5 MGF集会案内(Service Times)

以下の集会スケジュールは変更される場合もありますので、

MGFの教会スケジュール・カレンダーにて確認してください。

またはメールや電話で直接牧仕まで。どうぞご遠慮なくお問い合わせください。

このような礼拝をささげたいのです。

1. 上手ではなくても、感激と喜びの賛美をささげたいのです。

2. たどたどしく、また前後の文脈が合わなくても、主の御前で頭も上げられずに胸を打った取税人や遊女の祈りがある礼拝をささげたいのです。

3. 美しい壁画や生け花もなく、馬小屋のような匂いがし、椅子が壊れて座るところがなくても、全てを感謝すると告白する、謙遜な人々の礼拝をささげたいのです。

4. 驕慢な人の虚栄心を楽しませるだけの、人の知識と技巧をこらした説教ではなく、いのちをかけて主の御前に出て、聖なるみことばを肝に銘じ胸に刻み、涙をもって叫んだ昔の預言者たちの声を聞きたいです。

5. 高慢な心の飾り物であるかのような献金の代わりに、心からささげたやめものレプタ銅貨二つのような礼拝をささげたいのです。

6. 自分の宗教的な義に酔って、主を疎外するパリサイ人の供え物ではなく、霊とまことでささげる聖なる供え物をささげたいのです。

7. 説教の時間が10分でも長くなると、退屈になる礼拝ではなく、主のみことばに全ての人格が魅了され、主の足元を離れなかったマリヤのような礼拝をささげたいのです。

8. 主の栄光が現れ、人間の汚れを溶かし、主により新たに生まれ変わる礼拝をささげたいのです。

9. 私たち同士がお互いに手を打っている瞬間にも、外で涙を流しながら立っておられるイエスの御前に出て、主の涙の御前にひざまずく、そのような礼拝をささげたいのです。

10. 祝祷が終わった途端、いち早く逃げるように去ってしまうコンサートのような礼拝ではなく、礼拝が終わってしまったことが惜しく席を立つことが出来ないまま、主の御前に立ちつくすヨシュアのような礼拝をささげたいのです。

『礼拝革命 生きる神と出会うために』(趙建會著)より

「『こういう礼拝の仕方はわたしの好みに合うだろうか』というような問い方は絶対にいけないのであって、むしろ、次のように問いかけを行なうべきなのである。

『この教会の教義は真実だろうか。ここには神聖さがみなぎっているだろうか。わたしの良心がわたしをこの教会へと押しやっていると言えるだろうか。

この教会の門を叩きたくない気がするのは、わたしの傲慢のせいなのか。それとも単なる趣味の問題か。

あるいはまた、この門番の顔が気にくわぬというだけのことなのか。』」(C・S・ルイス)

礼拝は神の価値を宣言すること、神の性質をほめたたえること、神のみわざに捕らえられ、驚嘆すること。

「礼拝の第一の要素、神の御前での圧倒される様な畏れ、畏怖と崇敬の念を取り戻さない限り、

正しい礼拝をする事は出来ない。」(ロバート・W・ベイリー)

◉重要【夜の礼拝時間は月毎に変動します】(伝道者の書連続講解説教中

「聖日礼拝は一年に52回めぐってくる春である。」(英国の詩人 サミュエル・テイラー・コールリッジ)

「主日礼拝とはまず第一に信者のための集まりです。」(R・C・スプロール)

★【主暦2021年8月礼拝スケジュール】

 8月 1日(主日) 午前10時30分 聖餐式

 8月 8日(主日) 午前10時30分 誕生会

8月15日(主日) 午前10時30分

8月22日(主日) 午前10時30分

 8月29日(主日) 午前10時30分

月の夜7時からの礼拝はありません(夜礼拝に関しては毎月時間の変動があります)。

※新型コロナウイルス感染拡大の影響で急遽礼拝を中止し、オンライン礼拝に切り替える場合もありますのでご了承ください。


3月29日からYouTubeにて礼拝動画の配信を始めました!

「妄想パウロ書簡~コノサイ人への手紙(ネット配信礼拝者の心得)」(水谷潔牧師)

1. 主のしもべであるパウロより、21世紀日本のネット配信礼拝者たちへ。あなたがたが、感染リスクの中にあっても、ネット配信によって礼拝をささげていることを、神に感謝しています。

2. しかし、あなたがたのことをほめるわけにはいきません。なぜなら、あなたがたの中には、一方的な配信であるのをいいことに「どうせ見えないんだから、この際・・・」と考える「コノサイ人(この際人)」がいるからです。

3. 私は、普段着やスッピンで礼拝をささげる兄弟姉妹を責めているのではありません。それは、自然体で神様の前に出ているとも言えるでしょうから。

4. そうではなくて、あなた方の中には、パジャマのまま礼拝をささげる者、朝食を食べながら説教を聞く者、洗濯物を干しながら賛美する者などの「ながら礼拝者」がいると聞いています。いいえ、神はそのような礼拝者をご覧になっておられます。

5. 教会までの移動時間がなくなるのだから、今までより余裕をもって、着替え、朝食、洗濯などはできるはずです。

6. 礼拝は神との愛の交わりです。それは心を込めて、専心すべき交わりに他なりません。ながら礼拝は、ながら運転と同様の危険行為です。それは、神との交わりを断絶させ、あなたがたの霊的いのちを奪いかねないからです。

7. 礼拝時は神に向き合い、決して神に背中を向けてはなりません。「配信されても背信するな」です。

8. ああ、愚かなコノサイ人。あなたがたは、礼拝時に神の前に出ているというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか。

9.これだけは、あなたがたに聞いておきたい。あなたがたは、「礼拝者」として神に召されたのですか。それとも、「礼拝中継の視聴者」として召されたのですか。

10.これからは、だれも、私を煩わせないようにしてください。「どうせ、見えないんだから、この際・・・」との思いを捨て去り、「コノサイ人」から「真の礼拝者」へと心の一新によって変えられなさい。

11.礼拝者に注がれる神の恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。アーメン。

「妄想・黙示録2章。「ながら礼拝者」への戒めとさばき?の言葉」(水谷潔牧師)

1. 「スミルナ」ならぬ「タベルナ」となった教会の御使いに書き送れ。「右手に七つの配信用マイクを握る方、七つの通信機器の間を歩く方が、こう言われる。

2. 「わたしは、新型コロナ・ウイルス感染拡大にあってのあなたの行い、あなたの労苦と忍耐を知っている。また、教会に集うことが困難な中、ネット配信を通じて礼拝をささげていることも知っている。

3. けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは『初めの礼拝』から離れてしまった。

4. あなたは、自宅でパソコンを前に、配信される礼拝を見ながら、朝食を食べている。今や、あなたの自宅は、自宅教会でありながら食堂となっている。

5. それは『スミルナ教会』ならぬ『タベルナ教会』だ。『タベルナ』は日本語では『食べるな』だが、ギリシャ語では『食堂』を意味するからだ。あなたは、散らされた教会となった自宅を食堂にしているのだ。

6. 昔の交通標語で『飲んだら飲むな。飲むなら乗るな』と言われているのをあなたがたは聞いている。しかし、わたしは言う。『食うなら礼拝するな。礼拝するなら、食うな』と。

7. 朝食だけではない、皿洗い、洗濯、メイク、髭剃りなど、すべての『ながら礼拝』は『初めの礼拝から離れた礼拝』に他ならない。

8. だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの礼拝をささげなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところへ行って、あなたのパソコン、スマホをその場所から取り除く。

9. 見よ。わたしは送られてくるメール記載のURLの外に立ってたたいている。だれでも、URLをダブルクリックして、配信を受けるなら、わたしはその人のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

10.わたしはあなたを愛している。礼拝はともに食事をするような私との親しい交わり。だから、礼拝時には、私とではない別の食事をしないで欲しい。

11.わたしは妬むほどの熱愛をもってあなたを愛している。だから私と食事をしているときは、他ごとをしないで欲しい。一切、よそ見をしないで欲しい。あなたは、やがて、キリストの花嫁となる婚約者なのだから。

12.耳のある者は、御霊が諸教会に告げることを聞きなさい。」

「礼拝は人類のとり得る最も栄光ある行動である。」(カール・バルト)

「『教会』と呼ばれるこのクリスチャンの共同体の目的は、まず、神を賛美し礼拝することです。

私たちが教会に行くのは、ただ説教を聞きに行くためではなく、神を礼拝し賛美を捧げるためです。」(ビリー・グラハム)

「地域の教会は、キリスト教の信者一人一人が個々に行なわなければならないことを、協同して行なうために存在すると私は信じている。

それは神を礼拝することである。私たちは、神を礼拝するために救われたのである。

キリストが過去に私たちのために行なわれたことすべてと、今行なっておられることすべては、この一つ一つのことを目的としている。

私たちがこの真理を否定し、礼拝はそんなに重要ではないと言っているならば、

私たちキリスト者の交わりの中に大きなうねりとしてある発育不全の原因が、そういう態度にあるのだと非難されることになる。

イエス・キリストの教会が霊的な学校であるなら、今まで第一学年から卒業した人が、ほとんどいないのはなぜだろうか。」(A・W・トウザー)

「私は教会に通えば通うほどイエスとイエスのことばをより一層信じるに至り、

またイエスに導いていただくことによって私は今一切の重圧から解放されているように感じる。」

「だれでも、経験と能力のある指導者の指導を必要としています。自分で自分を訓練することなどできないからです。

キリスト教についてもそれと同じです。教会は、たましいを訓練する道場のようなものです。」(シルベスター・スタローン)

偽善者たちがいるからという理由で教会に行かないのは、体型の崩れた人たちがいるからという理由でジムに行かないのと同じだ。

他の誰をもあなたが教会を去る理由にしてはならない。彼らはそもそもあなたが教会に通う理由なのではないから。

「教会は弟子たちが1週間に1度通うところではない。教会は弟子たちが作られる場所である。」(マイケルー・ホートン)

「礼拝出席は、豊富で健康な血の輸血が病人に欠かせないように(キリストの)弟子にとっては絶対不可欠である。」

(ドワイト・ムーディー)

シカゴの有名な人が、D・L・ムーディーを自分の部屋に迎えた時、「教会の外にいても、その中にいるのと同じように、立派なキリスト者になれると思うのですが」と語った。するとムーディーは暖炉の側に行き、真赤な石炭を1個火箸でつまみ出し、燃えるままにして置いた。二人は黙ってその石炭がくすぶるのを眺めていたという。そしてその紳士は「わかりました」と言い、次の日曜日には教会に出かけたという。

「本来、教会は楽しみを供給したり、弱さを励ましたり、自尊心を育てたり、友情を育んだりする場所ではなく、

礼拝する所である。この点で失敗するなら、その教会は失敗である。」(フィリップ・ヤンシー)

礼拝とは「驚きと愛と賛美に我を忘れること」(チャールズ・ウェスレー)

礼拝とは「回心する前には感じなかった何かを心で感じる事、それを何かの形で表明する事です。

そして、それは古くから神秘でありたもう方の御前で、讃美に満ちた恐れを感じ、

例えようも無い驚きに打たれ、心を揺り動かす愛に圧倒される事です。

その時の、遜(へりくだ)りつつ、尚抑え切れない喜びです。」(A・W・トウザー)

「礼拝は、私たちが自分のことに夢中になっているのをさえぎり、神の御前に出てゆくための戦略である。

礼拝は、自分たちを意図的に神の御前に出て行かせる時間と空間であるーー神が時間と空間に閉じ込められているからではなく、

私たちの自己過大視が油断ならぬほど見境ないものなので、意図して規則的に自分たちをさえぎるようにしないと、

他の時、他の場所で神の御前に出てゆくチャンスを全くなくしてしまうからである。」(ユージン・ピーターソン)

「礼拝は教会の呼吸、教会生活の魂、その伝道任務の燃え立つ炎のようなものであって、石造りの祭壇で行なわれるべきでなく、

人々の心という生きた祭壇で行なわれねばならない。」(アンリ・ジェニー)

「すべてのことの最終目標は、あらゆる部族、言語の違う民、民族、国家から、贖いに預かった数え切れないほどの人々の群れが

情熱的愛をもって、神を礼拝することです。」(ジョン・パイパー)

「礼拝とは人間、天使、あるいはその他の『霊的』存在者、さらに、比喩的には他の存在物、観念、勢力、属性に対して、

しかし特定かつ最高の意味では神に対して、思考、感情、行為における栄誉、崇敬、忠順の意を現わすことである。」

(フィリップ・クラネル)

「礼拝は、神がどのようなお方であるかを思い起こさせる(is)。

礼拝は、サタンがどんなものであったかを思い起こさせる(was)。

礼拝は、私たちがどのような者となるかを思い起こさせる(will be)。」

(マーク・バターソン)

「礼拝がキリスト教共同体を形成する中心である理由の一つは、礼拝の中で共同体の全員が出会い、

その関心が一つに結びつくからである。」(W・ウィリモン)

「キリスト教礼拝とは、イエス・キリストを中心として行なわれる、

神と神の民との公かつ共同の、出会いと交わりの出来事である。」(越川弘英)

「礼拝は本質的に応答である。まさに神の恵みの『言葉』に対する、

すなわち、神がわたしたち人間とその救いのためになしたもうたことに対する応答にほかならない。」

(レイモンド・アバ)

「知らない神を礼拝することはできない。

すべての真の礼拝は、キリストと聖書に神がご自身を明らかにされたことへの応答である。

そして、神がどのようなお方であり、どのようなことを為されたのかに対する私たちの応答から生じるもの、起こるもの、

それが真の礼拝だ。」(ジョン・ストット)

「礼拝とは、主イエス・キリストに出会うことである。」(車田秋次)

礼拝は、「聖書に示された神と神の民である教会とが公に全体として会見すること」(キリスト教礼拝辞典)

「もし、人々が神に触れていただくことのないまま礼拝を終えるとしたら、いったい、何のために集まったのか。

神にまみゆることもなく、人生を変え得る力と愛に満ちたお方を経験しもしないのに、それを礼拝と呼ぶのか。」

(ジム・シンバラ)

「礼拝というのは、私たちが人間的な創造力を表現する場所ではない。クリスチャンは何か新しい方法で神を礼拝するのではなく、

むしろ信仰の従順の問題として、御言葉に従って礼拝すべきである」(ジャン・カルヴァン)

「教会の基本的機能は、神の礼拝にある。人々は、ここで、永遠の神との受ける交わりに入り、去りゆく時間の生活を処理する。

また、ここで暫し休らい、”時間の刹那、刹那に永遠の印を捺す”のである。」(スタンレー・ジョーンズ)

「礼拝は教会の礼拝プログラムに参加する以上のこと。賛美は教会音楽の演奏、讃美歌の合唱以上のこと。

奉仕は教会活動の維持・推進の働き以上のこと。献金は教会の献金袋(箱)にお金を投げ入れる以上のこと。」(キリストバカズ)

合同賛美の時間のあとに「キッズ・チャペル」(幼児~小学生まで)があります。日曜礼拝後の食事は無料です。

礼拝後はTea Time(茶話会)と交わりの自由時間があります(不定期にアフター・グローもあります)。

聖餐式:(日曜日の礼拝以外にも毎週水曜日と金曜日の夜のバイブル・スタディーにも聖餐式があります)。

「不信仰の者は祈り、聖餐を受けるべきでしょうか。その通りである。求めよ。そうすれば与えられる。

もしあなたがキリストが罪深い、助けようのない信仰者の為に亡くなられたことを知っているならば、パンを食し、杯から飲みなさい。」

(ジョン・ウェスレー)

「聖餐式は私たちの信仰の弱さを補うために備えられたものである。」(ジャン・カルヴァン)

「・・・このような誤謬が生じたのは、祝聖(聖餐のためにパンとぶどう酒を意義付けること) の遂行のかかっている約束が、パンやぶどう酒の要素そのものには向けられず、これを 受ける人々に向けて定められている事情を考察していないからである。また、キリストは パンに向けて語って、これをわたしのからだであるとしたもうたのではなく、弟子たちに『これを食べよ』と命じ、彼らが御からだと御血とにあずかることを約束したもうのである。・・・われわれはここで、この制定語が[心を持たぬ被造物たる]パンやぶどう酒の要素に聞かれるかのように、もぐ もぐとつぶやかれさえすれば十分であるような、何かの魔術的呪文であると空想してはならない。そうではなく、[よってもって聖礼典の聖別される]「言葉」とは、聞くものの信仰を建て、かれらのたましいの内に透徹し、 かれらの心情に印銘され、固着し、その約束するところを成就することによって効力をもたらす、生きた「説教」であるとわれわれは理解すべきである。」(ジャン・カルヴァン)

「聖餐から遠ざかっている者はキリスト者ではない。」(マルティン・ルター)

「聖餐式に頻繁に通う習慣を身に着けなさい。それもとりわけ、あなたたちが聖餐式にふさわしく自己を整えたとき、すなわち、心のうちで罪を悲しんでいるときこそ。それは、あなたたちが私たちの救い主イエス・キリストを忘れずに、主の犠牲と死とに思いを向けるためです。主は私たちからこのこと以外を期待してはおられません。『自分が下手であるとか、弱いとか、不忠実である』と感じるときに、あなたは主以外のどこから力をさがすつもりなのですか。汚れのない強い人間になるのを待ち続けるのは愚かなことです。そのような存在には決してなれません。もしも、自分がそのような者だと思い込んでいるなら、聖餐式はあなたにとって何の益もありません。」(マルティン・ルター)

第二次大戦で何千人というクリスチャンがヒットラーの捕虜収容所で苦しみを受けたが、その一人にマルチン・ニュオミュラーというユダヤ系ドイツ人がいた。彼は独房につながれていたが、あるクリスマスの日に、独房から出され、三人のクリスチャンがいる部屋に放り込まれた。その三人の一人はサルベーション・アーミー、一人はペンテコステ系、一人はメソジストであった。ニュオミューラー自身はドイツのフリー・エバンジェリカル・チャーチ出身であった。その部屋に放置されていた空襲で焼け焦げたドアーをテーブルにし、四人はその日あてがわれた干からびた黒パンと水をその上に載せ、四人で聖餐式を祝う。ニュオミューラーは「私たちが向き合って冷たい床にひざまずいたとき、私たちの教義の違いは完全に消え去った。」と書いている。

「あるドイツの説教者が、聖餐式について説教して、こう言ったことがあります。母の日に、花を胸に飾った若い人々が、老いたる母をいたわって公園を散歩するのを見るのは美しい光景である。しかし、いささか皮肉に言えば、この母の日1日を除く364日の間、母を愛さず、大切にしない罪滅ぼしを、ここでいっぺんにやっているように思われる。われわれの聖餐式もそれに似て、1年に1回、あるいは1月に1回聖餐式に列して、聖餐を大切にしたつもりかもしれないが、聖餐において求められるのは、日ごと、それによって生かされる心だと言うのであります。日ごとに私どもの共同体がつくられる、教会がつくられる、信仰を持たぬ友をここに招くのであります。ここに同席する求道者にも、私どものわざを、今ここでしていることを見てください、この共同のわざに1日も早く加わってくださいと呼びかけるのであります。今この心に生きて、この主の聖餐に、共にあずかりたいと思います。」(加藤常昭)

「聖餐式の象徴することすべてが私は好きです。神が人となったという点を私たちに分からせてくれるからです。単にそう思う、ということではありません。はらわたで理解する、ということなんです。」(ユージン・ピーターソン)

MGFでは(現在不定期ながら)日曜礼拝後、「ポットラック・ディナー」を催している。「ポットラック」とは、あり合わせの料理を持ち寄って行なう会食のこと。米国では教会行事として始まり、一般のコミュニティーでも親睦を図るための手段として定着した。州によってはポットラックに関する条例もあるほどだ。

英語の“potluck”は、“pot”(鍋)と“luck”(巡り合せ・幸運)の複合語である。持ち寄った“pot”(鍋)の中にどんな“luck”(巡り合せ)の料理が詰まっているか楽しみである。もし自分の好物があれば“luck”(幸運)だ。したがってポットラックのメインディッシュは本来、鍋料理である。

ポットラックの米国起源説を唱える人は、「ポットレッチ」という米国北西部太平洋沿岸に住むインディアンの冬の祭りにおける贈物の分配の儀式が元になったと考える。

一方で、英国起源説の提唱者は、「ポットラック」という言葉が1592年(文禄の役=秀吉が朝鮮に出兵した年)の英国の文献に初めて言及されている点を主張する。そこには、“ポトフ”(牛肉の塊と野菜に香草の束等を加えて長時間に煮込んだフランスの家庭料理で、汁はスープとして、具はからしを添えて食べる)に似た料理を“ビュッフェ式”(各自が取って食べるセルフサービス式食事)で食べるようなものと説明される。当時の貧しい農家では、夕食の調達もままならず、その時々、たまたま家にある食材をまとめて鍋で調理し、残り物を暖め直して何日も食べた。正に巡り合せの食事であった。

しかし、教会のポットラックに関してはエルサレム起源が定説である。AD32年5~6月、エルサレムに初めて教会が誕生した。この初代教会は「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた・・・」(使徒2:46,47)。彼らは毎日、信者の家に集い、神の家族として会食した。それは後に「愛餐」(ユダ12)と呼ばれる。

愛餐の原語は自己犠牲的、非打算的な愛を意味するアガペーの複数形“アガパイ”である。したがって、原意は“愛を食べること”。愛餐は、キリストの愛を食卓において分かち合い、互いの愛と一致を確認すると共に外部に証するものであった。裕福な信者らが備えた持ち寄りの食事を、身分や貧富の差、文化の違いを越えて一家族として鍋をつつく。それは単なる親睦の会食に留まらず、教会内の社会的弱者に配給する福祉活動も伴った(使徒6:1,2)。施しの精神は敬虔なユダヤ人信者の影響を受けた(エペソ4:28)。

教会草創期は、愛餐と聖餐式はセットで行なわれていた(Ⅰコリント11:17~34)。時折、愛餐が単なる宴会騒ぎと化して、聖餐を軽んじる問題も生じたが、使徒たちにより厳しく戒められ、愛餐の習慣は連綿と受け継がれた。

1~2Cの使徒教父文書によれば、愛餐は食事と共に貧者や孤児、病人や囚人等の為の義援金集め、聖書朗読、祈祷等が含まれる重要な教会活動であった。ところが、迫害期にローマ帝国の官憲から政治的秘密結社の集りという嫌疑で弾圧され、4Cには愛餐の習慣は教会から途絶えてしまう。愛餐の消滅は主イエスとの親密な交わりの喪失を意味した。

教会の戸の外に追いやられた主の言葉は傾聴に値する。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(黙示録3:20)。

主は罪人と喜んで食事を共にし、弟子たちとの食事を楽しまれた。主はポトラックを愛されたのだ。食卓の団欒は主と教会の一致の手助けをする。ポットラックの真の目的が主イエスの臨在を共に味わうものならば、それは確かに礼拝の一部であると言えよう。

「神がまずみことばを通して人に信仰を与えられたのであるから、

それから後も神はまたみことばを通して信仰を働かせ、増し加え、固くし、完成してくださる。

それゆえ最高の神礼拝、安息日の中の安息日は、自らを信仰において鍛え、

みことばに関わり、みことばを聞くことである。」

「キリスト者の会衆は、どんなに短くても神のことばが説教され、祈りがささげられるのでなければ、

集まるべきではない。」

(マルティン・ルター)

「神の言葉が真摯に語られ、聴かれるところに主の教会がある。」(ジャン・カルヴァン)

「真の説教があれば人々は必ず礼拝に来る」

「『退屈な説教』は言葉からして矛盾している。もし退屈させるなら彼は説教者ではない。」

「ある人は、自分が神について話をし、神を信じると告げ、時たま礼拝に行くからといって、

自分は神を敬う人間だと考えている。

だが、本当は何らかの地上的な事物のために生きている。そうした人の暗さはどんなであろう!」

「会衆と説教者が神の御手の中にあって一つとなっている。これが説教である。

どうか神が私たちにこのような説教を行わせ、経験させてくださるように。」

(D・M・ロイドジョンズ)

「みことばと礼拝はお互いに切り離せない。礼拝とは神の啓示に対して、知性と愛とをもってこたえることである。

神に受け入れられる礼拝は説教なしには成り立たない。説教は主の御名を知らせることであり、

礼拝は知らされた主の御名をほめたたえることである。私たちの礼拝が貧弱なのは私たちの神を知る知識が貧弱だからである。」(ジョン・ストット)

「実は、教会を成長させることはとても簡単なことです。人々の興味を神のことばに向けさえすればよいのです。

そして、人々の関心を祈りに向けるのです。彼らが互いにつき合うように促し、聖餐式に参加するように促すのです。

そうすれば、主が日々救われる人々を群れに加えてくださるでしょう。」(チャック・スミス)

「生徒は米飯を食すべからず。ただし、らいすかれいはこの限りにあらず。」(クラーク博士)

日曜日の朝

神との出会いを守るため

集まってくる人たちへ。

誘いの声に惑わされ、世の荒波に傷つき、

本当は問題にならぬ問題に心を痛めながらも、

彼らはやってくる。

はっきりと語りかける神の御声を聞こうとして。

現在、彼らに奉仕している人たちへ。

将来、そうするであろう人たちへ。

ハッドン・ロビンソン

「天においては、日曜日の朝も、水曜日の午後も同じです。神は仕事場でも教会においても同じく語り、

聖餐式の時も夕食の席でも神をたたえることを望んでおられる。」(マックス・ルケード)

目指すは日曜礼拝ではなく日常礼拝

「新約では日々が安息日となり、時の区別がない。」(マルティン・ルター)

「日曜クリスチャンというのがある。日曜日になると彼らはいそいそと教会に出て来る。そして、ある人は夜おそくまで教会にとどまり、さまざまな奉仕に励む。教会学校の教師、礼拝の準備、聖歌隊の奉仕、礼拝の後始末、午後の交わり、夕方の礼拝等々、これらのことを一つ一つなし終えて彼は家に帰る。人々は彼をすばらしいクリスチャンと賞賛する。だが、これだけで彼は立派なクリスチャンと言えるのだろうか。月曜日から始まる彼のこの世の生活は神には関係のないものなのだろうか。神はただ教会におけるわれわれの奉仕ぶりだけに目を注いでおられるのであろうか。」(榎本保郎)

「礼拝とは私たちの本性すべてを神に従わせることである。

神の聖さによって良心を再生させること、神の真実で精神を養うこと、

神の美しさによって想像力を浄化すること、心を神の愛に向かって開くこと、意志をみこころに屈服させること

――これらすべてを集めて讃美を捧げることです。讃美は私たちの本性ができる無私の情動だから。」

(ウィリアム・テンプル 1881~1944年 カンタベリー大主教)

「礼拝とは、私たちを限りなく愛しておられる神様が、罪深い私たちを迎えて、受け入れてくださるときです。

礼拝とは、私たちを創造され、贖ってくださった神に、私たちの日々の糧を与えて、守り導いてくださる神を賛美し、感謝するときです。

礼拝とは、聖なる神に、それでいて限りなく低く下ってくださる神の愛に、感動して心をふるわせるときです。

礼拝とは、私たちのたましいが本来属する神の懐に帰るときです。

礼拝とは、この世の価値観、この世の評価、この世の欲にとらわれた私たちが、方向転換をして神の御心を求めるときです。」

(藤本満 インマヌエル高津教会牧師)

「人々は奉仕を大きく重んじるが、礼拝を小さいことと思う。

私たちの周りには多くのマルタが騒いでいるがマリヤは捜しにくい。

私たちは絶望的にプログラム化された時代に生きている。」

(ジョン・マッカーサー・ジュニア 1939年~ 米国の牧師)

「わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに・・・」(ピリピ3:8 口語訳)

イエス・キリストを知ることを私たちは忘れてはならない。

「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか」とイエスは言われた。

何億円金ができたとか、どれだけ事業が大きくなったとかいうようなことは、考えれば小さなことである。

パウロはイエスを知る知識の絶大な価値が、この世の比較を絶するものであることを知った。

だから、いっさいのことを損と思うようになった。

榎本保郎

牧仕が、聖書各書を連続講解・注解スタイルで1節ずつ、1語ずつ懇切丁寧にたっぷり教えます。他教会の会員でも、無所属でも、クリスチャンでない方でも、聖書の学びを通してイエス・キリストを個人的に知りたい方に開かれた集会です。飛び入りも、単発的不定期参加も熱烈歓迎いたします!

現在新型コロナウイルス感染対策のため

平日の集会は全て中止しています。

水曜日 14:00〜 : 出エジプト記18章講解中! 現在休止中

木曜日:不定期の集会あり(MGFの教会スケジュール・カレンダーを参照)

金曜日 20:00〜 : 黙示録22章講解中! 現在休止中

各スタディーの学びの前には、ショートタイムの賛美と祈りの時間があります。

各スタディーにはおやつ、コーヒー、ティーなどの飲み物が無料で提供されます。

学びの後は、自由参加のフェローシップ(Tea Time、交わり、あかし、分かち合い、聖書や信仰に関する質疑応答の時間)があります。また祈りのリクエストがあれば、スタディー・グループと共に祈ることもできます。

(水)午後と(金)夜は、学びの後に「聖餐式」があります(クリスチャンなら誰でも参加できます)。

(水)午後と(金)夜には「チャイルド・ケア」(幼児~小学生対象の託児サービス=「スウィーティーズ・クラブ」)があります。

バイブル・スタディー(礼拝説教含む)はすべて録音され、本ホームページからも無料でダウンロードして聴くことができます

「パンや米は他の者がそれを与えることができる。

しかしもし教会が神の御言葉を与えなければ、だれがそれを与えるのか?」

(R・L・ブリュックベルジェ 1907~1998年 フランスの神父・作家)

「真に心の糧となるためには説教はただ人好きのする美食であってはならず、

また粗食が過ぎて食欲減退、栄養失調となるものでもいけない。真に滋養になるものが必要である。」

(松雄造酒蔵 牧師)

「親は子供がご飯の時に行儀を悪くし、ふざけちらすならば食べさせない。

かくのごとく、聖書に対してふまじめな者に、神はいのちの糧を与えたまわない。

いまやキリスト教会はただ食いばかりして、正しい食物をとらせないから、

その健康を害し、成長が止まっているような状態である。

これはみことばを尊敬しないための罰である。 」(中田重治 牧師)

毎週木曜日 午後1時~(MGFメンバー限定)

*その他、各バイブル・スタディーの前後に随時祈る時間があります。

*早天祈祷を希望される方はお問い合わせください。

教会は祈りによって造られる!

「ペンテコステの日から今日まで、どこの国でも、それがたとえ2,3人によってなされた祈りであっても、

一致した祈りが原因で起こらなかった大いなるリバイバルはなかった。

どんな素晴らしい働きであっても、祈祷会が後退してもなお続いたという例はない。」(A・T・ピアソン)

「教会の状態は、祈り会を見れば実に正確に判断できる。

即ち、祈り会は恵みの尺度であり、それによって我々は、人々の間で働かれる神のみわざの偉大さを計り知ることができる。

もし、神が教会に近くおられるなら、教会は祈るはずであり、近くおられぬなら、神不在のしるしとして、まず祈らなくなる。」

「『祈禱会を開き、私たちは心から祝福を求めているのに、与えられません。』

この場合は『願っても受けられないのは、悪い動機で願うからです』というみことばで、説明されるのではないでしょうか。

祈禱会が単なる形式になり、兄弟たちが立ち上がって、燃え立つことばで神に語る代わりに、

美辞麗句を長々と述べたてて時間をむだにし、祝福への期待がなく祈りが冷淡な形式ばったものなら、何も生じないでしょう。

熱意もなく祈る人は、少しも祈っていないのです。

祈りに炎がなければ、焼き尽くす火である神と交わることはできません。

多くの祈りがその任務に失敗するのは、そこに信仰がないからです。疑いに満ちた祈りは、拒絶を要請しているのを同じです。」

(チャールズ・ハッドン・スポルジョン)

「皆さんの教会の祈祷会はどんな様子だろうか。 それは発電所(力の家)だろうか。

祈るために集まっているだろうか。 何のために祈るのか。

説教者のために祈りなさい! 牧師のために祈りなさい! 教職者のために祈りなさい!

しかし、皆さんは、自分の牧師のために毎日、毎週祈っているか。

聖霊が、どのようなときでも彼らの上に臨むように、あなたは祈っているか。

それこそ唯一の希望である。 私たちには、リバイバルが必要である。 私たちの上に聖霊の御力が臨むことが必要である。

それまでは私たちには何もできない。

クリスチャンの皆さん、皆さんは自分のこの責任に気づいているだろうか。 誰でも祈ることができる。

私たちは祈るために召されている。

私たちは、この重荷を持っているだろうか。 この熱心を抱いているだろうか。

教会の状況を嘆いたり、教会外のあわれな少年たちや他の人々を非難しているだけでは到底足りない。

そんなことでは誰一人救われない。 」

(D・M・ロイドジョンズ)

「教会の温度、それはその教会の祈り会で計れる。」(ヴァンス・ハヴナー)

「聖書には、祈祷会のことが記録されており。祈祷会こそ、教会の本質であり、いのちである。」(D・M・ロイドジョンズ)

「祈りは天に積まれた資本であって、キリストはこれによって地上の事業を経営される。」(E・M・バウンズ)

「今日の教会では、祈り方についてではなくまず祈りの必要性についての教えが必要な有様である。」(ニッサのグレゴリウス)

「祈る者は説教者よりも尊い。」(バークレー・バックストン)

「日曜に礼拝にくる人数で説教とワーシップのスタイルの人気が分かる、

でも祈りのミーティングに来る人数でイエスの人気が分かる。

僕たちの教会が霊的に死んでるとか言っているわけじゃない、でも僕たちの教会は祈りのリバイバルを必要としている!

僕たちは、君たちは、僕は、どんなことをしてでも祈りの人にならなきゃいけない!」(ジム・シンバラ)

「祈り会の本質こそ重要なのであって、形式は二の次です。

すなわち、全能の神に触れ、己の全存在をもって叫び求めるという本質と比較したら、

形式など問題になりません。私は、声が大きいだけでほとんど見せかけだけの祈り会に出席したことがあります。

また、一方では、あるグループとともに非常に霊的な沈黙の祈りの時を過ごしたこともあります。

集会の雰囲気はそれぞれ異なっても、一番肝心なことは、人が互いに顔を合わせるだけでなく、

宇宙を統べ治める神に出会うことです。」(ジム・シンバラ)

「祈りはクリスチャンのいのちの源、生命線です。

祈らないのは、息をしていない赤ん坊にかわいい着物を着せて抱いているようなものです。

着物の装飾などに気を取られてはいけません。赤ん坊が確かに呼吸しているかどうか、しっかりと確かめなさい。

また、昏睡状態にある者に語りかけても無駄です。今日、教会が大変な力を入れて人々を教えているのに、

そこそこの結果しか得られていないとしたら、

その原因はここにあります。教えることは、そこに、教えを受け取るいのちある人がいる場合に限って有益なのです。

たとえ優れた正統派の教えでも、聴いている人が霊的に昏睡状態に陥っているとしたら、

残念ながら、霊的いのちというものを教えることはできません。」

(ジム・シンバラ)

「もし、祈りの生活をしていないとすれば、私たちは新約時代のクリスチャンではない。」(ジム・シンバラ)

「教会の評判は、日曜日の朝の礼拝に来る人々でわかります。牧師や伝道者の評判は、日曜日の夜の礼拝に来る人々でわかります。

しかし、イエスさまの評判は、祈り会に来る人々でわかるのです。」(不詳)

「『何年か前、メーン州のある小さな町は、活気がほとんどない状態だった。諸教会がたいした成果を上げていなかったからである。そこで、教会に心から神を敬う何人かの人たちは、互いにこう言い合った。 「さて、私達は何の学もない平信徒に過ぎないが、この町で何かがなされる必要がある。祈りのチームを結成しよう。私達全員の祈りを一人の人に集中させるのだ。その対象は誰にしようか!』 彼らが選んだのは、町の中でも一番心のかたくなな、どうしようもない飲んだくれだった。その人に彼らの祈りが集中された。そして、一週間の内にその人は主を受け入れたのであった。そして、その次に心のかたくなな人に彼らの祈りが集中され、彼もまた主を受け入れたのであった。それからもう一人、さらにもう一人と祈りは続けられ、結局一年もしない内に2~3000人の人たちがキリストに導かれた。そして、その火は周囲の地方へと広まって行った。罪の獄に捕らわれている人たちのための明確な祈りこそ、現在必要とされているものである。 」(R・A・トーレー)

And Satan trembles when he sees, The weakest saint upon his knees.

--William Cowper (1731~1800年。英国の詩人、聖歌作家)

「彼ら〔初代教会〕は使徒たちの教えを堅く守り、交わり〔コイノニア〕をし、パンを裂き〔聖餐式〕、祈りをしていた」

(使徒2:42)

コイノニアとは「交わり(フェローシップ)」を意味するギリシャ語です。

聖餐式、賛美、祈り、あかし、分かち合いの時を神の家族とともに自由に楽しむひと時です。

「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、

あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。」(ピレモン1:6)

『キリスト信徒の交友』(内村鑑三)

私達は利益を語らない。天国を語る。私達は相互の上に立とうと思わない。その下に立とうと思う。

私達は、徳を競わず、罪を自覚して相譲る。私達は、敵に勝ったと言って喜ばず、自己に勝ったことを誇る。

私達は酒を飲まず、聖霊に酔う。私達は美食に飽(あ)かず、聖書を咀嚼(そしゃく)する。

私達は壮語せず、互いに相祈る。何とうるわしいことか、この交友は。あたかも天のそれのようだ。

「すべての交わりの中で分かち合う会話の目的は、私の言葉を聞く人々が主から恵みを頂くことにあります。」(C・J・マハニー)

「聴衆は群衆である。教会は家族である。聴衆は集団である。教会は交わりである。」(チャールズ・E・ジェファソン)

「苦しみを共に分かち合うことが交わり中で一番有益なものです。恐らくそれは他のどんな交わりの形よりも主にあって私たちの心を一つにします。」

(ジェリー・ブリッジス)

※上記の集会に参加ご希望の方は、急遽スケジュールの変更・キャンセルもありますので事前に電話もしくはメールでお問い合わせください。

また、上記以外の教会訪問・牧仕および牧仕の妻との面会には、アポイントが必要となります。

MGFの教会スケジュール・カレンダーをご確認の上、お気軽にご相談ください。