々は信じるだろう。

神を知ることができるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってであり、また、その信仰自体が神から与えられるものである。

イエス・キリストは、人々に次の事だけしか教えなかった。人間は自己自身を愛している。

人間は奴隷であり、盲目であり、病人であり、不幸であり、罪びとである。

人間を解放し、啓蒙し、祝福し、治療するのは、イエス・キリストでなければならない。

そしてこのことは、人間が自己自身を憎み、かつ十字架の苦難と死によってイエス・キリストに従う時に、はじめて表現される。

イエス・キリストなしには、人間は悪徳と悲惨のうちに沈むほかはない。

イエス・キリストと共にあるならば、人間は道徳や悲惨から免れる。

彼の内には、われわれのあらゆる徳、あらゆる祝福がある。

彼のそとには、悪徳、悲惨、誤謬、暗黒、死、絶望が、あるばかりである。

ブレーズ・パスカル

「懐疑主義者もひとつの信念の上に、疑うことを疑はぬという信念の上に立つ者である。」(芥川龍之介)

「私は、イエスを偉大な道徳教師と認めることにはやぶさかでないが、自分は神であるとする彼の主張を認めるわけにはいかない。」

これだけは、我々は言ってはならない。単なる人間でありながら、イエスが言ったようなことを言うなら、

その人は偉大な道徳教師であろうはずがない。

精神異常者ーー「俺はポーチドエッグだ」と言うような輩と同類ーーか地獄の悪魔であろう。我々は、決断を下さなければならない。

この人物は神の御子であった、今もそうであると考えるのか、それとも気違いか、もっとひどい奴であるか。

彼を愚か者と締め出すことも、つばを吐きかけ、悪魔だと言って殺すこともできるし、

彼の前にひれ伏し、わが主、わが神と呼ぶこともできる。

ただし、彼が偉大な人間教師であるとするばからしいことだけはやめよう。彼はそう呼ばれる余地を残していない。

そうなるつもりさえなかったのだ。

C・S・ルイス

最も難しいことの一つは、聴衆のまえに一貫して真理の問題を置くことです。

聴衆はきまって、あなたがキリスト教を説くのは、それが真理ではなく、それがよいものだからだろうと考えています。

彼らは討論に対して、「キリスト教は真理か否か?」という問題を避けて、スペインの宗教裁判の問題、フランスの問題、

ポーランドの問題など、他のもろもろの問題を取り上げて、その中に逃げ込もうとするでしょう。

あなたは彼らを繰り返し、真の問題へとともない帰らなければなりません。

そうすることによってはじめてあなたは、「ある程度の宗教は結構だが、凝りすぎるにはどうも」

といった考えを切り崩すことができるのです。

あなたは指摘しつづけなければなりません。---キリスト教は、もしそれが真理でなかったらまったく無意味だが、

真理だとすれば、無限の重要性をもっているということを、ぜったいに受け入れられないのは、

「キリスト教もわるくはない」といった考えです。

C・S・ルイス

その重力 – あなたの常識、私の非常識 神の存在とそのアイデンティティの証拠 マイケル・エドワーズ(PDF)

「私は自分が偶然の産物、宇宙のほこりだとは思わない。むしろだれかに期待され備えら予示された存在、

つまり創造者である神だけがここに置くことができた存在だと思う。」

ジャン=ポール・サルトル(1905-1980 フランスの哲学者、小説家、劇作家。終生、妥協を知らない無神論者であった。)

「神がおられると仮定しない限り、人生の目的を問うことには何の意味もない。」

「こう言うのは恥ずかしいが、世界が必要としているのはキリスト教的愛である。」

「あなたがたクリスチャンを最もうらやましく感じるのは、その赦しです。私には、自分を赦してくれる人はいません。」

バートランド・ラッセル(1872−1970 無神論者で世界的に著名なイギリス生まれの論理学者、数学者、哲学者)

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「神がいなかったんなら、無神論者もいなかっただろうに。」

ギルバート・ケイス・チェスタートン(1874 - 1936 イギリスの作家・批評家。ディテクションクラブ初代会長。クリスチャン)

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。

悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。

しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

ヨハネ3:16−21

ヨハネ3章16節

「たとえ聖書の全部が失われても、ただこの一句さえ残っていれば、なお救いの道を知ることができる。」(D・L・ムーディー)

「これは聖書の縮図であり、また小さな福音書である。」(マルティン・ルター)

ヨハネ3:16はルターが死の床で何度も繰り返し口にしたと言われる聖句

「もしもあなたが聖書のことを何も知らなかったら、この箇所から始めることをお勧めする。

聖書のことは何もかも知っているというのでも、また、この箇所に戻ってきてほしい。

ぼくたちの誰もが、この句を思い起こす必要があるからだ。人が抱えている問題の核心は、人の心の中にある。

神の治療の処方箋――それは、ヨハネの福音書3章16節なのだ。」

「”神”を先頭に、”永遠のいのち”がしんがりをつとめるこの65字の希望の文字列は、

ぼくたちにもそうするように-神をすべての始まりとし、

永遠のいのちに行き着くように促している。

短い句だから、紙ナプキンにもさっと書きつけられるし、暗記するのも簡単なのに、なんと2千年ものあいだ。

幾多の困難や疑いを乗り越えてきたゆるぎない聖句だ。

もしもあなたが聖書のことを何も知らなかったら、この箇所から始めることをお勧めする。

聖書のことは何もかも知っているというのでも、また、この箇所に戻ってきてほしい。

ぼくたちの誰もが、この句を思い起こす必要があるからだ。人が抱えている問題の核心は、人の心の中にある。

神の治療の処方箋-それが、ヨハネの福音書3章16節なのだ。神は愛してくださる。

神は与えてくださる。ぼくたちは、永遠のいのちを生きる。」

(マックス・ルケード著『希望の数字3・16』)

「聖書の中で最もすばらしい箇所はヨハネによる福音書です。そしてヨハネによる福音書の中で最もすばらしい章は3章です。

その3章の中で最もすばらしい節は16節です。」

「親愛なる友よ、これが福音の核心です。このヨハネによる福音書3章16節によって、他のいかなる聖句によるよりも、

多くの魂が救われているのです。それは聖書の中で最もよく知られている聖句であり、他のどの聖句よりも、

多くの国語に訳されています。それは神の愛に関する最もすばらしい記述です。のみならず、それは神の御言葉であるのです。」(オズワルド・スミス)

「これが人生の最後の説教となるならば、私の選ぶ説教箇所はヨハネ3章16節である。」(チャック・スミス)

GOSPEL=GOOD NEWS

How To Know God (英語)

カルバリー・チャペルの枝教会ハーベスト・クリスチャン・フェローシップの牧師.

ハーベスト・クルセードのメイン・スピーカーのグレッグ・ローリーによる福音のプレゼンテーション(5分30秒)。

The G.O.S.P.E.L. Rap(英語)

ラップによる4分間の福音のプレゼンテーション

The Gospel Message (英語)

Video animation explains the Gospel Message of Jesus Christ.

以下は、D・M・ロイドジョンズが伝道メッセージの完璧な要約と語った聖句

「人々自身が私たちのことを知らせています。私たちがどのようにあなたがたに受け入れてもらったか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。」(1テサロニケ1:9−10)

「キリスト教問答」(内村鑑三)

さらば何によって貴下(あなた)はキリストの神性をお認めになったのでありますか。

私の全有whole beingによってです。すなわち私の実在そのものに省みて、ついに彼を私の救い主、すなわち神と認めざるを得ざるに至ったのであります。

それはドウいうことでありますか。私にはよくわかりません。

それは、私は罪人(つみびと)であるということを発見したからであります。私が生まれながらの罪人であることがわかった時に、私は私の理性までを信じなくなりました。罪は人の体と心とを汚すにとどまりません、彼の理性までをも狂わします。生まれつきのままの人の心をもってしてはとうてい神を見ることはできません。彼が神の事をわかろうと思えば、まったく自己(おのれ)を捨てて神の光明を仰がなければなりません。

その事はわかりました。しかしそれでドウして貴下はキリストが神であることをお認めになったのでありますか。

自己の罪を恥じ、良心の平安を宇宙に求めて得ず、煩悶の極(きわみ)、援助(たすけ)を天にむかって求めました時に、十字架上のキリストが心の眼に映り、その結果として、罪の重荷はまったく私の心より取り去られました。 その時に、私は初めて自分らしき者となりました。それから後というものは、私の全体に調和がきたりまして私はその時初めて神の救済(すくい)とはどんなものであるかがわかりました。

さればキリストに関する貴下のご信仰は学理に基づかずして、実験によって得られたと仰せられるのでありますか。

そうであります。しかし実験とは申すものの、これは化学や物理学の実験とはまったく性質を異にするものであります。これは道徳的実験であります。 すなわち良心の必然的命令によって自己を糺(ただ)して見ました結果、自己の、神にそむき、幽暗(くらき)を好む者であることを発見し、この罪人を救うに足るの救い主を求めて、ついにここにキリストに接して、この痛める良心を癒やすに足るあるものを見いだすに至ったのであります。 そうして私は、罪とは人に対して犯したものではなくして神に対して犯したものであることを知りまするゆえに、この罪の苦悶を取り去ってくれた者はかならず神でなくてはならないことを知ったのであります。

BIBLE

「聖書と私」(三浦綾子)

結婚以来私たちは、ほとんど毎日共に聖書を読んできた。ある時は旧約聖書3章新約聖書1章を読み、

ある時は新約聖書の1節しか読まぬことがあっても、とにかく共に聖書を読まない日はなかった。

そして、共に神に祈る日をつづけてきた。

これが私の結婚生活の土台であった。いや結婚する前から、会えば二人で聖書を読んだ。

初めて三浦と会った日のことを、私は今もはっきりと覚えている。

ギブスに伏している私を見舞ってくれた初対面の三浦に、一番好きな聖書の箇所を読んで欲しいと、私は頼んだ。

三浦はためらわずに、ヨハネによる福音書第14章をひらいて読んでくれた。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

わたしの父の家には住まいがたくさんあります・・・。」

というキリストの言葉であった。この5年目にわたしはいやされ、二人は結婚した。

私は時折、もし私が聖書を知らなかったとしたら、今ごろどんな生活をしているだろうかと思う。

戦争中に小学校の教師であった私は、敗戦を迎えて、ひどく虚無的な、そして懐疑的な人間になった。

その私を敗戦後7年にして変えたのは聖書であった。

聖書は私に、生きる方向を変えさせた。今まで背を向けていた光なる神のほうに、ふり向かせた。

光に背を向けている間は、私は自分の黒い不気味な影だけを見つめていた。

が、光のほうを向いた時、影は消え、聖なるあたたかい光だけがあった。

むろんこの光はまた厳しい光でもあった。この光に照らしだされた自分の姿を否応なく知らされたからである。

聖書の光に映し出された私の姿は、私が知っているよりも、はるかに卑小であり、傷だらけであり、醜かった。

だが、その醜いままの私を拒否せずに、受け入れてくれる愛の私を知った。

「あなたひとりだけのためにでも、キリストはあなたの罪を負って、十字架にかかってくださったでしょう。」

とある伝道師が言った時、私は戦慄にも似た激しい感動を受けた。この自分の罪のために死んでくれた人がいた、

というそのことが、理屈ではなく肌身に沁みてわかったのである。

本来聖書は、イエスを神の子であると指し示す本である。イエスが神の子であると証しする本である。

私が聖書に出会ったことは、すなわち神の子イエスに出会ったことでもあった。その神の子の愛が私を変えた。

こうして聖書は、私にとってなくてはならぬものとなった。

聖書が私になくてはならぬものとなって、初めて私の生きる目標は定まったと言えるそれは

聖書の言葉をひとりでも多くの人に伝えるということであった。

ある時は一枚の葉書により、ある時はリーフレットにより、

ある時は自分の家の前に立てた掲示板に聖句を貼り出すことによってなされた。

聖書の言葉には力がある。ひとことの聖句で死を思いとどまった例を、私は知っていたのである。

私が小説を書くという作業も、この延長線上にあった。以来今日まで、私なりに聖書にもとづいて書いてきた。

私のおこがましい願いを、神は聞き入れてくださったのか、私の小説を読んで聖書を読むようになり、

人生が変わった、という手紙が毎日のように寄せられてくる。まことにありがたいことである。

私は今後も、聖書を土台として書きつづけていきたいと思っている。

<いのちのことば社・全国家庭文書伝道協会(EHC)>

「聖書を一度も手に取らずに生きている人はたくさんいる。一生、ついに読むことなく過ぎる人々もいる。

私も二十六、七歳の頃までは、聖書はほとんど無縁の書であった。

その私が聖書を読み、キリストを信じて人生が変わった。怠惰で虚無的だった私の生き様が変わった。」(三浦綾子)

「私は文学者になろうとは思っていません。福音をぼかさないで証ししたいのです。

作品の中に、神や聖書がストレートに出てくるのは、伝道の方法として私がペンをとっているからで、

いわゆる『文学をやっている』という意識はさらさらありません。私にとって大切なことは、文学史に残る作品を書くことより、ひとりの人間が救われることが大切なんです。」(三浦綾子)

「聖書大意」(内村鑑三)

以下は、明治の著名なキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者の内村鑑三(1861~1930年)のまとめた「聖書大意」である。

聖書は六十六巻より成る。そのうち三十九巻が旧約であって、二十七巻が新約である。66と39と27である。いずれも3をもって除することのできる数である。ことに新約の27は3の三乗である。聖書にありては、3は聖数である。父、子、聖霊の三位がある。信、望、愛の三徳がある。聖なる、聖なる、聖なるかなと天使が三唱するを預言者は聞いた(イザヤ六章)。すべてがそのとおりである。聖書の聖書たるゆえんは、その巻数においてもあらわれている。

聖書は創世記をもって始まり、黙示録をもって終わっている。創世記は天地創造の記録、黙示録は天地完成の記録である。

「はじめに神、天地をつくりたまえり」というに始まりて、「われら新しき天と新しき地を見たり。さきの天とさきの地はすでにすぎさり、海もまたあることなし」というに終わっている。すなわち永遠に始まって永遠に終わっている。こんな偉大なる書はほかにない。国民史にあらず、世界史にあらず、宇宙史である。宇宙が成りし由来、その目的、その終極、これをしるしたるものが聖書である。しかも泡のごとくに消えたというのでない。無よりいでて無に帰ったというのでない。ある確実なる目的をもって造られ、その目的が完成せられて終わったというのである。愛の神よりいでて神に帰ったというのである。聖書は宇宙を取り扱う書であって、しかも恩恵的に取り扱う書である。無限的に偉大なればとて、曠空的に尨大でない。聖書は、アブラハムやヤコブの伝記をしるすように、宇宙の始終をしるしている。すなわち神の恩恵の目的物として宇宙と人生とを取り扱っている。荘厳かぎりなき、慈愛きわまりなき書である。

かくのごとき書は二つはない。論語がえらい、孟子がえらい、ダンテがえらい、シェクスピヤがえらいというて、とうてい聖書におよばない。他の書がことごとく消えてのちに聖書がのこる。聖書は世界唯一の書である。ジョン・ラボックという、英国の銀行家にして大天然学者が、世界の大著述百種をえらんで、その第一に聖書をおいた。聖書は古いからえらいのではない。えらいから古びないのである。人類は大著述をして死なしめない。ゆえにほかの書はことごとく死にうせても、この書だけは死なない。そしてほかにどんな大著述が出ても、聖書と寿命をともにし得ようとは思われない。今日までに聖書を攻撃した書はたくさんに出た。しかしそのいずれもが朝露のごとくに消えうせて、聖書のみが残った。

詩人ハイネが聖書を読んで彼の感想を述べた有名の言がある。左のごとし。

なんという書であるか。世界だけそれだけ広くかつ大きく、造化の根底に根ざし、青空の密室にまでそびゆ。日の出と日の入りと、約束と成就と、生と死と、人類のすべての理想とはこの書の中にあり。

詩あり、歌あり、哲学あり、歴史あり、伝記あり、預言あり、最大の思想、最高の理想、人のすべて思うところにすぐる悲しみとよろこび、すべてがこの書の中にある。ゆえに他の書は読まずとも、この書だけは読まねばならぬ。この書を怠りて、人生最大のものを怠るのである。聖書知識にとぼしき教育は不完全なる教育である。まことに聖書は「生命の書」である。この書を学ばざる人に生命なく、この書をしりぞくる国に生気がない。世界の歴史、偉人の伝記がことごとくこのことを語る。

聖書は人類の救済史である。神は人を救うにあたりて、哲学者や道徳家のごとくに倫理道徳をもってしたまわない。救済の事実をもってしたもう。まず個人を救い、しかるのちに社会国家を救い、ついに人類を救いたもう。人類の救済は、アブラハムの救いをもって始まった。つぎに彼の家を救い、彼よりいでしユダヤ国を救い、ついに彼の裔(すえ)として生まれしイエス・キリストをもって人類救済の道をそなえたもうた。そしてその長い歴史を伝えたものが聖書である。聖書は神が人類を救いたもう事実とその順序を示した書である。倫理書にあらず、いわゆる経典にあらず、歴史である。神の聖業の記録である。それがゆえにことに貴重なるのである。考えて成った教えではない。おこなってできた救いの記録である。人が新たに聖書を作ることのできない理由はここにある。聖書は儒教や仏教の経典とは全くその性質を異にする。聖人がいうたことばを伝えたものでない。神がその選びたまいし人と国の上にほどこしたまいし救いの記録である。

人類の救いにかかわる書であるがゆえに、人種民族の差別なく、読まれ、かつ消化せらるる書である。今日までにすでに5百以上の国語に訳された。聖書を学んで人ははじめて世界人になる。西洋人の書でありまた東洋人の書である。南洋人の書でありまた北洋人の書である。われらは聖書を読んで、欧米人のみならず世界万国民と理想をともにし、希望を一にする。この書を読んで、人は深くせられ、また広くせらるるのである。

<『聖書之研究』より抜粋>

ザ・ストーリィ(聖書の要約ビデオ6分25秒)

https://vimeo.com/179923577

聖書には天地をお創りになった真の神の御心、人間の本当の姿、神に背く者の行き着く所、神の救いの道、神を信じる者の幸いなどが書かれています。

聖書の教えは神聖なものであり、またその戒めは私たちが責任を持って守らなければならない事なのです。

聖書に書かれている歴史的な事柄は全て真実ですし、聖書に定められたことは、必ず実現いたします。どうか聖書を読んで知恵ある人となってください。

聖書に記されていることを信じて身の安全を図ってください。

聖書の教えを実行してきよい者になってください。それは、聖書こそあなたの歩む道を導く光であり、足元を照らす灯であり、あなたを支える心の糧であって、あなたを慰め励ます書物だからです。

聖書はまた旅する人の地図、巡礼する人にとっての杖、パイロットにとっての羅針盤、クリスチャンにとっての憲章に例えることが出来ます。

聖書のあるところ地獄への門が閉ざされ、天への道が開かれ、パラダイスが回復するのです。

イエス・キリストこそ聖書の大きな主題であります。

そして、聖書が心から望んでいることは、私たち人間が良くなること、そして最終的にはそれによって創造主なる神が栄光を御受けになることです。

聖書の言葉を暗記するように心掛けてください。そうすると、暗記したその言葉があなたの心を支配し、あなたの日々の歩みを導くようになります。

聖書を読む時は、ゆっくりと何回も繰り返し読んでください。その時あなたは聖書こそ、無限の富が隠された宝の山であり、聖書の世界こそ栄光にあふれた天国そのものであり、また喜びが満ちあふれて流れる川であることを発見されるでしょう。

聖書に書かれてあることを信じる人には永遠の生命が豊かに与えられ、その名前は生命の書に記されて、永遠に覚えられ、また死んでから全ての人が一度は必ず立たねばならない審判の日にその人は恐れなく神の前に立つことが出来ます。

どうか聖書を読んで創造主なる神が永遠に与えようとする最善、最良の贈り物を自分のものにしてください。

日本国際ギデオン協会

聖書(新改訳第三版)の統計データー

巻数:66巻(旧約39巻 新約27巻)

章数:1189章(旧約929章 新約260章)

節数:31173節(英語欽定訳31102節)

頁数:2038頁(旧約1562頁 新約476頁)

単語数:77万4746語(旧約59万3493語 新約18万1253語)

ジュネーヴ聖書(節番号をふった最初の聖書):77万3692語(旧約59万2439語 新約18万1253語)

1日3、4章読むと、1年で読み終えることができる。

10章読むと、120日で読み終えることができ、1年間に3度読むことができる。

10章読むのにかかる時間は約1時間。

1日50章読めば、24日で読み終えることができる。

2週間の休暇を取り、一日100章、10時間聖書を読み込むと、12日間で読み終えることができる。

聖書中最長の章:詩篇119

聖書中最短の章:詩篇117(2節)

聖書中最長の節:エステル8:9

聖書中最短の節:1テサロニケ5:16(ギリシャ語の単語数)

旧約の最短の節:歴代誌第一1章25節

聖書の真ん中の章:詩篇117篇(前後に554章ずつ)

旧約の真ん中の章:ヨブ29章、新約の真ん中の章:ローマ13章

聖書の真ん中の節:詩篇103:1−2

旧約の真ん中の節:歴代誌第二20章17節、新約の真ん中の節:使徒17章17節

旧約の真ん中の書:箴言、新約の真ん中の書:テサロニケ第二

聖書中最長の祈り:ネヘミヤ9:6ー37

聖書中最短の祈り:マタイ14:30

聖書中最長の単語(イザヤ8:1「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」)

聖書中の命令数:6428回

聖書中の約束数:1260回

聖書中の質問数:3294回

聖書中の預言成就数:3268回

[聖書の1/3が預言]

旧約の2万3210節のうち6641節にあたる28.5% が預言。新約の7914節のうち1711節にあたる21.5% が預言。トータルで聖書66巻3万1124節のうち8352節にあたる27%が預言(およそ1/3)。このうち、300以上が初臨の預言。1845以上が再臨の預言(内新約に318)。新約の30節ごとにキリストの来臨の預言が記されている。新約の27巻中23巻はキリストの再臨の預言。50回以上イエス・キリストの来臨に備えるように勧告されている。

イエス・キリストの預言の成就に関する数学的確率

旧約聖書には300以上のイエス・キリストの初臨を預言する箇所があり、このすべての預言がイエスという人物の上に成就した。それは決して偶然の出来事ではなく、この世が始まる前からの神の計画であったと聖書は明言している。

イエスはこうした預言を知っていて、故意にそれに合う行動をしたという主張があるが、預言の多くはイエスのコントロールを超えている。

以下はその一部

●処女懐妊(イザ7:14;マタイ1:23)。

●ベツレヘムでの誕生(ミカ5:2;マタイ2:6)。

●イエスの統治とイエスが世界が始まる前から存在した事実(ミカ5:2;イザ9:7)。

●ヘロデ王による幼児殺害(エレ31:15)。

●イエスの前に使者が立てられること(イザ40:3;マタ3:1,2)。

●ガリラヤでスタートした宣教活動(イザ9:1;マタ4:12,13,17)。

●ロバの背中に乗ってのエルサレム入城(ゼカ9:9;ルカ19:35-37)。

●友に裏切られること(詩41:9;マタ10:4)。

●銀貨30枚で裏切られること(ゼカ11:12;マタ27:3)。

●イエスを裏切った銀貨が神殿に投げ込まれること(ゼカ11:13;マタ27:3-10)。

● 十二使徒に見捨てられる(ゼカ13:7;マタ26:31;マル14:27;14:50)。

●偽の証言で糾弾される(詩35:11;マタ26:59,60)。

●責められても黙っている(イザ53:7;マタ27:12)。

●傷つけられ、打たれる(イザ53:5;マタイ27:26)。

●侮辱され、つばをかけられる(イザ50:6;マタ26:67)。

●嘲笑(詩22:7,8;マタ27:31)。

●手と足が刺し貫かれる(詩22:16;ルカ23:33;ヨハ20:25)。

●強盗とともに十字架にかけられる(イザ53:12;マタ27:38;マル15:27-18)。

●敵のためにとりなしをする(イザ53:12;ルカ23:34)。

●自分の民に否定される(イザ53:3;ヨハ7:5、48)。

●理由なしに憎まれる(詩69:4;イザ49:7;ヨハ15:25)。

●人々が頭を振ってそしる(詩109:25;マタ27:39)。

●さらし者として眺められる(詩22:17;ルカ23:35)。

●彼の着物が分けられ、くじ引かれる(詩22:18;ヨハネ19:23,24)。

●のどの渇きに苦しむ(詩69:21;ヨハ19:28)。

●苦みを混ぜたぶどう酒と酸いぶどう酒が差し出される(詩69:21;マタ27:34、48)。

●骨が折られない(詩34:20;ヨハ19:33)。

●わきばら(心臓)が突かれる(詩22:14;ゼカ12:10;ヨハ19:34)。

●地が暗闇で覆われる(アモ8:9;マタ27:45)。

●裕福な人の墓に埋葬される(イザ53:9;マタ27:57-60)。

また、こうした預言はイエスの存命中あるいは彼の死後書かれたもので、捏造されたものであるという主張も聞かれる。しかし、旧約聖書はBC450年には完了し、またヘブル語聖書のギリシア語版である70人訳聖書の翻訳は、プトレマイオス2世フィラデルフォスの時代(紀BC285-246年)に始まっていることが、歴史学上証明されている。ヘブル語の旧約聖書が完成し、人々の手に渡っていなければ、BC250年頃に他言語への翻訳が始まっていたはずがない。つまり、預言が記録された時期からイエスがそれを成就するまでに、少なくとも250年程度の時間が流れたことになる。

ピーター・W・ストナー教授(1888-1980)は1953年までパサディナ・シティー大学の数学、天文学科委員長、1953年から1957年までウェストモント大学、科学科の委員長を務めた教授である。そのストナー教授は300に及ぶメシア預言(イエス・キリストの初臨に関する旧約預言)の中の一握りの預言でも一個人に成就することは統計上至難の業であると、その著書『科学は語る』の中で結論付けている。

米国科学協会のH・ハロルド・ハルツラー博士は、同書の序文において、次のように述べている。「『科学は語る』の原稿は米国科学協会の会員たちの委員会および同協会の実行評議会によって注意深く調べられ、全般的に、そこに提示されている科学的史料は信頼することができ、正確であるということを発見した。そこに含まれている数学的な分析は、まったく健全な確率の原則に基づいており、ストナー教授はこれらの原則を適切に納得できる方法で用いている。」

ストナー教授は、前掲書の中で、8つの預言に関して、現代の確率学を用いることによって、「現代までに生きてきた人の中の誰かが8つの預言をすべて成就する可能性は、10の17乗分の1回であることがわかる」と述べている。調査結果し、科学は聖書の預言が正確であることを立証している。 それは 100,000,000,000,000,000 分の1ということになる。それは、テキサス州全土に 2 フィート(約 60 センチ)の高さまで銀貨をしきつめて、その中の一つの銀貨にしるしをつけ、目隠しをしたままで、その銀貨を一回で取り出す確率を意味する。こんな事は決して偶然に起こり得ることではない。ストナー教授は次にようにコメントしている。「さて、これらの預言は、神の霊感によって書かれたか、預言者たちが自分たちの心が命じるままに、それらを書いたかのどちらかである。このような場合、それらの預言がだれか一人の人によってすべて実現する偶然性は10の17乗分の1に過ぎないが、それらの預言はキリストにおいて、すべて実現したのである。・・・このことは、これらの8つの預言が成就したことだけからしても、神がこれらの預言を霊感し、10の17乗分の1の偶然性しかないものを、完全に成就する明確なものとされたことを意味している。」

またストナー教授は、300の預言の中の48が同じように偶然に一人の人物の生涯にすべて成就する確率を計算した。

その結果は

10,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000,000, 000, 000,000,000,000,000,000,000,000分の1 (10の157乗分の1)

であった。

現在、全宇宙に存在する電子の数は、推定で10の79乗個であると言われていることから考えると、48の預言のすべてが偶然に誰か一人の生涯に成就するということは、どう考えても起こり得ないことであり、確率学上不可能な数字と言われる。ましてや300の預言がイエスという人物の生涯にすべて起こったという事実は、その事が偶然ではなく、初めから分かっていたこと(神の計画)であったということを証明する以外のなにものでもない。

聖書はまぎれもなく神のことばである。

ゴッド・ストーリー 創造から永遠へThe God’s Story Project (80分ビデオ。Japaneseをクリック)

創世記から黙示録までの絵本物語。諸国語で観ることができる。

以下はYouTube投稿映像

映画『Jesusジーザス日本語吹替

The JESUS Film Project。ルカの福音書に基づいたイエス伝映画。観客動員数はこれまでに219カ国で11億2千97万7663人が観たと言う(ギネス世界記録)。吹き替え版も410言語版があり、さらに220言語での上映が準備中。この数字は世界全人口の85%以上が観たことになり、各言語版の数も映画史上最多。この映画を通して約5600万人がイエスに従う決心をしている。映画はビデオ化され、既に200万本が世界各地に配布されている。

MyLastDay.jp(私の最後の日)

イエス・キリストの十字架の死。アニメのショートフィルム。

Manga Risk Ride

イエス・キリストって誰?

日本キャンパス・クルセード・フォー・クライスト(上記の映画を製作した団体)。平明ながらしっかりポイントを押さえている。ジーザス・フィルムはこちらからも観ることができる。

豊かな人生のための四つの法則 イエスを知るには

日本キャンパス・クルセード・フォー・クライスト。ウィキペディアにまで載る超有名な法則。福音のシンプルな図解。

イエス・キリストとは誰ですか Who is Jesus?

Global Media Outreach。日英でかなり詳しく学ぶことができる。英語オリジナルhttp://www.whoisjesus-really.com/

イエスに目を向ける

Global Media Outreach。ステップ1~ステップ6まで、救いから教会生活までのクリスチャン生活の手引き。音声メッセージもある。

JESUS-FOLLOWER/イエスに従う人たち

求道者・初信者向け。伝道用・弟子訓練用ツール。聖書の学び方(PDF)・ビデオ等。

日本の学生

日本の学生の素朴な疑問や悩みに答える。メールで質問もできる。

人生とは・・・

つながりの中で分かち合い生きる価値を見つけてほしい。人とつながる。神とつながる。キリスト教Q&A。

ザ・ホープ(The Hope)

日本語ページをクリック 。映像とともに。

神についての全て

All about Godの日本語版。「神とは誰ですか?」「弟子訓練」「福音伝道」の3つのカテゴリーの中に多くの項目がある。質問もメールでできる。

英語オリジナルhttp://www.allaboutgod.com/

道程―All About The Journey

聖書は真実なのか? 神は存在するのか? イエスって誰ですか?英語オリジナルhttp://www.allaboutthejourney.org/

日本語版 www.GotQuestions.org

聖書に関する質問の答えは定評がある。疑問だらけの人におすすめ。

Christian Answers.net 日本語

『ゴッド・ストーリー』を製作。創造と進化、聖書と科学、ダ・ヴィンチ・コード等、様々な疑問に答える。

Interview with God Japanese 神さまへのインタビュー

FLASHムービー 。美しい映像とともに。英語オリジナル・バージョン

Father’s Love Letter (日本語バージョンダウンロード)

イエス・キリストを信じていないなら、おまえはもう死んでいる・・・

約30分 日本語字幕付

※ホロコースト、中絶の映像にショッキングなシーンがあるので注意を要する。

「キリストによって人間が救われるということはどういうことなのか。

それは人間が神とともに働き、そして最初の人間アダムの堕罪以前の状態すなわち恩寵に満たされ、

何らの不足も不満も不安もない、そして神とともにあたかもその友となって暮していた状態、

神の友となるという状態への回帰です。まさに神の友である以上、

もはやこの世の何者をもその心の主とする必要もない。

したがってだれの手下でもないということ、それゆえ、本当に自主的であるという状態です。」

(4世紀の神学者ニュッサのグレゴリオス)

「しかし、その人が神より生まれるとき、御霊によって生まれるとき、存在のあり方は劇的に変化します。

そのとき、たましい全体が神を知覚できるようになります。

神より生まれた人は、確かな体験によって、「あなたは私の床のそばにおられ、私の道のそばにおられる」、

私はあなたを「私のすべての道に」(詩篇139の2)感じます、

「あなたは前から後ろから私を取り囲み、私の上に御手を置かれました」(同5)と言うことができます。

御霊、すなわち神の息は、直ちに新しく生まれたたましいの中に吹き込まれ、吸い込まれ、

そして同じ息が、たましいから出て神へ帰ります。この神の息が、信仰により継続して受け取られ、

愛と祈りと賛美と感謝によって神のもとに返されるのです。

愛と賛美と祈りとは、まことに神より生まれたすべてのたましいの息です。

そして、この新しい種類の霊的呼吸によって、霊的生活はただ維持されるだけでなく、

霊的な力と活動と感覚とともに、日増しに成長します。

たましいのすべての知覚が目覚めて、霊的な善悪を見分けることができます。」

(ジョン・ウェスレー)

「今日のキリスト者はみな、伝道について強い関心を持つべきである。

今日の世界は、真のキリスト者を、極度に必要としている。

今日の教会がしなければならないことは、外部の人々を引きつけるために、伝道戦線を結集することではない。

教会自体がキリスト者としての生活を生き始めることである。

私はこのことを、何度でも繰り返し語りたい。もし教会がそうしているなら、

人々は教会堂に押し寄せて来ていることであろう。」

(D・M・ロイドジョンズ)

あなたは私に尋ねられます。

どのようにキリストをお慕いするようになったのか。

私は知りません。

キリストへのあこがれが、たましいに生まれました。

ずっと以前に。

地上の花がしおれ、枯れるのを見ました。

何か私を満たすものはないかと求めて泣きました。

そしてあの時、なぜかわかりません。

でも勇気を出して、絶望した心を神に向けて祈ったのです。

私は知りません。どうしてかは。

ただ私は知っています。

彼こそ私の救い主であることを。

(作者不詳)

「神様。私は罪人です。私の罪を悲しんでいます。私は、喜んで私の罪に背を向けます。

キリストを救い主として受け入れます。キリストを主と告白します。

今からはキリストに従い、教会の交わりの中でキリストに仕えることを願います。

キリストの御名によってお祈りします。アーメン。」

(ビリー・グラハム)