12 クリスチャンの名言・名句集(Christian Famous Quotes)

クリスチャンの名言・名句は他ページにも散らしてあるので宝探しをしてみよう!

ここで信仰の達人たちの珠玉の名言に必ず出会えるはず。

「祈り」に関する名言は「MGFメンバーによる祈りのリクエスト(MGF Member's Prayer Request)」 のページにまとめられています。

「聖書」に関する名言は「バイブル・スタディーの極意七か条(Seven Points on How To Study the Bible)」のページにまとめられています。

C・S・ルイス(C.S. Lewis 1898-1963 英国の学者・作家・キリスト教弁証家)

「車はガソリンで走る。神は人間が神によって走るように設計された。神ご自身が燃料となり食料とならねばならない。それ以外に幸せになる道はない。」

「神は人がエンジンを発明したように、人を創りました。車はガソリンで走るのです。他のものでは動きません。神も、神自身によって動くように人を造られたのです。神が体内で燃焼して、人の魂に燃料補給することで動き続けるように神は人を創られたのです。だから、宗教と離れたところから神に幸福を祈るのはよくないのです。神は幸福や平和を神から離れた場所では与えてくださらない、そんなところにはないのですから。 」

「私たちは、神様に捧げようとしているものだけを持つことが出来る。自分のために取っておくものは、必ず失うであろう。」

「永遠に続かないものはみな、永遠に役に立たないものである。」

「私たちが自らを神にゆだねていくに従って、私たちは本当の自分自身に帰っていく。なぜなら、神が私たちを造られたからである。神は人間をそれぞれ他の人とは違う者として造られた。あなたにも私にも本来意図されている姿があるのである。・・・私たちがキリストのもとに立ち返り、自分自身を神に明け渡す時、私たちの個性は初めて息を吹き返すのである。」

「神はわれわれの楽しみの中でささやかれ、われわれの良心に語られる。しかし、われわれの痛みの中で叫ばれる。痛みは耳が不自由な世界の人々を覚醒させるメガホン(拡声器)である。」

「誰よりも熱心に働いた人は未来志向の強い人であった。天国を狙え、そうすればあなたとあなたの周りの人々の魂を救う。地上を狙うならあなたはすべてを失う。」

「天国を目指せば、地上も添えて与えられる。だが地上を目指せば、どちらも手に入らない。」

「生き物に願望があるのは、願望を満足させてくれるものが存在しているからだ・・・赤ん坊は空腹を感じる。それは、食べ物というものが存在するからだ。アヒルの雛は泳ごうとする。それは水というものが存在するからだ。人は肉欲を覚える。それはセックスというものが存在するからだ。もし私がこの世界では満たされない願望を抱いているとしたら、それは私が別の世界のために造られたという説明ぐらいしか成り立たないだろう。」

「クリスチャンであるとは、赦しがたい人々を赦すことである。神があなたの中にある、赦しがたいものを赦してくださったからである。」

「天国を選ばずにこの世を選ぶなら、この世ははじめから地獄の一地域にすぎなかったことを人は知るだろう。これに反して、もしこの世を天国の下位におくならば、それははじめから天国そのものの一部であったことがわかるだろう。」

「失敗とは達成に至る道の道しるべである。」

「『すべての人を愛している』と言う人は、人を個人的に愛することの責任逃れの口実を言っているにすぎない。」

「地獄の扉は内側から鍵が掛けられている。」

「赦しとは公平さに関する人間の常識を超えたもので、まったく容赦できないものを容赦することだ。」

「人間の苦しみと愛の神の存在とを矛盾なく理解しようという問題は、私たちが愛という語に通り一遍の意味を付している限り、つまり人間こそが全ての中心であるかのように思いなす限り解決できないのです。人間は中心ではありません。神は人間のために存在したものではないし、人間もまた、人間自らのために存在するのではないのです。」

「神に出会う時、わたしたちはあらゆる点でわれわれよりも無限に優越しているものに直面することになる。神をそのようなものとして理解しない限り――したがって、これと比べれば自分は無に等しいと考えない限り、神を知ったことには全然ならない。われわれは、倣慢である間は、決して神を知ることができない。倣慢な人はいつも事物や人びとを見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのは当たり前である。」

「キリスト教は人々に悔い改めを命じ、かつまた赦しを約束する。したがって、悔い改めなければならないようなことはやった覚えのない、また赦してもらう必要を感じない、そういった人々に対しては、キリスト教は語るべき言葉を全く持っていない。」

「『悔い改めることなしに、あなたのもとに引き返させて下さい』と神に求めるのは、『引き返すことなしに、引き返させて下さい』と求めるのと同じである。」

「自己というものを意識した瞬間、自分が何よりもいちばん可愛いい、自分が世界の中心になりたい、いや、はっきり言って神になりたいという、そういう気持ちを抱く可能性が生ずる。これがまさにサタンの罪であり、またサタンが人間に与えた罪だったのである。」

「神に対するわわれわれの愛について考えるよりも、われわれに対する神の愛を考えた方が安全である。四六時中敬虔な感情を持ち続けることは、だれにもできることではない。仮にできたとしても、神の主要な関心はそのような感情には向けられてはいない。」

「クリスチャン生活のすべては、キリストのそのすばらしい贈物を受け入れることから成り立っている。」

「人間が、神を試験官や取り引きの相手と考えている限り、自分と神との関係を債権・債務といった形で考えている限り、彼はまだ神との正しい関係には入ってはいない。彼は、自分が破産したという事実を発見するまでは、神との正しい関係に入ることはできないのである。」

「教会は人々をキリストの内に引き入れ、彼らを小さいキリストとすること以外のどんな目的のためにも存在しない。もしこのことをやっていないなら、すべての聖堂、牧師、伝道、説教、聖書そのものさえも、単なる時間の浪費に過ぎない。」

「われわれは、自分が犯した個々の罪深い行為のほかに、自分の罪深い性質そのものに気づき始める。自分が行なうことに驚くばかりでなく、自分の心のあり方それ自体に驚くようになる。」

「わたしたちが『自己』というものを除去して、キリストに自己を支配してもらえばもらうほど、わたしたちはますますほんとうの自分になることができる。」

「聖書の言葉に常に戻る必要がある。当然のことながら、私たち人間が神を記述する方法を知っているよりはるかに、よく神はご自身を記述する方法をご存じなのである。」

「神が人となった。これはひとつの『宗教』でもなく、またひとつの『哲学』でもない。それは、これらすべてをまとめあげて実象とするものなのである。」

「人間は結局、二種類に分けられる。神が『汝の意のままになれ』と言う人と、神に『御身の意のままに』と言う人だ。地獄に行く者はみな、自分で地獄を選んでいる。」

「彼らは、罪の快楽について『これだけはやらせてくれ。あとの責任はおれが負うから』などと言う。だが彼らは、呪いが過去へ過去へとひろがって行き、その罪のよろこびをも汚染してしまうことを、夢にも思わないのだ。」

「地獄のうちにある一切の孤独感、怒り、憎しみ、ねたみ、欲望をまるめて一つの経験とし、これを、天国のいと小さき者が感ずる、わずか一瞬間の歓びと並べて、天びんにかけたとしたら、それは目盛りの針を動かすに足るほどの重ささえも持っていないことがわかるだろう。」

「あなたが自分自身を求めるなら、あなたは結局、憎悪と孤独と絶望と怒りと破滅と腐朽とを見出すだけであろう。しかし、あなたがキリストを求めるなら、あなたはキリストを見出し、そのおまけとして、万物をも見出すのである。」

「天賦の美点を持っている人々は、たいてい、自分がキリストを必要としていることをなかなか自覚しない。ついにある日、その天賦の長所が彼らを失望せしめ、彼らの自己満足を粉砕してしまうまでは。この意味における『富める者』が天国に入るのはむずかしいのである。」

「大金持ちであることの危険の一つは、金で買えるようなたぐいの幸福にすっかり満足して、そのために神の必要を認めなくなることである。」

「ほめられたことをあまり喜ばず、自分の立派さを喜ぶという傾向が強まるにつれ、われわれはますます悪に落ちて行く。人の称賛には目もくれず、自分のことばかり考えて喜ぶようになった時、ついにわれわれは悪のどん底にまで達したのである。」

「人にほめられて喜ぶのはプライドではない。問題が起こるのは、『こういうことをやってのけたのだから、わたしはよほど立派な人間であるに違いない』と思うことへ移行したときである。」

「われわれは傲慢である間は、決して神を知ることができない。傲慢な人はいつも事物や人々を見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのはあたり前である。」

「高慢な者は何かを所有しただけでは喜ばない。人より多く持って初めて喜ぶのである。人は金持ちであることや、頭が良いこと、見目麗しいことなどを誇るのだとわたしたちは言うが、実際にはそうではない。人は、他人よりもお金をより多く所有し、より賢く、より外見が良いときに誇りを感じるのである。人が皆同様に裕福で、頭が良く美しいならば、誇るものは何もない。人を高慢にするのは比較である。すなわち、自分は他よりも優れているという優越感である。競争心という要素がなくなれば、高慢もその姿を消すのである。」

「クリスチャンになった当初、私は自分だけで信仰者としてやっていけると思っていました。部屋にこもって神学書を読めば、教会に行く必要などないだろうと…。私は教会で歌われている賛美歌が大嫌いでした。私には質の余り良くない歌詞が、それよりさらに質の悪い調子っぱずれなメロディに載っかっているものとしか聞こえなかったのです。しかし後に教会に集うことに大きな意味があることを知るようになりました。見た目も教育レベルも全く違う人々に出会うにつれ、最初私の中にあったうぬぼれはじょじょに剥がされていきました。賛美歌は、たとえ音楽的には調子っぱずれであったとしても、心をこめて歌われていたことを、そして隣の席でゴム底の靴をキィキィいわせていた老人は、実は素晴らしい神の人であり、私はその靴をみがく資格すらない者であったことを知ったのです。教会は人をひとりよがりなうぬぼれから引き出してくれるのです。」

「幸いなことに、私たちは自分のうちに傲慢の危険性をテストする方法があります。信仰生活を続けているうちに自分がよい人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べてずっとよい人間であるかのように感じるようになったとしたら、それは神ではなく、悪魔が私たちに働きかけていることなのです。自分の前に神が臨在したもうという確かな証拠は、自分のことをまったく忘れてしまうか、自分をごくちっぽけな、汚らわしいものであると感ずることです。」

「最も難しいことの一つは、聴衆のまえに一貫して真理の問題を置くことです。聴衆はきまって、あなたがキリスト教を説くのは、それが真理ではなく、それがよいものだからだろうと考えています。彼らは討論に対して、『キリスト教は真理か否か?』という問題を避けて、スペインの宗教裁判の問題、フランスの問題、ポーランドの問題など、他のもろもろの問題を取り上げて、その中に逃げ込もうとするでしょう。あなたは彼らを繰り返し、真の問題へとともない帰らなければなりません。そうすることによってはじめてあなたは、『ある程度の宗教は結構だが、凝りすぎるにはどうも』といった考えを切り崩すことができるのです。あなたは指摘しつづけなければなりません。---キリスト教は、もしそれが真理でなかったらまったく無意味だが、真理だとすれば、無限の重要性をもっているということを、ぜったいに受け入れられないのは、『キリスト教もわるくはない』といった考えです。」

「どなたか謙遜さを自分のものにしたいと思う方がおられるなら、わたしはその第一歩を教えて差し上げることができるように思う。その第一歩とは、自分が傲慢だということを自覚することである。----少なくても、この一歩を踏み出すまでは何もすることはできない。」

「家庭管理は世の中で最も重要な仕事である。船や鉄道,鉱山,車,政府などは,人々が各家庭にあって衣食足りて安全な生活が送れるようにすること以外,ほかに何のために存在するというのだろう。……私たちは平和を得るために戦争を行ない,余暇を楽しむために働き,食べるために食物を生産する。あなたの仕事は他のすべての人が存在するために行なう仕事である。」

「手放せなかったものは、実際には自分のものにならないだろう。」

「私たちは、自分はこうであると信じる通りの者である。」

「天は欲得だけの魂が願うものを何一つ与えない。」

「試練というものは、神が私たちを見捨てられたことではない。そういうことでは決してない。それは私たちを引き戻される神の愛である。」

「ひとたび人間が神様に結ばれたなら、彼は、どうやって、永遠に生きられない、と言えるだろうか。ひとたび人間が神様と別れてしまったら、彼には何ができるだろうか。衰えて死ぬしかないだろう。」

「これは、愛すべき点を一つも持たない人々をも愛することを意味する。だが、そう言えば、われわれ自身何か愛すべきところがあるだろうか。ただ自分が可愛いから、自分を愛しているのではないか。神はわれわれに、自分だけでなくすべての人間を、同じように、同じ理由から、愛するように求めたもう ... それは神が私たちを愛する愛し方である... 神がわたしたちを愛したもうのは、われわれに何かよいところとか魅力的なところとかがあるからではなく(自分ではあると思っているかもしれないが)、ただわれわれが魂をもったそんざいであるからである。われわれに愛すべきところなどあろうはずはない。人を憎むことに喜びを感じ、その喜びを断念するのは酒や煙草をやめるほどつらい-これがわれわれのけちな根性なのだから。」

「神の仕事は、私たちにとっては痛みを伴う体験となり得ます。しかし、神の最終ゴールは、私たちをより良い者に造り変えることです。 自分のことを生ける家だと考えてください。神がその家をリフォームするために入って来られます。最初は恐らく、神が何をしようとしておられるか、理解することができるでしょう。神は排水管を修理したり、屋根の雨漏りを止めたりなさいます。このような作業は当然のことですから、その段階では驚くことはありません。 ところが、神は家のあちこちを叩たたき壊し始めます。それが痛いのです。いったい何が起こっているのかと私たちは考えますが、神は私たちが想像もしなかったような新しい家を建てようとしておられるのです。新しい部屋が付け加えられたり、家の階数が増えたり、塔とうが建ったり、中庭が造られたりしていきます。 自分では、すてきな小邸宅が出来上がるのだろうと予想していたのですが、神はそれを王宮に作り変えようとしておられるのです。神はその王宮に来て、ご自身がそこに住まおうとされているのです。」

「罪からまだ抜け出せていない人間を赦すべきだと神に要求することは、 大目にみることと赦すことの意味を混同させているからである。大目にみるとは、悪を見なかったことにし、まるでそれが元々良いものだったように扱うことだ。しかし赦しは受け入れられ、ほどこされることなしに完了しない。罪悪感がない人間には赦しも存在しない。」

「結局は、地獄の教義へ異議申し立てする人々への答えは『あなたは神様に何を望んでいるのか?』と言う疑問になる。過去を消し去り、道をなだらかにし、いかなる代価をも払い、新しい出発を与え、あらゆる奇跡的な助けの手を差し伸べることか? しかし、それはすでにイエスが死なれたカルバリの丘で成し遂げられている。赦しを与えることか? 彼らは赦されようとしない。ほおっておくことか? あぁ、残念ながら主はそのようにされている。」

「人間が罪の中から救われるためには、罪を認めて、苦しみ、悔い改めて死ななければならない。そのためにわれわれは神の助けを必要としている。それは神が義なるゆえに外せないどうしても必要な罪の贖いの過程。しかし、神は本性としてそのようなものをお持ちではない。神は御自分が持っているものなら分け与えることができるが、持っていないものは分け与えることが出来ない。しかし、もし神が人間になったとしたらその融合した人格はわたしたちを助けることが出来る。彼は、人間であるゆえに、自己の意志を放棄し、苦しみ、また死ぬことが出来る。しかも、神であるがゆえに、それを完全に成し遂げることが出来る。・・・神が死ななければ、われわれは神の死にあずかることが出来ない。さらにまた、人間にならなければ、死ぬことが出来ない。このような意味で、神は我々の負債を払い、御自身は全然苦しむ必要のない苦しみをわれわれのために苦しんで下さるのである。」

「悪魔はあなたがどんなどんなに貞潔な勇敢な自尊心に富んだ人間になろうとも、あなたのうちに自尊心という独裁者の支配を確立することさえできれば満足なのです。つまり、人間のうちに(自尊心という)癌を植え付けることを許してもらえるとすれば、手足のしもやけが治っても悪魔は意に介しません。傲慢は、いうなれば霊的な癌です。それは愛や満足、いえ、良識の可能性さえ、蝕んでしまいます。」

「幸いなことに、私たちは自分のうちに傲慢の危険性をテストする方法があります。信仰生活を続けているうちに自分がよい人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べてずっとよい人間であるかのように感じるようになったとしたら、それは神ではなく、悪魔が私たちに働きかけていることなのです。自分の前に神が臨在したもうという確かな証拠は、自分のことをまったく忘れてしまうか、自分をごくちっぽけな、汚らわしいものであると感ずることです。婦たちの姿勢のうち、自分をまったく忘れてしまう方がいいと思います。」

「神は私たちがご自分のものになるまで、私たちを祝福することができません。自分自身のものである領域を保持し続けようとするなら、死の領域を保とうとしているようなものです。それが理由で神は愛の内に、あなたのすべてを要求されるのです。神と駆け引きすることなどできません。」

「私たちは中途半端な生き物である。無限の喜びが提供されているのに、飲酒や性欲や野心で時間を浪費している。まるで何も知らない子どもが、海辺で休日を過ごそうと言われているのに、どういうことか理解できず、そんなことよりスラム街で泥遊びをしていたいと言っているようなものだ。私たちは、あまりにもつまらないもので喜びすぎている。」

「なぜ敬虔で、謙遜で、信じている人々が苦しむのかが問題ではなく、なぜ人々が敬虔で、謙遜で、信じていないのかが問題です。」

「人の霊的健康は、正確に神に対する彼の愛に比例します。」

「神は、待つことが本人のためになるからこそ待たせなさるのであって、そうでなければ決して待たせたもうことはない。」

「キリストはこう言うのだ。『わたしにすべてを与えなさい。わたしは、あなたの時間をこれだけ、あなたのお金をこれだけ、あなたの仕事をこれだけ、欲しいというのではない。あなた自身を欲しいのだ。わたしはあなたの自然のままの自我をいじめにきたのではなく、殺しにきたのだ。中途半端ではなんにもならない。わたしは、この枝あの枝を切り取ろうというのではなく、木全体を切り倒してしまうことを求めているのだ。歯に孔をあけたり、かぶせたり、つめたりしようとするのではなく、それを根もとから抜いてしまおうとしているのだ。生来の自我全体を、あなたが悪い欲望と考えるものばかりでなく、罪のない欲望と考えるものも含めてすべての欲望を、つまり一切合財を、わたしに渡しなさい。そうすれば、わたしはあなたに新しい自我を与えてあげよう。いや、わたし自身を与えよう。わたし自身の意志があなたの意志になるように』。」

「人間は、真理の弁護ばかりしているわけにはいかない。真理によって養われる時も必要だ。」

「自分の信じていることをたえず思い起こすことが、われわれには必要である。キリスト教的信念にせよ、他のいかなる信念にせよ、一度受け入れさえすればあとは自動的に心の内に生き続ける、というようなものではない。」

「わたしが夜の祈りを捧げようとしてその日に犯した罪を数えようとすると、最もあからさまな罪は、十中九まで愛の徳に反するものである。むくれたりとか、がみがみ言ったりとか、そういった罪である。このような罪に対し、すぐに心に浮かんでくる言い訳は、不意をつかれたので気持ちを整える余裕がなかったのだ、という弁解である。しかし、人が不意をつかれてやることは、その人がどういう人間であるかを最もよく示すものではあるまいか・・・」

「ひとつひとつの選択や決断によって、その人の核となる部分、選択を決定づける中心の部分が、少しずつ変えられてゆく。」

「すべての回心は、祝福された敗北の物語です。」

「耐え難い苦難はしばしば、平凡な人々に、非凡な運命のための準備をさせる。」

「世界中の人間がだれ一人としてまぬがれることのできない一つの悪徳がある。人びとはそれを他者の中に見て嫌悪を感じるが、自分もその罪を犯しているとはほとんど夢想だにしない。この悪徳とは何か。それは傲慢あるいはうぬぼれである。悪魔が悪魔となったのは、高ぶりのゆえであった。高ぶりは、人を他のすべての悪へと導いていく。それは完全に反神的な心の状態である。そして、傲慢は本質的に自己が『他と競うとき』に生まれるものである。」

「神様は自分の創造物に任せられることは、御自分でしょうとはなさらないようだ。神は自分なら完璧に、そして瞬く間になしえることを、ゆっくりと不器用に行うように私たちに命令なさる。」

「神は葡萄を創り、根を使って水を汲み上げ、太陽の助けでその水を果汁に変え、果汁が発酵して或る質を帯びるように、その樹に教えました。そのようにして、ノアの時代からわれわれの時代に至るまで、毎年、神は水をワインに変えています。それが、人間には見えないのです。」

「医者が行うのは、体内の自然の機能を刺激するか、障害を取りのぞいてやることなのです。われわれは便宜上傷を治すと言いますが、ある意味で、傷はすべて自分で治るのです。死体の傷にどんな薬を塗っても、新しい皮膚ができることはありません。天体を動かす引力と呼ばれる力、それは体を癒す時には生物学的力と呼ばれるのですが、それが、すべての回復を実際に起こす原因なのです。そして、もし神が存在するならば、その力は、直接にしろ間接的にしろ、神の力なのです。癒される人は皆、神が内なる癒し手として働くことによって、癒されるのです。」

「もし神が人となるということがどのようなことかを知りたいとしたら、あなたがナメクジになったときのことを考えてみるとよい。」

「もしも、あなたが真理を求めるなら、あなたは最終的に慰めを得るようになるだろう。もしもあなたが慰めを求めるならば、慰めも真理にもどちらにも到達しないであろう。それは、柔らかくなった石鹸を手でつかもうとし、まるでそれが手からするすると出て行き、結局は手の内に何も残らないのと同じである。」

「謙遜とは自己を卑下する事ではなく、自分を忘れてしまう事だ。」

「悔改めは楽しいものではありません。それは単に屈辱を甘んじて受けいれるというだけではありません。それは、人類が数千年間にわたって身につけてきたうぬぼれと自己中心主義を無条件に捨て去ることなのです。」

「クリスチャンには他の人間より大きな強みがある。他の人ほど堕落していないからでも、堕落した世界に住む呪いをそれほど受けていないからでもない。自分が堕落した世界の堕落した人間であることを知っているからだ。」

「神があなたを連れ戻す前に、あなたに要求していることが悔い改めではない。もし神がそうしようと思えば、神は悔い改めを免除することができる。悔い改めとはただ、父なる神のもとに戻ることなのである。」

「太陽を直接見なくても他の全てのものが見えることで太陽が昇っていることが信じられるように、私はキリスト教を信じている。」

「悪魔に関して人間は二つの誤謬に陥る可能性がある。その二つは、同じ誤りであり、しかも相反するものでもある。すなわちその一つは、悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度のそして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらいに喜んで歓迎する。即ち唯物主義者と魔法使いとを同じように喜んで歓迎する。」

「神の栄光をたたえよとの命令において、神はご自身を喜ぶようにと私たちを招いておられるのです。」

「何らかの祝福を失うとき、それに取って代わる祝福が、多くの場合、全く予期せぬ形で与えられる。」

「経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。」

「私は自分ではどうしようもないので祈ります。私は無力なので祈ります。私は寝ても覚めても常時私から溢れ出る必要のために祈ります。祈りは神を変えませんが、私を変えてくれます。」

「神を愛することを学ぶまでは、隣人を自分自身のように愛することはできない。神に従うことを学ぶ以外に神を愛することはできない。」

「毎朝目が覚めたとたん、その日のためのすべての願い事と望みが野生動物のようにあなたの所に押し寄せてきます。毎朝最初にすべき仕事とは、それをすべて後ろに押しやることです。他の声を聞き、他の視点を選び、他の、もっと大きくて、強くて、静かな人生が流れ込んでくるようにするのです。」

「人を救うのは、一歩を踏み出すことによる。そして次のもう一歩を。」

「失敗とは達成に至る道の道しるべである。」

「安全と幸福はお互いに対して、正直で、公正で、親切な個人、集団、国家にだけ訪れる。」

「小さな嘘は小さな妊娠のようだ。それがみんなに分かるまで時間がかからない。」

「失ってしまうだろう何かにあなたの幸せを依存させてはならない。」

「神が父でないならば、人間の同胞愛もありえない。」

「神の硬さ(厳しさ)は、人の柔らかさ(柔弱さ)よりも優しく、神の強制は、私たちの解放なのだ。」

「不幸せな時について素晴らしいのは、それを病気のように少しずつ、時間をかけて、受け止められることです。耐えがたいのは普通、今現在のことではないのです。」

「苦しい体験を乗り越えることは、うんていを渡るのに非常に似ている。あなたは前進するためにある時点で手放さなければならない。」

「もしあなたが自分を本当に心地よく感じさせる宗教を欲しているなら、私は間違いなくキリスト教はお勧めしない。」

「私たちはこの世を模倣しています。主の喜びの代わりになる大衆が願う捏造した楽しみを求め、聖霊の力の代わりになる安っぽく操作された力を得ようとします。」

「人間がキリストとの関係によって天国に行くのと同じように、少なくとも飼いならされた動物は人間との関係性を通じて天国に行くのかもしれない。」

実践的クリスチャンであるとは、「どんな行為も感情も、どんな経験も、喜ばしいものであれ不快なものであれ、すべて神と関連すべきことを意味する。」

「真の神のことばは、キリストご自身であって聖書ではない。正しい霊で読み、良い教師らの指導によって読む聖書は、私たちをキリストのもとへ導くものとなる。私たちは聖書を百科事典から引くように聖句を武器として使用してはならない。」

C・S・ルイスは、長い間、人の罪を憎むことのほんのわずかの違いがどうしてもわからなかった、と述べている。ある人のしたことを憎みながら、その人を憎まずにいるなど、どうしてできるのだろう。

★「しかし何年も後に、ずっとそれをある人に行なってきたことに思い至ったーーつまり自分自身にである。私は自分の臆病やうぬぼれ、貪欲をどれほど嫌っていようが、自分自身を愛し続けていた。そのことに関して、困難はほんの少しもなかった。実際、私がそれらを憎んだその理由は、私がその人を愛していたからで ある。私は自分自身を愛していたため、自分がそれらのことを行なうような人間だったことを発見して残念だったのだ。」

「聖書とキリスト教の伝統では、常に地上の苦しみに比して天国の喜びを思うものだ。このような思いを欠いた苦痛の問題の解決はクリスチャン的とは呼べない。今日、我々は天国について語ることをとても躊躇する。『絵に描いた餅の話か』と冷やかされることを恐れている。しかしながら、『絵に描いた餅』があるか、ないかのどちらかだ。なかったとしたらキリスト教はまやかしだ。なぜなら、(天国があるという)教えはキリスト教教理全体に織り込まれているからだ。もし(天国が)あるなら、この真理は、他のものと同様に、直視するべきだ。」

内村鑑三(Kanzo Uchimura 1861-1930 キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者)

「人として生まれし最大名誉、最大幸福は、イエスを知り、彼に知られ、彼の友人となることである。」

「クリスチャンは思想の人ではない。さらばとて、また実行の人でない。クリスチャンは聖霊の人である。聖霊によりて神の知恵と大能とを実得するを得し人である。」

「日本国の大困難、その最大困難とは何でありますか、私は明白に申し上げます。それは、日本人がキリスト教を採用せずして、キリスト教的文明を採用したことであります。これが我が国今日凡ての困難の根本であります。…キリスト教文明とは読んで字のごとく、キリスト教によって起こった文明であります。しかるに、日本人はキリスト教的文明を採用し、その根本たり、原因たり、その精神たち、生命たるキリスト教そのものを採用しないのであります。」

「キリスト教は理想ではない、事実である。理想が事実となって顕れたるものである。すなわち真個の理想である。『なすべき』はキリスト教ではない、『なしうる』がキリスト教である。」

「我等は悪を避けんとするよりは、むしろ神と共にあらんことを努むべし。」

「人の計画は成りて敗れ、神の計画は敗れて成る。」

「負けて勝ち、踏みつけられて立ち、殺されて活くるのがキリスト信者の生涯である。」

「キリストの愛神主義は利他・利己両主義の上に超越して最も多く他を利して最も多く己を利するの道を教えたり。」

「信、信仰、信頼、人が成し得る最大の事業は自己を忘れ自己に死し、神を信じ、神に依り頼みて生きることなり。」

「信仰は自信にあらず。神を信ずることなり。世のいわゆる確信にあらず。神にたよることなり。」

「キリスト信者たる栄誉の一つは、よわき取るに足らざるこの身をもって、なおも大望を抱いて、その一部分を遂行しうるにあり。」

「キリストを道徳上の教師と見て、キリスト教ははなはだ厭うべきものとなる。何故となれば、彼の教うるところはあまりに理想的にして、肉なる弱き我らの到底及ぶところではない ことをさとるからである。しかしながらキリストを罪人の救い主と見て、キリスト教は非常に慕わしきものとなる。何故となれば、かかる救いは我らが何よりも要求するところのもの であって、これあれば、汚れたる我らも多少聖き生涯を送り得べしとの確信が我らの心に湧き出づるからである。我はまことに教師としてのイエスを仰ぐのではない、罪人の救い主 としての彼にすがるのである。」

「自分が働くのではない。主が働くのだ。自分が働こうとするから疲れる。主に任せるのだ。」

「わが休息はイエスキリストを信じること。ここに永遠の安らぎがある。」

「キリスト教は西洋の宗教ではない、また東洋の宗教でもない。キリスト教はこの世の宗教ではない、天国の宗教である。 」

「一日は貴い一生である。これを空費してはならない。」

「信仰は人によっては迷信のように見える。信仰は確かに一種の冒険である。これに従うとあるいは失敗に終わるかもしれない。しかしながら、信じるものは信仰が迷信でないことを知る。信仰は心に響く神の声に対する信者の応諾(応答)である。彼は形体(偶像)を見ない。また証明をもたない。しかしながら、彼は確かに信じるのである。まことに信じさせられるのである。彼にとっては信仰そのものが見えない所の物の証拠となるのである。彼はいう、私に信仰が起こった、だからこれに応じる実物がなければならないと。実物を持って信仰を証明するのではない。信仰をもって実物を証明するのである。これが信仰の力である。この力なくして信仰はこれを信仰と称することはできない。」

「キリストと彼の十字架のほかに信仰を求めない信仰。この世の事業の成功を求めない信仰。これは自己のきよめにおいて求めない信仰だ。単純な信仰。大胆な信仰である。イエス・キリストと十字架のほかに、社会事業も道徳もいらない信仰である。あたかもコロンブスが天の星に頼るほか。陸上の何ものも標的をもつこともなく、大洋に乗り出した時のような信仰である。そしてその信仰があってこそ。私たちは大宇宙を逍遥し、人を恐れず罪を恐れず、大声を歓呼して、新大陸でない、新エルサレムへと私たちの船を乗り出すことができるのである。」

「信仰はいつまでも外に発表せられずしているものではありません。」

「私たちはキリストを知ろうと願って聖書を学ぶのである。」

「神に依り頼んで恥辱を受けたことはない。」

「神を信じて天然はすべて奇跡的に解釈せらるるに至る。」

「実に欲しいものはこの信仰である。イエス・キリストと彼の十字架のほかに、社会事業もわが道徳もいらないという信仰である。」

「今の世にありてキリスト教を知らないことは大なる無学であります。」

「新事業を求めようと望んではならない、新生命を求めよ。」

「今もしキリストが世にあらわれたまいまして死者をよみがえらせたもうといたしますれば、これを目撃せし医学者らは、その奇跡なることは認めずして、ただちにその天然的理由の発見に着手するに相違ありません。すなわち神を信ぜざる者の眼には奇跡なるものはありません。」

「キリスト教は理論ではなく事実であり、実験である。」

「もし私に何か善きところがあるによって私が神を信ずるに至ったのでありますならば、私は第一に、なにゆえに世には私にまさってはるかに善い人がありまするのに、その人が神のことを聞くも神を信ずるに至らないか、その事がわかりません。」

「信仰は心に響く神の声に対する信者の応諾である。」

「正義清浄は人にはない。これを彼に要求しても私たちは失望しなくてはならない。しかし神の恩恵は限りなくあり、その清浄は尽きることはない。」

「もしこの世が私どもの持つ唯一の世でありますものならば、生命とはなんとつまらないものではありませんか。」

「私の運命を定める者は、私のために自己を棄てられた私の救い主イエス・キリストである。彼は私のために場所を備えるために父のもとに行かれた。彼はまた来て、あなたがたを私のもとに迎えると約束なさった。」

「人に憎まれるもよい、私はただ神の聖意を知りたいと欲する。」

「罪を発見することはキリストを発見するに至るの道であります。」

「労働は、飢寒を恐れてやむを得ず、いやいやながらわれらが従事すべきはずのものではありません。労働とはその真正の意味においては、神とともに働くことであります。」

「頼るべきは神であり、人ではない。人に依れば失望が絶えず、候伯に頼むと恥辱が多い。」

「神は愛である、したがって神が私たちにお与え下さる最大の恩賜は愛である。」

「信仰の道はなんとたやすいことか、ただお任せすれば足りる。そうすれば光明が私に臨み、能力が私に加わり、汚穢は私を去り、聖霊は私に宿る。信仰は完全に達するための近道である。」

「人は神から許されない間は、心から他人を許さないのである。・・・・・・。私の杯が溢れて後、私は隣人に私の喜びの温かみを伝えられるのである。」

「永遠から永遠に至るまで私の所有できるものは神である。」

「罪の中の罪とは、神を捨て去ることであります。盗むことも、殺すことも、姦淫することも、これにまさるの罪ではありません。否、これらの罪はすべて神を捨て去りし罪の結果として人の行為にあらわれてきたものであります。」

「神の事を知らんと欲せば、ことに神の心を知らんと欲せば、神の霊によるよりほかに道はありません。」

「神に依り頼んで恥辱を受けたことはない。」

「もっとも純粋なるキリスト教が神学校から出てくるかと思うと、けっしてそうではありません。」

「彼は言うのである、私に信仰が起こった、だからこれに応じる実物がなければならないと。実物をもって信仰を証明するのではない、信仰をもって実物を証明するのである。」

「聖書の聖書たるゆえんはまったくこの一事にあります。人が書いたものではありまするが、人が自分で書いたものではありません。神の霊が人の霊にくだって、人をして自由に書かせたものであります。」

「私の全生涯の目的は神を見、彼を私のものとすることにある。そのほかではない。」

「キリストが私の心の内に宿られて、感謝が私の生命となる時に、私のなしえない善は一つもなくなる。」

「あえて大事業をしようとせず、大伝道を試みようとせず、大奇跡を行なおうとせず、ただ神の命を重んじ、彼の言に従い、神を信じることこれが事業であると信じて、無為に類する生涯を送ることである。」

「イエスのかたわらに立ちては、ソクラテスもプラトンもモハメットもゾロアスターも、太陽の前に出た月や星のような者であります。」

「ああ人に死を怖れないものがあろうかです。また人に復活を望まないものがあろうかです。罪の結果として一度は死にあわねばならないならば、罪の赦しの結果として新しい体が与えられることは、人の心の奥底にひそんでいる当然の祈願ではございませんか。」

「栄光は恥辱の後に来る。人に嘲けられ、踏みつけられ、面前で卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視するところとなって、その後に私たちに栄光は来るのである。まことに、恥辱は栄光の先駆であり、開拓者である。」

「神を知ろうと望むならば、この書(聖書)に頼るほかはございません。」

「神が神であるのは、人の善いことを思って悪いことを思わないからである。悪魔が悪魔であるのは、人の悪いことだけを思って人の善いことを思うことができないからである。」

「キリスト教の伝道は義務ではありません。特権であります。快楽であります。」

「教会は信仰を作りませんが、信仰はついに教会を作ります。」

「教会あっての信仰ではなくして、信仰あっての教会であります。」

「私は、罪とは人に対して犯したものではなくして神に対して犯したものであることを知りまするゆえに、この罪の苦悶を取り去ってくれた者はかならず神でなくてはならないことを知ったのであります。」

「信仰の生涯の大部分は忍耐である、静粛である、待望である。」

「聖書が神の書である確証は、それが学識の書ではなくて、実験の書であることにある。」

「キリストを信ずる者は聖書を信じます。聖書を信ずる者はキリストを信じます。しかるを、聖書によってキリストに対する信仰をこぼたんとするのは、親によって子を殺さんとするがごとき措置であります。」

「ただ一つの真の神とそのお遣わしになったキリストを知ること、これが永生である、最大幸福である、最大の賜物である。」

「救済はまず第一に、人を神に連れ帰ることであります。」

「もし私たちを善なる神に導くならば病気もまた善事である。」

「遠くこの宇宙を離れ他の宇宙に至っても、わが父はまたそこにある。」

「聖書はなぜ神の言辞であるかというと、もちろんその中に神でなければとうてい語ることのできないことが書いてあるからである。」

「世の教師は言う、『まず己を浄めてその後に世を浄めよ」 と。しかし神は言われる。『あなたがたは私を仰ぎ望め、そうすれば救われるだろう』と。」

「キリスト教がわかってみますと世人の生涯は夢の生涯であります。物でないものを物と解し、地獄に落ち行くのを天堂に昇り行くのであると解するほどの生涯であります。曰く戦争、曰く外交と。キリストの心をもってこれを見ますれば、これ小の小なる問題であります。」

「神は私のすべてである。神を失って私は私のすべてを失うのである。」

「私は私が罪深い者であるのを感じる、だから私には聖書研究の必要があるのである。」

「もし世に教会を利用して神にいたらんと欲する人がありまするならば、その人はかならず失望します。」

「人生の目的は神を知ることにある。艱難がもしこの目的を達するために必要であるならば、艱難は決して災禍ではない、恩恵である。」

「天国の市民は許された罪人であります。決して君子ではありません。道徳家ではありません。慈善家、神学者の類ではありません。もちろん富豪でも貴族でもありません。自己の罪を悔いて、これを神の前に白状し、ついに神の救いにあずかって、新しい人となったものであります。」

「信仰は書斎に籠り書籍のうちにうずまって獲られるものではない。教師の説教を聞いて獲られるものではない。人生の実際問題に遭遇して、血と涙とをもってその解釈を求めて終に獲られるものである。」

「この身に省みて、この社会に依り頼んで私たちは失望せざるをえない。わが助けは天地を造られた主から来る。」

「私たちが神に対してなしうることはただ一つである。すなわち、神がキリストをもって私たちにお降しになった許しの事実を信じ、罪の身このまま、不信の心このままを彼にささげまつることである。」

「神によって内からも外からも私たちを恵ませて、ゆたかに恩恵に沐浴すべきである。」

「死ぬもよい、願わくは神より離れないことを。」

「私たちはキリストの精神を知りその霊を受けるために聖書に向かうのである。」

「多くの人は、自己は聖書を充分に信じないのに、聖書に訴えて私どもの信仰をくつがえさんといたしまする。これは敵の武器を取って彼を倒す方法かも知れませんが、さりとてまたはなはだ不親切なる方法であります。」

「キリスト教は信仰のことである。キリスト教を学ぶためにオックスフォードまたはケンブリッジに学ぶ必要はないのである。イエスを信じて我ら日本人もまた今日直ちにキリスト教の奥義に達することができるのである。」

「じつに罪の何たるかを知らずしてキリストの誰なるかはとうてい、わからないと信じます。」

「罪を発見することはキリストを発見するに至るの道であります。」

「この人はかならずキリストにきたらんと思うた人がかならず来るとはきまっておりません。否、そう思うた人はたいていはキリストにきたりません。」

「キリストにおける信仰は私を罪から救うものである。けれども信仰もまた神の賜物である。私は信じて救われるのみならず、また信じさせられて救われるものである。ここにいたって私は全く自身を救う力のないものであることを悟った。それでは私は何をなそうか。私は私の信仰をも神から求めるのみ。」

「聖書は戦争の廃止を強いません。しかり、ある所においてはこれを奨励しているようにも見えます。しかしながら聖書は人命の貴重なる理由を教えて、戦争をして、あるべからざるものとなしつつあります。聖書は道徳の原理を教えます。その形式を教えません。」

「聖書に奴隷を廃止せよとは書いてありません。ゆえにある人は、聖書は奴隷制度を許すものであると言います。しかしけっしてそうではありません。聖書は、人の神の子たることを教えて、奴隷制度の土台をこわしました。」

「信仰とは信じてはならないことを信じるのではない。信仰とは信ずべきことを、懼れず、躊躇せず信じることをいうのである。」

「キリストを知る者は神を知り、十字架を解する者は宇宙を解する。私たちはキリストにならい、その犠牲の生涯を送ることによって、哲学者でなくても、よく宇宙を解することができるのである。」

「義人アベルが兄カインの毒手に倒れて以来、社会の腐敗は常に義人の宝血だけで抑止されてきた。」

「私たちは死んで永久に別れるのではない、私たちは後にまた復び会うのである。」

「今になって私は感謝して言う、ああ私は幸いである、人は皆私と争い、私を攻め、私を呪ったので私は神に結ばれてその救済にあずかることができたと。」

「もし私の生涯が私の計画したとおりのものでありましたならば、私はけっしてキリスト教信者とはなりませんでした。」

「私は疾病を怖れず、貧困を怖れず、孤独を怖れず、私はただ神に棄てられてその御心が私に伝えられなくなることを怖れる。」

「信者は神の僕である。主人から特殊の要務をゆだねられた者である。したがって彼はこの要務を果たすまでは死ぬべきではない。そして彼はその時まで決して死なないのである。」

「私が神と共にある時、私は罪を犯そうとしても犯せないだけでなく、罪という観念は私に存在しない。私が不完全で、私が他人を賤しみ、私が欲情のために使役させられる、私が傲慢で、私が人を愛せないのは、皆ことごとく私が神を離れたためである。」

「信じてそして真理がますます明瞭であることがわかる、これを信仰といい、ますます闇黒を加えるようになる、これを迷信という。」

「神を信じて天然はすべて奇跡的に解釈せらるるに至る。」

「神に生きれば私に恐怖はない。」

「またと死別しない会合、これにまさる歓ばしいことがこの世にまた重ねてあるだろうか。」

「私たちは死んで再びこの世に帰ることを望む者ではございません。私たちは死んでさらに新しい生命を与えられ新しい世界に行こうと願うのであります。」

「宇宙とそのうちにある万物を得ても、もし神をわがものとすることができないならば、私たちは真に貧しい者である。」

「疾病を知って疾病と称せざる医師は不親切なる医師であります。そうしてキリスト教は人類のもっとも善き医師でありますから、彼は明らさまにその堕落を唱えます。彼はまたこの堕落を癒やすに足るの充分の能力を持っておりますから、これを唱うるにかかわらず、やはり歓喜の宗教であります。」

「この書(聖書)によらずして、人は何人も神の救済にあずかることができないと堅く信じます。」

「神は己の造ったものを軽んじるだろうか。」

「聖書が神の言葉たる実証は、これを一つの古典として攻究したくらいでわかるものではありません。」

「謙遜は勇気である、しかし意気地なしは卑怯である。二者はその外貌において相似て、その内容において全く相異なる。そして世のいわゆるキリスト的謙遜というものに、卑怯の結果であるものが多い。」

「信者の神学はイエスである。彼の倫理はイエスである。彼の清め(洗礼)はイエスである。彼の完成はイエスである。」

「私は無智の者である、だから聖書研究の必要がある。」

「聖書は神の存在を証拠立てようとはせずに、『原始に神あり』と申します。」

「堕落は清潔をもって癒やさるべきものではありません。堕落を癒やすものは帰順であります。……。そうしてこの帰順を決行して後は、罪はわれらの上に再び勢力なきに至ります。」

「信仰は完全に達するための近道である。」

「人に憎まれるのは神に愛されることであった。」

「神を信じないで神を知ることはできない。初めから神を疑ってかかっては神は永久に疑問である。」

「私は私の事を行なうときに富豪の寄付を仰ぐことはしない、私の仕える天の父は天地万有の造り主である。」

「キリスト再臨の希望は信者の歌の源である、愛の動機である、善行の奨励である。これがあって私たちはこの涙の谷にあって、歌いつつわが父の家へと進んでいくことができるのである。」

「この人は事物のわかった人であるゆえにかならずキリスト教がわかるであろうと思うた人は、たいていは半途にしてキリストを捨て去った人であります。これに反して、かかる人がどうして聖き神の子イエス・キリストを信ずるに至るであろうと思った人が、思いがけなくも堅固なる信者となりました。」

「『初めに、神は天地を創造された』、この一節にキリスト信者の宇宙観と人生観との全部がある。すべて神の造った宇宙である、したがってこれはわが父の園であって私がその内に住んで恐怖はない。神と和し神の子となり、宇宙は美わしい楽園となるのである。」

「信者はかかる事は有り得ることであると信じ、不信者は有り得べからざることであると信ずるのであります。そうして有り得るべしと信ずる者は有りしという証拠を求めんと欲し、有り得べからずと信ずる者は有らずという証拠を見つけんと欲するのであります。」

「私たちは救われるために何をなすべきかとの問いに、ただイエスを仰ぎ見るのみと答えるまでである。……。キリスト者の信仰は、儒者のそれのように内省的であってはならない。」

「キリスト信者は元来他動的である、自動的でない。上から求められたものであって、下から求めたものではない。彼の信仰そのものさえ、聖霊によって起こされたものであって、彼自ら求めて起こったものではない。聖霊によってである。」

「神は聖霊として人の霊に臨まれる。聖霊として光を与え、聖霊として能を加え、聖霊として万事を遂げられる。聖霊によってである。」

「大真理を得たときはこれを感じると感じないとにかかわらず、私たちが一大進歩をとげた時である。これに反して、どれほど感情を起こしても、どれほど涙を流しても、私たちの理性を動かさないような変動は、遠くないうちに消えてあとかたもなくなることになる。」

「聖書が神の言辞であるというのは、その中に神の心が充ち溢れているからである。」

「実行はまことに最も有力な祈祷である。」

「私たちはもはや道徳上の義務として悪を避け善を行うのではなく、キリストの愛に励まされて行うのである。」

「天は失せ、地は消えてもキリストを信じるのみ。」

「キリスト信徒は絶え間なく祈るべきである。まことに彼の生命は祈祷である。彼はなお不完全ならば祈るべきである。彼はなお信仰が足りなければ祈るべきである。彼はよく祈ることができなければ祈るべきである。恵まれても祈るべし、呪われても祈るべし。力なき私、私のできることは祈ることのみ。」

「謙遜であれ、柔和であれ、しかし意気地なしであってはならない。」

「絶対的真理は主イエス・キリストである。彼においてこれを求めないで宇宙においてこれを探ろうと思うために、世は永久に真理を見いだすことができないのである。」

「イエスを信じるのに苦痛と辛惨がないことはない、しかし永生の言は彼をおいてほかにはない。私たちは彼を捨て去った人で、彼の恩寵に勝る幸福をほかに発見できた者のあることを知らない。」

「神の赦免にあずかるまでは罪を根本的に絶つことができません。キリストによらずして、罪をおおうこともできますし、罪を隠すことも、飾ることも、なだめることもできます。しかしながら、これを殺すこと、根から絶つことはできません。」

「私たちはイエスにあって、死そのものにおいてすら神の笑顔を拝し奉るのである。」

「『愛のうちに恐怖はない、全き愛は恐怖を除く』のであるから、私たちは愛をもって敵に向かおうとする。私たちは権能の足りないことを歎かない。愛の足りないのを悲しむ。愛をもって溢れていさえすれば、天上天下怖れるべきものは一つもない。」

「かかる者をさえ救いたもうのみならず、われ幾度か彼を捨てんとせしに彼は永遠の愛をもってわれを愛せりとはこれ何事ぞ。かかる無限の愛は、われ信ぜんと欲して信じがたし。されども聖霊はわが心にささやきて言う、これ事実なりと。ああ、われ、いかにしてこの恩に報いんや。」

「今日の日本の信者がキリスト教の真理を心に受けて、深く神の救済の恩恵を味おうて、その結果、外部より何の制せらるるところなくして自然にできた教会でなくてはなりません。」

「私は神の摂理に余儀なくせられて、むりやりにキリスト信者となさしめられた者であります。ことに福音の宣伝者となりしがごときにいたっては、これ私の幾度か拒んで避けんと欲したことでありまして、私は何者になりてもヤソ教の伝道師にはなるまじと、幾度か決心した者であります。」

「罪によって生まれた私のことですから、私が天使のような純白無垢の人となりうるのは、なお永い後のことでありまして、多分私の肉体が腐敗に帰した後のことであろうと思います。しかし快復がすでに私の心の内に始まったこと、その一事は、私の少しも疑わないところであります。」

「信仰は内より外にむかって発するものでありまして、外より内にむかってつめ込まるべきものではありません。」

「あたかも木から落ちた猿のようなものであって、世にキリストを離れた私のように憐れな者はない。」

「私がもし神に帰るならば、私は善人となれるのである。罪から免れる道はただこの一途だけである。」

「神は己に関する人の詮索を恐れて彼から信仰を要求なさるのではない。至誠なる神は人が至誠をもって彼に近づくのでなければ、その人を恵むことができないからである。」

「私はキリスト教を転覆するような歴史的事実の挙がる時は未来永劫けっして来ないと思います。」

「新しい思想を得たいと望み、また広い交際に入ろうと望んで彼(キリスト)に来た者も、また彼を棄てることになるだろう。その罪を贖われその霊魂を救われようと望んで彼に来た者だけが、よく永久に彼と共にとどまることができるだろう。」

「私の口と筆とをもって私の信仰を表白したからといって私は信者ではない、私は愛するだけ、それだけの信者であるのみ。」

「人は何びとも自ら望んで天国の市民になることはできない、血肉は神の国を嗣ぐことはできず、人の智も才も富も位も、彼を神の子となすには足りない、ただ神が選ばれた者のみが主をその栄光において見ることができる。」

「キリストの降臨といい、十字架上の罪の贖いといい、皆要するに霊魂を救うための神の行為でありますから、これらの出来事を霊魂以外の事がらに当てはめては、その真義は少しもわからないのでございます。」

「世につらい事とて、人の善を思うてその人に憎まれることほどつらい事はありません。しかしながら、これ人生の常でありまして、少しくまじめに世を渡らんと欲せし者は、たいていはこのつらき実験を経過いたします。」

「キリスト教はある人がいう仏教のような哲学の一種ではございません。また禅宗のような胆力鍛錬のための工夫でもありません。キリスト教とは霊魂を救うための神の大能であります。」

「雄飛というような、疾走というような、絶叫というようなことをせず、忍耐をもって神に依り頼み、その命に従って静かに日々の生涯を送ることである。」

「キリストに従うのは私の利徳ではない、これは今は私の生存上の必要である。」

「生まれつきのままの人の心をもってしてはとうてい神を見ることはできません。彼が神の事をわかろうと思えば、まったく自己を捨てて神の光明を仰がなければなりません。」

「神は今やキリストにあって人類を見ておられるのである。」

「神は一つである、だから彼は単純である。……。清い心をもってすれば、何びとにも理解できるものであるに相違ない。」

「かの、世に多く存在する、他人の欠点を摘指するのほか自己の可能力を自覚しあたわざる、批評家と称する人士のごときは、みなこの信仰を持たない者であると思います。無限の能力の所在を知り、またこれを獲るの道を知る者は、他人の欠点を発見して自己に満足を買うの必要はありません。」

「神によって人を救おうと望むべきで、人によって世を救おうと望んではならない。」

「悪とは申すまでもなく心の状態でありまして、これは知識の上達をもって除くことのできるものではありません。」

「安全は退いて求めるべきものではなく、進んで達すべきものである。歓喜と満足とは前にあって後ろにはない。臆病者に平和はない。進め、どこまでも進め。」

「単純な信仰、信仰のみの信仰、結果に目を注がない信仰、信仰のみをもって満足する信仰。この信仰があって信者に初めて真の平和があるのである。」

「私どもは天国とその義とを求むれば足ります。その他の事は、神が何かの方法をもって私どもに加えらるると、私どもは固く信じます。」

「貧するもよい、私はただ神の御心を知りたいと欲する。」

「神のためになそうと願えば、まず自己に死ななければならない。」

「自己に死んで後、私は初めて神において生きる。」

「最も善い聖書の註解は人生の実験そのものである。これがなかったら、すべての学識、すべての修養を行なっても聖書の根本的教義を探ることはできない。」

「人の愛をもって神の愛を量るのは、曲がれる定木をもって宇宙を量るの類であります。人の愛をもってしてはとうてい神の愛を知ることはできません。」

「他の宗教が一定の時期を経過すれば必ず死んでいくのに、キリスト教のみが年ごとに新しいのはなぜか。・・・・・・。キリスト教の不朽であるのは神が不朽であることによるのである。活きた神が常にこれに伴い、その真理をもって人の心に働かれるからである。」

「愛なる父上。私は信じる、あなたは私たちを罰するために艱難をお下しにはならないことを。罰という語は、あなたがどのような者かを知る者の字典の中にあるべき語ではない。罰は法律上の語であって、キリスト教という法律以上の教えにおいては用もなく意味もない名詞である。」

「自己の罪を恥じ、良心の平安を宇宙に求めて得ず、煩悶の極、援助を天にむかって求めました時に、十字架上のキリストが心の眼に映り、その結果として、罪の重荷はまったく私の心より取り去られました。その時に私は初めて自分らしき者となりました。」

「私に糧がある、聖書のうちにある。私に力がある、祈祷のうちにある。」

「理性以上の機能によって知ることのできる心理でなければ、これを神に関する真理ということはできません。」

「われらの伝道はキリストの愛に励まされてであります。われらは沈黙を守らんと欲して守りきれないからであります。わがごとき罪人を救いたもう神の恩恵を考えて、いても起ってもいられなくなるからであります。」

「私は聖書によるのでなければ、人類はとうてい神の御旨を悟ることができないと信じる。聖書は実に世界唯一の書である。聖書は実に神の書である。」

「信者は天のことを念って地のことを念ってはならない。その理由は何かといえば、彼は地に対してはすでに死んだ者であって、その生命はキリストと共に神に蔵れているからである。天と未来とをもつ信者は、地と現世とにとらわれて低い卑しい生涯を送ってはならないとの意である。」

「われらキリストを信ずる者は社会改良を目的として伝道に従事することはできません。社会は改まろうが、改まるまいが、それらのことは福音の宣伝者の眼中にはあまり重きをなしません。キリストの愛、永遠の愛をもってわれを救いたまいし神の愛、これが、われら伝道者の心を支配する唯一の勢力であります。」

「キリストに従うのは私の利徳ではない、これは今は私の生存上の必要である。」

「キリストは道徳を説いてわずかに人心の改善を計ろうとはなさいませんでした。彼は罪そのものを滅ぼされました。すなわちキリストによって神と人との間にあった離隔は取り去られました。」

「キリストは誰か、神と人との間に立つ一位の仲保者、人を神に執り成して下さる者、人の罪の軽減と赦免とを希う者、柔和な救い主、罪人の友……。」

「伝道は説教でもなければ牧会でもない。伝道は自分の心に実験した神の救済を世に発表することである。この実験がなくてはどんなに該博な神学教育を受けた者であってもキリスト教の伝道師ではない。また、この実験があれば誰でも有力な伝道師であることができる。」

「聖霊は単に祈っただけでは得られない。聖書を研究しただけでは得られない、決心と勇気とをもって神の命令を実行して裕かに与えられるものである。」

「教会何者ぞ、儀式何者ぞ、教義何者ぞ。もし私に愛がないならば、私は無神の徒であり、異端の魁である。私の口と筆とをもって私の信仰を表白したからといって私は信者ではない、私は愛するだけ、それだけの信者であるのみ。私の愛以上に私の信仰はなく、また私の愛以下に私の宗教というものはない。」

「愛は欺かれてもその勤労を止めない。なぜなら、愛は報酬がなくてもそのもの自身が快楽だからである。」

「迫害がないのは、福音がない証拠である。罪は病と等しく、苦痛なしに癒されるものではない。艱難の伴わない福音は、偽りの福音である。世に嘉納される福音は、キリストの福音ではない。・・・迫害がないのは、福音がない証拠である。それと同時に、歓喜がないのもまた、福音がない証拠である。しかもその歓喜は、財産蓄積の歓喜ではなく、また位階昇進の歓喜でもなく、聖霊降臨の歓喜である。人の思いを超えた、聖なる深い歓喜である。」

「『人はその拝する神の如し』という言葉がある。人は崇拝物を変えるまでは、その本性を改めることは出来ない。死んだ神に仕える者は死に、活ける神に仕える者は活きる。そして世は、真神が活きておられることを知らなくても、これに仕える者に活気があるのを見て、それが真に活ける真の神であることを知るのである。」

「伝道は、実に聖なる結婚の一種である。そして神が合わせられた者は、人はそれを離すことが出来ないのである。そうです。神が合わせられる者でなければ、人はこれを結ぶことが出来ないのである。」

「私どもはキリストに救われんがためには、神に自己の罪を暴露されて、消え入るばかりの恥辱の淵に臨まなければなりません。」

「光明的半面に着眼する者、これ信者なり。暗黒的半面に注目する者、これ不信者なり。」

「科学は天然界における事実の観察なり。宗教は心霊界における事実の観察なり。二者同じく事実の観察なり。科学と宗教は善き兄弟なり。」

「経済の背後に政治あり 政治の背後に社会あり 社会の背後に道徳あり 道徳の背後に宗教あり 宗教は始めにして経済は終りなり。宗教の結果はついに経済において顕れる。」

「腐敗せる教会の特徴は預言研究を嫌ふにある。」

「キリストの再来こそ新約聖書の到る所に高唱する最大真理である。(中略)聖書の中心的真理は即ち之れである。」

「再臨は聖書の中心真理と云わんよりは寧(むし)ろ其(その)最終真理と称すべきである。…十字架が聖書の心臓であるならば再臨は其頭脳であろう。再臨なくして十字架は意味を為さない。」

「再臨問題は聖書問題である。聖書全部を神の言なりと信じて基督再臨を信ぜざるを得ない。又再臨を拒否して聖書の大部分を拒否せざるを得ない。・・・再臨の信仰と聖書無謬説、是れ同一の信仰の両面に過ぎない。」

「最良の聖書の注解書は、苦難である。人生苦である。人生で苦しまずに、聖書はわからない。」

「死に勝つに生をもってし、暗(ヤミ)を遂うに光をもってし、怨を滅するに愛をもってす、これ神の救済なり。」

「悪に酬いるに悪をもってするは悪に負けたのである。何をも酬いないで、ただ忍んでいるのは戦わないことである。善をもって悪に対するのが悪と戦って悪に勝つことである。」

「困難は我をして神に接近せしめ、また人に鍛接せしむ。困難は我の単独を破り、我をして人類の一員たらしむ。尊むべきかな困難!」

「人は止まらんとし、神は動かんとし給う。人は固執せんとし、神は溶解せんとし給う。人は制定せんとし、神は産出せんとし給う。」

「人は神より赦されない間は、心から他人を赦さない。」

「愛に恐怖なし、最上の道徳たればなり。愛に疑惑なし。最大の真理たればなり。愛に束縛なし、真箇(しんこ)の自由なればなり。」

「主を畏るるは天然(自然)科学のもとなり、哲学のもとなり、倫理道徳のもとなり、いっさいの学問または教育のもとなり。」

「聖書は神の書である。故に世界の書であり人類の書である。それ故に日本人の書である。 」

「われキリストにならわんと欲して、キリスト伝を学ぶ。

学んでしかしてますます倣うの難さを知り、

知りてしかして失望し、失望してしかして自己の罪を覚り、

覚りてしかして、ついに彼の十字架にすがり、

すがりてしかして、やや少しく倣いうるにいたる。」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770-1827 ドイツ 作曲家)

「神は形をもちたまわない。私たちは神を見ることはできない。しかし、神の成したまえる御業により、神は永遠で、全知、全能、遍在なるお方であることを知ることができる。」

「神が与えた私の人生は、数多くの苦難にも関わらず、憐れみと慈しみにより、最後の聖餐式を受けることを許され、幸いな人生のフィナーレを感謝をもって終わる。」

「それゆえ、私は心を静めてすべての矛盾を甘受し、永遠のあなたの善なる本質に強い信頼をおくのです。神よ! わが魂は、変ることなき存在であるあなたによって喜びます。わが岩となって下さい。わが光となり、永遠にわが信頼となって下さい。」

「全能の主よ。あなたは私の胸の奥にある私の魂を覗かれ、私の心を見抜いておられます。私の心の内に人類への愛と善をなしたいという要求とが満たされているのを主よ、あなたは御存知です。」

「僕には友がいない。独りぼっちで生きていかなければならない。だが分っている。創造主は誰よりも僕の近くにおられるのだ。どんな時でもこのお方が僕と共におられることが分る。そして僕は主がどのようなお方かということも知っている。」(40歳の時に記した手紙の一節)

「つねに行為の動機のみを重んじて、帰着する結果を思うな。報酬への期待を行為のバネとする人々の一人になるな。」

「悩みを突き抜けて歓喜にいたれ!」

「憎しみは、それをいだいた人間のうえにはね返ってくる。」

「沈黙を学べ。ああ。わが友よ。言葉は銀にも等しい。だが時にかなった沈黙は純金だ。」

「苦難の時に動揺しないこと。これは真に賞賛すべき卓越した人物の証拠である。」

ハドソン・テーラー(Hudson Taylor 1832-1905 英国 宣教師 中国奥地宣教団創設者)

「神の働きを神の方法でするなら、神の供給に欠けることはない。」

「神とともに働き、神にすべてを求めるという、この原則は、いくら強調してもしすぎることはありません。もしその働きが神の命令によるものならば、必要としている働き人が与えられることを完全に信頼して、神の御前に出ることができるはずです。資金があってもなくてもです。」

「神は、弱くて彼に頼るのに十分弱い人を用いてくださいます。」

「主は私の羊飼いである。日曜日も、月曜日も、1週間のすべての日を通して、主はそうである! 1月もそうである。12月もそうである。1年中のすべての月を通して、主はそうである。家にいる時も、中国においてもそうである。平穏無事の時も、戦いの時も、富める時も貧しい時も、主は私の羊飼いである!」

「宣教師は、家を建てるために必要なやぐらです。建築がすすめばやぐらは消え去って行くものです。」

「人が自己をささげ、献身し、専念しても、もし訓練されていないなら、その価値は乏しい。」

私はかつて「私を助けてください」とよく神に祈っていた。やがて私は「あなたをお助けすることはありませんか?」と祈り始めた。最後には「私を通してあなたのみ業をなさってください」と祈るようになっていた。

「イエスを高く、高く、高く掲げよう。 御言葉に深く、深く、深く、根を下ろそう。」

「これほどの神を持ちながら、信仰が不足しているというのはいったいどういうことなのだろうか。」

「一つの地域教会、あるいは一つの教団・教派だけの働きでは、全世界のすべての国民に福音を宣べ伝えることは不可能である。」

「休息の場所は、力の源−すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。−マタイ十一・二八−イエス様は、決して飢えた者、弱っている者、病気の者、悲しんでいる者を遣わしたりはなさいませんでした。どれほどの人が、魂の救いについて人々に語らなければならないと思っていながらも、その力がない自分を見て、ひどい苦悩を味わっていることでしょうか?ああ、それらの人が、まずイエスのもとに来て、休息を得ることができていたら、どんなに違っていたことでしょう。もしそうしていたなら、彼らの喜びに満ちた表情が、心に迫るどんな言葉よりも多くを語り、誰もその顔を見て、「彼らの宗教は全くひどいものに違いない」などとは、思わなかったはずです。『(わたしのところに)来なさい』という言葉は、『(世の中に出て)行きなさい』ということを除外していることばではなく、むしろ、出ていくための準備の言葉なのです。」

「自分のために使う額が減り、他の人に与える額が多くなればなるほど、私の魂はさらに幸福と祝福で満たされるようになった。」

「私はすべてのことを、永遠において獲得できる価値によって判断する。」

「お金が私といっしょにいつづけることは決してない。もしお金がとどまったとしたら、私を燃えつくしてしまうだろう。私はお金はなるべく早く手放すようにしている。そうしないと、お金は私の心に入り込んできてしまうからだ。」

「あなたの心を神に向かって健全なものにしなさい。神の中に、そして神のみにあなたの幸福を捜し求めなさい。塵に固着しないように気をつけなさい。此の地上はあなたの場所ではない。此の地上を乱用しないで使うように注意しなさい。此の世を使って、そして神を楽しみなさい。」

「一日の中で最もよい時間を、神と交わるためにささげなさい。」

「悔い改める人が健康な人です。」

「神様の働きには三つの段階があります。不可能、困難、そして完成です。」

「宣教大命令は、検討すべきのオプションではなく、従わないといけない命令です。」

「信仰を得るために、あるいは私たちの信仰を増すために懸命に努力するのではなく、忠実なお方を仰ぐ―今も後も永遠に、愛するお方のうちにあって安息する。これが、私たちの必要とするすべてではないだろうか。」

「私たちの信仰の先祖たちも弱い人々でしたが、彼らは主の存在とその力に頼ったので、偉大なことを行うことができました。」

「神は生きておられます。聖書の中で語られたように、神は話したことを行い、約束したことをすべて行います。」

「クリスチャンの成長は、子どもらしさを捨てて大人になるのではなく、子どもになり、子どものままにとどまり、その態度に徹することである。」

「宣教のためには3つの要件が不可欠である。1.忍耐 2.忍耐 3.忍耐」

「神の御心にそい、神の御業を実行するのに、どうして神がお見捨てになろうか。必ずや道は開けるものだ。」

「もう祈る力が残っていないほど激しく、キリストのために働いてはいけない。なぜなら、祈りは“力”を必要とするからである。」

「人々が地獄へ行くのに、私が休んでいることのないように、地獄を現実なものとして体験させてください。また、人々を導かないではいられないほど、天国を教えてください。」

「人は祈りなしに働くことができても、働きなしに祈ることはできない。」

「私たちは皆ためこんでしまう危険がある。それは一つには配慮のなさから、一つには仕事の必要に迫られてであろう。とにかく他の人にこそ有用であれ、今の自分には少しも必要のない物をためこむ。すると知らず知らずに祝福を失うことになる。」

「イエス・キリストはすべての主か、それとも全く主ではないかのどちらかである。」

「人々のための、書物としての聖書の存在は、人類がかつて経験した内で、もっとも大きな益である。その価値を減じさせようとする如何なる企ても、人道への罪悪となる。」(インマヌエル・カント)

「憐れみの座にやって来ようとする時、私たちは、何と様々な障害に遭うことでとであろうか! それなのに祈りの価値を知る者たちは、しばしばそこにいることを望む。」(ウィリアム・クーパー)

「人は信仰を伴って世に出る。理屈や知識は信仰のずっと後に身に付くものだ。物事を理解するためには、何かを信じている必要があり、道理というものは、信仰を分析することに他ならない。」(フランツ・シューベルト)

「人間の基本的問題は、神は存在する、私が神である、だれもがそう信じていることです。」(神学者ダニエル・トンク)

トーマス・エジソン(1847~1931 アメリカ 発明王)

「哲学的思考力を持っている人なら、認めざるをえない事実は受け入れるはずである。森羅万象が表現している状態から察しても、宇宙は実に全能者の意志の偉大なる成就である。もし至上の権能者の存在を否定するというなら、自分の知識をないがしろにするにも等しい。科学と信仰とは同一の源から出ているのであり、決して互いに矛盾したり衝突したりすることはあり得ない。」

「私は、すべての発明家に対し、なかでも最大の発明家である神に、これ以上ない尊敬と感嘆の情を捧げたい。」

「よくある失敗は、成功まであと一歩というところで、そうとは知らずあきらめてしまうことだ。」

「私たちの最も大きな弱点は、あきらめることである。成功するための最も確かな方法は、いつも、もう一回だけトライすることである。」

「実行しない幻(ビジョン)は、幻覚である。」

ジョージ・マクドナルド(1824-1905 スコットランド 小説家、詩人、聖職者)

「神の子が苦しみの果てにあのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためではなく、人間の苦しみもまた、彼のそれに似るためであった。」

「私がなおいっそう心をこめて神さまを愛するとき、私は一番ふさわしい方法であなたを愛することができる。」(妻に言った言葉)

「困難な物事はみな、我々の人生論が今なお奉じている以上のものを指し示している。」

「隣人を愛することは、憂いや悲しみから自分自身を救い出す唯一の方法である。」

「キリストはわたしたちを救うために死んでくださった。苦しみからではなく、わたしたち自身から。不正からではなく、ましてや、正義からでもなく、わたしたち自身が正しからざる者であるということから。」

「愛は、すべてのものを愛すべきものとする。憎しみは、憎んでやまない一つのものにおのれを集中する。」

「死ぬことを拒んでいる間は、きみは死んだ状態にある。」

「わたしたちは日ごとに死ぬ。死んで日ごとによみがえる人は幸いである。」

「仕事のみが人にたえず要求されるわけではない。聖なる無為というものがある。そうした無為の開発は今日、ひどくなおざりにされているのである。」

「神のかたちにかたどって創造された人間は、神を知らないかぎり、悲惨である。」

「自我がわたしたちに与えられているのは、献げるためである。」

「朝ごとにわたしの生命は、わたしのまわりに新たにこびりつく自我の殻を砕かねばならない。」

「私たちが求めるべきことは、神が私たちに与えてくださるものではなく、神ご自身です。」

「神よ、わたしの祈りは、偽りのわたしから流れ出ます。しかし、あなたの答えのみが、わたしを本当のわたしにしてくださるでしょう。」

「人はただ義を行なえばいいので、他人の下らない批判についてくよくよ思い悩むべきではない。」

「自分の罪についてくよくよ考えることをやめなさい。それはただきみ自身の目にきみの罪が大きくなるか、いっそう大きくなるかという結果しか生まない。それを主イエスのもとに携えて行き、彼の裁きに委ねなさい。」

「隣人を愛することこそ、自己という牢獄からの唯一の出口である。」

「神は祈りなしでもわたしたちにすべてのものを与えることがおできになるが、子がひざまずいて祈るように、人間が乞い求めるように、賜物を留保なさることがある。」

「祈っているときに、ときおりこんな思いが胸をよぎることがある。『いっそあきらめてしまうほうがいいのではないだろうか?』 こうした考えは、子どもらしさと無邪気な信頼が欠けていることからくる。」

「地獄の唯一の原則は、『おれはおれ自身のものだ!』である。」

「わたしたちが求めるのは神であって、天国ではない。」

「わたしたちは日ごとに死ぬ。死んで日ごとによみがえる人は幸いである。」

「わたしたちがクリスチャンとしていさぎよくないのは、またそうありつづけるのは、わたしたちが自分の姿を見て、キリストを見ないからである。」

「人は隣人を選ぶべきではない。神が送りたもうた隣人を、ただあるがままに受けいれるべきである。」

「間違ったものを求める者の祈りも、ときとして聞かれることがある。パンを求める子に、父なる神が石をお与えになることはない。しかし石を求める子に石をお与えになることがけっしてないとはいいきれない。」

「苦しんでいるクリスチャンたちよ。安心しなさい。主が人を特別に用いようとする場合、主はその人を火の中に入れます。」

「神の練習帳で次のページは明かされない。分かるのは、今のページだけである。今の課題を学び終えて初めて、次に進めるのだ。」

「現在の重荷に耐えきれない人間はいない。現在の重荷に過去の重荷が加わるから、耐えられなくなるのだ。未来に対する最上の準備は、現在をしっかり見つめること。なさねばならぬ義務を果たすことである。」

「もし、神の子が死んでよみがえったと信じるなら、あなたの将来は人生という丘の向こうから永遠に沈まない太陽が昇る夜明けのようだ。そのような希望は、最高の想像力に恵まれた詩人の心にさえ思い浮かばない。」

「神は火を以て清めようと思うほど人間を愛しておられる。」

「私たちがことの現実を最も良く知っているときは、神を最も必要としていることに気づき、神に最も信頼できるときである。どのようなかたちでも、どのような種類でも、どのようなあり方でもその容赦のない現実を認めることは、私たちの心をさらにより現実に向け、より高度な、よい深遠な存在へと導いてくれる。」

「人と親しく心を交えるようになるのは、愛されることではなく、愛することによる。」

「獣は、自分が獣であることを知らない。人が獣のようになればなるほど、人は自分が獣のようになっていることが分からなくなる。」

「人は求めるものを得るのに苦労する。最高のものを求めないからだ。神は与えるのに苦労する。神は最高のものを与えたくても、人がそれを受け取ろうとしないからだ。」

「赦すこととは、与えることです。そして、だから生命を受け取ることになるのです。」

「赦すことを拒否するのは、人を殺すことよりも悪い。殺人は一時的な衝動によるものであるのに対し、赦しの拒否は、冷徹で意図的な選択だからだ。」

「子どもが門口や庭先に遊びに来ないような人は、キリスト者だと言っても信用しない。」

A・W・トウザー(A. W. Tozer 1897-1963 米国 牧師、説教者、著述家、「20世紀の預言者」)

「神に関して何を信じているかということが私たちにとって最も重要なことである。」

「多くの人が未だに悩み続け、求め続けていながら、ほとんど進歩らしい進歩を遂げていないのは、彼らがまだ自分の限界に達していないからです。私たちは未だに自分の考えで物事を進め、神が私たちを通して働かれようとしているのに、それを邪魔しているのです。」

「御霊は緊急の必要である。永遠の御霊だけが永遠の行為をすることができる。」

「自己否定ということは、個人的苦痛や苦行を科することではない。自己否定とは自分のために生活するという原則を断念することである。私たちの存在と意思の方向を完全に変え、もはや、自分にどのような影響があるかを基準に行動するのでなく、神と他の人々に、どのような影響を及ぼすかという一事に思いを寄せるようにさせるものである。」

「私たちが最もしなければならないことは、『わたしはある』という神のために場所を設けることである。」

「信仰とは、本質的に言うと、被造物たる人間の、創造者つまり神に対する応答にほかならない。」

「偶像礼拝の本質は、真の神にふさわしくない神に関する考えをもてあそぶことだ。」

「聖書に掲示された権威によって確信をもって言うが、この地上のどんな人でも、もし礼拝がつまらなく、暇な時間であるなら、その人は天国への準備ができていない。」

‎「神は最高だと解らない限り、だれも神を正しく礼拝することはできない。」

「お金は多くの場合卑しむべきものであるが、永遠の宝へと姿を変えることもある。お金は空腹な人の食事となり、貧しい人の衣類となる。失われた人々の魂を勝ち取り福音の光へと導く宣教師の精力的な働きが、継続して行なわれるために用いられる。そのようにしてお金は、天的な価値を持つものに姿を変えるのである。どんな一時的な所有物も永遠の富に変えることができる。キリストにささげられたものは、即座に不滅のものとなる。」

「救いは、私たちの側では選択ですが、神様の側では私たちをとらえ、理解し、導こうとするいと高き方の介入です。ですから、私たちが救いを受け入れることは反応であって、行為ではありません。選択の決断は、いつも神様の御手にあります。 」

「私が雄弁で、神学的な用語で神様に祈るのではなく、ただ黙って、上を仰ぎ見、神様が私に話す時まで待つと、神様は私が鉛筆とノートで書かなければならないほど、私の心に力強く語られます。 」

「私たちはこの世を模倣しています。主の喜びの代わりになる大衆が願う捏造した楽しみを求め、聖霊の力の変わりになる安っぽく操作された力を得ようとします。」

「聖なる人生でなければ、幸せな人生ではありません。神様の御心を知り、行うためにすべてを費やす者は、幸せな人生をキリストに任せている者です。」

「人々の行動が聖いものが世俗的なものかを決めるのは、その人が何を行うのかではなく、その人がなぜそれを行うのかによります。」

「信仰とはだまされやすいことではない。何でも信じる人は何も信じない人と同じくらい神から離れている。」

「時には少しばかりの健全な不信仰が(健全な信仰のために)必要である。」

「もしもあなたが説得されてキリスト教に入ったのならば、だれか賢い人に説得されてキリスト教から離れることもあるだろう。しかし、聖霊が内側を照らし明らかにするなら、だれもあなたを説得してキリスト教から離れさせることはできない。」

「キリスト教の最高の目的は、人々を神のようにさせ、その結果、神のように行動させることである。」

「神のために働く思いと熱意があるだけでは、十分ではない。その働き自体が神のものでなければならない。これはキリスト者が召されている死の中でも最も厳しい死である。本当に私たちの働きは、まずカルバリの血に浸され、十字架刑のしるしを帯びていなければ、神には受け入れられず、私たち自身も他の人々にも役に立たない。それは私たちの働きであることをやめ、その結果、神の働き、神だけの働きにならなければならない。」

「人間の惨めさの一つに、我意があるが、至福の秘訣の一つは、自分自身の意思を征服することである。それを神に明け渡すことは、休息であり、平和である。」

「世の霊は、福音の精神と相容れるものではない。それは、誇りであって謙遜ではなく、自己犠牲ではなく、むしろわがままの霊である。世の人々は、富、栄誉、楽しみを、最大の目標として追求している。キリスト者の持っている霊は、これらのものを克服したのである。」

「金槌というのはとても役に立つ道具だ。しかし、もし私たちを釘の側においてみれば、話は違う。金槌はいいけれども、金槌でガツンガツン叩かれる釘だと思った時に、こんな厄介な存在はいない。もし釘に理性や感情があったとしたならば、こんなに厄介な相手はいません。自分の頭をいつもガツンガツンと叩くのですから。でも釘は金槌のことだけを考えてはなりません。釘は金槌を握っている大工の手を思い出すべきです。もし釘が金槌ではなく、それを握っている大工の手を思い出すなら、釘は大工が立派な家を建てるために自分が用いられているということがわかるでしょう。でも私たちは、往々にして金槌のことばかりを考えて、どうしてこれほどの試練が?どうしてこれほどのストレスが? なぜ私は叩かれるのか? ということばかりに気持ちを持って行ってしまう。」

「キリスト者の特質の中で、謙遜は特に必要なものである。これが欠けている所では、すべてのものが欠けている。」

「私に起こったすべてのことが私をもっとキリストのようにすることを理解した時、多くの不安が解消されました。」

「私たちが真のクリスチャンであるなら、次のことを知ることができる。無限の神の限りない御力が、私たちの周囲にくまなく存在し、私たちを取り囲み、現されるよう用意されている救いをいただけるよう、私たちを安全に守っておられるということを。私たちは、信頼をもって神を見つめ神の全能の御力の働きを期待しようではないか。」

「十字架の向こうにある喜びを思うと、十字架は厭(いと)わないでしょう。」

「天国をもっている幸いな人々はすべての外的なものを捨て、心から一切の所有欲を抜き取ってしまった人たちである。これらの人々こそ「心の貧しい者」にほかならない。それは圧迫者と戦うことによってではなく、かえって神に降伏することで行われたのである。彼らはあらゆる所有欲から解放されながら、万物を所有している。」

「信仰は耐え忍ぶ人への神からの賜物であり、彼らがもたらす観念もしくは情報とは全く関連は無い。信仰は奇跡である。それは神の御子を信頼するよう我々に神が与えて下さる能力である。」

「大抵の場合、私たちの霊的経験における貧しさの原因は、市場を駆け回る子どものように、神の国の廊下をスキップして回るのが癖になっているせいではないでしょうか。あらゆることについておしゃべりしてはいても、一つのことについて、その本当の価値を知るために、立ち止まってじっくり考えるということが全くないのです。」

「神と正しくあることは、しばしば人々とトラブル定めにある。」

「礼拝が、私たちのうちにおられるキリストよりも私たちの周りにあるカルチャーを反映する時、それはもはや礼拝ではない。」

「興奮を煽る教会は新約の教会でもなんでもない。表面的刺激への欲求は堕落の性質のしるしであり、まさにキリストがそれから私たちを救うために死なれたものである。」

「キリストが仲保者の王座にいましたもう限り、その日その日が良き日であり、どの日も全て救いの日なのだ。」

「今日、私たちが失敗しているのは、事前の孤独、不活動がないまま、宗教的活動をしていることである。それは神の御霊に満たされるまで、神と二人だけになり、黙って静けさの中で神を待つことである。それから行動に移るなら、私たちの活動は神によって整えられたものとなり、実際に成果を挙げることになる。」

「現代は、キリストに関する教義を正しく説く、聖書の教師は不足していない。しかし、その教師たちの大多数は毎年毎年信仰の基本的要素を教えること満足しているらしく、彼らの牧会には神の明らかな臨在はなく、また彼らの個人的生活にはなんらの変化も起こっていない。不思議なことに、彼らはこのことに気づいていないのである。彼らは絶えず、胸の中に神への憧憬を抱く信者たちを牧会していながら、その憧憬に満足を与えることができないでいる。」

「イエスは最悪のあなたを知っている。それでもなお彼は誰よりもあなたを愛される。」

「今日最も広まっている誤りの一つで、そこから福音派のグループにおける騒がしく大げさな宗教活動が生み出される原因となっているものは、時代が変われば教会もそれと共に変わらなければならない、という考えである。映画の都ハリウッド(ホーリー・ウッド)的スタイルこそが聖なる都(ホーリー・シティ)にふさわしいスタイルであると勘違いしてしまっているような精神構造は、実に危険で誤ったものであり、神の聖霊に面と向かって逆らうような常軌を逸した考えが、れっきとしたクリスチャンたちに襲いかかったとしか説明のしようがない。」

「イエス・キリストは一番ひどいときのあなたを知っておられる。にもかかわらず彼はあなたを一番愛してくだるお方である。」

「人工的な大教会より小さくても本物の教会を持つ方がよい。」

「もし神があなたにあと数年くださるとしたら、それはあなたのものでないことを覚えなさい。あなたの時間は神をたたえるものでなければならない、あなたの家庭は神をたたえるものでなければならない、あなたの活動は神をたたえるものでなければならない、あなたがなすことすべては神をたたえるものでなければならない。」

「私たちは愛のうちに祈り、憎しみのうちに生きることはできないのに、なお私たちは神を礼拝していると思い込んでいる。」

「教会員の90%は救われていない。」

「もしあなたが月曜日にその前日にしたのと同じように礼拝していないなら、おそらくあなたは神を全く礼拝していない。」

「クリスチャンで、もしその人が神と正しい関係にあるなら、その人は自身の人生において何かを隠す必要が全くないであろう。」

「宗教は個人の生活を改変(リフォーム)できるが、個人を一変(トランスフォーム)することは決してできない。それができるのは聖霊だけである!」

「キリスト教は、自助努力の欠如を当然のこととしており、ただ神の力のみを提供している。」

「神の臨在の感覚なしに幸福になろうとすることは、ちょうど太陽なしによく晴れた日を持とうとするようなものだ。」

「リバイバルを欲しながらも、同時に個人的祈りとディボーションをおろそかにすることは、一方向を望みながらも逆方向に進むことである。」

「教会は立憲君主制のようであり、イエスには地位が与えられているが、権威が与えられていないのでどのような決定をも下すことはできない。」

「神が教会とご自身の働きにおいて願っておられることは、教会の力ではなく、主の力と臨在が最も弱いしもべたちに働いて、大勝利に導いてくださる様子を世界が見るようになることである。」

「私たちは、ただ地獄に行くことを欲しながらそれでも教会に属している人たちの関心を保つために私たちのクリスチャンの基準を下げることを許すことはできない。」

「自分の罪によって自分を台無しにすることは、この地上で最も神に似せられて造られたものを台無しにすることに値する。これは人にとって最も悲惨なことであり、神が最も悲しむことである。」

「羊にとって安全な場所はただ一つ、羊飼いのそばだけだ。悪魔は羊を恐れることはなく、ただ羊飼いだけを恐れるからだ。」

「私の身に起こることすべてが私をよりキリストに似せるものだとわかる時、相当量の不安は解消される。」

「イエスは神に近づくための多くの道の中の一つでもないし、いくつかの道の中の最高のものでもない。イエスは唯一の道である。」

「神のみこころの外に私の欲するものは何もない。神のみこころの内に私が恐れるものは何もない。」

「クリスチャンになったばかりの人が回心した後に、一刻も早く教えられなければならない唯一のことは、『イエス・キリストが、あなたの必要のすべてである。』ということである。」

「私たちは神のことばの明確な教えを大多数に覆されるようなことを決して許してはならない。」

「十字架を身につけることがあなたを弟子にするのではない、あなたの十字架を負うことがあなたを弟子にする。」

「恐れの父は不信仰。」

「おびえた世には怖いもの知らずの教会が必要である。」

「私の心の中の罪のことを知れば知るほど、私はますます神の恵みを知りたくなる。」

「礼拝者は決して教会を去らない。私たちはどこに行くにも私たちと共に私たちの聖所を運んで行く。」

「私たちは神のことばが私たちを励ますのと同様に私たちを正することも認めなければならない。」

「キリスト教会の上に今日のしかかっている最も重い義務は、キリストの教会の神の概念をもう一度神にーーそして教会にーーふさわしいまでに、きよめかつ高めることです。教会のあらゆる祈りや働きの中で、このことが第一になるべきことです。」

「キリスト教は、自助努力の欠如を当然のこととしており、ただ神の力のみを提供している。」

「神のみこころの外に私の欲するものは何もない。神のみこころの内に私が恐れるものは何もない。」

「クリスチャンはこの世で最も大胆な人々であるべきだ。偉そうな自信過剰家ではなく、彼(キリスト)を確信している者として。」

「神のために働く思いと熱意があるだけでは、十分ではない。その働き自体が神のものでなければならない。これはキリスト者が召されている死の中でも最も厳しい死である。本当に私たちの働きは、まずカルバリの血に浸され、十字架刑のしるしを帯びていなければ、神には受け入れられず、私たち自身も他の人々にも役に立たない。それは私たちの働きであることをやめ、その結果、神の働き、神だけの働きにならなければならない。」

「開かれた聖書とノートと鉛筆を持つ正直な人は、必ず自分自身の欠点にあっという間に気づきます。」

古い十字架は 人を方向転換させていた。

一方、新しい十字架は 人を娯楽にふけらせている。

古い十字架は 罪を責めていた。

一方、新しい十字架は 人を楽しませている。

古い十字架は 肉にある自負心を打ち壊いていた。

一方、新しい十字架は それを肯定し 助長させている。

ウィリアム・ティンダル

「エヴァンゲリオン(我々がゴスペル:福音とよんでいる言葉)はギリシャ語で、「良く(good)て、陽気で(merry)喜びの(glad)嬉しい(joyful)たより(tidings)を表していて、それは人の心を喜ばせ、歌わせ、躍らせ、喜びに跳びあがらさせるものだったのです。」

ウィリアム・ブース(1829~1912年 英国 救世軍創始者)

「人の強さというのは、どれだけその人が降伏しているかによって測られる。」(その人の力がどれだけ大きいかは、どれだけ自分を放棄できるかで測られる)

「女性が泣いている限り、わたしは戦う。幼い子供が飢えている限り、わたしは戦う。男たちが刑務所に出入りする限り、わたしは戦う。酔っぱらいが残っている限り、街頭に哀れな女性がいる限り、神の光を受けていない一人の魂でもある限り、わたしは戦う。終わりまで戦う。」

「救霊にあらざる社会事業はなく 、社会事業にあらざる救霊はなし。」

「人生とは、天においての喜びと職務と交わりにふさわしい性質と品性を得るために神との調和の中を歩み、かつ悩む人々に真の幸福を与えるために働き抜くことにほかならない。」

「人間として最善の事業は救霊である。」

「わたしは8人の子宝に恵まれたけれども、皆、大変、よい子であった。このような子供たちであるなら80人ぐらいほしかった。」

「来たる(20)世紀が直面する最大の危機は、聖霊なしの宗教、キリストなしのキリスト教、悔い改めなしの罪の赦し、再生なしの救い、神なしの政治、そして地獄なしの天国となるであろう。」

「使命、富、友人、名誉などを失うのは、大きな損失である。しかし、愛の心を失うことこそ最大の損失である。思想も金銭も音楽も学術も、愛なくしては人を感化し得ないであろう。」

「世は適者の生存を信ず、われらは不適者の救いを信ず。」

「人類を悲惨から永久に解放する唯一の希望は、イエス・キリストによる聖霊の力をもってする、個人の生まれ変わりにある。」

「人生の失敗の理由が、品性と行為にある場合は、その人物を改変せよ。境遇が窮迫の原因であり、彼の力ではいかんともし難き場合は、境遇を改変せよ。」

「救世軍の宗教は、『失せたる者を尋ねて救う』救霊の宗教、『貧しい者は、福音を聞かせられる』民衆の宗教、『人を強いて連れてきたる』進撃の宗教、『飢えたとき食べさせ、渇いた者に飲ませる』実行の宗教、『男も女もなく、キリスト・イエスにあって一体なる』世界同胞主義の宗教である。」

スタンレー・ジョーンズ(1884~1973年 宣教師)

「もしあなたがキリストに降伏しないならば、あなたは無秩序へ降伏することになる。」

「幸福な人は、他人のため自分の重荷を進んで負う人、不幸な人は他人のためには、自分の損になることを何もしない人。」

「私には外国伝道に対する甘い夢はなくなりました。さまざまな障害があることはよく分かっています。皆さんは、私がインドに戻っても、ただ失望や失敗があるだけで、何の成果も見ることができないだろうと言うかも知れません。しかし、私にとってそれは途中のほんのわずかな出来事にすぎないのです。私は、神からインドへ行けとの召しを受けています。その召しに忠誠を尽くすのが、私のやるべき唯一のことです。成功や失敗は、私の関知することではありません。ただ私は、神に対して忠実か否かだけなのです。」

「自分の感情がついてこないのに新しい方法で行動しなければならない時もあり、自分で行動して新しい方法で、感じなければならない時もある。信仰は基本的に行動だ。信仰は(感情ではなく)行動に表現され、生活される信念であり、遅かれ早かれある種の感情も生み出す。これが神の順序だ。それを逆にしてはいけない。それを逆にすると、あらゆることで安定性のない、幼稚なクリスチャンになります。」

「がらがら蛇は追い詰められると、非常に怒って自分の身を噛むという。この自分の身を噛むということが、人に対して憎しみや恨みを持ち続ける人の経験することだ。われわれは、恨みや憎しみは人に痛手を与えるものと思っているが、実は自分に最大の痛手を与えるのである。」

「孤立的な信仰というものはあり得ない。もし信仰が孤立的だとすれば、それは信仰ではない。イエスは、信仰をば、神を愛することと、人を愛することとしておられるからである。人を愛するということは、人との関係において実行しなければ到底あり得ない。”存在するとは、関係のうちに存在することだ”。クリスチャンの生活とは、与え、受ける共同体のうちに生きることである。」

V・レイモンド・エドマン(V. Raymond Edman 1900-1967 米国の神学者)

「神が光の下で言われたことを、決して暗闇の中で疑ってはならない」

「もし周囲の人がみな度を失ってあなたを非難しても、落着きを失うことがないなら/もしみんなの者があなたを疑っても、自分に確信を持ち、人の疑いを思いやることができるなら/もしあなたが待つことができ、待ちくたびれることがないなら/もし偽りを言われても、偽りを返さないなら/そして善人ぶったり、りこうぶったりしないなら、…私の子よ。もうあなたは一人前だ。」

「自分の行くべき道について熟考し、与えられた事についてよく検討してから行動する、慎重さは、確かに必要である。しかし、同時に、どんな困難があろうとも与えられた義務を遂行するという「敢行」の態度も、また必要である。必要以上に慎重になりすぎると、疑念がその人の力を麻痺させてしまう。神が、私たちを導いてくださる時に事を敢行するなら、人間的には不可能なことも可能となり、ついには完全な勝利に導かれるのである。すなわち、敢行するかしないかによって、任務遂行の喜びを得るか、それとも任務怠慢のための敗北を招くかが決まるのである。」

「福音書が最も多く、そして最も深く語っているのは、この世界や社会問題ではなく、来るべき永遠の世界と社会的義務である。」(P・T・フォーサイス)

ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945 ナチスに反対したために殉教したドイツの牧師)

「クリスチャン共同体よりも、自分で夢に思い描いている共同体を愛する人は、クリスチャン共同体の破壊者となります。・・・そこですばらしい体験ができずに、また特に発見すべきものがなく、弱さや信仰の欠けや困難ばかりが目につくからと言って、自分が置かれているそのクリスチャンの交わりに対して、感謝することもなく、文句ばかり言い続けるなら、私たちはその交わりを育もうとしておられる神の働きを妨げることになるのです。」

「キリストが人を召されるとき、来たりて、死ねと命じられる。」

「絶えず私の悪口を言い、私を侮辱し、私に対して公然と不正を行ない、おりさえあれば私を苦しめ悩ます隣人が(あるいは他人が)ここにる。その人を見るだけで、顔に血がのぼり、恐ろしく激しい怒りがこみあげてくる。『敵』というものは、われわれにそうしたことを引き起こさせるものである。しかし、その時にこそ、われわれはよくよく、注意すべきである。その時にこそすぐに、『私は人間によってではなく、神自身によって憐れみを受けたのだ。そしてイエス・キリストは憐れみを与えてくれるこの神のために死をも引き受けたのだ』ということを思い起こすべきである。そうすれば突然、すべてのことが変わってくるであろう。 」

「今日私たちがキリスト者であるということは次の二つのあり方の中でのみ成り立つ。即ち祈ることと人々の間で正義を行なうことである。」

「子供たちに何をするかによって、その社会のモラルを計ることができる。」

「普段、私たちは与えたものよりもずっと多くを受け取っていることに、ほとんど気づいていません。そのことに感謝して初めて生活は豊かになります。」

「いくら考えても、行動できるわけではない。責任をとる用意ができた時に、動き出せるのだ。」

「よき力に不思議にも守られて、心静かに、われらは、来たらんとするものを待つ。」

「生きたイエス・キリスト不在のキリスト教は、必然的に服従のないキリスト教にとどまり、服従のないキリスト教は、常にイエス・キリスト不在のキリスト教である。」

「神の真理は神の愛であり、神の愛はわれわれを自己自身から解き放ち、ほかの人々のために自由にする。自由であることは愛のうちにいるということにほかならず、愛のうちにいるとは神の真理のうちにいるということにほかならない」

「教会は他者のために存在する時にはじめて教会である。」

「信ずる者だけが従順であり、従順な者だけが信ずる。」

「キリスト者の交わりであるならすべて、弱い者が強い者を必要とするだけではなく、強い者もまた弱い者なしには存在しえないということを知らなければならない。弱い者を排除することは、その交わりの死である。」

「キリストに従うことが恵みから湧きでる生活を意味し、恵みがキリストに従うことを意味することを知っている人たちは、幸福である。」

「イエス・キリストが真の神でないならば、いかにして彼は私たちを〈助ける〉ことができるだろうか。彼が真の人間でなければ、いかにして彼は〈私たち〉を助けることができるだろうか。」

「教会で重要なのは宗教ではなくて、キリストの姿であり、そのキリストの姿が人々の集まりの只中で現れることである。」

「キリストなしでは、我々は神を知らず、神を呼ぶこともできず、神に行くこともできなかった。キリストは、神に至る道と、兄弟に至る道とを開きたもうた。」

「ひとりのキリスト者は、ただイエスキリストを通してのみ他のキリスト者に至る。キリストは神に至る道と、兄弟に至る道を開かれた。」

「人間的な愛は、自分自身のために他者を愛し、霊的な愛はキリストのために他者を愛する。」

「『私は決して神への信仰を捨てようとは思わないが、この信仰と並んで、この世、国家、仕事、家族、科学、芸術、自然もそれなりの権利を持っている』と語るキリスト者たちがいる。これに対して神は、『いかなるものも、神と並ぶ何の権利も持っていないのだ。ただ神のもとでのみ権利を持つのである』と語るであろう。われわれが神と並べて置くものはすべて偶像にほかならない。」

「カトリックに反対していさえすればプロテスタントなのではない。本当のプロテスタントは自らにプロテストし、自らを改革するのでなけれならない。」

「十誡には、働きなさいという命令は含まれていない。仕事を止めて休め、という戒めが含まれている。それは普段、われわれが慣れ親しんでいる発想を転換することに他ならない。」

「人生が豊かになるのは感謝する時だけです。」

「安っぽい恵みは、弟子への道もなく、十字架もなく、人となられたイエス・キリストもない恵みです。」

「十字架のもとに生き、イエスの十字架のうちに、自らの心とすべての人の、まったく邪悪であることを識別し得た者は、自らにとって無縁の罪はあり得ないことを悟るのである。ひとたび自らの、イエスを十字架に釘づけた罪のすさまじさに恐れおののいたことのある者は、もはや兄弟の極悪の罪にすら恐れまどうことはない。」

「聖書がイエスに対する服従について語る時、それによって聖書は、あらゆる人間の規則や、人間を抑圧し・人間に重荷を負わせ・思い煩いや良心の苦悶を与えるあらゆるものから、人間を解放することを宣べ伝える。服従において、人間は、自分の律法の過酷なくびきを脱して、負いやすいイエス・キリストのくびきのもとに来る。」

「神は幻想を憎み給う。なぜなら、幻想は人を高慢にし、要求がましく するからである。 一つの交わりのイメージを夢見る者は、その実現を、神に、ほかの人に、そして自分自身に求める。 彼は、キリスト者の交わりの中へ、要求するものとしてはいり、自分自 身の律法を立て、それによって兄弟と神ご自身とを裁く。 彼は、他の人たちすべてに対する厳しい叱責者のように、冷然と兄弟の群れの中に存在する。彼は、あたかも自分がキリスト者の交わりを造り出す者であるかのように、自分の幻想が人びとを結び合わせるかのよう に行動する。 自分の思い通りに行かないことを、彼は『失敗』と呼ぶ。彼のイメージ が消滅すると、彼は、そこで交わりが破れてしまったと考える。そこで彼は、先ず第一に彼の兄弟を非難する者となり、ついで神を非難する者となり、遂には自暴自棄的な自己非難者となる。」

「十字架は、敬虔で幸福な生活の恐ろしい終末ではない。十字架からイエス・キリストとの交わりは始まるのである。イエスの招きはすべて死に通ずる。」

「自分の持っていたものをすべて放棄してイエスに対する服従に生きる者のみが、ただ恵みによってのみ義とされると言うことが許される。」

「人生が豊かになるのは、感謝する時だけです。」

「弟子であるとは、ただ、恵みから生れ出る人生を意味している。」

「クリスチャンは、この世では真の故郷の植民地なのである。」

「人を見る時はその人が何をして何をしないかということではなく、どんな苦しみと闘っているかという見方で見ることを心掛けなければならない。」

「私たちがどんなかたちで祈るかとか、どのくらい多くの言葉で祈るかとかは、取るに足らないことだ。大切なのは、私たちが願う前から、神がもうすでに私たちの必要を知っておられることを知り、神をしかと捉える信仰である。それが、キリスト者の祈りに、限りない信頼と喜びあふるる確信を与えるものなのだ。」

「神の言葉の前における沈黙は一日の全体に影響を与える。神の言葉が語られる前のその言葉の前での沈黙の瞬間、沈黙の時は、その人の一日の全体に影響を与える。もし御言葉の前に沈黙することを正しく学ぶなら、我々は一日の歩みの中で沈黙することと、語ることを正しくやりくりすることを学ぶであろう。」

「人々が『失われた』と言うところで、神は『見出した』と言い、人々が『裁かれた』と言うところで、神は『救われた』と言い、人々が『否』と言うところで、神は『然り』と言う。人々がなげやりな気持ちや、高慢から、目をそらせるようなところで、神は他のどこにもない愛のこもった目を向けるのである。」

「人間の死というのは、自由への道において行われる最高のフェスティバルである。」

「悪に直面して黙ること自体が、悪である。神は私たちを罪なき者とみなされない。語らないことは、語ることである。行動しないことは、行動である。」

「人間は、神がご自身の栄光をあらわすための最後のみわざとしてここにいます。この世界は神のために、神の栄誉のためだけに造られており、人間は最も大切な器です。まさに創造主を映し出すものなのです。創造主としての神の栄光と誉れとを全目的として、すべてのことが起こっているのです。」

「神の真理は神の愛であり、神の愛はわれわれを自己自身から解き放ち、ほかの人々のために自由にする。自由であることは愛のうちにいるということにほかならず、愛のうちにいるとは神の真理のうちにいるということにほかならない。」

「一つの従順の行動は100回の説教にまさる。」

「キリストを愛そうとはせず、自分のみを愛する者、あるいは、喜んでキリストを受け入れようとはするけれども、決して仕えようとはせず、服従しようともしない者は、キリストの言葉を決して守ろうとはしない。それゆえ、そのような人には、何も起こりはしないであろう。」

「キリスト者は、自分に神の言葉を語ってくれるほかのキリスト者を必要とする。自分が確信を持てず、臆病になる時はいつも、ほかのキリスト者を必要とする・・・兄弟の中にいるキリストは自分の中にいるキリストよりも大きく、確かであり、力強い。」

「 だからキリスト者がすでにこの世において、神の言葉と礼典にあずかるために、目に見える形で集まることを許されるということは、神の恵みである。すべてのキリスト者が、この恵にあずかるわけではない。囚われ人、病人、散らされて孤独の中にいる人、異邦の国にいる福音の宣教者、などの人たちはひとりでいる。彼らは、<目に見える交わりが恵である>ということを知っている。」

「キリスト者は心が動揺し、気落ちしている時はいつも他のキリスト者を必要とする。というのは彼は自分では自分を助けることができない。そうすれば真理を偽ることになるからである。彼は神の救いのみことばの担い手、宣教者としての兄弟を必要とする。」

「キリスト教的愛は限界を知らないことが認められる。それは、すべてのところで神の支配が実現することを欲する。それは、神ご自身が定めたもうたところにのみ、その限界を持つ。神が罪なりと定めたとうたことが分かれば、それを愛することが許されない。」

「安価な恵みは、悔い改め抜きの赦しの宣教であり、教会戒規抜きの洗礼であり、罪の告白抜きの聖餐であり、個人的告解抜きの贖罪である。安価な恵みは、服従のない恵みであり、十字架のない恵みであり、生きた、人となり給うたイエス・キリスト不在の恵みである。」

ジョニー・エリクソン・タダ(Joni Eareckson Tada 1949- 米国 著述家、ラジオパーソナリティー、画家、ゴスペル歌手)

「人生がバラ色の時、私たちは主イエスのことを知っていると思い、主イエスのように生きているつもりになっていて、何となく主イエスの教えを引用してみたり、主イエスのことを話したりしています。しかし、苦難を通してでなければ、私たちが本当に主イエスを知ることはないのです。」

「苦しみは私たちに教えてくれる。クリスチャン・ライフにおいてもっともすばらしいことは痛みがないことではなく、キリストに似た者となることであると。」

「神は自分の願う結果を成し遂げるためには、自分が願わないことを行うのもいとわない。」

「私は車椅子に縛られて生きています。でも、私には体のいやしよりも、主イエスご自身が必要なのです。癒されなければならないのは体だけではなくて、私の心、私の魂だからです。私は何よりも主イエスを必要としています。」

「過去の失われたこの世の体よりも、新しく天国で与えられる体の方が、ずっと身近に感じられる・・・あなたはきょう、どこに思いを馳せているだろうか。過去に失ったもの、それとも失った人だろうか。健康や体力、視力や聴力を失ったこと、そして、愛する者を失った事にとらわれているだろうか。思い出すとまだ胸が痛むだろうか。けれども、少しの間、過去にとらわれるのをやめて、未来へと目を向けよう。『過ぎ去った事』ではなく、『まもなく始まる事』に期待を抱くようにしよう。」

「自分の弱さを誇れる私は、とても幸せです。反対に、自分の強さを誇って、キリストに頼らない人は、とても不幸だと思います・・・神なしで生きている人の方が、はるかに重い障害をもっているのです。」

「天においては何一つむなしい涙はなく、すべての涙は数えられ、すべての叫びは聞かれる。」

「自分の病を、神に会う準備として見るなら、二度とそれを苦しみと呼ぶようなことはしないでしょう。車椅子で苦労することもありますが、たいていは、自分の体の麻痺は賜物だと考えています。イエスが、十字架の意味を、拷問のシンボルから、希望と救いのシンボルにと変えたように、イエスは私に、車椅子について同じことをする恵みを与えて下さいます。十字架が祝福となりうるなら、車椅子だってそうです。車椅子はある意味で、私にとって過ぎ去ったことです。絶望は終わりました。今は担うべき十字架が他にあります。私の人生で賜物に変えるべき『車椅子』が他にあるのです。 」

「ダウン症の子どもを連れた母親や父親を見て、頭を横に振り、『私だったらこれに向き合えるはずがない』と言ってはいけません。おそらくあなたにはできないでしょう。だからこそ、神はあなたにそれを求められなかったのです。 その代わりに、自分自身の、自分だけの特別な状況でいかに喜んでいられるかを真剣に考えなさい。自分のいる状況を、神の御手からの贈り物として受け入れなさい。そして、敢えてその状況を神に感謝するのです。」

「世の中に目を向ければ、悩みが増すでしょう。自分の内側をのぞいてみても、落ち込むだけです。しかし、あなたがキリストを見上げる時、心に安らぎが与えられるのです。」

「赦しは、怒りの扉を開き、憎しみの手錠を外す鍵である。それは悲痛の鎖を断ち、利己心という足かせを断つものである。イエスの赦しは、わたしたちの罪を取り除くばかりでなく、あたかも罪などなかったかのようにしてくださるのである。」

「幸福というものは環境によって左右されるのではなく、その中における人間相互の関係によって決まる。」

「信仰とは霧の中を透視するレーダーのようなものである。それは人間の目が見ることのできない遠くの実在を見るのである。」

「我々がどんな暗闇にいようとも、イエスはさらに深い暗闇の中にいる。」

「この世のものは、しっかり握らずにおきなさい。」

「私たちの罪をイエスの下に携える時、主はそれをゆるされるだけでなく、そんなものはちっともなかったかのようにしてくださいます。」

「他人を赦すことができない者は、自分が渡らなければならないブリッジを壊すことになります。」

「あなたは、もう福音をお聞きになりましたか。それは、人類史上でもっとも偉大な人によって提供された、最も素晴らしいプレゼントについての、最も素晴らしいニュースです。永遠のいのち―このためにイエス・キリストは天から降り、十字架上で死なれたのです。あなたも、このプレゼントをお受け取りになりませんか。」

「『どうしたら私は神の子になれるでしょうか?』はっきり決心して、こう祈りなさい。『主イエスさま、私の心の内に来てください。』『そんな簡単なことですか?』そうです。救いはプレゼントです。あなたはただ、それを受け取ればよいのです。そうすれば、あなたは神とつながり、神はあなたとつながってくださいます。あなたがしなければならないことは、十字架上のキリストによって、すべて成し遂げられてしまったからです。」

「心配は、明日の悲しみをなくしません。ただ今日の勇気をなくすだけです。」

「赦しは意志に基づくものであり,その意志は心の温度に関係なく働かせることができる。」

「赦しを行えるのは強い者だけだ。」

「信仰は目に見えないものを見、信じがたいことを信じ、不可能なことを受け取ることです。」

「私は隣り人の聖書です。私は読まれているのです。今日は家で、明日は通りで、それは親戚かもしれないし、友人かもしれない。それともただのちょっとした知人かも、もしかしたらその人は、私の名前など知らないかもしれない。でも、私を読んでいるのです。」

「私たちは、キリストの大使です。大使は、その国の政府によって派遣され、他国の領域内でその国を代表し、役所としての役割を果たします。その大使の権威は、その個人的な能力ではなく、その代表している政府の権威によって決まってきます。」

「謙遜ほど、人を悪魔の手から遠く離すものはありません。」

「私たちはみな天国に行ける。健康がなくても、財産がなくても、名声がなくても、学問がなくても、教養がなくても、美しさがなくても、友人がなくても、他の何がなくても。けれど、イエス様なしには天国に行くことはできない。」

「列車がトンネルに入り、暗くなっても、あなたは切符を投げ捨てて、列車から飛び降りたりはしません。ただ静かに座って、運転手を信頼していればいいのです。 」

「私は多くのものを手の中に握っていました。そしてそれらすべてを失いました。しかし、神の御手に委ねたものは、すべて、今でも私のところにあります。」

「憎しみは、憎む相手以上に憎んでいる本人を傷つける。その件に関し、憎むことがどれほど当然であったとしても。」

「自分を救ってくださった主への感謝を表す正しい応答は、全世界に福音を広めることです。」

「あなたの重荷を主にお任せしなさい。世の中の問題を、あなたが自分の思いで解決しようとしてはいけません。あなたにはスクランブルエッグをもとの卵に戻すことはできません。」

「錨の値打ちを認識するためには、私たちは嵐の圧力を感じる必要があります。」

「飛ぶのを楽しむとき、鳥は風に乗って飛ぶ。だが、危険にあうと、より高く飛ぶために、鳥は風に向かっていく。」

「神さまが人を測られるときは、巻き尺をその人の頭ではなく、その人の心に当てられます。」

「祈りのないことは罪です。」

「神が私たちに与えるあらゆる機会、神が私たちの人生に置くあらゆる人々は、神だけが見ることのできる未来のための完全な備えである。」

「敵をゆるし、愛するときほど、神の愛の海原に触れることはないでしょう。」

「気分が向いた時にだけ祈るのはよくありません。主とアポイントメントを取って、それを守りなさい。人はひざまずいて祈る時、強くなります。」

「神が下って行けないほど深い穴は一つもない。イエスと共にあれば、私たちの最も陰鬱な時間にあってさえ、最良のものが残されている。ここにあり得る最良のものが。」

「ユダヤ人を愛することなしに神を愛することはできません。」

「神が私たちに与えるあらゆる経験、神が私たちの人生に置くあらゆる人々は、神だけが見ることのできる未来のための完全な備えである。」

「神が赦されるとき、神は忘れられる。神は私たちの罪を海の底に埋め、土手に『魚釣り禁止』という立札を立てられる。」

「誰がクリスマスに付け加えることができるでしょう? その完全な動機は、神は実に世を愛された。その完全な贈り物は、神はそのひとり子をお与えになった。たった一つ求められていることは、神を信じること。その信仰の報いは、あなたが永遠のいのちを持つこと。」

「祈りの素晴らしいところは、何もすることができない世界を出て、何でもできる神の領域に入ることです。特に、神は不可能を可能にすることを専門としておられます。どんな問題も、神の全能の力の前に大き過ぎることはありません。そして、どんな小さな問題も神は過小評価なさることもないのです。」

マルティン・ルター(1483-1546 ドイツ 宗教改革者)

「あなたは自分の頭上を鳥が飛び回るのを止めることはできなくても、自分の頭に巣を作らせないようにすることはできるのです。」

「人間は常に神か、さもなければ偶像を持つ。」

「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって何人にも従属しない。キリスト者はすべての者に奉仕する僕であって何人にも従属する。」

「信仰とは私たちがこれこそ信仰であると考える思想や夢想ではない。信仰とは私たちの中における神のわざである。」

「聖餐から遠ざかっている者はキリスト者ではない。」

「悲しむ理由よりもっと多く、喜ぶ理由がわたしたちにはある。なぜなら神の望みを置いているのだから。」

「もしわれわれの持ち物が周囲の人々に分かち合えるものでなければ、それは盗品である。」

「苦しみに会っても心を静め、あなたの悲しみを誰にも話していけない。神を信じなさい。神の助けはあなたを裏切ることはない。」

「神学をするためにはアリストテレスを忘れなければならない。」

「この世を動かす力は希望である。やがて成長して果実が得られるという希望がなければ、農夫は畑に種をまかない。」

「私たちは、キリストが、きのう十字架にかかられ、きょうよみがえられ、あす来られるかのように生きようではないか。」

「真理なしの一致は背任である。」

「私は多くのものを握り締め、そしてそれらを全部失った。しかし神の手にお渡ししたものについてはすべて、ずっと持ち続けている。」

「もし、あらゆる狂信者がするように、音楽を軽蔑する人が いるなら、私は彼を好きにはなれない。なぜなら、音楽は、人間が発明したも のではなく、神の賜物であり恵みであるからだ。それゆえ、音楽は、悪霊を追 い出し、人々を快活にする。そして人はあらゆる怒りと不潔と他の策略を忘れ るのだ。」

「悲観的な心配と絶え間ない悩みの創始者である悪魔は、神 のみことばの前から逃げ出すとほぼ同じように、音楽の響きの前から逃げ出す。 」

「私は、歌という手段によっても、人々の間に神の ことばが宿るように、神聖な賛美歌を作曲したいと願う。」

「私は、いかなる人にも、神聖な賛美歌の使い方や力に関して適切な知 識なしに、神の民に説教しあるいは、教えることを許さない。」

「私は義人にして同時に罪人である。なぜなら、私は悪をなすからであり、しかも、悪を憎むからである。」

「すべての聖徒は知られているところでは、罪人であり、知られていないところではまことは義人である。現実に従っては、罪人であり、望みに従っては義人である。真実には、義人であり、まことに憐れみ深い神の帰与によっては、義人である。」

「賛美歌を歌おう、そして悪魔を退散させよう。」

「神は無から世界を創造された。だから私達は無にならなければ、神の創造の業を見ることは出来ない。」

「神は私達に価値があるので愛されるのではない。神が私達を愛しているゆえに私達に価値があるのだ。」

「悪魔は吾がペンを恐れる。」

「大学というところは、聖書を説明し、それを青年たちの心に刻み込むために熱心に努力するのでなければ、地獄の大きな門になってしまうのではないかと、わたしは恐れる。わたしはだれも聖書が最高位を占めていないところに子供に送らないように勧告する。人々から神の言葉を絶えず研究していない学校は、すべて腐敗するにきまっている。」

「あなたはあなたの理解しないことを行ない、どこに行くかを知らずして、御言葉の導きに従って出て行き、あなたの思いを捨てて愚か者となる以外には、何も求められていないのである。」

「まず、あなたはキリストに尋ね、キリストとともにとどまり、キリストにすがりつきなさい。あなたの思いや理性、あるいは、だれか他の人が、あなたをほかのどこかへ連れてゆこうとするならば、目を閉じてこう言いなさい。私は、私の主キリストのほかにどんな神も知ろうと望まないし、また知るべきではない、と。キリストが父なる神から遣わされた方であるなら、御旨によって私たちのためになしてくださり、語ってくださる偉大なものをもっておられることは確かです。ですから、私たちは、主ご自身を至高者として耳を傾けるべきです。」

「音楽は神から与えられた最も美しくすばらしい贈り物のひとつです。サタンは音楽を嫌います。音楽は、誘惑と悪しき思いを追い払う大きな力をもっているからです。悪魔はこのような音楽(賛美)を受け入れません。音楽は悲しんでいる心への最良の香油です。心に満足を与え、生気を与え、心を生き返らせるのです。音楽は神学と並んで、神の与えられた栄光の贈り物です。私はこの世の何ものをもってしても、この小さな贈り物と他のものと交換することを望みません。私たちは青年にこの芸術をもつと教えるべきです。」

「神は世のすべてのもののために『時』を定められました。それぞれに完全な絶対の時を定められました。全世界その敵で、激しく攻撃します。悪魔は小さい貧弱な砂時計に矢を射かけてきます。しかし、その攻撃は失敗します。なぜならすべてはその『時』にかかっているからです。その『時』がきて、砂ができってしまうまでは、悪魔も世も何一つできません。」

「真の信仰心から、そして心の底からひたすら神のもとを訪れる者には、そのすべての願いが聞き入れられ、求めていたものが与えられる。」

「死のただ中にあって、われわれは命の中にいる。」

「あまりにも多くのクリスチャンは、罪人の満足と聖人の喜びを羨みます。なぜなら、彼らはどちらも持っていないからです。」

「自分の隣人に対してキリストのようになることがすべてのクリスチャンの義務です。」

「キリスト教は所有代名詞の宗教です。」

「私たちは感じることや私たちの前に見えるものによって判断してはなりません。従うべきことはみことばだけです。」

「自分はこの犬が飼い主を待つほどまでに主を待ち望んでいるだろうか。もしそうならなんと幸いなことだろうに。」

「良い行いが良い人をつくるのではない。 良い人が良い行いをする。 悪い行いが悪い人をつくるのではない。 悪い人が悪い行いをする。」

「たましいは神のことば以外の何ものによっても生きることができないことを、私たちは確信しなければなりません。」

「嘘は雪玉のようなもので、長い間転がせば転がすほど大きくなる。」

「神のみこころにゆだねる人はさいわいである。その人は決して不幸になり得ない。人からいろいろ言われても彼は動じない。「神を愛する人たち、ご計画に従って召された人たちにとって、すべての事が相働いて益となる」ことを知っているからである。 」

「この世界は神の栄光の直接的な力にはとても耐えられない。だから神は人間をご自身の最良の表現として用いられたのだ。」

「妻よ、主人が喜んで家に帰るようにしなさい。夫よ、家を出るときには妻が悲しむようにしなさい。」

「エバがアダムのところへ連れてこられたとき、彼は聖霊に満たされ、彼女にもっとも神聖で、最も誉れ高い名前を与えた。彼は彼女をエバと呼んだ。それは全てのもの母という意味である。彼は彼女を妻と呼ばず、単に母、全ての生き物の母と呼んだ。この中に、栄光と最も高貴な女性の装飾が含まれている。」

「洗礼は、私たちの中の古いアダムが日々の悲しみと悔い改めとによって攻められ、すべての罪と悪い欲望とともに滅ぼされるものであること、そして新しい人間が日々生まれ出て立ち上がり、永遠に義と純潔の中で神の前で生きるものであることを意味する。」

「もし、キリストを心の中で密かに信じ、心の片隅で崇拝していたいと言うのは、真実の信仰ではない。心に信じている事は、人前でも証言すべきである。」

「第一の、また最高の貴き業は、キリストを信ずる信仰である。」

「世間は賞賛して然るべきものをひどくけなし、けなして然るべきものを賞賛する。」

「死は人生の終末ではなく、生涯の完成である。ゆえに死を恐れるのは愚の骨頂である。ただ恐ろしいのは、このような醜い一生をもって神のみ前に立つことである。」

「我らは毎日ひげをそるが、すぐに伸びる。生きている限り、毎日そらねばならない。我らの心もこれと同様で、毎日、悪い考えを刈り取らねばならない。」

「神のことばに次ぎ、世に貴い財宝として、聖なる結婚以上のものはない。神の最上の賜物は、敬虔で、神を畏れ、家を整える妻である。」

「一万の法王といえども恐れない。なぜなら、私と共にある者は、世にある者よりも大であるからである。」

「神は、聖書だけでなく、木々や花や雲や星にも福音を記されている。」

「私たちの主は、復活の約束を記された。本の中だけではなく、春の葉一枚一枚に。」

「家庭は民族の幸運と不運の源泉である。」

「『今でなくても』が、『ついにとうとう』になることは実にはやい。」

「今日はすべきことがあまりにも多いから、一時間ほど余分に祈りの時間をとらなければならない。」

「我ここに立つ。他になしあたわず。神よ救いたまえ。アーメン。」

「私は話すとき、自分を最も低く引き降ろす。聴衆のうちインテリを見ないで子供を見て話をする。」

「たとえ明日、世界が滅亡しようとも今日私はリンゴの木を植える。」

「いい結婚にも増して、愛深く友情あり魅力ある関係、交遊、仲間関係はない。」

「神がまず御言葉を通して人に信仰を与えられたのであるから、それから後も神はまた御言葉を通して信仰を働かせ、増し加え、固くし、完成してくださる。それゆえ最高の神礼拝、安息日の中の安息日は、自らを信仰において鍛え、御言葉に関わり、御言葉を聞くことである。」

「汝の敵のただ中に、神の国がある。そこで、そのことに耐えようとしない者は、キリストの支配によってあることを願わず、友人たちのただ中にいようとし、ばらとゆりの中に坐っていようとし、悪人と共にいることを願わず、敬虔な人たちと共にいようとする者である。ああ、汝ら神を冒瀆し、キリストを裏切る者たちよ!もしキリストがそのようになさったとしたら、一体だれが救われたであろうか。」

「この人生とは神聖でいることではなく、神に似たものとなる過程です。健康ではなく、健康を回復すること、ある状態でいることではなく、ある状態に変貌することなのです。私たちは今、なるべき者になっていないけれど、そうなりつつあります。その過程はまだ終わっておらず、着々と進行中です。これは目標というのではなく、歩むべき正しい道なのです。今のところは、あらゆるものが光り輝いているわけではないけれど、それでもすべてが清められている過程にあります。」

「キリスト教的な人間は自分自身においてではなくキリストと彼の隣人とにおいて、すなわちキリストにおいては信仰を通して、隣人においては愛を通して生活する。」

「あなたは何を言ったかに対してだけ責任があるのではない。あなたが何を言わなかったかに対しても責任がある。」

「たとえ、私が一日にして世界を浄福にさせることができたとしても、それが神の意志でないならば、私はそれをなすべきではない。」

「苦難は祝福をもたらす近道である。」

「子どものために苦しまず、互いに愛無き夫婦は、それはもはや人間ではない。すべてをあげて信頼でき、またそのような人によって子どもをつくることのできる配偶者を持つことは最大の恵みである。」

「わたしたちが賛美歌を歌う時、その口はキリストの口になる。」

「神がそのみ言葉をよく聴かせるために、こうして耳を与えてくださったということは最大の業。」

「信仰とは、神の恵みに対する、生きた、意識的な信頼である。その確かさは、人がそのために一千回も死ねるほどであり、その信頼によって、私たちは、神と被造世界すべてに対して喜びに満ちた、恐れを知らぬ、朗らかな存在になることができる。」

「人間の意志が自由であるならば、人間は自分で自分を救うことが出来る。そうであれば、神がイエス・キリストを私たちのために送って、十字架に架けて死なせるような形で人間が救われる必要などない。そのことが必要だったのは、いわば人間は自分では神の方を向くことができないからである。」

「神の道に静止していることは後退を意味する。前進することは新しく始めることを意味する。」

感情は、来てはまた去り

決して頼りにならぬもの

私が頼みにするのは、神の御言葉のみ

他の何ものも信じるに値せず

目に見える証拠がないではないかと

心にとがめを感じても

神は私の心より偉大なる方

その言葉は決して違えることがない

魂が肉体から離れ去る日まで

私は神の揺るがぬ言葉に信頼する

全てが過ぎ去ろうとも

神の言葉は永遠に堅く立つ

ヘンリ・ナーウェン(ナウエン)(Henri Nouwen 1932-1996 オランダ生まれのカトリック司祭、教育者、著述家)

「人々の役に立つ者となるために、私たちは彼らに対して死ななければなりません。すなわち、私たちは人との比較によって自分の価値や重要性を測ることをやめなければならないのです。・・・その時、私たちは自由な気持ちで人に同情することができるようになるのです。」

「親であるとは、見知らぬ旅人を気前よくもてなすようなものです。…私たちは、自分の子供を創造したのでもなければ、所有しているのでもありません。このことは、私たちにとって福音です。私たちは、子供の問題すべてに責任があると、自分を責める必要はないし、子供の成功を自分たちのカだと誇るべきでもないのです。子供たちは神からの贈り物です。私たちが彼らのために、心の自由と体の自由を得て成長するための、安全で愛に満ちた場所を提供するようにと神から与えられたのです。子供たちは見知らぬ客人のようなものです。もてなしを求め、よき友となり、そののち、ふたたび彼ら自身の旅を続けるために去っていきます。まさに贈り物であるがゆえに、計り知れない喜びと、限りない悲しみももたらします。」

「私たちの住むこの世界は、悲しみに気づかせようと迫ります。新聞は交通事故や殺人、また個人やグループ、さらに国家間の争いについての情報をとめどなく流しています。・・そして私たちは、人と出会うとこう言います。『このことほ聞いたかい。あのことを見たかい。ひどい話だろう。とても信じられないよ。』・・・予期せぬ喜びとは、ことが思いがけなく好転したことを指すのではありません。そうではなく、すべての暗やみより神の光の方がはるかに現実性があること、すべての人間の偽りより神の真理のほうが強力であること、そして、神の愛は死よりも強いことに気づくことからきます。」

「私たちは自分自身の貧しさを無視し、隠そうとするので、自分の貧しいところにおられる神様を見逃してしまいます。貧しさは自分の宝が埋まっている土地だと思ってください。」

「祝福ーそれは相手の痛みをとりさることではない。 『あなたは1人ではない。私はあなたと一緒にいます。共に重荷を負いましょう。恐れないで。私がここにいます。』と言ってあげること。」

「人生において誰が一番大切な人であるかを聞かれる場合、私は助言や解答、あるいは治してくれる人よりも、暖かく柔和な手で苦しみと傷を分かち合い、それに触ってくれる人だと答えます。」

「人々の意見を説明するのに、右派、反動、保守、リベラル、左派といった言葉がよく使われます。そのため多くの議論は、霊的な真理の探究というより、まるで政治的な抗争をしているかのようです。」

「私たちはなかなか、苦しみをより広い見方で見ることができず、苦しみが、人生における避けられない次元であることがわかりません。正しい見方ができないので、苦しみを正しく受け入れようという気持ちのない人は、さらなる成長を絶えず求めるのを拒んでいるようなものだということがわかりません。苦しみを拒むと言うのは、個人的な成長を拒むことになるのです。」

「耳を傾けるのは大変なことだ。それをするには、内面の安定が求められるからだ。自分が語り、議論し、発言し、明言することによって、自分を証明しなければ、などと思わなくても済むような、内面の安定が求められるのだ。真に耳を傾ける人はもはや、自分の存在を知らせようという内的必要感がなく、自由に受け取り、歓迎し、受け入れる。耳を傾けるとは、相手にしゃべらせておきながら、実は、自分が何か言うチャンスをうかがっているということ以上のものである。耳を傾けるとは、相手に100%の関心を払い、自分の心の内に相手を歓迎するということだ。耳を傾けることの素晴らしさは、相手が、自分は受け入れられていると感じ、こちらの言葉をもっと真剣に受け止め、本当の自分というものを発見するということだ。耳を傾けるというのは、霊的なもてなしの一つの形であり、そうすることで、見知らぬ人を、友だちになるよう誘っているのである。」

「ひとりの時間は、神のための、神とだけの時と場所で始まります。神の存在を信じるだけでなく、神が私たちの人生に積極的に関わり、いやし、教え、導いておられると心から信じているなら、私たちは気をそらすことなく神に集中するための時間と場所を確保しておくべきです。」

「一人きりの時とは、キリストが私たちを造りかえて、ご自身に似せた者とし、私たちを苦しめるこの世の圧迫から私たちを自由にして下さる場所。」

「クリスチャンとして、じっと道に立ち止まって元気を失って、しがみついている小さな喜びの中に幸せを求めている人々に我慢することは難しい。あなたは・・・その好き放題や自己満足のすべてについて悲しく感じる。何かもっと偉大なものがやって来ることを不滅の確かさをもって知っているから。」

「赦しとは、愛することが十分にできない人々の中で実践される愛である。」

「私たちはなかなか、苦しみをより広い見方で見ることができず、苦しみが、人生における避けられない次元であることがわかりません。正しい見方ができないので、苦しみを正しく受け入れようという気持ちのない人は、さらなる成長を絶えず求めるのを拒んでいるようなものだということがわかりません。苦しみを拒むと言うのは、個人的な成長を拒むことになるのです。」

「喜びは幸せと同じものではない。私たちは多くのことにおいて不幸であっても、そこにも依然として喜びを見つけることができる。なぜなら、その喜びは私たちを愛される神様の愛を知ることによるものであるからである。」

「クリスチャン指導者とは、人類を死の力から解放し、永遠のいのちへの道を開くために来られたイエスの御名によって考え、語り、行動する者のことです。」

「喜びは簡単にはやってくるものではありません。 私たちは喜びを選びとり、そしてそれを毎日やり続ける必要があります。」

「私はよく『あなたを赦す』と言ったが、この言葉を言っても、なお心は怒ったり憤ったりのままだった。結局は、私が正しかったのだと言ってもらえる話を聞きたがっていた。なお謝罪や言い訳を聞きたがっていた。なお、何かほめ言葉をお返しに受け取る満足が欲しかったーーたとえそれが、これほど人を赦すことができるなんて、というほめ言葉であったとしても!

しかし神の赦しは無条件のものだ。それは赦しのために何一つ要求することのない心から来るものであり、自己本位のかけらもない心である。日々の生活で実践しなければならないのはこの神の赦しである。赦すことは賢くない、健康的でない、非実用的だと言う私の議論全部を越え続けるよう、神の赦しは呼びかける。それは、感謝やほめ言葉を欲しがる思い一切を越えろと挑戦する。

最終的に、赦しが要求するのは、心の傷ついた部分を乗り越えることである。それは痛みを覚えて、不当な仕打ちを受けたと感じ、主導権を握りたがり、自分と、自分が赦すよう要求されている人間との間に二、三の条件をもうけたいと思う心の場所である。」

アルバート・シュバイツァー(1875-1965 ドイツ出身 フランスの神学者、哲学者、医者、オルガニスト、音楽学者 「密林の聖者」)

「本当に幸せな人とは、どのように仕えるかを学んだ人である。」

「一つのことを私は知っている。あなたがたの中で唯一本当に幸せになる人とは、仕え方を探し、見出す人である。」

「説教はわたしの内的要求であった。日曜日ごとに、集まった人びとにむかって、人生の窮極の問題について語れるということは、わたしにとって、この上ない魅力だった。」

「午後の礼拝、毎日曜日の児童の礼拝、および、聖典講義することが、わたしのおもな勤めであった。与えられた仕事は、たえまない喜びの泉であった。」

「人生の悲劇はまだ生きているのに心が死んでいるということである。」

「生命を尊び生命を大切にすることが、倫理の根本にならなくてはならない。幼い時から生命の尊さ大切さを、最も強調して教育しなければならない。」

「人の本当の価値というのはその人自身から見出す事はできない。それは周囲の人々の表情や雰囲気の中にありありと浮かびあがってくるものだ。」

「あらゆる価値ある働きは、信仰に基づいた行為である。」

「模範は、他の人に影響を与える主要なものではない。それは唯一のものである。」

「人生は他の人のために生きるとき、自分にとってはより厳しいものとなる。しかし、同時により豊かで、幸せなものとなる。」

「何か素晴らしいことをしなさい。人々はそれを見習うかもしれないから。」

「倫理とは生命に対する畏敬の念以外の何ものでもない。」

「成功は幸せの鍵ではありません。幸せが成功の鍵です。もし自分のしていることが大好きなら、あなたは成功するのです。」

「私たちの人生の中で灯が消えるときがたびたびあるが、その灯火は出会いによって再び灯される。」

「幸せとは、健康で記憶力が悪いということだ。」

「人生の目的は奉仕であり、慈悲と他者を助ける強い意志を示すことである。」

「われわれは何かを得ることによって生活しているが、人生は与えることによって豊かになる。」

「自分の苦悩をまぬがれた者は、他人の苦悩を軽くしてやる責務を感じなければならない。」

「模範がリーダーシップである。」

「自分が何か大切なことを成し遂げたいと考えているなら、他人が障害を取り除いてくれることを期待してはいけない。」

「あらゆる価値ある働きは、信仰にもとづいた行為である。」

「毎日誰かのために何かをしなさい。見返りを求めずに。」

「人の歩むべき道の大敵は鈍感です。いつも親切であるということは、いつも目覚めているということです。感受性が鈍くなったら、私たちは災いです。鈍感になるな! 眼をさましていなさい! これを実行するために『私たちは誰ひとりとして、自分のために生きていない(ロマ14:7−8)』のみ言を口ずさみ、墓に眠るまでそのように生きたいのです。」

「私は幼年時代から親しんでいた使徒パウロのことば『真理にさからって力なく、真理のためには力あり』をもって、自らを慰めてきました。精神的なものの本質は真理であるから、真理を獲得することは、常に勝利です。いかなる場合でも真理は真理でないものに勝るのです。」

ジョン・ウェスレー(1703~1791 英国 メソジスト運動の父)

「できるだけ儲けて、できるだけ貯めて、できるだけ与えなさい。」

「あらゆる手段を用いて、あらゆる方法によって、あらゆる場所で、あらゆる時に、あらゆる人に対して、自分にできる限りの、あらゆる善を行なうこと」(ジョン・ウェスレーのモットー)。

「あなたの心を神に向かって健全なものにしなさい。神の中に、そして神のみにあなたの幸福を捜し求めなさい。塵に固着しないように気をつけなさい。此の地上はあなたの場所ではない。此の地上を乱用しないで使うように注意しなさい。此の世を使って、そして神を楽しみなさい。」

「私はすべてのことを、永遠において獲得できる価値によって判断する。」

「お金が私といっしょにいつづけることは決してない。もしお金がとどまったとしたら、私を燃えつくしてしまうだろう。私はお金はなるべく早く手放すようにしている。そうしないと、お金は私の心に入り込んできてしまうからだ。」

「あらゆる神の働きは、信仰の祈りの応答としてなされる。」

「あなたの言葉をあなたの心の本当の写しにしてください。」

「聖書は、一人でする宗教については何も語りません。」

「救いとは単に地獄から救い出され、天国へ入るということではない。それは我々の魂が義と聖において神のかたちへと新生していくことである。」

「真に聖書的なキリスト教が今、どこに存在しているのか。このようなキリスト者が、どこに生きているのか。住民全体がこのように聖霊に満たされている国が、どこにあるのか。ここに述べられたことと合致しない国を、キリスト教国と呼ぶことが本当に妥当であろうか。だからわれわれは、まだこの地上ではキリスト教国というものを、一つも見たことがないと告白しようではないか。」

「森羅万象の中に神を見いだし、すべてを神のために行ないなさい。」「富が増大するところどこでも、同じ割合で宗教の本質が減少してしまうのでは、と私は危ぶんでいる。それゆえ、物の道理から考えて、真の宗教の復興を長く継続させる方法を知らない。なぜなら、宗教は必然的に勤勉と倹約の精神をはぐくむゆえに、富をもたらさずにはおかない。ところが、富が増すにつれて、傲慢、怒り、世を愛する心が派生してくるのである。」

「神はわれわれを愛されました。神はわれわれを愛されました。なぜなら、神が愛そうと思われたからです。」

「人間を理解できる虫けらを持って来なさい。そうしたら私も三位一体の神を理解する人間を見せてあげよう。」

「最も善いことは神と共にあることである。」

「苦しみから最も素早く逃れる方法は、神の望む間だけ耐え忍ぶのをいとわないという気持ちを持つこと。」

「信仰と理性とは手をたずさえて行くものであって、すべて非理性的宗教は誤った宗教である。」

「神への愛のないところに聖潔はない。」

「1オンスの愛は1ポンドの知識に勝る。」

「神以外の何ものをも愛さず、罪以外の何ものをも憎まない人々を私にお与えください。」

「教会は回心者をつくることによってではなく、弟子をつくることによって世界を変える。」

「私はキリスト教についてより多くをイングランド中の全ての神学者たちよりも私の母から学んだ。」

1. 私はキリストの全てを私の救い主としたい。聖書に書かれている全てを私の本としたい。教会の全てを私の仲間とし、全世界を私の宣教の地としたい。

2. できる全ての良いことをしなさい。何が何でも。あらゆる手段を持って。あらゆる場所で。あらゆる時に。あらゆる人に。あなたが可能な限り。

3. 燃えなさい。そうすると、周りの人が、あなたが燃えているのを見ようと来たくなる。

4. 罪以外のものを恐れず、神以外のものを求めない100人の説教者を連れて来なさい。その人たちが聖職者であるか、平信徒であるかを私は気にしない。このような人たちが、地獄の根源を揺り動かし、この世に天の御国を造るのである。

5. 私のお金をいくら神にささげるかではなく、神のお金をいくら私が持っていたらいいのか、である。

6. 悪魔が、説教がなされている場所を好まないというのは当たり前です!私もまた、説教がなされていない場所を好みません。私は、広い部屋、柔らかいクッション、立派な説教台は好きです。しかし、1人の魂を救うために、もしそれら全てのものを捨てることがないとすれば、どこに私の情熱はあるのでしょう。

7. 神は、信じて祈ったことへの応答以外に、何もなさいません。

8. 私たちは似た考えを持てないと、愛すことができないのでしょうか? 1つの意見を持てなければ、1つの心にはなれないのでしょうか? いいえ、心配や懸念を全く持たずに、私たちはそうすることができます。小さな違いにかかわらず、全て神の子は一致することができるのです。

9. うわべだけの行いは、新しい誕生の場には成立しない。そこに成立するものは、天の下においては何もない。

10. 若い頃、私は全てのことに確信を持っていた。数年の内にたくさんの失敗をし、多くのことについて以前の半分も確信が持てなくなった。そして現在、私はほとんど何事についても確信を持てない。しかし、神が私に明らかにしてくれたことなら確信が持てる。

チャールズ・ウェスレー

「自分自身を小さく、無名の人にしておきなさい。ただ神様の愛と報いだけを求めなさい。」

「信仰、偉大な信仰よ。主の約束だけを見つめ、不可能を笑い飛ばし、『それは成る』と高らかに叫ぶ。」

「神は働き人を葬るが、その事業を継続せしめたもう。」

スザンナ・ウェスレー

「あなたの理性を弱め、良心の敏感さをそこね、神についての意識をぼやけさせるもの、あるいは霊的事がらを味気なくしてしまうもの、つまり、精神よりも肉体の力や権威を強めるものはすべて罪です。」

「誰を1番愛してるかって? 病気の子が良くなるまではその子を。 家出してる子がもどってくるまではその子を。」

ジム・エリオット(1927~1956 米国 エクアドル宣教で殉教)

「失うことのできないものを得るために、持ち続けることのできないものを与える人は、決して愚か者ではない。」

「神は常にご自分に選択の余地を与える者に神の最善のものを与えられる。」

エリザベス・エリオット

「主が結局最後に私たちのやりたい通りにさせてくださって、それで最も深遠な霊的レッスンを学ぶわけではありません。そのようなレッスンを学ぶのは、主が弟子たちに教えられた「御心がなりますように」という祈りを心から祈れるようになるまで、主が私たちを待たされ、愛と忍耐をもって私たちにつきあって下さるときなのです。御心がどんなものであってもそれを受け入れること、これこそ世に打ち勝つ信仰の大いなる勝利です。」

「神は、無限で、測り知れない方で、その方のなさることを私たちは頭で理解することなど出来ません。私たちにできることは、その方を信頼することだけです。」

「信仰は、直感や本能的なものではありません。感情ではないことも確かです。それは意志の行為であり、うそをつくことのおできにならない神の、打ち崩すことのできないみ言葉に基づいた選択なのです。」

「そのために死ぬ価値のないものばらば、そのために生きる価値はありません。」

「女性であることが何を意味するのかを学ぶためには、まず、私を創造してくださったこのお方を知ることから始めなければならない。」

「もしあなたが、大いなることをご支配なさる神を信じるなら、小さなこともみ手に治められる神をも信じなければなりません。」

「神は私達の問題を解決するとは、一度も約束しておられない。また神は私達の質問に答えるとも約束しておられない。神はただ私達と共に歩いて行くことを約束しておられる。」

「神は私たちの必要をすべて満たしてくださることを約束しておられます。私たちが今持っていないものは、私たちが今必要のないものです。」

「自己憐憫ほど、人を無力にする致命的なものはありません。・・・それは、復活のない死であり、救助の手が及ばないシンクの穴です。あなたがそこに沈むことを選んだからです。自己憐憫は自分ではねかえさなければいけません。」

「赦しなくして結婚は存続し得ません。結婚は二人の罪人の間で交わされた長きにわたる誓約です。」

「どんなに深い人間同士の交わりでも、心の一番奥深いところは満たすことができないことを、結婚は教えています。私たちの心は、キリストに安らぐまで孤独です。」(彼女は3回結婚した。つまり2度死別した。彼女は経験から、結婚が人を完全にするのではなく、ただキリストだけが完全にするのだということを悟った)

エリザベス・エリオットさんの名刺に記された祈りの言葉

愛する主よ、天の父よ、今日、わたしは自分の存在、持ち物、働き、そして苦しみのすべてをあなたにささげます。

それらのすべては今より永遠に至るまであなたのものです。

主よ、あなたの聖なる御旨を知り、そのすべてを行い得るように恵みを与えてください。

わたしの心を清め、思いをさぐり、願いを正しく導いてください。

御霊の力を受け、今日の働き、問題、喜びのすべての中で心からの賛美をささげ、単純に信頼し、すぐに従って、わたしの人生を生きた聖なる供え物としてささげることができますように。

わたしの主、わたしのすべてであられるイエス・キリストの御名によって、アーメン。

新渡戸稲造(1862-1933 農学者、教育者、倫理哲学者、東京女子大学初代学長 日本銀行券のD五千円券の肖像)

「今日キリスト教が幾億万人に慰安を与えているのは、キリストという人が常に逆境にあってつぶさに人生の辛苦をなめたたであろう。」

「人生の目的は宗教観念がなければ解決できない。」

「自分の現在の義務を完全に尽くす者が一番偉いと思う。そして、自分の現在の義務は何であるかをはっきり認め得る人は、人生の義務と目的とを理解する道に進むのであろうと思う。 」

「学べどもなお学べども学べども学び足りぬは学びなりけり。」

矢内原忠雄(1893~1961 東大総長 伝道者)

「偶像礼拝とは、人間の霊魂が人間実在の根底をなす絶対者に対して持つところのホームシックである。」

「キリストでさえ十字架の道によらなければ世を救うことができなかったのに、我々はそれ以外の道で世を救うことはできない。」

「信仰は生命の問題、科学は実用の問題である。両者いずれか一を棄つべしとならば私は科学を棄てて信仰に生くる。」

「諸君よ。正義を守る人物を社会は常に要求する。おのが生命を惜しむことなかれ。世の栄華を求むることなかれ。人生は短く、学問は長い。」

「キリスト教が日本主義に降伏することが、日本的キリスト教であるのではない。日本的キリスト教に取っての試金石は、神社問題、国体問題、または、国家主義の問題である。これらの問題において基本の態度決定を誤らないことが、日本的キリスト教のために絶対必要である。・・キリスト者は、わが国体観念を清むるものであって、真理を制約するものではない。」

「今日日本精神を反省して之を立派なものに仕上げる力は、基督教である。」

「神としての必要な特質の一つは絶対といふことである。」

「今の教育論の無力さは、教養の根底に存在すべき宗教信仰がないからだ。」

「斯かる混沌の中にあって事の真実を見徹し、真実を語る人は悲哀の人であります・・・虚偽が世に満ちて凡ての人に本当の事の解らぬ時たった一人事の真相を見抜いた人、そして皆が黙っている時に一言いふ人それが悲哀の人であります。一体真理は此世にありて凡ての人に簡単に領解されるものではありません。真理そのものに此の悲哀性があります。故に真理を知る人はまた悲哀の人たらざるを得ません。」

「人の善悪は神に対して取る態度の正否にあるのであって、道徳的行為の比較的完全なると不完全なるとの区別ではない。律法の行為をもってすれば、神の前に義人たるものは一人もないのである。悪しき者』には心に平安がなく悲しみが多いが、『正しき者』は神の憐憫に囲まれて喜ぶ。」

「己が罪を深く知る者は神の愛を深く知る。」

「至高の神が身を卑くして至卑なる人を慰め給うのであって,神の愛はここに至って極まる。」

「我らはすべての学問への合鍵を持つ。即ちキリストの十字架之である。」

「神の子キリストが己の身を十字架にかけて救うだけの価値が個人にあるんだ。-これは大なる発見です。」

「どんな小さな仕事でも、神にある確信をもってなしたるときには永遠の価値をもつものであります。」

「病者、身体障害者等生産に役立たぬ者は存在意義がないのではないか」という疑問に答えて:「弱者が世に存在するのは正にそのような功利主義的な人生観から世を救わんがための神の御意である。世は弱者の存在によりて、愛を知り、同情を学び、力でなくして愛が人生の価値であることを教えられる」

賀川豊彦(1881-1960 キリスト教社会運動家、社会改良家、「貧民の聖者」)

「神が造られたこの世界にあって、神を見せてくれ、そうしたら信じようという人は、赤ん坊が母の胎内にあって、母を見せてください、そうしたら私は母の存在を信じようというのに等しい。」

「金持ちにも二通りある。足りない足りないを連発する『金持ち貧乏』、何ごとにも感謝して心豊かに生活できる『貧乏金持ち』。」

「真の社会運動というのは、聖霊なくしてはできるものではない。赦すことも、人を抱くことも、聖霊を受けた者にしてはじめて完全になしうる。聖霊に抱かれた時に、愛の炎がわが内にこみ上げてくる。」

「子供は食う権利がある。子供は遊ぶ権利がある。 子供は寝る権利がある。子供は叱られる権利がある。…… ところが本当に子供を叱る人が少なくて、怒る人が多いのである。」

「利己的に儲けようとするから損をするのである。はじめから他人のために奉仕しようとする仕事に損は絶対ないし、景気、不景気の変動も考える必要もないくらいである。」

「一生を五十年として、その半分を寝ることと食うことに費やしてしまうとすれば、一生の間に、創作的態度に出られる期間は僅かに五年か六年しかない。」

「聖書は祈りの歴史であり、祈りが答えられた記録。」

「愛とは尻拭いをすることである。」

「愛は永遠に進行する。愛は止まることを知らない。愛は永遠に上進する。」

「すべてが尽きざる油壷である。私の五尺の体、生ける土の器、それがまた一つの尽きざる油壺ではないか。」

「大体に、心に平安のある者は、病気になつてもすぐよくなる。よくならないにしても軽い。肺病にかゝつても、病気を苦に病まない。即ち病気にかゝつても少しも心配しない。」

「仏教諸氏、もう一度お経の本を読み直し、その中から諸氏の教祖の活動力の源泉となった精神をしっかりと摑み取ってください。もしも諸氏にしてその精神を発見し、体現できないのならばその経巻をまいてインドにお持ち帰りください。

神道派諸氏が、最も弱き者、不幸なる者ために奉仕するという見解に至り得ないのであるならば、諸氏がしばしば行なう念入りな儀式は、一体何の役に立つといえるのであろうか。

又キリスト教徒よ、諸氏は莫大なる費用をかけて堂々たる教会を建てて、飼い葉桶に生まれ、他人の墓に葬られたお方の後に従おうとしないことを恥じないのか。」

「愛は私の一切である。」

「キリストに似ていないクリスチャンを、全部視野から取り除くことができさえしたら、福音の勝利にとっての最大の妨げはなくなるさ。」(ある年老いた聖徒 『キリストに似るものとしてください』より)

「人が神を知らないことは悪いことであるが、何よりも悪いことは、神にあらざるものを、神と認めることである。」(ラクティンティウス)

ジャン・カルヴァン(1509~1564 スイスの宗教改革者)

「キリスト者は、最悪の人々の不正にだまされるように生きる種類の人間であるべきだ。一つの侵害を受けたら、もう一つの侵害に備えよ。全生涯を通じて、永久的十字架の耐忍を負うものである。」

「人間は全て望み通り満たされると、生活を楽しむことに深入りしてしまい、神のことや永遠のことを思わなくなる。そこで神は私たちを包んでいるものを少しずつ剥ぎ取って、神を思い、永遠を仰ぐようにしてくださる。」

「空や大地の一切の被造物が、神の摂理によって、治められるばかりではない。神は、人間の計画や意志をも自身の定めた目標に向かうように支配する。」

「我々は弱さにわずらわされて足をひきずりつつ前進するほどであろう。しかし成功の僅かさに失望してはならぬ。単純な誠実を以て終局の目的を求めるべきである。」

「人間は神の御顔をまず凝視し、その次にはこれを直視することから自己自身を検討することへと下ってくるのでなければ、くもりない自己理解に達することは決してできない。」

「私たちは神から多くの祝福を期待するが、神の無限の気前よさはいつも私たちのすべての願いと考えを上回る。」

「私たちが神を愛しているがゆえに、その人がどんな人であれ、それでも私たちはその人を愛さなければならない。」

「人間の性質とは、いわば絶えることない偶像工場。」

「人間が理解した神は、もはや神ではない。」

「神認識と自己認識は 結び合った事柄である。」

「喜びと忍耐は、私たちの強さをはるかに超えている。私たちは、心がくじけないように主が助けてくださるよう、忍耐強く祈らなければならない。日々の葛藤において、祈りと忍耐強さが必要とされる。倦怠感に対する最良の策は、熱心に祈ることだ。」

「私たちは神の恩恵を大いに尊ぶことによって、逆境にあって喜びを経験することができる。その時、神の恩恵を認識し、それについて瞑想することで、悲しみをすべて克服することができるからである。」

「弱く感じる時に、『私は弱っている』と言ってはいけません。解決策を求めなさい。それは神の言葉です。」

「創造されたこの世界は、この上なく豊富で優雅な調度品に満ちた、広々とした立派な家のようである。その中にあるすべてが、神について物語っている。」

「私たちの中に高く評価していると同じ才能が他の人々の中にあるのを見ると、あるいは、私たちの才能よりも優れているのを見ると、私たちは他の人々が優越しているのを認めたくないばかりに最高の悪意を持って、それらを軽んじ、貶す。もし他の人々が何らかの悪意を持っていると、私たちは、それらを厳しく、激しく批判することで満足せず、それらを憎らしげに誇張する。憎しみは、私たちが人類の誰よりも抜きん出ようと望み、平凡な運命に属さない人間だと考える時に傲慢に成長する。私たちは、他の人々を私たちより劣る者として一層激しく、傲慢に蔑む。」

「私たちは他の人びとの利益を求めよう。いや、他の人びとのために自分の利益を積極的に犠牲にしよう。」

「結婚による以外には男性と女性がいっしょになることは、神の呪いなしにはすまされない。」

「犬は、主人がおそわれると、ほえる。わたしは、神の真理が攻撃されているのを知りながら、なにも発言せず、沈黙をまもるなら、犬にもおとる臆病者である。」

「神が国家をさばくことをお望みになる時、神は彼らに邪悪な支配者をお与えになる。」

「造られたものの存在の意義は創造主なる神を礼拝するためにある。人生の究極目的は 神を知り、神を楽しみ、神を崇め神に服従し奉仕するにある。」

「神を一切の善きものの主であり、施し主であると知り、彼が御自身に求めるようにわれわれを招いておられるのを知っても、神に近づこうともせず、彼に求めることもしないならば、それはちょうどある人が、宝のあるところを知らされていながら、地面の下にそれが埋もれ、隠されたまま、無視しているのと同じで益にならない。」

「福音とは口先の教義ではなく、人生そのものである。理屈や記憶だけで捉えられるものではなく、魂全体を捉えられ、心の奥底まで貫かれた時に初めて全てがわかるものなのである。」

「信仰者は、神が知らないことを知ってもらおうとして祈るのではない。あるいは神に義務を果たしてもらおうとするのでもないし、渋る神を説得しようとしているのでもない。全く逆に信仰者が祈るのは、自分自身を励まして神を求めるようにするためであり、神の約束を思い巡らすことにより自分の信仰の実践とするためであり、自分の思い煩いを神の御胸のうちに注ぎ入れることによりそうした思い煩いから解放されるためである。要するに、祈ることにより信仰者は、自分にとっても他の人々にとっても、すべてのよきものを神からのみ希望し、期待することができると宣言しているのである。」

「自分が自分のものでなく、自分自身の理屈によって支配されることもなく、心を神に明け渡した人は、ああ、高嶺に向かい、なんと伸びやかに進みゆくことであろう!」

「信仰者の生活は、愛に始まり、愛で続けられ、愛に終わる。愛は罪の終わりである。罪を滅ぼすから。愛は律法の終わりである。それを完成させるから。愛はまた苦しみの終わりである。苦しみを楽しむようにさせるから」(聖ローレンス)。

ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal 1623-1662 フランス 数学者 物理学者 哲学者 思想家 宗教家)

「人間は一本の葦にすぎない。自然のうちで最もひ弱い葦にすぎない。しかし、それは考える葦である。」

「人間には二種類しかない。一つは、自己を罪人だと思っている義人であり、他の一つは、自己を義人だと思っている罪人である。」(二種類の人間しか存在しない。自分が正しいと考える罪人と、自分を罪人と考える正しい人である。)

「人間は偽装と虚偽と偽善にほかならない、自分自身においても、また他人に対しても。」

「人間は、神と悪魔との間に浮遊する。」

「人間は天使でもなければ、獣でもない。しかし不幸なことは、人間は天使のように行動しようと欲しながら、獣のように行動する。」

「キリスト教の信仰は二つの真理。すなわち人間の自然性の堕落と、イエス・キリストの贖いとを両立させるところである。」

「イエス・キリストはあらゆるものの取る目的であり、あらゆるものの向う中心である。イエス・キリストを知る者は一切のものの理由を知る。」

「人の心は神によってしか満たされない空洞が空いていて、神以外の何者をもってしても満たすことができない。神によって空洞が満たされると人は生きる。」

「神があるというほうを表にとって、損得を計ってみよう。次の二つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば、君は全部もうける。もし君が負けても、何も損しない。それだから、ためらわずに、神があると賭けたまえ。」

「イエス・キリストを通してのみ神を知るだけではなく、イエス・キリストを通してのみ自分を知る。イエス・キリストを通してのみ生と死を知る。イエス・キリストを除いて、私たちは、自分の生、自分の死、神、と自分自身は何なのかを知ることはできない。」

「ギャンブルのもとは、不安にある。」

「心には、頭には全く分からない理由がある。」

「きよい生涯の澄みわたった美しさは、神の力に次ぐ最大の影響力である。」

「理性の服従とその運用。ここに真のキリスト教がある。」

「同じように危険な行き過ぎが二つある。理性を直ちに否定することと、理性の他は何も認めないこと。」

「真の道徳は道徳から楽しみをもたらす。」

「人間の不幸とは、静かな部屋で自分だけになって座っていることができないことから始まる。」

「神を知ることと神を愛することは、何と遠く隔たっていることだろう! 神を知ることができるのは、イエス・キリストを信じる信仰によってであり、また、その信仰も神から与えられるものである。」

「親切な言葉は、多くのお金は要らないが、多くの事を成し遂げる。」

「神と自分の惨めさを同時に知ることなしに、イエス・キリストを知ることはできない。」

「イエス・キリストの上に起ったことがすべて、ひとりびとりのクリスチャンの魂と肉体の上にも起るはずだということが、キリスト教の偉大な教えのひとつです。イエス・キリストが人としての生涯を苦しみぬかれ、この死すべき人の生を死なれ、新しい生命によみがえり、天にのぼり、父なる神の右に座られたそのように、クリスチャンの肉体も魂も苦しまねばならず、死なねばならず、よみがえり、天に昇り、父の右にすわらねばならないのです。」

「イエス・キリストがなければ、世界は地獄のようになるだろう。イエス・キリストを離れては、ただ、悪徳、惨めさ、誤り、暗黒、死、絶望だけしかない。わたしは、彼から離れていた。ああ、もうどんなことがあっても、彼から離れることがありませんように。神様、どうかわたしを見捨てないでください。」

「死後天国があるかどうかわからないにしても、確率的には信じた方が得だ、もしあったら不信心だと地獄におちるから。」

「私たちの悲惨さをなぐさめてくれる唯一のものは、気晴らしである。ところが、これこそ、わたしたちの悲惨さの中で最大のものである。なぜなら、わたしたちに自分自身のことを考えないようにさせ、知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、主としてこの気晴らしだからである。これがなければ、わたしたちは退屈してしまうだろう。退屈すると、わたしたちはそこから逃れるためにもっと確かな手段はないものかと探し求めずにいられない気持ちに駆り立てるであろう。しかし、気晴らしは、わたしたちを楽しませ、知らず知らずのうちに死に至らせる。」

「私は、その証言のために己の首を差し出すことを辞さぬ証人を喜んで信用する。」

「イエス・キリストなしには、死はおそろしいものであり、憎むべきものであり、また自然の恐怖です。イエス・キリストにおいて、死はまったくちがったものとなります。それは愛すべきもの、聖なるものとなり、信じる者の喜びとなるのです。」

「人にとって苦悩に負けることは恥ではない。快楽に負けることこそ恥である。」

「キリスト教は、民衆を内的なものへと引き上げ、高慢な者を外的なものへと引き下げる。そして、それらの二つがそろわなければ完全でない。」

「実際、欠点がたくさんあるのは悪だ。しかし欠点をたくさん持ちながら、それを認めようとしないのはさらに大きな悪である。」

「人間は、彼が自分の悲惨さを知っている点において偉大である。」

「キリスト教の神は、哲学者の神ではなく、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。」

「信仰は証明とは異なる。証明は人間的なものであり、信仰は神の賜物である。 」

「親切な言葉には、あまり費用がかかりません。それを口にしたからといって、決して舌や唇に水ぶくれができるわけでもありません。それは相手を温厚にします。そして、人の魂に独特のイメージを描き出します。それも、美しいイメージを。」

「恐るべき神を恐れないので、恐れなくてもいいものを恐れなければならない。」

アウグスティヌス(354~430 北アフリカのタガステ=現アルジェリア 古代キリスト教教父)

「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られたので、私の心はあなたのもとに憩うまで、安らぎを覚えることがありません。」

「大事においては一致、小事においては自由、すべてのことにおいては愛。」

「二つの国をつくりしは二つの愛なり。地の国をつくりしは神をさげすむほど己れ自身を愛する愛であり、天の国をつくりしは己れ自分身をさげすむほどすでに神を愛する愛なり。」

「人間は避けることのできない死を避けようとして、避けることのできる罪を犯す。」

「主よ、私が惨めになるにつれ、あなたはますます近づいてこられた。」

「神には炎の如き心を、友には愛の心を、自分自身には鉄の心を!」

「わたしたちのうちひとりしかいないかのように、神はわたしたちみなを愛す。」

「絶対者なる神以外、何ものも人間に本質的な充足を与えることはできない。」

「人は自らに幸いをもたらす能力がない。」

「どこにでもおられる主のもとに、人は旅をすることによってではなく、愛することによって近づく。」

「傲慢はすべての罪のはじまりであり、人間の傲慢の始まりは神からの離脱である。」

「神が人となられたのは、なぜか。人間であるあなたは、神に届くことができないが、他の人間になら届くことができる。そして今、あなたは、ひとりの人を通して神に届くことができるようになった。なぜなら、人として来られたキリスト・イエスが、神が人類との仲介者になってくださったからだ。神は人となられた。それは、その人に従うことによって(これならあなたにもできる)、あなたが神に届くことができるようになるためである。かつてこれは、あなたには不可能なことであった。」

「『神とは何か?』と地に尋ねると、地は『私は神ではない』と答えた。そして地上のあらゆるものからも、同じ答が返ってきた。海とその深みと地を這うものたちに尋ねると、彼らは答えた。『我々は神ではない。もっと高いところをお探しなさい。』 そこで天と太陽と月と星に尋ねたが、彼らはこう答えた。『我々もあなたが探している神ではない。』 それで私は、数々の良識の門口にたむろしているものたち全員に言った。『神について教えておくれ。』 すると彼らは叫んだ。『我々を造られた方だ。』 なるほど、彼らの美しさを見れば、その答は明白だった。私が宇宙の全構造に神について尋ねると、それはこう答えた。『私は神ではない。神は我々を造られた方だ。』」

「私たちは、以前の過ちのためには主の憐れみを、今の必要のためには主の愛を、明日のためには主の統治を頼っています。」

「信仰は見えないものを信じることです。このような信仰の報いは信じることが見えるようになることです。」

「いつも主は私たちによいものを与えようとしていますが、私たちの両手はいっぱいなので、それらを受け取ることができません。」

「愛しなさい。そしてあなたが望むことを行いなさい。」

「沈黙するときは、愛のゆえに沈黙しなさい。語るときは、愛のゆえに語りなさい。罰するときは、愛のゆえに罰しなさい。ゆるすときは、愛のゆえにゆるしなさい。愛に根ざしなさい。愛という根からは、善のほかは何も生まれないからです。」

「神は、ご自身の祝福を、私たちがそれを受けたいと願う以上の熱心を持って、与えたいと思っておられる。」

「信仰とは見えないものを信じることであり、その報酬は信じるものが見えるようになることである。」

「信仰は知識に先立つ。」

「この世のいのちの終わった後になれば、愛だけがあればよい、ということになる。」

「誰も、自分の安楽を求めるあまり思いにふけって、隣り人に対する務めを忘れてしまうような生活をする権利など持っていないし、又、神を深く思う事をおろそかにしてしまうほどに活動的な生活に浸る権利をも持ってはいない。」

「愛に満たされるものは神ご自身に満たされる。」

「愛は魂の美である。」

「天使を悪魔に変えたのは高慢だった。天使のような人を作るのは謙遜である。」

「愛はどのような姿をしているのでしょうか。それには、人を助ける手があります。貧しく困窮している人々のもとに向かう足があります。不幸や悲しみを見る目があります。人々のため息や、嘆き声を聞く耳があります。愛はそんな姿をしているのです。」

「神を発見するために、本を読む人もいるが、素晴らしい本がある。それは目に見える被造物である。上を見るがいい。下を見るがいい。注目しなさい。読みなさい。あなたが発見したい神は、その本をインクで書かれたわけではない。代わりに、あなたの前にご自分の造られた物を置かれた。それ以上に声高に語るものがあるだろうか。天も地もあなたに向かって叫んでいる。『神が私を造られた!』と。」

「苦痛というのは同じである。誰にでも苦痛はあり、苦痛は同じものだが、苦痛を味わう人は同じではない。悪人は苦痛の中で神様を誹り、不満を述べ、冒涜するが、善人は苦難を通して神様を探し、神様を知り、究極においては神様を賛美する。どんな態度で苦難を受けるかにより結果が変わり、苦難の意味も変わるのである。」

アウグスティヌスは、「神は天地を創造する前は何をしておられたのか」と聞かれた時、こう答えた。神は世界を造ったと同時に時間を発明されたのだから、そういう質問は無意味であり、質問した人の知覚が時間に縛られていることを暴露するだけである。時間の「前」にはただ永遠があり、神にとって永遠とは、決して終わることのない現在である。神にとって、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

ヘルムート・ティーリケ(Helmut Thielicke 1908~1986年 ドイツの神学者。ナチ反対運動によって大学教授を追われたが屈せず説教・講演を続けた)

「人間が神の財産であり、イエス・キリストはその人間のために死んだということをわたしたちが信じるかぎり、人間は聖なる存在、隣人となるのである。」

「十字架、それはあなたが神を拒み、理解せず、愛に対して愛を以って答えないことを暴露している。十字架、それは神の変わらぬ愛と、あなたの変わらぬ憎悪とが最終的に判然として神があなたの手にかかって死んだということを暴露している。」

「神を知る方法は神の御言葉に従っていく以外にはない。人生論の分析や歴史の解決によって、神の存在を証明することができない。」

「ソドム・ゴモラのような世界も少数の正しい人々によって存続しています。世界は、ほんの少数の小さな塩粒によって生きているのであって、あなたが、そして、わたしがその塩粒として召されています。」

「神とイエスが沈黙される時、それは無関心によるものではない。むしろそれは、より崇高な思考から生じる沈黙である。」

エミール・ブルンナー(1889~1966 スイスの神学者)

「燃えることによって火が存在するのと同じように、伝道によって教会は存在する。」

「酸素が肺にとって必要であるように、希望は人生の意味にとって必要である。」

ビリー・サンデー(1862~1935 元メジャーリーガーの米国の大衆伝道者)

「罪がはびこる一つの理由は、罪がガラガラ蛇のようではなく、シュークリームのように扱われているということである。」

「お金がない人は貧しいです。しかし、お金しか持ってない人はそれよりももっと貧しい人です。」

「王の杖(権力)よりも、母の手の中にもっと大きな力がある。」

「地獄には、信心深い母親の腕から少年をひきずりおろすほどの悪魔はいない。」

「母がよく歌っていた歌ほどの芸術はこの世にない。」

「教会は眠る人たちのための寄宿舎ではない。それは労働者たちのための施設である。それは軍の保養所ではない。それは最前線の塹壕である。」

ウィルフレッド・グレンフェル(1865~1940 英国 ニューファンドランドの医療宣教師)

「キリストが今日この現実の世界に生きておられることは、わたしが生きている以上に確かで、疑う余地がない。」

「私は、宗教というものは、日曜日だけのものであって、ちょうど、礼拝に着て行く服のように、月曜日には脱ぎ捨てるものであると考えていたものであった。私たち少年は、規則的に、教会に連れて行かれた。ある種の宗教を持ってはいたが、それは、大したものではなかった。それは、歯の痛みのようなも のであった。私たちは、日曜日がやってくるのが残念だったし、月曜日の朝になるとうれしかった。安息日は、一週間の中で一番うっとうしい一日であった。それは、宗教の目的 を誤って理解していたからであった。そして、ある日突然、好運にも、本物の試合中のク リスチャンに出会った。それは、私自身の父であった(父は、広大な土地を所有しており、 競馬に夢中の生活をしていたが、D・L・ムーディーの働きを通して、その直前に、著しい 回心を経験していた。)しかし、それは、人をぞっとさせただけであった。私たちの家族 の全員が、回心するまでは、惨めで単調な生活をしていた。それからしばらくは、私は、ドアが開くのを見ると、寝たふりをしたり、昼間、父がやって来るのを見かけると、家の反対側へそっと逃げたものであった。」

「私は、私のために死なれたイエスのことを知ってはいた。しかし、主が私のために死なれたのなら、私はもはや自分のものではないということが、まったくわからなかった。贖いとは買い戻しであるから、もし私が主のものであれば、泥棒になって自分のものでないものを持とうとするか、すべてを神の前に明け渡すかの二つに一つである。イエス・キリストが私のために死なれたことがはっきりわかった時、主にすべてを献げていくことは難しいとは思われなかった。」

「イエス・キリストが神であり、私のために死なれたのなら、主のために尽くす犠牲はどんなに大きくても、大きすぎることはない。」

「あなたは、自分のために偉大なことを求めているのではないですか? それはやめなさい。まず神の国を求めなさい。」(ノーベル平和賞を受賞したジョン・モットの生涯を決定付けた言葉)

「人生は一度きり。あっという間に終わってしまい、キリストのためにしたことだけが残る。」

「教会の鐘の聞こえるところに住みたいという人がいる。しかし私は地獄のすぐそばに救済店を開きたい。」

エリック・リデル(1902~1945 元オリンピック陸上選手の宣教師 『炎のランナー』のモデル)

「『妥協』とは悪魔の言葉。」

「神は僕が速く走れるようにお創り下さった。そして走る時、僕は神の喜びを感じるんだ。」

「私たちが行くところ、私たちは人々をキリストに近づけるか、それともキリストから退けるかのどちらかである。」

チャールズ・ハッドン・スポルジョン(1834~1892年 英国 19世紀世界最大の教会の牧師 説教のプリンス)

「我は無の無。イエス・キリストはすべてのすべて。」

「すべての人に知られ、また読まれる『キリストの手紙』となれ。」

「男にとって一番手に負えぬ妻とはどんな妻か――町の人には愛想がよくて、教会では本当に信仰深くて、家では鬼みたいな女さ。」

「自分の妻を尊敬する者は、妻も彼を尊敬していることを知る。」

「金持ちは往々にして、黄金の階段を降って地獄に落ちるものである。」

「開かれた聖書は、閉じられている聖書の何倍もの価値がある。」

「受けた祝福について神様に感謝を捧げると祝福が増し加わり、不幸について神様に感謝をすると不幸が終わる。」

「偉大な会衆は必ずしも偉大な説教者によってつくられるのではない。しかし、偉大な説教者は偉大な会衆によってつくられる。」

「人は『私には欠点がありますが、本当は良い心を持っています』と言うのでしょう。しかし悲しむべきことには、それは自分を欺いているのです。心こそあなたのうちで最も悪い部分なのです。」

「人を幸福にするものは、どれだけたくさんのものを持っているかということではなく、手持ちのものをどんな風に楽しむかという事である。」

「神の子らが、神からゆだねられた資力をもって彼らの務めを果たそうとしない場合、神はしばしば、彼らが破産銀行の株主になることを許される。」

「1グラムの心の知識は、1トンの頭の知識に相当する。」

「火の試練はゴールデン・クリスチャンを作り出す。」

「神の子らが、神からゆだねられた資力をもって彼らの務めを果たそうとしない場合、神はしばしば、彼が破産銀行の株主になることを許される。」

「すべての幸せには誘惑があり、すべての喜びにはわながある。あなたが天国にたどり着くことができれば、それは神の恵みの奇跡であり、父なる神の御力による。」

「クリスチャンはキリストより劣るものを模範とすべきではない。どんな時でも、私たちは、キリストにある徳を反映しない限り満足してはならない。」

「悪魔の最も大きな偽りは、教会が余興(エンターテイメント)によって人をキリストに導く事ができるという事である。」

「イエスが私たちの先頭に立って行かれる限り、私たちの行く道は安全である。 」

「天よりの召しの最初のしるしは、そのわざに対する熱心な願い、そのためにはすべてを捨てて顧みないという欲求である。」

「あなたがたの説教に常に重みがあり、真に重要な教えで満ちているように注意せよ。」

「天国へ持っていけないようなことのために熱心になってはならない。」

「人間が神の前でなすべき事は計算的な信仰ではなく、絶大なる信仰を持つことである。計算は神様が行うのである 。」

「イエスを深く知れば知るほど、深く愛するようになる。」

「もしあなたがイエスをさらに深く知ることを願わないなら、あなたはイエスを愛しているとは言えない。なぜなら、愛はいつも『近く、もっと近く』と叫ぶからである。 キリストのおられない所は地獄である。しかしキリストのおられる所は天国である。だから、イエスとのさらに深い交わりを求めないで満足してはいけない。 キリストの神性、人性、完成されたみわざ、死、復活、現在の栄光あるとりなし、将来の再臨などについて、もっとよく知ることを求めよ。十字架に近くいて、その御傷の奥義を求めよ。 イエスに対する愛が増し加わり、私たちに対するイエスの愛をさらに完全に理解することこそ、恵みの中に成長している最大の証拠である。」

「神の救いは、救われる価値のない人のため、救われるために何一つ備えのない人のためであるべきである。」

「イエスは、私たちが救われる価値があるから救いに来られたのではなく、私たちが全然値打ちのない、だめになった、できそこないであるからこそ救いに来られたのです。」

「今あるがままの姿で、ふだん着のままで、罪と罪の汚れのままでおいでなさい。」

「改善してはなりません。今すぐ救われるためにおいでなさい。神は、不敬虔(不信心)な者を義と認められるのです。」

「救いは、最悪の状態のあなたに適合するのです。」

「あなたが最悪最低の状態に落ちても、あなたの下に永遠の腕があることを覚えよ。主は極みまで救うことがおできになるのである。」

「罪に悩む良心が回復される唯一の道は、十字架上に苦しんでおられるイエスを見ることである。」

「信仰は知ること、信じること、より頼むことの三つのことからなる。」

「知識や、行動力、実行力、愛するということの源はみな、信じるという態度から生まれる。」

「救いを与えるのは大きな信仰ではなく本当の信仰なのです。からし種のような信仰でも救いをもたらすのです。信仰の大小の問題ではなく、信仰の真面目さの問題です。」

「信仰によるのは恵みによるため、恵みによるのは誇ることのないためです。神は高ぶりを赦すことのできないかたです。」

「悔い改めの結果としてキリストを見ることができるのではなく、キリストを見ることによって悔い改めることができるのです。」

「私たちが罪を悔い改める時、一つの目を罪に、他の一つの目を十字架に注がなければならない。もし、両方の目をキリストに注ぎ、キリストの愛の光のうちに自分の罪過のみを眺めるとすれば、さらによいであろう。」

「私たちのなすべきことは信じることであり、私たちを作り変えることは神のなさる仕事です。」

「世の中の人々がかなづちを持って叩くとき、クリスチャンはその鉄の受け皿にならなければならない。」

「小さな信仰があれば私たちの魂は天に導かれる。しかし、偉大な信仰は、天を私たちの心の内 にもたらすものである。」

「主は私の息づかいよりも、私の手足よりも、もっとそば近くおられる。」

「神のご臨在の明確な認識なしには、ほんの一瞬さえも過ごすことができない。」

「受けた祝福は感謝したらもっと祝福のドアが開き、受けた不幸なものがあっても感謝したら不幸のドアが閉じます。」

「この世の中で誰よりも、主イエスこそが私たちの心を熱く燃やしてくださるのである。」

「信仰は、愛が建てた階段を 上って行き、希望が開いた窓から外を見る。」

「キリストに従う者は、必ず自分のひざで学ばなければなりません。」

「罪は植え付けることなく成長しますが、聖(きよ)さは耕作を必要とします。」

「あなたに神しかいない場合、神にあるすべてを見てください。あなたがすべてを持っている場合、そのすべてにある神を見てください。どんな境遇であれ、ただ神だけがあなたの心におられるようにしてください。」

「一万台の戦車の指揮官が山の奥に住む小さな住人よりもっと守られることではありません。しかし、主イエスのうちでは弱い者が強く、無防備の者が守られます。」

「高い理想が協調と大衆の人気という祭壇にいけにえとしてささげられると、いつも人格は失われます。」

「カタツムリは忍耐があったので箱舟に入ることができました。」

「聖書を弁護しようなどとは、ライオンを保護しようとするのと同じである。両者とも解き放ってやれば自らを弁護するのだ。」

「教会や集会に出掛ける人全てが真実に祈るとは限らないし、大声で歌う人が最も神を賛美しているとは限らない。不機嫌な顔をしている人が最も正直な者とは限らない。」

「神の約束は現金と引き換えになる小切手のように、既に領収済みである事を証しするために、信仰によって自分のものとして署名し、所定の日に天国銀行に提出するなら、すぐさまその祝福を受領する事ができる。約束の日がまだ先のことだと分かったなら、当日まで忍耐強く待つ必要がある。天国銀行は、定められた日が来れば、間違いなく支払いに応じるからである。中には、自分の名前を裏書するのを怠ったり、小切手を紙切れ同然に扱って、提出をしない人がいるが、このような人は、びた一文も手に入れることはできない。問題は約束した側にあるのではなく、その約束を、常識をもって扱わない人の側にある。」

「あなたに神しかいない場合、神にあるすべてを見てください。あなたがすべてを持っている場合、そのすべてにある神を見てください。どんな境遇であれ、ただ神だけがあなたの心におられるようにしてください。」

「金を稼ぐことは、それを賢く使うことほど難しくはない。」

「私たちはどれほど主のことを考えても十分ではない。私たちが貧しいのは、十字架の回りに横たわる黄金の国に行かないからである。私たちがしばしば悲しんでいるのは、十字架の星座から輝き出している明るい光を見ないからである。」

「神様を敬う者は、人々の泥落しの玄関マットになろうとする者であり、主の栄光のためであれば自分の立場は気にしない人です。」

「犬や猫を飼っている人がクリスチャンであるなら、その人は犬や猫に対しても優しく明るく接するであろう。」

「天国へ持って行けないようなことのために熱心になってはならない。」

「神のことを黙想することほど、人間の思いを謙遜にさせるものはありません。しかし、神を思うことは、人間を謙遜にさせるだけでなく、心を広大にするものです。神について、しばしば考える人は、この狭い地球をとぼとぼ歩き回っている人より、広い心をもつようになるでしょう。心を広くするために最もよい方法は、キリスト、しかも十字架につけられたキリストについて学び、栄光に満ちた三位一体の神について知ることであります。神についての偉大な主題を、敬虔に、真剣に、継続的に探求していくほど、知識を増し加え、人の心全体をひろくさせるものは、ないでありましょう。」

「私たちはしばしば不吉な予感をもって老境を見、夕暮れになっても光があることを忘れている。多くの聖徒にとって、老年は生涯の黄金時代である。船乗りが不朽の国の岸辺に近づくとともに、心地よい風が頬をなで、波は静まり、深い荘厳な静けさがあたりをおおう。老年の祭壇からは、青年の頃の燃え上がる火のひらめきは上らない。しかし、さらに真正な、さらに熱心な炎が残っている。‥‥苦痛は人生のたそがれの甘美な静寂を乱さない。なぜなら、力は弱さのうちに完全に現れ、すべての苦痛に忍耐をもって耐えるからである。尊い経験の成果が人生の夕暮れに収穫され、たましいは安息に入る備えをする。」

「主の民は臨終の時に光を楽しむ。未信者は、死の陰が迫り、夜が来て、人生の灯がまさに消えようとしていると言って嘆く。しかし信仰は叫ぶ。『いいえ。夜が更けて、真の日が明けようとしているのだ』。」

「あなたがただけが真に神の教会であるとほのめかすならば、あなたがたは、争いという収穫を産み出す種をばらていることになる。」

「わたしたちが神さまのお与えになった霊的祝福をほとんど活用しないのには、驚くほかない。しかし更に不思議なことは、わたしたちがほとんど神さま御自身を活用していないことである。神さまが<わられの神>なのにわたしたちは神さまに注意をむけること少なく、求めるところも非常にわずかである。わたしたちが主の御手から導きを仰ぐことの何とまれなことか。 困難に遭遇せる時、重荷を主の肩に投げかけて支えていただこうとせず、常に自分で重荷を担おうとする。わたしたちは故意に主の助けを仰がない。なぜなら主の方では『魂よ、わたしはお前のものだ。来て望むままにわたしを用いよ。お前は自由にわたしの倉庫へ来ていいのだ。その回数の多いほどわたしは歓迎する』と言われるからである。」

「ある人々は、自分について他人がどんな意見を述べているかということを子供のように知りたがるものである。そして、その意見の中にほんの少しでも非難の要素が混じっていると、その人をまるで敵のように見なすようになるのである。諸君は、批判に対して忍耐することができなければならない。批判をする者を不倶戴天の仇のように考えることをしないで、そのなすがままに任せておくようにしなければならない。そうでなければ、諸君自身が単なる臆病者でしかないことを証明することになるであろう。」

「自分自身が何者でもないことに満足しよう。なぜならば、それが諸君自身の本当の姿だからである。」

「私はある時、イタリアの小さい洞窟の中で、小さいシダが育っているのを見た。泉のほとばしるしぶきで、いつでもその葉がキラキラと輝き、躍っているような場所に育っていた。それはいつも緑であって、夏の干ばつや冬の寒さが影響を与えることはなかった。そのように我々もイエスの愛の優しい影響下にいつも住み続けていくようにしよう。兄弟たちよ、神の中に住むのである。時たま神を訪れるということではない。神の中に住み込んでしまうのである。」

「聖霊によって注がれる神の愛を表現する最上の方法は、語ることでもなく、書くことでもなく、それを歌うことである。」

「あなたは自分の罪と離婚しなければ、キリストと結婚することはできない。」

「信仰者はプライドを断つことを学ばなければならない。」

「全てのクリスチャンは宣教師か詐欺師である。」

「キリスト者よ、あなたの生活を鮮やかな証とせよ。あなた自身を、川底の石が皆見えるまでに、澄み切った小川のごとくならせよ。ただ表面のみが見える濁った流れにあらず、底までも透き通る流れとなれ。こうして神と人とに対するあなたの愛をすべての人に見させよ。あなたが自ら『わたしは真実だ』と言う必要はない。真実な者となれ。自分の正しさを誇らず正しいものとなれ。」

「主は、あなたが自分自身の心を変えられないことも、その性質を聖めることができないこともよく知っておられる。だが主はまた、ご自分はその両方がおできなることもご存じなのだ。」

「神の約束をもっているならば、『もし』などということばで願う必要はない。確信をもって求めてよい。主は約束を成就しようと考えておられる。さもなければ、約束を与えられないだろう。神は、みことばのとおりになさろうとするので、お語りになるのである。」

「陰気なクリスチャンはクリスチャンであることをやめて、葬儀屋になったほうがよい。」

「教会は常に上り坂にいなければならない。」

「有用でありたいと願うなら、密室で、あなたが慎み深くできるように、熱心に祈りなさい。もしあなたの第一の義務が何かと聞かれたら、それは慎み深くあることです。第二の義務も慎み深くあることです。そして、第三の義務も慎み深くあることなのです。」

「聖霊は、神の子を外部の事情から全く離して独立させるのだ。死でさえも、その恐るべき力の一切をもってしても神の子の心の音楽を止めることは出来ない。かえって、更にその音楽を美しくし、さらに明瞭にし、さらに天につける者とする・・。」

「ろうそくの火をみて感謝する人に、神様は電灯の明かりを下さり、電灯の明かりを感謝する人には、月明かりを下さり、月明かりを感謝する人には、日光を下さり、日光を感謝する人には、永遠に消えることのない天国の栄光を照らしてくださる。」

「宝石は黒いベルベットの上に置いて展示する。黒を背景に宝石は輝きを増す。それと同じように神は、絶望的に思える状況の中で驚異の御業を行なわれる。」

「現在の、心を押しつぶす試練は差し置いて、他の全ての点では神を信じるというのは、愚かなことである。我が魂よ、来たれ。そのような”的外れ”な罪はふるい落として、神を信頼せよ。」

「キリストをもっと知りたいと望まない人は、まだ彼のことを何も知らないのだ。」

「神のしもべたちが無条件に神を信頼する時、神の栄光は現される。天の御父がついておられるなら、私たちは子供になり切ることができる。若い人たちは、私たちの意志や力について尋ねるようなことはしない。しかし、いったん父親からの約束が得られたなら、彼らはそれが必ず達成すると考えて喜び、それは東から太陽が昇るのと同じほど確実であると信じて疑わない。」

「朝、イエスのほほ笑みひとつに出会うと、その日一日は陽光に輝くのだ。」

「努めて不信仰の怪物を追い払え。それはキリストをこの上なく辱しめるものである。したがって、もし私たちが不信仰にふけることによりキリストを侮辱し続けるならば、主は私たちの前から姿を隠されるであろう。不信仰は雑草のようである。私たちは、その種子を土の中から完全に取り去ることはできないが、熱心に、かつ根気よくその根を枯らすように努めなければならない。憎むべきものは多くあるが、不信仰こそ最も憎むべきものである。」

「イエスを仰ぐと、平和の鳩が私の心の中に飛んで来た。ところが平和の鳩に注目していると、それは飛び去った。」

「だからあなたの職業に失望してはならない。神があなたに与えられる地位や仕事がどのようなものであれ、神があなたを他に召しておられることを確信するのでなければ、そこにとどまれ。あなたは、現在ある所で、力の限り最高度に神をあがめることを、第一の関心事とせよ。あなたの現在の持ち場を神への賛美で満たせ。神がもし他の場所であなたを必要とされるならば、それをあなたに示されるであろう。

今夜、煩わしい野心を捨てて、平和な満足を心に得よ。」

「朝目が覚めるとき、イエスを見つめ、夜休むときにもイエスを見つめよ。おお、あなたの希望や恐れで、イエスとの間を隔てないようにせよ。しっかりとイエスについて行け。主は決して裏切られることはない。」

「叫びは悲しみの自然な表現であり、ほかに訴えるすべをいっさい失った時、最もふさわしいことばである。しかし、叫びはただ主に向かってのみされなければならない。人に向かって叫ぶことは無益だからである。主が私たちの叫びを喜んで聞かれ、私たちを助ける力をもっておられることを考えるならば、私たちは、自分のすべての訴えを、ただちに私たちの救いの神に向かってなすべき十分な理由をもつ。さばきの日に、岩に向かって叫ぶことはむだである。しかし、私たちの岩であるキリストは、私たちの叫びを待っておられるのである。」

「心の平安を願い、生活の静けさを求めるような人は牧師職につくべきではない。」

「私たちが空に新しい星々を点灯させることができないのと同じく、キリストなしに罪人を回心させることはできない。」

「主イエスのために我々の命を使い果たすということが我々の義務であり、また特権なのである。我々はきれいに保存されている人間の生体標本であるべきではないのであって、むしろ我々は生きた犠牲である。この犠牲の運命は、消耗し尽くされなければならないということなのである。我々は使われるべきものであり、使い果たさなければならないものである。自分自身を大切に保存しながら、来るべき時に備えて肉体を養っているというようなことは許されないのである。」

「我々は、ただ主のみ前においてのみ自らの休息を見出すのである。」

「安眠。それは神 の賜う賜物である。悪しき者は、どんなに分厚い布団に寝ても、どんなに濃い酒を飲んでも安眠は得られなず、蝶番(ちょうつがい)のように寝返りを打ちつつ朝を迎える。しかし心に平安ある者は、うすい煎餅布団(せんべいぶとん)でもぐっすり眠る。故に安眠は平安ある者に与えられる神の賜物である。」

「自分の信仰によって、別のイエスをでっち上げてはなりません。」

「もしあなたが、自分はクリスチャンだと告白しながら、いまだにこの世的な楽しみに十分な満足を見いだし、それを追い求めているなら、あなたの信仰告白は偽物ということになる。」

「厳しい言葉も、もしそれが真実なら、柔らかな偽りの言葉よりも良い。」

「主よ、これが私の業なら、終わらせてください。それが人の働きなら、打ち倒してください。でももしそれがあなたのみ業なら、再びよみがえらせてください。」

「教会の中だけの宗教、日曜日だけ栄える宗教は嫌いです。それは、礼拝中だけは美しいコートを着ていて、礼拝が済むといつものふだん着に変える教区の小役人のようです。炉ばたでくつろぐ敬虔、会計室や仕事場で正しい位置を占める敬虔を与えてください。真の宗教は、野原や街路、投票用紙記入室、あるいは市場のためのものです。それは、人が接するすべてのものに風味を添えます。そして、どこで見ても、その人が主の側にいるのを見るのです。それは、彼が、正しい側にいるからです。イエスに従う者たちは、その側にいます。それは、しばらくの間は、人気がないかもしれません。けれども、神の目から見て正しいのです。したがって、あなたが神についてどのように決断するかに、注意深くありなさい。なぜなら、それを軸として、あなたの全人格は回転するからです。」

「犯罪者として罪を告白するのと、子どもとして罪を告白するのとでは、大きな違いがあります。罪を悔いた告白は、父なる神の懐に迎え入れられます。私たちは一度限りで永遠に清められたのですが、私たちの足はなお、神の子どもとして毎日歩む上での汚れから洗われなければなりません。」

「神は自らを助け得ぬ者を助く。」

「正しいものは正しい。みなが非難しても。間違っているものは間違っている。みなが賛成しても。」

「子どもを埋葬することは大きな悲しみだが、その子があなたに逆らい、罪のうちに生きるようにしてしまうのは、その10倍も悪いことである。」

「乾いた目をもっては天国へ入れません。悔い改めの涙は、天国への道のダイヤモンドです。」

「神のあわれみを受けた後に、なお神をたたえることを怠るなら、恥ずべき罪となるでしょう。こんなにも多くの感謝すべき事柄が至る所にあるのに、私たちの舌が怠惰であることを神は望まれません。神はご自分の家にもの言わぬ子どもを持とうとされないのです。神の子どもはすべて天において歌うことになっています。だから地上でも歌うべきです。」

「あわれみとは、行動が加わった同情であり、他人の悲しみや苦しみに対する内的同情と外的行動である。」

「少なくとも一日一回、いや多ければ多いほどよいが、私たちの時間、健康、存在自体が神の御手の中にあることを思い起こすことは有益である。私たちの食物を始め、その他必要なものすべては神からくる。私たちは神の恵みとあわれみに依存して、それらのものを得るのである。」

「キリスト者とは、孤立して生活する人ではない。キリスト者は世のものではないが、この世にいる。そして、世と関係をもっている。いつでも気づくことは、聖書においてはこの両面が一体となっていることである。キリスト者は、その心、そのものの見方において、この世的であってはならないと言われている。しかし、だからといって、世から退却せよという意味では絶対にない。」

「信仰は地を天に結び付ける電線である。」

「道徳はあなたを刑務所入りから守ってくれるかもしれないが、あなたを地獄入りから守るにはイエス・キリストの血が必要不可欠である。」

「おお魂よ、魂よ、くれぐれも気をつけなさい、気をつけなさい。とりわけ強欲に! 悪の根源は金銭ではないし、金銭が足りないことでもなく、金銭を愛することです。それは金銭を得ることでも、それを蓄えることでさえなく、ただ、金銭を愛することであり、それを自分の神とし、益をもたらすものと見なして、キリストの大義や、キリストの真理や、キリストの聖なる生き方のことなどお構いなしに、金銭を手に入れるためなら、すべてを犠牲にして構わないという態度なのです。」

「私たちの内誰一人として、試練という灼熱の夏を耐え忍ばずに成熟の極みに達せる人はいません。傷を付けられなければエジプトイチジクが熟れることなく、打たれなければ穀物の殻が取れないように、そして砕かれなければ上質の小麦粉ができないように、私たちも苦しみにあうまではほとんど役に立ちません。そのような益から躍起になって逃れようとすべきなのでしょうか。私たちは『主の御心がなりますように』と言って、忍耐を持って待つべきなのです。主は私たちに恵みを与えるために待たれました。私たちも主に栄光を捧げるために待とうではありませんか。」

「神がご自身の羊たちのために命を捨てられた時ほど、神の愛がはっきりと現れたことはありません。また、罪が罰せられずにやりおおせ、律法が軽しめられるよりも、神が罪の呪いに苦しむ方を選ばれた時ほど、神の義の炎が赤々と燃え立ったことはありません。神のすべての性質は十字架に集中していました。涙を流した目でイエスの傷を見た人は、神の永遠の摂理や創造の莫大さが人に現すことのできるすべてにまさって、そこに神を見るのです。」

「優れた人格こそ、最高の墓石です。あなたを愛し、あなたから助けられた人は、忘れな草が枯れてもあなたのことを覚えているでしょう。大理石にではなく、人の心にあなたの名前を刻みなさい。」

「クリスチャンの最大の喜びはキリストに喜びを与えること。」

「十字架を見て、あなたの罪を憎め。罪はあなたの最愛の方を木に釘で打ち付けたのだから。」

「もし誰かがあなたのことを悪く思っても、その人に腹を立ててはならない。なぜなら、あなたはその人が思う以上に悪いものだからである。」

「私たちが自分の子どもを叱ることを通して頭の痛い思いを全くしていなければ、彼らが成長した時私たちはたくさんの頭痛をかかえることになる。」

「私たちが公言しているままの信者ならば、キリストの生き写しでなければならない。」

「この世の人々が私たちを長い間観察して、「どこか似ているような気がする」と言うくらいではなく、一目見るなり、「この人はイエスとともにあり、イエスに教えられ、イエスのようであり、ナザレの聖者の思想を受け、その生涯の行動のうちにそれを実行している」と言うようでなければならない。」

「クリスチャンは、なぜキリストにならわなければならないか。彼らは自分自身のために、それをなすべきである。もし彼らがたましいの健康を願い、罪の病を免れて恵みに成長し、精気に満ち溢れていたいのならば、イエスを模範としなければならない。」

「主は決して死ぬことのない王であるが、その恵みも決してとだえることはない。」

「ああ、私の賛美が主の恵みのように絶え間なくわき出るように。あわれな私の舌よ。なぜおまえは沈黙しているのか。おまえに懇願する。目を覚ませ。そうでなければ、おまえは私の光栄でなく恥辱である。」

「神の民には試練がある。神が民をお選びになる時、試練を除外なさらなかった。神の民は患難の炉の中から選ばれた。この世的な平和と歓楽のために選ばれたのではない。病気にかからないとか、死の苦痛がないなどとは約束されていない。」

「愛する私たちの主との交わりほどすばらしいものがあろうか。天のマナであられるイエスに比べれば、この地上の喜びは豚のえさにも劣る。私たちは肉的な喜びに満ちた全世界をもつよりは、キリストの愛の一口、その交わりの一すすりを味わいたい。」

「倹約家の主婦は収入が大きいより素晴らしい。良い妻と健康が男の最大の富だ。有り難いのは賢い妻である。」

「子供達を甘やかして訓練を与えないなら、将来に問題が生じる。子供を叱らないなら、将来子供に粗末にされても不思議はない。」

「キリストに関する霊的な知識は個人的な知識である。私は他の人が主を知っているその知識によって主を知ることはできない。私は自分自身で主を知らなければならない。」

「神があなたを見捨てるなどとは、夢想だにしてはならない。そのようなことは忌みきらうべきことである。今日まであなたを満ち足らせてこられた神は、最後まで信頼すべき方である。」

「友よ。十字架に近くあれ。そうすれば眠ることはないだろう。あなたの行く先の価値を深く心に刻むように努めよ。もし天国へ旅していることを覚えるなら、途中で眠ることはない。後ろに地獄があり、悪魔が追いかけてきていることを考えれば、道草はできない。」

「主にある友よ.もしあなたが試練の夜にあるならば、夜明けのことを考えよ。主が来られることを思い、あなたの心を奮起させよ。」

「心にキリストのかたちを抱き、すべての行動をそれに従わせることほど、天国へ旅する者を助けるものはない。」

「あなたがイエスといっしょにいることに気づかれるような生き方をせよ。」

「バラバラに崩れかけている聖書は通常にそうでない人のものである。」

「牧師たちが羊を養う代わりに、教会が道化師たちをもって娯楽で山羊を楽しませるような時代がやがて到来する。」

「クリスチャンよ、イエスの近くに生きなさい。名誉の山に生きるか屈辱の谷に生きかは二の次である。」

「私は今日の神の教会がこの世に対してあまりにわずかな影響しかもたらしていないのは、教会があまりに大きな影響をこの世から受けているゆえであると信じる。」

「もしあなたが神の子どもなら、あなたは罪の中では決してハッピーではいられなことを覚えなさい。」

「私たちは自分の試練を大理石に刻み、自分の祝福を砂に書く傾向が強い。」

「今の時代はあまりにもふざけている。もし人が救い主を愛すれば、その人は狂信者とされ、もし彼が悪の勢力を憎めば、彼は偏狭な人とされる。」

「祈りと賛美は、自分のボートをキリストを知る深みへと漕ぎ進めるためのオールである。」

「識別は正しいか、間違っているかの違いを知ることではない。それは正しいか、ほとんど正しいかの違いを知ることである。」

「光の中で神を信頼することは何でもない。しかし、やみの中で神を信頼すること、それが信仰である。」

「自己こそ一クリスチャンの持つ最悪の敵。」

「子ども時代、『人間のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことである』と教わった。でも今、――新しい神学によれば――『神のおもな目的は、人間の栄光をあらわし、永遠に人間を喜ぶことにあるのだ』という。しかしこれはまるで倒錯した物の考え方である。」

「死を恐れないことはクリスチャンの特性です。時には突然の警告で心が乱れることもあるでしょう。しかし、信者でありながら、どんな時でも死の備えができていないなら、健全な状態ではない。竜の牙の間を勇敢に歩み、鉄の門を通り抜けても恐れを覚えず、骸骨の王と握手することができ、それを友達と思うようになる、そのような心が天国を受け継ぐ者の当然の日常なのです。」

「神がご自身の羊たちのために命を捨てられた時ほど、神の愛がはっきりと現れたことはありません。また、罪が罰せられずにやりおおせ、律法が軽しめられるよりも、神が罪の呪いに苦しむ方を選ばれた時ほど、神の義の炎が赤々と燃え立ったことはありません。神のすべての性質は十字架に集中していました。涙を流した目でイエスの傷を見た人は、神の永遠の摂理や創造の莫大さが人に現すことのできるすべてにまさって、そこに神を見るのです。」

「恵みは血統によるのではないし、新生も血統によるのでも出生によるのでもないのですが、非常にしばしば血統と出生によります。神は家族のひとりを用いて、ほかの家族のメンバーをご自分に引き寄せられます。神は、個人を救いに招かれて、その人をある種の霊的おとりとして用いて、ほかの家族全員を福音のあみにかけられるのです。」

「私たちは牧師が語るのが厳し過ぎるだとか、さばきを多く語り過ぎるという苦情を聞く。救われた罪人たちは決してそのような苦情は言わない。」

「神の栄光を現そうとする者は、多くの試練を受けることを初めから覚悟していなければならない。多くの戦いを経ないで、主の御前に輝く者となることはできない。もしあなたの道が険しければ、あなたが全能の神の恵みをさらに現し得ることを信じ、それを喜べ。」

「人は謙遜になればなるほど多くの慰めを受ける。慰めを受けるのに適した状態となるからである。」

「私たちの悲しみの慰めとなるものは、『神が心配してくださる』ということである。友よ。いつも心配そうな顔をしてあなたの信仰を辱しめてはならない。あなたの重荷を主にゆだねなさい。」

「私たちがイエスのすばらしさについてほとんど知らず、主が私たちのためになされたこと、現在なしておられることについての知識がほとんどないとすれば、とうてい主を多く愛することはできない。イエスを知ることがいよいよ深ければ、さらに私たちは深くイエスを愛するのである。」

「生きていて地獄を免れている限り、その人は不平不満を言うどんな言い分も持てない。」

「10分間の祈りは1年間の不満のつぶやきにまさる。」

「偽りを憎まない者は真理を愛さない。」

「私にとって生きることはキリストであると、正直に言えるだろうか。キリストのために事業をなしているだろうか。自分の栄達のため、家族の利益のためにしているのではないだろうか。『それがいけないのか』とあなたは反論する。そう。クリスチャンにとっては、それはいけないのである。」

「裕福なサタンの子どもより貧しい神の子どもの方が良い。」

「私たちを祈らせるものは何でも祝福である。」

「毎朝賛美の浴槽で顔を洗いなさい。」

「説教は種まきで祈りは水やりだが、賛美は収穫である。」

「祈りと賛美は、自分のボートをキリストを知る深みへと漕ぎ進めるためのオールである。」

「神はまさに神ご自身にしか満たすことができないように人の心を造られた。」

「もしあなたがクリスチャンになることを告白しながらも、この世の娯楽、趣味、職業に完全な満足を見出しているなら、あなたの告白は偽りである。」

「もしあなたが自分が救われていることがわからないなら、よくも今晩眠れるものだ! 『私は自分が救われているかどうかもわからない』と言っているのに、どうして普通にごはんを食べ、仕事に行けるのか? あなたはそのことを知るようになるし、知るべきだ。」

「ああ、不信者であることによって失う喜びはなんたるものか!」

「本物のクリスチャンは説教を抜くよりも食事を抜くようになる。彼は日々の聖書の糧よりも、あるいは日々祈りの家に通うことよりも、早く寝食を忘れるようになる。」

「祈ることは時間の節約となる。『私はあまりに忙しいので、どうしても三時間は祈らなければならない』というあなたはルターの発言を覚えているでしょう。」

「苦難は、迷える羊の後を追って、良い牧者の元へ戻るように吠え立てる黒い犬。」

「もしあなたが犬と一緒に横たわれば、ノミと共に起きることになるように、悪い仲間は人に実質的害を与える。」

「もしあなたがキリストの仕事で働いていないなら、あなたは悪魔の仕事で忙しい。」

「聖書を読まないなら、恵みの中で成長することは期待できない。」

「子どもをその行く道にふさわしく訓練しなさい。だがあなた自身が間違いなくその道を行くように。」

「利口な人の最悪のタイプは、自分が聖書よりも知識があって、世界には造り主など存在せず、人間は尻尾が剥がれ落ちた猿に過ぎないと学んでいる人だ。」

「主にある友よ。天国について深く考えよ。それはあなたの前進を助け、途中の苦難を忘れさせる。この涙の谷は、はるかによい国へ達するための小道にすぎないし、このわざわいの世界は、よりよい祝福の国への飛び石にすぎない。」

「実のところ説教を聴くことにまさる神礼拝はない。」

「クリスチャンの両親が、日曜学校は彼らの個人的責務を楽にするためにあるなどという妄想に陥ることがないようにさせよう。」

「もし私たちがリバイバルを欲するなら、私たちは私たちの神のことばへの畏敬の念をリバイブしなければならない。」

「もしあなたが所属する教会において霊感されたことばに反するものがあるなら、その教会を去りなさい。」

「世界全体に福音全体を宣べ伝えることが教会全体の仕事全体である。」

「死は信者にとって刑罰ではない。それは無限の喜びの扉である。」

「私は悪魔はあなたが教会を何件建てようと気にしないと考えている。もしあなたがたが教会になまぬるい説教者と会衆しか持っていなければ。」

「あなたの現在の持ち場を神への賛美で満たせ。」

「正しいものは正しい。たとえすべての人が非難しても。間違っているものは間違っている。たとえすべての人が承認しても。」

「神は自らを助け得ぬ者を助く。」

「もしあなたが神を知りたければ、あなたは彼の言葉を知らなければならない。」

「世が最も好む教会こそ、確実に神が忌み嫌う教会である。」

「力を落として悩むクリスチャンよ。来て、今日、広大な神の約束の畑で落ち穂を拾え。そこにはあなたの願いを満たすたくさんの約束がある。」

「人の目は澄んでいない。常に自分の名誉に目を走らせ、自分の力を過大評価しがちなため、主の栄光を仰ぐ資格がない。したがって、神が高められる余地を作るためには、自我が退けられなければならない。これは自明のことである。」

「限りある被造物が永遠なる神を理解しようと努めることは、ちっぽけなブヨが大海で水を飲もうとするようなものだ。」

「神は不親切になるには良すぎるお方です。間違いを犯すには賢すぎるお方です。そして、私たちがその御手がどこにあるかわからない時は、その心を信じるべきです。」

「冷たいと震えてしまい、熱過ぎると痛い程だが、ぬるい風呂は実に気持ちが良い。この世は常に、ぬるま湯のような教会を好む。そしてそのような教会は常に、それで良いのだと喜んでいる。」

「罪を犯すことよりも苦難の方が良い。苦難の大海よりも一滴の罪の中により多くの悪がある。キリストに背を向けるよりもキリストに全てを向ける方が良い。」

「友よ、悲しみがあなたを粉々に地に打ちのめしているなら、そこで礼拝するといい。」

「常に繁栄の中にあったならば、あなたは暗黒と無知の中にとどまったことだろう。しかしあなたが困難と戦ったゆえに、あなたに対する神の驚くべき摂理の中にも神の栄光の輝きを拝し得たことを覚えて、神を賛美せよ。」

「今置かれている場所で神に仕えていない人は、どこへ行こうと神に仕えることはない。」

「確かに、もし教会が祈らないなら、死んでいる。」

「自分自身が全く無価値であると感じるとき、あなたは真理に達しているのである。」

「磁石であるキリストを宣べ伝えなさい。彼はご自分の者を引き寄せられる。」

「偽りを憎まない者は真理を愛さない。」

「人を造られたお方が人となられた。」

「毎朝賛美の浴槽で顔を洗いなさい。」

「私たちを祈らせるものは何でも祝福である。」

「神はまさに神ご自身にしか満たすことができないように人の心を造られた。」

「もしあなたがクリスチャンになることを告白しながらも、この世の娯楽、趣味、職業に完全な満足を見出しているなら、あなたの告白は偽りである。」

「私たちは鳥たちと同じくらい歌っているだろうか? けれども鳥たちは私たちを比べて何について歌っているだろうか? 私たちは御使いたちと同じくらい歌っているだろうか? けれども彼らはキリストの血潮によって贖われたこともないのだ。空の鳥たちよ、君たちは私よりも優れているだろうか? 御使いたちよ、あなたがたが私より優れているだろうか? 私はあえて歌うたうあなたがたに張り合うことをしよう。日毎夜毎に聖なる歌に私の魂を注ぎだす。」

「あなたの説教にキリストがないのですか? ではお家にお帰りください。そしてあなたが説教するに値するものを持つまでは決して再び説教することがありませんように。」

「祝福された神の約束によろめくことのない信仰を置く魂にとって、1年中がメリー・クリスマスである。」

「私の兄弟姉妹たちに私が願うことは、今年中にあなたが自分が今までしてきた以上にキリストに対してさらに近く生活することです。」

「お母さん方、あなた方の子どもたちの敬虔な訓練があなた方の第一にして最も差し迫った責務である。」

貧しいことを悲しんでいるのですか? 主は「枕するところも」ありませんでした。愛する人の死を耐え忍んでいるのですか? イエスはラザロの墓で「涙を流された」のです。義のために中傷を受け、苦しんできましたか? 主は言われました。「そしりがわたしの心を砕いた」と。人に裏切られたのですか? 主もまた親しい友によって、奴隷のように売り飛ばされたことを忘れないで下さい。あなたを揺さぶる嵐の海は、主の小舟の回りでもうなり声を上げていたのではないですか? 逆境の谷間はこれまでにないほど暗く、深く、そこには道も見あたらないとしても、身をかがめるなら、十字架にかけられた方の足跡が見えるかもしれません。炎や川の中で、また寒い夜や、焼けつくような太陽の下で、主はこう叫ばれます。「わたしはあなたと共にいる。たじろいではならない。わたしはあなたの友、あなたの神なのだから。」

ある者は、散歩するために教会へ行く。

ある者は、笑ったり語ったりするために教会へ行く。

ある者は、友達に会いに教会へ行く。

ある者は、時間をつぶすために教会へ行く。

ある者は、恋人に会うために教会へ行く。

ある者は、過ちを覆い隠すために教会へ行く。

ある者は、思索にふけるために教会へ行く。

ある者は、宗教行事を順守するために教会へ行く。

ある者は、うとうとこっくりするために教会へ行く。

賢い者は、神を礼拝するために教会へ行く。

イエスが愛することを、私たちは愛します。

イエスが嫌うことを、私たちは嫌います。

イエスが求めることを、私たちは求めます。

イエスが避けることを、私たちは避けます。

二つの身体に一つの心が同居する、これが真の親友というものです。

ミシェル・ド・モンテーニュ (1533~1592年 フランスの哲学者)

「この世に幸福な事件とか、不幸な出来事とかいうものは存在しない。あるのは幸福な見方、不幸な見方があるだけである」

「怒りは自己に悦びへつらう感情である。」

ウォッチマン・ニー

「神は、事実でないことを事実として認めるように、と、言われるのではない。信仰とは、神の事実を受けることである。事実をあえて信じる時に、人は救われる。」

「私たちが信仰によってその事実を自分のものとして受け取る時にのみ、それが私たちの生活にあって現実の体験となるのです。」

「キリストの外では私は弱い。キリストの内では私は強い。」

「聖書はわたしたちの唯一の標準です。たとえ人が反対しても、わたしたちは聖書の純粋な御言を宣べ伝えることを恐れません。しかし、それが聖書の御言でないなら、たとえすべての者が承認しても、わたしたちは決して同意しません。」

「悪魔は御言を恐れますが、御言に関する話は恐れません。わたしたちは宣べ伝える時、軽率に語ったり、わたしたちの霊的な力を失ったりしてはいけません。なぜなら、悪魔はいったん御言葉を見るなら、それを強奪するからです。」

「からだなる教会の中では受身であることはできません。わきに突っ立って眺めていることなどできるはずがありません。傍観者ほど害になる人はいないからです。私たちが物事において見える役割をしていようがいまいが、それは問題ではありません。私たちが命がけでそのことをしているか、私たちがいないときにはそれがわかるほどかということ。『私なんか取るに足りない者だ』などと言ってはいけません。集会に出て他の人たちが仕事をしているのに単にお客様として出席するようなことがあってはいけません。私たちはキリストのからだであり特別な肢体なのです。そしてすべての肢体が務めを遂行するときに生命が通うのです。」

沢村五郎

「力といのちの源である神さまにつらなってこそ、いのちと力を受けることができる。そして神と人とを結び合わせるもの、それが信仰なのです。」

「もし人の救いが自分の努力と修養の結果であるとするならば、自分が得意となってしまいます。おそらく謙遜にもなれず、同情も無く、また自分でできたと思えば感謝もなくなることでしょう。何の価値もない罪人が、神の恵みと愛によって、キリストのいさおしによって救われたと思うとき、どうして高慢になれましょう。」

「神の最大の関心事は人の完成である。聖書の記録の大部分は、神が人をどのように取り扱われたかということに関係している。」

ヘンリー・ワード・ビーチャー(Henry Ward Beecher 1811~1897年 米国 伝道者)

「かまどで陶器を焼き上げれば、決して色があせることはない。それと同じで、患難の烈火で鍛練された人格は、永久に変化することがない。」

「親が子供に向けるほどの友情や愛は存在しない。」

「私たちは自分が親になるまでは、決して親の愛を知ることはない。」

「神の許しは母親のようだ。腹立たしい事にもキスして永遠の許しに変えるのだから。」

「私たちは、毎日、二つのドアノブの前に立っている。一つは、『恐れ』というドアノブで、もう一つは『信仰』というノブである。恐れのノブをまわして小さな部屋に入るべきか、信仰のノブをまわして勇気という部屋に入るべきか。それは自分自身の選択にかかっている。」

「どれだけ蓄えたかで豊かになるのではなく、どれだけ蒔いたかによって豊かになる。」

「今いる所でクリスチャンになれないのなら、どこに行ったとしても、クリスチャンにはなれません。」

「自分に対しては厳しい主人に、人に対しては寛大になれ。」

「服装や態度が人を作るのではない。出来た人は、自然と、その見かけも大いに改善されるのだ。」

「我々を博学にするのは、何を読んだかでなく、何を記憶しているかであり、我々が人の役に立つのは、何をしようとしているかでなく、何をしているかである。また、我々を価値あるものにするのは、熱意のない願望でなく生涯を通しての苦闘である。」

「幸せになる秘訣は、一般的なものから幸せを引き出す力を持つことである。」

「『赦すことは出来るが、忘れることは出来ない。』というのは、赦さない、と言っているのと同じことだ。赦すということは、支払い済み手形のように、決して2度と示されないよう破るか焼却してしまうべきものだ。」

「他人が自分に期待するより高い基準で、責任を負いたまえ。弁解をしてはいけない。」

「友人にその欠点を教えるのは、友情のもっともきびしい試練の1つである。

もし相手に腹が立つとか憎たらしいというのなら、

つかつかと近づいて激しい言葉を浴びせるのは

何でもない。

だが友人を愛するあまり、

友人が罪にけがれるのを見るに耐えきれず、

その痛ましい真実を愛の言葉で告げる。

これこそ真の友情である。

しかしそうした友人を持っているものは

ごく僅かしかいない。

われわれの敵はつねに、

そのままでいいとしか考えない、

剣の先を突きつけながら。」

「最大の成功はしばしば絶望のあとにやって来る。」

「もしだれかにしてもらわなければならない仕事ができると、私はいつも自分の 教区で最も忙しい人に頼む。すると、ちゃんと仕上がるのである。」

「安息日のない世界というのはあたかもほほえみのない人,花の咲かない夏,庭のない家のようなものです。安息日は1週間のうちの喜びの日です。」

「怒り方を知らない人は、良い人のなり方を知らない。」

「人を豊かにするのは心である。その人は何者であるかによって豊かなのであって、何を持っているかによって豊かなのではない。」

「人が豊かであるか貧しいかを決めるのは、その人の持ち物ではなく、その人の人柄である。」

「この世界において、私たちを豊かにするのは、手に入れることではなく、明け渡すことである。」

「山を登って行くより、下って行く方が楽であるが、頂上での景色の方がずっとすばらしい。」

「我々の最高の成功は、大抵、最大の失望の後にやって来る。」

「幸福でいる技術は、当たり前の事がらから幸せを引き出す力にある。」

「神は私たちに試練を与える際に、ものすごい注意深さと正確さをもってその重さを測ります。それに比べたら、医者が薬を測る注意深さと正確さは、その半分にも及びません。一粒の粉の分多すぎる量を秤に載せることさえ、決してされないのです。」

「人は鉄である。神は鉄工である。私どもは火の中をくぐり、金床の上で打たれ鍛えられ、しかるのちに神の御旨にかなう器として造り上げられ、用いられていくのだ。」

パール・バック(1892~1973年 米国 作家 ピューリッツァ賞、ノーベル文学賞受賞)

「悲しみを越えるには『あるがままのものを、そのまま受け入れる』ことが必要である。『これが自分の生活なのであり、私はそれを生き抜かねばならない』と考えるのだ。『なぜ自分だけこんな目にあうのか』などと自分中心に物事を考えたり行動したりしている限りは人生は耐えられない。自分の苦しみは自分一人のものではない。苦しみの中で自分は人々と共にあるのだということを自覚するとやがて苦しみの中で人々と手をつないでいこうという積極的な姿勢に変わってくる。」

「悲しみをすっかり受け入れること、そこからもたらされる何かがある。この事実は認められ、知られるべきである。悲しみには、ある種の錬金術のような力があるからだ。悲しみは知恵に変えることができる。そして、この知恵は、たとえ歓喜をもたらすことはなくても、幸福をもたらすことはできるのである。」

「どの国においても、良い人たちが警戒と闘争をやめるなら、悪人たちが勝利する。」

「もし今日を理解したいなら、昨日を調べなければならない。」

「希望を持たずにパンを食べることは、それでもやはり、ゆっくりと餓死することである。」

「仕える事はすばらしいことです。もし、喜びと真心を持って、偏見なしに行うなら。」

「神に従う生活をしない者は、ただ怖れにばかり支配される。」(ニコラス・ルードヴィッヒ・フォン・ツィツェンドルフ 1700~1760年)

ヘンリー・ドラモンド(1851~1897年)

「教理を知らないでもクリスチャンである者がすくなくない。キリスト教は証明せらるるべき教義ではなく、生活さるべき一つの生命である 。」

「人生を振り返ると、まともに生きたと思われる瞬間は愛をもって生きた瞬間だけでした。」

「私はこの世にただ一度だけ生きていきます。ですから、私が人々にできる善行や親切があるとしたら、今それを行います。私はそれらを延期したり、怠ったりはしません。なぜなら、再びこの道を行くことができないからです。」

「キリストの教えの最も明確な教訓は、幸せとは何かを所有し、得ることではなく、与えることです。」

「神は愛です。したがって愛しなさい。差別せず、計算せず、躊躇せずに愛しなさい。」

「私たちは一度しかない人生を歩んでいます。ですから、私は人々にできるよい行いと親切があるとしたら、今日もそれらを行います。それらを遅らせたり、怠らせたりはしません。再び今日を歩くことはないですから。」

「天におられる神様に信仰者ができる偉大なことは、神様を信じる他の人々に親切なことです。」

トマス・ア・ケンピス(1380-1471 ドイツ カトリック修道士 中世の神秘思想家 聖書に次いで最も読まれた本『キリストに倣いて』の著者)

「不可能を口にしないのは万事が自分にとり可能であり、許されていると考えるからである。」

「愛は重荷を感ぜず、労苦を顧みず、自分の力以上のことを行ないたがる。」

「愛は万事に対する能力をもち、愛しないものならば、力尽きて倒れる場合にも多くの事を成し遂げ功を奏させる。」

「イエスに対する『貴い愛』は人を促して大きな仕事をなしとげさせ、人を励ましいつもいっそう完全な徳を望むように仕向けさせる。愛は常に向上を欲していかなる、いと低い事物によっても引き停められることを望まない。」

「賢明な人はその愛する人からの贈り物より、贈り物をくれる人の愛を重んじる。」

「大いなる安らぎの心は、賞讃も中傷も気にしない人間のものである。」

「われわれは好んで他人が完全であることを求めはするが、自分自身の欠点をただそうとはしない。」

「われわれは自分を評価する物指しを使って他人を評価しないことがあまりにも多い。」

「本当に自分を知る人は、必ず自分をつまらぬ者と考えて、他人にほめられることを喜ばない。」

「世の称賛も、非難をも、気にかけない人は、大いなる心の平安をもつものである。」

「世の称賛を博したからといって、それでいっそう聖人になるわけではなく、悪口されたからといって、それでいっそうつまらぬものになるわけでもない。あるがままのあなたがあなたであって、人がどういおうと、神の見たもうところ以上に出ることはできない。」

「私の心はキリストにおいて堅められて、そこに礎をおくのなら、けしてやすやすとは世間に対する恐れに悩まされもせず、敵意をもった人のことばに動揺もしないでしょう。」

「人が自分自身を、何のわきまえもなく、やたらに愛するという悪徳からして、根本から克服されねばならないほとんどすべての悪が、出てくるのだ。この害悪さえ完全に打ち克たれ、抑えつけられたら、たちどころに、大きな平安と穏やかさがもたらされよう。」

「自分を愛することは、この世のほかのどんな物事よりも、身を害うものだ、ということをわきまえなさい。お前がそれに対してもつ愛や執着のいかんにつれて、あらゆるものは、多かれ少なかれ、お前を虜にするのだ。」

「どのような種類の重い気分であっても、それに心を奪われてはならない。それは、そこから脱出できる望みが完全に断たれたと思い込ませる。」

「『空の空、すべては空。(伝道者の書1:2)』神を愛することと彼のみに仕えることを除いては。」

「ただ神を愛し神に仕えるほかは、すべてみな空である。滅ぶべきものを求めて、現世の生命にだけ心を奪われてはならぬ。そのためには、自分の一生をキリストのそれに合致させるようにしなければならぬ。」

「もし、人が何か役に立つことを知り、かつ学びたいと願うならば、他の人から知られずにおり、人から何ものでもないと思われることを愛さなければならない。」

「謙遜な人であればあるほど、神に従順で、万事において賢く、魂に平安を抱いているものです。」

「決断と確信に欠けている人は誘惑によりかき乱れてしまいます。」

「誰でも内的で、霊的な生活をするつもりなら、群衆から離れて、主イエスのところに行かなければなりません。」

「自己の望みを人間や物に置くのは愚かなことである。より多く持つことより、より少なく望むことを常に選べ。」

「イエスは、いまやその天国を愛するものを多数もっておいでだが、その十字架を担うものはごくわずかである。」

「人はあなたの行為を見るけれども、神はあなたの意図を見られる。」

「真実の永遠なる栄光を求める者は、仮初めの由(よし)無し事に関わらず。」

「習慣は習慣に征服せられる。」

「自らの主張をまったく持たず、他者のことを常によく考え高く評価することこそ、偉大な知恵であり、人間の完全さである。」

「自分の目前に常に我が身の死期を見て、日々死に対する準備をする者は幸いだ。」

「キリストは、苦しみ、さげすまれることをいとわなかった。あなたは何について不平を言うのか?」

「艱難や悲しみは、忍耐強く耐える以外に、それを逃れる道はない。」

「朝方になれば、夕方まで生きられないと思え。また夕方になれば、朝方まで生命が約束されているなどと思うな。」

「日ごとの死の備えを怠らずする者は、祝福された人である。」

「神の恵みによって運ばれる人たちは、軽やかに動く。」

「神の恵みをいただき続けたいと思う人は、恵みが自分に与えられる時には感謝の気持ちを持つべきです。」

「神の御心にかなう事を求め行なう以上に快い気分を覚えさせ喜びを与えるものはない。」

「人は表面のことを見るが、神は心中を見られる。人は行ないを考察するが、神は意図をおもんばかられる。」

「なぜあなたは、自分が企てたことを実行するのを延期しようとするのか。立ちなさい。今すぐ始めなさい。そうしてこう宣言しなさい。今こそ実行の時、今こそ戦いの時、今こそ自分自身を改めるよき時、と。不幸と試練の日こそ、自己を際立たせる機会なのである。」

「忠告を受けたら誰がそう言ったかを尋ねないで、言われていることは何か、それに心を用いなさい。」

カール・ヒルティ(Carl Hilty 1833-1909 スイスの法学者、哲学者、政治家)

「キリスト教は不断の幸福を約束しない。しかし、世に勝つ平和を約束している。」

「一切の仕事が神を離れては困難であり、神と共にあれば一切が可能である。」

「人間の力の秘密は、神の道具であるという性質にある。何故なら、全ての永続的な真実の力は神のものであって、人間のものではないからである。」

「神への信頼を失わずに、その試練を切り抜けるならば、他のいかなる道でも達せられないほど、神に近づく事ができる。」

「神に仕えることを自由という。」

「絶対の自由は、ただ神にのみ仕えて他の一切のものには仕えないことである。」

「神が喜ばれるのは、おそらく神へのひたすらな憧れと、神に向かって手をさしのべることだけであろう。」

「いわゆる人間愛は、すべて神に対する強い愛という根底がなければ単なる幻想である。」

「われわれが人生で当面する憎しみの大半は、単に嫉妬か、あるいは辱められた愛にほかならない。」

「どんな苦痛でも、それにすこしの罪も混じっていなければ、堪えられるものである。」

「信仰とは、神へ向かってひたすら努力することではなく、神に己れをゆだねることである。つまり、われわれが神の門をたたくのではなく、むしろ神がわれわれの門をたたかれるので、われわれは神にそれを開かねばならないのである。」

「神から遠ざかることは、われわれが出会う唯一つの大きな不幸である。しかし、これはわれわれの意志なしには決して起こりえない。」

「『力以上の施しをする』のが、最も立派で、しかも最も無害な贅沢である。 コリント人への第二の手紙八の二・三」

「キリスト教の信仰の最もすばらしい点は、人間が自分自身の力をあてにしたり、自分と議論したりする必要がなく、ただ神のみを相手にすればよいことである。」

「真のキリスト者とそうでない者との違いは、キリストの復活を、文字通りの意味で(比喩などではなく)、紛れもない事実であることを、欠片の疑念もなく確信しているかどうかである。」

「人間の魂と神の霊との誠実な結びつきこそ、すべてのキリスト教の基礎となるべきものであるが、この結びつきを何にもまして妨げるものは、人間とその事業とを偶像視することであり、さらにまた、財産や、名誉や、生活享楽主義である。」

「病気のときでも、あるいは、何事かに思いわずらっ て、その好結果の得られる望みがほとんどまったく絶えたときでも、おのれの一切の行動を神にゆだねて信頼しきること、これが神に仕えるという意味である。」

「しかしながら、最もひどい逆境にあっても決して失われることのない、完全にゆるぎなき幸福感、これこそはただキリスト教によってのみ与えられると信ずる。」

「愛のとりわけ、ありがたい点は、ただ愛し返されることだけでなく、愛することで自分自身が即座に強められ、活気づけられることである。」

「人生の倦怠と荒涼に対しては、他人に奉仕するということ以上に、まさる手はありません。これこそ一般にこの世における真の幸福であり、いつでもたやすく得られる幸福です。」

「神への不誠実、つまり、地上的なものへの信頼と、それに対する心からの満足とに、用心しなさい。さもないと、天上的なものへ絶えず引かれる心を、しだいに失ってしまう。これがあなたのなすべき心づかいである。神に属する者の場合には、神が配慮される。神の祝福こそ、人間のまことの幸福の秘密である。」

「試練は、将来我々の上に咲き出ようとする、新しいまことの幸福の前ぶれである。」

「何よりも肝心なのは,思い切ってやり始めることである。仕事の机に座って、心を仕事に向けるという決心が、結局一番難しいことなのだ。事を先に伸ばさないこと、また体の調子や気の向かない事などの口実をつけず、毎日一定の適当な時間を仕事に捧げることである。」

「正しい生き方をせよ。喜びは求めずとも伴う。」

「『人間は成功することによって誘惑される』という言葉は、正しい言葉である。(成功による)賞賛は、人の内部に潜む傲慢を引き出し、富は我欲を引き出す。どちらも、成功がなければ隠れたままでいただろう。しかし成功によって、それらは兆しがあるかぎり大きくなってくる。」

「人から受けた不正をいつまでも思い続けることは常に有害であり、そのうえ、たいていは無益でもある。そういう考えを急いで払いのけて、そのために元気を失わないようにするのが、一番よいことである。」

「最良の友とは、いつでも苦しいときに友を見捨てない人のことである。」

「賢さで人生を乗りきるのは困難だが、導きによって生きるのは容易である。」

「神からあなたを遠ざける喜びよりも、あなたを神へと駆りたてる苦難の方を好むようになるならば、あなたは正しい道にいるのである。」

「神を信じる人々にとっては、すべての憂いが次第に消えて、その代わりに、ある確かな信念が生まれる。~本当の禍(ワザワ)いをもたらすことはないとう信念がわいてくる。」

「ある人の生涯における最大の日とは、その人の歴史的使命、すなわち神がこの世で彼を用いようとするその目的が明かにわかり、また、これまで彼が導かれてきたすべての道がそこに通じているのを悟った日のことである。」

「すべて偉大なことは、小規模で少人数から始まるものだ。あなたはそれを覚悟しなければならない。そして、子供たちを教育するにも、彼等が少数派に属する事を平気なように導かねばならない。」

「人生においてもっとも耐え難いのは、悪天候がつづくことでなく、雲一つない日がつづくことにある。」

「寝床につくとき、翌朝起きることを楽しみにしている人は幸福である。」

「川の氾濫が土を掘って田畑を耕すように、病気はすべての人の心を掘って耕してくれます。病気を正しく理解してこれに耐える人は、より深く、強く、大きくなり、それまで理解できなかった識見や信念を体得するにいたります。」

「人生の最後の一息までも精神的に生き生きと活動し、神の完全な道具として、仕事中に死ぬこと、これが秩序正しい老年のなりゆきであり、人生の理想的な最後である。」

「主のみ手から苦しみも喜びも安んじて受け、ひるんではならない。主はあなたの運命をすぐにも変えられる。しかしそれを悪くするのは、あなたの嘆きだ。いたずらにあなたを苦しめるために苦難が与えられたのではない。信じなさい、まことの命は苦しみの日に植えられることを。」

「苦しみは人間を強くするか、それともうち砕くかである。その人が自分のうちに持っている素質に応じで、どちらかになる。」

「苦しみに出会ったら、まず感謝するがよい。それから、 その苦しみが何のために役立つかをたずね給え。」

「人間のすべての性質のなかで、嫉妬は一番みにくいもの、虚栄心は一番危険なものである。心の中のこの二匹の蛇からのがれることは、素晴らしくこころよいものである。」

「神に代わって人間を支配する三つの力である金と名誉と享楽との関係を断ったときに、人ははじめて自分を自由に感じよう。 」

「常に前を見て、いまさら''どうにもならない過去''は振り返らないこと。''不毛なうしろ''をかえりみても、何も始まらない。うしろを振り返っていいのは、次の三つの場合だけ。1)よりよい改善をしたいと思い、それが可能なとき。2)おかした過ちを、これから先は用心するため。3)受けた恩を忘れず、感謝するため。この三つである。」

「苦しい事件に出会ったときは、まず、それについて感謝に値する事柄をさがし出し、それを率直に感謝しなさい。そうすれば、心に一層安らかな気分が生じ、気持ちが落ちつくと、その他の事も堪えやすく思われてくる。たえずこれを練習していると、しだいに良い習慣となって、人生がたいへん楽になる。われわれが完全に神の導きに身をまかせるならば、生活を主として苦渋にし、しかも不断の心労をもってしてもどうにもならない多くの事柄に対して、《高貴な無関心》を会得することができよう。しかしこの《軽やかな心》を得るには、神をかたく信じ、その命令に必ず従うことが前提である。」

「キリストに帰依することは、義しき存在へ到達するための、世にあるかぎりの実に最良の手段であると、われわれは信じている。しかしあなたの生涯の目的は、あなた自身が、あなたの最奥の本性においてキリストに似た人間に、すなわち、善良な、この世の生活でもあの世の生活でもひとしく有用な人間になることである。あなたは決してこのことを取りちがえてはならない。この目標に向かってまっすぐに、あたなの力のかぎりをつくして突進しなさい。」

「人生の目的と目標は、正統信仰(オートドクシー)に到達することではない。この点では、宗教改革時代もはなはだしく誤っていた。そうではなく、それは善き人間となること、すなわち、できるだけ実際に神の近くにあるという偉大なことにある。たしかに、真のキリスト教こそは、そこに到る最も近い、最もよい道であり、それのみが本当に神のみこころにかなう、しかも歴史的に与えられた道である。」

「神の恵みと助けとが示されているのは、とくに困難な時期に、いつも我々の暗い運命のどこかある一点が明るくされることによってである。」

「喜んで必然に従う者、彼こそは賢者にして、神を知る人である。」

「何かにつけて憤怒をいだくうちは、自己を制御していない。すべての悪に対しては、平静な抵抗が最高の勝利をおさめる。」

「虚栄に対する最上の防禦は尊大である。だが、虚栄よりずっと危険な敵である尊大を防禦するのは、神への接近のみである。」

「我々は神を愛することをせずに、ただ神を認識することは不可能である。」

「苦難に際しては、まずそれについて感謝に値することを探し求め、そして誠実にこれに対して感謝せよ。」

「忠告は雪に似て、静かに降れば降るほど心に長くかかり、心に食い込んでいくことも深くなる。」

「ところでわれわれが、あらゆる困難や悩みを思いすごして、とりわけ眠られぬ夜などに憂慮の思いがひしひしとおそってくる場合には、『断固前進!』という結論以外に手はありません。これのみが、かかる事態における唯一の合理的論理というものです。」

「神は神の聖霊を役立てたいと思う人々にだけ、それを授け給うのであって、ただそれを所有して楽しむためには与えられない。」

「祈ろうとする時は、まず私たちが持っているものに対する感謝をもって始めねばならない。」

「どんな大きな仕事であっても、それを細かに分けて、いつも手近なものだけを眼中に置くならば、それは小さな仕事をするのと同じになる。」

「我々が自ら幸福だと感じるためには、つねに頭が計画にみち、心が愛にみちていなければならない。」

「人に与えるということも、多くの偉大な事柄と同じように、ただ実地の練習を通じて学ぶものである。しかし、一旦学んでしまえば、それは人生の最も大きな喜びの一つとなる。」

「病気は、より高い人生の階段を登ってゆく通路に過ぎない。」

「高慢はつねに相当量の愚かさに結びついている。」

「多すぎる休息は、少なすぎる休息と同じく疲労させる。」

「我らが自分の近いよりも、神は我らに近い。」(ヨハン・タウレル)

サミュエル・ラザフォード

「毎朝、毎朝、ディボーションの中でキリストの愛のカーテンが一枚、一枚と開かれていく。」

「もしあなたがたが深い神学者になりたいのならば、わたくしはあなたにきよめをすすめる。」

「私は、災いの地下室にいる時、そこで主の最高級のワインを探す。」

「私は非常にキリストの愛に恋いこがれているので、もし彼の愛が天国にないとしたなら、私はそこに行きたいとは決して思わない。」

「人間のすばらしい知識も、聖書に精通していることも、神との交わりも、自分の心をよく知っていることも、みなたましいに仕える神の使者としての大変な仕事に備えるために大いに助けになるものであると思う。」

「たとえその道(クリスチャンの歩み)が平坦で容易でなくとも、また人生の嵐が不当で厳しくあっても、目に見えない神とその御国を目にした者は、決して嘆かず怒らない。全てを捨てたとしても、主にあり続けよう。約束の城を勝ち取るまで、全てを投げ出そう。その城の鍵はすでにあなたのために勝ち取られている。さあ、あなたが扉を開くだけだ。」

「主イエスが絆創膏をくださるなら、傷があろうとも不満はない。病を患う者は幸いだ。麗しいキリストの御手が近づき、主が聖いその御手で、優しく、私の荒れて汚れた肌に触れてくださるから。病に伏すことは主からの恵みだ。キリストを寝床のそばに引き寄せてくれるから。『気分はどうだ』と聞いてくださる主の御声に、痛みに耐えた全ての夜が報われる。」

「あぁ、悲しむべきことよ。これほど広く、これほど深く、全てに勝る素晴らしさと麗しさに満ちたキリスト・イエスがおられるのに、彼を受け入れる者は何と少ないことか。あぁ、飢え渇いた貧しい魂よ。なぜその空の杯を持って、麗しく、広く、深い命の源に来て、その井戸で杯を満たさないのか?あぁ、麗しいキリストはまことに偉大で尊くあられるのに、なぜ小さく弱い、心の狭い、喜びを知らない私たちが、そのキリストを拒むのか。空しいものに愛を注ぎ、なぜこのお方に注がないのか。」

「キリストを得る者は、失うものは何もない。」

「群衆から去って離れていきなさい。そしてキリストをあなたの道連れとするものだ。この世のことは、この世を愛する人たちにまかせておけばいい。キリストはそれよりもっと価値ある気高い選択だ。主を受け入れる人は幸いである。」

「謙遜は変わった花である。それは冬の天候と苦難の嵐のもとで最もよく育つ。」

「たとえその道(クリスチャンの歩み)が平坦で容易でなくとも、また人生の嵐が不当で厳しくあっても、目に見えない神とその御国を目にした者は、決して嘆かず怒らない。全てを捨てたとしても、主にあり続けよう。約束の城を勝ち取るまで、全てを投げ出そう。その城の鍵はすでにあなたのために勝ち取られている。さあ、あなたが扉を開くだけだ。」

「罪人をキリストへと引き寄せる唯一のもの、それは極限の困窮だ。財布を失った貧しい者の贖い金を払おうと、キリストの愛が待っている。」

「キリストの胸に頭を休ませている者が多くいても、そこにはあなたにも、他の誰にでも、十分な場所が確保されている。」

「我々が天の故郷に入り、兄弟なるイエスの御国を相続するとき、頭にはとこしえに輝く栄光の冠を受け、その重みを感じるとき、この世の痛みや苦しみを振り返るとき、地上での人生と悲しみは、栄光へと繋がるほんの一歩であり、その日々、その苦しみは、天で過ごす一夜ほどにも満たないことに気付くだろう。」

「主イエスが絆創膏をくださるなら、傷があろうとも不満はない。病を患う者は幸いだ。麗しいキリストの御手が近づき、主が聖いその御手で、優しく、私の荒れて汚れた肌に触れてくださるから。病に伏すことは主からの恵みだ。キリストを寝床のそばに引き寄せてくれるから。『気分はどうだ』と聞いてくださる主の御声に、痛みに耐えた全ての夜が報われる。」

「あぁ、悲しむべきことよ。これほど広く、これほど深く、全てに勝る素晴らしさと麗しさに満ちたキリスト・イエスがおられるのに、彼を受け入れる者は何と少ないことか。あぁ、飢え渇いた貧しい魂よ。なぜその空の杯を持って、麗しく、広く、深い命の源に来て、その井戸で杯を満たさないのか?あぁ、麗しいキリストはまことに偉大で尊くあられるのに、なぜ小さく弱い、心の狭い、喜びを知らない私たちが、そのキリストを拒むのか。空しいものに愛を注ぎ、なぜこのお方に注がないのか。」

オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell 1599-1658 イングランド 政治家、軍人 イングランド共和国初代護国卿)

「たとえ困難がどんなであっても、我々は神の力によって、これに対抗することはできるであろう。私は神のおかげで困難になれてきた。 神に信頼してまだ裏切られたことがない。」

「神に信頼せよ。そして万一に備えよ。」

「向上することを止めた者は、無益な者となる。」

「神がひとたび人間の意志を所有されるならば、神はその人の中でみずから全てのことを行ない、彼を完全へと導き給う」(聖女カタリナ)。

「キリストが今日この現実の世界に生きておられることは、わたしが生きている以上に確かで、疑う余地がない」(ウィルフレッド・グレンフェル)。

ウィリアム・テンプル(1881-1944 英国 英国国教会 ヨーク大主教およびカンタベリー大主教)

「信仰とは正しい教理をもつことのみではない。生ける神との個人的な交わりである。」

「もし、わたしたちがクリスチャンを作ることと、キリスト教的な社会秩序を作ることのどちらを選ぶか、ということになったら、わたしたちは前者を選ばなければならない。しかし、これらは対立する事柄ではない。キリストの霊が働いている人間の労働や犠牲なしに、よりよいキリスト教的社会秩序を形成することはできないだろう。発展に第一に必要なものは、クリスチャンたちが、彼らの生活している場所で市民として、政治的にも社会的にも、経済組織としても、完全に責任を持って生きることである。」

「私たちは、律法学者やパリサイ人のあらわな盲目に驚かされないように、また、彼らが外面的な儀式に固執することに心動かされないように、そしてまた、私たちが現代においても同じあやまちを犯さないように、注意しなければなりません。宗教の基盤は、儀式や祭礼ではなく、常に人と人との人格関係の上に打ち立てられなければならないのです。」

「謙虚とは、自分が他の人より低いものと考えるのでなく、また自分の賜物について低い意見を持つことでもない。それは自分について一方的な、また他の考え方から完全に自由になることだ。」

「あなたの宗教とは、あなたが一人だけのときにすることだ。」

「私を単純な者としてお造りになった主よ、私をさらに単純な者としてください。」

「人々を回心させるという教会の持つ力は、主として説教者の雄弁、あるいはその組織の完成度によるものではないことを覚えておきましょう。それは人々が、どこまでクリスチャンの生活の中にキリストの愛の力の証拠を見るかにかかっているのです。」

「イエスは、日常的なことや当たり前のことにーー太陽がのぼり、雨が降り、植物が成長することなどにーー神の働きを見るように人々に教えられた。」

オーレ・ハレスビー

ある時、私の幼い息子がやってきて、書斎の入り口に首を突っ込んできました。仕事時間に邪魔をしてはいけないことは、息子も知っています。それで、彼は少々良心のとがめを感じていました。それでもまんまるの優しく可愛い目で私を見て、「パパ、一緒にいさせてくれたら、ずっと静かに座ってるよ」と言うのです。息子はそうやって父の心に訴え、承認を得ました。父親なら誰でもその気持はわかるでしょう。このちょっとした経験で、私は深く考えさせられました。これは天の父に対して私たちがよく抱く気持ちではないのでしょうか。私たちは神をとても愛しているので、ただ共にいたいのです。それに、私たちがいつ御前に行っても、何度行っても、神の邪魔には決してならないのです。

デイヴィッド・ア・シーモンズ

「私が赦す主体になって能動態として話す場合、それは私に過ちを犯した誰かを赦すという意味である。そして、私が赦される客体となり受動態として語る場合、それは私の過ちに対して神とほかの人に赦されるという意味である。そして赦す主体でもあり、赦される客体でもあるという再帰形態で語ると、それは自分が過ちを犯した場合は自分を赦すという意味である。このように聖書にはさまざまな意味の赦しが相互間に密接な関係を持って表れている。」

「(赦しの黄金律)ほかの人があなたにしてほしいと願うように行なうのではなく、神がキリストのうちにあってあなたにしてくださったことを、そのままほかの人に行なうことである。」

「天国への道はそのまま天国である。それは、イエスが『わたしは道である』といわれたからである。」(C・アンドリュース)

ヘレン・ケラー(Helen Adams Keller 1880-1968 米国 教育家、社会福祉事業家)

「私は、自分の障害を神に感謝しています。 私が自分を見出し、生涯の仕事、そして神を見つけることができたのも、この障害を通してだったからです。」

「一度でも楽しんだことを私たちは決して失うことができません。深く愛したことのすべては、私たちの一部分となるからです。」

「自己憐憫は最悪の敵です。それに自分自身をゆだねれば、この世界で何ひとつ賢明なことはできないでしょう。」

「アザミは土から生い立ち、バラにもとげがあるのなら、どうして人生に試練があってはいけない理由があるでしょうか?それは不思議でも残酷でもありません。試練は、私たちの生命を拡大し、この限られた地上では達成不可能なあの高い天命にそなえて私たちに強さを身につけるよう促す、神の激励なのです。」

「私には、死を直視することを恐れるような貧弱な信仰は理解することができません。死の前でくずおれるような信仰は、頼りがいのないか細いアシにすぎないからです。」

「死ぬってことは一つの部屋から次の部屋へ入っていくのと同じなのよ。でも私には大きな違いがあるの。だって次の部屋では目が見えるんですもの。」

「障害をもって生きることは非常に不便ですが、決して不幸ではありません。神の声が聞けるのですから。」

「盲目であることは、悲しいことです。けれど、目が見えるのに見ようとしないのは、もっと悲しいことです。」

「もしも、この世が喜びばかりなら、人は決して勇気と忍耐を学ばないでしょう。」

「世界を動かすのは、英雄の強く大きなひと押しだけではありません。誠実に仕事をするひとりひとりの小さなひと押しが集まることでも、世界は動くのです。」

「神様という友人に対して素朴に子供のように信頼をささげることはありとあらゆる所からやってくる問題を解決してくれます。」

「幸せの一つの扉が閉じると、別の扉が開く。しかし私達は、閉ざされた扉をいつまでも見ているために、せっかく開かれた扉の方が目に入らないのです。」

「私はひとりの人間に過ぎませんが、それでもひとりの人間です。私は何でもできるわけではありませんが、それでもできることはあります。私に出来ることは、喜んでやるつもりです。」

「私はたった一人でしかありませんが、それでも一人の人間です。すべてのことはできませんが、何かをすることはできます。だから、何もかもできないからといって、自分にできる何かをすることをやめたりはしません。」

「あなたの顔を光に向けていなさい。そうすれば影は見えません。いつも真理に目を向けていなさい。そうすれば、あなたの心から不安、心配は消えるでしょう。」

「幸せは、欲望の充足によって得られるのではなく、価値のある目的に忠実であることによって得られるのです。」(本当の幸せとは何か、誤解している人が多い。それは自分の欲求を満たすことではなく、価値ある目的に忠実に取り組むことです。)

「私たちの宿敵は「ためらい」です。自分でこんな人間だと思ってしまえば、それだけの人間しかなれないのです。」

「暗闇を友と一緒に歩むほうが、明るい道を一人で行くよりもいい。」

「私の愛する友人が亡くなり、埋葬されるたびに、私の一部もそこに埋葬される。けれども、彼らが与えてくれた幸せ、強さ、理解は、彼らのいなくなった世界にあっても私を支えてくれる。」

「不幸のどん底にいるときこそ、信じてほしい。世の中にはあなたにできることがある、ということを。他人の苦痛を和らげることができるならば、人生は無駄ではないのです。」

「(心の響いた)聖書の箇所にアンダーラインを引くことはよいことですが、聖書があなたの人生にアンダーラインを引くようにしなさい。」

「しかしやがて、希望が微笑みとともにやって来て、つぶやく。『喜びは、自分を忘れることにあるのだ』と。」

「信仰とは、荒廃した世界を光へと導く強さです。」

「行く価値のあるところへの近道などありません。」

「人生の目的とは富を得ることではなく、愛・幸福・喜んでする労働をふくめた各自の生活にある。」

「人生とは、ワクワクするビジネスである。他者のために生きるとき、人生は最もワクワクする。」

「クリスマスの季節で唯一本当の盲目の人とは、こころにクリスマスを持たない人です。」

マザー・テレサ(1910-1997 アルバニア カトリック修道女 神の愛の宣教会創立者)

「愛は家庭から始まります。私たちがどれだけ何かをしたかではなく、どれだけの愛をその行動に注いだかです。」

「痛みを感じるまで愛しなさい。痛みを越えるまで愛しなさい。」

「愛とは他人の痛みに傷つく心だ。」

「私たちは水路ではなく道具なのです。水路はそれ自身では何も与えません。ただ、水を通すだけなのです。私たちの活動は、神の手に握られた小さな鉛筆です。神が美しく書いてくださいます。」

「みなさんが私たちの仕事を天職と勘違いなさいますが、私たちの天職はイエス様を愛することです。」

「人間の偉大さはその人の愛の偉大さによって決まります。」

「苦しみは、苦しみそれ自体では虚しいもの。しかし、キリストの受難を分かち合う苦しみは素晴らしい神様からの贈物です。人の捧げる最も美しい贈物は、キリストと苦しみを分かつことができること。そうです。それこそ、キリストの愛の贈物であり、愛のしるしです。なぜなら、御父は、御独り子を私たちのために死に渡されることによって、世を愛しておられることを証されたからです。」

「私が死んだ後、神が私よりもっと無知で無能な人をお見つけになったら、その人を通して、より偉大なことをなさることでしょう。なぜなら、今私がしていることは、神がしていらっしゃることなのですから。」

「謙虚であるということは、常に神の偉大さと栄光の光を放っているということです。謙虚であることを通して、愛することができる人に成長できるのです。謙虚さは、聖性の始まりです。」

「大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです。」

「小さなことは本当に小さい。でも、小さなことを真心込めて行うことは偉大なことなのです。」

「わたしたちは 大きなことはできません。ただ、小さなことを大きな愛でするだけです。」

「遠いところにイエス様を探すのはおやめなさい。イエス様は、そこにはおられません。イエス様はあなたのそばにあなたと共におられるのです。常にあなたの灯をともし、いつでもイエス様を見るようにするだけです。あなたのその灯を、絶えず小さな愛の滴で燃え続けさせましょう。そうすればあなたにも、あなたのお愛しする主が何と甘美で心地よいお方かが分かるでしょう。」

「私たちもまた、集団としてまた個人として、一定の間隔を置いて身を引き、深い静けさの場所、神と自分だけとの場所に行くよう求められています。本も持たず、自分の考えや記憶も持たずに、何もかも脱ぎ捨てて神と二人きりになり、愛を込めて御前に静まり、自分を空にして、期待しつつ、じっとしていなければなりません。騒音や動揺の中で神を見いだすことはできないのです。」

「並外れた愛でなければ純粋な愛とは言えないと考えてはいけません。私たちはただ、うみ疲れることなく愛さなければならないだけです。小さなことを忠実にやりましょう。それがあなたの強みとなるのですから。」

「誰もが大きなことをできるわけではありません。けれども、小さなことを大きな愛によって行うことはできます。」

「あなたのもとに来る全ての人を、より良く、より幸せにせずに帰らせてはいけません。神の親切を生きて表す者となりなさい。あなたの顔に見える親切、まなざしやほほ笑みに表れる親切によって。」

「昨日は過ぎ去りました。明日はまだ来ていません。私たちには今日しかないのです。さあ、始めましょう。」

「すべての人が大いなることをできるわけではありませんが、大いなる愛をもって小さなことをすることはできます。」

「自分を通して神に他の人を愛していただくたびに、それはクリスマスです。・・・そう、兄弟にほほえみかけ、助けの手を差し伸べるたびに、それがクリスマスなのです。」

「『私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい』というイエスの言葉は、単なるともし火ではなく、私たちのエゴを焼き尽くす炎でなければなりません。」

「毎日の礼拝を欠かしたら、5分も働けません。」

「私が恐れているものは、ただ一つ。お金です。お金への執着、金銭欲こそは、ユダをしてイエスを裏切らせる動機となったのです。」

「私は、道具にすぎません。神様の手の中にある小さな鉛筆のようなものです。私たちのような弱くて不完全な道具を使うことで、神様はいまでも謙遜を示しておいでです。」

「イエスは互いに愛し合いなさい、と言われました。全世界を愛しなさい、とは言われませんでした。」

「人工妊娠中絶は、子宮内殺人です。未婚の男女にとって純潔は尊重されるべきであり、堕胎はこのうえない悪です。もし子供を求めないなら、私に与えてください。」

「中絶こそ愛と平和の最大の破壊者です。」

「中絶は全ての元凶です。」

「自分の問題を解決するために、中絶によって母親は自分の子どもをさえ殺してしまうのです。そして、中絶によって父親は自分がこの世にもたらした子どもでありながら全く何の責任もとらないのです。そのような父親は、他の女性にも同じような苦しみを押しつける傾向があります。ですから、中絶は中絶を招くのです。中絶を認めている国は、人々に愛することを教えずに欲しいもののためなら暴力を使ってもいいと教えているようなものです。こういうわけで、愛と平和の最大の破壊者は中絶であると言えるのです。」

「日本には美しいものがたくさんあります。美しいお花も、何もかも、自然は美しいです。この美しい日本に、生まれ出られない子どもたちがいます。子どもたちは不要だという社会なのです。私たちはこのような状況を見ながら、ただ黙って、立って傍観していてはならないと思います。少なくとも祈って下さい。犠牲をしてください。そしてどうか皆さまが、これを皆さまがたの問題としてとりあげてくださるようお願いいたします。」

「富める国で中絶を合法化するところがあれば、その国は間違いなく、世界中で最も貧困な国です。」

「私にとって、命は神様から人間への最も美しい贈り物です。ですから、中絶によって、安楽死によって命を奪ってしまう人々、国は心の貧しい人々、国です。そうすることが、合法であるか否かを言っているのではありません。たとえ、まだ生まれていない子どもでも命は神様から私たちへの贈り物ですから人間の手で殺されるべきものではないと思うのです。」

「自分で自分を非常に完全だと思っている人は、見るものすべてに欠点を見出す。が、そういう人こそつねに最も欠点の多い人である。」

「夫婦関係に問題を抱えている二人にどのようなアドバイスがあるかと聞かれたら、私はいつもこう答える。『祈って、赦しなさい』。暴力的な家庭で育った若い人々にもこう言う。『祈って、赦しなさい』。そしてまた、家族の助けがないシングルマザーにも。『祈って、赦しなさい』。」

「愛はまず家庭から始まるのです。愛は家庭に住まうものです。子どもたちは家庭のなかに愛やほほえみを見つけることができません。子どもたちはさびしすぎるのです。さびしさをまぎらすために外へさがし求めにゆくのです。」

「愛は、いつでも旬の果物で、誰の手にも届くところにあります。」

「人を裁いてしまうなら、その人を愛する時間などありません。」

「私たちはみな、世界に向けてラブレターを書く神の手にある鉛筆です。」

「私たちがこの仕事をすることが奇跡ではありません。この仕事をするのがうれしいことが奇跡です。」

「もっともひどい病気のひとつは、誰かのために何者にもならないことである。」

「神はあなたが成功することを要求されません。ただトライすることを求められるのです。」

「できることをしなさい!『もし100人の人に食べさせることができないなら、一人だけでも食べさせなさい。」

「世界平和のために何ができるかですって?家へ帰って、あなたの家族を愛してください。」

「神は私たちを創造されたとき、私たちを愛から創りました。神は愛なのですから、他の説明はありません。神はわたしたちを愛するため、そして愛されるために創られたのです。もし、そのことをいつでも覚えていられるならば、戦争も暴力も憎しみも、この世からなくなるでしょう。それは美しく、そして簡単なことです。」

「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。」

「何の働きもしない愛、そんな愛は無意味です。愛を行動に移さなくてはなりません。それが奉仕です。」

「一緒に住んでいたり、または血のつながった親族といった人たちにほほえみかけることは、あまり親しくない人々に対してほほえみかけるよりむずかしい時があるものです。『愛は近きより』ということを忘れないようにしましょう。」

「世界の平和は、まず家庭の平和から始まります。平和は、ほほえみから始まります。」

「あなたの家族の中に寂しいと感じている人はいませんか。ちょっとほほえむだけでいいのです。新聞を読んであげると喜ぶ目の不自由な人も、買い物をしてあげると喜ぶ重い病気の母親もいるでしょう、家族や隣人、身近なところから愛は始まるのです。」

「あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けないさい。助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく助け続けなさい。」

「もし、ほんとうに祈りたいのなら、まず聴くことを学ばなければなりません。心の静けさの中で、神は語りかけられるのです。そしてその静けさがわかり、神を聴くことができるには、清い心が必要なのです。」

「お金をあげるだけで満足するのはやめましょう。お金だけなら十分ではないのです。お金なら、手に入れることもできます。私は多くの人たちに、もっとその手を使って奉仕をし心で愛してほしいのです。どんな国にも街にも家庭にも、あなたの奉仕や愛を必要としている貧しい人がいることに気づいて下さい。」

「自分をよく知っている人は、 悪口にも、お世辞にも左右されません。」

「傲慢で、ぶっきら棒で、利己的になるのは、いともたやすいことです。でも私達は、もっと素晴らしいことの為に、創られているのです。」

エイブラハム・リンカーン(1809~1865年。アメリカ第16代大統領)

「結局、大切なのはあなたの人生の年月ではなく、その年月の中のあなたの人生である。」

「四十歳を過ぎた者は、自分の顔に責任を持て。」

「悪魔は招かれない処に現われない、紳士である。」

「誰も完全な嘘をつける、完全な頭を持たない。」

「世の大いなる争いに際しては、当事者のいずれもが、神の意志に従って行動しているのだと主張する。つまり、双方ともに間違っていることもありうるが、必ず一方が間違っているわけだ。神が同じことに対して賛成と反対を同時になさるはずはない。」

「あなたが転んでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ。」

「私は一つの痛切な願いを持っている。それは、私がこの世に住んだがゆえに、少しだけ世の中が良くなったということが確かめられるまで生きたいということだ。」

「神様はきっと普通の人が好きなんだろう。さもなければ、こんなに沢山の普通の人間を おつくりにはならなかっただろうから。」

「法則に従う天体は神ではない。私はこの法則を支配している神を信じよう。」

「他の人の心の痛みを和らげるなら、自分の心の痛みを忘れる。」

「私の関心は、神が我々の側につくか否かではありません。私の最大の関心は、私たちが神の側にいるかどうかです。神は常に正しいのですから。」

「我に木を切るための6時間を与えよ。我は最初の4時間を斧を研ぐために使おう。」

「ほとんどの人は、逆境に耐えることができる。しかし、もしその人の人格を試したいなら、その人に権力を与えよ。」

「私は犬や猫を大事にしない奴を信用しない。」

「全能の神と、おそらくはその神に選ばれた国民とに、つつましく仕えることができるなら、私にはこれに勝る喜びはない。」

「バラの木にトゲがあることに文句を言うこともできますが、トゲの木にバラの花があることを喜ぶこともできます。」

􏰅􏱤􏱥􏰍􏰮􏰐􏱅􏱦􏱧􏱛􏰸􏰿􏱧􏰍􏰮􏱨􏱩􏱪􏱚􏱫􏰽􏰾􏰐􏱨􏱅􏱬􏱬􏱭􏱮􏰸􏱯􏰰􏰲􏰹􏰐􏰴􏱋􏱰􏰲􏱀 􏱛􏱅􏱱􏱨􏰿􏰹􏱚􏱨􏱲􏰲􏱳􏱴􏰿􏱀􏱁􏱂􏰓

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(1929~1968年 。米国。牧師。アフリカ系アメリカ人公民運動の指導者)

「私たちは有限の失望を受け入れなければならない、しかし、無限の希望を決して失ってはならない。」

「闇に闇を追い払うことはできない。それができるのは光のみ――憎しみに憎しみを消し去ることはできない。それができるのは愛のみ――。」

「暴力を通して諸君は憎む相手を殺すことができるかもしれないが、それで憎しみ自体を殺すことにはならない。事実、暴力は憎しみを増すだけである。憎しみはそのまま残る。暴力に対して暴力をもって報いれば、暴力は増加するだけであって、それはすでに星の輝かない夜により深い暗闇を付け加えることに等しい。」

「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である。」

「本当の人間の価値は、すべてがうまくいって満足しているときではなく、試練に立ち向かい、困難と戦っているときにわかるものだ。」

「人の真価がわかるのは、喜びに包まれている瞬間ではなく、試練や矛盾に立ち向かうときに示す態度である。」

「そのために死ねる何かを見つけていない男は、生きるのにふさわしくないのではないか。」

「もし道路掃除の仕事があなたに回ってきたとするなら、ミケランジェロが絵を描いたように、一生懸命、道路を掃きなさい。ベートーベンが作曲したように、一生懸命、道路を掃きなさい。シェイクスピアが詩を書いたように、一生懸命、道路を掃きなさい。あなたが一生懸命に道路を掃いた結果、天と地にいるすべての天使たちが働きの手を休め、こう言うようにしなさい。『ここに自分の役割を見事に果たした道路掃除人がいる』と。」

「人は何のために生きているかをいつも考えねばなりません。この問題が解決されるとき、その人は死についてあまり考えなくなります。人生の意義はあなたが人生から逃れることでなく、何を与えるかなのです。これがわかれば人生は豊かになります。」

「人は死んでも、その人の影響は死なない。」

「どんな人間でも立派な人間になれる。なぜなら、だれでも奉仕をすることができるからである。奉仕をするのに、学位を取得する必要はない。奉仕をするのに、主語と動詞を一致させる、といった文法のことを問題にする必要はない。奉仕をするのに、プラトンやアリストテレスについて知る必要はない。また、奉仕をするのに、アインシュタインの相対性理論を理解する必要もない。奉仕をするのに、物理学における熱力学の第二法則も必要ない。人間に必要なのは、ただ恵みに満ち溢れた心だけである。愛から生み出される魂だけである。」

「人間はだれでも、創造的な利他主義という光の道を歩むのか、それとも破壊的な利己主義という闇の道を歩むのか決断しなければならない。これは、判断力の問題である。人生で最も永続的でしかも緊急の問いかけは、『他人のために、いまお前は何をしているかである』。」

「信仰によってまず第一歩を踏み出してください。階段全てを見渡す必要はありません。ただ第一歩を踏み出してください。」

「いかなる人間にも、その人間を憎むようになるまで自分を引きずり下ろさせるな。」

「私は愛にしがみつくことを決心した。憎しみはあまりにも重くて担いきれないから。」

「真の平和とは、単に緊張がないだけではなく、そこに正義が存在することである。」

「『目には目を』という古い法を守っていたら、 世の中の人々はみんな目が見えなくなってしまう。」

「愛なき力は無謀であり腐敗している。最高の状態にある力とは、正義の要求を満たす愛である。」

「憎しみや辛辣では、決して恐れの病を癒すことはできない。ただ愛だけにそれができるのである。憎しみは人生を麻痺させる。だが愛は、人生を解放する。憎しみは人生を混乱させる。だが愛は、人生に調和をもたらす。憎しみは人生を暗くする。だが愛は人生を明るく照らしだす。」

「赦しとは、一時的な行ないではない。それは、永遠に続く姿勢である。」

「人は兄弟姉妹として、共に生きていく術を学ばなければならない。それが出来なければ、私たちは愚か者として共に滅びることになる。」

「赦す力に欠けている者は、愛する力にも欠けている。」

「問題になっていることに沈黙するようになったとき、我々の命は終わりに向かい始める。」

「悪を仕方ないと受け入れる人は、悪の一部となる。悪に抵抗しない人は、実は悪に協力しているのだ。」

「地獄の一番熱い場所は、重大な選択をせまられたとき、どっちつかずの立場をとった人間のためにとってある。」

「おそらく人生で最も罪深いことは、正しいことだと知りつつそうしないことだ。」

「長生き出来るかどうかなど、今の私にはどうでもいい!」

「善意の人々からの浅い理解は、悪意の人々からの絶対的な誤解よりも苛立たしい。」

「中絶された赤ん坊はみな母親の胎の中の奴隷のようだ。」

「科学は人の知識となり、力となる。信仰は人の知恵となり、理性となる。科学は事実であり、信仰は価値である。このふたつが対立することはない。」

「親しい関係を築けない理由は、お互いを恐れているから。なぜ恐いのか、それは相手のことを知らないから。コミュニケーションが足りていない証拠だ。」

「私たちは鳥のように空を飛び、魚のように海を泳ぐ。しかし、まるで兄弟のように地上を共に歩むという簡単な行為は、未だに学ばれていない。」

「愛は、敵を友に変えられる唯一の力。」

J・H・ペスタロッチ(1746~1827年。スイス。近代教育の父)。

「人は愛することができるようになるために、教育されねばならない。」

「忍耐心を持たなければならないようでは、教育者としては落第である。愛情と歓びを持たねばならない。」

「人間が互いに愛情を示しあうところ、神は近くにある。」

「家庭よ、汝は道徳上の学校なり。」

「人は他人の欠点を吹聴したがる。だがこれだけの熱心さで、人の長所や善い性質を語ってほしい。このことが、この世界をいっそう善くする最善の道だから。」

トマス・アクィナス(1225-1274 イタリアの神学者、哲学者 ドミニコ会士)

「誰かを愛することは、その人に幸福になってもらいたいと願うことである。」

「すべての人の魂の中には、幸福と生きる目的を求める飢え渇きがある。」

「人の思考がどんな努力をしても、たった一匹のハエの本質さえ語りきることはできない。」

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832 ドイツの詩人・劇作家・小説家・哲学者・自然科学者・政治家・法律家)

「人類の知的文化が進歩しようとも、自然科学が進んでその広さと深さとを加えようとも、人類の知性がその望むがままに広くなろうとも、福音書から輝き出るキリスト教の高さと、道徳的文化を越えることはないであろう。」

「王様であろうと百姓であろうと、自分の家庭で平和を見出す者が一番幸福な人間である。」

「人は努力するかぎり罪を犯す。」

「人の生活はすべて次の二つから成り立っている。したいけれど、できない。できるけれど、したくない。」

「人間の最大の罪は、不機嫌でいること。」

「信仰はその家の隠れた家宝である。」

「人が苦悩の中に黙している時、私の悩みのほどを言う力を、神様は私に与えてくださった。」

「あせることは何の役にも立たない。後悔はなおさら役に立たない。前者はあやまちを増し、後者は新しい後悔を作る。」

「新聞を読まなくなってから、私は心がのびのびし、ほんとに快い気持ちでいます。人々は他の人のすることばかり気にしていて、自分の手近な義務を忘れがちです。」

「気持ちの良い生活を作ろうと思ったら、済んだことをくよくよせぬこと、滅多なことに腹を立てぬこと、いつも現在を楽しむこと、とりわけ、人を憎まぬこと、未来を神にまかせること。」

「我々が不幸または自分の誤りによって陥る心の悩みを、知性はまったく癒すことができない。理性にもほとんどできない。時間がかなり癒してくれる。これに引きかえ、固い決意の活動は、一切を癒すことができる。」

「憎しみは積極的な不満で、嫉妬は消極的な不満である。したがって、嫉妬がすぐに憎しみに変わっても怪しむに足りない。」

「奇跡は信仰の最愛の子である。」

「夜な夜な、涙で枕を濡らし、涙でパンを味つけした経験のない者には、天の力、神の力は経験できるものではない。」

「人間にとって恩を忘れることほど悪いことはない。」

「才能や技術は、孤独の中でも育つが、人格は孤独の中では育たない。それは人生の激浪の中でのみ育つ。」

「結婚生活はすべての文化の始めであり、頂上である。それは乱暴者を穏やかにし、教養の高い者にとっては、その温情を証明する最上の機会である。」

「われわれの本性は、怠惰へ傾いている。だが、われわれは活動へと心を励ます限り、その活動の真の悦びを感ずる。」

「世の中のいざこざの因(もと)になるのは、奸策(かんさく)や悪意よりも、むしろ誤解や怠慢だね。」

「高尚なる男性は、女性の忠告によって、いっそう高尚になる。」

「愛は支配しない、愛は育てる。」

アレサンダー・ハミルトン(1757-1804 米国 政治家 アメリカ建国の父の一人)

「私は、クリスチャン宗教の証拠を注意深く調べてきた。そしてもし私が、一陪審員としてその信憑性(しんぴょうせい)を探るために座していたなら、私はためらうことなく、それの有利となるように、私の評決を下すであろう。」

フョードル・ドストエフスキー(Fyodor Dostoevskii 1821-1881 ロシアの小説家、思想家)

「人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである。」

「人々は自分の苦しみを数えることを好みます。しかし、自分の喜びは数えようとはしません。」

「私がイエス・キリストを信じて認めたのは子どもとしてではありません。私が神を賛美することは、疑問の炉から生じたものです。」

「今日でも、社会をまもるばかりでなく、犯罪者をも更生させ別人間に生まれ変わらせるものがなにかあるとすれば、それはやはり、自分の良心にあらわれるキリストの掟だけである。」

「隣人を積極的にたゆまず愛するように努めなさい。その愛の事業がすすむにつれて、神の存在も自分の霊魂の不死も確信されてくるでしょう。」

「ほんとうに人間はだれでもすべての人に対し、すべてのことについて罪があるのです。人びとはただそれを知らないだけです。」

「社会主義は主として無神論の問題である。無神論に現代的な肉付けをした問題である。地上から天に達するためではなく、天を地上へ引き下ろすために、神なくしてたてられたバビロンの塔だ。」

「人類を愛することは簡単だけど、隣人を愛することは容易ではない。」

「希望を持たずに生きることは、死ぬことに等しい。」

「愛、実にこれが、人生のすべてだよ。」

「人間というものは、不幸の方だけを並べ立てて、幸福の方は数えようとしないものなんだ。」

「神が存在しないならば、私が神である。」

「地獄とは愛のない世界である。」

「永遠に愛し得る唯一の存在であるということだけでも、神は我らに不可欠な存在である。」

「人間の罪に直面した時、人は途方にくれて立ち尽くし、力を用いるか謙虚な愛を用いるか迷う。常に、謙虚な愛を用いるように決心せよ。ひとたびそのように決心したら、あなたは全世界を征服することになる。謙虚さを愛することは驚くべき力だ。すべてのものにまさって強く、それに匹敵するものは何もない。」

ウィリアム・グリフィス・トマス(William Griffith Thomas 1861~1924 英国 聖公会司祭)

「キリスト教はキリストである。」

「病んでいる心を助けて、深い悲しみを記憶から抜き去ることはできるのか。イエス・キリスト以外にこの問いに対する答えはない。」

山室軍平(1872~1940 日本人初の救世軍士官で初代日本国軍司令官)

「クリスチャンが一つ心になって親しむ様子は、ちょうど石炭をかき集めて火を燃やすようなものだ。石炭はそれを一つずつ離しておけば、火が消えてしまうが、一緒に積み重ねれば、互いに火の勢いを助けて、今まで真っ黒であったものがやがて真っ赤になって燃え出す。」

「さびるよりは、すり減るほうがよい。」(生活信条)

「心は神に、手は人へ。」(生涯を一言)

「どんな場面に直面しても今は修行中だと思えば、渋柿からもよき教訓を得ることができる。」

「酒と色は、悪魔が人間を陥れる2つの最も大きな落とし穴。」

「死ぬことはちょっと暗い階段を通って明るい見事な二階に上っていくようなもの。」

「私は日本において、使徒行伝を書き続ける。」

「土の器の中にキリストを持っている人は、東西南北の他に 『上』という方角を知っている。」

「善生は長生にまさる。」

「信仰は根、望は枝、愛は果である。」

「神は金の器を要さず、きた銀の器を必要としない。ただ清き器を必要とする。」

「愛のない宗教は、坂を降りてくる空車である。音だけ高くて内容は空である。」

「キリストを民衆に、民衆をキリストに。」

「もはやわれ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり。」

「宗教は神学に勝る。」

「苦難ぐらい我らを試みるものはなく、吹きわけるものはなく、ねりきたえるものはない。患難のバプテスマを受けぬ者は、甘んじない者は用をなさない。」

ジョージ・ミュラー(1805~1898 英国 孤児院経営者 牧師 説教者)

「あらゆる事柄において神の側に立つことを学び、しかも幸福であり、正しい歩みをしている限り、よいものが拒まれることはないと知っているのは、なんと尊いことだろう。」

「神にあっては失望などありません。莫大な経費がいる時も、山のような困難も、また、万策つきて行き詰ったようでも、なお、なすべきことがあります。神に望みをおくことです。」

「信仰とは、単なる曖昧な観念ではなく、また、可能性でも、外観の何かでもない。信仰とは、神がみことばのうちに述べられたことが確かであり、神はご自分のみことばのうちで約束された通りに行なわれると、確信することである。」

「困難、限界、妨害、死別、損害などに会った時、私たちはそれに直面するのをひるみます。しかし、これらの事がらを通して、神は私たちを成長させてくださるのです。幼児が運動や栄養によって五体を成長させていくように、逆境を通して、クリスチャンは力強く成長していくのです。」

「祈りと信仰によって、必要なすべての恵み、知恵、そして技能を神からいただくことのできる私たちが、悪いしもべ、悪い商人、悪い主人であるなどということは、決してあってはならない。」

「祈りによって、繰り返し自分の内的腐敗を神の御前に差し出さないなら、どのような人であっても勝利を得られると考えてはならない。」

「困難が大きいほど信仰のためになる。自然の確かな望みが残っている間は本当の信仰は働かないが、すべての自然のしるしがなくなった時こそ信仰が現れる時である。」

「信仰が始まるところに心配が終わり、心配が始まるところに信仰が終わる。」

「見る事を止めた時が信仰の働く時である事を忘れないようにしましょう。困難が大きければ大きいほど、信仰は働きやすくなります。」

「信仰を強めるために重要な最後の点は、信仰の試練が来た時、神に働いていただき、自分の力で自分を救い出そうとしないことである。」

「神の御心を知るためにまず必要なことは、その事に関する自分の意志を手放すことができるように祈ること。」

「祈りと、御言葉の学びと反省によって、私の最高の知識と能力に従った慎重な判断に至ります。2つあるいは3つ以上の要求(petition)があっても、私の心に平安が続くのであれば、私は従って進みます。私はこの方法が重要な選択または、そうではない選択において、いつでも有効であることを学びました。」

「もう少しの信仰、もう少しの忍耐、もう少しの祈り、そうすれば神の祝福が必ずある。」

「私が毎朝、いちばんはじめに行ない、いちばん大切にしようと心がけていることは、自分のたましいを主を喜ぶ状態にすることです。いちばんの関心事は、どれほど主に仕えるかでも、どれほど主の栄光を現わすかでもなく、どうやって自分のたましいを主を喜ぶ状態にし、どうやって私の内なる人が養われるかです。」

「私たちの必要が何であれ、困難がどんなに大きくても、目に見える助けが不可能に思われても神に望みをおくことこそ私たちの務めです。」

「私は過去に100回も、いや千回も、神の約束が確かなことを知りました。」

「祈る時、自分の思い、願望、欲求を取りのぞいてごらん。それで80%方解決。主のご計画が見えてきます。」

「神のために用いられない限り、お金には価値がない。」

「私はさまざまな意味で妻のことを恋しく思うし、これからもさらに恋しく思うことだろう。だが、神の子として、また主イエスのしもべとして、私は頭を垂れる。私は、天の父の意志に満足しており、神の意思にゆだねることで、神に栄光を帰し、私を苦しめるその手に絶えずキスをしよう。」

「信仰は、可能の領域では効果を表さない。人間的に可能なことにおいては、神への栄光は何もない。人間の力が尽きたところで、信仰が取りかかるのだ。」

「聖霊は聖書に従って導くのであって、決して聖書に反してなさることはない。」

信仰の人として知られるジョージ・ミュラーが、彼の奉仕の秘訣を聞かれたとき、こう答えたという。「私はある日、死にました。徹底的に死にました。ジョージ・ミュラーに対して死にました。彼の意見、好み、意志について死んだのです。世に対して、世の賛成や非難に対して─主にある兄弟や友人たちの賛成や非難に対してさえも─死にました。その後、私はただ、神に認められるように努めてきただけです。」

ジョージ・ミューラーはかつて、「ひざまずいて祈ることに長い時間を費やしますか」と尋ねられ、こう答えました。「私は祈りの霊の内に生きています。歩き回る時も、横になる時も、起きる時も祈っています。そして答はいつも与えられます。これまで私の祈りは、何千回、何万回となく答えられてきました。いったんそれが正しく、神に栄光を帰すものであると確信したなら、私は答が与えられるまで、ひたすら祈り続けるのです。」

ガリレオ・ガリレイ(1564-1642 イタリアの物理学者、天文学者、哲学者)

「聖書と自然の現象は共に神の言葉から出て来ている。神は知られる。その性質はその御業によって、その教理は啓示されたみことばによって。」

アイザック・ニュートン(1643-1727 イングランドの哲学者、自然哲学者、数学者、神学者)

「いかなる世俗の歴史におけるよりも、聖書の中には、より確かな真理が存する。」

「太陽、惑星、彗星からなる最も美しい系は知性と力ある存在の配慮と支配によってのみ発生しえた。」

「我々が知っていることはほんの小さな一滴に過ぎない。他方、我々が知るに至っていないことは大海である。この宇宙の感嘆すべき配置と調和は、全知全能の存在から出たとしか考えられない。」

「聖書の中には、如何なる世俗の歴史におけるよりも、確実性のあるより確かな証拠がある。私が発見したものは、すべて祈りに対する答えであった。私は、望遠鏡を使って宇宙空間を何百万マイルも深く見つめることができるが、地上のすべての望遠鏡の助けを借りる時よりも、自分の部屋に行って祈る時の方が、より神と天国に近くなることができる。」

「あらゆる物理学的出来事は直接神によっています。背後にあって支えている力がなければ、すべての出来事は起こらないでしょう。しかも神はこの世界に規則的な法則といったものを与えております。自然の出来事はこの法則に従って起こるものであり、科学者はこの事実を発見するにすぎません。」(ドナルド・M・マッケイ 1922-1987年。イギリスの理論物理学者)

「わたしはこの人生を、主イエスの道筋をたどる永遠への通過点として過ごしている。神のかたちに造られたのに、罪ゆえに卑しくなり、どのように瞑想し、どのように礼拝し、どのような考えるべきかを教えてもらわなくてはならない者として。」(ドナルド・コウガン カンタベリーの大主教)

ウィリアム・ワーズワース(1770-1850 イギリスの桂冠詩人)

「正しいこと一つをするのは、間違い一つをした言い訳より、時間がかからない。」

「始めるために、始めなさい。」

「自分の愛に値する相手かどうか、考える前に愛せよ。」

「おお! もしわれわれが神の方を向き、神にわれわれの友となるように求めるなら、心の悲しみは時が来れば終わるようになる。」

フレデリック・ビュークナー(Frederick Buechner 1926年~ 米国 作家、神学者)

「荒野ではなおさら、どんな場所でも神を愛せよと命令されるのは、病気の時に元気でいろ、のどが渇いて死にそうな時に歓喜の歌を歌え、足の骨が折れている時に走れ、と命令されるようなものである。それでも、これは第一の偉大な命令である。荒野でさえ――荒野ではとりわけ――あなたは神を愛するものである。」

「人々は、何も見えない暗闇の向こうに大いなる光りがあるという事実以外は、何でも受け入れる用意があります。古い畑を汗水流して耕し続ける準備があります。・・・人々は有利な条件で取引をする神には備えていますが、一日働いても一時間働いても同じ給与をくれる神には備えができていません。彼らはせいぜいイモリの目ほどの大きさの、からし種のような神の国には備えができていますが、鳥が枝にとまってモーツァルトを歌うような、巨大な菩提樹には備えができていません。大教会(第一長老教会)の持ち寄り夕食会に行く準備ができていても、小羊の婚宴の夕食会に行く準備はできていないのではないでしょうか。」

「・・・病気のわが子に『お前がよくなるためには、 何だってするよ。』 と言う。父親のように、 神はついに自分の手のうちを見せたのである。イエス・キリストが神のなしたわざであり、それを行った十字架が 新しい契約のもとでの信仰の中心となる象徴なのである。」

「神は説明しない。神は激情に駆られ、ヨブにわたしを誰と思うのかと尋ねている。ヨブが説明してほしいことを説明するのは、ちっぽけなハマグリにアインシュタインを説明しようとするようなものだと言う。・・・神はその大きな計画をあらわにしない。神はご自身を現すのである。」

「偶然とは私たちの注意を引くための神の方法。」

「恵みは彼自身が生涯で受け取った最高のものなので、彼が彼らに望む最高ものは恵みなのである。」

サムエル・F.B.モールス モールス信号を発明した、1791-1872

ボルチモアからワシントンまでの新しいラインに乗せられて、この信号で最初に送られたメッセージとは、聖書からの4つの言葉だった。 「神は何を行なわれたのか」 ! サム・モールスは、その弟に宛ててこのように書き記した。 「これは主の御業である。そして主だけが、私のすべての試練を越えて、私をここまで携えてくることができた。」

ジェームス・シンプソン、産科学の開拓者であり、クロロフォルムを発見したスコットランド人、1811-1870

大きな公の集会において彼の最大の発見が何であったのかを問われた時、彼は何のためらいもなくこう答えた。「私が救い主を発見したこと。」

クロロホルムの発見は、他の医学上の発見よりも、この世から苦痛を減少させたと言うことができるであろう。ある人がかつて、その発見者であるシンプソン卿に「あなたの最大の発見は何だと思いますか?」と尋ねた。「クロロホルムです」という返事を予期していたが、シンプソン卿は、「私の最大の発見は、イエス・キリストが私の救い主だということです」と答えた。

ラレフ・ワルド・エマソン、アメリカの著作家、及び哲学者、1803-1882:

「私がこれまでに見てきた全てのものは、私がまだ見ていない全てのものについて、創造主を信頼すべき事を私に教えてくれる。」

ロバート・ブラウニング、イギリスの詩人、1812-1889:

「あなたの最初の祈りが語られた時、仕事が始まった。そして神は、始められたことを終えられるであろう。もしあなたが、そこで香をたき続けるなら、いつか、何処かで主の栄光を見るであろう。」

フィリップ・ヤンシー(1949~ 米国 著述家)

「信仰とは、逆転して初めて意味をなすことを前もって信じることである。」

「母親が自分の子供ですら殺せる。それを私たちが受け入れるなら、殺し合ってはならないと、どうして他の人に言えるでしょうか・・・。妊娠中絶を受け入れる国ほども、その国民に愛することを教えているのではなく、欲しいものはどんな暴力を使ってでも手に入れるように、と教えているのです。」

「恵みは、水のように最も低いところへと流れます。」

「たとえ、どん底に落ちても神の恵みよりも堕落することはなく、いつも神の恵みが備えられている。」

「『神を信じて何になるのか?』と言う人々は、なぜ神はもっと直接的に、もっと力をもって介入しないのかと問うていることがしばしばである。…なぜ神は人間の歴史の中で、もっと積極的な役割を演じないのだろうか。考えられる理由がいくつかある。旧約聖書によると、神は過去に実際、積極的に力を用いたことがあった。しかし、それによっても、イスラエルの民に永続的な信仰を生み出すことはできなかったのだ。そして、地上の強国が学んだように、力と自由は不安定な関係にあり、どちらか一方を強調すると、必ずもう一方が弱くなってしまう。神は一貫して、人間の自由を大切にされる。しかし、結局、私たちには確かな答えはなく、ただ神の究極的なご計画を一瞬垣間見るだけである。どういうわけか、神は主として私たちのような普通の人間を通して、ご自分を現される。…『神など信じて何になるのか?』という未解決の質問の答えは、ご自分の弟子である私たちに委ねられた。注目している世界に、信仰の意味を証明するよう『私たちに』求めておられるのだ。」

「健全な身体は、一番弱いところの痛みを感じる。」

「私たちがささげる礼拝の観客はただお一人、神様である。」

「…教会にいる私たちが世界に提供できるのは謙遜と悔い改めであって、成功の公式ではない。成功を指向するこの社会の中で、ほとんど私たちだけが、自分達が失敗したこと、今も失敗していること、これからも常に失敗することを認めるのである。…」

「クリスチャンは人間性に関して一番現実的な見解を持っています。彼らは今までも人類が失敗し、今も失敗し、これからも失敗することを知っているからです。」

「真の信仰は、神を思い通りに操ろうとすることではない。自分をみむねにかなう位置に置こうとすることである。」

「恵みとは、神からもっと愛してもらうために私たちにできることなど何一つない、という意味である。そして恵みとは、神から愛されないようにするために私たちにできることなど何一つない、という意味でもある。」

「私が私の隣人を救われる可能性のある人と見るか、もしくはすでに神に愛されている人として見るかどうかによって世界は一変される。」

「私たち人間は本能的に、目に見える世界が『現実の』世界であって、見えない世界は『非現実の』世界だと考えますが、聖書はそれとはほぼ正反対の呼び方をしています。」

「人生には春夏秋冬の四季があるが、冬の後には春が来る。冬は何の希望もないように見えるが、根を張り、春に備えている。多くの人に「あなたが最も成長したときはいつでしたか」と問うと、『最も苦しかったとき』と言う答えが返ってくる。そう、冬はやがてくる春、大きな成長をする夏に備えるときなのだ。」

「今、私は詩篇を読むとき、詩篇の記者の心に自分を当てはめてみるーー『自分にはこれらの祈りをささげることができるだろうか』と自問する。『自分はこの特別な苦悩を感じたことがあるだろうか。こんな賛美の炸裂を経験したことはあるだろうか。』さらに、これから出会うかもしれない、詩篇と同じ祈りを祈るような状況を想定してみる。誘惑に遭うとき、成功を祝うとき、恨みをいだいているとき、不正に苦しむときーーこの詩篇は私の人生のどんな状況に最もよく当てはまるだろうか。」

「要するに、聖書の創世記3章から黙示録22章には、ご自分の家族を取り戻そうとして、神が困難を顧みずに乗り出される試みについての、数々の物語が語られているのです。その御子を地球への長旅に出された時、神は和解への決定的な一打を下されました。聖書の最後の場面は、行方知れずになっていた息子のたとえ話のように、家族の再開という歓喜に満ちた光景で終わっています。そして別の箇所、福音書の中では、その愛の救出計画を遂行するために、神が払われた犠牲の大きさが語られています。『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。』 『人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。』 『神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。』…イエスは、私たちを取り戻すためならどんな犠牲をもいとわない神のお約束を、具体化する存在です。イエスが成し遂げられた最もささいな事柄のどれ一つとして、私たちを何らかの形で、神の目に愛しい存在にしないものはありません。」

「成果の見られない時期を、私は待ち時間として捉えるようにしています。結局のところ、愛する人の飛行機が遅れても私は喜んで待つし、パソコンのテレホンサービスは保留中も待つし、見たいコンサートは行列に並んで待ちます。待つことで、時間をムダにしているというわけではありません。待つことは、何かを期待して時間を使っていることなのです。

時々、私は意志力を振り絞って神の下に行くことがあります。それは誠実な行為には見えないかもしれません。けれども、その時、私は仮面をつける必要がないのです。神はすでに私の魂の状態をご存知です。私は何か新しいことを神に告げているのではないけれど、祈る気分でない時にも祈ることで、神への愛の証しをしています。ただ、御前に姿を現すことで、私の心の奥底にある信仰を表しているのです。

私は、神がみ姿を現してくださらないと不平を言いそうになる時、神には、私が姿を現さないことで不平を言う理由がもっとおありだということを思い出します。私は神のために毎日数分間取っておくものの、いったい何度、私の良心に、また人生において、語りかける静かな声を消し去ったり、無視したりしたことでしょう。「わたしは戸の外にいてたたいている」という黙示録の言葉はよく知られるようになり、しばしば意味を広げて福音伝道のメッセージにも使われるようになりました。しかし、イエスはその言葉を、教会いっぱいにいる信者たちに向けて語られたのです。私はいったい何度、戸を優しく叩く音を聞き逃し、神の招きを逃したことでしょう。」

「私は、人類の歴史には二通りの見方があるという結論に達しました。一つは、戦争と暴力、卑劣さ、 痛み、悲劇、死に焦点を当てた見方です。そのような視点から見れば、イースターは神の名によってなされたそれに矛盾する出来事か、例外的なおとぎ話であるかのように思えます。それは多少の慰めにはなるものの、正直言って友を亡くした時、その悲しみは抗し難いほどのもので、来世に関する望みなんて、どうにも薄く、ほとんどないかのように思えたのです。しかし、世界を見るにはもう一つの見方があります。イースターを出発点としてとらえ、神が愛する人たちをいかに扱われるかについての議論の余地もない一つの事実として見るなら、人類の歴史の方がそれに矛盾する出来事となり、イースターは究極の現実の前触れとなります。希望が、日々の生活という地表の下を溶岩のように流れるのです。

これはおそらく、復活の日曜日に、鍵をかけた部屋で自分たちの理解を超えた出来事について話し合っていた、弟子たちの視点の変化を説明するものでしょう。ある意味では、 何一つ変わっていませんでした。ローマはなおパレスチナを占領しており、宗教指導者たちからは、なお自分たちの頭に懸賞金をかけられており、死と悪はなお、外の世界を支配しています。しかしながら、それに気づいたことで衝撃を受けた後、徐々に、ゆっくりと、喜びの引き波が流れたのです。もし神にそれがおできになったのなら...と。」

「私はイースターの物語にある一つの細かい点に、以前から好奇心をそそられていました。なぜイエスは十字架刑の時の傷跡を残しておかれたのかということです。おそらくイエスはご自身の望まれるようないかなる体でも復活の時に持てたはずです。それなのに、目に見えるし触れることもできる傷跡によって判別される体を選ばれたのです。それはなぜでしょう。

イースターの物語は、イエスの手と足と脇についた傷跡なしには完結しないと、私は思っています。人は想像力を働かせる時、白く輝いた並びのいい歯や、しわのない肌、魅力的かつ理想的な体型を夢見ます。不自然な状態、つまり完璧な体を夢見るものです。けれどもイエスにとっては、骨格と人間の皮膚に閉じ込められていること自体が不自然な状態でした。そして傷跡は、私たちのこの惑星で生きたことのしるしであり、肉体に閉じ込められ、苦しんだ日々を永遠に記念するものなのです。

私はイエスの傷跡を望みとします。天国の側からすれば、その傷跡は宇宙史上、最も恐るべき出来事を表しています。けれどもそのような出来事にも関わらず、イースターは喜ばしい記憶に変わったのです。

イースターゆえに、私は、私たちが流した涙、受けた打撃、心の痛み、友や愛する人を失うことの悲しみのすべてが、イエスの傷跡と同じように、痛みというよりも記憶として残ると望めるのです。

傷跡はすっかり消えはしませんが、もう痛むこともありません。私たちは新たに造られた体を持ち、天と地も新たに創造されます。そして、新たなスタート、イースターのスタートを迎えるのです。」

「赦しとは信仰による行為なのだ。他人を赦すことによって、自分よりも正義を作り出す神に信頼しているのだ。赦すことによって、対等であるという自分自身の権利を解き放ち、公平に関する問題のすべてを神が成就されるに任すのだ。私は御手の中に、正義と慈悲のバランスをとるはずのはかりを預けるのである。」

「恵みはキリスト教がこの世に与える最高の贈り物であり、復讐よりも、人種差別よりも、憎しみよりも強い力をもつ、私たちのただ中にある霊の新星である。」

セーレン・キェルケゴール(1813~1855年 デンマーク 哲学者 苗字のキェルケゴールは”教会の庭”の意)

「クリスチャンを見ると、算数の問題を自分で解かずに問題集の後ろの答えを見たがる生徒を思い出す。」

「結婚したまえ、君は後悔するだろう。 結婚しないでいたまえ、君は後悔するだろう。」

「しばらく二人で黙っているといい。 その沈黙に耐えられる関係かどうか。」

「私にとって真理であるような真理を発見し、私がそのために死ねるような真理を発見することが必要なのだ。」

「人生とは、前向きに生き、後ろ向きに理解するもの。」

「人生は遡って理解されるものだ。だが、人生は時間を下って生きなければならない。」

「あらゆる人生は反復である。追憶は後方へ向かって反復されるが、本当の反復は前方に向かって反復される。」

「人間を人間たらしめるのは神との関わりである。」

「世間では、愛は人間と人間との間の関係であるというが、キリスト教の教えによれば、愛は人間と神との間の関係であるという。というのは、神が愛の媒介であるからである。」

「自己の存在を神に措定された自分と考えなくては、本当の自分を見出せない。」

「問題解決のためには、《神とあなた一人》にならねばならぬ。神のみことばと取り組まねばそれは語りかけぬ。」

「全世界が崩れるとしても、私が決して手放せない理念、私がそのために生き、そのために死ぬことの出来る使命を私は捜さなければならない。」

「祈りは神を変えるのではない、祈った本人を変えるのである。」

「ある人が祈った。始め、祈りは語るものと考えていたが、終わりにはだんだん言葉数が少なくなってきた。祈りとは聞くことだとわかったのである。」

「人間はなんといっても不合理だ。人間は自分のもっている自由は決して行使しないで、自分のもっていない自由を要求する。彼らは思索の自由を持っているが、表現の自由を要求する。」

「キリスト教は教えられる教義ではなく、生活される命である。」

「自らの挫折の中に信仰を持つ者は、自らの勝利を見出す。」

「臆病の虫に取り付かれると、その人は善きことを行わなくなる。」

「人生は、解かれるべき問題ではなく、経験されるべき現実である。」

「女というのは泣かせてやらなければならない。泣きぬくと、泣くべきものがなくなって、あとはすぐに忘れてしまうものなのだ。」

「圧政者が死ぬ時、その統治は終わる。殉教者が死ぬ時、その統治は始まる。 」

「失望したければ世の中を見よ。絶望したければ自分を見よ。しかし、希望を持ちたければキリストを見よ。」

「亀の肉がさまざまな肉の味わいを持っているのと同じく、結婚もまたいろいろと変わった味を持っている。そして、亀が歩みののろい動物であるのと同じく、結婚もまた足取りののろいものである。」

「木の枝の鳥や、野の百合や、森の鹿や、海の魚、そして喜びにあふれる無数の人々が歌う。神は愛であると! しかし、こうしたあらゆる高音部の根底には、あたかも持続的に流れる低音部があり、犠牲となられた方の深い思いを奏でているかのようだ。神は愛であると。」

ドワイト・ライマン・ムーディー(D.L.Moody 1837-1899 米国 大衆伝道者 ムーディー聖書学院創立者)

「神に完全無欠に自身をささげ尽くした人とともに、またその人のために、その人を通して、その人の内に、そしてその人によって、神がどれほどのことを成すことがおできになるかを、世界はまだ知らない。我、総力を投じ、かくのごとき人とならん。」

「この世の人々は、神がご自身に全く委ねた人を通して何をすることがおできになるかを、まだ知っていない。」

「この本(聖書)はあなたを罪から遠ざけ、罪はあなたをこの本から遠ざける。」

「人は愛しているふりをしたり、信仰があるふりをしたり、希望その他のあらゆる恵みを持っているふりをすることはできますが、謙遜であるふりをするのは非常に難しいものです。」

「私は、いつか電光石火のごとく信仰が私に降りて私を覆うと考え、祈りましたが、信仰はそのような方法では来ませんでした。ある日、私はローマ書10章の『信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる』という箇所を読みました。それで私は信仰が与えられることを祈りました。今は聖書を読み、学ぶ中で信仰はずっと成長しています。」

「主は、何も持たせないで送り帰しません。自惚れている人々を除いて。」

「真の信仰は、自分の弱さを神様の力に頼るものです。」

「私たちの多くは偉大なことを喜んでするが、わずかな者が小さなことを喜んでする。」

「祈る母親が子供に残す影響は一生涯のものだ。おそらくあなたが死んだとき、あなたの祈りが答えられる。」

「百人のうち一人が聖書を読み、九十九人はクリスチャンを読む。」

「多くの人が平和をもたらそうと努力しているが、すでに平和はもたらされている。私たちの出る幕はもうないのである。私たちはただ神が備えた平和の中に入っていけばよいのである。」

「礼拝出席は、豊富で健康な血の輸血が病人に欠かせないように(キリストの)弟子にとっては絶対不可欠である。」

「働き人を壊すのは働き過ぎではなく、聖霊なしで働くことだ。」

「罪の声は大きいが、赦しの声はもっと大きい。」

「もし私が世と共に歩むなら、私は神と共に歩むことはできない。」

「私たちが祈るすべてのことを、神がみさかえなく与えないのは、私たちを愛してくださるからである。」

「聖書は私たちのインフォメーション(情報知識)のためにあるのではなく、私たちのトランスフォメーション(人格・人生変革)のためにある。」

「回心する以前には、十字架に敵対して働いた。しかし、その時から、私は、十字架のもとから働きに遣わされた。それまで、私は、救われるために働いたが、今や、救われたので働いている。」

「多くのことが祈りによってもたらされました。他の人のために忠実に、誠実に、心を注ぐ時間を費やし、とりなすなら、主は特別な愛、平安、祝福を与えられます。単なる義務感ではなく、愛によって忠実に主との時間を取るなら、主は言葉に尽くせないほどの祝福を与えられます。主の御前でそういった時間を取って、御顔を求め、魂を注ぎだし、主が示したいことを受け取る時間を取ったゆえに、主は私の人生をよりよくしてくださったのがわかります。主との時間を取ると、違いは明白です。主との時間をたっぷり取ると、誰もがそれに気づきます。すべて、謙虚さになって表れるのです。私は完璧とはほど遠い人間ですが、どの鏡もそこに映るものを反射させるように、主が私に向かって輝かれたのであり、私はただの主の鏡だったのです。」

「あなたがもし信仰の山上に立って下を見下ろすならば、すべてのものは平らに見える。しかし、疑いの役場から見れば。山は巨人のように見える。」

「私達を自由にしてくれるのはキリストの血だけである。そして、私達をゆるぎない者としてくれるのは御言葉だけである。」

「聖書を学ばずして、なお大いに用いられたクリスチャンを、私は今だかつて一人も見たことがない。もし人が聖書をおろそかにするなら、あまり聖霊の働く余地は残されていない。私達には御言葉がなければならない。」

「この世界が最も必要としている説教とは、イエス・キリストと共に歩いている靴を履いた説教だ。」

「私たちは毎朝人の顔を見る前に神の御顔を見るべきである。」

「神にあなたの人生を持たせよ。神はそれをもってあなたよりもっと多くのことをなせる。」

「有益な者となることを求めよ! あなたの計画を大きくせよ。神があなたのパートナーなのだから。」

「神の御声に喜んで聞き従うまでは何人の魂にも平安はない。」

「もし男が自分の妻を正しく扱うことをしないなら、私は彼がキリスト教について語るのを聞きたくない。」

シカゴの有名な人が、D・L・ムーディーを自分の部屋に迎えた時、「教会の外にいても、その中にいるのと同じように、立派なキリスト者になれると思うのですが」と語った。するとムーディーは暖炉の側に行き、真赤な石炭を1個火箸でつまみ出し、燃えるままにして置いた。二人は黙ってその石炭がくすぶるのを眺めていたという。そしてその紳士は「わかりました」と言い、次の日曜日には教会に出かけたという。

「ハンド・イン・ザ・グラブ」(「手袋の中の手」)。ムーディーは人々の前で一つの手袋を取り出し、それを講壇の上において、語る。「手袋よ、お前には5本の指があるではないか。さあ、この聖書を取り上げるがよい」と。当然、手袋は動かない。次に彼は手袋の中に手を入れてから同じように語り、聖書を高く上げて、言う。「私たちの姿はこの手袋に似ている。どんなに形が整っていても、その内側にキリストの命がないならば、私たちの中に働いてくださる神の霊がないならば、神の心に添った豊かな生き方をすることはできないのだ」と。

D・L・ムーディーというアメリカの有名な伝道者が、説教の途中で会衆に尋ねた。

「このガラスのコップから空気を全部取り出すにはどうしたらいいでしょうか」するとある人が答えた。

「そのコップにふたをして空気を抜けばいいんじゃないですか」

するとムーディーは笑いながら言った。

「そんなことをしたら真空状態になり、コップが割れてしまいますよ。」

そしてやかんを手に持ち、コップに水を注いでこう言った。

「ご覧ください。空気は少しも残っていません。コップを水で満たせば空気はすべて出て行きます。私たちの罪を取り除く方法も同じです。自分の意志で罪を追い払おうとすると必ず失敗します。しかし、聖霊によって満たされるなら、自然に罪が出て行くのです。」

モーセの生涯についてこう言っている。「最初の40年間、彼は自分が何者かであると思っていた。次の40年間、彼は自分が何者でもないことを学んだ。そして、残りの40年間、彼は神が何者でもないものを用いてくださることを見出していった。」

ウィリアム・グラッドストン(William Ewart Gladstone 1809−1898 英国 首相)

「私が考えるすべてのこと、私が望むすべてのこと、私が書くすべてのこと、私の生き甲斐であるすべてのことは、私の哀れで、片意地な人生の中心的喜びであるイエス・キリストの神聖さの上に築かれている。」

「私はこの時代に、偉人と呼ばれる95人の人を知っている。うち87人は、聖書を奉ずる人であった。聖書の特色はその特異性にあり、他のあらゆる書物を、無限に引き離している。」

「我々は、愛の力が力(権力)への愛に取って代わる日を待ち望んでいる。そのとき、世界は平和の恵みを味わうことだろう。」

「財宝も地位も愛に比べれば塵芥にすぎない。」

「女性は最も女らしいときに最も完全である。」

「私からすべてを奪うとしても、信仰を奪うことはできない。」

ジョン・ニュートン(1725~1807 英国 牧師 元奴隷船の船長 アメイジング・グレイスの作詞家)

「あなたがキリストをどう思うかという問いは、あなたの今の状態と将来の計画を知るのに良い問題である。もしあなたがキリストを正しく知っていないならば、他のことにおいても正しくはあり得ない。」

「主が送られるものは、すべて必要なものである。主が与えられないものは、すべて不必要なものである。」

「日々の避けて通りたい出来事のすべてが十字架。」

「説教における私の重要点はかたくなな心を砕いて、砕かれた者をいやすことである。」

「私たちが不敬虔な者を見る時、私たちは彼らを憎む者ではなく、彼らをあわれに思い、彼らのために嘆き、彼らのために祈る者である。彼らに対して威張る権利など持ち合わせてもいないし、私たちは生来自分自身彼らに優るものではない。」

「私はあるべき自分ではないし、あればよいと願う自分ではもないし、ありたいと望む自分でもない。しかし、神の恵みによって私はかつての自分ではない。」

「薄れかける私の記憶の中で、二つだけ確かに覚えているものがある。一つは、私が大罪人であること。もう一つは、キリストが偉大な救い主であること。」

「自身は偉大なことをなすことを好む。だが、恵みは主のために偉大な霊をもって小さなをことをなすことを私たちに教える。」

レフ・トルストイ(1828~1910 ロシア 小説家、思想家)

「主の全働きを理解することは、私の力の及ぶ限りではない。しかし、私の良心に記されている主の御心を行うことは、私の力の及ぶところである。そして私は、そのことを、一点の疑いもなく知っている。また私がこれを行う時、その時私は、疑いもなく心が安らぐ。」

「だれもが人類の人間性を変革することを考える。だが、だれも自分自身を変えることを考えていない。」

「敵を取り除くためには、敵を愛さなければならない。」

「すべての人は、それぞれ何をもっているかではなく、他の人々に愛をもっているかによって生きる。」

「真の信仰とは、何曜日に精進ものを食べ、何曜日に教会へいって、どんな祈りをささげるか、ということを知ることでなく、つねにすべての人を愛して、正しい生活をいとなみ、つねに自分にしてもらいたいと思うことを隣人にしてやることである。ここに真の信仰がある。ほんとうの賢人、またあらゆる民族の聖者たちはすべて、つねにこの信仰を教えてきたのである。 」

「罪を犯すのは人の所業で、その罪を正当化するのはサタンの所業です。」

「人間が幸福であるために避けることのできない条件、それは勤労である。」

「愛は人間に没我を教える。だから愛は人間を苦しみから救う。」

「富は糞尿と同じく、それが蓄積されている時には悪臭を放ち、散布される時には土を肥やす。」

「人々は愛によって生きている。だが、自己に対する愛は死の初めであり、神と万人に対する愛は生の初めである。」

「愛の感情は、他人の幸福のために自分の肉体上の存在も極端に犠牲にすることさえある。人生のすべての矛盾を解決して、最大の幸福を与える感情は愛である。」

「愛は惜しみなく与う。」

「家庭の状態をよくし得ない女は,家にあっても幸福ではない.そして家にあって幸福でない女はどこへ行っても幸福ではあるまい。」

「時は過ぎ去るけれども,ひとたび発せられた言葉は,永久にあとに残る。」

「人類はいまだかつて宗教なしに生きてこなかったし,また生きてゆけない。」

「人生の中には一つだけ耐え忍ぶ幸福というものがある。人のために生きることである。」

「謙遜というものは自分を罪深き人間と認めて、自分の善事善行を自分の徳に帰せしめないことである。」

★『トルストイの人生の十訓』

1.働くために時間をつくりなさい。

それは成功の代価です。

2.考えるために時間を作りなさい。

それは能力の源です。

3.運動するために時間を作りなさい。

それは絶えず若さを維持する秘訣です。

4.読書するために時間を作りなさい。

それは知恵のみなもとです。

5.親切をするために時間を作りなさい。

それは幸せへの近道です。

6.夢を見るために時間を作りなさい。

それは希望を抱くことです。

7.愛し、愛されるために時間を作りなさい。

それは救われたものの特権です。

8.周りを見る時間を作りなさい。

自分勝手に生きるには短すぎる一日です。

9.笑うために時間を作りなさい。

それは魂の音楽です。

10.祈るために時間を作りなさい。

それは人生の永遠の投資です。

オリゲネス(182?~251 ギリシャ 古代キリスト教最大の教父)

「悪魔とその軍勢が破壊されたのは真実であるのに、神の僕たちに対して悪魔がかくも強力だと、なお信じているのはどういうわけか。」

「高すぎる理想への途上で死ぬほうが、全然出発しないよりはましだ。なぜならその生きた過程はとても充実していたはずだから。」

オズワルド・J・スミス(1889~1986 カナダ 牧師 伝道者 著述家)

「クリスチャン生活は、内住のキリストを外に表わすことです。キリストが御霊の満たしと力によって内住されるときだけ、あなたの外なる生活はあるべき姿になるのです。」

「かつて私は聖霊を用いようとし、今は聖霊が私を用いてくださる。」

「長い間、私は一つのモットーを採用してきました。それは実に簡単なモットーです。『攻撃せず、防御せず』です。私はこのモットーを他の伝道者に分けて差し上げたことがあります。彼らはそれが実際に通用することを学んだのです。私は個人的に他人を攻撃したことはありません。そして攻撃されても、自分自身で防御したこともありません。私は問題をすべて、神にゆだねるのです。」

「私たちは再臨(主が再び来られること)のことを語りますが、この世の半分は初臨(主が初めて来られたこと)のことをまだ聞い.たこともありません。」

「今日世界には、ただ二つのグループがあるのみです。すなわち神のみまえにおける有罪の者と無罪の者、救われた者と失われている者、罪人と聖徒の二つのグループです。あなたもわたしも、どちらかのグループに属しています。あなたはクリスチャンであるか、そうでないかのどちらかです。」

「おお神よ、私の人生のためにあなたのご計画を ! 母国にいようと海外にいようと私が心満たされ、幸せになりますように。妻を持とうと独身であろうとも、幸せの時や悲しみの時であろうとも、病める時も健やかなる時も、富める時であろうと悩みの時であろうとも、あなたのご計画を ! おお神よ私の人生のためのご計画を ! 神よどうしてもご計画を与えて下さい。」

ブラザー・ローレンス(本名:ラウレンシオ 1611~1691 フランス 修道士)

ブラザー・ローレンスは、神への愛のためなら何でもしようとした。彼は臨終にあたって、こう言った。

「私は死んでも自分の仕事を変えるつもりはありません。私は今まで、地上で四十年間神を礼拝してきました。そして天国に着いたら、今していることをそのまま続けるつもりです。」

「私たちの聖化とは、私たちがすることを変えることによるのではなく、ふつう私たちが 自分のためにしていることを、神のためにすることによるのです。・・・私の発見した神に近づく最上の方法は、神に従う生活の中で与えられたふつうの仕事を、私たちのうちにひそむ人間的な要素から遠ざけつつ、できる限りをつくして純粋に神を愛するために行う事です。」

「神の宝庫は、ちょうど果てしない大海のようなのに...私たちは盲目であるためにこれに気ずかず、神を妨げていることも知らず、恵みの激流を阻止しているのです。」

「おおよそ、この世界にあっては、常に神と交わる生活よりもうるわしく、また楽しい生活はほかにはありません。」

「神と共にいるためには、いつも教会にいなければならないというのではありません。(もちろん、礼拝堂で主を礼拝し、祈ることは、なにより大事なことです)...私たちの心を礼拝堂として、おりおりに神の御前にしりぞき、柔和に謙遜に、また愛を持って神との語り合いを持ち続けることです。」

「私たちのこの地上での任務は、神をほめたたえることだけであることを繰り返し思い起こしましょう。」

「私たちは神を何よりもまさって愛すべきです。いつも絶え間なく神を思い、全く信頼しましょう。」

「私は神への愛のゆえに、フライパンの小さなオムレツをうらがえします。それが終わって何もすることがなければ、私は床にふして私の神を礼拝し、オムレツを作る恵みを与えてくださったことを感謝し、それから王よりも幸福な気持ちで立ち上がります。...すべてのことを神を愛する愛のためになし、生活の必要の中で果たすべき自分のあらゆる務めを通して、その愛を神に示し、神と心を通わせることによって自分のうちに神の臨在を保つことの方が、もっと近道ではないでしょうか。複雑なことは何もありません。率直に単純に、それに向かって行きさえすればよいのです。」

「理解することや語ることよりもむしろ心から、愛から生じるものでなければなりません。神の道では、考えることはあまり価値がありません。愛がすべてのことを成し遂げます。大きなことをする必要はありません。」

「仕事をする間も祈りの時と異なりません。台所の騒がしい中に、数人の人から同時にいろいろな違ったものを要求されても、私は聖餐式に座している時と同じような静けさの中に神を所有しています。」

「私たちは何をするにも、全てのことを主に相談する習慣を作らねばなりません。そのために、神と絶えず語り、自分の心を神に向ける努力をしなければなりません。これは、少し努力することにより、ただちに神の愛がうちに働いて、何の困難もなくその習慣が身についていきます。」

「私は、絶えず愛によって支配されてきました。それ以外のことに関心はなく、自分が失われるか救われるかについても、心をわずらわすことはありませんでした。」

「私の行動のすべての目的は、神を愛することであり、それで十分満足でした。神を愛するためなら、一本のわらを地面から拾いあげることさえ喜びでした。」

「私は神がしばらく楽しい時を与えられた後には、苦しみと悩みの時を与えられることを予期しています。そして、神はそれに耐える力を与えて下さることも知っており、自分では何もできないと、よく分かっていましたので案ずることをしませんでした。」

「また私が何か良いことをする機会が与えられた時、いつも『主よ、あなたが能力(ちから)を与えて下さらないなら、この良いことができません。』と申し上げると神は十分な能力(ちから)を下さいました。」

「私が自分の仕事に失敗したときには、この過失を神に告げて、『私一人でこのことをなすようにされるなら、失敗するほかはありません。私が失敗するのを防ぎ、よくない所を正して下さるのはあなたでなければなりません。』と申し上げて、それからはその失敗のことを思い煩いませんでした。私たちはできるかぎり単純に神と共に行動し、素直にしかも明確に、その度ごとに神に語り、神の助けを求めなければなりません。神は必ず助けを与えてくださいます。私は何度もそれを経験しています。」

「愛なる神は私を決して見捨てられないこと。また、たとい私の上にいかなることが起こっても、神の許される以上いかなる災いにも耐え忍ぶ力を与えてくださるのを信じております。」

「祈りとはただ神のみ前にあること。たましいが愛のみにみたされることです。」

「私は、言葉数が多い祈りは勧めません。長く論じるような祈りの場合、度々さすらうものになります。」

「私はこの世に神と私以外の誰もいないかのように生き始めました。すると時に自分を神のさばきの前に立つ哀れな罪人のように感じました。しかし、やがて、自分の心で神を、『私の父、私の神』と見ることができました。私はできる限り、私の心を神の聖なる臨在に向け、心がさまよってもいつもそこに戻るようにしました。」

「私たちは、泣きわめく必要はありません。なぜなら、私たちが思うよりも、主は私たちに近いからです。」

「すべてのことに神の臨在を感じ、すべてのものが神からの賜物であると考えれば、どんな苦痛や大変な状況であれ、神に頼ることができます。」

「主よ、あなたが助けてくださらなければ、私はいつも同じことをし続ける弱い者です。」

オズワルド・チェンバーズ(Oswald Chembars 1874-1917 英国 牧師、聖書学校校長、巡回伝道者)

「礼拝とは、神から与えられた最善のものを、神にお返しすることである。」

「私たちが神と一つになるまで、神は私たちを孤独なままで置き去りにされることはない。」

「経験の豊富のいかんを問わず、労をいとわずに、神とともにいる十分な時間を持たないなら、信者が神と正しい関係を保つことは不可能である。たとい他のことはおろそかになっても、神をおろそかにしてはならない。」

「あなたが神を畏れるとき、他の何も恐れる必要はありません。もしあなたが神を畏れていないのなら、他のすべてのものを恐れているからです。」

「何かをすることのほうが、神に信頼するよりはずっと易しい。私たちは、神を信じようとはせずに、神のために働こうとする。それなら、私にできないことを神がしてくださると信じているだろうか。」

「神から来る救いとは自分自身から完全に救い出されるという意味である。」

「神は決して脅さず、サタンは決して警告しない。」

「相手から正義を期待してはいけません。しかし、相手に正義を与えつづけなさい。どんなものにも、イエス・キリストを通して築く人間関係をまずくさせる隙を与えてはいけません。」

「自己憐憫ほど悪質な罪はない。それは、神を否定し、自己を王座にすえるからである。」

「主は私に規則を与えておられない。しかし、ご自分の基準は明らかになさっている。もし私と主との関係が、愛に基づいているなら、私はためらうことなく、主のおっしゃることをする…もし、ためらうのなら、私が主と競合する別の誰かを愛しているのだ。はっきり言うなら、それは自分自身だ。」

「私たちに必要なのは何かをすることではなく、信じることです。」

「私の意識の中に深く浸み込む心配ごとは、私の心から神様を追い出します。神様と共に歩むことを妨げることは、大きな出来事ではなく、つまらなく小さな心配ごとです。」

「キリスト教において一番土台になるものは赦すことで、自分の聖化やきよさに先立ちます。聖書が語る偉大な赦しの背後には最も険しかった十字架があります。」

「従順もせずに神様について語らないでください。私たちの神知識は神様に従うことと比例します。」

「信仰は、どこへ導かれているかは知ることができませんが、導くお方がどなたであるかが分かり、またそのお方を愛するようにします。」

「私たちの主は、平凡で低い者を取り上げて、高潔できよい者としてくださいます。毎日繰り返される普通の生活を高潔なものとしてくださいます。福音の力は、日常の生活の中で一番美しく感謝すべき主の御手を味あわせてくれるものです。」

「私たちは愛したいことだけを愛します。それは、快いからです。しかし、神様は愛したくないことまでも愛してくださいます。それで、主の心はいつも裂かれています。」

「体験の上に置いた信仰は、歯痛や消化不良、失敗、事故、悲惨なことなどで揺るがされますが、全能なる神様と主イエス・キリストの十字架に置いた信仰は少しも揺るがされることなく、安全です。」

「信仰の理想的な姿勢は、私たちが神様のために働くのではなく、神様が私たちのために働いて下さるようにすることです。神様は御子を用いられたように私たちも用いることを願っておられます。」

「神様が私たちに人々の欠点を示してくださる場合、私たちはその知識で彼らを非難するのではなく、彼らのためにとりなすものとして使わなければなりません。」

「私たちの考え方はどの方向に向いているだろうか。神様が言われることに向いているだろうか、それとも自分が恐れている事に向いているだろうか。」

「イエスの弟子というのは、生活の中で神との関係にもっぱら集中するということ、そして他のすべてのことについては心配しないように用心しておくということです。」

「人生をありのままで生きると、誰でも自己中心的な者になります。自己中心的な者になってしまうと、誰でも神様と交わることができなくなります。」

「試練は人を弱くするものではなく、その人がどんな人であるかを教えてくれるものです。」

「いつも”神様が私をここに遣わしている”と信じなさい。私たちが見上げるのは神様であって、自分の能力ではないからです。」

「奉仕そのものが偶像となって、奉仕のために必死に働くことは、かえって信仰生活において弊になります。神様に用いられる人は、いつも主の教えと愛のうちに留まっている者です。」

「私たちの主は、平凡で低い者を取り上げて、高潔できよい者としてくださいます。毎日繰り返される普通の生活を高潔なものとしてくださいます。福音の力は、日常の生活の中で一番美しく感謝すべき主の御手を味あわせてくれるものです。」

「祈りの核心は、応答に心奪われるのではなく、主イエス・キリストを掴むことです。」

「私たちのうちに神の御子が現されるために、自分自身を訓練すべきである。それは、人生のただ一つの目的が、神の御子が現されることにあるからである。」

「私たちは、原因にではなく結果を強調しようとする危険がある。信じることによって救われるのではない。信じることによって救われていることに気づくのである。悔い改めが救うのでもない。悔い改めは、神がイエス・キリストにあって何をしてくださったかに気づいたことのしるしである。自分の従順、献身によって神と正しい関係になれると考えてしまう。とんでもない。神と正しい関係になれるのは、何よりも先にキリストが死んでくださったからである。」

「イエスに従うときに、だれでもその人生にまつわりつくあらゆる束縛を打ち壊すことができる。」

「人生の中で本当に大切な質問は、すべてイエスのこの言葉の中にあります。『わたしのもとに来なさい』。 もし、私がイエスのところに帰りさえすれば、私の現実の生活と、 私の本心の願いとの間に、調和を見いだすのです。」

「私たちが福音の力に限界を覚えるのは、キリストが全能者であることを認めていない、過去の信仰体験は握っていても、イエス・キリストに自らをゆだねていないからである。困難に出会うと、深みに下っていき、自分で水を得ようともがく。しかし、あなたの井戸がどんなに深くても、すべての努力を捨てて、主を仰げ。」

「真理を明かされた後では、あなたは再び以前の自分には戻れない。真理が新しく開かれるたびに、あなたは、今まで以上にイエス・キリストの真の弟子として歩み出すべきである。さもないと、あなたは脱落者となる。」

「謙遜とは、神を心の王座に据えることによって、自己をそこから撤去することである。」

「私たちは、祈るとき、目を困難に注ぐのではなく、神に注いで祈らなければならない。」

「打ち壊され、元に戻せない過去は神のみ手に委ね、このお方と共に、打ち負かされることのない未来に向かって、歩みだすのです。」

「自分が解放されることを求める信仰は、神に対する信仰ではない。“信仰”というのは、私が目に見える姿で解放されようがされまいが、“神は愛である”という自分の信念にひたすら固着することなのだ。」

「自分が何もできないところへ至れ。そこは神が何でもしてくださる所だから。」

「あらゆる悲しみ、苦しみ、不公正を神があなたに直接はっきりと解き明かされる時が来る。」

「永遠のいのちとは、時の長さとはなんの関係もない。それはイエスが地上にあって生きられたいのちのことである。いのちの唯一の源は、主イエス・キリストである。」

「全能の神の御霊が働かれるのだから、誰も『私にはできない』と言ってはならない。」

「私たちは困難にではなく、神に目を留めて祈らなければならない。」

「神の聖徒として、悲しみや困難に対する私の態度は、それが避けられるよう求めるものであってはならない。むしろ、悲しみという炎をくぐりながらも、神が私を創造する際に意図された存在であり続ける[あるいは、そういう存在になる]ことができるように、神が自分を守って下さるよう求めるべきである。」

「私たちは、艱難や苦しみ、迫害を、避けよう、抵抗しようとしますが、そうしたものこそ、私たちに豊かな喜びを生みだすものです。普通の泳者は怖がるような巨大な波こそが、その波に乗ったサーファーにはものすごい興奮をもたらします。私たちは主によって、これらすべてのことにおいて「勝ち得て余りがある」のであり、それも、そうした苦難にかかわらず、ではなく、そうした苦難のさ中にあってこそ、『勝ち得て余りがある』のです。聖徒は、艱難にかかわらず、ではなく、艱難のゆえに、主の喜びを知るのです。」

「聖徒はどこから喜びを得るのでしょうか? 誰かよく知っているクリスチャンがいないなら、クリスチャンというのは、見たところ、何の重荷も負っていない人のように見えるかもしれませんが、私たちの目をおおうベールを取らなくてはいけません。彼らの内に神の平安や光や喜びがあるという事実こそ、そこには重荷もあるという証拠です。神が私たちに負わせる重荷は、私たちの人生でぶどうを絞り、ワインを造ります。しかし、私たちの多くは、ワインだけを見て、重荷は見ないのです。地上の、また地獄のどんな権力も、生きる霊の内に神の霊が生きていることを打ち負かすことはできません。神の霊は内に不敵さを創り出します。あなたの人生が「wine(ワイン)」ではなく、『whine(愚痴)』を製造しているなら、その『whine(愚痴)』を容赦なく追い出しなさい。神の力にあって弱いのは、クリスチャンにとって全く罪なことです。」

「神は私たちの計画を気にしておられません。神は、『あなたは愛する人を失いたいか? この困難やこの敗北を味わいたいか?』とは聞かれません。そうではなく、神はご自身の目的があってこれらのことをお許しになるのです。私たちが忍ぶ試練は、私たちをもっと思いやり深く、より良い、立派な人間にするか、あるいはもっと批判的で、あら探しばかりで、頑固な人間にするかのいずれかです。私たちに起こる出来事は、私たちを悪人にするか、もっと聖人に近くするかのいずれかであって、どちらになるかは完全に、神との関係や親密さの度合いによるのです。」

「ある人々は、イエスが社会を変革するためにこの地上に来た、と言う。ナンセンスだ!我々が社会の変革者なのである。イエスは我々を変革するために来られた。しかし我々は、自分たちのなすべきことを彼に押し付けて、責任を回避しているのである。イエスは我々を変革し、あるべき姿に戻してくださる。そのときイエスの持っておられる力がただちに我々を社会の変革者に作り変える。そしてその力が我々の具体的な生活の現場で力強く働くようになるのである。」

ヨハン・セバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach 1685~1750 ドイツ 作曲家 音楽の父)

「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現わされ、人の魂が再生されることでなければならない。」

「音楽は神の創造の秩序に基づいて作られたとき、それは美しく響く和声を有し、瞑想的で、神の心に適う。」

「私たちは苦しみを悲しんではならないのだ。この苦しみは、私たちの苦しみをすべて背負われた主イエス・キリストに近づくためのものなのだ。」

「私は書かれた通りに演奏する。しかし、音楽を創られるのは神である。」

「祈りの音楽のあるところにはいつでも神とその恵みが臨在したもう。」

アラン・レッドパス(Alan Redpath 1907-1989 英国 牧師、伝道者)

「私たちが今日必要としているのは、もっと多くの真理ではない。すでに知っている真理に服従することである。」

「絶えず力の根源につながっていること、これがキリスト者経験です。そのような経験をしているキリスト者はあすのことを思い煩うことはありません。彼は今日神の恵みを享受するために生きているのであり、その同じ神が、あす再び会って下さることを期待しているのです。 」

「天の御国が来ますようにと私たちが祈る前に、私の王国は消え去るようにと祈らなければなりません。」

「神様は不可能なことを行うとき、それができない人を選んで、彼を驚がくさせます。」

「魂の救いは一瞬の奇跡だが、聖徒は一生をかけて造られる。」

「クリスチャン生活は主の恵みと力が生活を支配 するよう神により頼んでいく聖なる瞬間、瞬間の連続である。」

「悪魔のときはいつも明日である。神のときはいつも今日である。」

「霊的勝利のための唯一の基盤は、すべての生まれつきのままなるものが十字架にかけられたことであり、また、霊的力のための唯一の基盤は、単なる自我的なものをすべて否定することである。・・厳然たる事実は、聖さを求めている多くの者たちが、勝利を得るための代価を払おうとしていないということである。肉と霊との間には共通するものがなく、互いに相反するのである。それにもかかわらず、あなたは古い生活と新しい生活とを一緒にしようとし、古い性質と新しい性質とを結び付けようとしている。実は、神は古い人に死の宣告をなされたのである。主は肉に力を注ぐことはなされない。主が肉、すなわち、自我に要求されることは十字架である。」

「あなたは主を喜んでいる人を見かけると『あの人が喜んでいるのは、まことに結構なことだが、私のもっているような問題は何ひとつないのだ。彼には悩みなどないのだ』とおっしゃることでしょう。 しかし、本当にそうでしょうか。あなたがちょっとその人の生活の内側を見るのなら、『喜びがあるということは、悩みがあることの印』であることを発見することでしょう神が私達の人生に与えられる重荷は、ちょうど、ぶどうが摘まれ、押しつぶされるようなもので、ぶどう酒はそのようにしてできます。私達はたいていぶどう酒の喜びを考えるだけで、その喜びの裏に試練の重圧があることに気がつかないのです。」

「いかなる状況も、困難も、試練も、それが何であろうと、まず神とキリストの元を通過せずに、私の所に直接やって来ることはない。もしも、私の元までわざわざ来るとするなら、その時には理解できなくても、それは大いなる目的をもってやって来たのだ。しかし、私はうろたえることを拒絶し、目を神に向けて上げ、それが、神の御座から、私の心に祝福となる大いなる目的をもってやって来たという事実を受け入れるなら、どんな悲しみも、もはや心をかき乱すことがなく、どんな試練も、私を悩ますことはない。なぜなら、主がどんな方であるかという喜びに、私は安心しているから。これこそが信仰の勝利だ!」

J・I・パッカー(1926年~ 英国 牧師、神学者)

「私たちは何のために造られたのだろうか。神を知るためである。人生の目当てを何とすべきだろうか。神を知ることである。イエスがお与えになる『永遠のいのち』とは何だろうか。神を知っていることである。神は、人間のうちにある何を最もお喜びになるだろうか。ご自分を知っている状態である。」

「もしあなたが『なぜこのこと、あのことが起ったのですか』と尋ねても、何の光明も見いだせないでしょう。なぜなら、『隠されていることは、私たちの神、主のものである』(申命記29:29)からです。ところが、『私がいる今この場で、どのように神に仕え、栄光を現わすことができるのでしょうか』と尋ねるなら、必ず解答を見いだすのです。」

「キリスト教伝道者達は、地獄について述べるべきである。それは彼らの任務の一部である。・・・伝道者達は彼らの隣人の不信者への救助布教の為にいるのである。そして誠実な者として、キリストから離れたらどのような危険が彼らに伴うかを説明する事を、率直に引き受けるべきある事は、当然な、そして必要な事である。・・・イエスと使徒達によると、個人の命は、身体の死後も継続する、そしてこの世でキリストを信じない人達の将来は、最悪で最も恐ろしいこととなる事、そして全ての人は、その事を告げられるべきである。」

「神を見るのに、望遠鏡の反対側から見ているから、神がピグミー族のように見え、したがって結局は自分がピグミー的クリスチャンになってしまうことしか望めないのである。」

「神のことを黙想することほど、人間の思いを謙遜にさせるものはありません。・・・神を思うことは、心を謙遜にさせるだけでなく、心を広大にするものです。」

「人間の罪の法則は、・・・栄光は神にではなく、自分のものです。・・・これは私たちの高慢の一面です。それを私たちは虚栄と呼びます。虚栄心に満ちた人は、自分の容姿、肉体美、衣服、技能、立場、影響・・・を見せびらかし、拍手喝采を期待します。しかしもし人々が自分にこびへつらわず、行動に感銘を受けないとくやしがり、傷つくのです。・・・円熟したクリスチャンは自分に栄光が帰されることに満足するのではなく、人々が神に栄光を帰さないことに心を痛めます。」

「私たちが罪を犯し続ける理由は、人間が生まれつき罪人であるからであり、私たちが自分のために行う、あるいは行おうとするいかなることも、自らを正当化することはできない、あるいは、神の愛顧に連れ戻すことはできないと言うことを告げる。福音は、神が私たちを見られるように私たちを私たち自身に示し、神が私たちについて持っておられるような考えを、自らについて持つように教える。福音はこうして私たちを自らへの絶望に導く。」

「罪を自覚するということは、自分をあらゆる面での失敗者であると感じることだけではなく、自分を、神に背き、神の権威をないがしろにし、神を無視し、神に敵対するようになり、神との関係を損なってしまっている者と理解することを意味するのである。」

「神は物事の中心にあり、私たちは神の栄光のために存在しているのだということを認めなければいけません。つまり、私たちが神のために存在しているのであって、神が私たちのために存在しているのではない、ということです。そして、何にもまして重要な方である神の栄光をあらわそうと決めた時に初めて、クリスチャンであることがもたらすあの喜びと充足感にあずかるようになるのです。」

「われわれが、神のことを何も知らずに、神が造られ、神が支配しておられる、この世に住むことは、どんなにわれわれにとって悲惨なことでしょう。神を知らない人にとって、この世は見知らぬ所、気の狂いそうな所、苦しい所となり、この世での生活は失望させるもの、不幸なものとなってしまいます。神について学ぶことを無視するなら、あなたはあたかも目の見えない人のように、どちらへ行ったらよいのかわからず、自分の周囲のことについて何もわからず、人生につまずき、うろたえなければならなくなります。こうして、あなたは、あなたの人生をむだにし、あなたの魂を失ってしまうのです。ですから、われわれは神について学ぶことの意義を認め、それを始める準備をしなければなりません。しかし、どこから始めたらよいのでしょうか。はっきりしていることは、われわれが現在いるところからしか、始めることができないということです。」

「人間が作られる前の神は、人間がいなくとも幸福であられた。人間が罪を犯した後、あっさり人間を滅ぼしたとしても、神は幸福のままであり続けたであろう。だが、実際には、神はご自分の愛を特定の罪人たちに寄せられた。つまり、ご自分の価なしの自発的な選択によって神は、特定のその罪人たち全員を天国に導き入れるまで、完璧で混じりけのない幸福を再び感じたいとはお思いにならないということである。実質的に神はこう決意されたのである。これ以後、未来永劫に、わたしの幸福はこの者たちの幸福によって左右されるようにしようと。…だからこそ、ひとりの罪人が悔い改めるとき、御使たちの前では喜びが(神ご自身の喜びが)わき起こるのである(ルカ15:10)。また、だからこそ、最後の日に、神が私たちを傷のない者として聖なる御前に立たせてくださるときには、「大きな喜び」があるのである(ユダ24)。そのような考え方は理解を超えており、ほとんど信じがたいほどである。だが、疑いはない。聖書によれば、それこそ神の愛である。」

1. 神は変わらない。 神は年を取らず衰えない。神は良くも悪くもならない。神は霊であって、神を変え得るものはない。

2. 神の性質は変わることがない。 神は聖なる方である。神は愛である。神の正しさと厳しさを見よ。

3. 神の真理は変わらない。 だから、全てのことに関して、教えられている聖書の教えを信じるのである。

4. 神の方法は変わらない。 神は永遠の昔より選ばれた罪人を救われ、その他の者を通り過ぎられる。

5. 神の目的は変わらない。 歴史は移り変わるが、神は神の民を救われる。それを神の栄光のために行われる。

6. 神の御子イエス・キリストは変わらない。 イエス・キリストは、昨日も今日も永遠に変わらない。ヘンリー・ライトは書いている、「すべてが、変わり果てて、腐っていく。しかし、主なる神は決して変わることがない、その主は我と共におられる。」。

ロバート・マーレイ・マクシェーン(1813~1843 英国 牧師、宣教師)

「神の前にひざをかがめるのは人間以外にいません。それが人間であり、それ以上のものではありません。」

「クリスチャンとは他者に神を信じやすくしてあげる人のことです。」

「もしキリストが隣室で私のために祈っておられるのを聞くことができたなら、私は無数の敵をも恐れまい。距離が重要なのではない。彼は私のために祈っておられる。」

「キリストのためにキリストを説教するまで、自分自身に人を惹きつける努力を放棄して、ただキリストに彼らを惹きつけようとするまでは、人は忠実な教役者になることはできない。」

レテー・B・カウマン(1870~1960年 米国在日宣教師)

「人生はダイヤモンドではなく、成長の無限の可能性を秘めた種子である。」

「人生最大の損失は、信仰の喪失です。」

「信仰は、しがみつくことではなく、明け渡すことです。」

「天を持つ者は地をも持ち、天を失う者は地をも失う。」

「夜、床に着く時、あなたは、ベッドが壊れるのではないかと一晩中心配したりしません。落ちるのではないかと心配して、何かにつかまったりもしません。そんなことをすれば、ほとんど休めません。そうではなく、あなたは、単にベッドに身を任せて、ただ休みます。それと同様に、私たちもイエスにすっかり身を委ねて、『神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休』むべきです。『わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。 』 なぜでしょう。それは、誰か他の方が私たちに代わって[わざを]して下さるからです。神は私たちに、委ね、神と神の言葉に信頼するよう求めておられます。すべての必要について信頼し、心をつくして信頼し、絶えず信頼し、‥‥すべて委ねるのです。そして、すべてを委ねたなら、あとは神の言葉に信頼するのです。」

A・J・ゴードン

「栄光の冠の最高入札者は、最も卑しい自己犠牲の十字架を担うものである。」

「我々は福音を説くか、化石になるかである。」

「私は不完全を志してこれに到達するよりも、むしろ完全を志してもなお到達できないことを喜ぶ。」

「神と交わる本当の1時間は他のどんなことをする人生よりも尊い。」(ウォータベリー)

「キリストはあらゆるものの代わりになるが、キリストの代わりになるものは何もない。」

「私たちの言葉と実生活が一致しない場合、私たちの証しはたいしたことにはなりません。」

「若い紳士たち、サタンは兄弟たちの告発者です。このような汚れた働きはサタンにさせておきなさい。」

ある日のこと、そのムーディー教会のハリー・アイアンサイド牧師のもとに一人の若い女性がやって来て言いました。「私は完全な教会を探し歩いています。そして見つかったらそこに所属したいと思っています。」ハリー牧師は答えました。「きっとあなたはずっと探し続けることになるでしょう。見つけることができるとは思えません。もし万一見つかったとしても、あなたがそこに所属したら、その教会はもはや完全ではなくなるでしょう。なぜならあなたがその教会の一員なのですから。」ハリー牧師は特にこの女性を責めたわけではありません。教会は罪赦された罪人の集まりですから、完全な教会などありえないと言いたかったのです。

「聖書は講壇で朗読するときの速度で読めば創世記1章から黙示録22章まで78時間しかかかりません。」

「私にとってこのヨハネの福音書3章16節は説教することが大変難しい聖句である。私はこの聖句を通して皆さんにお話することは不可能だ。」

「我らがリバイバルを作り出す事はできない。神から聖霊が送られる時、我らはキリストの弟子にふさわしい高さにまで引き上げられる。つまり、その聖さは我らの努力によるのではない。我らを新しく再創造するのはただ聖霊のわざによるのみである。」

「あなたのために祈ってくれる人々に説教することは、なんと幸せなことだろう。」

マックス・ルケード(Max Lucado 1955- 米国 牧師、ベストセラー作家)

「信仰とは、あなたが求めていることを神がしてくださると信じることではない。信仰とは、神が正しいことをしてくださると信じることだ。」

「信仰とは、神がこの人生についてぼくたちよもよくご存知で、ぼくたちが生き抜けるように助けてくださると確信することなのだ。」

「信仰は暗闇の中で夜明けを待つ、さえずる鳥のようなものです。 」

「神は、ご自分のひとり子を見捨てても、あなたを見放すことはない。」

「十字架につけられる前夜、イエスは心を決められた。主はあなたのために地獄に行くことさえ願われたのだ。あなたのいない天国に行くくらいなら、と・・・。」

「あなたの目はあなたの過ちを見る。あなたの信仰は、あなたの救い主を見る。あなたの目はあなたの罪を見る。あなたの信仰は、主の血を見る。」

「天においては、日曜日の朝も、水曜日の午後も同じです。神は仕事場でも教会においても同じく語り、聖餐式の時も夕食の席でも神をたたえることを望んでおられる。」

「人の真の姿を知りたいと思ったら、その人の最後の旅をじっくり眺めることだ。人の死に方をみれば、その人のことがよくわかる。そして、イエスの死に向かう歩み方は一点の疑わしさも残さない。イエスは、この瞬間のために地上に来られたのだ。」

「この世でのあなたの期待を下げてください。ここは天国でもなく、天国であってほしいとも思わないでください。」

「この世で私たちが恐れることは全くありません。永遠に対する大きな疑問に答えることができれば、人生の小さな疑問には心配することはなくなります。」

「私は、今日の24時間をありがたく思うことでしょう。時間は貴重なものです。私はこれらの時間を、自己憐憫、心配、退屈などで汚染させず、この日を子どものように喜び、巨人のように勇気をもって過ごすことでしょう。」

「この世が故郷だと思うことは、クリスチャンにとって唯一の最後の災害です。」

「恵みとは、無限の神がすでに私たちにありったけの愛を注いでおられるということである。」

「神の仕事は戦うこと。ぼくたちの仕事は信じてゆだねることだ。ひたすら信じること。ああしてください、こうしてくださいと指図したり、疑問を抱くこともなく-。ぼくたちの務めは、祈って待つことなのだ。」

「悪い王の代名詞であるマナセが祖父、アモンが父親であったヨシヤ王は、ダビデのように生きることを決めました。私たちも自ら親を選ぶことはできませんが、どのように生きるかは決めることができます。」

「私たちは偶然生まれたのでも、大量生産されたものでも、組み立てラインを流れてできたものでもありません。私たちは、大いなる主が慎重に計画し、特別な賜物を授け、愛を込めてこの世に送り出した者です。」

「御子イエス・キリストを十字架にかけたのは釘ではなく、愛です。」

「神様は私たちをありのままで受け入れ、愛しておられます。しかし、ありのままで放っておくことはなさいません。なぜなら、神様は私たちが変わることを望んでおられるからです。」

「神様の助けは近くにあります。ただし、その助けは求める者にだけ与えられます。」

「真の謙遜は、自分を無視することではなく、自分のことを正確に把握することです。”何もできない”のではなく、”勿論すべてはできない。しかし私は自分ができることを誠実に行う”ことです。」

「何か考えるときにはまず主を思い出し、何か忘れるときがあっても主を忘れないようにしなさい。」

「私たちが望むように神さまが動いて下さらない時、納得するのは簡単ではありません。それは、これまでもそうだったし、これからもそうでしょう。信仰とは、神さまが私たちよりも多くをご存じであり、私たちがそれを乗り切れるようにしてくださると、確信することです。期待通りにならないと人は失望し、新たに与えられた希望によって失望が癒されるのです。うろたえず、あきらめず、忍耐するのです。主権は神さまにあります。本当の終わりがくるまでは、終わらないのです。」

「私たちは神に話をすることができます。神が聞いておられるからです。御国で私たちの声は大切に扱われます。神は私たちの声に真剣に耳を傾けてくださいます。神の御前に出て行くとき、神は私たちの声を聞くために、私たちの方へ御顔を向けてくださいます。ですから、相手にしてもらえないかもしれないなどという心配は無用です。たとえ言葉につかえたり、ほかの人が私たちの言葉に何の反応を示さなくても、神だけは耳を傾けて感動されます。神は老人ホームにいるお年寄りたちの訴えも聞いておられます。死刑囚たちの胸詰まる告白も聞いておられます。アルコール中毒の人が恵みを求めるとき、夫と妻が結婚生活の知恵を求めるとき、社会人たちが職場を抜け出して礼拝堂の片隅にひざまずくとき、神は彼らの声を聞かれます。主は深く、集中して聞かれます。」

「神は、ありのままのあなたを愛しておられるが、あなたをずっとそのままにしてはおかれない。神はあなたが、イエスのようになってほしいと願っておられるのだ。」

「クリスチャンをクリスチャンたらしめているのは、完全さではなく赦しなのだ。」

「謙虚とは、他人と比較して自分を見下したり卑下したりすることではなく、自分の能力を正確に洞察すること。」

「聖書の目的は、簡単に言えば神の子供たちを救う神の計画を宣言すること。」

「恐れに満ちた世界では, イエスキリストを通して恐れ知らずにいることができる!」

「信仰は、目に見えないものを信じることだ。

目が見るのはうろつく獅子。信仰が見るのはダニエルの御使い。

目が見るのは嵐。信仰が見るのはノアの虹。

目が見るのは巨人たち。信仰が見るのはカナンの地。

あなたの目は、あなたのあやまちを見る。あなたの信仰は、あなたの救い主を見る。

あなたの目はあなたの罪を見る。あなたの信仰は、主が流された血を見る。

あなたの目は鏡の中に罪人を見る。約束を守れなかった落伍者だ。

けれども信仰によって、あなたが鏡の中に見い出すのは放蕩息子の姿である。

いちばん上等の服を着て、哀れみの指輪をはめ、父なる神のキスを受けている

放蕩息子なのだ。」

アンドリュー・マーレー(Andrew Murray 1829-1917 南アフリカ 牧師・伝道者)

「ああ、魂が滅びつつあるというのに、私は何と安楽に、満足して生活していることだろうか。キリストが罪人たちのために涙を流し、同情されたと同じ感情を、私は何と少ししか感じることができなかったのだろうか。私たちの心に、休むことができないほどに魂への愛が満ち溢れていたならば、私たちは、今の私たちとは非常に違った存在になったであろう。」

「謙遜とは完全な心の静けさを意味する。これには、いらだちや痛みや失望がない。それは何も期待しないし、自分になされたことをいぶかしくも思わない。だれも自分をほめてくれなくても、あるいはさげすまれ、非難されても、安んじている。」

「へりくだった人とは、自分を軽蔑する人ではなく、自分のことを全く考えない人のことです。」

「謙遜とは神に対する全面的依存の場。」

「謙遜は聖潔の花であり美である。」

「水がいつも低いほうへ流れていくように、神はあなたがたが低くされ、むなしくされたのを見られるとき、そこに神の栄光と力が流れ込む。」

「『私』―それは最上の席、最高の地位を、自分のために要求するこの上ない横暴な存在である。そして、もしその要求が入れられなければ、ひどく傷つけられたように感じるのである。キリスト者の働き人の間に起こる争いの大部分は、この巨大な『私』のやかましい叫び声から起る。最も低い場所に席を占めることの真の奥義を悟っている人は、私たちのうちに何と少ないことか。」

「しかし、もしわたしたちが自己は一瞬一瞬無とならなければならないこと、及び時々刻々キリストがすべてとならなければならないことがわかって、キリストから絶えず受けるために、彼に信頼し続けるようになると、その時こそキリストの生命が、わたしたちの魂の健康となるのです。」

「キリスト者はキリストなしでは一瞬たりともたつことができない。」

「霊的に衰退する原因は静思の時をなおざりにするからである。」

「クリスチャンになるとは、キリストの御霊を持つこと、キリストの愛を持つこと、キリストによって生ける水の流れ出る愛の源泉とされることなのです。」

「神様への私たちの愛は、日常の隣人と交わり、そこで示される愛によって測ることができます。」

「この世はその人自身が何を持っているかを尋ねますが、キリストはその人がそれをどのように使っているかを尋ねます。」

「キリストをよく知ることよりも私たちがもっと必要とする知恵はありません。」

「信仰は生ける神をみことばによってとらえる力なのです。」

「働くことと実を結ぶことを混同してはなりません。キリストのためだと思い、よい働きをしても、それが天のぶどうの木の実ではないこともあるからです。」

「柔和で、へりくだった心が主の弟子を区別する特徴であることも知らずに、私たちはずっと主を知っていると思っています。」

「神様への私たちの愛は、日常の隣人と交わり、そこで示される愛によって測ることができます。」

「霊の中には神が宿っており、魂の中には自己が宿っており、体の中には感覚が宿っている。」

「謙遜への神の招きは、教会において、あまりにも軽視されています。それは、その本当の性質と重要性がほとんど理解されていないからなのです。それは、私たちが神のみもとに携えて行くあるものではありません。あるいはまた、神が私たちにお授けになるあるものでもないのです。それは、単に、私たちが全く取るに足らない者であるとの意識です。それは、神がすべてのすべてであられることを私たちが悟ったときもたらされるのです。」

「『私』―それは最上の席、最高の地位を、自分のために要求するこの上ない横暴な存在である。そして、もしその要求が入れられなければ、ひどく傷つけられたように感じるのである。キリスト者の働き人の間に起こる争いの大部分は、この巨大な『私』のやかましい叫び声から起る。最も低い場所に席を占めることの真の奥義を悟っている人は、私たちのうちに何と少ないことか。」

「われらが神の前にへり下っていると考えることは容易である。しかし人々に対する謙遜こそ、神の前における謙遜が本物であることの唯一のまた十分な証拠である。」

「私の人生で最高の幸福は主イエスに愛されていること。」

「悩みの時には、まずこう言いなさい。主が私をここに連れてこられた、私がこの窮地にあるのは神の御心である、私はここにたたずむと。次に、こう言いなさい。主は愛の内に私をここに留め、この試練にあって、主の子どもとして振る舞うための恵みを与えられると。それから、こう言いなさい。主は試練を祝福とし、私に学ばせたい教訓を教え、私に授けようとしておられる恵みを私の内に生じさせると。最後にこう言いなさい。主が良しとされる時に、主はここから私を連れ出される、いつ、どのようにかは、主がご存知だ。私がここにいるのは(1)神がそう定められたからであり、(2)神が守っていてくださるし、(3)訓練していてくださる、そして(4)その期間は主が良しとされる分だけであると。」

エミー・カーマイケル(1868~1951 インド宣教師)

「愛なしに与えることはできますが、与えることなしに愛することはできません。」

「宣教師の生活とは、単的に言うなら、死ぬことです。」

「イエスの平安は、あらゆる試練や重圧に耐え、決して壊れない。イエスは、このご自身の平安を与えると言っておられるのだ。」

「神様は、このような信仰に出会うことをお喜びになります。その人は、イエスを見上げてこう言うのです、『主よ、これは私にはできないことをあなたはご存じです。―でも、あなたにはおできになることを信じます!』と。」

「キリストの御顔を仰ぎ見るとき、ほかのどこにも見いだせない喜びが、そこにある。『わたしのものよ、あなたにとってわたしは十分ではないのか』と主が言われて、『十分です、主よ。ほかには何もいりません』と私たちは答える。」

「愛こそ人生の黄金の秘訣。その思いが、年とともにいやまさりゆく。天国を満たす大気は愛。神は愛であり、愛は絶えることがない。それゆえ愛し続けよ。愛なき者をだけではなく、愛し得ぬ人、気難しい人、つきあいにくい人、失望のみ味わわされる人を極みまでーー。」

「私は最近何度か、ある言葉に全力でしがみつかなければなりませんでした。『管理者に要求されているのは、忠実であることである。』 神をほめたたえましょう。それは『成功すること』であるとは言っていないのです。」

三浦綾子(1922~1999 作家)

「自分には愛したくても愛し得ない、と知ったところから信仰は始まるともいえる。」

「私にはまだ死ぬという大切な仕事がある。」

「悪いということがわからなことが罪なんだ。」

「『死ぬよりほかに道がない』などと考えるのは、いかに人間が傲慢であるかということの証左である。道は幾つもある。生きようとする時、必ず道はひらけるのだ。」

「わたしたちひとりひとりの命はかけがえのないものだ。そのかけがえのない命を、生かされるままに、せいいっぱいに生きて行くすなおさをわたしは持ちたいと思っている。」

「自分だけが中心の生活をしていると、自分だけに太陽の光が注ぐことを望むような、けちな根性になるのではないか。そして、それはそれだけの貧しい人生でしかない。豊かな人生、それは相手のことも思うことの出来る人生である。」

「もし、わたしが、家庭とは何かと尋ねられたとしたら、『家庭とは、愛を学ぶ学校である』ということになるであろうか。」

「やさしさとは、相手の身になって考えると共に、そのやさしさを意志によって持続することにあると思う。意志と知性に支えられないやさしさは、それはいわば、気まぐれであって、真のやさしさではない。」

「お互いはお互いの鏡です。こちらが冷たい顔をすれば、相手も敏感に感じて冷たくなります。心のそこからにっこり笑えば、相手もそのあたたかさに感じて、微笑みを返します。よほどのへそ曲がりでない限り、人間というものは、そのように反応し合うものだと、わたしは思います。」

「『使命』という字は、命を使うと書くと聞いた。なるほど、使命とは命を使うことか。味わい深い言葉なり。一本の花が命の限りに咲いている。それもまた使命を果たしているということ。その人なりにひたすらに生きる、美しいことだ。」

「人間、怒ることはやさしい。だが、相手の謝罪を受け入れるということは、そう簡単にできないものだ。その証拠に、私たちは人を怒って苦しむよりも、人を許せなくて苦しむことのほうが多いのではないかと思う。」

「誰にとっても、現在の自分自身が、たまらなくいやになることがある。しかしそれが、永遠に変わらぬ自分の姿とは、いい切れないのだ。」

「言葉を交わすことによって私たちは、勇気づけられ、慰められ、喜びを与えられます。と、同時に、人を傷つけ、見下すという愚かな過失も犯します。言葉は人間の運命をも変えるほどの大きなものです。」

「ほんとうに人を愛するということは、その人が一人でいても生きていけるようにしてあげることだ。」

「愛とか、寛容とか、優しさがキリスト者のイメージのように思われやすいが、しかし筋を曲げぬこと、そのための牙を持つことがなければ、その愛も正しく用い得ない。」

「愛とは、意志が行動をすることである。」

「非常につらい思いをしている時は、そのつらさが永遠に続くように錯覚する。人生には時々、『あの山を登れば、広い大きい海が見える』ということがあるものだ。」

「真の愛というものは、愛するにふさわしいものを愛するのではなく、だれからもかえりみられない価値なきものを愛することなのではないか。」

「罪を罪と感じ得ないことが、最大の罪なのだ。」

「自分を小さな者と心から思った時には、人間関係のいざこざの大方は解消するのではないだろうか。」

「もしかしたら、私には罪の意識というものが、欠けているのではないだろうか。罪の意識がないということほど、人間にとって恐ろしいことがあるだろうか。殺人をしても平気でいる。泥棒をしても何ら良心の呵責がない。それと同様に、私もまた、人の心を傷つける ことをしても胸が痛まないのだ。こう思ったとき、私は、『罪の意識のないのが、最大の罪ではないだろうか』と思った。そして、その時、イエス・キリストの十字架の意義が私なりにわかったような気がした。」

「人は許されるから、こうやって生きていると思う。許して下さい、と言われないと、人 は許すことができない。神様だって、許して下さい、と言わない人は許すことが出来ない。お前の罪を許してやる、と言っても、私には罪なんかありません、許してもらう筋合いはありません、という気持ちでは許しにはならない。罪を認めて、謝らなければいけない。」

「私たちは、なぜ生きねばならないか…という問いを発しがちですが、生きるとか死ぬと かという人生の一大事の『なぜ』は、誰にも分からない。それよりも私たちは、誰も『生 きる』のではなく『生かされている』と考えると、おのずから生き方も変わってくる。」

「私たちにとって大切なのは、いつかは死ぬ自分が、その日までどのような姿勢で生きるかということであろう。」

「誰しも自分のした悪は小さくしか感じない。反対に、自分のした善は大きく感じ、他人のした善は小さくしか感じない。こんな不公平なことがあろうか。これが差別の源であり、また罪の源である。」

「他国に一歩でも無断に入り、田畑を踏み荒らし、花 一本ちぎったとしても、それは侵略です。」

「人の家に大砲をぶち込んで女を連れ去って、何もしていない、侵略していないと、どうして言えるのか。」

「8月30日、マッカーサーが厚木の飛行場に降り立ち、進駐が開始された。占領という言葉を、進駐というあいまいな言葉に変えて使ったのは、国民感情を刺激しないための政治的配慮からであったろうか。言葉をいかに変えようと、要するに日本は降参し、負けたために占領されたのだ。このあいまいな言葉を使ったために、敗戦のなまなましい実感は殺がれた。それは敗戦という言葉の代りに、終戦という言葉を使ったことと同様、日本人をふやけさせたのではないだろうか。それとも、もともと日本人は敗戦を敗戦としてしっかり受け止められない程弱い精神しか持ち得ない脆弱な民族であったのであろうか。」

「他人を慰めようとすること以上に、自分自身が慰められることはほかにない。」

「人はいつ、どこで、自分の生活を断ち切られても、その断面は美しいものでありたい。」

「神が一番きらわれるのは、この自分が一番正しいと思う態度だといいます。これは確かに、受けとめなければならぬ真理だと思います。」

「『自己主張の果ては死である』という言葉を聞いたことがあります。この言葉の中にずいぶん大切な、いろいろ重要なものが含まれていると思います。たとえば、私たちは、好きなものを食べたいだけ食べる、飲みたいだけ飲むっていうことは、たいして悪いことじゃないと思っているようです。よく、誰に世話になっているわけじゃない、自分の金を出して自分が食べる、自分の金で自分が飲む、何が悪いんだって申します。でも、どんなに好きなものでも、たくさん食べたら体に悪いのです。お酒など、うんと飲むと体に悪いのは誰でもわかっていることですし、タバコだって、健康上ちっともよくないことがわかっているわけですけれども、好きなものだ、いいじゃないかと言う。そういうようなことは結局、自己主張の果ては死であるということにつながるわけですよね。」

「素直とは、人の言葉を鵜呑みにして、何でもハイハイときくことではない。素直とは、真理に従順であるということである。真理に従順になるためには、自分のわがままな感情を自ら叩きふせて、真理に従おうと意志することである。」

「どんな悪天候の日であっても、その黒雲の上には必ず太陽が輝いているのだ。雲はやがて去るだろう。だが太陽は去ることはない。」

「今日を喜べぬ人間は、一生喜べぬ人間なり。今日を愚痴る人間は、生涯を愚痴る人間なり。」

「九つまで満ちたりていて、十のうち一つだけしか不満がない時でさえ、人間はその不満をまず真っ先に口に出し、文句を言いつづけるものなのだ。自分をかえりみて、つくづくそう思う。なぜ、私たちは不満を後回しにし、感謝すべきことを先に言わないのだろう。」

「自分だけが弱いんじゃない、自分だけが苦しいのではない。自分だけがむなしいのではない。自分だけが惨めなのではない。自分だけが死を思っているのではない。誰しもが、様々な苦しさ、むなしさに陥らざるを得ないのだ。そのことを、腹の底からよくみとめた時、わたしたちは、『虚無の隣りに神がいる』ことを、知り得るのではないだろうか。」

「親は針、子供は糸だ」と、よく聞きますわね。針がまっすぐ進めば、その縫い目も真っすぐになります。曲がって進めば、正直に縫い目も曲ります。この社会を造っている私たち大人は、無責任にはいきられませんわね。」

「真の愛というものは、愛するにふさわしいものを愛するのではなく、だれからもかえりみられない価値なきものを愛することなのではないか。」

「悩みは意外に、『自分の荷物は重い』とする自愛の心が、深刻にしていることもある。失恋に悩む人は、自分ほどこの世に惨めな者はいないと思い、病気に苦しむ人は、自分ほど哀れな者はないと思いこむ。悩みはえてして、このように「思いこむ」ところから深くなり、大きくなるものなのだ。」

「問題は何が起こるかということに重点を置くのではなくてね、何が起きようととにかく いかに生きるかという生きる姿勢に重点を置くべきじゃないのかな。」

「ほうたいを巻いてやれないのなら、他人の傷にふれてはならない。」

「私が持っているもので、神から与えられなかったものは一つもない。」

「理解してほしい、慰めてほしい」という、人から受ける姿勢から「理解してあげたい、慰めてあげたい」という、与える姿勢に変わる時、悩みのほとんどは解決していることを、わたしはその時から今まで、何十回となく経験させられてきたのである。

「人生順調な時があり、不遇な時がある。不幸に見える時があり、幸福に見える時がある。何れにしても絶望する必要もなければ有頂天になる必要もない。いつの日も光は私たちのすぐ隣にあると信じたい。」

「人間は、死ぬものであることを銘記せよ」という言葉が、ある修道院の朝の挨拶であると聞いたことがあります。私たちは、死から生に向かってスタートするかどうかで、生き方が変わるのではないでしょうか。死という言葉から逃げ出さずに、じっくりと死に向かい合うということは、かえって人生を明るく自由なものにすることだと思います。」

「人間の愚かさは決して命令や厳しさで直すことはできない。心のしこりを、溶かすものは、寛容であり、愛である。共に荷を負ってくれる忍耐である。」

「愛するとは、何べんも何べんもゆるすことだ。」

「神のみ言葉ひとつでも実践しようとしたら、すぐ自分が罪人であることが分かります。」

「口から出た言葉の数だけ、誤解も多くなる。」

「自分の悩みに沈潜している限り、悩みは深まって死に至る。」

「すべての人がいつかは死ぬのだから、本来ならばすべての人はもっと死について考えていいのだ。誰もが、今日が命日かも知れないのだ。只、(いつかは死ぬさ)と思っているだけだ。」

「人が鼻糞をほじっていると、いかにも汚く下品に思うが、自分が鼻糞をほじっている時は、その自覚さえない。私たちは、生来、不公平に人を審いている。」

「小さいことをおろそかにしない人は、まして大きい事には、一層の力をこめる。だから、その小さいことさえろくにできない者には、大きなことは頼めなくなるのが普通ではないだろうか。」

「愛し合ったから結婚したのではなく、結婚したから愛し合うのです。」

「人間は、誰しも必ず死ぬ。しかも順不同に死ぬ。死は老いてから考えればよい問題ではない。若い日に死を深く知り得た者は、若くして死んでも、長命であっても、その一生は真に幸いである。死を考えることは生を考えることであり、生を考えることは死を考えることでもある。」

「人のことなら、返事の悪いことでも、あいさつの悪いことでも腹が立つくせに、なぜ自分のことなら許せるのだろう。人間というのは自己中心である。」

「自分が悪くなるのは、自分のせい。自分に責任がある。」

「汗と涙は人のために流しなさい。」

「突然、全く予期しない出来事が、人生には幾度もある。雲の上には、いつも太陽が輝いている。けれども、ちょっと雲がかかっただけで。その雲が去ると太陽が再び輝くことを知っていれば、落ち着いて行動できる。」

「つまずくのは、 恥ずかしいことじゃない。 立ち上がらないことが、恥ずかしい。」

「思い立って、すぐ実行に移す人間は、必ずしも実行力があるとはいえないのだそうである。むしろ意志薄弱で、自己抑制がきかないのだという。行動力があるなどといわれて、いささかうぬぼれていたわたしは、実は意志薄弱型の人間なのだと、思い知らされたのである。本当の実行力とは、一つのことをなすに当たって、綿密な計画と、周到な準備をもってなされるものでなければならない。わたしなどのやることは、行動というより、たんなる思いつきに過ぎない。いや、わがままと言ってもいい。」

「がんになると死にたくなる。失恋すると死にたくなる。夫に女ができると死にたくなる。愛する者に死なれると死にたくなる。借金で首がまわらなくなると死にたくなる。受験に失敗すると死にたくなる。死にたい理由はいろいろある。しかし、それは人間の側の理由であって神から見ると、決して死ぬ理由とはならない。」

「世には、聖書には全く無関心で一生を終える人も少なくない。だがどんな人であっても、一生に、一度や二度、うめくような苦しみにあうことがあるのではないか。もし、そうしたときに、聖書を知っていたならば、その苦しみや悲しみは、単なる苦しみや悲しみに終わらず、もっと別の意味を持つかもしれない。」

「試練は必ずしも苦難と共に来るとは限らない。家業が思わざる繁栄にあう時もまた、私たちは大きな試みにあっているのだ。人々にちやほやされる、ぜいたくに流れる等々、一見、自分にとって快い状態が続く。こんな時、人は心驕り、増長していくのである。」

「馴れるということは、何と恐ろしいことであろう。馴れることによって、感謝すべきことさえ不満の種になってしまうのだ。『神様、私のような者に、三浦のようなすばらしい夫をお与えくださいまして、ありがとうございます。どうか恵みに馴れないようにお導きください。』」

「聖書の言葉には生命がある。決して死んではいない。わたしたちの心の目を開き、励まし、慰め、ある時はぐさりとえぐる。」

「人間は何と不自由な存在であろう。自分の心を自分でコントロールすることができないのだ。自分で自由に生きていると思っている者ほど、真の自由を知らない。」

「人生とは他との戦いではなく、自分自身のなかにうごめく、わがまま、怠惰、勝ち気、冷淡、さまざまのよからぬ欲望などとの戦いである。」

「私は文学者になろうとは思っていません。福音をぼかさないで証ししたいのです。作品の中に、神や聖書がストレートに出てくるのは、伝道の方法として私がペンをとっているからで、いわゆる『文学をやっている』という意識はさらさらありません。私にとって大切なことは、文学史に残る作品を書くことより、ひとりの人間が救われることが大切なんです。」

「自分の思いのままにふるまって、自由に生きていると錯覚している人間ほど、不自由な人間はあるまい。なぜなら、それは単に欲望にとらわれ、欲望に負けている姿だからである。」

「『自分の機嫌を自分でなおせないのは、大人ではない』と、ある牧師が言った。きらりと光る言葉だと思う。」

「『自分にしてほしいこと』が、次元の低いものであると、人にしてやることも次元が低くなる。心すべきは、何を人からしてほしいと思って生きているかということであろう。」

「私たちは殺人を大いなる罪だとわきまえている。だが人の心を傷つけること、二度と立ち上がることもできぬほどに精神的に痛めつけることが、ある時は殺人以上に重い罪であることを、意外に知ってはいない。もし知っているなら、こうもこの世に悪口やデマが氾濫しないであろう。」

「あなたの気持ちはわかります、と言えば、わかるものか、とあなたは怒鳴る、わからないと言えば、どうしてわからないのか、と怒鳴る。どちらも甘えです。静かに話し合うという忍耐心が私たちには必要なのです。」

「正しいことを学ぶと、正しいことを知ると、自分は成長したような気になって、人を責め始めるが、学んだくらいでは、知ったくらいでは、人は成長していないのだ。」

「ほんのちょっとした誤解から、人間関係を崩壊させることが度々あります。『確かにあの人はこう言った』とか言って、事を大きくする人がいますが、一歩引き下がって、自分の聞き間違い、思い違いもあるのではないかと考えたいものです。」

「人間は、生きている限り、堕落する可能性もあれば、悔い改めて立ち直る可能性もあるのです。」

「昨日よりも今日は死に近い。明日は今日よりさらに死に近いのだ。もし、私たちの命が今日しかないとしたら、今日の一日はどんなに大切であることか。」

「聖書を一度も手に取らずに生きている人はたくさんいる。一生、ついに読むことなく過ぎる人々もいる。私も二十六、七歳の頃までは、聖書はほとんど無縁の書であった。その私が聖書を読み、キリストを信じて人生が変わった。怠惰で虚無的だった私の生き様が変わった。」

「『キリスト教は、人を罪人扱いするからきらいだ』という言葉をよく聞く。しかし、罪ある人間を罪あると言うことは、なんと親切なことではないか。病気の人を病気だと言わずに放っておいたらどうなるか。」

「愛し尊敬している度合がはっきりするのは、相手が病気になった時とか、相手が悲しみに遭った時とかではありません。病気の時には親切に看病するのは当然ですし、悲しみに遭った時には、慰め励ますのは、当たり前です。こんな時には、自分の愛や尊敬を計ることは出来ません。その度合を計り得るのは、文句を言われた時です。注意を受けた時です。たとえ、少々の誤解があったとしても、本当に愛し、尊敬していれば、(あなたほどの人がおっしゃって下さるのだから・・・・)と素直な気持で聞けるはずなのです。」

三浦光世(1924-2014 歌人)

「日本は侵略戦争をしていたのに、綾子も私も聖戦だと信じていた。とんでもないことでした」

「戦中、教師だった綾子は子供たちに、あの戦争は聖戦で、天皇は神なのだと教えた。 そのことを深く後悔し、『韓国や中国に行ったら、私は胸を張って歩くことはできない。 日本の行った罪をおわびしたい』と言い続けていた。」

リチャード・バクスター(1615~1691 英国 牧師 ミスター・ピューリタン)

「私はもう二度と語ることがないつもりで説教した。死んで行く者が死につつある人たちに語るように。」

「病人に病であると告げることを恐れてついに死なせてしまうのは、最も愚かな医師であり、最高に不忠実な友である。同様に、もし私たちが、友を怒らせたり、友から嫌われたちするのを恐れるあまり、何も言わずにその者が地獄へ向かっていくのを黙って見ているなら、私たちは最悪の恥知らずだ。」

「大きなことには一致を、小さなことには自由を、すべてのことに愛を。」

「悔い改めるか、焼き滅ぼされるか。その他の選択はない。」

「小さな罪を愛することは大きな罪です。」

ニュッサのグレゴリオス(335年頃~394年以降、神学者)

「キリストによって人間が救われるということはどういうことなのか。それは人間が神とともに働き、そして最初の人間アダムの堕罪以前の状態すなわち恩寵に満たされ、何らの不足も不満も不安もない、そして神とともにあたかもその友となって暮していた状態、神の友となるという状態への回帰です。まさに神の友である以上、もはやこの世の何者をもその心の主とする必要もない。したがってだれの手下でもないということ、それゆえ、本当に自主的であるという状態です。」

ラヴィ・ザカライアス(ラビ・ザカリアス 1946~ カナダ・米国 哲学者、弁証論者、伝道者)

「信仰とは、イエス・キリストというお方と、そのお方の力に信頼を置くことである。それゆえ、そのお方の力が私の願いとは違った方向に働いたとしても、そのお方への信頼が揺らぐことはない。なぜなら、信仰とはそのお方の人格への信頼であるからだ。」

「神は光、奇跡は影のようなものです。影を追いかけても、決してそれに追いつくことはできず、むしろそれは消えてなくなってしまうかもしれません。光に向かって歩くなら、影は常にあなたの後からついてくるでしょう。その時こそ人の心は、喜びつつこのように歌うのです。『私の生きている限りは、必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。』 」

「愛の支えのないただの信仰の所有者は嫌われます。また、彼が信じている教理も異議のある人にとっては反発を買うだけです。」

「神を拒否する理由は、知的要求からでもなく、証拠が足りないからでもない。神を拒否する人は、自らが神を必要としている事実を認めないという倫理的抵抗により、神を信じないのだ。」

「長年にわたって私が発見してきたことがある。それは人々といっしょに祈る方が、彼らに対して説教するよりも時にさらに多くのことをなせることである。」

「人生の意味がないとしたら、私たちを動機付けるもの、また私たちの存在理由そのものをも失ってしまうことになる。」

「 永遠に関わる事柄を基に生活を築かねばなりません。」

「人は自分の権利を主張するあまり、本当に正しい事柄についてほとんど語りません。」

「まっすぐ立つことができる角度は一つしかありません。しかし、倒れることのできる角度は多数あります。」

「ほとんどの人は、もう自分で考えることができなくなっています。世間は相対主義の渦に取り巻かれています。」

「内側から変わるまで、外側を変えることはできません。義を得る前に贖いが必要です。」

「何よりも、祈ると自分自身の心が見えるようになり、あなたは神の心に沿ったものとなります。祈りとは、神と交わっている所を想像しているだけの、一人芝居ではありません。むしろそれは対話であって、神はそれを通してあなたの心を感化し、神が思い描かれるとおりの存在にあなたを形作るのです。それはまさにクリスチャンへの貴い贈り物であって、直接の答えと、多少間接的な答を通して、イエスに従う者たちは、神から得られるものゆえでなく、神が神であられるがゆえに、神を愛し始めるのです。」

「イエスの福音を語るのが難しいイスラム教国でも、私は数多くの講演を行なってきました。その仲で、クリスチャンになったイスラム教徒全員に見られる共通事項があるのです。彼らは、まずクリスチャンを通してイエスの愛に触れ、次に、幻や夢やその他の超自然的な働きに触れて、神を信じているのです。あらゆる宗教の仲でも、イスラム教ほど天使と幻を大切にしている宗教はありません。イスラム教徒は、超自然界への感受性が特に強いのです。その彼らに、夢や幻を通して自らを啓示する神の知識と計画は、桁外れに素晴らしいものなのです!」

カール・ルイス(1961~ 米国 元陸上選手)

「オリンピック・メダルの喜びも、イエス様との信頼関係の前には色褪せる。陸上の記録など、すべての地上の出来事と同じように、消え去るものだ。しかしイエス様との関係は消滅しない」

パトリック・ヘンリー(1736~1799年 米国 弁護士、政治家)

「私は全財産を家族に分け与えた。しかし、どうしても与えたいものがもう1つ残っている。それはキリストを信じる信仰である。たとい彼らに1シリングも与えなくても、彼らが信仰を持っているなら、彼らはすでに富める者なのだ。だが、もし信仰がないとするなら、世界のすべてを与えても、彼らは全く貧しい。」(パトリック・ヘンリーの遺書より)

ジョン・R・W・ストット(John R. W. Stott 1921-2011 英国国教会司祭 世界的神学者)

「あなたは、一瞬のうちに、完全になることはできません。その瞬間、あなたはクリスチャンになりますが、成熟したクリスチャンになりません。キリストがあなたの心にはいり、あなたをきよめ、ゆるすことは、まさに一瞬のうちになされますが、あなたの品性が、キリストの意志に従って変革、形成されるのには、一生かかるかもしれません。」

「神は、神を信じる人々にキリストに似た者となってもらいたいのです。キリストに似ることは、神が神を信じる人々に願っていることです。」

「小人のようなクリスチャンが多いのは、彼らが小さな神を持っているからです。私たちには偉大な神についての理解が必要です。」

「イエスを信じる信仰の象徴は、十字架であって、天びんではありません。」

「私たちは自分自身を聖書に立ち向かわせて、自分の安全を妨げさせ、自分の満足を捨てさせ、そして、自分の考えと行動パターンを引っくり返させなければなりません。」

「知識はとても大切で、信仰も必要不可欠なものです。また宗教的な経験や奉仕も大切なものですが、さらに優れたものは愛です。なぜなら、神は愛だからです。」

「クリスチャンの心配事からの自由は、問題の解決が保証される自由から来るものではなく、心配を愚かなことだと思い、特に神様が私たちの父であるという確信から来るものです。従って、今私たちが受けている苦しみも、神様が心にかけておられることです。」

「私たちは十字架を、自分たちのためになされたものとして見る前にそれが自分たちによってなされたこととしてみるべきだ。・・・われわれは十字架に向き合うとき、『これは私がやったことだ。私の罪が彼をあそこに送った』と言うと同時に『彼が自らそうされた。彼の愛が、彼をあそこに向かわせた。』とも言えるのだ。」

「もし、我々がキリスト者だと主張するのであれば、我々はキリストに似たものになるべきです。」

「私たちはこの世はいったいどうしたのか?と尋ねるべきではない。すでに診断は出ているのですから。むしろ、私たちは塩と光は一体どうしたのか?と尋ねるべきです。」

「謙遜で喜びに満ちた奉仕の精神というしるしをもたないリーダーシップは、キリストのそれに似た本物のリーダーシップではない。」

「私たちは自分が受けた危害については赦すことができるかもしれない。しかし、神に対する罪を赦すことができるのは神ご自身だけである。」

「十字架がなければ、自分自身の力で神を信じることなどできなかった。・・・苦しい現実にさらされたとき、悲しみとは無縁の神を拝める人物など、一体どこにいようか。

アジア諸国で、私はいくつもの仏教寺院を訪ねた。寺院の中で、私はかしこまって仏像の前に立つ。手と足を組み、目を閉じて、口元にかすかな笑みを浮かべている仏像。超然と、心ここにあらずといった顔つきの彼らを見つめるたびに、いてもたってもいられない気持ちに迫られ、私は急ぎ足でその場を立ち去る。すると仏像の代わりに、十字架の上で寂しく、痛みに身悶えながら拷問に耐える人の様子が、釘で刺さったその手足が、傷だらけの背中が、見る影もなくなったその体が、いばらの冠で血だらけになった眉が、からからに乾いた口とどうしようもない喉の渇きのイメージが浮かび上がり、『神に捨てられた奈落の底』の暗黒が広がっていく。

ああ。これこそが私のための神ではないか! 苦悩や痛みとは関係ないはずのその人が、神としての特権を投げ捨て、血の通う人間としてこの世界に生まれた。涙や死を知る人間として生まれた。彼は私たちのために苦しんだのだ。そして彼のおかげで、我々人間は苦悩への対処法を学んだのだ。

人間の苦悩に関する疑問はいまだに歴然とある。しかしその疑問符の上に、我々は新たなる刻印を、神の苦悩を象徴する十字架という刻印をしっかりと押す。『キリストの十字架は・・・我々が住む今日の世界で通用する、神の唯一の自己弁護に他ならない。』」

キーツ・L・ウス

「謙遜とは、ただ単に自分を価値の低い者であると考えることではない。自分のことを全然考えず、キリストのことのみを真に深く考えることである。」

「人は、無理に平穏な気持ちを持つことができないのと同じように、汚れた心を聖なる心へときよめることはできない。心をきよく保つには、聖霊の支配のもとに、それをゆだねなければならない。そうすれば、汚れた事がらを避けることができる。もしあなたの心をきよく保ちたいならば、このことを守りなさい。そして、神のみことばのきよい真理で心を満たしなさい。」

「人間が持っている最もすぐれた能力の一つは、事実をそのまま表現できることである。ある事について、その正確な長さ、広さ、相互関係、意味などを理解すること、そして、それらを正確に言葉で表現することは、すばらしく均斉のとれた人間の理性の特徴である。ただし、それは聖霊によってのみ与えられるものである。」

アンドリュー・ボナー(Adrew Bonar 1810-1892 英国の牧師)

「きよいクリスチャン生活 それは数多くの小さな事がらから成り立つ 雄弁な説教ではなく、ちょっとした言葉 勝利の奇跡ではなく、ちょっとした行為・・・ ささいな悪事、ふとした気まぐれ わずかな弱点、小さな愚行と放縦・・・ これらを避けること それがきよい生活の美をつくりあげるのだ。」

「初代教会のクリスチャンたちは、彼らの苦難が無限の恵みによって報われることを知っていた。・・・彼らは屈辱を受けるに値する者とされた時、喜びに満たされた。しかし私たち――なまぬるいたましい――は、何も苦しもうとはしない。その理由は、私たちが自分を支える希望を持っていないからである。私たちは、一番軽い十字架でさえも負う力がなく、自己の誇りが生み出す愚劣さと弱さにさえひざを屈する。」(フランシス・フェネロン)

「有益であること、啓示されること、そして御霊に満たされた生活の鍵は、神のみことばに対する従順である。」(ジョン・G・ミッチェル)

ジョナサン・ゴーフォース(Jonathan Goforth 1859-1936 カナダ 宣教師)

「神の力にとって大きすぎるものはなく、神の愛にとって小さすぎるものはない。」

ダニエル・ウェブスター(1782〜1852年 19世紀米国を代表する政治家 建国の父の一人)

「私が今までに考えた最も重要なことは、神に対する私の個人的責任ということである。」

「聖書は信仰の本であり、教義の本であり、道徳の本であり、宗教の本であり、神からの特別の黙示の本であるが、人間自身の個人的責任、人間自身の尊さ、同胞との平等さを教える本でもある。」

「私の思想や文体に推賞されるべきことがあるとすれば、その功績は、早くから聖書を愛することを私に教えてくれた両親にある。もしわれわれが、聖書の教える原理を保持するなら、わが国は栄えに栄えるであろう。しかしもしもわれわれとわれわれの子孫が、聖書の教訓と権威を無視するなら、最終的破滅が如何に突然われらを圧倒し、われらの光栄を深い闇の中に葬り去るかを誰も知ることができない。」

「価値のあるものに新しいものはなく、新しいものに価値のあるものはない。」

「冷静を保て。怒りは議論ではない。」

「キリストのようになることは、キリスト者になることである。」

「聖書なしの教育は無益である。」

「私は、聖書は、その個所の意味が単純明快に信じられ、理解されるべきであると信じました。なぜなら、全世界を教化し、改心させる目的を持ったこの本は、一部の批評家や哲学者にだけしか分からないような神秘や疑惑の中に、覆い隠されているとは信じられないからです。」

「もし真理が普及していなかったなら、起こるべくして起きる誤りーもし神と神のことばを知らず、また受け入れていなかったなら、悪魔と彼の働きが勢力を増し、もし福音があらゆる町に行き渡らなかったなら、堕落したみだらな印刷物が行き渡る。もし福音の力がその地の至る所に広く行き渡らなかったなら、無秩序と無法状態と、退廃と悲惨と、緩和されることも、また終わりもない堕落と暗黒が支配することになる。」

渡邊善太

「神学なき体験は盲目であり、体験なき神学は空虚である。」

アレクサンダー・マクラーレン(Alexander Maclaren 1826-1910 スコットランド 牧師)

「心に聖霊を、手に聖書を持っている人は、必要なものすべてを持っている。」

「拒絶され た光は、最も濃い暗闇を生む。光を持っているのに光を信頼しない人は、暗くて陰鬱な 厚い雲で自分自身を覆っている。」

「多くの秘められた罪は、主のための熱心さに乗じて隠蔽されることがある。」

「悪を行う者に対して憤りを燃やすほうが、自分自身が悪を行うことから遠ざかることよりも容易い。」

「一度限りの完全な満たしなどというものはない。イエス・キリストご自身からのやむことのない供給を絶えず自分のものとしていくこと、すなわち、刻一刻救い主に信頼し、瞬間瞬間きよめられ、満たされていくこと、それが満たしである。」(チャールズ・インウッド)

ウィリアム・ガーナル(William Gurnall)

「悪魔とともに1マイル歩いた多くの人は、初めは決して2マイル行くつもりではなかった。しかし、いったん悪魔とともに歩くと、彼から離れることができなくなってしまった。」

「私たちは人間をあまりに恐れるがゆえに、神をほとんど恐れない。」

「神による傷は癒されますが、罪へのキスは死をもたらせます。」

「謙遜とは、主が私たちをどのように扱われても抵抗しないことです。」

「愛の鎖は、恐れの鎖よりも強い。」

ヒエロニムス(Jerome 340頃−420 ダマルティア 神学者 ラテン教父)

「聖書を知らないことは、キリストを知らないことである。」

「自分の無知を知らないものは、無知よりさらに劣る。」

「顔は思いを映す鏡である。そして目はことばなしに、心の秘密を告げる。」

「愛は売り買いされるべきものではない。愛情には、値札はない。」

「私たちは壊れた世界に住んでいます。ですから、他人の壊れた姿を指摘するより、私たちがどうすれば回復させる者になれるかを、主に尋ね求めなさい。」

ベンジャミン・フランクリン

「罪は禁じられているから悪いのではなく、悪いから禁じてられているのである。」

「あなたは百年を生きるかのように仕事をしなさい。また、明日死ぬかのように祈りなさい。 」

「金銭は今だかつて人間を幸福にしたことはないし、これからもそうであろう。増えれば増えるほど、さらにもっと欲しくなるのだ。金銭は、空虚さを満たすどころか、かえって空虚さを作りだす。」

「借金して明日起きるより今夜食わずに寝よ。」

「人生を大切にしたいなら時間を無駄使いしてはいけない。人生は時間によってできているのだから。」

「他人に対して善をおこなっているとき、自己に対して最善を行っている。」

「どんな愚かなものでも他人の短所を指摘できる、そしてたいていの愚かなものがそれをやりたがる。」

「井戸が枯れたとき、私たちは水の価値を知る。」

「人生の悲劇は、我々はすぐに歳を取るが、なかなか賢くならないことである。」

「今日できることを、明日まで残すな。」

「自然感情の中で、おそらくプライドほど征服しがたいものはない。プライドを嫌悪せよ。プライドと戦え。できるだけ抑制せよ。プライドはそれでも生きていて、すきあらばのぞき込み、姿を現す。・・・たとえ私が完全にプライドを克服したと確信できたところで、今度は自分の謙虚さを誇っているにちがいないのだ。」

ジェレミー・テーラー(Jeremy Taylor 1613 – 1667 英国国教会司教)

「小さい罪というものはない。それは神に抵抗するものであり、測りがたい、恐ろしい結果を招くかもしれないものである。時計の精密な内部構造にとっては、砂の一粒でも小さくはないのと同じように。」

「友情とは、最も大いなる愛、最も大いなる非利己的さ、最もオープンなコミュニケーション、最も高貴なる苦しみ、最も厳しい真実、心からの助言、勇敢な男女しか持ち得ない最も大いなる思考の絆を意味する。」

「自分を助ける方が全能の神であることを覚えている人は決して絶望することはありません。」

「良妻は天から男への最上にして至高の贈り物、男の天使にして限りなき恵みを与える司祭、多くの徳を備えたる至宝、宝石の小箱、その声は甘き音楽、その微笑みは男にとって最も輝ける日、その口づけは男を罪悪から守る者、その諸腕(もろうで)は男を安全に守る杙(くい)、男の健康を齎す香油、彼の命の香膏、その勤勉さは男の冨、その経済はもっとも安全な財産の管理者、その唇は忠実な相談相手、その胸はもっとも柔らかき慰めの枕、そしてその祈りは、男の頭上に潅(そそ)がれる天の祝福の最良の唱道者なり。」

「自分を助ける御手が全能な神様であることを覚える者が絶望することは不可能です。」

「妻と子を愛さないものは、家でライオンを飼うようなものだ。悲しみの巣で血みどろになっている。」

「この世と友になって穏やな天候の中にいる時よりも、神が送られる嵐の中にいる時の方が、私たちは安全なのです。」

「夫が妻に対して示す力は父親のような、友人のような力であるべきだ。権威をかさに着た、暴君じみた力であってはならない。」

「夫婦間において、「私のもの、お前のもの」という奇妙な、区別を絶対に用いるべきではない。これがあらゆる法律問題や訴訟や世界大戦の原因になっているからだ。」

「耳でだけ説教を聞くより この目で説教を見たい ただ正しい道を教えるだけの人より 正しい道をともに歩く人がほしい そして、 何にもまして望ましいのは 説教者たちが彼らの信条どおりに歩むことだ なぜなら、だれもが必要としているのは 正しいことが実行されているのを見ることだから」(エドガー・A・ゲスト)

「人々がこの世の出来事への奉仕を名誉と感じている限りにおいて、私たちは王の王である神が犠牲の使命を私たちに与えているなどとは絶対に思ってはならない。私は心も精神も宣教師である。神ご自身はたった一人の子をお持ちであった。そしてその子は宣教師であり、医者であった。比較するには、あまりにも私は小さい者であるが、私もそのような人に仕えることで生きていきたい。この働きの中で私は一生を終わりたい。私は豊かで安楽な生活よりも貧しさと使命を好む。これが私の選んだ道である』。」

「私は、キリストの王国に関係のあるもの以外に、私が持っているどのようなものにも価値を認めない。もし私の持っているものが御国の益になるなら、神の栄光を増し加えるために、それを人に与えるか自分の手に持っているであろう。私のすべての望みは、今も、そして永遠に至るまでも、神にかかっているからである。」

「この世の何物も、私が、絶望して、仕事を諦めさせることは出来ない。」

「伝道の精神は我らの主の御精神である。伝播的善行は基督教そのものである。その純然性を証明するためには無窮の拡張を必要とする。」(内村鑑三が引用)

「主よ、私を何処へでも遣わして下さい。しかし私と共にいて下さい。 私にどのような重荷でも与えて下さい。しかし私を支えて下さい。この世の全ての絆を断ち切って下さい。しかしあなたとの絆は切らないで下さい。」

「われわれは仕事が終わるまでは死ぬものではない。」

「ご自分を我らに与えるため天上にある父の御座をお捨てになった方によって支払われた大きな犠牲を思い起こす時、我らは、犠牲を払っているなどという言葉を口にすべきではない。」

「主よ、私をどこへでも遣わしてください。しかし私と共ににいてください。私にどのような重荷でも与えてください。しかし私を支えてください。この世のすべての絆を断ち切ってください。しかしあなたとの絆は切らないでください。」

「キリストがおられない心は、収穫の場、キリストがおられる心は、働き人である。」(デック・ヒルズ)

「キリストを口であかししないこと、これほど大きな過ちはない。」(ヘンリー・クレイ・トランバル)

ジョン・ロック(1632〜1704年 英国の哲学者)

「何人といえども、力によってではなく、愛によって働く信仰を持たぬ者はキリスト教徒ではない。」

「聖書には永遠の生命に関することが書かれている。その著者は神であり、その目的は救いであり、混じりけのない真理であり、その内容には偽りはない。」

「人間の行動は思考の最上の通訳者だ。」

「あなたを心配させるものが、あなたを支配する。」

ヴィクトル・ユーゴー(1802〜1885年 フランスのロマン主義の詩人、小説家 代表作『レ・ミゼラブル』)

「英国には二冊の本がある。それは聖書とシェイクスピアである。英国はシェイクスピアをつくった、しかし聖書は英国をつくった。」

「愛しすぎるということがないのと同様に、祈りすぎるということはない。」

「ある種の思考は祈りである。身体の方がどんな態度を示そうと、魂の方はひざまづいている場合がある。」

「不幸に陥らない秘訣は、人を愛して、働くことだ。」

「人間は鎖をひきずって歩くためにではなく、翼をひろげて天翔るためにつくられているのです。」

「四十歳は青年の老年期であり、五十歳は老年の青春期である。」

「女を美しくするのは神であり、女を魅惑的にするのは悪魔である。」

「荒々しく毒ずいた言葉は、その根拠が弱いことを示唆する。」

  • 「『法律の前における自由』は、『神の前における平等』という表現を政治的に翻訳したものである。検証の各条項は、福音書の翻訳でなければならない。」

「敵など、気にしなさんな! 一笑に付したまえ! 相手にしないことです。敵は、君が悩み、君が悶えるのを見たくて、やっているのです。その思うつぼに入って、敵を喜ばしてはいけません! 楽しく、朗らかにしていることです。世の中の騒ぎなんか見下ろして。強く、強く生きるのです! 笑い飛ばしてしまうのです!」

「愛することは、信じることの必要条件だ。」

「愛することは行動することだ。」

「人生における無上の幸福は、自分が愛されているという確信である。」

「友よ、逆境にあっては、つねに、こう叫ばねばならない。『希望、希望、また希望』と。」

「一人の人の献身がすべての者に力と勇気とを与える。」

「人は軍隊の侵入には抵抗するが、思想の侵入には抵抗しない。」

「財布が軽くなるほど、心が満たされる。」

「第一歩は何でもない。困難なのは、最後の一歩だ。」

「計画もなく、時間の使い方がただ成り行き任せにされていると、たちまち混乱と無秩序の支配するところになる。」

「私は、虚偽を売りつける聖職者(坊主)や不正に人を裁く人間とは、断固、戦う。」

「学校を開く者は監獄を閉じる。」

「人はみな不定期の猶予つきで死刑に処せられている。」

「真理、それは人の魂の昼だ。」

「真理は太陽に似ている。真理はすべてを見えるようにする、しかし真理自体を見つめることはできない。」

「最も暗い夜でさえ終わり、太陽が昇る。」

「信仰は人間に必要不可欠なものである。信じぬ者に災いあれ。」

「人気かね。人気とは金で得る栄光だよ。」

「懐疑主義とは知性の腫瘍である。」

「逆境は人を作り、繁栄は怪物を作る。」

「学校の扉を開く人は、牢獄を閉ざす。」

「大きな悲しみには勇気をもって立ち向かい、小さな悲しみには忍耐をもって立ち向かえ。一日の仕事を終えたら安らかに眠れ。あとは神が守って下さる。」

(「人生の大きな悲しみのためには勇気を、小さな悲しみのためには忍耐を持ちなさい。そして、日課を終えた後には、平安に眠りにつきなさい。神様は目を覚ましておられます。」)

「私はわが魂を、わが創造主なる神の御手にゆだねる。わが救い主イエス・キリストの徳を通して、永遠の命にあずかる者となることを望み、かつ確かに信じながら。」

「幸福は、自分は何ものかに絶対的に愛されているんだという確信の中に在する。」

ネルソン・マンデラ

「勇気は恐れのない状態ではなく、恐れに勝利したことであると学んだ。勇者は恐れを感じない人ではなく、その恐れを克服した人である。」

「大きな山を登った後にだけ、人はさらに登るべきたくさんの山があることを見出す。」

「達成するまでそれはいつも不可能に見える。」

「人生でもっとも栄誉あることは、一度も失敗しなかったことではない。失敗する度に、立ち上がったことだ。」

「赦しが第一歩だ。赦しが魂を自由にする。赦しこそ恐れを取り除く最強の武器なのだ。」

「人種差別は魂の病だ。どんな伝染病よりも多くの人を殺す。悲劇はその治療法が手の届くところにあるのに、まだつかみとれていないことだ。」

「恨みを抱くのは、自分で毒を飲んでおきながら、それが敵を殺してくれると期待するようなもの。 」

「キリスト教を頭に詰め込むのは容易だが、心にまで到達させるのは困難である。」(バリー・セントクレア)

A・T・ピアソン(1837-1911年 米国 牧師 宣教師)

「History is His story(歴史は彼=神の物語)」

植村正久(1857-1925年 牧師)

「いまだかつてキリストのごとく語りしものなし。」

「悲しみは十字架と人類の罪悪である。」

「愛はいと惜しむものである。その目的とするものを収容して、これに善きものを与えようと欲する。愛は自己を与えようと欲する。」

「神を知る。否、神に知られることが嬉しい。」

「宗教は世界至るところ、人間共通の事業である。宗教は自然であり、無宗教は不自然である。」

「キリストの最大事業はキリストご自身である。」

チャールズ・スウィンドル(Charles Swindoll 1934〜 米国 牧師、教育家、著述家)

「神は人間が作った時計の奴隷ではない。」

「与える時ほど、私たちが神に似た者となる時はありません。『神は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された』のですから。」

「困難は偽装したチャンスである。」

「しかし、どうやって敬虔であることができるのでしょう。早いペースで複雑な生活をし、穏やかならざるプレッシャーに直面している忙しい人々がどうやって、絶えず神と共に歩むことができるのでしょうか。その答えに含まれるものが何であったとしても、人々が自然に、自動的に、即座に、あるいは簡単にそこに至ることはないということだけは、確信を持って言うことができます。『この世は、私たちを神に向かわせる恵みの友ではない』からです。私たちの回りのどれも、私たちの現在の状態に不満をいだかせるものでしかないのです。」

「不平を言いながら、他人に対して否定的な態度を取る人々は、その人たちの心の喜びや安らぎを奪ってしまっている。これは、人の家に侵入して高価な銀の食器を盗むのと、何ら変わりのないことである。」

「態度は、過去より、教育より、お金より、状況より、人が何をするかや言うかよりも重要である。態度は、外見より、才能や技術より重要である。」

「長く生きれば生きるほど、『態度』というものが持つ、人生にとっての影響の大きさをますます思い知らされる。私にとって『態度』は事実よりも重要である。過去や学歴、お金、環境、失敗、成功、他人が何かを思ったり、言ったり、したりするより大切なのだ。外見、才能、技術よりも大事である。会社や組織、家庭を作ったり、壊したりもする。忘れてはならないのは、毎日我々は、その日にとる態度を選べるということ。我々は過去を変えることはできない。周囲の人たちが、お決まりの行動をとるという事実も変えられない。必然も変えられない。変えられるものはひとつだけある。それは、我々自分自身の態度である・・・・・。人生とは、10%が自分の身に起こることで、90%がそれに対して自分がどう反応するかで決まる。あなたにとっても同じ・・・・。我々は、自分の態度を自分で決めることができるのである。」

「不幸というトンネルに閉じ込められた時、希望はそのトンネルの先で輝く光のようだ。疲れ果てた時、希望は新しい活力を与え、落胆した時、勇気を与える。やめてしまいたいという誘惑を受ける時、希望は私たちがあきらめないようにしてくれる。道に迷って動揺する時、希望は恐怖心を鈍くしてくれる。長い間病気と闘っている時、希望はその苦痛を耐え抜くことができるようにしてくれる。最悪の状況を恐れる時、希望は神がなおも治めておられることを思い出させる。悪い決定によって引き起こされた結果に耐えなくてはならない時、希望は私たちの回復を促進させる。職場を失った時、希望はまだ未来があると言ってくれる。座って待つしかない時、希望は信じて待つことができるよう忍耐を与える。裏切られ見捨てられたと感じる時、希望は私たちが一人ではなく、もう一度成功できることを思い出させる。愛する人に最期の別れの挨拶をする時、天国の人生への希望が悲しみに打ち勝つようにしてくれる。」

「自分の人生を振り返ってみる場合、私たちは自分の心に語ろうとする主のすべての声を聞くために静かに待たなければなりません。」

「苦難には私たちの人生をシンプルにし、本質的なものに戻す力があります。祈りと信頼、静かに神を待つことへと戻ります。今自分に起こっていることが偶然ではなく、神の計画と目的の中にあるということを思い出します。」

「信仰によって歩みなさい。心配事で苦しまないでください。リラックスしてこういうのを学びなさい。主よ、これはあなたの戦いです。」

「持っていないもののことで心配すると、今持っているもので楽しむことが出来ません。」

「家庭は毎日の生活の金床で、道徳が打ち付けられ磨かれる場所だ。」

「神の沈黙は神の不在を意味しない。沈黙はあなたがより深く成長するための神の呼びかけである。」

「不平を言いながら、他人に対して否定的な態度を取る人々は、その人たちの心の喜びや安らぎを奪ってしまっている。これは、人の家に侵入して高価な銀の食器を盗むのと、何ら変わりのないことである。」

「教会は傷んでいる人たちが彼らの力の最大の源こそ神であることを知る助けをするために存在する。」

「どんなことがあっても、私たちは、大いなる委任(大宣教命令)を大いなる提案であるかのように扱ってはならない。」

「心配は明日の悲嘆をなくせません。ただ今日の力をなくすだけです。」

「忍耐は、甘い実をつける苦い木です。」

「過去を変えることも、他人の行動を変えることも、必然的な運命を変えることも出来ないが、最後に残ったひとつの手綱である私たち自身の意識を操ることはできる。」

〈クリスチャンが他の人を批判してはいけない七つの理由〉

1.私たちはすべての事実をみな知らない。2.私たちはその動機を完全に理解できない。3.私たちは完全に客観的な考えをすることはできない。4.その状況にいなければ正確に知ることはできない。5.私たちには見えない部分がある。6.私たちには偏見があり、視野が薄れていることがある。7.私たちは不完全で、一貫性がない。

ピーター・マーシャル(1902-1949年 スコットランド出身の米国人牧師 米国合衆国上院チャプレンも務める)

「困難のない人生に憧れる時は思い出すのです。樫の木は向かい風によって強く育ち、ダイヤモンドは高い圧力によって生まれることを。」

「人生の価値は、その長さではなく、どれだけ人のためになったかで決まる。」

「実行された小さな行ないは計画された大きな行ないにまさる。」

「ゴシップ紙に、ナザレのイエスのミイラ化した遺体がエルサレム旧市街で発見されたなどという衝撃的なニュースが載ることはない。クリスチャンが拝めるようにと、慎重に防腐処理されてガラスケースに納められた遺体もない。神に感謝することに、私たちにあるのは空っぽの墓だ。空っぽの墓が私たちに明かす栄光に満ちた事実とは、私たちにとって、命とは死の訪れとともに途絶えるものではない、ということである。死は壁ではなく、扉なのだ。」

ニック・ブイチチ

「最悪の時でさえ希望は姿を見せ、私たちに神の存在の証拠を与えてくれます。」

「今日、私の持つ力は昨日の私の痛みから来ている。」

「自分の力ではどうしようもない最悪の状況においてでさえ、神は私たちの心がどれだけのものに耐えられるかをご存知です。私は、地上の人生は束の間であり、私たちは永遠に向かって備えられていると確信しています。この地上での人生が良いものであれ悪いものであれ、天国の約束が待っています。私は辛くなった時にはいつでも、神はその難関と悲しみを耐え忍ぶ力を与えて下さり、たとえこの地上でなくとも、天国では必ずより良い時が待っているという希望を抱いています。」

バークレー・バックストン(1860-1946年 英国 宣教師、牧師、神学校教師 日本伝道隊の創立者であり、関西聖書神学校ならびにイエスキリスト教団の礎を築いた )

「本当の礼拝は、神がすべてのすべて(All in all)になること。人間は無きがごとき者(Nothing)なることを感じ神を拝すること。」

「深い認罪こそやがて徹底した救いを得させる唯一の道である。」

「聖書を信じるということは、聖書を結集し、信仰した歴史的な教会、現実の具体的教会の信仰にあずかるということ。」

「結局、真の紳士を造るのは生まれでなくして、恩寵である。」

「聖霊が与えられる喜悦なくしては、回心者は、又、後戻りしてしまう。」

「最も願わしく思われる事は、我らの宗派(聖公会)のどの線にも従わず、すべての日本人クリスチャンを一つの会衆に結合させる日本人教会があることである。」

「真の宣教の終局の目的は、決して西洋のキリスト教の教派的教会を輸入してこの国に建てることではない。その国の国民によって成る純然たる教会を、聖書及び霊的基準にしたがって築くことを奨励するのである。」

「準備なき説教は聖霊を信じるのではなく自己信頼。」

ウィリアム・ケアリ(1761-1834年 英国 宣教師 近代海外宣教の父)

「神から大いなることを期待して、神のために大いなることを企てよ。」

ジョン・R・モット(1865-1955 米国 YMCA指導者、ノーベル平和賞受賞者)

「あなたは、自分のために偉大なことを求めているのではないですか? それはやめなさい。まず神の国を求めなさい。」(ジョン・モットの生涯を決定付けたC・T・スタッドの言葉)

「愛と創造力に満ちたもう主、偉大なご計画を持ちたまいます。それゆえ私たちはあえて冒険をし、前を見つめて前進しなければなりません。」

「キリストの生涯、み業とみ言葉の記録を本気で学ぶとき、キリストはリアルになります。その人がどんな人であるかを知って初めて、その人はリアルになるからです。」

「キリストに従うということは、主の意志と支配に、絶対的に身を投げ出すことを意味します。私たちは、無条件に、完全に、私たちを明け渡すことです。あるフランスの作家が言ったように、『神にわれわれを導かないと感じる一切を、心において拒否する』ことです。」

「1日24時間のうち永遠に朽ちざる霊魂のために1時間でも用いる人はいないか、30分でも用いる人はいないか、青年よ、諸君の生涯は諸君の手にある。」

「つまずきの石を飛び石に変える。」

マーティン・ロイドジョンズ(Martyn Lloyd-Jones 1899-1981 英国の牧師 20世紀最大の説教者)

「何事かを試みて失敗する者と、何事も試みないで成功する者との間には、計り知れない相違がある。」

「クリスチャン生活を送ることが『歩む』ということばで表現されていることには、深い意味がある。『歩む』ということは、行動すること、動くことまた前進することを示唆している。」

「キリスト者が新聞を読み、世界で何が起こっているのかを知ることは大切である。しかし、その出来事の意味を理解することは、さらに大切である。」

「摂理とは、創造者がご自身の力の不断の行使によって被造物をささえ、この世に起こるあらゆる事柄の中に動き、すべての物事をその定められた目的へ向ける働きである。」

「人に決断を要請する明らかな聖書的真理ほど、人間の気分を害するものはないと言ってよい。」

「信仰義認をはっきりと理解できない人の問題は、自分で自分を完全無欠な者としようと試み続けるところにある。」

「主が行なわれたことの中には、たまたまそうなったとか、偶然ということは一つもない。その行動のすべては意図的であった。」

「現代の世界においてキリスト教会がそれほど大きな貢献をしないでいる理由の一つは、あまりにも多くのクリスチャンが霊的なスランプ状態にあることである。」

「自分が罪人であるか否かを決定するのは、その人の過去の行為ではなく、神との関係である。」

「『私はいまだに完全な者になっていませんから』ということばは、とても謙遜に聞こえるが、それは悪魔の偽りであり、信仰の否定にほかならない。つまり、自分で自分が謙遜だとうぬぼれているのだ。しかし、人が完全無欠の者になることは決してないであろう。落ち度のない人物となった人は、これまでに一人もいない。キリスト教信仰の救いの本質は、キリストこそが完全なお方であり、自分は主イエスの内にあると信じて告白することなのである。」

「救われた者は主イエス・キリスト以外の物や人物に目を奪われたり、信奉したり、それらに依存したりしなくなる。」

「他のいっさいのものを捨ててもよいと思うほどに自分自身がキリストに結びつけられていると感じないならば、あなたはクリスチャンではない。」

「クリスチャンとは永遠のいのちを持つ人のことである。」

「罪とは、人間がひたすら神の栄光を目指して生きていない状態のことである。」

「悪魔の招く野望は、神のみわざを打ち砕き、混沌を生み出すという一事に尽きる。最大の野心は、人間を神から引き離し、その力の及ぶ限り、人間が神を礼拝し、神に従い、神の栄光を現す生活を妨げることである。」

「罪とは究極的には自己崇拝、自己にこびへつらうことである。」

「『私は全身全霊をもって神を愛しているだろうか』。もしそうでないなら、あなたは罪人である。」

「真実のクリスチャンの喜びを知る前に、あなたはみじめな者とされなければならない。まことに、憂鬱顔のクリスチャンの究極的な問題点は、自分の罪を十分に認識せず、それを心から悲しんだことがない点にある。」

「人がキリストのもとへ導かれ、キリストのみに信頼するようになるのは、ただ罪の正しい認識によるのである。」

「私たちクリスチャンは、神の御子が地上におられた時に宿しておられたのと同じ聖霊を内に与えられていることを知っているだろうか。」

「クリスチャンの生き方は、もはや規則や戒律の問題ではなく、神がこれまでに成し遂げてくださったいっさいのことに感謝を表わしたいとの願いが中心となるのである。」

「クリスチャンは自分の未来について確固たる信仰を持っている。」

「キリスト教の真理が常に逆説的な内容を含んでいるというのは、紛れもない事実である。聖書は、喜べと命じ、誇れと勧めているが、同時に、謙遜で柔和であれと勧めている。しかし、そこに矛盾はない。信仰者の誇りは自分自身でなく、主イエスについてだからである。」

「イエスを賛美せず、イエスのために生きず、イエスのあかしに生きようとしない、いわゆるキリスト教というものには価値がない。」

「キリスト者とは、自分で自分をゆるすことができないにもかかわらず、神は自分をゆるしてくださったということを悟っている人のことである。言い替えれば、自分がゆるされている事実に驚いている人のことである。」

「信仰とは、動じないことである。」

「信仰とはパニックに陥ることを拒否すること。」

「地上最悪の罪人とは、自己満足し、自己完結している、善良で、道徳的な人々であり、今の自分のままで神の御前に立つにふさわしいと信じている人々である。…全宇宙で最悪の罪人とは、自分にキリストの血が必要であることを全く見てとったことのない人である。それより大きな罪はない。−殺人も姦淫も不品行も、それと比べれば無に等しい。」

「聖書によれば、幸福は、決して直接に求めるべきことではない。幸福とは、いつでも何かほかのことを求めた結果与えられるものなのである。」

「キリスト者はキリスト者であることによって、自動的に社会に影響を及ぼすのである。」

「人はあなたに心を留めない。あなたを愛してもくれない。あなたをほめてもくれない。しかし、あなたの主である方は、あなたをほめてくださる。もしそうなら、人々は、何者でもない。」

「キリスト教の信仰は、主を知ることに始まり、主を知ることに終わる。この《ほむべきご人格》を知ることに。」

「幸いなことに、時として神はご自分の答えを遅らせることがおありになる。それは、利己心や、私たちの生き方にあるべきでない物事をお取り扱いになるためである。」

「あなたは確信がなくてもクリスチャンになることがある。しかし、クリスチャンとして、あなたは自信を持って確信を味わわなければならない。」

「今日の教会におけるすべてのトラブル、またこの世におけるほとんどのトラブルは聖書の権威から離れたためであるということに疑いの余地はない。」

「悪魔は、あらゆる手段を尽くして聖書を読ませないように仕向ける。聖書によって初めて、悪魔の陰謀や策略についてはっきりと知ることができ、聖書を知れば知るほど悪魔を見破ることが容易になる。だから聖書を読むことが絶対重要である。もし、聖書を読むことを怠るなら、必ずや悪魔にしてやられるだろう。」

「流されたキリストの血によってのみ、自分が赦されたことを知っている人は、他人を赦さないではいられないのである。赦そうとする自分を押さえられない。もし私たちがキリストを真に自分の救い主として知っているなら、私たちの心は砕かれ、かたくななままでいることはできない。…神の栄光のために、また、謙遜をもって申し上げるのだが、私は、神の前における私自身を見、ほむべき主イエスが私にして下さったことの幾分かでも悟るとき、だれにでも、何事でも喜んで赦そうとする。赦しを押さえるわけにはいかないし、押さえたいとも思いもしない。」

「クリスチャンは必ず信仰が試みられるような境遇に立ち入ることを覚えながら進まなければならない。」

「信仰とは、神ののことばを、神のことばであるがゆえに、ありのままで受け取り、それに基づいて行動することを意味する。神が仰せになることを、ただ神がそう仰せになったというだけの理由で信じることを意味する。」

「真の召しはいつも他人への配慮、彼らへの関心、失われた状態の理解、彼らのために何かをしてあげたい、彼らに救いの道を示すメッセージを伝えてあげたいという欲求を含んでいる。これは召しの本質的な要素である。」

「聖霊のバプテスマは、イエスを信じる者に、その死と復活を証しするための証言力を与える経験である。イエスの御名のほかに救いはない。聖霊が私たちの上に臨まれるとき、キリストの福音は世の人々の心に届き、その生涯を死からいのちへと変えて行く。リバイバルとはペンテコステの繰り返しであり、聖霊が再び教会の上に注がれることである。私たちはリバイバルを信じるだけでなく、そのために絶えず祈るように召されている。」

「キリスト教信仰は日曜だけに関係があるものでなく、生活の全領域で表明されるべきものである。」

「人はあなたに心を留めない。あなたを愛してもくれない。あなたをほめてもくれない。しかし、あなたの主である方は、あなたをほめてくださる。もしそうなら、人々は、何者でもない。」

「キリスト者とは、自分で自分をゆるすことができないにもかかわらず、神は自分をゆるしてくださったということを悟っている人のことである。言い替えれば、自分がゆるされている事実に驚いている人のことである。」

「酒は抑制剤に分類される。脳の中心的活動―自制力、判断力、からだの均衡等―を抑制する。聖霊は活性剤のような役割をする。聖霊は、精神と知性、意志と感情等のすべてを活性化する。」

「もし1世紀の古代世界で、『イエスは主です』とあなたが言えば、それは殉教を意味した。あなたがユダヤ人なら、家族からの追放、家系からの名前の抹消を意味した。『イエスは主です』と言う人は、その生涯を主に明け渡し、教会に加わり、たびたび迫害に会い、嘲られ、誤解されるのである。・・・・これは究極の告白である。

信仰を受け入れただけでなく、自分自身を委ね、のしかかる自分の望みや恐れのすべてを主イエスに委ね、自分の十字架を背負い、主に従うということなのである。」

「聖書はどれも個人的な解釈ではないし、人間のものではない。これは神の言葉である。それを読みなさい。それを研究しなさい。それをむさぼり読みなさい。それを理解しなさい。あなたの時間と注意とをそれに向けなさい。あなたは、あらゆる機会を利用して、このみことばを理解しているか。1週間に一度の礼拝に出席するだけで十分だろうか。みことばを理解するために、公的礼拝の説教に注意することが何度あるか。また個人的な聖書研究をどの程度行っているか。御霊の導きを受けるのは、こうした方法からである。」

「私たちはみことばの光に照らして、自分自身をも調べなければならない。自分の関心が何よりもまず神に対する自分の関係であると言えないようでは、私たちがどんなことを信じているにしても、多かれ少なかれそうしたものは的を外れている。この世にある自分の生の営みを一時的であり、過ぎ去るはかないものと見なしていると言えないなら、私たちの考え方は誤っている。考えたり話したりする中で、この世とこの世の生活が自分にとってすべてであるかのような、常に自分の思いの中心であるかのような印象を人に与えているなら、私たちはもはた新約聖書の立場に立っているとは言えないのである。

問題は多くある。そのために何かをしなければならない。それらとどうかかかわるか知らなければならない。しかし、聖書が教えている方法でなければ、すなわちこの世の歩みがすべて過ぎ去る一時的なものであり、私たちは別の世界にも属していることこそ重要なことと自覚していないなら、私たちはキリスト教の立場に全く立っていないことになる。したがって、そういう誤った状態で私たちがどんな推論をしても、それは大抵間違うことになる。」

「キリスト者の関心事はこの世での生活を福音の光に照らして見ることにある。その福音によれば、人間の問題点は罪の現れである個々の出来事ではなく、むしろ罪そのものなのである。惨禍(悲惨な渦)を避ける最も直接の道は、『義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。』という聖書の言葉を注視することである。世界の一人一人の男女が義に飢え渇くことが何であるかを知ってさえいれば戦争の危険はない。ここに真の平和への唯一の道がある。こうして私達は神の言葉を考察する代わりに、人間の思想や所感の表明に私達の時間と神の時間とをしばしば浪費しているのである。」

「あなたは、自分がどのような態度を神に対してとっているかと自問したことがあるだろうか。あなたは神に反抗しているか。神を憎んでいるか。自分は神に知られている以上に神のことを知っている、と思っているか。もしそうならば、よろしい、あなたが今受けている苦しみは将来受けようとする苦しみに比べればとるに足らない、と私は断言しよう。そうした思いこそが、あらゆる病、あらゆる困難の根本原因なのである。すべての苦しみ、すべての痛み、すべての混乱は、そこから生じている。この事実をしっかりと見据えて認め、深い後悔と悔い改めの思いを持って神に近づくことから、唯一の希望は生じる。」

「神は時々、私たちに暗闇の訓練を課せられる。それは、私たちが神に聞くことを学ぶためである。…どんな時にも神に聞くという砕かれた心がもたらす謙遜の賜物を与えてくださる。」

「クリスチャンは良い人ではない。彼は神の恵みによって救われている下劣な悪党である。」

「祈りは、まちがいなく人間の魂の最高の働きである。人はひざまずいているとき、最も偉大で最高の状態にあり、面と向かって神にお会いしているのである。」

「自らをクリスチャンと主張するすべての人にとって、最も重要な質問はこれだ。彼らの魂は神に対して渇いているだろうか? 彼らの人生は神中心になっているか? 彼らはいよいよもってキリストを知ることに前進しているだろうか?」

「恵みは何の好意も受けるに値しない人々に示される好意である。私たちは地獄以外、受けるに値しない者である。もしあなたが自分は天国を受けるに値すると考えるなら、あなたは間違いなくクリスチャンではありません。」

「あなたは押しつぶされそうな問題に苦闘しているかもしれない。他のだれも耐えられないような状況にあるかもしれない。あるいは、困っているのは健康上のことかもしれない。しかし、それが何であれ、問題ではない。その問題や立場がどうあっても、それが一時的な次元のものであることを忘れずにいよう。それは過ぎ去っていくもの、『肉による』種類のものである。永遠の次元のものでないことを神に感謝しよう。」

「私たちの主がそうであったように、教会の任務は、人々に彼らの神との関係を想起させることにある。人々はそれぞれ問題をもってやって来る。それで私たちのするべきことは、神に強調点を置き、神との彼らの関係に第一の場所を与え、この現実の生活と世にたいする正しい態度を彼らに教えることである。世界の病弊がおもにその異教主義や神への不敬虔また反宗教性にあることを、大多数の人々が認識していないところに、今日見られる世界の悲劇的状況の原因がある。」

「教会の任務はまず第一に伝道、つまり人々を神に導くことである。そうしたなら次に、神の下にある神の民としてどのように生きるかを、彼らに教えることである。教会は世を改革するためにあるのではない。なぜなら、世は改革されることができないからである。教会の務めは伝道である。すなわち罪のゆえに真理が見えず悪魔の支配とその力の下にある人々に、救いの福音を語ることである。教会が政治と経済の細部に首を突っ込み始めた瞬間、第一義的な伝道の任務を妨げ始める。」

誘惑と罪

誘惑されることと、罪を犯すことは、正しく区別しなければならない。悪魔が頭に吹き込む考えを支配することはできない。パウロは『悪い者が放つ火矢』(エペソ6・16)について語っている。主イエスご自身も誘惑を受けた。悪魔は主の頭にあれこれと考えを吹きこんだ。しかし主はそれらを拒絶し、罪を犯すことはなかった。あれこれの考えが頭を「よぎる」限りでは、それは罪ではない。それらを歓迎し、気に入るとしたら、そのとき、それは罪となる。多くの人が、自分に下劣な考えが入ってきたからといって、非常な苦しみに陥った。「入ってきた」のであって、「そう考えた」ではないのなら、罪を犯したのではない。それは悪魔からやってきたのである。誘惑は、それ自体として」罪ではない。

北森嘉蔵(Kazo Kitamori 1916-1998 牧師、神学者)

「思い煩わざるを得ないような時思い煩わないのが信仰。」

A・B・シンプソン(1843-1919 カナダ生まれの神学者、説教者、クリスチャン&ミッショナリー・アライアンスの創設者)

「ゆだねるとは、引き渡すこと、他の人に全面的に委託することを意味する。もし私たちが自分の試練を神にゆだねるなら、神はその試練を担ってくださるのである。…そこには二つの御手がある。私たちを押し下げへりくだらせる神の御手と、私たちを引き上げる神の御手である。」

「私は愛せざるを得ない愛を求めています。つまり、神様の愛、その愛を求めています。」

「神様はご自身のために特別な性格を持つ人々を探しているのではなく、この世代に、ご自身の栄光を現わせる謙遜な人々を探しておられます。」

「もし私たちのうちで一番小さいものが、信仰の最もつつましい奉仕から生ずる永遠の収穫を確信できるなら、犠牲や骨おりを、言語に絶する栄誉と機会の遺産とみなし、試練や神のための犠牲についてとやかく言うことはないはずである。そしていつの日か、喜びのあまり我を忘れ、涙を流して叫ぶだろう。」

「私たちは過ちを犯し、容易に避けられるはずの多くのトラブルを自らに招く。しかし、神は間違いを犯した子どもを捨てることをなさらず、へりくだって悔い改め、嘆願をするならば常に赦し、救い出す備えをしておられるのである。このことは、私たちにこの上ない励ましを与える。道を踏み外しても、信仰を捨てないようにしよう。」

「ゆだねるとは、引き渡すこと、他の人に全面的に委託することを意味する。もし私たちが自分の試練を神にゆだねるなら、神はその試練を担ってくださるのである。…そこには二つの御手がある。私たちを押し下げへりくだらせる神の御手と、私たちを引き上げる神の御手である。」

「成長は後退からの救済策です。ですから、成長するか後退するかしかありません。」

「私はキリストのしもべに対して暴言をはき、あるいは、多くのクリスチャンがしているように、他の人々に、くりかえし、くりかえし、中傷の矢を突き刺すよりは、むしろ電光に打たれて死ぬか、強力な電流の通っている裸電線を両手で握って死んだほうがましだ。」

ジョージ・B・ダンカン(George B. Duncan 英国の牧師)

「キリストの要求される明け渡しは、私たちの生涯をだめにするような過酷なものではない。私たちが求めても、しばしばそれを見出せない幸福へ私たちを導くように企てられた、愛に満ちた、賢明なものである。」

「血(主の十字架での血)とはいったい何を意味するのだろう。それは、神との正しい関係に自分自身を入れるのに自分は何もできないことを示している。 」

レーナ・マリア(1968〜 スウェーデン ゴスペル歌手)

「神様は、何か目的があって、私をこういう形に作られたのだと思います。ですから、その目的がなんであったのか、これから知らされるのが楽しみです。」

「一番危険なのは、自分をあわれむ気持ちに陥ることだと思います。」

「私が生きるのに必要な力や喜びは、すべて神様が与えて下さることがわかったので、『私には乏しいことがない(聖書・詩篇23篇)』のです。」

「あなたが自分の人生を神様の御手のうちに明け渡した時から、それを自分でコントロールすることはできなくなります。神様はあまりにも愛しておられるので、人生のほんの一部だけを支配することでは満足なさらないのです。主は、私たちの人生のすべてを求めておられるのです。」

「最近、私は分かってきたような気がするのです。他の人たちが何を言い、どう考えるか、またその場でもっとも賢明と思われることは何かということにではなく、自分の心の中に語りかける神さまの御声に聞き従おうとする時、他の何ものにも代え難い平安が心の内に与えられる、ということを。心が指し示すことに従ったり、人と違うことをしたりするのは、時に大きな代価を伴うこともあるかもしれませんが、それだけの値打ちがあるものなのです。」

コーネリアス・ヴァン・ティル

「聖書が教える神の御旨とは、世界のあらゆる領域を、キリスト礼拝の場と変えることである。」

ジョン・パイパー

「神が私たちにおいて最も大きなご栄光をお受けになるのは、私たちが神において最も満ち足りているときである。」

「破裂するこの世のバブルの中で人生を浪費するには、人生はあまりにも貴重で、短すぎです。」

「聖書の最も素晴らしいことは、喜んで祈る者に答えることで、求めることを満たす神様を明らかにするということです。」

「人々が語る金銭や名声、余暇、あるいは家族や仕事、健康、スポーツ、玩具、友達よりも、もっと大切で、偉大なことは、主だけです。主は、私たちの罪と罪悪感、そして痛みから平安を与えてくださるからです。」

「神様の永遠性を黙想するとき、船が底面でバランスを取っているように、揺れる私たちのたましいの重心が取れます。」

「キリストが信頼できるかどうかは私たちの金銭の使い方にかかっている。」

「金銭を用いて、所有物ではなく神が私たちの宝であることを示す。」

「キリストを賛美すること(プレイジング)の本質は、キリストを重んじること(プライジング)です。」

「日々クリスチャンが生きるとは、日々死ぬことです。」

「罪とは、私たちの心が神に満ち足りていないときに犯すものである。」

「人生は、ひとつの祝福から次の祝福へと続き、最終的に天国に至る、という一直線の道ではない。人生は曲がりくねった困難な道だ…困ったことが起こると神が現れて、尻拭いをしてくださる、ということではない。神は策を練って困った問題を管理し、神の遠大な目的のために、それを用いられる。神の目的は、私たちの徳を高め、イエス・キリストの栄光を表すことだ。」

「繁栄した西洋諸国では、人は苦しみや問題なしに生きられて当然だという考え方があります。人生が私たちをその逆の目に遭わせると、私たちには誰かを、あるいは何かの体制を責めて、自分たちを憐れむばかりか、苦しみに対処することに大半の時間を費やす権利があると考えるようになります。それで、他の人たちに奉仕する時間や体力などないということになるのです。」

「あなたの生活が礼拝となったとき、神様は、人々の目に価値あるものと見え始める。」

「情欲とは、性的欲望から礼儀ときよさを引いたものだ。」

「情欲の喜びの炎には、神の喜びの炎でもって応戦しなければならない。」

「神との平和は、過去の罪が痛むを止めるものではない。過去の罪が麻痺させるのを止めるものである。」

「もしあなたがーイエスご自身ではなくーほかの何かを得るための方法としてイエスを受け入れようとしているなら、あなたはイエスを受け入れているのではありません、あなたはイエスを利用しているのです。」

「私たち世代にとって、またすべての世代にとって、重大な問いはこうである。もし、あなたが天国に行く事ができて、そこには病もなく、友人がみんなおり、好きな食べ物もすべてあり、好きだった娯楽もすべて揃っていて、生前に見たすべての美しい風景が広がり、これまで体験したことのある楽しみに満ちていて、争いや自然災害もなかったとしたら、満足するだろうか。たとえキリストがいなかったとしても。」

危機に際して、どのようにすれば信仰を保てるか?

危機にないとき、神への信頼を養い、育てなければなりません。危機が訪れるのを待っていては、信仰を保ち続けるのに必要な力や深さは身につかないでしょう。

日々、神の愛と力に深い信頼を寄せるようにしましょう。着実に成長するよう、毎日キリストと交わるようにしましょう。危機が訪れても、恵みにしっかりと根づき、根が強くなるよう、成長しましょう。そうすれば、危機が訪れると非常に多くのクリスチャンが陥るほど、くじけることはないでしょう。

順調なときには、眠くなり、霊的なことに無関心になります。危機が訪れても、信仰があれば大丈夫なような気がしますが、実はそうではありません。このため、非常に多くのクリスチャンが、危機のただ中にあっても、深く静かに信頼して、主にゆだねることをせず、神の御前でこぶしを振りかざし、「あなたはどこにいるのか?」と嘆くのです。こういった人たちは、神が、順調なときにも困難なときにも、支配しておられ、愛し、気遣っておられることを知らないのです。

聖書では一貫して、神が善も悪も支配しておられる、と述べられていることを踏まえ、信仰を育てていかなければなりません。そうすれば、よいときも悪いときも、神への信頼は揺らがないのです。

マシュー・ヘンリー(Matthew Henry 1662-1714 英国 牧師)

「自分の最後の日に備えることを、日々の仕事にするべきだ。」

「女はアダムの頭となるために彼の頭から造られたのでもなければ、彼によって踏みつけられるために彼の足から造られたのでもなかった。彼女が彼の脇腹から造られたのは、彼と同等の者となるためであり、彼の腕の下から造られたのは保護されるためであり、彼の心臓の近くから造られたのは愛されるためであった。」

「愛は根、従順は実。」

「頭が天にある人は、その足を墓に置くのを恐れる必要はない。」

「積極的な信仰はまだ事が成就されずとも、その約束のために神に感謝する。神の約束は現金と同じである。」

「聖なる喜びは私たちの従順の車輪へのオイルになります。」

「私たちが真理を持っていることの明確な証拠は、私たちが真理のうちを歩むことです。」

「不満は、それ自体が罪で、人々を苦しめる罰です。それは、霊を嘆かわしい、体を病ませ、喜びを悪化させます。魂を落胆させ、骨を痛めます。」

「もっと多く、もっとよい、もっと刺激的で、もっと新しいものを求める絶えることのない欲やそれによる不満は、私たちの自由を奪い、私たちを縛ります。私たちのたましいを落胆させ、私たちの骨を腐らせます。」

「私たちは主の降誕だけではなく、主の再臨も信じています。”主を待つということは、主を望み、主を喜び、主に頼り、そして、主に忠実な生活を送ることです”。」

「私たちは心をつくして神を愛し、また、神は最高の存在で、とても優しい方、限りなく完璧で優れた方であると見なさなければなりません。そして、私たちが感謝と関心を捧げる義務を負うお方であると。」

「キリストの言うことを聞くというのは、それに耳を貸すことではなく、キリストに従うということにほかならない。だからわれわれすべてにとって大切なのは、キリストのことばとして聞いたことを、実行に移すことである。」

「感謝は良いことである。しかし、感謝しながら生きる方がもっと良い。」

「聖書は神が私たちに送られている手紙であり、祈りは私たちが神に送る手紙である。」

「並外れた苦悩は、常に並外れた罪の罰ではないが、時に並外れた恵みの試練である。」

「私たちが子どもたちにしてあげられる最大の厚意は、彼らに早めに聖書を知るようにしてあげることです。」

ある日、彼は御言葉を伝えてから帰る途中で強盗に遭って、持ち物をみんな奪われてしまったことがありました。彼はその時のことについて、次のように告白しました。

「第一に、私が以前、強盗に遭ったことがないというのが感謝である。第二に、強盗が私の財布は持っていったが、私の命を奪わなかったのが感謝である。第三に、彼らは私が持っていた全てを持っていったが、それがそれほど多くなかったから感謝である。第四に、私が強盗でなく、強盗に遭った人であるということが感謝である。」

ビル・ブライト(アメリカの世界的伝道者。キャンパス・クルセード・フォー・クライストの創立者。彼は1965年に四つの法則を書き、1979年に映画『ジーザス』をプロデュース)

「真の伝道とは、聖霊の力によってキリストをわかりやすく伝え、結果は神にゆだねることです。」

「アメリカのクリスチャンの大半は、聖なる神という観念を失ってしまっている。彼らは、愛、知恵、主権、恵みといった、神の聖なるご性質を理解していない。神は今ここにいまし、生きて働いておられ、いつでも交わることができ、知ることができるお方であるということを理解していない信者が非常に多い。無数の調査が明らかなことであるが、毎週礼拝を守っている1億人のうち、半数が救いの確信を得ていない。そして、95%が聖霊のご性質と働きに親しみを感じていない。アメリカのクリスチャン全体のうち、日常的にキリストに対する自分の信仰を他の人々に証しているのは、2%にすぎない。神のリアリティは日常生活からすっかり切り離されてしまっているようである。その結果、映画、テレビ、広告などから絶え間なく浴びせられている世俗の態度や、仲間からの日常的なプレッシャーに、いとも簡単に影響されてしまう。大多数のクリスチャンにとって、神とは、日曜日の朝にじっくりと考える知的な概念にすぎない。今日の教会において罪の筆頭に挙げられるのは不信仰である。神を現実的なものとして捉えられない以上、神のために『燃える』ことは不可能である。」

神は霊。だから、私は神との親密な交わりを求めよう。

神は全能。だから、神はどんなことについても私を助て下さる。

神は遍在。だから、いつも私と共にいて下さる。

神は全知。だから、私はどんな質問や懸念も神の下に携えて行ける。

神は統治者。だから、私は喜んで御心に服従する。

神は神聖。だから、私は清さと崇敬と礼拝をもって神に身を捧げる。

神は絶対的な真理。だから、私は神が言われることを信じ、それに沿って生きる。

神は義なる方。だから、私は神の基準に沿って生きる。

神は公正な方。だから、神は私を公平に扱われる。

神は愛。だから、神は無条件に私の幸福を顧みて下さる。

神は憐れみ深い。だから、私が心から罪を告白すれば、それをゆるして下さる。

神は忠実。だから、私は神がいつも約束を守って下さると信頼できる。

神は決して変わることがない。だから、私の将来は安全で、いつまでも続く。

ジョン・バニヤン(1628-1688 英国の牧師、文学者 著書『天路歴程』)

「あなたが神のためにする良いことは何でも、それがみことばに沿って行われるのなら、あなたのために宝として金庫の中にたくわえられ、人々と御使いの前で、あなたの永遠の慰めのために、報いとして与えられるのである。」

「祈りは神様に心を開いて、空いている私たちの魂を神様で満たす手段です。」

「見返りのないことを誰かにするまでは、まだ今日を生きたことにはならない。」

「お前は罪をすてて天国へ行くか、それとも、罪を犯して地獄におちるか?」

「捨てれば捨てるほど、より多くのものが手に入る。」

「祈りは罪をやめさせます。罪は祈りをやめさせるために誘惑します。」

「無神論者は見えざる支援の手段を持っていない人のことである。」

「他人の罪は忘れて、自分の罪を思い出せ。」

ジョン・D・ロックフェラー

「世界で最も貧しい人は金以外の何も持っていない人である。」

「何百万もの富を築いたが、私はそれで幸せを得ることはなかった。」

「私のお金を稼ぐ才能は、神様から頂いた賜物であると信じています。このような素晴らしい神様の賜物を受けているのですから、お金を稼いでそれをまた増やして得たお金を、主のみこころに従って用いることが私の使命であると考えているのです。」

「思うに快楽に耽る人生ほど快楽から遠いものはない。」

「年をとり過ぎているために聖書が学べないということは決してない。学ぶたびに新しい意味、新しい思考が与えられ、変えられていくのである。」

ジョシュ・マクドウェル

「キリスト教は堅く揺るぐことのない真理です。この真理を信じるなら、3つの疑問への答えも自ずとわかってきます。――私はだれなのか。私はなぜ、ここにいるのか。私はどこへ行くのか。」

「愛は、与えるのを待つこともある。しかし欲は、もらうのを待っていることができない。」

「私の達した結論では、イエス・キリストの復活は、人間の心に挿入された不道徳かつ悪質で冷酷極まりないでっち上げであるか、もしくは、史上最高の素晴らしい事実であるか、真逆の2つのうちどちらかでしかありえない。」

「キリスト信仰で大事なのは信仰者ではなく、信仰の対象である。信頼する側ではなく、信頼される側なのだ。」

チャック・スミス(Chuck Smith 1927-2013 米国の牧師 カルバリー・チャペルの創立者)

「私は神のしもべになりたい。ただそれだけです。」

「創世記から黙示録まで、聖書を通読して初めて神のメッセージを健全に捕らえることができる。」

「もし私たちの神との関係が、私たちの義や善によっていたなら、私たちは決して成功することはできない。」

「努力や行ないという土台の上に神との関係を持とうとすることは、常に苦闘を意味する。私たちは神の恵みを体験するまで、神の平安を知ることはできない。」

「我々の行動は、我々の信じているものと調和がとれなくてはならない。信念とは、単に私たちが口で言うことではなく、私たちがする行動によって現されるものである。」

「私たちの思いは、御霊に従って生きるか、肉の欲求に従って歩むかを決断する戦場である。」

「御霊によって歩むとは、私たちが意図的に、常に神を自分の友、道連れとすることを意味する。」

「人を喜ばせるよりも神を喜ばせる方がはるかにたやすいことだ。神を喜ばせるにはただ神を信じ、神を信頼すればいい。それが恵みの福音である。」

「キリストにあって一つであることからくる喜びは、世や肉が与えることのできる何ものにもはるかに優っている。」

「フレキシブルな(融通のきく)人は幸いである。その人は折れないから。」

「これが人生の最後の説教となるならば、私の選ぶ説教箇所はヨハネ3章16節である。」

「自分がわからないことをもって自分のわかっていることを決して放棄してはならない。」

「幸福は、神との個人的な関係を通してのみ得られるのです。もしあなたが神との正しい関係にあるなら、あなたはとても幸せになります。」

「人々は、どんな神に仕えていても、すべての道は天国に通じると言います。しかしそれは間違っています。問題や助けが必要な時に、それは本当に大きな違いがあります。」

「神と私にとって、大きすぎて手に負えない問題に直面することは決してありません。神と私にとって、大きすぎて打ち勝つことのできない障害はありません。神と私にとって、強すぎて打ち負かすことのできない敵は一人もいません。神と私は、どんな群衆の中にあっても大多数を占めるのです。」

「恵みという言葉の根源の意味は『美』です。新約聖書における恵みは、『神がその人の真価に関係なく、与えて下さる好意、贈り物』という意味です。恵みとは、私が自分の力では得ることの出来ないものを私にくださることです。恵みとは、私にはその価値がないのに神に受け入れられるということです。」

「イエスが弟子の一人に裏切られ十字架の死に至り、葬られるまでの預言が一人の人のうえに偶然に成就する確率を、それぞれの詳細な預言についての要素を考慮して統計的に的中する可能性を計算すると、複合統計的中率は、控えめな見積り計算をしても10の49乗分の1の確率になると言われています。」

「罪は、粉にあるパン種のようなもの。パン種を少し入れて、粉全体にふくらみます。私たちが罪を生活に取り入れてしまうと、最後には支配して、こんなことは金輪際しないって思っていたことをするようになってしまいます。」

「恵みは、荒れ果てた寂しい吹きさらしの平原を肥沃な緑の牧場に変えます。恵みは、奉仕を義務として歯を食いしばり耐えながらやるものから、愛に駆りたてられて自発的に熱心にやるものへと変えます。恵みは、自分で努力し失敗して流す涙と罪責感を、神の右の手により無償で提供される喜びの笑いと永遠のスリルに変えます。“恵みはすべてを変える”のです。」

「サタンが神の反対ではありません。同じ分類に入れられません。神は無限で永遠の創造主であり、サタンは有限の被造物です。ミカエルやガブリエルの反対であっても、神とは違います。従って、どんなに地獄の勢力が敵対しようとも、あなたに用意されている力と比べれば無に等しく、神は味方なのです。」

「神があなたに願っていることを知りつつしないのは、神はあなたの人生の主ではないということです。」

「神への礼拝は、知的であるべきだと信じています。したがって、私たちの礼拝は、神のみことばの教えを強調するようになっています。それは、神が、ご自分への礼拝がどのようになされるべきかを教えられるためです。」

「神はしばしば、下水溝(=どん底)にいる人のところに行き、神の恵みを受けるようにされます。神は引き上げ、洗い、一新させます。そして御国にふさわしい神の子どもとされます。これが神の恵みです。」

「まず知らなくてはならないのは、私たちが状況を支配しているのではないということです。神がそれを支配しておられ、神ご自身のご計画とみこころに従ってそれが実現されるのです。祈りは、決して、神のご計画を変えようとして捧げられるものではありません。祈りとは神のみこころを変え、ご計画を改めさせ、私の願うようになることだと考えることは、非常に間違っています。祈りの真の目的は、神のみこころが実現することで、神のご計画が成就するように私の心の扉を開けることです。」

「神からの答えの証拠がある時、神をほめたたえるのは簡単です。何か実現した時は特にそうです。「主よありがとうございます。あなたはすばらしいです!」その時点で喜ぶのですが、まあ良いでしょう。けれども、それは信仰ではありません。信仰は、成就する証拠がないうちに喜ぶことです。」

「人生における試練は、あなたを神ご自身へと近づける手段なのです。」

「聖霊を求める真の目的は、あなたが、聖霊をもっと得ることではなく、聖霊があなたをもっと得ることなのです。」

「信仰と疑いの違いは、どこに私たちの目を留めるかなのです。」

ウィリアム・ラルフ・イング(英国の神学者)

「心配は、それがやってくる前に支払われるトラブルの利子である。」

ギルバート・ケイス・チェスタートン(Gilbert Keith Chesterton 18754-1936 英国の作家、批評家)

「人が神を信じるのを止めるとき、彼は何も信じなくなったわけではない。神以外の何ものかを信じるようになるだけである。」

「愛するとは愛し難い者を愛すること。赦すとは赦し難い者を赦すこと。信仰とは信じ難いことを信じること。希望とは何もかも絶望的に見える時に希望を持つこと。」

「神がいなかったんなら、無神論者もいなかっただろうに。」

「死体はただ流されるだけだ。生きているものだけが流れに逆らって進める。」

「ひとについて言われることが何であれ、この一点は明らかである。すなわち彼は、そうあってしかるべき者になっていない、ということである。」

「問題は明らかだ。それは光と闇とであって、だれしも自分がどちらを選ぶか、決めねばならない。」

「喜びは、キリスト教の巨大なる秘密である。」

「無神論者にとって最悪なのは、心にずっしり感謝の念を感じながらも、感謝すべき相手がいないことである。」

「世界を苦々しいものにしてるのは、批評があまりに多過ぎるからではない。自己批判があまりに少な過ぎるからだ。」

「この人生について言えば、決め手となるのは、君がものごとをありきたりのつまらんものと受け取るか、あるいは、ものごとを喜悦をもって受け取るか、ということである。」

「勇気というのは、ほとんど矛盾した言葉であって、生きたいという強い願望が、死をも厭わぬかたちを取っている。」

「キリスト教的理想というのは、追求されて不満足に終わったのではない。難しそうなので、誰も追求しようとしないだけだ。」

「重くなるのは簡単。軽くなるのが難しい。」

「戦う気持ちが無いのに何かを愛することは出来ない。」

「塀をのけようとする時は、じっと立ち止まってお考えなさい。なんで塀がそこへこしらえてあるのか、ということを。」

「愛とは、愛し得ない者を愛するということであって、そうでなけりゃ何の価値もない。」

「作られた物というのは出来上がってこそ愛されるものだ。創造された者というのは生まれて来る前から愛されているのだ。」

「天使が飛翔できるのは、おのれを軽く考えているからだ。」

「時代の霊と結婚した者は、すぐに寡婦になる。」

「神を廃止すると、政府が神になる。」

「聖書はわれらに隣人を愛せと言い、また、敵を愛せと言う。理由はおそらく両者がだいたい同じ人々だからであろう。」

「われらは友をつくる。われらは敵をつくる。しかし神は、われらのとなりにいる隣人をつくりたもう。」

「神の謎かけは、人間の策よりも、満足が行く。」

「悪魔の友となることは、悪魔の敵であることよりも、危険である。」

「改革者というのは、何が間違っているのかについては、だいたい正しいことを言うが、何が正しいのかについては、だいたい間違ったことを言う。」

「現代の代議士というのは、選挙民を代表せんばかりか、自分自身をすら代表せんのだ。」

「正しいことは正しい。たとえ誰もそれをしないとしても。悪いことは悪い。たとえ誰もが悪いとしても。」

「現代世界はスピード自動車の群れだ。その目的はただ、渋滞し混雑し動けなくなることにある。」

「解決法がわからない、ということが問題なのではない。問題がわかっていない、ということが問題なのだ。」

「正しい人間にとって正しい宗教なんぞ、われわれは求めない。自分が間違っているときでも正しい宗教、というのを求めるのだ。」

「ある神学者らは、原罪の概念を葬り去ろうとするのだが、原罪こそは、キリスト教神学において実在が立証された、唯一のものである。」

「教会に行ったからとて、あなたがキリスト者になるわけではない。あなたがガレージにつっ立ってたって、自動車になるわけでないのと同じである。」

「ひとはみな、自分が若いうちは、自分が若いということを知らない。」

「人生の無意味さを思い知るのは、苦痛に疲れ果てた後じゃない。快楽に疲れ果てた後なのだ。」

「わたしがだれかに、きれいな夕日を見る思いを一瞬でも与えることが出来たなら、わたしは自分が神と共に働いたと感じることが出来るだろう。」

「子どもの教育についてなすすべもなく途方にくれているのは、その両親だけのように思える。」

「泥棒は財産を大事にする。ひとの財産を自分の財産にして、もっと大事にしたいと泥棒は願ってるのだ。」

「イエスは弟子たちに三つのことを約束された。まったく恐れがなくなること。無性に幸せでしかたないこと。いつでも試練が絶えないことである。」

「人間は宗教をひとりで所有出来ない。ひとりで太陽や月を所有出来ない以上にそうである。」

「自分への完全な確信とは単なる罪ではない。自分への完全な確信とは弱さである。」

「なんでまた、すべての人に対する何者かであろうとするのだね。君は誰かにとってのすべてになり得るというのに?」

「勇敢な人間というのは芯があるのだ。表面はやわらかだが、真ん中が強靭なのである。」

「君の内なる自己がもっと小さくなりさえすれば、君の人生はどんなにか大きくなるんだが!」

「聴くのと聞くのとでは大違いだ。」

「十字架は打ち破られたことだから、誰もそれを打ち破ることができない。」

「人間は誤るものだ。そうして、誤りのうちで最後の最悪の誤りは、一度も誤りを認めないことである。」

「なんであれ、おのが力で成し遂げた事というのは、みじめな失敗に終わるか、あるいは、もっとみじめな成功を得るかである。」

「心を開くのは、口を開くときと同様、堅いものを噛むためである。」

「あたりまえのつまらんことなど、ありはせぬ。あらゆることが、喜悦をもって受け取れる。あらゆることが、お恵みとして受け取れる。」

「芸術というのは道徳と似ていて、どこかに線を引くことで成っている。」

「ある事をなす権利がある、というのと、その事を正しくなす、というのは、まったく別の話だ。」

「知性を介さず眼からハートへ直結する回路というのがあるのだ。」

「新年の意義は、われらが新しい年を得るということにない。われらが新しい魂を得るということにこそある。」

「人間は何を悪とするかで大した意見の相違は無い。非常に意見が割れるのは、言い訳の立ち得る悪を何とするか、という点である。」

「天使が飛翔できるのは、おのれを軽く考えているからだ。」

「悲劇とはいつでも、人間と人間より大きな力との葛藤である。」

「問題は明らかだ。それは光と闇とであって、だれしも自分がどちらを選ぶか、決めねばならない。」

「忘れ去られた異端の仇敵として忘れ去られること。これに優る高貴な定めは他に無い。」

「私は感謝の気持ちが、最も高尚な思考形態であると考えている。そしてその感謝の気持ちとは、驚きによって倍増された幸福感なのだ。」

「真の満足は、いかなる状況からも、その中のあらゆる価値を取り出せることにあります。」

「徹底して現世的な人びとには、現世そのものを理解することさえできぬものだ。」

「人間は自分自身を疑って然るべきものだった。しかし真実を疑うべきではないはずだった。」

「キリスト教は、まずこの二つの観念を分断し、しかる後にその両方を極端にまで押し進めた。ある意味では、人間はかつてためしのないほど誇りを高く持つべきだった。だがまたある意味では、人間はかつてためしのないほど身を低く持すべきだった。私は、「人間」であるという意味ではあらゆる被造物の長である。だが私は、一人の人間にすぎぬという意味では、あらゆる罪を犯した者の最たるものでもある。」

「「自己を誇るなかれ。しかしてまた自己を卑下することなかれ」という金言なら誰にも言えたはずである。そしてこの金言は人間を縛るものであったはずである。しかし、「ここでは自己を誇ってよろしい。ここでは自己を卑下してよろしい」と言い切ること―それは人間を解き放つことだったのである。この新しいバランスの発見こそ、キリスト教倫理の重大事だった。」

「キリスト教はすべて、岐路に立った人間に集中する。」

「現代では、キリストの神性をできるだけ小さく見つもろうとしたり、人間的あるいは「科学的」に説明しようとしたりする試みがよく見られるが、この場合にも、今まで述べてきた事実はやはり事実として当てはまる。こういう説明が正しいかどうか、それは後で論ずることにする。だが、もしキリストの神性が事実であるとすれば、この神性が恐ろしく革命的であることもまた事実である。正しい人間が窮地に陥ることもあるということなら、われわれにもことさら珍しいことではない。けれども神が窮地に陥ることがありうるなどということは、どんな反逆者が主張するにしても恐るべき傲慢の言と言うべきだろう。神が単に全能であるだけでは完全ではないと感じた宗教は、地上の宗教多しといえどもキリスト教をおいてほかにはない。神は、完全に神であるためには、王であるばかりでなく反逆者でなければならぬと感じた宗教は、地上のあらゆる宗教のうちキリスト教以外には一つとして見当たらぬ。すべての宗教のうちキリスト教のみが、天地の創造者の徳のうちに勇気をつけ加えたのである。およそ勇気の名に値する勇気とは、魂のまさにくず折れようとする瞬間を経験し、しかもなおくず折れぬことを意味するはずである。」

「キリスト教とは、一個の超人間的なパラドックスであって、これによって二つの相対立する情熱が、お互いに相並んで燃えさかることのできるものなのだ。福音書の文体を真に説明できる唯一の説明は、これが、何か超自然的な高みから、何かさらに驚倒すべき矛盾の統合を見守っている者の言葉だということ以外にはないのである。」

「ここでわれわれはまたしても、キリスト教の本質にまつわるあの倦むことのない性格を発見する。現代の哲学はすべて、人を縛り、手かせ足かせをはめる鎖である。だがキリスト教は剣であって、束縛を断ち切り、解き放つ。宇宙を自己から切り放ち、生きた魂とすることを真に喜ぶ神の観念はキリスト教以外に抱きうるものではない。正統のキリスト教に従えば、この神と人間の分離は聖なるものである。なぜならそれは永遠の分離であるからだ。人間が神を愛しうるためには、人間の愛すべき神が必要であるばかりではなく、神を愛する人間の存在もまた不可欠である。…つまり、神の子が地上に来給うたのは、単に平和をもたらさんがためばかりではなく、人と人とを引き裂かんがためだというあの言葉だ(マタイ伝一〇・三四)。この言葉は、その文字どおりの意味においてもまったく真理の響きを放っている。神の愛を説く者は、必ずや憎しみを生まずにはおかぬという意味である。」

「教会と国家の関係の心地よさは国家にとってはよいかもしれないが、教会にとっては悪いことだ。」

「進化論は、二つの狂気の倫理の支柱には利用できるが、正気の倫理の支柱としてはたった一つを支えるのにも利用できない。」

「キリスト教の中心たる神は、人間をその中心から投げ出したけれども、その目的はただ、人間がその中心を愛することにある。」

「キリスト教徒は世界を逃れて宇宙に入るので あるが、仏教徒は世界からというよりはむしろ宇宙から逃れることを願うのである。これ ら二つのものに比べられるものはほかに地上にはほとんどない。そしてキリストの山に登 らないものは仏陀の深淵に落ちるのである。」

「進化論者はミッシングリンクについてすべて知っているように見える。それ自体ミッシングしている事実を除いては。」

「ダーウィニズムが立証されたから懐疑するというが、ダーウィニズムは少しも立証などされてはおらぬ。」

「負けた時にどう考えるかによって、次の勝利をいつ得られるかが決まる。」

「私たちは世と共に動く教会を欲しない。私たちは世を動かす教会を欲する。」

「私は困難という熱い湯に入るのが好きだ。それは私を清潔にしてくれる。」

「人々は大抵、議論できないので、口論をする。」

「何かを愛する方法は、それがなくなるかもしれないと意識することである。」

「新年の目的は、私たちが新しい年を持つことではない。新年の目的は、私たちが新しい心を持つことである。」

「そして、あなたのパレードに雨が降ってきたとき、下を向くより、上を向こう。雨なしに、虹は架からないのだから。」

「我々は世と共に動く教会を欲しない。我々は世を動かす教会を欲する。」

榎本保郎(えのもと やすろう 1925-1977 牧師 愛称「ちいろば牧師」)

「愛はある意味では損なことである。自分が損をしていくことが愛である。自分が得をすることは利用だと思う。」

「祈りとは、神の御言葉に従おうとして従えない自分自身の心の叫びである。」

「祈りには二つの祈りがある。一つは『しもべは話します。主よお聞きください』という祈りであり、もう一つは、『しもべは聞きます。主よお語りください』という祈りである。この後者こそ、主が求めておられる祈りである。 」

「信仰とは神の言葉によって現実を貫くことである。こちらには言い分もある。注文もある。だが、神のみ前に沈黙することである。」

「賛美と賛美歌は違うのであって、賛美歌を歌って、実にいい気持ちだということで次々に歌い続けたりするのは、本当の賛美の生活ではない。賛美というのは、困難や苦しみの中にあっても、神の勝利を信じることである。」

「私たちにとって大事なことはイエスから何かをしてもらうことより、イエスが共にいて下さることを知ることだ。例え死の陰の谷から救いだされてもまた落ちて行くのが人生だ。死の陰の谷から救われる(病気が癒される)ことが究極の喜びではない。それよりも死の陰の谷を渡ってもそのことを恐れない(信仰が与えられる)ことのほうが大切ではないか。」

「クリスチャンの中には日曜日、教会の玄関でかぶって来たお面をはずして中に入り、礼拝が終って帰る時、玄関のお面をまたかぶって帰る人がいる。」

「今日のキリスト教の大きな問題は、罪のもだえがないこと。自分の罪に対するもだえがないから、ゆるされた喜びもない。罪に対する知識はあっても、意識がない。ああ、そうですか位の罪人だという。」

「信仰は自分の能力+α(アルファ)ではない。自分の能力+∞(無限大)である。」

「信仰生活とは、神を信じて生きていくことではない。神の言葉に従って生きていくことである。」

「献金は、イエスが私のために死んでくださったということに対する神への応答でなければならない。」

「信仰の伴わない献金は、どぶに捨てるようなものだ。」

「もうすでに多くのものをいただいたことに対する感謝のしるしが献金である。」

「多くささげることが大切なことではない。多くささげざるをえなくなるほどの信仰こそ大切なのである。問題は量ではない。量をこえさせる感謝である。信仰の裏付けある捧げ物をささげよう。」

「この国の日本人がみんなクリスチャンになることよりも、本物のクリスチャンがいることが大切だ。」

「私たちにとって大切なことは現実を正しく把握することと共に、現実を支配したもう神を見失わないことである。その時、ヒステリックな悲観主義にも、無責任な楽観主義にもなることはない。現実をしっかりと受け止めながら、それがどうあろうとも、なおそこで希望を持って生きることが出来るのである。」

「私たちが一旦、聖書を神のことばとして認めたら、主従が逆転し、私たちが神のことばに従うしかない。私たちがみことばを切り刻むのではなく、私たちがみことばによって切り刻まれるべきなのだ。」

「自分が許された存在であるということを忘れるところから、人を許さないという行為に出て行くのである。」

「他人のために祈るというのはキリスト教の特色である。」

「教会生活を長く続けていると、主イエスの十字架の恵みという言葉を何度も聞かされる。初めの内は、感動して聞いていたが、そのうち耳にたこが出来るような思いになってしまう。また、その話しか。もうその話は充分に聞いた。そんな思いで、十字架の恵みの話を聞くようになってしまう。そして、主の十字架の話よりも、宝くじで百万円当たった、という知らせの方に感動するようになってしまう。そんなことはないだろうか。」

「相手待ちでは互いに愛し合うことはできないと思う。自分が先に愛したら、自分だけが重荷を負うことになるから損だ、という不平不満が出てくることが問題である。あえて犠牲になることを引き受けなければ、互いに愛し合うことはできない。」

「結婚とは、一人で神を讃美していた人が、二人で讃美するようになることである。子どもが生まれることも同じで、親子で神を讃美するようになること、これが子どもの誕生の目的である。」

「神の言葉をはっきり語ることは、これほど悪魔にとって憎らしいことはない。だから憎まれたり誤解されることもあると思う。イエスでさえ泥棒扱いされたのである。だからそういうことを覚悟しなければ、信仰を全うすることはできない。私たちはキリストのゆえに苦しみを受けていけばいくほど、キリストを間近に迎えることができるのではないかと思う。」

「自分が少しぐらい何かできると誇るような者は、イエスに出会うことはできない。」

「寛容でおれないので、自分の立場がなくなるという恐れがあるからである。寛容な人は勇敢な人である。寛容になれないのは臆病だからである。神が自分を守っていてくださるという信仰に立ったとき、私たちは人を迎え入れていくことができる。」

「私たちがあの人を愛し、この人を愛していない間は、まだ不自由な者である。どんな人をも愛していけるようにならなければ、福音はほんとうの福音になってこない。」

「信仰というものは、神から現実を見る態度である。」

「死ぬとは、責任を神が持ってくださると信じてゆだねていくことである。」

「宗教は逃避だと言う人があるが、それでは宗教を信じていない人は逃避していないかというとそうではない。みな逃避している。酒を飲んだり、自分の見栄を張ったり、また犬のようにほえたりして逃避している人もいる。人間は逃避することなしには、この世に生きていくことはできない。ただ宗教はその逃避したものが、そこから立ち上がって再び自分の立つべきところ、生きるべきところに進んでいく力を与えるものである。これがほんとうの宗教である。」

「ぼくの唇は祈るためにあるのや。」

「人間にとって、一番望みがなくなるのは、死の時である。しかし、その全くだめな死の世界からの復活を信じる者は、絶望を持たない人種である。クリスチャンは絶望を知らないのではなく、絶望を持たない人種である。」

「私たちはよく『裁くな』と言うが、これは、人が何をしても知らん顔をしておれという意味ではない。そうではなくて、その人の立場から言ってあげることである。老若男女、それぞれに神は恵みを注いでおられる。その神の恵みに立って自分を考え、人を考えていくが、ほんとうの愛による忠告であり、非難でなくして、批判ではないかと思う。」

「現実と神のことばとの間にずれがある。だから私たちは、そのいずれを、けれどもとか、しかしという言葉で埋める。その『しかし』には二つある。一つは、神が私を愛すると言われる。しかし、こんな暗い現実の中にあって、どうしてそれが信じられようかという『しかし』である。もう一つの『しかし』は大いなる『しかし』と呼ばれるもので、自分の現実は暗く悲しい、しかし神のことばだから信じようという『しかし』である。言い換えれば、人間の側に立って神のことばを裁く『しかし』と、神の側に立って人間の現実をこえていく『しかし』である。そして、そのどちらの『しかし』に立つかが、私たちの信仰態度を決定するものであるが、聖書はいつも、いつもその大いなる『しかし』に立って語っている。」

「神はわたしたちの求めるものよりも、更にすばらしいものを用意しておられる時は、祈りを聞いてくださらないこともある。」

「隣人を愛することを神は命ぜられた。全人類をではなく、隣人をである。」

「私は、小さな取るに足らないものである。その私を主が必要としておられるのに気づく。自分の力、能力は小さい。だのに私たちは自分の至らなさ、小ささにこだわり、自己嫌悪に陥ることがある。自分の愚かさや繰り返し犯す罪に目を注ぐ時、何の希望もなくなる。しかし、そういうものを主がお入り用としておられ、主の尊い御用のために用いてくださるところに大きな喜びがある。私を生かして下さる方が、今日も共にいてくださり、その方の手に自分が握られていることに気づいてこそ、私たちの人生はすばらしいのである。」

「誰もが神の言葉を喜んで聞くが、それに従って生きようとする人が少ない。ただ神の言葉が自分の思いと同じである場合のみ従うものです。」

「万人祭司だが、万人牧師ではない。」

「前には海、後ろには敵、そして内側には動揺、まったく八方ふさがりとは、この時のことである。しかし八方であろうと十六方がふさがっていようが、神を信じる者には上が開いている。信仰者とは平方の生活をする者ではなく、立方の世界に生きる者である。」

「『祈ってばかりいたってしょうがない』という人がいる。この人たちは祈りの体験がない人たちである。祈りがどんなに素晴らしい武器か、それは祈りの人のみが知ることである。」

「神と私との関係はいつも今である。」

「あすのためにきょうを惜しんでいる人に、日々与えてくださいと祈る資格はない。」

「聖書を語るためのもの、学ぶためのものとしてはならない。それは聖書の非聖書化である。それではどんなに聖書を深く研究しても、所詮聖書読みの聖書知らずである。聖書の素晴らしさは、その内容にあるのではない。聖書の素晴らしさは、神がともに働いて、その確かなことをお示しになるところにある。」

「神の言葉は今日、教会のわざを通して、あるいは説教を通して語られていく。説教は人の言葉だが、いかにして神の言葉となっていくか。ある信徒のかたが、『私は礼拝に出るときには、神様どうぞきょう牧師先生が語られる言葉から、あなたの御言葉を聞かせてください、と祈るのです。時には自分の心に響いてこない説教もあります。しかし、あとで讃美歌をうたって、ああこれだと教えられ、真実な神は、一度も私をから手で帰されたことはなかったのです』と話しておられたが、ほんとうにすばらしいことだと思った。」

「神がどんなにこの自分を愛していてくださるか、それに気づくこと、そこから私たちの信仰生活が始まる。だから、私たちにとっていちばん大切なことは、いつもこの神の愛に気づき、生かされているということである。」

「信仰とはあきらめないことである。あきらめるのはすでに罪である。あきらめるということほど大きな不信仰はない。全知全能の神を信じるとは、どんな状態にあってもあきらめないで、望みを持って生きていくということである。それが信仰である。どこに望みがあるか。神にあって望みを持つのである。」

R・A・トーレー(1856-1928 米国の福音伝道者、牧師、神学者)

「聖書には多くの翻訳がある。しかし、この世で最も素晴らしい聖書翻訳があるとしたら、それは自分の生活を通して聖書の御言葉を実践することである。」

「すでに受けた神の恩恵に感謝の意を表すことは、われわれの信仰を増し、新たな勇気と新たな確信をもって神に近づく力を我々に与えるのです。」

「聖霊が人々に悟らせるのは、イエス・キリストを信じない罪であり、果てしのない罪のリストについてではありません。これは、聖霊がペンテコステの日に、三千人の人々に悟らせた罪でした(使徒2:36−37)。主なる神とキリストを拒絶してきたことがわかったとき、人々は心を刺されました。」

「頭を下げて悔い改め、頭を上げて信ぜよ。」

「教会の土台はつば(議論)ではなく、涙(祈り)で固まる。」

「私は、仏教の鐘とキリスト教の鐘を比べてみていつも思う。仏教の鐘は中にすぼんでいて外からそれを打つ。するとゴーンと陰に響く。キリスト教の鐘は外に開いておって、中から打つようにできているが、カーンと陽に響く。キリスト教は外からいじめるのではない。内から喜悦が湧き出るので、陽気な宗教である。ひげの薄い人がつけひげを五銭くらいで買ってつける。カイゼルひげでも当世流行のチョビひげでもつけられる。しかし、風が吹けば押さえておらねばならない。押さえていないととんでいってしまう。喜悦もそのとおり、外からのりつけの喜悦ではいけない。中より湧きいずる喜悦でなければならない。信仰すればその喜悦を得る。」

「罪に対しては秋霜のごとく、罪人に対しては春風のごとくあるべきである。」

「悪魔に夏休みがない限りは、夏だとて伝道や礼拝を休んではならない。」

「悪魔は霊界の消防夫である。」

「教会が伝道本位でなければ、社交クラブとなり、社会教育所となるのは当然である。」

「教会の古株には芽を出さずに、角を出すのがある。」

「よく祈る聖徒はキリストのかんばしきかおりであるが、これは悪魔にとっては蚊取り線香のごとく死のかおりである。」

「金権の盛んな教会は衰え、献金の盛んな教会は祝される。」

「祈禱は天上天下最良の武者である。」

「十字架にもつけられぬ信者は、よみがえるはずもないわけである。」

「いまは末の世である。悪魔は巧みに二様に働いている。聖書を重んじない者に対しては、科学万能をもって向かい、聖書を重んずる者に対してはにせキリストの本性を現わして、その毒を聖書的という表皮に包んで飲ませんとしている。されば大いに警戒せねばならぬ。」

「キリストなきキリスト教とは、生けるキリストを説かざるキリスト教である。かかる教えには死せるキリストがあるけれども、死してよみがえり、天に昇り、そして今もなお信者のとりなしをするキリストをば説いていない。されば「信ずる者を救わんとの神の力」として見ることができない。キリストなきキリスト教は、活力なき理屈いっぺんの教えである。異端を説く者が人をしてなるほどと思わしめても、実際その人の魂を救うことができないのはこれがためである。」

チャールズ・フィニー(1792-1875 牧師 最初のアメリカのリバイバリスト)

「私が説教をしている間、会衆が私の顔を見ている限り、私の説教は失敗だとわかる。人々が自分の罪に心底気づいて頭を垂れる時、神様が私の傍らで働いておられ。人々の心を造り変えておられるのがわかる。正しい教理も言葉だけでは不十分なのだ。」

「罪悪は赦されるにしても赦されないにしても、最も無駄の多いものである。」

「あらゆるものの中に神を見る心の状態は、神の恵みをますます受けている証拠であり、その恵みに対する感謝に満ちた心を示す。」

トーマス・フラー(Thomas Fuller)

「自分の信条に従って生きない者はほんとうに信じてはいない。」

「信仰とは、耳で見ることである。」

「思いやりは家庭で始まるが、そこで終わるべきでない。」

「愛とかゆみと咳だけは、どんなことをしたって、隠し通すことのできないものである。」

「結婚生活に幸福を期待しすぎて、失望しないように気をつけなさい。ウグイスは春に2、3ヶ月だけは鳴くが、卵をかえしてしまうと、あとはずっと鳴かないものだ。」

「結婚前には両目を大きく開いて見よ。結婚してからは片目を閉じよ。」

「妻は絶えず夫に服従することによって彼を支配する。」

「男性が持っている最良の財産、あるいは最悪の財産、それはいずれにせよ自分の妻ということになる。」

フランシス・ハバーガル

「神を完全に信じる者には、神が完全に真実であることがわかる。」

ウィリアム・バークレー

「復活の信仰は、イースターの時期だけではない。クリスチャンがそれにより毎日生き、それにより最後に死ぬ信仰なのだ。」

「永遠のいのちは今、ここで始め得る物である。永遠のいのちとは時間の領域に、永遠性の領域のものを注入すること、人間の生活の中に、神ご自身の生活そのものが入れられることである。人がイエス・キリストと共なる生活を始めることを選ぶならば、天は地上に始まるというのが神の約束である。人間の苦難と混乱の中に、神の平安と力とがもたらされるのである。」

「キリスト者とは、王を待つ者を言うのである。」

「私たちクリスチャンの義務は、互いに励まし合うことである。誉め言葉や感謝、好ましい評価、励ましの一言によって、多くの場合、人は守り支えられる。そのような一言を語り得る者に祝福があるように。」

「キリストの再臨を待つ一番よい方法は、(自分が)キリストの前にいることを忘れないことです。」

「教会の有する最良の宣教の武器は、真にキリスト教的な生活であり、人々がキリストに導かれるのは、議論からではなく、〈魅力があるから〉・・・。キリスト者の生活の中には、善ばかりでなく、すべての人がその秘密が何であるかを知りたくなるような美しさがあるべきである。」

「クリスチャンとは、日没に向かって歩む者ではなく、日の出に向かって歩む者である。」

「今私たちが暗い夜道のような人生を歩んでいるということは、やがて明るい夜明けが来ることを意味しています。人生は夕闇・絶望に向かう旅ではなく、夜明け・希望に向かう旅となるのです。その転換点はイエス・キリストです。十字架において示された神の苦しみの愛にあるのです。」

「クリスチャンにとって、死は休息のために重荷をおろすのと同じである。」

「忍耐力とは、大変なことをこらえるだけでなく、それを栄光に転じさせる能力である。」

「教会には語る人が多すぎる。教会には、教会のために与えようとする人よりも、教会から何かを得ようとする人が多すぎる。」

「キリストを最もよく知る人は、博学の学者や密室で祈りに専念する聖者ではない。実に兄弟姉妹の中で、愛情と寛容とをもって活動する人である。」

「聖徒というのは、他の人々のために、神を信じやすくしてくれる人のことである。」

「苦難を恐れる人間は、苦難を受けたもうた方のものとなることはできない。」

「真のキリスト者とは、侮辱されたことを忘れてしまい、どんな侮辱も受け入れ、決して怒らず、仕返しをしないことをその主から学び取った者である。」

「人生を、過去と現在の対決であると見てはならない。現在は過去から生まれてきたものである。」

「子どもがよい人と思うのは、たいてい善人であるが、子どもが恐れて逃げ出すような人は、エライ人であるかもしれないが、キリストに似ているとは言えないのは確実である。」

「弟子とは、世間の人々が言っていることに注意を払わなくなった人間のことである。なぜかと言うと、弟子とは、神の言われたことしか考えられないからである。」

「神の教会の中には障壁はない。人間がその障壁を作り、神はキリストによって打破されたのである。」

「キリスト者は、自分の好きなように生きるのではなくて、キリストが望まれるように生きなければならない。キリスト教には常に何らかの十字架がある。ーーキリスト教は十字架の宗教だからである。」

「キリスト者は、いつでも、どこでも、キリストが満ち満ちた世界に住んでいるのだ。」

「私たちはある種の危険に陥る。私たちは一度イエス・キリストに従ったならば、それでもう道を極め、目的を達したかのように座り込んでしまえばよいと容易に思い込みやすい。しかし、キリスト者の生活にはそんな終着駅はない。人間とは、前進しているか、それでなければ後退しているものなのだ。キリスト者の人生は、頂上を目指して狭い山道を登ってゆくようなものであり、この世ではその頂上に決して到達できないようなものであろう。」

「この世にある最も古い恐怖は、暗黒に対する恐怖である。他家に泊まった子どもの話がある。その家の主婦は親切心から、『床についても灯を点けたままにしておきましょうか』と尋ねた。その子は丁寧にその申し出を断った。『あなたが暗闇を怖がると思ったの』と主婦が言うと、その少年は『そんなことはありません。だって、これは神様の暗闇ですからね』と言った。イエスと一緒なら、夜も昼のように、光が私たちの周囲に存在する。」

「高慢は天への障害になり、謙遜は神の御前に行くパスポートである。」

「アガペーとは、私たちが当然所有している自発的な感情ではない。自分に危害を与える人々にも、断固たる善意を遂行しようとする決意を持つことである。ある人が言ったようにアガペーとは、私たちが好きでない人々を、また自分を好いてくれない人々を愛する力である。私たちが怒りや憎しみという自然な感情を克服し、すべての人に不屈の善意を遂行できるようイエス・キリストがしてくださる時い、私たちは初めてアガペーを持つことができるというのが事実である。

キリスト者の愛であるアガペーが意味していることは、人々を勝手気ままにさせ、自由放任させることではない。子どもを好き放題にさせておく親は、その子を本当に愛しているとは誰にも言えないであろう。私たちが不屈の善意で人に接すればその人を罰し、制限し、規律を課し、本人の意向に反しても保護しなければならない時もしばしばあり得るということをそれは意味している。しかし、それは、私たちの復仇心を満たすために罰するのではなく、その人を良い人にするためである。キリスト者の規律と懲罰はすべて、復讐のためではなくて、癒しのためである。懲罰は、単なる復讐のためではなくて、必ず治療となるであろう。」

ウィリアム・バークレーは、悔い改めについて三つの大事な要素を挙げている。

①自分が悪いことをやり、悪い人間だったという認識。

私たちは、他人の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかない。ダビデも、預言者ナタンに「あなたがその男です」とあからさまに言われて初めて、自分の犯した大きな罪―姦淫と殺人の罪―を認識し、それを告白している。「私は主に対して罪を犯した」。

②自分が悪いことをやり、悪い人間だったという悲しみ。

詩篇を読むと、ダビデが自分の罪を告白するまでには、深刻な心の葛藤、苦しみ、悲しみのあったことがうかがえる。真の悔い改めには、深い悲しみがともなう。預言者は、ダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしにしてくださった」。

③その認識と悲しみにふさわしい「生き方の方向転換」。

悔い改めとは、一時的な心の痛み(後悔)とは違う。生き方の方向を変えようとする意志による決断を含む。ところで、神の前に罪が赦されるためには根拠が必要だ。旧約の時代は、そのために身代わりの犠牲動物のいのちが捧げられた。それは、イエスを指し示す「型」を表わしていた。この原則を今日の私たちに適用するなら、罪のない神の御子の身代わりの死(贖い)を根拠とし、神に対する悔い改めと御子イエスに対する信仰を通して、人の犯したどのような罪も完全に赦されるのである。神のもとにあるその人の履歴書に前科は記されていない。

ウィリアム・レーン・クレイグ

「私たちは子どものような信仰と、子どもっぽい信仰を区別すべきです。子どものような信仰は、愛情深い天の父としての神に対する、心からの信頼であって、イエスは私たちにそのような信仰を勧めておられます。しかし、子どもっぽい信仰とは、未熟で無分別な信仰であり、そのような信仰は私たちに勧められていません。逆に、パウロはこう言っています。『物の考えかたでは、子供となってはいけない。‥‥考えかたでは、おとなとなりなさい』。『単純な』信仰が、無分別で無知な信仰を意味するのなら、私たちは少しもそれをほしがるべきではありません。… クリスチャンの信仰は、無関心で頭を働かせることのない信仰ではなく、活き活きとして探究心のある信仰です。アンセルムスが言っているように、私たちの信仰は理解しようと努める信仰であるのです。」

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(1805-1880 ドイツ 神学者、牧師)

「キリストがあなたがたの聖書のなかでのみ生きていて・・・心のなかでは生きていないとしたら、キリストをあなたがたの子どものもとへ導こうという努力は決して報われないでしょう。」

クリストフ・フリードリッヒ・ブルームハルト(1842-1919 ドイツの牧師、ヴュルテンベルク領邦議会議員)

「重要なのは、われわれが世にあって偉大なキリスト者になることではない。そうではなくて、重要なのは、キリストが世にあって偉大になり、われわれが小さくなるということである。」

「われわれの心が燃えるのは、神の栄光のためであって、われわれの肉のためではない。神の健やかさのためであって、われわれの健やかさのためではない。」

「神の国とは、何よりも神が御自身の義を得られるということである。神のもっとも切迫した目標は、幸せでも、身体的健康でもなくて、神御自身の義である。」

「必要なのは、ただ一つ。君は誰を求めているのだ。君自身か、それとも神か。君自身の事か、神の事か。」

「神は、その宮のために、活きた石材を必要とされる。教会に坐っている者としての諸君ではなく、生活の人としての諸君を必要とされる。」

「人間がどれほど罪深くあっても、何ごとでもない。神は、人間が罪人であったときに愛し給うたのだ。」

「私は、『主は来られる』という喜ばしい自覚をもって、世界を見、人間社会を見る。今日もなおそうであるし、明日もやはりそうであろう。」

「死ね、さらばイエスは活き給う。」

「神は、われわれを、御子と共なる死へと、強制されるのではない。ただ神は、われわれがキリストの道を歩むことを、われわれが敢えてなしうるかどうかを、待っておられる。」

「洗礼という行為に価値を置いて、自分は洗礼を受けていない者より以上の者だと考える人がいれば、その人は間違った霊の中にいる。」

S・A・キーン

「信仰は要求し、受領する行為である。信仰は神の約束によって提供されているものを受け取る。だから、信仰と共に所有の感覚がその心に湧き出して、その魂は、『イエスは私のものです』、『私は救われました』と言い始める。」

榊原康夫

「神のみこころは、そう簡単にはわからない。みこころを知るには、第一に、聖書の知識をきめ細かく、豊富に、正確に備えておく。第二に、現実のデータを豊富に、正確に公平に調べる。第三に、教会的交わりの中で、これら両者の組み合わせパズルをすすめていく。」

ジョナサン・エドワーズ(1703-1758年 米国を代表する神学者、牧師、宣教師)

「キリストから離れている者は、地獄の上に宙ずりになっている。」

「恵み、それは栄光の始まりです。栄光、それは恵みの完成です。」

「いかなる行為においても、信仰以外の目的による影響を受けることがないように、そしてどんな場合にも、自分のすべての行いが信仰以外の目的で遂行されることがないように。」

「キリストは朝早く墓からよみがえることにより、われわれに早起きを勧められた。」

「あなたが救いの出来事に関わったのは、ただあなたの罪だけだ。それにもかかわらず、神はあなたのことを深く愛し、イエスはあなたのために死なれた。あなたは神の子だ。神はあなたのことを憎んではいない。」

ジョナサン・エドワーズの70の決意

アイザック・マースデン

「時計の音のコチコチいう間にも、世界のいずこかに永遠に向かって旅立ち、その平常の罪悪ゆえに地獄に落ちる人あり。」

「神の摂理とは、神が前方を眺めて神の民の直面する危機を知り、その備えをされることを言う。そのような場合、神は神の民を救出する為に特別な奇蹟を用いず、御自身の意志を成就する為に罪深い人間の行為と計画をも含め、普通の事件を用いられる。その故に摂理は最も大いなる奇蹟である。」(W・ペイプ 聖書学者)

ジョン・ラスキン(英国の評論家、美術評論家、詩人)

「子供たちを正直であることができるようにすることが、教育のはじめである。」

「何を考えているか、何を知っているか、何を信じているかはそれほど重要なことではないのです。唯一重要だと言えるのは何をするかです。」

「われわれは中傷・偽善・裏切りを憤る。というのは、それらが真実でないからではなく、われわれを傷つけるからである。」

「おおむね大きな誤りの底には高慢があるものである。」

「死すべきときを知らない人は、生くべき時を知らない。」

「我慢は力よりも気高く、忍耐は美しさに勝る。」

ジャン・バニエ

「嫉妬はコミュニティーを破壊する病根のひとつである。それは自分の賜物を知らないか、十分に信じていないから起こる。人は他者の賜物が素晴らしいと思いがちだが、もし、自分の賜物をしっかり信じていれば、他者を妬まずにすむことだろう。」

ヘンリー・フォード(1863-1947年 フォードモーターの創設者 世界の自動車王)

「信仰心の厚い人に突破できない災難は、ありえない。たとえ、一時不利に見えようとも、たとえ時間がいくら長引くように見えようとも、それでもなお信じて、なお闘わなければならないのである。それでも全能の神様は不可能はなく、私たちにすべての苦難に打ち勝つことを忘れてはならないのだ。」

「私は神を信じる。神はすべてを司り、私の助けはいらない。神にゆだねておけばすべて最後には、一番良い結果が得られるのだ。だから悩む必要などない。自分は大宇宙の無限の宝庫と結ばれていることを惜しまなかったのである。神を信じるがゆえに自分が神に導かれて成功すると信じていた。神は使命の大きい人ほど大きい苦労をさせるとのことであるからむしろ喜ぶべきである。」

「奉仕を主とする事業は栄え、利得を主とする事業は衰える。」

「障害というものは、目標から目をそらしたときに見る恐ろしいもののことだ。」

「20歳だろうが80歳だろうが、とにかく学ぶことをやめてしまったものは老人である。 学び続ける者は、みな若い。人生において一番大切なことは、頭を若く保つことだ。」

「家庭を快適に保てないで、天下を治めることはできない。」

「神が責任をもってくだる限り、万事が結局は理想的に処理されると信じます。何を悩むことがありましょう。」

「失敗は単にもう一度始める機会である。今度はより賢明にやるのだ。」

「集まって来ることは始まりであり、結束することは進歩であり、共に働くことは成功である。」

「何よりも先に、準備することが成功の秘訣である。

「お金だけしか作り出せないビジネスは陳腐なビジネスだ。」

「利益は仕事の副産物である。幸福こそ、仕事の主要な産物である。」

「障害とは、自分の目標から目をそらしたときに見る、恐るべきものである。」

チャールズ・スタンレー(1932〜 米国の牧師、伝道者)

「赦さない心を持つ人は、いつだって正真正銘の敗者です。しかも、恨みを抱いている相手以上に。赦さないことは、それが持つ性質自体により、その人がクリスチャンとして生きるための多くの特質に従うことを妨げ、事実上、霊によって歩くのではなく、肉によって歩かざるを得なくします。‥‥赦そうとせずに、償いがなされるのを待っていると、その人は自分の成長と発達を、そもそも自分が嫌っていた人の決断に依存させることになります。自分を人質にさせてしまうのです。彼らはこう言います。『彼が謝りさえすれば』、『彼女が私のところに戻ってくれば』、『彼が私をもう一度雇ってくれたら』、『あの人たちが私を招待したら』と。相手が先に行動を起こすのを待つという戯れごとをしているわけです。そして、その間、彼らは赦さない心が自分の人生全体に縫うように忍び込むのを許しているのです。」

「傷にしがみつくのは、ガラガラ蛇をつかんでいるのと同じです。いつか噛まれてしまうでしょう。」

「赦した相手を、自分自身を成長させ、神の恵みを理解できるよう助けてくれるものとして見るべきです。昔、ヨセフは確かにこの原則を理解していました。兄たちがしたひどい仕打ちにも関わらず、彼らを赦すことができました。ヨセフは兄たちのことを神に使われたものとして見たのであり、そのおかげで、自分はエジプトに連れられてきて権力ある地位に就き、飢饉で作物が全滅してしまった時に家族を救うことができたのだと考えたのでした。」

「赦しは自分のためであることを覚えていなさい。相手の振る舞いは決して変わらないかもしれません。その人を変えるのは私たちではなく、神次第なのです。」

「赦そうとせずに、償いがなされるのを待っていると、その人は自分の成長と発達を、そもそも自分が嫌っていた人の決断に依存させることになります。自分を人質にさせてしまうのです。彼らはこう言います。『彼が謝りさえすれば』、『彼女が私のところに戻ってくれば』、『彼が私をもう一度雇ってくれたら』、『あの人たちが私を招待したら』と。相手が先に行動を起こすのを待つという戯れごとをしているわけです。そして、その間、彼らは赦さない心が自分の人生全体に縫うように忍び込むのを許しているのです。」

「私たちに必要なものは既にイエス・キリストによりすべて私たちの所有となりました。ですから、主に自分自身を預けることは何かが足りなくなることではなく、むしろ、最善の人生を歩むことになります。」

「キリストを信頼することは、キリストに自分自身を任せることであり、肉体の欲でとらわれているものを快く手放すことです。」

「神に心の中に語っていただくことを、多くの人は見逃しています。もし人が、一方的に会話し続けて神様の応答に耳を傾けないならば、その素晴しい神の語りかけの機会 を逃しているのです。」

「キリストを信頼することは、キリストに自分自身を任せることであり、肉体の欲でとらわれているものを快く手放すことです。」

「もしあなたが自分の決断から神を除外するなら、あなたは愚かな決断をすることになる。」

「私たちの逆境に対する神の目標は、私たちの霊的成長です。」

★『逆境に打ち勝つ方法』(チャールズ・スタンレー)

http://mgfchurch.seesaa.net/article/389236431.html

「私の考えるゆるしとは、恨みを捨てること・・自分の内から否定的な思いを取り除くことだ。恨んでも惨めになるだけだ。本当のところ、いくら苛立ったりカッカしたりしても、あなたにひどい仕打ちをした人はあなたがどんなに苦悩しても、ちっとも苦しまないのだから。」(デラ・リース)

「恨み(英語:resentment)とは、ラテン語で『再び感じる』という意味の二つの言葉から来ています。恨む時、私たちは最初に傷つけられた時に抱いた、落胆、裏切りといった否定的な感情を、その出来事が終わったずっと後になってから思い出して、それを再び味わい、幾度もその毒で体中を満たしています。それは人間の精神と体に影響をもたらすので、その恨みがいかに正当なものかは関係ないのです。精神科医歴27年とそれ以前の医師歴15年間で、わたしは恨みを、身体の腫瘍と同じくらい命取りになる人格の癌として見なすようになりました。」(ジェームズ・A・ストリングハム)

「人生を長く充実したものとするための秘訣とは、毎晩寝る前に、あらゆる人とあらゆることをゆるすことだ。」(バーナード・M・バルーク)

ボブ・ゴフ

「愛は行動するもの。それは使い果たさなければならないエネルギーです。」

「一度、自己啓発系の人が、鏡を見て自分はいい人間だとか、賢いとか才能があるなどと言って、『肯定的承認』というものをするといいと言うのを聞いたことがあります。正直言って、それで効果があるのかどうかわかりません。もしかしたら、あるかもしれません。でも、一つ、必ず効果があるとわかっていることがあります。それは、誰か他の人に、あなたの良い所を言ってもらうことです。励ましの言葉とはそういうものです。それ自体に力があります。そして、適切な人がそれを言うと、すべてが変わります。イエスに従っていて私が気づいたのは、ほとんどの場合、その適切な人が誰かといえば、私たち一人ひとりなのです。また、もう一つこんな結論も出しました。人に言われた言葉はしばらく効果があるどころか、人生を形作る力さえあるということです。」

「変化の過程に参加するには壮大で英雄的な行為をしなければならないということはありません。何百万という人々による小さな行いが積み重なれば、世界を変えることだってできるのです。」(ハワード・ジン)

「『尽くす』(訳注:service: サービス=奉仕、尽力、役に立つこと、貢献などの意)とは、愛が目に見える形になったものです。友人を愛しているなら、あなたはその人に尽くすでしょう。地域社会を愛しているなら、地域社会に尽くすでしょう。お金を愛しているなら、お金に仕えるでしょう。自分だけを愛しているなら、自分だけに尽くすでしょう。しかし、あなたには自分しかいなくなります。‥‥そうではなく、他の人たちを愛し、他の人たちに尽くそうとしてみなさい。そうすれば、もしかしたらその代わりにあなたを愛し、あなたに尽くしてくれる人が見つかるかもしれません。」(スティーブン・コルバート)

「ありふれた行為も、愛によるなら美しい。」(パーシー・ビッシュ・シェリー)

ジグ・ジグラー

「何かを始めるのに偉大な人である必要はありませんが、偉大な人になるには何かを始めなければなりません。」

ノア・ウェブスターが1828年に発刊した辞書には、赦すというのは、「違反行為を見逃し、それを犯した人を無罪として扱うこと」とあります。赦し:「違反した人を赦免することによって、無罪とし、そのように扱うこと。敵を赦すことはクリスチャンの務めであると考えられている。」

赦しとは、あなたのためにすることです。多くの人は当然ながら、違反行為をした人は、赦しに「値しない」と主張しますが、それは全く関係のないことです。あなたが、その人を赦すのに値するということなのですから。

あなたは、親や、兄弟姉妹、いとこ、伯母、友達、近所の人、教師、弁護士などから、何年も前に何かをされて傷つき、恨みと憎しみでいっぱいになっているという人を、何人知っていますか?

現実的に言って、あなたを傷つけた人は、あなたの過去に害を与え、今もなお、あなたを支配しています。実際問題として、あなたはその人に、将来を支配し、悪影響を与えていいという許可を与えるつもりなどないのは確かです。

憎しみ、復讐心、恨みの荷を負いながら、自分が本来達せるはずの高さまで届くことはできません。それらは重い荷であって、その3つの荷を背負っている限り、あなたが自分の将来性をフルに気づく可能性はないでしょう。

また、たとえ職業面で成功していても、個人としてはどれだけ幸せになれるでしょうか? 憤りや恨みを抱いている人に、何人の友達がいることでしょうか? そういった人の何人が、家族と良い関係を持ち、将来に対して楽観的で、快活で熱意に満ちた姿勢を持っているでしょうか?

赦しがその鍵です。もしあなたも多くの人同様、自分で赦すことができないのなら、カウンセリングを受けて、その迷路から導き出してもらうよう勧めます。そうすればきっと、赦せるまでになることでしょう。

赦した日に、あなたは、もっと幸せで、もっと健康で、もっと安定した人になるでしょう。

「感謝について特に見逃されがちな一面とは、気づくという習慣です。他の人のことに気づき、感謝を示すと、大いに報われます。その上、他の人のことに気づくことで、私たちは人生の活力、熱烈さ、多様性にもっと敏感になるのです。」(マイケル・マッキニー)

「ほとんど誰でもそうですが、あなたもきっと、誕生日や何か特別な日には、いつもより余分の関心をもらえることを楽しみにしていると思います。けれども、誰かがあなたを愛しているという理由だけで、思いがけなくあなたに愛情深いことをしてくれたなら、特別に愛されているとは感じませんか? では、それと同じことを誰かにしてみてはどうでしょう? 立ち止まってよく考えてみれば、あなただって、他の人のためにできる思いやりのあるちょっとした行為、しかも、お金も時間もほとんどかからない何かをいくつ思いつくかに驚くことでしょう。家族との関係、友達や同僚との関係を変えたいですか? では、『5分間親切』の名人になってはどうでしょう?」(シャノン・シャイラー)

マーシャ・キルパトリック

「謙遜とは、あなたを支配するエゴからの解放です。」

「謙遜とは、自分自身が他の何よりも切実にゆるしを必要としていると知っていることです。」

「謙遜とは、主が私たちをどのように扱われても抵抗しないことです。」(チップ・ブログデン)

「神に栄光が帰される限り、それが誰によってなされるかを気にかけてはなりません。」(フランシス・デ・サール)

ジョン・ベーコン(1740-1799 英国 彫刻家)

「私が生きていた時には、自分が画家であったということが何か重要な事柄であるように思われた。しかし今私が死にかかっている時、自分が本当は、キリスト・イエスの信者であったということだけが、私にとってはただ一つの重要な事である。」

J.・C・ライル(1816-1900 英国 イングランド国教会司祭)

「世の人は、たとえ教義を理解できなかったとしても、謙遜と愛という美徳なら必ず理解できることでしょう。それは謎めいたところがまるでなく、あらゆる階級の人々の手の届くところにある美徳です ... 最も貧しいクリスチャンにも、毎日愛と謙遜を実践する機会があります。」

「私たちはどんな必要な時にも、まず主に向かう必要があることを知らねばならない。すべての困難を主に話し、一歩一歩を主に相談し、私たちの悲しみをすべて主の前に広げ、私たちの喜びすべてを主と分かち合い、すべてのことを主の御前でなし、毎日主に頼り、主に目を向けて歩まねばならない。 」

「福音なしの一致(協調)は無価値の一致であり、それはまさに地獄の一致そのものである。」

「幸いなのは聖書を持っている人です。もっと幸いなのは聖書を読む人です。最も幸いなのは聖書を読むだけでなく、それに従い、それを自らの信仰と実践の規範とする人です。」

「神様の約束は、私たちの日々のマナであり、荒野のようなこの世で旅する者の飲む水である。」

「神様に恵まれる生活をしたいですか。敬虔で、献身的なクリスチャンになりたいですか。だったら次のように問いかけます。あなたは神様に祈る生活をしていますか。」

「生活の中で確かめようとしない悔い改めには気をつけなさい。」

「クリスチャン生活において必要な言葉は、『信じれば何でもできる』ではなく、『目を覚まして祈り、戦いなさい』である。」

「本当に幸せになるためには、その人はこの世界の何ものにも左右されない喜びの源を持たなければならない。」

「キリストの十字架を除いてしまえば、聖書は光明のない真っ黒な本である。」

「罪を捨て去ることが罪が赦されたことの最良の証拠の一つである。」

「誰もつまずかせない、犠牲も要求しない、お金のかからない、安っぽいキリスト教は、何の価値もない。」

「キリストがいつ来られてもよいように生活しなさい。」

「私たちは男たちが秘宝を掘り出すように私たちの聖書を読まなければならない。」

「もしあなたと罪が友だちなら、あなたと神はまだ和解していない。」

「聖い生活のないところ、聖霊なし。」

「私たちはみな生まれながらに独りよがりである。それはアダムの子孫全員の家系の持病である。」

「健康は良いものだが、病気はもっとい。もしそれがわれわれを神へと導くならば。」

「どれほど私たちの心が堕落していようとも、どれほど私たちの過去の生活が不道徳なものであろうと、福音のうちには私たちのための希望がある。」

「神の友でない人とは誰とも決して親しい友になってはならない。」

「クリスチャンは歩く説教である。彼らは一週間ずっと説教するので教役者よりもはるかに多く説教する。」

「よほどの理由がない限り日曜日に神の家を不在にしてはならない。まさにあなたの魂にとって時宜を得た掛け替えのない言葉を含むであろう説教を無駄に受け損なうになる。」

「キリストの恵みを本当に味わっている心は、罪を直感的に嫌うようになる。」

「本物のクリスチャンは羊ーー神が造られた最も無害でおとなしく非攻撃的な生き物ーーにたとえられる。」

「回心した者はひとりで天国に行くことを望まない。」

「私たちはみな生まれながらに独りよがりである。それはアダムの子孫全員の家系の持病である。」

「本当に幸せになるためには、その人はこの世界の何ものにも左右されない喜びの源を持たなければならない。」

「良い模範を示すことなしに子どもたちを教育しようとしている親は、片手で建て上げようとしていることを、もう一方の手で引き倒しているのである。」

「神が私たちに試練を通させるのは、私たちに物事を考えさせ、私たちを世から遠ざけ、私たちを聖書に向かわせ、私たちを神の前にひざまずかせるためである。」

1. Sickness helps to remind men of death.

病気は人の死を思い起こす助けをする

2. Sickness helps to make men think seriously of God, and their souls,

and the world to come.

病気は神について、彼らのたましいについて、来るべき後の世について真剣に考える助けをする

3. Sickness helps to soften men’s hearts, and teach them wisdom.

病気は人の心を柔らかくし、彼らに知恵を教える助けをする

4. Sickness helps to level and humble us.

病気は私たちを打ち倒し、謙遜にする助けをする

5. Sickness helps to try men’s religion, of what sort it is.

病気は人の宗教がどんなものであるか真価を試す助けをする

このことは間違いないことだと確認しよう。

人々は決して聖書を理解できないからといって聖書を拒絶するわけではない。

彼らはよく理解し過ぎている。

彼らは聖書が自分たちのふるまいを断罪することを理解している。

彼らは聖書が自分たちの罪に反対の証言すること、彼らにさばきを命じていることを理解している。

彼らは聖書が真実であることを信じたくないので、聖書がいんちきで役に立たないものであると信じ込もうとしているのだ。

ジョン・マッカーサー jr.(1939年〜 米国の牧師 マスターズ大学学長、マスターズ神学校校長)

「クリスチャンのすべての死は、その者をイエス様に引き渡します。死は、私たちを永遠の救い主のみもとに連れていくものです。」

「聖書を実践ではなく知識として受け取ると、その人は自分の霊的状態をもっと偽るようになります。まるで太陽が蝋は溶かしますが、粘土は固くするように。」

「心配は神様の約束と摂理を疑う罪です。恐らくこれはクリスチャンが他のものよりも頻繁に犯す罪です。」

「私たちの心と良心が汚されることで、私たちは何が清く、何が清くないかが分からなくなります。」

「母親になることは決して、2等になることを意味するのでない。男は家の権力を持つかもしれないが、女は影響力を持つ。父親よりも母親こそが、その小さい命を最初の日から形作っていくのだ。」

「私は、神の裁きによってゆるされ、永遠に守られると約束されたものの、罪に対してかたくなで、忍耐がなく、無感覚なクリスチャンを色々と見てきました。その結果、彼らには喜びもありません。なぜなら、神との愛情深く親密な交わりがないからです。彼らは告白していない罪という障壁によって、喜びと交わりから遮断されているのです。」

「聖徒たちがこのような神を信頼しますように! 神は絶対的な信頼を寄せるに値する方です。神にとって難しすぎることは何一つありません。神が力を出し惜しみしたり、制限したりされるなら、私たちは絶望するしかないでしょう。しかし、神が全能の衣を身にまとわれていることを知るなら、難しすぎて答えられない祈りも、大きすぎて供給できないものもなく、激しすぎて抑制できない熱情も、神がそこから救い出すことのできないほど強力な誘惑も、和らげることのできないほど深い苦悩もないとわかるのです。」

「健全な教理の不在と偽りの教理の存在は常に罪深いふるまいへと導く。」

「自分はクリスチャンだと宣言する人がすべて真のクリスチャンであるわけではありません。救われていない人がキリストに対する形だけの信仰告白をし、本当はクリスチャンではない人が、クリスチャンであると思い込むことがあるのです。 」

「この世と同然の教会は、この世に提供するものは何もない。」

「サタンは、罪がそれほど不快でなく、天国がそれほど魅力的でなく、地獄がそれほど恐ろしくなく、福音がそれほど緊急でないものにしようと引き続き努力している。」

「クリスチャン生活に生じる問題の原因は、次の二つの事柄と関係があります。一週六日間の生活で礼拝していないか、一週一度の聖徒とともに集まる礼拝に参加していないか、どちらかです。両方が必要なのです。」

「思い煩いは、私たちが神のことばよりむしろ私たちの状況によって征服されていることを明らかにする。」

「もしあなたが祝福を求めて利己的に教会に通うなら、あなたの礼拝理解はずれています。私たちは祝福を得るためではなく、栄光を帰すために通うのです。」

「今日罪は病気と呼ばれている。だから人々はそれに必要なのは治療であって、悔い改めではないと考える。」

「あなたがますますキリストようになれば、世はますますあなたを彼らがキリストを扱ったように扱うようになります。」

「従順がキリストを真に愛するすべての者たちの印である。」

「神が私たちに宣べ伝えるように召されているメッセージは、罪人たちを心地よくさせるために意図されていない。」

「彼らは自分たちの教会に女性牧師を持っていると誰かが口にするとき、私は彼らは牧師も教会も持っていないと即答する。」

「私たちは、キリストが死なれた原因となった自分の罪を、楽しむべきではない。」

神はいかに現在のトラブルを用いておられるのか?

1. 私たちの信仰の強さをテストとするため。

2. 私たちをへりくだらせるため。

3. 私たちにこの世離れを促すため。

4. 私たちに天国的希望を呼び掛けるため。

5. 私たちが本当に愛しているものが何かを見せるため。

6. 試練の中にある人たちを助けるため。

7. 神に栄光をもたらすため。

ランディ・アルコーン

「神様、あなたは貧しさの極みにあったイスラエルの人たちに、十分の一を要求なさいました。それなのに、あなたの御霊が与えられ、今までにないほど豊かな時代に生かされている私に、十分の一以下でもかまわないと、本当におしゃっているのでしょうか。」

「十分の一献金は、幼児が歩き始めるようなものだ。最後の歩行でも最高の歩行でもないが、幸先のよいスタートである。」

「十分の一献金をゴールとすることは不健全である。十分の一献金はスタート地点なのだ。」

「十分の一献金をささげることは、天井ではなく床である。終点ではなく、出発点である。」

「持っていくことはできないが、あらかじめ送っておくことはできる。」

「すべての宝は神のものである。私は神の投資マネージャーである。」

「お金や持ち物に関する話は、イエスのことばの実に15%を占めている。これは天国や地獄の教えを合わせた分量よりも多い。」

「リアルゴールド(本物の金)は火を恐れない。」

「物質主義に陥らない唯一の方法は、ささげることである。 ——ささげるとは、私たちより大きい方と、私たちの計画より大きい計画に、喜んで従うことである。それによって私たちは王座からひきずりおろされ、神が高められる。」

「神が私たちに与えてくださるのは、生活の水準を上げるためではなく、ささげる基準を上げるためである。 ——神は私たちが必要とする以上に与えてくださるが、それは私たちが分け与えるためである。それも、惜しみなく分け与えるためである。」

「私の心はいつも、神のお金を置いている場所にある。 ——お金の置き場所を一時的なものから永遠に続くにものに移すとき、何が起こるか、注意して見てみよう。 」

「死んでから5分後、生きている間にささげておけばよかったと後悔するものが何かあるでしょうか。父なる神様、そのことを知るには死ぬまで待たなければならないということは決してありません。今教えてください。あなたのみこころにかなったことができるように。人々が私の手から必要な助けを受けて、食物を得たり、援助を受けたり、福音を伝えられたりすることを知る喜びを体験できるうちに教えてください。日々力を与え、この地上で残された生涯を過ごせるようにしてください。天国を待ち望み、天に宝をたくわえることができるように。あなたから聞きたいと願ってるこのことばを待ち望んでいられるように。『よくやった。良い忠実なしもべだ。・・・・主人の喜びをともに喜んでくれ』(マタイ25:21)。」

J・オズワルド・サンダース(John Oswald Sanders 1902-1992 米国 宣教師)

「永遠のために人生を費やすことが一番よい人生の過ごし方です。」

「平和とは、トラブルのないことではなく、神様が臨在していることです。」

「私たちアダムの子孫が偉大になりたがるので、主は小さなものとなられました。私たちが身をかがめようとしないので、主はご自身を低くされました。私たちが支配したがるので、主は仕えるために来られました。」

「真の偉大さ、真のリーダーシップは、人々をへりくだらせて誰かに仕えさせるときにではなく、人々に対する無私の奉仕による自己犠牲に伴う形で達成される。」

サムエル・チャドウィック

「神から盗む者はだれでも、自らの魂を飢えさせる。」

「聖霊によって導かれているのではなく、人間によって管理されている教会では、奇跡は起こらない。」

「謙遜は恩恵であり、同時に恩恵を受け入れる器でもあります。」(ジョン・トラップ)

ウィリアム・ケアリー(William Carey 英国 1761-1834 近代宣教の父)

「神から大きなことを期待せよ。神のために大きなことを企画せよ。」

「神は決して約束を破らない。だから、私も神に仕えることを怠るわけにはいかない。」

「私の仕事は福音を説くことであるーーその費用を作るために私は靴の修繕をしている。」

星野富弘

「神様というのは、時には遠回りをさせて、いつの間にか味なことをされるなあと思いますね。」

「辛いという字がある。もう少しで、幸せになれそうな字である。」

「いのちが1番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。 いのちより大切なものがあると知った日、生きるのが嬉しかった。」

「ただひとつのために生き

ただひとつのために

枯れてゆく草よ

そんなふうに生きても

おまえは誰も

傷つけなかった」

「『人生が二度あれば』という曲が、ときたまラジオから流れてきた。

でも私は人生が二度あればなどと考えるのはよそう。

今の人生を精一杯生きられないものが、

二度目の人生など生きられるはずがあるだろうか。」

「黒い土に根を張り

どぶ水を吸って

なぜきれいに咲けるのだろう

私は

大ぜいの人の愛の中にいて

なぜみにくいことばかり

考えるのだろう」

「笑顔で挨拶を交わし

小さなことにもよろこび

嘘を言わず

悪口も言わず

全てのことに感謝し

人のしあわせを祈る

一月一日の気持ちを

皆がみんな

十二月三十一日まで

持ち続けていられたら

美しい国になる」

「痛みを感じるのは生きているから

悩みがあるのは生きているから

傷つくのは生きているから

私は今かなり生きているぞ」

リンダ・ディロー(Linda Dillow)

「信仰の核心は対象のことです。神様に対する確信を持たずに神様に自分を委ねることはできません。自分を助け、導き、守ってくださる神様についてよく知らずに、どうして一輪のトレーラーに乗ることが出来るでしょうか。」

ヘンリー・ブラッカビー(Henry Blackaby 米国の牧師)

「十字架がなければキリスト教の信仰はありません。なぜなら、自分の十字架を背負わずに主イエスの弟子になることはできないからです。」

「私たちには今日のことしか見えませんが、神様は永遠という観点で見て答えてくださいます。」

「神が沈黙されている時、それに対する反応の仕方は2つあります。一つは、意気消沈し、罪悪感に苛まれ、自分を責めるという反応です。もう一つは、神はこれからあなたに神ご自身をもっと深く知るようにさせてくださるという期待です。これらの反応には、夜と昼ほどの違いがあります。」

スティーブン・ファーティック(Steven Furtick 1980ー 米国 エレベーション教会牧師)

「自分は神が本当に何でもしてくださると信じるほどに愚かな者です。」

「もし私たちが大変なことのためにあえて神様に近づくことをしていないなら、私たちはクリスチャンライフで最高のところを眠らせることになります。」

デイル・ラルフ・デイヴィス(Dale Ralph Davis)

「苦難を乗り越えたことよりも、まだそのさ中にいることが、神様が私たちを見捨てていない最も確かな証拠になります。」

フィリップ・ケラー(Philip Keller 1920-1997 カナダ 著作家)

「物質的な成功が精神的な健康の測りではないように、外見上の豊かさが実際の敬虔の尺度ではありません。」

「私たちは多くの場合、恵みについてはその忘れが早く、不運についてはその忘れがゆっくりです。」

アッシジのフランチェスコ

「イエス・キリストよ。私がこの世を去る前に、二つの恵みをいただくため祈っています。その一つは、愛するイエス様、私が生きているうちに、あなたが最もひどい責め苦を受けられた折耐えしのばれたあの苦痛を、できる限り私のたましいと体で感じることです。ああ、神の子よ、もう一つは、あなたが私ども罪びとのため、あのような苦しみを喜んで耐えしのばれるほどに、燃えたたせられたあの至上の愛をできる限り私の心の中に感じることです。」

「私たちが受けるのは与えるためであり、赦されるのは赦すためであり、新しく生まれて永遠のいのちを得るのは死ぬためです。」

「神に仕えている人は、沈んだ顔を見せてはいけない。」

「自分の兄弟が病気して自分に頼っている時に、その兄弟が丈夫であって、自分に役に立っていた時と同じように愛する者は幸いである。」

「私たちの歩み自体が宣教でない限り、宣教するために歩いても何の役にも立たない。」

「いつも自分のものにしていると、他の人と隔たりができる。いつも与えていると、他の人とひとつになる。」

スティーブ・ブラウン(Steve Brown)

「この世は忘れるために飲みますが、聖徒は覚えるために飲みます。」

チチェスターの聖リチャード(St.Richard)

「日ごとに、日ごとに、愛する主よ、三つのことを祈ります。よりさやかにあなたを見上げることを。より深くあなたを愛することを。より近くあなた後に従うことを。」

ウォーレン・ワーズビー(Warren Wiersbe)

「幸せな生活の秘密は義務を楽しむことです。 義務が楽しみになる時、重荷も祝福となります。」

「不信仰は妨げるものを見るが、真の信仰は機会(好機)を見る。」

「私たちがイエス・キリストを知っているのであれば、人生の決定に心配する必要はありません。なぜなら、主の御名は助言者(カウンセラー)を意味するからです。」

「私たちは他者が自分たちの敵になることを防止することはできませんが、私たちは自分が他者に対して敵になることを防止することはできます。」

「神のしもべは説明によって生きるのではない。彼らは約束によって生きる。」

「私たちが信仰によって歩む時、私たちは説明によって生きるのではなく、約束によって生きる。」

「真の満たしは心の中の敬虔から来るのであって、手の中の富から来るのではない。」

「あなたがやめてしまいたいと思うような時は、神があなたの困難を用いてあなたの成長を助けるための最大の機会であり得る。」

「信仰をもってキリストのもとに 来て、変わらずにいられる人はいない。」

「愛なしの真理は残忍で、真理なしの愛は偽善です。」

「私たちの人生に恐れを起こすものは何ですか。すべての事例を調べて恐れの根本となる原因を探してみると、鮮明に浮かび上がる真理があります。恐れの根本的原因は不信仰です。恐れと信仰は絶対に友人になることはできません。ですから、恐れを克復する第一歩は信仰によって神を見上げることです。神を礼拝し、その方の偉大さと栄光を見上げてください。今もその方が御座におられることを覚えてください。」

トマス・アダムズ

「罪を犯したことを最も恐れる者ほど、本当に神を愛する者はいません。」

ビリー・グラハム(Billy Graham)

「イエスは愛の心を持っておられます。主イエスが私たちのうちにいれば、憎しみと恨みが私たちを支配することはありません。」

「苦痛は人生の一部で誰にでも来ます。大切なことは私たちがそれにどう反応するかです。怒りと反感の中で神を見捨てるか、信頼と確信の中で神に近づくかです。」

「私に誰かが自分の小切手帳と5分ほどの時間をくれたら、私は彼の心がどこにあるかを伝えることができます。」

「私たちは世界が読んでいる聖書です。私たちは世界が必要としている信仰告白です。私たちは世界が注意を払っているメッセージです。」

「もし人が、金銭に対して正しい見方をするようになれば、人生のほとんどの分野において身を正す助けとなるだろう。」

「勇気は感染します。勇気ある人が毅然とした態度を取れば、他の人も姿勢を正すのです。」

「もし神がアメリカを罰されないならば、神はソドムとゴモラに対し謝罪しなければならないだろう。」(ルース・グラハム 亡き妻)

「私たちはいかなるときにもキリストの来臨を待ち望むべきです。しかし、キリストは千年の間来ないかのように働かなければならないのです。」

「人が我が子や孫たちに残せる最大の遺産は、お金や人生で積み上げてきた物質的なものではなく、人格と信仰の遺産なのです。」

「もし、私たちが日々の生活の中にキリストが共におられることを知るならば、私たちの人生は、年と共にゆかしく、価値のあるものとなります。あなたの生活の中心にキリストがあるならば、ゆううつや寂しさはあり得ないのです。夕日は輝かしいものです。一日の夕暮れに輝きを添え、すばらしい美を与えてくれるのは、キリストです。そして、このキリストにある新しい喜びを、毎日、他の一人にでも伝えることができるならば、その喜びはさらに増し加わるのです。」

「私が神に祈っているのは、次のことです。それは、1万人の信徒がいる教会ではなく、神に献身した10名のキリストの弟子を与えてくださいということです。そうすれば、世界を変えることができるでしょう。」

「神のみこころは私たちを神の恵みが支えることのできないところへ連れて行くことはない。」

「与えることの最大の祝福は、元帳の会計の側ではなく、霊的な側にある。あなたは、神との関係において誠実である、神と協力しているという意識を受け取る。この世の所有物に執着しないでいられるようにもなる。なぜなら、永遠の価値ということが、常に念頭に置かれているからである。」

「人生は短い。そして私たちは過去を変えることはできない。しかし神の助けにより私たちは未来を変えることはできる。」

「私たちはクリスチャンに”なる”ように召されているだけではなく、クリスチャンで”ある”ように召されている。」

「若者達はセックスについて間違った考えを持っている。セックスは、結婚している夫婦の間では最も素晴らしいことだ。」

「真の礼拝はすべての注意が神に集中するところでのみ行われる。」

「両親に対して尊敬しないことを許された子どもは、誰に対してもまことの尊敬を持たなくなる。」

「人が我が子や孫たちに残せる最大の遺産は、お金や人生で積み上げてきた物質的なものではなく、人格と信仰の遺産なのです。」

「最弱のクリスチャンも最強のクリスチャンと同等に安全だ。もし彼らが共に救いの船に乗り込んでいるならば。」

「クリスチャンであるとは瞬間的回心以上のことだ。それはますますキリストに似る者に成長していくことによる日常の過程である。」

「富を失っても、何も失うことにはならない。健康を失うと、何かを失う。人格を失うと、すべてを失う。」

「復活の中に、未来の計画全体の鍵がある。」

「世界の問題は大きい。しかし神はもっと大きい。」

「私は聖書の最後のページまで読んだ。すべてのことが良きことに変わる。」

「私の故郷は天国にあります。私はこの世では旅人に過ぎません。」

「天国について最もスリリングなことはイエス・キリストがそこにおられることです。私は顔と顔を合わせて彼を見ることになります。イエス・キリストは私たちの人生の旅の最後に私たちに出会ってくださるのです。」

「神はより良いものを代わりに置き換えることなしにあなたから何かを取り去ることは決してない。」

「聖霊の仕事は罪を示すことであり、神の仕事はさばくことであり、私の仕事は愛することである。」

「弟子になるようにとの誘いは、私たちの想像しうる最も興奮させられる誘いです。考えてもみなさい、宇宙の神が、神のために世界を取り戻すためのパートナーになるよう、私たちを誘っておられるのです。私たちはそれぞれ、神が与えられた独自の賜物と機会を使うことで、それに参加することができます。」

「一人プラス神は過半数。」

「聖書は神が造り、神が定め、神が祝福されたものとして性と性の正しい行使を公にしている。神御自らがふたつの理由で、両性に引き合う力を与えられたことは明白である。ひとつは人類の繁殖、ひとつは夫婦が真に一体となるための愛の表現である。神が人類最初の男女に『一体となれ』と命じられたことは、『生めよ、ふえよ』との戒め同様に重要であった。 聖書は、性に関する罪悪は、性に内在する何かいやしいものを利用することでなく、清く善であるものを悪用することを明白にしている。また、性はすばらしい従者になり得るばかりか、恐ろしい主人にもなり得ること、愛と友情と幸福を培うこの上ない原動力となり得るばかりか、世にある力のうち最も破壊的な力になり得ることを、はっきりと教えている。」

世界的に有名な伝道者ビリー・グラハムがある時インタビューの中で、次のように聞かれた。「あなたはこれまで世界中のすべての大陸で、何百万という人々に伝道してこられました。また、アメリカの多くの大統領のカウンセラーを務め、テレビに出演し、何千という人生に影響を与えてきました。さて、もしも一からすべてをやり直さなくてはならないとしたら、なにか違ったことをするでしょうか?」ビリー・グラハムはこう答えた。「はい、もっと祈ります。」

世界的に有名な伝道者にビリーグラハムはメッセージの中で罪についてはっきり語る。「罪から離れなさい。」と語る。しかし、ある人が、「先生。なぜ、罪のことをそんなに厳しく語るのですか。」と聞いた。罪について語ったら皆、あまり気分良くないではないか。言わないで下さいよ。と言ったそうです。すると、先生が一つの瓶を持ってきたそうです。それには毒が入っていました。すると、ビリー・グラハムは「これは、毒薬の瓶ですが、この瓶のレッテルをハッカキャンディーと直しても良いですか。」と聞いたという。その毒入りの瓶をキャンディーと書いたら食べた人が死んでしまいます。毒であったら『毒』と表示すべきです。罪も同じことです。聖書は人生を壊してしまうコンピューターウィルスのような毒が、『罪』だと教えています。

南原繁(1889-1974 東大総長 政治学者 貴族院議員)

「どれほど神仏に祈っても、しょせんは自分の無事幸福か、せいぜい家内安全を願うことに止まった私の心が、いまや、(聖書を通して)自分の罪を知り、それからのあがないとゆるし、神の御旨へと向けられるようになった。」

「『真の神』が発見されない限り、人間や民族や国家の神聖化は後を絶たないだろう。」

「かえりみれば満州事変以降、軍国主義者と国家至上主義者らの政治支配が擡頭して以来、ことさらに民族の神話伝統を濫用し、曲解し、自己の民族の優越性を誇称し、東亜とひいて世界を支配すべき運命を有するかのごとく喧伝し来たったのである。それは内に対する欺瞞と外に対する恫喝でなければ、一種の選民思想的独断と誇大妄想以外のものではない。」

「人間を超ゆる絶対者に対する畏敬と信仰なくしては、人間の革命も人格の完成も不可能といわなければならぬ。」

八木重吉

「信ずること/キリストの名を呼ぶこと/人をゆるし 出来るかぎり愛すること/それを私の一番の仕事としたい」

「むつかしい路もありましょう。しかしここに確かな私にも出来る路がある。救って下さると信じ、私をなげだします。」

「私は本では詩集をよむことが一番すきです。しかしそれすら無くてもすみます。しかしもし私から聖書を奪われてしまったら、私は全く、頼りない気持になってしまひます。」

「聖書をよんでも いくらよんでも感激がわかなくなったら 聖書を生きてみなさい ほんのちょっとでもいいから」

「この聖書(よいほん)のことばを うちがわからみいりたいものだ ひとつひとつのことばを わたしのからだの手や足や 鼻や耳やそして眼のようにかんじたいものだ ことばのうちがわへはいりこみたい」

「聖書に解がたきところあらば まづ聖霊にきかん 聖書のみに依る信仰はあやうし! われ今にしてこれをしる、おそきかな」

ナポレオン・ボナパルト(Napoleon Bonaparte)

「信じるために危険を冒すこともありますが、大切なものを得ることができます。」

「民衆は離れ、王座は崩壊し、制度は消滅する、しかし教会は残る。」

「聖書は単なる書物ではない。それに反対するすべての者を征服する力を持つ、生き物である。…アレキサンダー、シーザー、シャルルマーニュ、そして私自身も非凡なる才能によって帝国を築いてきたが、それは一体何に依存しているのか。武力である。イエスだけが、その帝国を愛の上に築いた。」

「あなた自身が信じていないことは、口で言っても、書いても、また、どのような行動をしてみても、他人を動かすことはできない。」

「最も大きな危険は、勝利の瞬間にある。」

「苦しみに耐えることは、死ぬよりも勇気がいる。」

「真の英雄とは、人生の不幸を乗り越えていく者のことである。」

「勝利はもっとも我慢強い人のものである。」

「逆境には必ずそれよりも大きな報酬の種が隠されているものだ。」

「知るだけでは不十分である。活用しなければならない。意思だけでは不十分である。実行しなければならない。」

「幸せは香水のようなもの。他人にふりかけようとすると自分にも2、3滴ふりかかる。」

「子供の将来の運命は、その母の努力によって定まる。」

「人は彼の妻、彼の家族、それに彼の部下に対する行為で知られる。」

「結婚して幸福になるには、汗の苦労を絶えず分かち合わねばならない。」

「自殺するのは卑怯である。」

「最も優れた人は、万人の召使いにもなれる人である。」

「宗教なき社会は、羅針盤のない船のようなものである。」

「誰もが神の存在を主張する、それは疑いの余地がない。」

ヴァンス・ハヴナー(Vance Havner 1901-1986 米国 牧師)

「罪から私たちを守るのは、頭に入ってある御言葉ではなく、心の中のある御言葉です。」

「神様を信じる者が望んでいるすべてを得るとは限らないですが、神様は信じる者のために持たせたいすべてを与えられます。」

「神は砕かれたものをお使いになる。粉々に砕かれた土が穀物を生み出し、千切れ雲が雨を降らせ、割れた穂からパンが作られていく。」

「現代クリスチャン音楽が世界の光ならば、なぜ、すべてが暗やみの中にあるのか。・・・現代クリスチャン音楽が世の塩ならば、なぜ塩気が働かず、すべてが汚染されてしまうのか。・・・現代クリスチャン音楽が一般化することが問題ではなく、生き方の問題でもなく、聖書の教えであるキリストの真髄をとりあげない現代クリスチャン音楽の在り方にある。」

「誕生日はどれほど長く道に居たかを示すが、どれ程の距離を辿ってきたかを示しはしない。」

「互いに鎌を向けあうのをやめないならば、収穫を失ってしまう。」

「ずっと病院で医者、または患者として過ごすとする。サタンは面白がって、内省する敏感な心をもてあそび、我々を心の状態と自己分析の鑑定家に仕立て上げる。特に自分がどこまで正直になりうるかを問う。献金や聖書読書、証しや喜びが不十分と思い、不安になる。彼らは祈りの時間を増やしたり、聖書読書を増やすような行ないをしても決して安らぎを得ない。疲れ切った神経に鞭打って、ただ重荷を増やすだけ。」

エド・ステツァー(Ed Stetzer 1966- 米国 サザンバプテスト教会牧師)

「キリスト教は活動に加わるための宗教ではありません。クリスチャンはキリストとの関係を持つことを意味します。ですから、キリスト教は神と神の民との関係に関するものです。」

「あまりにも多くの教会が自分たちの使命よりも自分たちの快適さを愛している。」

ジョージ・ホイットフィールド(George Whitefield)

「恐れないでください。あなたの心の欺きを追い払ってください。悪魔を恐れることはありません。あなたはそれらに対して勝利を得ることでしょう。主イエスはあなたを勝利者にしてくださるからです。主イエスに祈りなさい。そして、神の約束を求めなさい。」

「イエス・キリストは聖書の中に隠れている宝物です。ですから、聖書はイエス・キリストを見つけるために読まなければなりません。」

「私たちは、イエス・キリストに関する正しい信仰のゆえに怠けることはできません。」

「地上での私たちのすべきことが終わるまで、私たちは死にません。」

「自分のいのち、人生、生活を管理しなさい。そうすれば神はあなたの死を管理してくださるだろう。」

「イエスは神と人が再びともに歩めるように、神であり人であられた。」

「そう、教会の偉大なかしらをもう一度見たい・・・このような栄光ある雇用のうちに、ご自身のために用いることのできる特定の若者たちを起こされるのを。それはどのような者たちであろうか? みことばに堅く立ち、神の偉大さ、威光と、聖さの認識で人生が支配され、素晴らしい恵みの教理で思いも心も輝いている者たちである。それは自分と、人の目標と、個人的野心に死ぬというのがどういうことなのかを学んだ者で、『キリストのために愚かに』なることを喜び、はずかしめとあざけりを身に受け、それでいながら主の偉大なさばきのみ座に進み出るとき、主人の称賛を受ける者たちである。砕けた心と涙であふれた目で説教し、神がその働きに聖霊のたぐいまれなほとばしりをお与えくださり、数多くの人の人生がしるしと不思議によって変えられるのを目撃する者である。」

ウィリアム・ペン(William Penn)

「すべての人が反対しても正しいことは正しいことです。また、すべての人がそれに従っても正しくないことは正しくないことです。」

「苦痛なしには勝利もなく、とげなしには王座もありません。苦味なしには栄光もなく、十字架がなければ冠もありません。」

リチャード・フォスター(Richard Foster)

「自分の意志や決断だけでは本当の意味での自分を変えることはできず、寧ろ絶望感を抱きます。しかし、この絶望感が私たちを、自分を変えることは神の恵みだけだという悟りへと導きます。」

「霊的生活では、一つだけが本当の喜びを生みます。それは従順です。」

「浅薄さこそがこの時代の災いの根源です。その場で手軽に得られる満足を良しとする考え方が霊的生活にとっての最大の障害となっています。今日はなはだしく不足しているのは、頭の良い人でもなく、有能な人でもありません。本当に必要なのは、深みのある人なのです。」

「真の問題は、私たちが天国に入ることではなく、天国を私たちの内に入れることです。‥‥クリスチャン生活の大胆な目標とは、内なる人格を、さらに深みのあるものへと、絶えず再形成することなのです。それがますます神の恵みと栄光を映し出し、常にイエスの人生や、その信仰や願いとの、より輝かしい一致を遂げるように。」

カイサリアのバシレイオス(330-379 ギリシャ教父)

「あなたの家にある腐ったパンは空腹の人のものです。ベッドの下にあるカビの生えた靴は靴のない人のものです。あなたのトランクに入ってあるままの衣服は裸の人のものです。」

トーマス・ブルックス(Thomas Brooks 1608-1680 英国の説教者)

「小屋の信仰者が宮殿の俗人よりも幸せです。なぜなら、信仰者はこの世に属するのではなく、受け継ぐものもこの世ではないからです。」

「神様は信仰者が御国へ来るまで、最高で最もよい賜物と恵みを取って置きます。」

「希望は、最も暗い雲の中であっても天を見上げることです。」

「蜂が花に触れるだけで蜜が集まるのではなく、花の上にしばらく留まっていることで蜜を引き出すのです。最も素晴らしく、最も親切で、最も賢く、最も強いクリスチャンであると証明されるのは、最も多くを読む人ではなく、最も多く瞑想する人です。」

ドナルド・ミラー

「サタンは、悪いことで私たちを誘惑するというよりも、無意味なことで心を奪うような気がします。」

フランシス・シェーファー(1912-1984年 米国 福音主義神学者、哲学者、 弁証家、牧師)

「キリスト教は、いかなる見物人にキリスト教が人生を否定的に見ていると結論を下すようにしてはいけません。私たちは人生の隅々まで人格の最も高いレベルに達することができます。」

「あなたのキリスト教は、そこに存在しておられる神以下のもので終わっていないでしょうか。あなたが学ぶ時、教える時、生活していく時、神がそこに存在しておられるということを信じているでしょうか。」

「もしあなたがキリスト教を割り引いて言うなら、あなたはキリスト教を単なる心の支え、美化された心の鎮痛剤に引き下げてしまうでしょう。」

「キリストを信じる信仰によって救われても、その後の人生を唯物論者の椅子で過ごすこともありえるからです。超自然的な世界を信じるといいながら、この世界には超自然的なものは何もないかのように生きることは可能なことです。」

「クリスチャンがキリスト教を単なる回心から死ぬまでの精神修業としてみるなら、そして単なる知的な疑問への回答としてみるなら、それはドライバーの代わりに銀製スプーンを使っているようなものなのです。」

「私たちの信仰生活は、充電式ではなく、コンセント式である。」

「聖書を信ずるクリスチャンであるということは、頭だけで信じることを言うのではありません。今のこの一瞬に信仰に基づいて行動することを意味するのです。信じていると告白するだけでは十分ではありません。真に霊的であるということは、告白した教理に基づいて本当に生きることなのです。」

「今の時代にクリスチャンを混乱させる最も大きな異端は、エホバの証人、モルモン教、セブンスデーではなく、世俗的なヒューマニズムである。」

「現代人が救いを必要とする場合、彼らは普通道徳的な罪からの救いを考えるよりも、むしろ心理的な罪責感からの解放を頭に浮かべる。本当の必要は真の道徳的な罪からの救いであって、罪責感からの解放ではない。」

「私たちはキリストの働きに基づいて救われた。信仰とは空っぽを手を上げてその賜物を受け取ることである。」

ビル・ウィルソン( Bill Wilson )

「主の十字架は、私たちに喜びと同時に悲しみをもたらせます。なぜなら、十字架は私たちに主の豊かな恵みを悟らせ、喜ばせますが、自分の罪と咎の深さをも気づかせ、悲しませるからです。主の十字架による喜びと悲しみとを覚える一日でありますように祈ります。主よ。私たちを喜ばせてください。しかし、決して私たちが私たちの涙を忘れないようにしてください。」

フランシス・チャン

「なまぬるい人々は、御国での永遠のいのちよりもこの世でのいのちをもっと重んじます。」

「なまぬるい人々は、天国における永遠よりも地上の生活についてより頻繁に考える。」

「なまぬるい人々は、彼ら自身の罪から本当に救われたいのではなく、ただ彼らの罪の罰から救われたいだけです。」

「どのような状況であれ、その状況にずっといることはありません。なぜなら、この世のすべては去っていくものだからです。」

「神と人を愛することがすべて。他は何も残らない。」

「あなたは神を熱愛してますか? それとも彼の物だけ?」

「私たちは愛するためにここにいる。そのほかのことはそれほど重要ではない。」

「祈りは愛する人のしるし。イエスを愛する人はどうしても頻繁に祈らずにはいられない。」

「私の結論はこうです。イエスが私たちに求めている関係は明確で、0か100かです。自らを”クリスチャン”と名乗りつつ、熱心にキリストに従わないなど、辻褄が合わないのです。」

「私たちの生活が不信者に対してうなずけるものとなるとき、何かがおかしい。」

「年を重ねれば重ねるほど私には終わりが近いことがわかる。私が教会において欲することを気にしている時間などない。他の人たちが教会において探し求めることを心配している時間などない。私はもうすぐ彼(イエス)に対面する。だから私は彼の願いに集中し続けなければならない。」

「クレイジーな人生とは、神がいつ自分の命を取ってもおかしくないと知りながら、安全な生活を好み、富をたくわえ、そうして地上での自分の時間を楽しむ人生のことです。私にとっては、これこそクレイジーです。神が存在しないかのような人生を歩む人こそクレイジーです。」

「私たちの最大の恐れは失敗にではなく、人生において本当はどうでもいい事柄の成功にあるべきだ。」

「祈りは愛する人のしるし。イエスを愛する人はどうしても頻繁に祈らずにはいられない。」

「私たちの生活が不信者に対してうなずけるものとなるとき、何かがおかしい。」

「おびただしい数の男女が何の犠牲も払わずにクリスチャンになれると教えられている。」

「私たちの多くは、神との関係は現状で十分だと信じており、神は生活のあらゆるものの一部でしかないのです。私たちの多くは、お金をどれほど稼ぎ、どこの学校に入学し、憧れの身体を手に入れ、だれと結婚し、どのような人となるのか、といったことを考えるほうに夢中です。しかし、神との親しさよりも重要なことは何一つあってはいけません。神との関係は永遠で、何にも代え難いものです。神は、私たちの人生の付属品ではないのです。」

「私の結論はこうです。イエスが私たちに求めている関係は明確で、0か100かです。自らを”クリスチャン”と名乗りつつ、熱心にキリストに従わないなど、辻褄が合わないのです。」

「もし、ある男性が私の娘とデートをしたいと申し出て、それなのにガソリン代や食事代は高すぎるので出したくないと言ったならば、私は彼が本当に娘を愛しているかどうかを疑います。同じように、神のために何かをするのにためらっている多くの教会出席者たちのことも、本当に神を愛しているのかを疑います。」

トマス・マートン

「感謝は、どんなことも当然のこととして考えないこと、感受性が鈍くなくて、新しい驚きや神の善さを絶えず気づくことです。なぜなら、感謝することの出来る人は、神の善さをうわさではなく、経験によって知っているからです。」

「神が必要であることを知らなければ、私たちは神を見つけることはできない。」

「謙虚な人間は、失敗を恐れない。何ものを恐れず、自分すら恐れることはない。真に謙虚な者は神に全幅の信頼を置く。神の力にはどんな力も及ばず、どんな障害も存在しないことを知っているからだ。」

「私たちの仕事は、その人たちに価値があるどうかいちいち問うのをやめて愛すること。」

「高慢は私たちをまがい物にし、謙遜は私たちを本物にする。」

「すべての人の地上での生涯の、すべての瞬間とすべての出来事は、その人の魂に何かを植え付ける。」

「人間の最大の誘惑は、あまりにも小さなことに満足してしまうことだ」

「愛することは人の宿命。ひとりでは見つけられない人生の意味も、ふたりであれば見つけられる」

「私以外に変わったものはなかった。だから全てが変わったのだ。」

「これからやって来るもののために、まずは頭を空っぽにしなければ何も吸収できない。」

「神はそこにいます。ずっと永遠からそこにいます。ただ時間と素直ささえ与えれば、御自分をあなたに感じさせてくださるに違いありません。」

ロッド・ロジャーズ

「臆病者は、『それは安全ですか』を尋ねます。世論は、『それは人気がありますか』と尋ねます。しかし、勇気は、『それは正しいですか』と尋ねます。」

T・S・エリオット

「思いっきり遠くに行くリスクをとるものだけが、自分がどれだけ遠くに行けるのかを見つけることができる。」

M・D・バブコック

「話したい場合、まず思い出してください。それは真実ですか?それは親切ですか?また、それは必要なことですか?そうでなければ、それを言わずにおいていてください。」

ビル・パッターソン

「あなたの必要は、それを満たす主の力と比較するととても小さなものです。」

ウィリアム・ロー(William Law)

「すべてのトラブルを真の機会として、自分をなくす祝福された時として、自分を無にし、苦しみを受けた救い主と共に親しき交わりに入ることとして受け入れなさい。」

「私たちの生活が謙遜と自制、この世の放棄、たましいの貧しさおよび天国を慕っている過程でなければ、私たちはクリスチャンとしての生活を送っていないことになります。」

「あらゆる幸せと全きへの最も確実で、最短の道は何かと聞かれたなら、 誰でも全ての出来事を神に感謝し、賛美する習慣を身につけることであると答えるべきである。どんな不幸と思えることも、そのことで神に感謝し、賛美するなら、それは祝福へと変えられていく。」

P・D・トリップ

「恵みを与えるためには恵みが、希望を与えるためには希望が、愛を与えるためには愛がなければなりなせん。しかし、私はこれらのことすべてを与えることができます。なぜなら、キリストが私にこれらすべてを与えられたからです。」

レオナルド・レイヴンヒル(Leonard Ravenhill 1907-1994 英国の伝道者)

「遊ぶことをやめて祈りなさい。ごちそうすることをやめて断食しなさい。人よりも神ともっと話しなさい。人の言うことよりも神の言葉に耳を傾けなさい。旅を省略し、労苦を始めなさい。」

「私たちが可能なことをしているときに信仰は必要ありません。非常に小さな信仰であっても、信仰は原子の力のように私たちが不可能なことをするときに必要なものです。からし種ほどの信仰は、私たちが考えられないことを成し遂げます。」

「アメリカにおける最も大いなる唯一の脅威は神である。」

「エンターテイメントは喜びに取って代わる悪魔の代用品である。主にある喜びをより多く持てば、あなたはエンターテイメントをより少なく必要とする。」

「聖書の中に何か教会が気に入らないことがある時、彼らはそれを律法主義と呼ぶ。」

「説教者よ、あなたの膝を地面に、あなたの目を御座に置き続けよ。」

「あなたが正しく祈るなら、誤って生きることはできない。」

「使徒たちは金を持っていなかったが、多くの栄光を持っていた。私たちは多くの金を持っているが、栄光を持っていない。」

「私のゴールは神ご自身である。喜びでもない、平安でもない、祝福ですらない。私の神ご自身である。」

「主よ、私があまりに弱い時、私を強くしてください。そして私があまりにも強くなった時、私を弱くしてください。」

「もし神を喜ばせなければ、誰かを喜ばせたところで何になるだろう? もし神を喜ばせるなら、誰かを喜ばせなかったところで何になるだろう?」

「罪を犯している者は祈りをやめ、祈っている人は罪をやめる。」

「私はすべての教会は超自然的なもの(supernatural)か、表面的なのもの(superficial)か、そのどちらかでしかないと信じる。私はその中間のものがあることを信じない。」

「最大の仕事はホワイトハウスをつかさどることではなく、神の家をつかさどること!」

「この世は聖書を信じない。そして教会は聖書に従わない。」

「私が生涯で目指すは悪魔の最重要指名手配リストにのることだ。」

「アメリカにおける最も大いなる唯一の脅威は神である。」

「聖書の権威を否定するような説教者は、その職を辞してハンバーガー売りでもすべきだ。」

「私たちが他の何よりも必要にする一つのこと。それは昨今語られなくなったこと。私たちは罪を自覚させることに大殺到する必要がある。」

「私は教会ごっこを欲する1万人の人々よりも神を欲する10人の人々を持つ方が良い。」

フィリップス・ブルックス(Phillips Brooks 1835-1893 米国の牧師 讃美歌作家)

「容易な人生ではなく、もっと強い人になることを求めなさい。自分の能力に合う職務ではなく、職務に合う能力を求めなさい。これにより、あなたには奇跡がないかもしれませんが、あなたが奇跡です。」

「安楽な生活を祈り求めるな。強い男になるよう祈れ。自分の力で処理できる仕事を祈り求めるな。その仕事を処理できる力が与えられる祈れ。」

「謙遜になることは、腰を曲げて体を低くすることではなく、自分の偉さが実際にはささやかなことに過ぎないという思いを自然に持つ状態のことです。」

「さあすぐ出かけて、ぐずぐずしていると一生やる機会がないかもしれないことを、実行するのだ。」

M・R・ディハーン(Martin Ralph DeHaan 1891-1965 米国 牧師、聖書教師、伝道者 RBCミニストリーズ、デイリーブレッドの創立者)

「お金がないから聖書のみことばを学べない、というのは神のみこころではない。」

「神のみことばの種蒔きに季節のはずれはありません。」

「本当の友だちなら、歯に衣を着せることなく激しく意見を戦わせることができますが、それは、人格を攻撃したり意地悪をしたりすることはありません。」

「キリストは、真理を犠牲にしてでも一致することを、決してお求めにはなりませんでした。」

「家庭は天国の地階、魂の育成所になければならない。」

「今日、教会の多くは、霊的やぶにらみの、混乱した、献身の足りない信者たちのために、無力化している。」

「あなたの有用性の程度は、献身の度合いによって計られる。」

ケイ・アーサー(Kay Arthur 1933− 米国 聖書教師)

「どん欲は人を奴隷にします。人はたくさん持てば持つほど、ますます欲しがるようになります。」

ヨアンネス・クリマコス(John Climacus 579-649 修道士 著述家)

「鉄が望まなくても磁石にくっつくように、悪い習慣に引きずられる者は悪い習慣の奴隷です。」

ベス・ムーア(Beth Moore 1957− 米国 伝道者、聖書教師)

「あなたがキリストにある自分を知っていれば、自我は問題になりません。」

「神について作り上げたイメージが本物かどうか疑ってかかりなさい。そのほうが、単に(神を)拝するよりも、もっと神に喜ばれる。」(アンソニ・デ・メロ)

「血(主の十字架での血)とはいったい何を意味するのだろう。それは、神との正しい関係に自分自身を入れるのに自分は何もできないことを示している。」(George B. Duncan)

「神は毎朝毎朝恵みをもって、私たちを訪ねてくださいます。時には、試みの恵みをもってさえも。私たちがまだ眠りからさめないうちに、神は世界に働きかけ、草木には露をもってバプテスマを施し、鳥や獣に餌を与えておられます。ましてや、人間を忘れたもうはずはありません。」(F.B.Meyer)

「神様への感謝は、その慈しみを増やします。不幸に対する神様への感謝は、その不幸を取り除きます。」(William Dyer)

「もし私たちが少しのリスクも受けようとしないのなら、私たちの歩みは信仰的なものにはなりません。」(Jon Walker)

「過去の出来事とは関係なく、今日あなたが主に留まるなら、あなたの過去があなたの明日を支配することはありません。」(Tony Evans)

「正しいか間違っているかの基準は、あなたの周りにいる人々の考えではなく、神の御言葉を用いてしなさい。」(Bruce Barton)

「偽善というのは、良いことよりも、良いことのように見せかけることを望みます。正直というのは、見せかけよりも、良いことを望みます。」(Arthur Warwick)

「神様が人の心に王になられたなら、人の頭と手でも、家と事務室と野原でも、国家と社会でも、芸術と科学でも王になられたのだ。」(ヘルマン・バビンク)

ウィリアム・シェイクスピア

「行動は雄弁である。」

「世の中には幸も不幸もない。ただ、考え方ひとつだ。」

「どんなに長い夜でも、やがては明ける。」

「空の容器が一番大きな音を立てる(中身が空っぽの人間ほどよくしゃべる)。」

「ああ、人間という奴のつかの間の好意を、神の御恵み以上に追い求める浅はかさよ!人の気まぐれな顔色に希望の礎を見出そうとする者は、マストの上の酔っ払った船乗り同然、揺れ方次第でいつ奈落の水底に転げ落ちるかわかったものではない。」

「愚者は己が賢いと考えるが、賢者は己が愚かなことを知っている。」

「『今が最悪の状態』と言える間は、 まだ最悪の状態ではない。」

「貧乏でも満足している人間は金持ち、それも非常に金持ちです。しかし、大金を持っている人でも、いつ貧乏になるかと恐れている人間は、冬枯れのようなものです。」

「男というものはいつでもそうだが、我が家から離れている時が一番陽気なものだ。」

「敵のため火を吹く怒りも、加熱しすぎては自分が火傷する。」

「安心、それが人間の最も近くにいる敵である。」

「過失の弁解をすると、その過失を目立たせる。」

「人生は選択の連続である。」

「悲しみを声に立てなさい。口に出さない悲しみは、荷の勝ち過ぎた心臓にささやいて、それを破裂させる。」

「事情が変われば己も変わるような愛、相手が心を移せば己も心を移そうとする愛、そんな愛は愛ではない。」

ジョン・M・ドレッシャー

「牧会というこの働きほど、誕生から死に至るまで人間存在のあらゆる段階に深く関わる仕事はほかにないであろうし、この仕事ほど、人生の最も深い痛みに触れるものもなければ、至上の喜びに触れるものもないだろう。またこの奉仕ほど失敗や成功の痛手や喜びを人々と分かち合うものもほかにないであろう。」

「教会はさまざまな弱さや欠けをもちながらもなお、この世界にあって、最も深い愛と犠牲、配慮を具現化している群れであることに変わりはない。そして、キリストを認めない人でも、そこからキリスト教精神の祝福と恩恵を受けるのである。」

「もし私たちが日々聖書に心を開き、黙想を大切にし、祈るということを怠っていれば、私たち自身の霊的アイデンティティーをすぐに見失ってしまうだろう。信仰と確信、霊的な識別力も徐々に弱まっていくにいくに違いない。」

「キリスト教の説教とは、キリストを説教することである。ところが多くの説教がキリストについてのお話になっている。」

「キリスト・イエスに対する燃える心をもつ若者はたとえひとりであっても、若い人たちのグループ全体を動かすことができるものであるし…祈りの人がひとりでもいれば、神はその人を用いて霊的な覚醒をもたらすことがおできになる。そのような人々に必要なのは牧師の励ましの一言である。」

「たゆむことのない、力ある祈りの生活を実践しているということは、その人が神によって牧師に召されていることの大きな証拠である。また祈りにおいて深いということは、その人が霊的指導者であることを立証するものである。」

「教会に何か危機があるときはいつも、まずそれは祈りの危機であると考えて間違いないであろう。特に指導者においては、もしその人が祈りの人でなかったら、牧師としての召しがあるかどうか甚だ疑問である。」

「霊的な人は、人々にあれこれの教理を信じるようにとは要求しない。人々が自分の生活を、キリストの意思にそい、キリストに似たものとするようにと求めるのである。」

「主よ。愛をもって真理を語らせてください。もしも私が愛をもって真理を語ることができないなら、それを語らせないようにしてください。」

新島襄

「私は聖書を置いて、あたりに目をやってみた。そして、このように自問した。私を作ったのは誰か、私の両親か? そうではない。それは私の神だ。神が私の両親を作り、そして、両親を通して私を作られたのだ。私の机を作ったのは誰か? 大工か? そうではない。それも私の神だ、神が地上に木を生えさせられたのだ。大工がこの机を作ったのではあるが、それは実際には木から来たのだ。そうであるなら、私は神に感謝し神を信じ、神に対して心正しい人にならなくてはならぬ。」

「神を自分の天父と認めた私は、最早、両親との絆を断ち難いものとは感じなくなった。親子の関係についての孔子の教えは、あまりに狭く不条理であることを私は初めて発見した。その時、私は叫んだ。『自分はもう両親のものでなく、神のものだ』。父の家庭に私を固く結びつけていた強い絆は、その瞬間、ばらばらに切れた。私はその時、自分自身の道を歩まなければと感じた。自分は地上の父に仕える以上に天の父に仕えなければならない。こういう新しい考えに勇気づけられて、私は一時、主君を見捨て、また、自分の家庭と国家を立ち去ろうと決心した。」

「人間の偉大さ。人間の偉大さは彼の学問になるのではなく、自分自身にとらわれないことにあるのである。学のある人は無学の人より一層利己的になりやすい。十字架上のキリストを仰ぎ見よ。キリストこそがわれらの模範である。ああキリストは何と気高く、偉大で、やさしく見えることか。自己を忘れ、真と善の大目的のために、自分自身を進んで献げようではないか。心か悔い改めて謙虚になろう。これを私は人間の偉大さと呼ぶのである。」

「キリスト教には、人々を自由にし、強くし、有徳にする力がある。国民の力は畢竟、彼等の徳と敬虔との力である。或る人々はキリスト教を単なる方便として利用する。しかし、それでは真の宗教とは言えない。キリストには真理がある。私たちは真理を真理として取るべきであって、単なる方便とすべきでない。」

「怒りっぽい人は他人を罰するよりも、むしろ自分を罰する方が多いものである。」

「諸君の議論に愛の油を加えよ。」

「人に小言を言われた時に腹を立てるな。腹の立った時に小言を言うな。」

「樹木の亭々として大空に秀で、よく暴風大雨に耐え得るはこれに過当するの根あって地中にわだかまるが故なり。」

「我等もし事業をなさんと欲せば、必ずまずこれがために仆(たお)るるの決心なかるべからず。」

「人知らずともわが良心これを知る。」

「人間の偉大さは彼の学問によるものではなく、自分が公平無私になることにあるのだ。」

「社会事業は神の委託事業である。」

「愛以貫之(あいもってこれをつらぬく)。」

「アメリカ人の言葉に『時は金なり』とありますが、むしろ『時は金よりも尊し』と述べたい。」

「金銭問題を気にする必要はありません。男らしさと献身が本物であれば、金は付いてきます。」(米国留学中、思想と進路に迷う内村鑑三を激励する手紙の中の言葉)

「愛は忍び、許すものである。一見弱々しく無力に見えるが、 天下の誰が愛に敵対できようか。犬や猫でさえも人間の愛に動かされるのではないか。」

「隣人に善をなす機会を見つけたなら、それを逃さない。明日まで延ばさないで、ただちにそれをせよ。なぜなら、その機会は二度と返ってこないからである。」

「最もつらい時にこそ、神は寄り添いたもう。」

井戸垣彰(1935-1994 牧師)

「同じ熱心なクリスチャンとしての生き方にも、二通りの生き方があります。天の父の前に生きる生涯と、人の前に生きる生涯です。天の父の子とされた者は人の前にではなく、天の父の前に生きるべきであります。」

「キリスト者は、神の前に立って、自分の姿を正直に見つめた人である。」

「キリスト者生活の諸問題の根本は、外側の事情やまわりの人々の悪にではなく、キリスト者の内側に残っている『肉』にある。神はキリストによってこの『肉』の支配力から私たちを解放し、聖霊が心の王座に着いてくださった。しかしこの『肉』は、まだ残っていて、絶えず戦いをいどんでくる。」

「キリスト者の成長とは、生まれつき持っているこの『肉』を捨て、キリストに似た者としていただくことである。」

「自らがキリストのかたちに変えられていくことを求める祈りよりも、まわりの困難が取り去られることを祈る祈りが、大部分を占めていないだろうか。」

長谷川保(1903-1994 福祉事業家、教育者 日本で初めてホスピスを設立)

「子どもがダメになるのは親がダメな生活をしているからだ。」

フランソワ・ド・フェヌロン(1651-1715 フランス 神学者)

「神は不完全な人間を赦される、人間が神の善意に逆らうときでさえ。私たちはこの慈悲深い忍耐と辛抱を真似るべきだ。不完全なものだけが不完全なものに不満を言う。人間は完全に近づくにつれて、他人の欠点にやさしく寛容になる。」

「自分の職業を自慢する人間ほど惨めなものはない。」

「多くの場合、自分自身の欠点を直すことのほうが、他人の欠点を直すことよりも他人のためになるものだ。」

「自由に使える時間があまりないなら、あなたに残っているほんの少しの時間をも、必ず有効に使うように。‥‥神を愛し、御前で新たになり、神に向かって心を掲げ、心の奥深くで神を拝し、私たちの行いと苦しみを神に捧げるのです。」

「ただ聖書を読み、教会に行き、『大きな』罪を犯さないように心がけるーーこれが神に対する情熱的で真心のこもった愛なのでしょうか。」

「神に自分の心の内を全て明かしなさい。信頼する友の前で、心の荷を下ろすように。喜びも痛みも。苦労を話して、なぐさめていただき、喜びを伝えて、冷静さを取り戻させていただき、欲しいものを伝えて、清めていただけるように。…誘惑を打ち明けて、守っていただけるように。心の傷をお見せして、癒していただけるように。…自分の弱さや必要、抱えている問題などを全て神の御前にさらけ出すなら、祈る言葉に困りません。」

ジョージ・フォックス

「クリスチャンは聖書を持っているだけでは不十分である。聖書の教えに従って生きるべきである。」

ジェームズ・ネイラー(ロンドンのクェーカーの指導者)

「悪を行なうこと、悪事に復讐することも喜ばず、最後には忍耐の精神そのものを享受できることを望んで、すべてを耐え忍ぶことを喜びとする、そのような精神がある。その精神の望みは、すべての怒りと争いを乗り越え、あらゆる高慢と残酷を骨抜きにすることである。・・・その精神は、自らの内に悪を抱かないゆえ、他のだれに対しても悪意を持たない。もしその精神が裏切られると、悪を抱いてしまう。なぜなら、その精神の基礎と根源は、柔和を冠とする神のあわれみと赦しであるのだから・・・。」

カール・バルト

「福音は、神御自身の力ある御言葉として人間に与えられている。人間をその存在の根底まで問い詰め、それまでの安全と満足を奪い去る。自分の理想の中に自らを虜にしているあらゆるかかわりをすべてばらばらに切り裂くのである。それは人間が、神に対して、そして神がイエス・キリストによって賜った新たなすばらしい恵みに対して、完全な自由を得るためである。」

「偽りの預言者とは、人々に満足を与える牧師のことである。彼は福音の説教者、牧会者、奉仕者と呼ばれるが、しかし彼は人間たちの被用者にすぎない。彼は自分が神の名において語っていると夢想しているが、彼は世論の名において、立派な人々の名において語っているに過ぎない。キリスト教はあなた方にとって好ましく重要なものである。あなた方は生活の美しい飾りとしてそれを好む。しかし、神の霊とこの世の霊との間には平和はない。神の意志と人間の意志との間の平和を説教し、現在の生と新しい生を穏やかに賢く結び付け、民が築く隙間の多い壁に宗教と言う漆喰を上塗りし、人々を満足させようとする、そのようなことには何の意味もない。」

パウル・ティリッヒ

「一瞬一瞬の時間の計り知れない重要性はこういうことである。この瞬間の中で、我々は自分の永遠の未来に関する決断を下し、また決断を下されるのである。」

チャールズ・コルソン(1931-2012 米国 伝道者、評論家、作家 プリズン・フェローシップ設立者)

「罪人の深刻な点は、自分が罪人だとわかっていないこと。私たちの使命は、あなたも罪人なのだということをわからせてあげること。それが救いのはじまりになるのです。」

「その人の世界観が根本的に変わらない限り、われわれの議論がどんな説得力を持っていたとしても、たった一つの政治的問題に関してさえ、その人の考えが変わることはない。」

「キリスト教信仰は、不合理な論理の飛躍ではない。客観的に聖書を調べれば、それが理性と証拠にしっかり根ざした主張を展開していることがわかる。」

「復活が事実であることを、私は知っている。ウォーターゲート事件がそれを証明してくれた。どうやって? それは、12人の人が、イエスが死からよみがえったと証言し、それからその真実を40年間宣言し、一度もそれを否定しなかったからだ。全員がむち打たれ、拷問にかけられ、石を投げられ、牢獄に入れられた。復活が真実でないとしたら、そんなことには耐えられなかったことだろう。ウォーターゲート事件は世界で最も権力を持つ12人の男を巻き込んだ。しかし、彼らは3週間ですら嘘をつき続けられなかったのだ。12使徒が40年もの間、嘘をつき続けたというのか? そんなことは絶対にあり得ない。」

「禁じられ、焼かれ、愛された聖書は、歴史上のどの書物よりも広く読まれ、最も頻繁に攻撃されている。知識人たちは何世代にも渡って聖書の信用を落とそうと試み、諸時代の独裁者たちは聖書を違法とし、それを読む者を処刑して来た。それでも、聖書は武器よりも力強いと信じる兵士たちが、聖書を持って戦場に行く。独房にこっそり持ち込まれた聖書の切れ端が、冷酷な殺人者たちを心優しい聖人に変えてきた。」

ダミアン神父(1849-1889 ベルギー出身のカトリック司祭 ハワイのモロカイ島で当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯をささげ、自らもハンセン病で命を落とした)

「何もかも、持てる限りを与え尽くした私は幸福者である。今は全く貧しく死んでゆく。自分自身の物と名の付くものは何もない。ああ何と幸福なことであろう。」

コーネリウス・ヴァン・ティル (Cornelius Van Til 1895-1987 米国の神学者)

「聖書が教える神の御旨とは、世界のあらゆる領域を、キリストを礼拝する場と変えることです。」

リチャード・B・ガフィン( Richard Gaffin 米国の神学者)

「イエス・キリストは、救いを成し遂げるためにだけ働いたのではありません。今も成し遂げられたその救いを私たちに適用するために働いておられます。」

エドワード・モート(Edward Mote 1797-1874 英国の牧師、讃美歌作詞家)

「私は堅い岩であられるキリストの上に立ちます。他のすべての土地は沈んでいく砂です。」

マイケル・ホートン(Michael Horton 1964- 米国の神学者)

「キリストを求めるためではなく、自分のために、例えば、自分の問題の解決や平安を得るためにキリスト教という宗教を求めたり、教会に通ったりすることは、キリストのないキリスト教を求めることです。」

「教会は弟子たちが1週間に1度通うところではない。教会は弟子たちが作られる場所である。」

セオドア・オースティン・スパークス(Theodore Austin Sparks 1888-1971 英国の伝道者)

「文学の領域はアルファベットのA〜Zの外に行くことができません。同様に、イエス・キリストは神の新しい創造の始めであり、終わりであり、その間のすべてです。ですから、私たちは主の外に行く(主から離れる)ことができません。」

サドゥー・サンダー・シング(Sadhu Sundar Singh 1889-1929 インドの宣教師)

塩が水に溶けると見えなくなります。しかし、なくなったのではありません。水を味わうことで塩を確認することができるからです。同じように、内在のキリストは目に見えませんが、主が私たちに与えられる愛によって明確に知ることができます。

ホレイシャス・ボナー(Horatius Bonar 1808-1889 英国の牧師、讃美歌作家)

「救いを成し遂げるのは、私たちの信仰の強さによるのではなく、キリストの完全な犠牲によります。」

ルツ・パクソン(Ruth Paxson 1889-1949 米国の宣教師)

「キリストがいなかったら祈りもありません。キリストが少なかったら祈りも少なくなります。キリストが多かったら祈りも多くなります。」

ハンナ・ホイッタル・スミス(Hannah Whitall Smith 1832-1911 英国の伝道者、作家)

「弱い人間には頼っても、全能の神様には頼らないことは理屈に合わないことです。」

「周囲の状況は変わっていない、彼女の見方が変わっただけ。」

「物事に二面あるのに、一面だけ見て判断するのは、物事の見方にゆがみを生ずる。同様に、人と神の間にも二面ある。人の役割と神の役割である。人の面(役割)は、神への信頼であり、神の面(役割)は、実際の働きである。これらは同時性を有し、且つ相矛盾しない。そして実は、すでに完成されたわざというものが準備されている。罪の束縛力から解放された我々は、神の意思を成し遂げるべく、その完成されたわざに取り組むよう創られている。」

「神の栄光を見続けるなら、自分はその栄光に変えられていく。」

「感情が私達の性格を支配するという考えがある。しかし、私は、私達はみんなが実際の経験として知っているように、私達の感情と望みの奥に、独立した何かが存在し、その何かがすべてを決め、すべてをコントロールするのだと思う。私達の感情は私達に属し、私達は悩んだり、楽しんだりするが、それらの感情は私達自身ではないのだ。そして、もし、神が私達の中にいらっしゃるのであれば、それはこの中心的な意思であるに違いなく、あるいは、主が介入された人格なのである。」

「神の御心はこの世で一番楽しく、嬉しいことです。」

「霊的生活のすべてのことは、あなたがどんな性格の神を礼拝しているかによります。礼拝者の性格は、いつも礼拝している対象の性格に影響を受けるからです。もし礼拝の対象となる神が残酷で、復讐の神であるなら、礼拝する者も同じでしょう。しかし、もしその神が愛あふれた、優しい、赦しを与える無私の神であるなら、礼拝する者は、それに似た者にゆっくりと、美しく変えられていくでしょう。」

「神が自分の父であるということを知ろうとする魂には、心配や不安はありません。」

オースティン・フェルプス(Austin Phelps 1820-1890 米国の牧師)

「私たちが他の何よりも執り成しの祈りをするときが、よりキリストに似る者となります。」

「あなたは祈りをささげる対象のために生活をしているのですか?」

「規律のとれた意識というものは、人にとっての最良の友と言える。親しみがもてないかもしれないが、最も信頼できる監視者である。」

ジョン・フラベル(John Flavel 1628-1691 英国の牧師、作家)

「私たちが試練だと言うことを神様は機会だと言われます。」

「稲穂が実るほど頭を垂れるように、神の民は成長するほど謙遜と自己否認が大きくなります。」

「神様の恵みは約束をもたらし、神様の御心は行いをもたらします。」

ニッキー・ガンベル(Nicky Gumbel 1955- 英国の牧師)

「後悔は後ろを見る。恐れは周りを見る。心配は中を見る。しかし、信仰は上を見る。」

チャールズ・キングスリー(Charles Kingsley 1819-1875 英国の牧師、詩人、小説家)

「私は、ただ信仰を持つことだけではなく、信仰が私をとらえてくれることを望みます。」

フレッド・ロジャース(Fred Rogers 1928-2003 米国の牧師、教育家、テレビ番組ホスト)

「この人生で、自分の欲することのすべてを行う時間はほとんどない。だから、選び取る必要がある。そして、その選択が、自分が何者であるかという深い意識から出ることを願う。」

「愛は相手を100%思いやるという状態を表す言葉ではありません。愛という言葉は、葛藤と同じように、何かをしていることを表す言葉なのです。誰かを愛するということは、いま目の前にいる人をありのままに受け入れるために、心の中で闘うことなのです。」

「出会った人たちの人生に、自分がどれほど大きな影響を与えるかを自覚してほしい。あなたは、思いもよらない相手に対して、重要な存在になることがある。誰かと会うたびに、あなたは自分の何かしらを相手に残しているのだ。」

トマス・ビニー(Thomas Binney 1798-1874 英国の説教者)

「恵みの高き嶺に我らが上り行く道は、十字架の犠牲により与えられた道であり、聖霊の熱心により助けられ、導かれる道である。それは、道として来られたイエスにある神の愛によるのである。」

トーマス・チャンプネス(Thomas Champness 1832-1905 英国の説教者)

「荒波は私たちに祈ることを教えます。祈りは自分自身の弱さの表れですが、同時に力強く全能なる神様に頼らせるものでもあります。」

ジェラルド・L・シッツァー(Gerald L. Sittser 1913-1999 米国の神学者、哲学者)

「苦しみに遭う理由と、その苦しみに対する神様の意図がよくわからなくても、計り知れない神様の御心に自分自身を委ねることこそ信仰です。」

ロバート・チャールズ・スプロール(R.C. Sproul 1939- 米国の神学者、牧師)

「信仰は、私たちが信じている神様を最後まで信頼していくことです。」

「モーセは神のおきてを取り次ぎ、ムハンマドは刀を振りかざした。仏陀はカウンセリングを行ない、孔子は格言を与えた。しかし誰一人として、世界中の罪の贖い主としての資格を持つ者はいなかった。・・・その資格を持ったイエスだけが、限りない愛と奉仕を受けるにふさわしい存在である。」

「復活したという主張は不可欠である。もしキリストが神によって死人からよみがえらされたのであるなら、キリストは他の宗教指導者が持たない実績と証明を持っている。仏陀(釈迦)は死んでいる。モハメッド(ムハンマド)も死んでいる。モーセも死んでいる。孔子も死んでいる。しかし、キリストは生きている。」

「神の怒りから逃れる唯一の道は、キリストの贖いに覆われることである。十字架の最高の功績は、キリストが、神の怒りを和らげたことである。その御怒りは、もし私がキリストの犠牲に覆われていなければ、私に向かって燃えるものである。」

「いいですか、みなさん。考えれば考えるほど、私たちはみな、イエス・キリストよりもヒトラーに似ているのです。」

「人は自らと神の偉大さとを比べることなしには、自分が取るに足らない小さな存在であることを決して痛感することはできない。」

「今は永遠の中に数え入れられる。…今あなたがしていることも、私がしていることも、永遠的な意味を持つ。」

「クリスチャン生活はあなたの全生活を神の臨在の中で生活すること。」

「もし私がキリストのうちにある誰かを憎んでいるなら、私はその個人に対して罪を犯しているだけでなく、キリストご自身に対しても罪を犯していることになる。」

「あなたはイエスのことばを愛さず、イエスを愛することはできない。」

「聖書が教えることをあなたが信じて教えることがあなたの義務であって、あなたが望むことを教えることではない。」

「神の主権を理解すればするほど、私たちの祈りは神への感謝で満ちあふれるようになる。」

「私たちが祈る時、自分が誰であって、誰に対して祈っているのか、覚えなければならない。」

「今ほど生きることや死ぬことや、命について考え始めた時代はありません。『新しく生きよう』」と。誰もが生きることの意味を問うていますが、クリスチャンは聖書から教えられ、神の恵みと与えられた信仰によって生きていこうと決心した人です。しかし、異教的な、世的な「だけの生き方」は「生活や価値、活動のすべては現在という時のもとでの生き方です。簡単に永遠を否定し、疑いの立場を譲りません。永遠的なものはないし、今だけを大切にし、今を考えて決断し、人生を送り、計画を立てます…それは、明らかに聖書と対立するものです。」

「今日の教会の最大の弱さは、“神は、ご自身の力を聖書に注ぎ込んでおられる”ということを、ほとんど誰も信じていないということである。誰もが、その力を、活動プログラムや、それをうまくやるテクニックや、ありとあらゆることに求めている。――ただ一つ、神がそれを込められたもの、“神の言葉”を脇に置いて。」

「おお、説教者よ、あなたの職務は、あなたが聖書箇所に忠実であること、その福音の宣言に対して忠実であること、神のご計画の全体を説き明かすことに忠実であることを確かめること、あとは後ろに下がって、それが起こるままに任せなさい。」

「私達のうち誰も、神の子供としてこの世に生まれてくる者は無い。私達は神の怒りの元にある子供として、生まれて来るのだ。神の家族の一員となる唯一の道は、養子となること…信仰により神のひとり子につながれることで、それが可能となる。」

「どうして良い人に悪いことが起こるのか? それは一度だけ起こった。 そして彼は志願した。」

「私たちがクリスマスでお祝いすることは、赤ちゃんの誕生というよりは神ご自身の受肉です。」

「愛だけ、恵みだけ、あわれみだけで、権能も、義も、聖さも、怒りも持たない神は、偶像である。」

「聖書は神は『愛、愛、愛』もしくは、『恵み、恵み、恵み』とは言わない。聖書は神は『聖なる、聖なる、聖なる』と言う。」

「神のことばの中のある部分が気に食わない時、問題は神のことばにあるのではなく、私の方にある。」

「羊を養うことが牧師と教会の職務だ。もし羊でない誰かが入ってきても、それは構わないが、私たちはメニューを変えて山羊の食べ物を羊に与えることはしない。礼拝は羊のためのものである。」

「イエスは失われた者を捜して救うために来られた。捜すのは彼の方であり、走り回っているのは私たちの方である。」

「クリスチャンは、彼が信じることや支持することによって知られるだけでなく、彼が拒否することや否定することによっても知られる。」

「私は常に神の臨在を感じることはないが、神の臨在は私のフィーリングに左右されるのではない。それは神の誠実さにかかっている。」

「聖書を信頼するのにあなたの知性を放棄する必要はない。あなたのプライドを放棄する必要がある。」

ジム・シンバラ(Jim Cymbala 1949- 米国の牧師)

「神様が何よりも求めておられるのは、我々が心を神様に傾けることである。」

「信仰は現実を否定しないが、神から新しい現実を与えられる余地を作る。」

「御霊に満たされるためには、自分の至らなさや必要を痛感し、たましいの飢え渇きを覚え、恵みの御座におられる方のもとに行かなければなりません。そしてそこで、自分では解決できない弱さをこのお方に訴えればよいのです。」

「主よ。私には正されなければならにことが山ほどあります。私は無力で弱い人間ですから自分で自分を正すことはできません。ぜひとも、あなたの御力をいただかなければならないのです。自分の生き方、家族との関わり、教会生活や奉仕などを、これまでと違ったものにしたいと願っています。どうか今、私のところにいらして、あなたの御霊で満たしてください。」

「愛する天の父よ、あなたの力よりも、むしろ人間的な力により頼んでしまいがちな私達の罪をお赦し下さい。祈る事と信仰と謙遜を持ってあなたにお仕えする事とを私達に教えて下さい。私達の上に聖霊の風と火を送って下さい。そして、私達をキリストの証し人へと変えて下さい。」

「神は言われます。祈りなさい。私はあなたのためにすべてのものを備えています。祈りによってあなたがたが求めるなら、あなたがたはそれを受けます。私はあらゆる恵みがありますが、あなたがたは乏しさの中に生きています。すべて疲れた人は、私のところに来なさい。なぜそんなに急ぐのですか。今どこに向かって走っているのですか。あなたが必要なものはすべて、わたしのところにあります。」

「幸せは状況によって変わる蜃気楼だが、喜びは違う。私たちは幸せじゃなくても 喜ぶことができる。ガラテヤ人への手紙 5:22-23 によると喜びは聖霊から来る。聖霊は幸 せの空しさを知っておられ、聖霊を通して状況を超越する超自然的な喜びを享受できるよ うにしてくださる。パウロは神の国は義と平和と聖霊による喜び(ローマ人への手紙 14:17)だと語る。喜びはイエス・キリストを追い求める弟子の特徴だ!」

「私たちは、育児書や、子供と充実した時間を過ごすための本を山ほど持っています。しかし、今日、教会の子供たち100人を調査してみると、過去のどの時代にも増して問題を抱えている子供が多いのです。これは、私たちのハウツーや知識の不足から生じたのではなく、私たちが神の恵みと力を願い求めて祈ってこなかったことが原因です。仮に、過去25年間において、私たちが、クリスチャンホームに関する書物を著したり、出版したり、読んだり、話し合ったりする時間を半分にして、あとの半分の時間を結婚生活や子供たちのための祈りに充ててきたとしたら、どうだったでしょう。現状よりはるかに良い状態になっていたはずだと私は確信します。」

今日、神のみことばを忠実に説き明かす説教者の中にも、リバイバルを願う者たちの中にも、次のような発言をして、無意識のうちに神の働きを妨げている人たちがいます。「まず第一に、あなたがたの生活において罪に打ち勝ちなさい。そうすれば、神は御霊の力を与えてくださいます。罪に勝利した時、あなたがたは神の全き祝福をいただくことができるようになります」。そして悪習慣からの脱却、日々のデボーションの確立など、信者が果たすべき事柄を並べ立て、これもすべて、ペンテコステの完全な祝福にあずかるためだと宣言します。

しかし、皆さん、どうか冷静に考えてみてください。そもそも御霊の力をいただいてもいない者が、自分の弱さに打ち勝って悪習慣から抜け出し、キリストに似た者となることなど、できるはずがありません。私の場合、御霊に助けていただかなければ、一歩たりとも先に進むことができません。「御霊を体験するためにはA地点からB地点に行かなければならない」という教えは間違っています。私にはB地点まで行く力が全くないからです。私をA地点からB地点へと進ませ、最後のZ地点まで到達させてくださるのは、神の恵みの力にほかなりません。

ところで、私たちの態度や行動も変えていただかなければならないのでしょうか。そのとおりです。神は私たちの心も、心の表れである態度や行動も、徹底的に一新しなければならないと考えておられます。もしも、聖霊なる神が私たちの内側でその働きをしてくださらないとしたら、私たちは少しも変わっていかないでしょう。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます」(ローマ8章26節)。私はこれまで、このみことばに何度もすがりついてきました。御霊に満たされるためには、自分の至らなさや必要を痛感し、たましいの飢え渇きを覚え、恵みの御座におられる方のもとに行かなければなりません。そしてそこで、自分では解決できない弱さをこのお方に訴えればよいのです。「主よ。私には正されなければならないことが山ほどあります。私は無力で弱い人間ですから自分で自分を正すことはできません。ぜひとも、あなたの御力をいただかなければならないのです。自分の生き方、家族との関わり、教会生活や奉仕などを、これまでと違ったものにしたいと願っています。どうか今、私のところにいらして、あなたの御霊で満たしてください」

A・J・ゴシップ(A.J. Gossip 1873-1954 英国の牧師)

「人生があまりにも大変だと感じますか。今はそう思われなくても、私たちに対する十分な恵みがイエス・キリストのうちにあることを覚えてください。」

D・A・カーソン(D.A. Carson 1948- カナダの新約聖書学者)

「天国は弟子として生きるための代価よりもはるかに価値があります。また、宝のありかを知っている者は、必ずや他のすべてを喜んで放棄します。」

「福音は知らせであるがゆえに...発表されなければならない。知らせとはそのようなものであるからだ。説教にみられる本質的なしるしとしての要素は、そのメッセージの核心が、議論されるべき倫理的コードでもなく、敬われ思索されるべき格言のリストといった位置づけでもなく、これは確か だが、概説や図式を求める組織神学でもないという事実に深く関係している。倫理の、格言の、組 織神学の適切な土台となるにもかかわらず、これら三つのどれでもない。つまりそれは知らせ、良 い知らせであって、よって公的に発表されなければならない。 」

ベサニー・ハミルトン(Bethany Hamilton 1990- ソウル・サーファー)

「見まわせば、人々の上には、さまざまな災いが起きています。それが人生です。そこで、私からのアドバイスがこれです。ふとしたことで、かんたんに消えてしまうことに、すべての希望と信頼を注ぎこまないこと。おそらく、この世のほとんどのものがそうです。」

ジーン・エドワーズ(Gene Edwards 1932- 米国の牧師)

「仕事の合間にキリストを慕い求めることは、オフィスの一日を変えるだけではなく、自分自身も変えるようにします。」

アーチボルト・ハート(Archibald D. Hart 米国の心理学者)

「今は失敗のように思われることが、後にはそれが祝福に変わるかもしれません。神様の摂理においては、実は失敗というものは存在しません。力強い成長があるのみです。」

ギュイヨン夫人(Madam Guyon 1648-1717 フランスの神秘家)

「神様は、私たちの信仰を確かめたり、鍛練したりするために、沈黙なさる時があります。」

エドワード・サイード(Edward Said 1935-2003 パレスチナ系アメリカ人クリスチャン 文学研究者、文学批評家)

「自分が生まれた国だけが好きな人は子供のようである。全世界どこへ行っても自分の国であるかのように思える人は強い人である。しかし、この世のどんな所へ行ってもすべて他国のように感じる者は完璧な人である。」

リジューのテレーズ(Saint Thérèse of Lisieux 1873-1897 フランスの修道女 小さき花のテレジア)

「わたしは困難に出会った時は、決してそれを飛び越えようとは思いません。今よりももっと小さくなって、わたしはその下をくぐり抜けようと思います。」

「艱難はうちひしがれるためにあるのではないのです。もし、のりこえることができなければ、身を屈めて、その艱難をくぐりぬけれて下さい。小さく小さくなるのです。」

「今ではもう、わたしには、イエスさまを愛して愛して愛し抜きたいという望み以外、なんの望みもありません。」

「わたしの心の一かけらでもイエスさまを拒むことがありませんようお祈りください。」

ダーリン・デイブレル・ローズ(Darlene Deibler Rose 1917-2004 米国婦人宣教師)

「すべてが順調な時には聖書を読み、信じていると告白することは容易いことです。しかし、理解しがたい試練に遭いながら聖書の言葉を信じていると告白できるでしょうか。」

サミュエル・ジョンソン(Samuel Johnson 1709-1784 英国の文学者 文壇の大御所)

「偉大なことは、力ではなく、忍耐によって成し遂げられる。」

「腐敗した社会には、多くの法律がある。」

「政府は我々を幸せにすることはできないが、惨めな状態にすることはできる。」

「愛国心は卑怯者の最後の隠れ場。」

「地獄は善意で敷き詰められている。」

「すべての人間は怠け者か、怠け者志願者である。」

「短い人生は時間の消費によっていっそう短くなる。」

「困難はたいていの場合、怠情の娘である。」

ウッドロウ・クロール(Woodrow Michael Kroll 1944- 米国の神学者、著作家)

「私たちを造られた神様は私たちを新しく造りかえることができます。」

ローン・C・サニー(Lorne Charles Sanny 1920-2005 米国 ナビゲーター)

「救いの恵みを分かち合うことは、神様が私たちに与えてくださった最も偉大なことです。」

ルイス・B・スメデス(Lewis Benedictus Smedes 1921-2002 米国の神学者)

「あなたを傷つけた人を思い出し、その人が良くなっていくことを願う気持ちになれたら、その時から赦しは始まります。」

「赦すことは、囚人を自由にするようなものであり、囚人とはあなたであったと分かることです。」

「赦すという事は苦い過去を消し去るわけではありません。癒された記憶は消された記憶ではないのです。忘れられないことを赦すということは思い出を新しい角度から見つめることなのです。私たちは過去の記憶を未来への希望へと書き換えることができるのです。」

「愛は過去を葬ります。愛は過去が清算されなかったとしても、人を新たな始まりへと動かします。愛は過去の誤解すべてを解消させる必要はありません。過ぎたことの詳細はもはや関係なくなり、大切なのは新たな始まりだけです。事は精算されず、意見の違いは解決されず、台帳は収支がつかないままかもしれません。物事がどう起こったかに関して人それぞれが持つ記憶の違いは解決されておらず、過去は混乱のままです。しかし、大切なのは未来だけです。愛の力は人を小うるさい歴史家にはしません。愛は過去にあった正誤に関する未解決の問題を、ゆるしの懐の中にしまい込み、新たなスタートを切ることを好みます。」

「たぶんあなたは、昨日、おそらくはずっと昔に誰かに傷つけられて、それを忘られないのかもしれません。傷は深く、今もあなたに痛みを与えています。

あなただけではありません。善意ある人たちでさえ互いに傷つけ合う世界で、私たちは皆、何とか生き抜こうとしています。深い個人的関係に身を投じる時、私たちはしばしば無防備になって傷つきます。

赦しとは、たとえ動機は良くとも、人々が互いに不公平な扱いをし、互いを深く傷つけ合うこの世界と何とか折り合いをつけられるようにと、神が考案されたものなのです。神はまず、私たちを赦すところから始められます。それから私たち全員に、互いに赦し合うようにと呼びかけなさるのです。」

フレデリック・ブロザートン・マイヤー F.B. Meyer 1847-1929 英国の牧師、伝道者

「自分の弱さをさらけ出し、全能の救い主に自分の力を引き渡す試練は、むしろ恵みです。人生の旅程の中で耐えられないと思われる試練があっても、神様の愛しい子どもよ。驚かないでください。耐えることのできないような試練はなく、すべての試練には脱出の道が備えてあります。」

「神の愛は、きのうやきょう、生まれ出たようなものではありません。また、私たちが神を思った時、あるいは信じた時に始まったものでもありません。あなたの生まれ出る前から、カルバリやベツレヘムよりも前から、いや人類の堕落、エデンの園よりも前から、ああ、この太陽系が回転する以前から。そうです! 永遠の昔から、あなたはキリストのうちにあって愛され、選ばれていたのです。」

「神の言葉が入ると、変えられた人生が出てくる。」(エド・コール)

エイドリアン・ロジャース(Adrian Rogers 1931-2005 米国の牧師、著作家)

「クリスチャンは、あたかもイエス様が昨日死なれ、今朝よみがえられ、そして、今日の午後には再び来られるかのように生きていく者です。」

「法律で富める者の自由を奪い、貧しい者に自由を与えることはできない。半分の人々が、もう半分の人々が自分たちの面倒をみてくれるから働かなくてもよいと考え、もう半分の人々が、誰か他の人が自分たちの働いて得たものを手に入れようとしているため、働いても仕方ないと考えたら、どんな国家にも終焉が訪れる。富を分けることによって増やすことはできないのだ」

「水をぶどう酒に変えられたイエスは、あなたの家庭や人生や家族を、そして将来を造り変えることがおできになります。主は今でも奇跡を行う仕事に携わっておられます。主の仕事は、造り変えるという仕事なのです。」

「試練にあっていない信仰は信頼することができません。」

フランシス・フランジペン (Francis Frangipane 1946 米国の牧師、著作家)

「信仰の尺度は、私たちが罪人に対してどれほど怒っているかではなく、私たちがどれほどキリストに似ているかであります。」

「真のリバイバルの証は、人々が倒れるとか、飛びはねるとか、転げ回るとかではありません。教会の建物を出たときあなたがどのくらいキリストに似る者になっているか、なのです。」

「私は自分の霊的な進歩のほとんどが、神から直接来るのではないことを学びました。それは、むしろ身を低くして、神が不完全な人々を通して語られる言葉に耳を傾けることから来るのです。」

「神は、私たちのミニストリーの働きよりも、 私たちの愛を求めておられます。主の偉大な戒めは、私たちが主を愛 することであり、究極的に言えば、思いを尽くし、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主を愛することです。もし私たちが神を愛するならば、神が私たちに要求することはすべて満たすのです(ヨハネ 14:15) 。そして私たちが神を愛するとき、神はすべてのことを相働かせて私たちの益としてくださいます(ローマ 8:28)。主を愛するためにミニストリーの肩書きは必要ではありません。神は、実際に私たちの人生の価値を私たちの愛の深さ によって計られるのです。真に神を求めるものたちに神が求められるものとは 、即ち、私たちの置かれた場所で神を愛する事です。」

「私たちがどれほどキリストに似る者になるか、が教会の成功度のバロメーターなのです。人数ではありません。何人がキリストに似る者となるかが、教会の成功を測るポイントです。」

「あなたは将来の伴侶を求めているかもしれません。それは誰だか教えましょう。それはイエスです。「そういうことではなく、本当の誰かを望んでいるのですが….」と言われるかもしれませんね。でも、まずイエスと親しい関係になることがよい伴侶を見つける道です。幸せな結婚がしたい、よい家庭を作りたい、というあなたの願いは、まずイエスとよい関係を結ぶことから始るのです。主はあなたに最良の結婚を与えてくださいます。あなたがまわりのものに目を奪われることなく、まずイエスを目指して進むからです。」

ジョン・F・ワルブールド(John F. Walvoord 1910-2002 米国の神学者)

「人が親から生まれることで人間の本性を継ぐように、人は新しく生まれることで新しい性質、神に仕えることと敬虔の力を継ぐようになります。」

ジョン・マクスウェル(John Maxwell 1947- 米国の牧師、著作家)

「イメージは、私たちが何者であるか人々が思うことであって、実際の私たちの姿は誠実さにあります。」

「毎日あなたがやっていることを変えない限り、あなたの人生は変わらないことでしょう。」

「失敗は教師であるべきであって、葬儀屋であるべきではない。失敗は遅れであって、敗北ではない。失敗は一時的な遠回りであって、行き止まりではない。」

「人生を変えたければ、日常の行いを見直すことだ。成功の鍵は、日々の日課の中にある。」

「明日の成功の最大の敵は、今日の成功である。」

「チャンスをつかむ絶好の日は、今日である。」

「チャンスは幸運ではなく、勇気の成果である。」

「すべての信号が青に変わるのをじっと待っていては、いつまでたっても前に進むことは出来ません。」

「何があっても、絶対に、絶対に、絶対に、あきらめてはいけない。」

「自分のやっていることを心から楽しまなければ、真の成功はあり得ない。」

「頂上へ連れていってくれるエレベーターなどないということです。成功の頂上へ辿り着きたいなら、長い階段を自分の足で一歩ずつ上っていくしかありません。何歩くらいなら歩けると思うか。

そして、どの程度の時間なら登り続けてもいいと思うかによって、どこまで高く登れるかが決まるのです。」

「成長するためには、長い間やってきたことをやめなければならない。」

「人生は本番前のリハーサルではありません。常にベストを尽くさなければ、二度とチャンスはないのです。」

「カードゲームなら、強いカードが来るまでじっと待っていればいいが、人生はそうはいかない。持ち前の才能は神からの授かりものであり、自分で選択する余地はない。しかし、人生は配られた手持ちのカードで勝負するものだ。そして、カードをどう使うかは、本人の選択次第である。」

「使命とは、自分以外の人と関わりのあるテーマであるべきだ。誰かのために生きてこそ、人生は価値がある。」

「生きているかぎり、人は毎日、変化していくプロセスをたどっています。より良く変わっていくのか悪くなっていくのかは、あなたの行い次第です。」

フランシス・リドリー・ハヴァーガル(Frances Ridley Havergal 1836 -1879 英国 讃美歌作家)

「…苦しみの後に平安が、悲しみの後に楽しみが、孤独の後に友が、苦痛の後に喜びが、十字架の後に栄光が、死の後に永遠のいのちがあること、これこそ真理である。」

デイル・ラルフ・デイヴィス(Dale Ralph Davis 米国 牧師)

「苦難を乗り越えたことよりも、まだそのさ中にいることが、神様が私たちを見捨てていない最も確かな証拠になります。」

エドワード・T・ウェルチ(Edward T. Welch 米国 カウンセラー)

「自分自身がそんなに悪くないと思う人とは、神様は深い関係を持ちません。そのような人は自分自身が神様の模倣品であるかのように思っていますが、自分自身が神様の前で何者であるかは無視している者です。」

「私にとって明日も新しい恵みがあると知ることで今ある心配事や恐れに明らかな違いが生まれる。恵みを遮る目の前の障壁は言い換えると自分のイメージという限られた領域で勝手に神を小さくしてしまっているようなものである。未だ見ぬ恵みを自分が想像できるわけがない。」

「キリストをお与えになったほどの神を知るときに時にかなったものを与えて下さると信頼できるようになるのだ」と言います。イエスが福音書で『子が魚を求めているのに父は石を与えるはずがない。あなたがたの天の父は御霊を下さらないはずがあろうか』と語られているように。神の与える恵みを発見するとき日常といわれる目まぐるしい時間をたった独ぼっちで過ごしているわけではないのだとはっきりと気がつく。神はあなたのすぐそばにおられ独り子キリストに確信を置くすべての子らに日々、今も働きかけておられる。」

「恵みを受け取ると、ふと思う。何度、恵みをそれだと気がつかずに感謝することさえ忘れていたことか。」

十字架のヨハネ(John of the Cross 15421591 スペイン カトリック司祭、神秘思想家)

「サタンは、主に結びついているたましいを、主のように恐れています。」

「キリスト者は、自分の善行の価値がその善行の数や立派さにではなく、善行をなすように促す神の愛に依存するものであることを、いつも覚えておかなくてはならない。」

「神に感謝する者は恵みを自分に引き寄せる。」

「純粋な愛の行いは、それがどんなに小さくても、教会にとっては、他のいっさいのわざを集めたものより、さらに有益である。」

チャック・ベイカー(Chuck Baker )

「神様に仕えるために忙しくなると、私たちはその忙しさで罪を犯す時間がなくなります。」

ボブ・ピアス(Bob Pierce ワールドビジョンとサマリタンズ・パースの創立者)

「神の心を傷付けるものによって、私の心が傷付くように。」

F・F・ブルース

「神は父親の原型だ。他の全ての父性は多かれ少なかれ完全な父性の不完全な写しだ。」

ジョージ・ワシントン(George Washington)

「私の母は私がかつて見た中で最も美しい人だった。私の全てが母によるものだ。私の人生の成功は全て、母から受けたモラル、知性、教育によるものだ。」

「アメリカ人ほど神の見えざる手が日々働くことを尊ぶ国民はない。」

「中傷の最高の返答は、黙々と義務を遂行することである。」

􏰅􏰆􏰇􏰈􏰉􏰫􏰬􏰭􏰮􏰍􏰯􏰰􏰱􏰲􏰳􏰴􏰵􏰶􏰷􏰸􏰹􏰐􏰺

マイスター・エックハルト

「神がその人に笑いかけその人が神に笑い返すような魂が、その人柄を外へと顕わす。」

「何もしない事の代償は、間違いを犯した後の損失よりも、はるかに大きい。」

「実のところ、光を見つけるのは闇の中です。ということは、悲しんでいる時にこそ、光は最も近くにあるものなのです。」

「もし、あなたの生涯で唯一の祈りが“ありがとう”であるのなら、それで充分でしょう。」

「熟考という土壌に種を蒔いた事は、行動という収穫時に刈り取るのです。」

「神が人間に求めるものは、平和な心である。」

「内面が偉大であれば、外見は決してちっぽけにはならない。」

「人生の仕事は『神の愛の輝き』を自らの身に帯びるようになることである。」(ウィリアム・ブレイク)

「あなたの小さい世界を投げ捨てて、全世界を救う働きに乗り出しなさい。」(フランシスコ・ザビエル)

ウィリアム・ウィルバーフォース

「全能の神は私に二つの目標を与えられた。一つは、奴隷貿易を禁止することであり、もう一つは、英国社会の悪習を改革することだ。」

「見解の相違は仕方ない。だが、知らなかったとは言わせない。」

「絶望すまい。これは祝福された大義だ、いずれ成功が我々の努力に報いるであろう。」

ジェームズ・H・オーヘイ(James H. Aughey)

「神が人を水中深く沈めようとするのは、おぼれさせるためではなく清めさせるため。」

「神の鉄槌は敵を撃ち滅ぼすものでない、父として彼らを直すためのものだ。」

「クリスチャンの死は、彼のすべての悲しみと悪の葬式であり、彼のすべての喜びの復活である。」

「人の富が大きくなっていくなら、常にささげることだけがたましいを小さくすることから人を守る。」(J・キャンベル・ホワイト)

「われわれ人間存在の全領域で、すべての主権者であるイエス・キリストが『私のもの!』と叫ばないものは1インチ四方もない。」(アブラハム・カイパー)

「私たちが不安に思う理由を静かに振り返ってみると、ただイエスだけが満たしてくれるものを他から得ようとした愚かな態度が浮かびます。」(トリアン・チヴィジャン ビリー・グラハムの孫)

「私たちの真の祝福は、苦痛や喪失や失望といった形をとって私たちに現れてくることが多い。だが、忍耐をもって生きていけば、苦痛や喪失や失望の本来の姿をすぐに目にすることになるだろう。」(ジョセフ・アディソン)

「誰かを赦すとき、あなたはそれを行なった人から悪行を切り取っている。その人からその傷つける行為を解放している。彼を新しく創造している。ある瞬間は彼を、自分に不当な仕打ちをした人間だと根深く思っている。しかし次の瞬間あなたはその人の身分を変えている。彼はあなたの記憶の中で作り直されている。今や、彼はあなたを傷つけた人ではなく、あなたを必要としている人だと思っている。あなたは今や、彼はあなたを疎外した人ではなく、あなたに属する人だと感じている。あなたは彼に、非常に邪悪な人間だという烙印を押したことがあったが、今では彼のことを、困っている弱い人間と見ている。あなたは、不当な行為であなたの過去を痛ましいものにした人間を新しく創造することによって、あなたの過去を新しく創造したのである。」(ルイス・スミーズ)

「イエスの生涯は不可能で始まり、不可能で終わっている。つまり、処女の受胎と死者のよみがえりである。イエスは『入るな』と書かれた扉からこの世に入り、『出るな』と書かれた扉から出て行かれた。そして神は閉め出そうとしても必ず入って来られる。」(ピーター・ラーナー)

J・ヴァーノン・マギー( J. Vernon McGee 1904-1988 米国 牧師 聖書教師)

「善行は決して救いの原因ではないが、救いの結果である。」

「人に投資して結果は神にゆだねなさい。」

「悲しいクリスチャンには力がない。」

「嘘つきの舌はあらゆる言語を話すことができる。」

「私たちの厄介事と問題のほとんどは私たちの貧弱な祈りの生活に端を発する。」

「神の心を動かすものは何でも神の手を動かす。」

「目に見える教会に加わることによってあなたは真の教会のメンバーになるのではない。キリストとの個人的関係だけがあなたを真の教会のメンバーにすることができる。」

「神のことばからの離脱は常に誤りへと導く。」

「主は私たちが主とより親しくなるために私たちを人生の嵐の中に置かれる。」

「神は全人類の必要を満たす供給元である。」

「神との交わりを最大限楽しみたければ、神にベストをささげなさい。」

「”ジーザス・オンリー”が全信者の人生のヘッドラインになるべきだ。」

「あなたの生涯にとってよいモットーとは、イエス・オンリー。」

「多忙な生活の重圧にもかかわらず、イエスは祈るために時間を取られた。」

「神にとっての重要事項はあなたの心の状態。」

「主は聞きたいと願う者に対し扉を閉じるようなことは決してない。」

「創世記はつぼみのようなもので、聖書を読み進めていくにつれ花開いていく。」

「信仰は、自然、史実、聖書、そしてよみがえられた神のひとり子のうちに自らを啓示する神に対し、私たち人間が取りうる自然な反応である。」(W・ビンガム・ハンター 教育者)

フランシス・ベーコン

「哲学をすこしかじった人の心は無神論へ傾く。しかし哲学の深さは人類の精神を宗教へと向かわせる。」

「復讐する時、人間はその仇敵と同列である。しかし、赦す時、彼は仇敵よりも上にある。」

「己れ自身を熱愛する人間は実は公共の敵である。」

「過ぎ去ったものは、もはや再び帰らない。賢者は現在と未来について考えるだけで手一杯であるから、過ぎ去った事柄をくよくよ考えている暇がない。」

「読むことは人を豊かにし、話すことは人を機敏にし、書くことは人を確かにする。」

「海のほか何も見えないときに、陸地がないと考えるのは、けっしてすぐれた探検家ではない。」

「死は我々の友である。死を受け入れる用意の出来ていないものは、何かを心得ているとはいえない。」

「私たちの人間性は、私たちの内部に動く神性を除くと、貧弱なものである。」

「読書は、論争のためではなく、そのまま信じ込むためでもなく、講演の話題探しでもない。それは、熟考のためのものなのだ。」

「ある本はその味を試み、ある本は呑み込み、少数のある本はよくかんで消化すべきである。」

「もしお金を汝の召使いとしなければ、お金は汝の主人となるだろう。」

「人生は道路のようなものだ。一番の近道は、たいてい一番悪い道だ。」

「己自身を熱愛する人間は実は公共の敵である。」

「宗教は生活の腐敗を防ぐべき香料である。」

「いかなる法律も宗派も学説も、キリスト教の教えほど善を重視したものはなかった。」

「真理という優れた地盤の上に立つことに比すべき愉しみはない。」

「嫉妬は常に他人との比較においてであり、比較のないところには嫉妬はない。」

「ある者の愚行はほかの者の財産である。」

「妻は若い男にとっては女主人であり、中年の男にとっては友であり、老年の男にとっては看護婦である。」

「金はこやしのようなもので、撒布しない場合は役に立たない。」

「失敗によって得られなかったものと、挑戦しない事によって得られなかったものでは比較にならない。」

「高慢な人間は、虚栄心の奴隷である。」

後藤健二(1967年 - 2015年 フリーランスジャーナリスト)

「わたしの名前は後藤健二です。ジャーナリストです。これからラッカに向かいます。『イスラム国』、ISISの拠点といわれていますが、非常に危険なので、何か起こっても、わたしはシリアの人たちを恨みません。何が起こっても、責任は私自身にあります。どうか日本の皆さん、シリアの人たちに、何も責任を負わせないでください。よろしくお願いします。必ず生きて戻りますけどね。」

「『神は私を助けてくださる』(詩篇54:6)。この言葉を、いつも心に刻み込んで、私は仕事をしています。多くの悲惨な現場、命の危険をも脅かす現場もありますが、必ず、どんな方法かはわかりませんが、神様は私を助けてくださるのだと思います。」

「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。-そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった。」

「戦地で死んだとき、一人は寂しい。でも、キリスト教はイエスに救われるという解釈がいい。」

ダグ・ハマーショルド(第2代国連事務総長 ノーベル平和賞受賞)

「大衆の救いのために勤勉に働くより、ひとりの人のために全身を捧げる方が気高いのである。」

「おまえがけっして耳を傾けたがらないなら、聞こえるという能力を、おまえはどうして保持してゆくことができようか。神がひまをかけておまえにかかずらうべきだ、ということがおまえには当然のように思われるらしいが、そのくせおまえのほうでは神にかかずらうひまがないとは!」

「『我が心身をすり減らす』―自分の仕事をしながら、しかもほかの人たちのために。―それはそれでよい! しかし、そうしてよいのは、自分の姿をあたりに見せつける(おそらくは、他人の賞賛を得たいとさえ願いつつ)ためでない場合に限ってのことである。」

「『あいつが俺にものを教えてくれるんだって?』―いいではないか。おまえに何かしら教えることができないような者は、誰ひとりとしていないのである。万人を通じて語りたもう神にとっては、おまえはいつまでも幼稚園の最低学級の子どもなのである。」

「おまえの職務は、支配する権利をおまえに与えてなどはいない。ただ、他人が屈辱感なしにおまえの命令を聞き入れることができるよう、自分の生き方を正してゆく義務をおまえに課するに過ぎぬ。」

「賛辞を得たい―あるいは、裁きたい―と思うときには、あの鏡に映ったおまえの姿を見るがよい。絶望に陥らずにそうするがよい。」

「謙虚とは、自賛の反対であるとともに、卑下の反対でもある。謙虚とは自己を他と比較せぬということに存する。自己は一個の実在であるがゆえに泰然自若として、他の何物ないしは何者よりも、優れてもおらず、劣ってもおらず、大きくもなく、小さくもないのである。」

「私たちが一つの人格神の存在を信じることを止めたときに神は死ぬのではなくて、すべての理由を超えた源泉をもつ驚異の存在から出て来る絶えざる輝きによって、日々新たにされる輝きによって私たちの生涯に光を与えられる時に、私たちが死ぬのである。」

「御名を聖となさしめたまえ

わが名にはあらずして

御国をきたらしめたまえ

わが治世にはあらずして

御意(みこころ)を行わしめたまえ

わが意志にはあらずして

御身との平安を

人びととの平安を

われら自身の平安を

われらに与えたまえ

そして、われらを恐れより救いいだしたまえ」

「死はおまえから生に捧げる決定的な贈物たるべきであり、生にたいする裏切りであってはならぬ。」

「もし何かのことで、自分のためを思って選ぶと、お前の人生に支えがなくなる。」

「祈りにおいてたいせつなことは、われわれがある特定の懇願を申し述べるということではなく、われわれが父なる神と結ばれ、人格的な交わりに入ると言うことである。ただ、心から『愛する天の父よ』と言うだけであっても、すでに祈りのたいせつな点は満たされているのである。」

「人生において我々は毎日次の二つの中から選択しなければならない、愛の苦悩か、それともさらに悪いもう一つの苦悩、すなわち愛さない苦悩か、である。」

テルトゥリアヌス(160年? - 220年? カルタゴ キリスト教神学者)

「殉教者の血は教会の種。」

「いかにあなたがたの残酷さがより手の込んだものになったとしても、それはすべてなんの役にも立たない。それはむしろ、われわれの宗教の魅力となっているのだ。あなたがたがわれわれを刈り取れば、その都度、われわれの信者は倍加するのである。キリスト教徒の血は、種子なのである。」

「キリスト教徒はいかなる敵も憎むことができない。」

「希望とは、灯りの灯されたランプを持った忍耐である。」

「すべての実は、すでにその種の中に現存する。」

「不合理なるが故に我信ず。」

「キリストは肉となった。これは愚かであるがゆえに信じ得る。」

「快楽を軽蔑するのは、この上なき快楽である。」

ヒエロニムス(340年頃〜420年 キリスト教神学者)

「キリストの教会は、他のだれかではなく、自分の血を流し、その血を土台として築かれた。襲いかかるものに立ち向かうのではなく、耐えることによって築かれた。迫害が教会を成長させ、殉教が教会に栄光を与えた。」

「顔は思いを映す鏡である。そして目はことばなしに、心の秘密を告げる。」

「愛は売り買いされるべきものではない。愛情には、値札はない。」

アーサー・ピンク(Arthur Pink 1886-1952 英国 聖書教師)

「失われているということを感じることすらないまま、自分たちが救われているという者たちがいる。」

「私たちが本当は何にふさわしいかを考えるなら、どんな災いも軽いと言えよう。主イエスが経験された苦しみと比べたら、軽いと言えよう。だが、その軽さが一番際立つのは、私たちを待つ栄光の重みと比べた時であろう。」

「われわれの他者への愛の度合いは主としてわれわれの他者への祈りの頻度と真剣さによって測定される。」

「無限の力をお持ちの神にとって、難しすぎることなど何一つない。」

リッチ・マリンズ(Rich Mullins 1955-1997 米国 クリスチャン・ミュージック歌手)

「神に対する親密さは感情の問題ではなく、従順の問題です。それだけのことです。」

「もしわれわれが善いことをするのに、それが完全にできるまで延ばしていたら、いつまでも待つほかない。不完全な足取りでも、人は前に進むべきである。」(ゲールハルト・テルステーゲン)

ダグラス・マッカーサー

「職業として、私は兵士であり、その事実に誇りを持っている。しかし、さらに誇りを持っていること、比べ物にならないくらいに誇りを持っていることは、父親であることだ。兵士は建て上げるために破壊するが、父親は建て上げるだけで決して破壊しない。一方は死の可能性があり、他方は創造といのちを具現化する。また、死の軍団は力強いが、いのちの大軍はさらに力強い。わが子よ。私がこの世を去ったとき、戦場にいる私ではなく、家にいて、『天にましますわれらの父よ』と短い祈りを一緒に繰り返した私を思い出してほしい。」

チャールズ・”スパーキー”・シュルツ(チャールズ・ブラウンの生みの親)

「イエスを一度受け入れたら、あなたのすべての問題が自動的に解決するというわけではない。」

「ひどく悩んだり心が落ち込んだりした時でも、そこから立ち直ることができたのは神のおかげだったことに気がついた。」

「私はある瞬間に一大決心をして神を信じたのではありません。いつのまにかそこに到達しており、いつそこまで来たのか知らないのです。今は感謝をもってキリストを受け入れており、神が私に与えて下さったものを…私の健康、家庭、教育、そして過去の戦争中の辛い経験も…感謝しています。愛するものいっさいから引き離され、意気消沈していた時にも切り抜けさせて下さり、多くの危険から守って下さったのです。」

「私は教会でいう『きよい生き方』は大切なことだと思っています。私たちはできうる限りきよい水準で高い品性をもった生き方をすべきです。クリスチャンは下品な言葉を口にする必要もないし、喫煙や飲酒の必要もありません。でも、だからといって全くこの世離れした、世捨て人のように生きるのではありません。私たちはそれぞれ、この世で神から託された責任があり、神に置かれた場所で力を尽くす責任があるのですから。」

「神に捧げる唯一 純粋な礼拝は、我らが互いに愛し合うことによってもたらされる。」

湯浅八郎(初代国際基督教大学学長)

生きることは愛すること

愛することは理解すること

理解することは赦すこと

赦すことは赦されること

赦されることは救われること

レイ・コンフォート(1946〜 米国 伝道者、弁証者)

「『神がいる』と認めると倫理や善悪に縛られるから、それを避けるため進化論を信じようとしているだけだ。」

「あなたが神の愛について説教すればこの世はスタンディングオベーションを与えてくれる。罪を言及すると彼らはあなたを憎む。そう彼らがちょうどイエスを憎んだように。」

「ほかのすべては語っても地獄の現実を語らない説教者は感じのいい福音の背信者(裏切者)である。」

「世界中にある神に関する証拠のすべてをもってしても、自分自身の罪を愛してやまない無神論者を納得させることは決してない。」

「無神論者が神の存在の証拠を問い続けるのは、ちょうど海の魚が水の証拠を欲しがるようなものだ。」

「信仰は理解することの最初のステップである。それが誤りのない神の言葉であろうと誤りのある人間の言葉であろと、もしくは個人的に信じる信仰(信念)であろうと。あなたは何事においても信仰を持たなければならない。それは確かなことだ。」

「無神論者は、妖精やレプレコン 《小さい老人の姿をした妖精; 主婦の手伝いをする》、あるいはユニコーンを嫌悪することはない。なぜならそれらは存在しないからだ。存在しないものを嫌悪することは不可能だ。無神論者は神を嫌悪する。なぜなら彼は確かに存在するからだ。」

「ダーウィンの進化論は、非科学的で、観測不可能で、信じられないものであるが、世が神を憎んでいるということにおいては理解可能だ。」

「人間を恐れることは神信仰の欠如である。」

「もし罪人が罪が何かも知らなければ、どうやって悔い改めることができるだろうか?」

「平安は信仰による祈りの果実である。」(M・R・ヴィンロント)

長野政雄(三浦綾子の小説『塩狩峠』のモデル)

「苦楽生死 均(ひと)しく感謝。余は感謝して全てを神に捧ぐ。」

ジョン・ヘンリー・ジョウエット(1863–1923 英国 牧師)

「神が私たちを慰めたもうのは、私たちが楽しくなるためではなく、他人を慰める者とするためでる。」

「感謝の気持ちはワクチンであり、抗毒剤であり、防腐剤なのです。」

「喜びはちょうど地震が思わないところに泉を湧き溢れさせるように、狼狽と混乱の巷から湧き起こって来る。神は不幸の中から幸福をもたらされる。暗やみは神の思寵の隠れ家であることが多い。」

ジョン・ワナメーカー 百貨店王

「水に溶けにくい石鹸は不良品である。自分を犠牲にして、社会に役立てようとしないで、自分の力を惜しむ者は不良石鹸に等しい。」

ロナルド・レーガン アメリカ合衆国第40代大統領

「神に見切りをつけない限り、私たちが打ち負かされることは決してない。」

「私は中絶賛同者全員がすでに生まれていることに気付きました。」

「道徳よりも人気を優先させてしまうと酷い仕打ちを受けるだろう。」

「今日、我々の国家的良心に傷がある。アメリカは、創造者によって与えられた生きる権利が、胎児に対して拒否されている限り、決して完璧となる事はないであろう。」

「我が国は神を戴く国であり、神が我が国を自由の国にしたと、私は信じている。」

アイザック・ウォッツ(英国 1674-1748 牧師 英国賛美歌の父)

「悪魔はいつでも手が空いた者のために良からぬ仕事を見つけ出してくれる。」

「希望は困難に勝てると教え、失望は困難に勝てないと伝える。」

トーマス・カーライル (1795-1881年 スコットランド 思想家、歴史家、作家)

「雄弁は銀なり。沈黙は金なり。」

「沈黙は口論よりも雄弁である。」

「人と争う時、どちらかが怒り始めるや我らはもう真理のために争っているのではなく、自分自身のために争っているのである。」

「自分よりも優れた人を称賛できる心。それが人間が持ちうる最も素晴らしい心である。」

「自分より身分の低い人に対する接し方に、人の偉大さは現れる。」

「明確な目的があれば、どんなに険しい道でも進むことができる。その一方で、目的がなければ、平坦な道でさえ進むことはできない。」

「一生の仕事を見出した人には、ほかの幸福など必要ないのです。」

「勤労はつねに、人類を悩ますあらゆる疾病と悲惨に対する、最大の治療法である。」

「失敗の最たるものは、失敗した事を自覚しない事である。」

「火が光の初めであるように、つねに愛が知識の初めである。」

「どんな確信も、行動に変わらなければ、価値は無い。」

「その思想がたとえ高潔なものであっても、人間の最終目標は、思想ではなく、行動である。」

「人生で最も大切なことは、はるか彼方にあるものを、見ようとすることではなく、目の前にはっきり見えるものを、きちんと実行すること。」

「人が出来ることをすべてをしないなら、そのうち、しなければならないことすら、出来なくなる。」

「すべての偉業は、最初は不可能だと言われていた。」

「人間にとって最優先課題は、この世で自分がなすべき仕事を見出すこと。」

「圧力がなければ、ダイヤモンドは生まれない。」

「変化は苦痛だが、それは常に必要なものだ。」

「真の生活は、自己否定が始まるときに開始される。」

「逆境とは、天が自分の宝石を磨くときに使うダイヤの粉塵のことだ。」

「経験は最良の教師である。ただし授業料が高すぎる。」

「現在というものは、過去のすべての生きた集大成である。」

「人間を船にたとえると、九十五パーセントの人が舵のない船に相当する。『いつかは、豊かで繁栄した港に流れ着くだろう』という甘い希望を抱きながら、風と潮の変化のままに、手をこまねいて漂流している。こんな船は、たいていは岩にぶつかったり、座礁したりして沈没してしまうものだ。」

「同じ花崗岩のかたまりも、弱い人にとっては、道の障害物になる。しかし、強い人にとっては、道に置かれた踏み台となる。」

「理想はわれわれ自身の中にある。同時に、理想の達成を阻むもろもろの障害もまた、われわれ自身の中にある。」

「人に望まれ賞讃される勇気は、美しく死ぬ勇気ではなく、男らしく生きる勇気である。」

「すべてのことにおいて、人間は苦悩をくぐり抜けて完成されるのである。」

「この国民にして、この政府あり。」

「近代文明における三つの大いなる要素は、火薬と印刷とプロテスタントの宗教である。 」

「人間とは何か?愚かな赤ん坊だ。無駄に努力し、戦い、いらだち、何もかも欲しがりながら、何にも値せず、小さな墓をただ一つ得るだけだ。」

「音楽は、天使たちの語らいである。」

「平和を保つ最善策は、戦争当事者が自分は絞首刑にふさわしい者だと感ずることである。」

「健康な人は自分の健康には気付かない。病人だけが健康を知っている。」

「魂は空っぽ、胃袋は満腹。」

「神の有無は、二十年考えても二千年考えても、信ずることはできても説明することはできない。」

「妻の輝かしい人生には並々ならぬ悲しみがあった。だが妻はまれに見る愛らしさ、物事を見通す力、気高い貞淑な心を持っていた。四十年間妻は私の真底から愛する手助けだった。そして私の行動や企てを、行動で、あるいは言葉で、少しも倦み疲れることなく前進させてくれた。」

ティム・ケラー

「宗教は私たちがしたことを誇らせる。福音はイエスのしたことを誇らせる。」

「あなたの信仰の力があなたを救うのではない、実際にあなたを救うのはあなたの信仰の対象である。」

「神に従わないと物を得るが、神に従うと神を得る。」

「物事を得るために神に従うな。神を得るために神に従え。」

「偶像とは…あなたが神よりも重要だと見なすもの、あなたの心と思いのすべてを吸収するもの、そして、あなたが神からしか得られないものをそこから得ようとする、すべてのものを指します。」

「罪というのは、単に悪いことをすることではない。より正確には、『良いもの』を『至高のもの』にすることが罪である。罪とは、自分の人生を神以外のものの上に建て、そこに意味を見出そうとすることである。たとえそれがどんなに良いものであっても、それを神以上に大切にするなら、その行為が罪である。つまり、罪とは根源的には偶像礼拝のことなのだ。」

「自分の心の奥底にある願望を叶える事が、 私たちに起こりうる最悪の出来事かもしれないと、一体誰が考えるだろう。」

「祈ることは、今も、いつも、これからも私たちが何事にも神に完全に依頼することを受け入れることです。」

「神の愛と赦しは、ありとあらゆる罪とまちがいを赦し、修復することができる。あなたがどんな者か、何をしたかは関係がない。たとえ悪意をもって他者に害を与え、殺人を犯したとしても。たとえ自分自身さえ、どれだけ痛めつけ、傷つけたとしても。」

「律法的自責の念は言う。『私は神のルールを破った』と。一方で本物の悔い改めは言う。『私は神のハートを打ち破った(悲しませた)』と。」

「あなたが拒否する神というものを説明してみてください。あなたが信じないという神を説明してみてください。おそらく私もそのような神を信じません。」

「あなたが思っているよりもあなたはずっと悪いのです。しかし、また、あなたが感じているよりもはるかにずっとあなたは愛されているのです。」

「私たちに素晴らしいことをしてくださっている時だけ神を信じるのなら、私たちは本当には神に仕えていません。つまり、私たちは神を利用しているだけなのです。」

「罪の1オンスは、苦しみの1トンよりも私たちをより多く害することができる。罪は、私たちの心を頑なにすることができ、私たちは全てを失うが、苦しみは、もし正しく取り扱うなら、私たちをより賢くし、より幸せにし、より深くする。」

「もし、あなたの神(god)が、必ずあなたと意見が一致するのなら、あなたは、ひょっとしたら、あなた自身を理想化したバージョン(のgod)を崇拝しているだけかもしれない。」

「『イエスの御名で』祈ることは、魔法のフレーズではない。イエスのいのちとみわざゆえに私たちが神に近づく時の謙遜さの宣言である。」

「不寛容だな、とあなたが思う人々をあなたが受け入れられないのなら、あなたは不寛容になっている。不寛容の不寛容はさらに不寛容だ。」

「私たちが「◯◯な神は信じられない」と言う時、私たちの理解力を超越した神はまったく望まないと言っているのです。」

「全て罪は実践的無神論の一種で、そこに神がいないかのように行う。」

「安息日とは、減少したのを取り戻すということです。枯渇したのを補充するということです。壊れたのを修復するということです。単なる休みではありません。」

「『もし私がアレを持っていれば、私の人生は意味を持つだろう。価値を持ち、意義深く、安心だと感じるだろう。』アレ…が、あなたの礼拝の対象です。」

「イエスの愛の安心は、あなたの必要とするものを減らし、もっと愛せるようにあなたをしてくれます。」

「あなたの生活がコントロールできない理由は、あなたの生活のコントロールをあなたが神にささげることを恐れているからです。」

「福音の皮肉は、それにふさわしくなる唯一の道が、あなたがそれに全くふさわしくないと認めること。」

「完璧な人がひどく苦しむことを神が許すのなら、どうして私たちに決して起こり得ないと思いますか?」

「神様が、あなたを愛しておられる理由は、あなたを愛しておられるという、ただその事実だけ。」

「クリスチャン・コミュニティーの主食は講解説教でなければならない。」

「人々が福音を知り得て、なお彼らの生活を変えることがない理由は、彼らが赦しを安物だと考えるゆえである。」

「イエスは私たちが死ぬべきところの死を死んでくださっただけでなく、彼は私たちが生きるべきところの人生を生きてくださった。」

「輝かしい瞬間もあれば、難しい時期もあり、燃え上がる喜びと力の源でありながら、血と汗と涙の結晶でもあり、屈辱的な敗北や、勝利しても疲労困憊するようなもの、それが結婚です。」

「プライドは、罪の一酸化炭素。それはあなたが知らないまま静かにゆっくりとあなたを殺す。」

「神は私たちをありのままで見てくださり、ありのままで愛してくださり、ありのままで受け入れてくださる。しかし、神の恵みによって神は私たちをありのままには捨て置かない。」

「もし神が十分に理解されるほど小さな神であるなら、礼拝されるに値するほど大きな神ではありません。」

ベンジャミン・ディズレーリ

「この世で最も困難な事は自分の過ちを認める事である。そして過ちを率直に認める事以上に事態の解決に役立つ事は無い。」

「従順な妻が夫を動かす。」

「細かな出費に気をつけろ、小さな水漏れは大きな船をも沈める。」

「絶望は愚か者の出す結論である。」

「人にしてやれる最大の善行は、自分の富を分けてやることではなく、相手の隠れた才能を引き出してやることだ。」

「いかなる教育も逆境に及ぶものはない。」

「行動は必ずしも幸福をもたらさないかも知れないが、 行動のない所に、幸福は、生まれない。」

「私たちはみな、愛のために生まれた。愛は、存在の原則であり、存在の唯一の目的である。」

「成功の秘訣は、目的が首尾一貫しているかである。」

「私は最悪に備えるが、最善を望む。」

「公的な生活でどんなに成功しても、家庭での失敗を補うことはできない。」

史上唯一イギリス首相となったユダヤ人クリスチャンのベンジャミン・ディズレーリ(1804−1881)は、35歳の時に15才年上の寡婦と結婚した。

その後の結婚生活は非常に円満であったという。結婚相手の女性がさぞかし才色兼備であったからか? 実はディズレーリ夫人はとりたてて見目麗しい容貌でもなく、秀でた才能の持ち主でもなかったという。しかし結婚生活において最も大切な事を一つだけ備えていた。それは、尊敬の心で人と接することであった。政治家という職業上さまざまな悩みや気掛かりによって疲労困ぱいして帰宅する夫を、いつも尊敬の心で迎え入れることができる女性であったという。結婚生活30年を迎えた時、ディズレーリはこのように言った。「結婚生活30年の間、妻によって心が傷つくことは一度もありませんでした。」

ジョン・オーウェン

「神のためになされたことは何も失われることはない。」

ラリー・クラブ

「信仰の厚い人は・・・堂々と困難を耐え忍ぶ。自分の存在には意味があり、天国の最も深いレベルにおいて究極の楽しみを味わう運命にあると知っている。今となっては何一つとして、切に求める魂の基準には見合わないと痛感しているので、静かながらも深くうずく内なる痛みのゆえに、不平ではなく、期待やさらなる服従へと駆り立てられるのだ。」

「私は私の妻から何かを要求する権利を持ち合わせてはいない。私は恵みのゆえに私の妻に何かを与える機会しか持ち合わせていない。」

「男らしくあるための唯一の道は、第一に敬虔であること。」

「男らしくなろうと全力で努力したとしても、もし私たちの心の中に神を畏れあがめる普遍的な思いが生じなければ、そこには決して『真の男らしさ』が生まれることはない。」

「もし男が本当の男になれば世界は変わる。同じように女がもし本当の女になれば世界は変わる。」

「自分自身に興味を持つことよりもキリストに惹きつけられることを学んだ男たちこそ、真の男となることができる。現代の男性は、キリストに従う代価がどのようなものであるかを知らなければならない(その代価はすぐに計算できる。つまり自分が所有するすべてである)。すなわちキリストにつながることに比べたら、どんな代価を払っても高くはないとわかるまで、魂の虚しさを感じなければならないのだ。また神にすべてをゆだねる生き方よりも、自己発見や自己充実を重んじるキリスト教文化の影響に抗していかなければならない。簡単に言えば、自分を見出すことよりも、キリストを知ることに関心を払わなければならないのである。」

「メンターとは知恵のある男性、女性であり、物事の核心を見抜く術を知っており、超自然的な力で問題を突き止めることのできる人である。」

「キリストを見出すとは、プライドが砕かれていく長い戦いである。その戦いは、私たちに失望を通過させ、そして聖霊に満ちるという抑えがたい喜びへと導く。そして更に強い失望がやって来て、またそこからより深い喜びへと至るのである。このような戦いを避ける男たちには表面的な悔い改めしかできない。そのような人々が自身を投入していく対象は、さほど重要でないことばかりである。彼らには自己犠牲的な愛で誰かの心中に触れようとする熱心さを発揮することなどできないのである。」

ジェームズ・スチュワート

「苦しみや悲しみに対する真のクリスチャンの反応は、自己を哀れむ態度や、運命論や恨みではなく、人生の困難を、神から与えられた機会として受け止め、問題を、聖なる信頼とみなし、イバラを冠としてかぶるという気力である。」

レイ・ステッドマン

「イエスは、ご自身の豊かさを脇において、貧しい被造物の世界に来られました。それは、ご自身の恵みによって、私たちを豊かにされるためでした。」

「偽善者とは、本来の自分とは別人のように振る舞う人のことです。あなたは、教会ではクリスチャンのように振る舞っています。ですから、あなたは教会では偽善者ではありません。」

「悪魔はいつ打ちのめされるのでしょう。それは、私たちが元気で自信満々の時や、素晴らしいことが起こっているように見える時や、ミニストリーがうまく行っている時ではありません。(これは私たち全員のことです。私たちは皆、ミニストリーに従事しているからです。誰にでも神から授かった責任分野があります。)そうではなく、悪魔が敗北するのは、私たちが攻撃され、切羽詰まり、弱く無力に感じ、どうしていいかわからない時、また、どう反応していいか定かでない時、途方に暮れ、衰弱感に襲われている時に、主の御前に行って、あと一日進むための強さと持ちこたえるための恵みを乞い求める時なのです。」

「信仰はそのことを信じ、そのような真実にふさわしい人生を送り、それを基盤として歩みます。」

ジェリー・ブリッジズ

「俗悪なものは、神のお考え、神のご意思、神のご栄光、神への従属なしに日常に息づいている。」

「私たちがクリスチャンとして体験する毎日は、ただ神の恵みという土台の上で神と関係する1日1日であるべきだ。」

「あなたの最悪の日は、神の恵みが十分届いているゆえに、悪過ぎるということはなく、またあなたの最高の日も、神の恵みを必要としないほど、良過ぎるということはない。」

「私たちの思考生活の門は、主に目であり、耳です。私たちの見るもの、読むもの、耳にするものが、思考を大いに左右します。‥‥肉欲、貪欲(現代社会において物質主義と呼ばれるもの)、ねたみ、利己的な野心などを満足させるものが自分の心に入りこむのを許すべきではありません。」

「自制すべき事柄の中でも、怒りには独特の難しさがあります。制御されていない思考も、怒り以外の感情も、私たちの心の中にある罪であり、それが傷つけるのは自分自身だけです。言うまでもなく、それが罪深い言葉や行動に至らない場合ですが。しかし、抑えられない怒りは、相手の自尊心を傷つけ、恨みを生じさせ、人間関係を損ないます。」

「逆境において第一にすべきことは、神に信頼することにより、神に栄誉と栄光を帰することです。私たちは、心痛や落胆、苛立ちなどといった感情から解放されることをまず求めがちです。それは自然な欲求であるし、神は私たちに、試練のために十分な恵みや、不安のための平安を与えると約束されました(2 コリント 12:9, ピリピ 4:6–7)。けれども、神の意志が、私たちの意志よりも優先されるように(イエスご自身も、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」と言われました(マタイ 26:39))、神の栄誉は、私たちの感情よりも優先されます。私たちは、神が何をなさっているのか、どうして逆境となる状況が起こるのを許されたのかをたとえ理解できなくても、神に信頼するという選択をすることによって、神に栄誉を与えます。私たちが神の栄光を求めるなら、神が私たちの益を取り計らわれ、その目的を果たす上で神が挫折されることはないと確信していることができます。」

サム・ストームス

「たった一瞬でも、自分や自分の状況や、この世のあり様や、競争相手から目をそらして、神がどんな方であるかに目を向けなさい。神の力強きわざについて考えなさい。あなたの魂や状況が重要ではないというのではありません。ただ、あなたは全知全能なる神の手の内にあり、神があなたのために行動する能力に匹敵するのは、子どもであるあなたへの神の情熱的な愛情だけです。その力には際限がなく、その支配権は、すべての天の範囲をくるんでいます。神の願いは、あなたの人生や苦労、落胆を最小限に評価することではありません。何ものも愛情深い神の腕からあなたをもぎ取ることができないと知ることで、あなたが希望を受け取ることこそ、神の意図されることです。」

「喜びとは、必ずしも苦難の不在ということではなく、神の臨在があるということである。」

スコット・ハーフマン

「成功や健康や豊かさではなく、苦しみのさ中にあって耐え忍ぶことこそ、真のクリスチャンの人生のしるしです。さらに、苦しみから奇跡的に救出されたことではなく、苦しみのさ中にあっての信仰や希望こそが、絶望する世界に対して、神が十分であることを最も明確に知らしめるものです。」

ジョージ・アップルトン

「私たちのクリスチャンとしての信仰は、苦しみという神秘を完全に解き明かすことはしませんが、苦しみをどう乗り越えるかを教えてくれます。神は苦しみを望まれるわけではないですが、神はその内におられ、それを良きものや祝福に変えて下さるという確信が得られます。完璧な人生が、苦しみから免除されているわけではないことも覚えておきましょう。」

「問題が生じた時の私たちの反応は様々です。打ちのめされ、希望もスタミナも失ってしまうこともあれば、その正当性や価値を受け入れるのを拒み、反抗することもあるでしょう。また、とにかくがむしゃらに行動し、問題について考える暇もないほどにすることもできます。あるいは、敗北や反抗や逃げもせずに、それをただ受け入れ、今日は理解できないことでも、明日には神が明らかにして下さると信頼することもできるのです。」

ティモシー・デイリー

「愛する神さま、不信仰な私をお助け下さい。私は苦しんでいる時、あなたが私のことを気づかって下さっていることを忘れてしまいます。今まで試練を通してあなたが助けて下さったことを忘れてしまいます。私を守るために、腕に抱きかかえて下さっていること、私と共に痛みを味わって下さっていること、あなたが私を愛して下さっていること、私があなたにとって大切な存在であることを忘れてしまいます。あなたの存在を示して下さい。包み込むようなあなたの愛を感じさせて下さい。私の傷ついた魂をいやして下さい。私が不信仰な時にも、変わらず共にいて下さることを感謝します。」

「あなたの正常な生活習慣を常に聖霊によっ満たされ続けているものとしなさい。」(ハンドレー・モール)

「もし人がクリスチャンであるなら、証し人であるはずで、もし彼が教会のために奉仕をするが、主を証ししたくないと言うなら、その人はクリスチャンだと称するのを中止する時である。」(ステファン・ニール)

「偶像礼拝とは、単に偽りの神々を礼拝することだけでなく、まことの神を何らかの像によって礼拝することでもある。」(チャールズ・ホッジ)

マーク・パターソン

「福音書を読むなら、イエスは何度も、逆転・回復不能なものを逆転・回復なさったのだとわかるでしょう! イエスは天候の状態を逆転され、目の見えない人を回復させて見えるようになさいました。視神経と視覚野を結ぶ神経が何もないのでつながっておらず、生まれつき目の見えなかった人が、あとになって見えるようになったなどという話を聞いた人は誰もいなかったのに、イエスは回復不能なことを回復されたのです。イエスは重い皮膚病の人を 回復させられました。2千年前、イエスは死そのものを打ち負かして逆転なさいました。ですから、私たちが祝っているのは、ご自身が創造なさった宇宙の法則や宇宙自体よりも崇高で、偉大な神が存在しているという事実なのです。復活の朝に神が成し遂げられたこととは、死を打ち負かし、逆転不能なことを逆転されたことです。そして、イエスが来られたのは、まさにあなたの人生においてそれをなさるためだったのではないでしょうか。イエスは罪の影響を逆転させるために来られました。イエスは死の影響を逆転させるために来られました。それがイエスなのであり、イエスはそのようなわざをなさる方なのです。」

ノーマン・ガイスラー

「しっかり耳を傾けるほど相手のことを気にかけていないなら、向こうもそれに気づき、お互いの関係や将来の付き合いが打撃を被ることになる。…すべては、しっかり耳を傾けることから始まる。」

「福音伝道が福音の種を蒔くことであるなら、福音伝道の予備段階とは、人々の思いと心という土地を耕して、真理を喜んで聞くようになるのを助けることと言えるでしょう(1 コリント 3:6)。現在私たちはこのような世界に生きているので、人々の思いと心という土地に働きかけない限り、福音の種を植えることができないかもしれません。魂を準備しないなら、今日、種を蒔くための扉が閉じられるかもしれず、将来、福音のメッセージについて考えることも気が進まないことになるかもしれません。‥‥現在私たちが生きているこの世界では、一定期間内にたくさんの霊の種を蒔かないと、人はキリストという方について真剣に考えることがないのかもしれません。土地を耕してからでないと、種を蒔く機会がないかもしれません。私たちはすべての人をキリストの元にもたらすよう召されているのではなく、ただ、キリストをすべての人にもたらすよう召されているのです。」

「どの古代書と比較しても、 その真実性を語る証拠が、一番多く残されているのが聖書である。」

「新約聖書は他のどの古代文献よりも多くの写本が残っているだけでなく、その内容も99.5%が原本に限りなく近い形でのこされている、最も信憑性のある本である。」

「私たちはすべての人をキリストの元にもたらすよう召されているのではなく、ただ、キリストをすべての人にもたらすよう召されているのです。」

ポール・リトル

「誰でも、一番聞きたい声は自分自身の声である。誰でも話すのが好きだが、中にはとりわけ話し好きの人もいる。多くの人は、ただ自分の言うことに耳を傾けてくれる人を見つけるためなら、何でも与えようと思うことだろう。十分長く耳を傾ければ、その人のことを知り、理解するようになるだけでなく、相手からの感謝を受け取ることにもなる。さらに、その人も私たちの言うことを聞きたいという気持ちになるし、後に、私たちはその人に対して理解しやすい形で話せるようになる。」

「イスラム教の神アッラーは人間の運命をいわば機械的に決めるが、人格を備えた私たちの神は主権的な意志をそのようにはお用いにならない。むしろ天の父の愛の対象として私たちをごらんになる。神が人格であり、私たちも人格なので、神と私たちの間のコミュニケーションが可能なのである。」

セオドア・エップ(1907-1985年 米国 牧師 ラジオ伝道者)

「きのうキリストが死なれ、今日墓からよみがえられ、明日戻って来られるかのように生きなさい。」

セオドア・ヘスバーグ(米国 1917-2015 カトリック司祭 神学者・哲学者・ノートルダム大学学長)

「父親が子どもたちのためにできることで一番重要なのは、子どもたちの母親を愛することである。」

ジェームス・カーティス・ヘボン(米国医療伝道宣教師、ヘボン式ローマ字の創始者、明治学院大学創立者)

「キリスト教の宣教師がこの国へやって来るのは、何よりも聖書をもたらし、人々にその教えを理解させるためである。これは他の国へ行く場合とまったく同じである。・・・聖書によって人々の心のなかに信仰の基礎を築くこと、この目的を離れてしまうならば、あたかも建築中の立派な建物を見て、完成したとたん崩れ落ちはしないかと心配するかのごとき気持ちになろう。この国が今、第一に必要としているものが聖書なのだ。」

「日本語で書かれたこの貴重な書物は、金にも銀にも遙かに勝る尊いものです。(以下一部略)私は自分の労苦を語るつもりはありません。それは、ただ愛の労作であり、喜ばしい奉仕の労作であったからです。わたしどもの主が私をお選びになり、ほかの同労者とともにこの事業に参加させ、ついにこのような名誉をお与えくださったことに感謝しています。」

ある英国の説教者

「家の中の人たちが、光ーー勝利ーーを見ますように。事務所や仕事場、店、船、工場、あるいは友人や仲間の働き人たちが、キリストがあなたのうちに済んでおられる事実を見ますように。それに商人、郵便配達やバスの車掌が、あなたの秘訣を読み取らなくていいという理由はありません。『すべての人に知られ、また読まれる』(2コリント3:2)キリストの手紙になりなさい。」

「かつてそれは祝福であったが

今はそれは主

かつてそれは感情であったが

今はそれは主のみことば

かつて望んだものは賜物であったが

今は与え主ご自身

かつてはいやしを求めたが

今は主ご自身のみ」

ロイ・ヘッション

「私たちはただイエスを見るだけでそこから力と力と喜びと勇気が湧いてくる。イエスは死んでよみがえり、今とりなしている。」

「自我が自分の中で主人公になっている間は、神が私たちに働きかけられることはほとんどありません。」

「…人は神より与えられた人生の目的を失った。たとえ神が、そのまま人を見捨て、人の上に必然的に臨んでくる神との隔たりとあらゆる悲惨の中に置き去りにされたとしても、天の御使いたちは誰ひとりとして、神が不当な方であり、愛に欠けた方であると非難することは出来なかっただろう。なぜならば、神はすでに人の上に十分愛を注いだのに、人はその愛を御顔に向かって投げ返したからである。しかし、神の愛はあまりにも大きいので、人がこのような態度をとったにも関わらず、なお人の回復のために御心をさき、次には贖罪というかたちで御手を伸べられたのである。創造のためには、神はただ言葉を出されるだけでことが足りた。しかし贖いのためには、血を流さねばならなかったのである。…」

「私達は、神の形にてい給うた主が、神と等しくあることを固く保とうと思わず、僕の形をとって人の如くになり、十字架の死にいたるまで従順に歩まれた主を見るのです。ご自身の権利もみ住まいも持ち物も、何もかもふりすて、人々の罵るに任せて、復讐も防御もなさらなかった私達の主を見るのです。・・・カルバリの丘に進まれた主イエスの、全く砕かれた姿を見るのです。預言の詩篇に『我は虫にして人にあらず』と言われています。熱帯を旅したことのある人は、蛇と虫とには大きな相違のあることを良く知っています。人が一撃を加えようとする時、蛇は直ぐに首をあげ、シーシーと声を上げながらかかってきます。これは自我の真実の姿なのです。けれども、虫は、人のなすままにまかせて、蹴られても踏まれても、少しの抵抗もいたしません。これは、真に砕けたものの姿です。イエスは私達のために喜んで虫になられたのです。」

「人と人との間を隔てる壁が取り除かれ、仮面がはずされるときに、神は私たちを真の一致に導かれます。それだけでなく、このような交わりの中でこそ、私たちは安全であることがわかって、喜びは増すのです」

野口英世

「家が貧しくても、体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸も災いも、自分から作るもの。周りの人間も、周りの状況も、自分から作り出した影と知るべきである。」

「過去を変えることはできないし、変えようとも思わない。なぜなら人生で変えることができるのは、自分と未来だけだからだ。」

「忍耐は苦い。しかし、その実は甘い。」

ジェームズ・ドブソン

「『この人なら一緒に暮らせる』と思う人と結婚してはいけない。『この人と一緒じゃないと生きられない』と思う人と結婚しなさい。」Don’t marry the person you think you can live with;

marry only the individual you think you can’t live without.

「愛情深い親による体罰は、有害な言動を抑制するのに効果的な教育の手段である。」

見ていてください。

いまに私の意味するところが分かります。

罪を抱きしめて離さない者は、その罪に滅ぼされるというのは、宇宙の普遍的法則だからです。

ほぼ四千年前に主がイスラエルの民に語られたみことばをお読みください。

「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。

私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。

あなたはいのちを選びなさい。」申命記30:19

真理は単純です。

神は、罪のために私たちに敵対しておられるのではありません。

これは大きな考え違いです。

神は、私たちのために、罪に敵対しておられるのです。

[『苦難の時にも』より]

ヨハネス・ケプラー(1571~1630)

「神は偉大だ。その能力は計りがたく、その知恵は無限。天と地、太陽と月と星は、それぞれ自分の言葉で神を称えよ。私の主、私の造り主よ、私はこの限られた知性で理解できる範囲で、御身の御業の偉大さを人々に伝えたい。」

「ただ私の名が滅びることで、父なる神の御名が高められるならば、そうなるように。」

ニコラス・コペルニクス(1473~1543)

「最も完璧な秩序と神の知恵を熟知する者で、最も崇高な野心に駆り立てられない者がいるだろうか。これらすべてのことの設計者を賛美しない者がいるだろうか。」

カール・フォン・リンネ(1707~1778 スウェーデンの植物学者、「分類学の父」)

「私は全知全能、永遠で無限の神が近くをお通りになるのを見た。そこで私は膝を折って礼拝した。」

アレッサンドロ・ヴォルタ(1745~1827) イタリアの自然哲学者(物理学者)。電池(ボルタ電池)を発明した。

「私は聖なるローマカトリックの信仰を告白する。私はこの信仰を与えてくださった神に感謝し、最期の瞬間までこの信仰をもって生きようと固く決心している。」

アンドレ・マリ・アンペール(1775~1836 フランスの物理学者。「アンペールの法則」を発見)

「神のなんと大きいこと。私たちの科学のなんと小さいことか。」

オーギュスタン・ルイ・コーシー(1789~1857)

フランスの数学者。解析学の分野に対する多大な貢献から「フランスのガウス」と呼ばれることもある。他に天文学、光学、流体力学などへの貢献も多い。

「私はキリスト信者である。つまり、過去に出たすべての偉大な天文学者、すべての偉大な数学者と同じく、キリストが神であると信じている。」

ヨハン・カール・フリードリッヒ・ガウス(1777~1855)

ドイツの数学者、天文学者、物理学者。その研究は広範囲に及んでおり、特に近代数学のほとんどの分野に影響を与えたと考えられている。数学や磁気学の各分野に彼の名前がついた法則、手法が数多く存在する。

「人生の最後の時の鐘が鳴り、この世の現実の中にうっすらとしか見えなかったお方が目の前にはっきりお現れになるとき、私たちの喜びはいかばかりだろうか。」

ユストゥス・フォン・リービッヒ(1803~73)

ドイツの化学者。有機化合物の定量分析法を考案し、基(き)の理論の発展に寄与。生化学では動植物の栄養を研究し、人工肥料を作った。

「神の無限の偉大さと知恵は、自然と呼ばれる偉大な書物をもって学ぼうと努める者だけが認めることができるだろう。」

ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー(1814~78)

ドイツの物理学者。熱と仕事が相互に変換可能であること、エネルギー保存の法則を発見した。

「私は一つの確信とともに今この世の生を終わろうとしている。その確信とは、真の科学と真の哲学はキリスト教に導く門以外のなにものでもないということだ。」

アンジェロ・セッキ(1803~95)

イタリアの天文学者にしてイエズス会士。イギリスのストーンハース天文台やアメリカのジョージタウン大学で働き、1850年からはバチカン天文台の所長。湖や海の透明度を測定する道具を開発し、これはセッキ板と呼ばれる。月のクレーターや山にセッキの名前が付けられた。

「天を眺めるのと神を知るのとは、ほんの短い距離しかない。」

エルヴェ・フェイ(1814〜1902)

フランスの天文学者。1843年に周期彗星4P/フェイを発見した。

「科学の進歩によって神の存在が否定されたというのは嘘である。この嘘は過去の体制を滅ぼそうとする戦いの時代に起こる。・・・その一つは、1794年5月7日のフランス革命政府が最高存在の存在を宣言した投票である。」

カール・ルドビッヒ・シュライヒ(1859~1922 ドイツの外科医。局部麻酔を発見。)

「私は顕微鏡を通して自然界を観察することによって私なりに神への信仰に至った。私は自分の能力の限り、科学と宗教の間に完全な調和があるように貢献したい。」

グリエルモ・マルコーニ(1874~1937 イタリアの無線研究家、発明家。無線電信の開発で知られている。1909年、ノーベル物理学賞受賞)

「私は神を信じる。このことを誇りをもって宣言する。私は祈りの力を信じる。カトリック信者としてだけでなく科学者としても神を信じている。」

ロバート・ミリカン(1868~1953 アメリカ合衆国の物理学者。1923 年、電気素量の計測と光電効果の研究によりノーベル物理学賞を受賞した)

「私は信仰を否定することはまったく科学的根拠がないことを躊躇することなく宣言する。私の判断によれば、信仰と科学の間に決して矛盾は見つからない。」

アーサー・エディントン(1882~1946)

イギリスの天文学者。20世紀前半における最も重要な天文学者の一人。コンパクトな天体に降着する物質から放射される光度の上限を与えるエディントン限界の導出は彼の代表的な業績の一つ。

「無神論を主張する者は誰も、自然科学者として神がいないという結論を出したのではない。彼らはみんな二流の哲学者である。」

マックス・プランク(1858〜1947)

ドイツの物理学者で量子論の創始者の一人である。「量子論の父」とも呼ばれている。1918年、ノーベル物理学賞受賞

「この宇宙の秩序と宗教の神を互いに結び付けることを否定させるものは何もない。我々の知識がそれを要求する。神は、信じる者にとっては、出発点であり、物理学者にとっては到着点である」 「不幸における私の最大の助けは、幼いときから私にしっかりと根づいた、全知全善の神への不屈の信仰であった。宗教と科学は、今日多くの人が考え、恐れているように、互いに矛盾しているのではない。むしろ相互に補っているのである。」

エルヴィン・シュレディンガー(1887〜1961)

オーストリアの理論物理学者。波動形式の量子力学である「波動力学」を構築した。1933年、ノーベル物理学賞受賞。

「量子力学の原理に従えば、最も繊細な作品は神によって創造された大自然である。」

ハワード・エイケン(1900〜1973)

アメリカ合衆国の物理学者でコンピューティングのパイオニアである。IBMによって建造された Harvard mark-I コンピューターのプロジェクトで主任エンジニアを勤めた。

「近代物理学は、大自然は自分で自分を秩序づけることができないことを教えてくれる。宇宙は秩序だった巨大な質量を前提とする。それゆえ、巨大な「第一原因」の存在を必要とする。その第一原因は、熱力学第二法則には縛られない、それゆえ超自然の存在である。」

ヴェルナー・フォン・ブラウン(1912〜1977)

科学者にしてロケット技術開発の初期における最重要指導者の一人。ドイツ人だが第二次世界大戦後に合衆国に移住し、研究活動を行った。

「すべての存在の上に、栄光の神が輝いている。それは、人間と科学が礼拝の心をもって日々その神秘に分け入っているこの偉大な宇宙を創造した神である。」

「宇宙の広大な謎は『創造主は間違いなく存在する』という私たちの信念を追認するばかりであろう。宇宙の背後に優れた合理性があることを認めない科学者を理解することも、科学の進歩を否定する神学者の真意を把握することも、私にとっては難しいことだ。」

「わたしが神を信じている理由ですか? 簡単に言えば、主な理由はこういうことです。わたしたちの地球や宇宙のようによく秩序が整いかつ完全に創造されているものには必ず造り主、卓越した設計者がいるに違いない、ということです。この宇宙のように非常に秩序正しく、非常に完全で、非常に正確にバランスの取れた、そして非常に雄大なものは、神の構想の所産以外のものではあり得ません。造り主はいるに違いありません。それ以外に考えようがありません。」

チャールズ・タウンズ(1915〜2015)

アメリカ合衆国の物理学者。誘導放出による電磁波の増幅(メーザー、レーザー)の基本原理を発明した。1964年、ノーベル物理学賞受賞。

「私は宗教者として、創造主の介入を感じる。創造主は、私を超えたところにおられるが、いつも私のそばにおられる・・・宇宙の法則の創造は、それを作った知性を要求する。」

「科学と宗教は多くの人々が考えるより極めて類似していて、長い目で見れば両者は統一されるはずだ。」

アラン・サンデージ(1926〜2010)

アメリカ合衆国の天文学者。ハッブル定数などの研究を行った。1952年からパロマ―天文台、ウィルソン天文台でエドウィン・ハッブルのもとで働き、後にカーネギー天文台で働く。

「私は子供の時は無神論だった。しかし、科学のお陰で、この世界は私たちが説明できるものよりもはるかに複雑であるという結論に達した。存在の不思議は、超自然の存在がなければ説明できない。」

ジャン・アンリ・ファーブル(1823〜1910)

フランスの生物学者。昆虫の行動研究の先駆者であり、 研究成果をまとめた『昆虫記』で有名。ファーブルは チャールズ・ダーウィンと親交があったが、進化論の批判をやめなかった。『昆虫記』の中で「進化論へのお灸」と題した章がある。ここで彼はアナバチの実例を挙げながら進化論を現実から乖離させた概念のお遊びであると非難している。

「昆虫の驚くべき本能の世界を見て、そこに偶然の一致しか見ないようにしようとしても無駄である。このような調和は偶然では解明されない。世界は一つの無限の知恵によって導かれている。私は、観察すればするほど、物の神秘の背後に輝くこの知恵を、いっそうよく見るようになった。そのために、人が私を嘲笑することも知っている。しかし、そんなことはとるに足らない。私から信仰をもぎ取るよりは皮膚の皮を剥ぎ取る方がたやすいかも知れない。私は神を信じるのではない。神を見ているのだ。」

ルイ・パスツール(1822〜1895)

フランスの生化学者、細菌学者。牛乳などの腐敗を防ぐ殺菌法、ワクチンの予防接種の方法を開発。

「私はあなたに言うが、私はある程度の知識があるので、ブルターニュ人の男のように信じる。しかし、もしもっと知識が多ければ、ブルターニュ人の女のように信じることだろう。」(注、ブルターニュ人は、フランスの中でもカトリック信仰の強い地方)

「科学はわずかだと神から遠ざかるが、多いと神に戻る。」

「科学は特定の国に属さない。」

「最後に確信に達した時、人は人間の魂の感じ得る最大の喜びを覚えるものである。」

ゴットフリート・ライプニッツ(ドイツの数学者。哲学、物理学など多分野で卓越した業績を残した))

「神が存在するとか、あらゆる直角が等しいというようなことは、必然的な真理である。」

「愛するとは、自分の幸せを他人の幸せに重ねることである。」

ウィリアム・トムソン ケルビン卿 1824-1907 イギリス人発明家

絶対温度目盛りで知られており、最初に大西洋横断電報ケーブルを造り、熱力学の第二法則を公式化するのを助けた。

「地上における生命の始まりは、何らかの化学作用、あるいは電子作用、または分子の結晶作用による配置によって起こったものでは確かになかった。私たちは立ち止まり、生物の創造の神秘と奇跡とに、 顔と顔とを合わせて直視しなければならない。」

ジェームス・クラーク・マックスウェル 1831-1879 スコットランド人

科学の天才、電波が発見されるずっと以前に、電波の存在を予告した。

「どんな進化論の説も分子の類似性を説明するためにつくられることはあり得ない‥‥科学は、無からの、物質自体の創造を理由づけるすべをしらない。」

ロバート・A・ミリカン 1868-1953 アメリカの核物理学者、及びノーベル賞受賞者、

「ちょうど、この時計の背後には時計製作者がいなければならなかったように、この偉大なる宇宙の複雑に入り組んだ精密さとタイミングの背後には、偉大なる創造主、または設計者がいなければならなかった!」

ジョン・パーシング 1860-1948 第一次世界大戦のアメリカ軍司令官、

「私はもうイエス・キリストを47年間知っており、彼を抜きにしては、人生を直視することはできなかった。私は、そのような救い主をあなたにお勧めする。」

ジョージ・ワシントン・カーヴァー、アメリカの黒人科学者 「黒いレオナルド・ダ・ヴィンチ」 農業の研究で国際的な名声を博した。1864-1943

彼は黒人奴隷の子として生まれ、奴隷解放後も周囲の偏見と差別に耐えながら植物学を学び、当時、豚の餌としてしか使い道がないと思われていたピーナッツや、誰も知らなかったサツマイモを何百という製品に変えた。ピーナッツからは、チーズや豆乳、化粧品やプラスチックなど約300製品が、サツマイモからは、ゴムやインクや粉や酢など約120製品が、カーヴァーによって生み出された。

カーヴァーは、今日一日なにをすべきかを知るために彼は毎朝森に入り祈りを捧げ、その日の実験の手順を神様に相談していたという。それが彼の成功の秘訣であった。彼は、多くの時間を祈りのうちに過ごし、彼の顕微鏡よりも彼の信仰と祈りとが、彼を成功させた。それぞれの問題、それぞれの発見のために、彼は多くの時間をその結果を求めて主に祈り、また主を待ち望むことに費やした。友人や他の世界的な偉人たちが訪問して来ると、彼はよく、彼らに聖句を説明して聞かせ、彼自身の主に対する愛の証しを与えたものだった。

「秘密はすべてここにあります。神の約束の上に。これらの約束はリアルです。このテーブルの存在を、唯物論者は完全に信じていますが、神の約束はこのテーブルと同じようにリアルです、いや、このテーブルよりもはるかに強固で実体的なのです。」

「私は自然を、無制限の放送局として考えるのが好きである。私たちがチャンネルを合わせさえすれば、その放送局を通して、神は常に私たちに語りかけて下さる。」

「心に巣食う憎しみは、最終的にその人自身を滅ぼしてしまう。」

「99パーセントの失敗は、言い訳を言うクセを持っている人々に起こる。」

「ビジョンがないところには、希望もない。」

「もしあなたが、それを十分に愛するなら。どんなものでも、あなたに話しかけてくれるでしょう。」

「幼いものをいつくしみ、年老いたものをいたわり、困っているものを助け、弱いものや強いものに寛容になれるかどうかで、人生の中身が決まる。なぜなら、自分もそれらすべてのものになるからだ。」

何かを達成するための近道などない。

人生は十分な準備を必要とする。

- うわべだけのものには何の価値もない。

ビーナッツバターの考案者ジョージ・ワシントン・カーヴァーは自分の研究室を、「神の小さなワークショツプ」と呼んでいました。その研究室である日起こったことを、彼はこう書き残しています。彼は祈りの中で神にこう尋ねます。「創造主よ、宇宙はなんのために造られたのですか」すると神からの答がありました。「あなたの小さな頭脳に見合った質問をしなさい」そこで彼は再度質問をします。「人はなんのために造られたのですか」また神の答がありました。「小さき者よ。あなたの質問は大き過ぎる。質問の範囲をもっと狭め、焦点を絞ったものにしなさい」そこでカ一バーは質問の範囲を狭め、こう尋ねます。「では、創造主よ、ピーナツはなんのために造られたのですか」「それは良い質問だ」という答が返ってきました。それをきっかけに、ジョージ・ワシントン・カーヴァーは、当時安っぽくしか見られていなかったピーナツについて、300以上の使用法を発見するようになります。謙虚な質問が、大きな成功を生んだのです。

マイケル・ファラデー(電磁気学・電気化学の分野で優れた業績を残したイギリス人科学者)

「慈母の頬を流れる涙の中に、科学も分析し得ざる尊い深い愛情のこもっていることを知らなければならぬ。 」

マリー・キュリー(放射線の研究でノーベル物理学賞・科学賞を受賞したポーランド出身の科学者)

天から与えられている何ものかに、ぜひとも到達しなければならない。

アレクシス・カレル(ノーベル生理学・医学賞を受賞したフランスの外科医)

祈りは、地球の引力と同じ現実的な力である。医者である私は、人々が、他のあらゆる治療法で失敗した後に、祈りという厳粛な努力によって病気や憂鬱から救われた例を数多く目撃した。

J・C・ペニー 1875-1971 アメリカの億万長者、商人、

「私は商人として知られるよりも、むしろクリスチャンとして知られたい。」

ヨハネス・クリュソストモス

「明日の朝にしようなどと言ってはならぬ。朝が仕事を仕上げて持ってきてくれるわけではない。」

「蜜蜂は自分だけのためでなく、皆のために働くから大事にされる。」

「慈善を行う者は、貧者にとっては港のようなものである。港は破船に完った者を受け入れ、彼らに安全を約束する。善人にも悪人にも、同じようにする。あなたもまた、地上生涯で破船に会っている人を見たなら、彼を裁くのではなく、彼を不運から助け出すべきである。」

「あなたは罪を犯したか? 教会に入り、自分の罪を悔い改めなさい。ここに裁判官ではなく医者がおられる。ここに取り調べを受ける者ではなく、罪の赦しを受ける者がいる。」

サミュエル・テイラー・コールリッジ

「忠告とは雪のようなものだ。穏やかに降るほど、長く消えずに残り、心に染み込んでいく。」

ウィリアム・ライアン・フェルプス (1865-1943年 20世紀米国の大学教育の専門家、文芸評論家)

「私は、男性にとっても女性にとっても、大学教育は望ましいものであると思っています。しかし・・・大学教育を受けなくても、聖書の知識を持っている人は、大学教育を受けても、聖書の知識が何もない人よりはるかにまさっていると思います。聖書の十分な知識を有する人が、真に教育のある人と呼ばれるのにふさわしいのです。 どんなにほかのことを勉強しても、どんなに多くのことを学んでも、それらを聖書の知識に置き換えることはできません。」

「聖書が人間の思想や知恵、哲学、文学、芸術、理想に与えた影響は、他の本すべてが与えた影響を上回る。……聖書抜きの大学教育より、大学教育抜きの聖書の知識のほうが価値がある、と思う。」

「箴言の書は今朝の新聞よりも時代に即したものである。」

「もっとも幸福な人間は、もっとも味わい深い考え方をする人間のことである。だから人間は年をとるに従って、ますます幸福になっていく。」

「秩序ある人生はタワーを登るようなものだ。半分登ったときの景色は地上からの景色よりも良い。そして展望が広がるにつれ益々素晴らしくなる。」

「面白い事がひとつ増えれば、そして、やり遂げた事がひとつ増えればなおのこと、そのたびにあなたの生きる力が増す。」

「人生で成功者になるための主な条件は、仕事に対して日々に興味を新たにできること、仕事に絶えず心を打ち込めること、毎日を無意味に過ごさないことである。」

「二ヶ月もすれば、この悩みは解消しているだろう。それなのに、なぜ今それを苦にするのだ。二ヶ月後に予想される態度を今すぐにとろうではないか。」

「宗教的指導者とされる人々の中で、自分を神と宣言した者はひとりもいない。モーセもパウロも仏陀もムハンマドも孔子もそんな宣言はしなかった。ただ、イエス・キリストだけはちがう。イエスは自分が神であると宣言した唯一の宗教家であり、世界の多くの人々にそれを確信させた唯一の人物である。」(トーマス・シュルツ)

「進化論は人の人生から神を除外するために人がねつ造した作り話である。」(ヘンリー・M・モリス三世博士)

グレッグ・ローリー

「真の教会成長は、聖書を創世記から黙示録まで、全体を地道に学び、それに従うところにある。それは、決して新しい方法ではないが、根を張り確実に成長していく唯一の道である。」

「私たちが聖書預言を通して未来について学ぶ理由は、現在において私たちに正しく生きる意欲を与えるためです。」

「聖書預言は、私たちを"怖がらせる"ためにあるのではなく、先のことに"備えさせる"ために与えられています。」

「あなたが好ましくない場所で好ましくない人々とたむろすると、あなたは程なく好ましくないことをするようになる。」

「新しい信者を助けるのに、聖書の学者になる必要はありません、友達になりさえすればよいのです。クリスチャンとはどんな人なのか、見せることのできる誰かが必要です。」

「あなたは自分の欠点と欠陥ばかり見るだろう。神はあなたに将来のあなたを見る。」

「イエスが飼葉桶に身を置かれたのは、私たちが天国において家を持つため。」

「地上の父たちは、天の父の代表だ。お父さんたち、あなたの仕事をきっちりこなそう。あなたの子どもたちはしっかり見ている!」

「強い信仰を得たいなら、その信仰は人生の試練によって試されなければならない。」

「どうか自分で自分のいのちをとらないでください。代わりにあなたのいのちをイエスに委ねてください。あなたはいのちの意味を見出すようになります!」

「アメリカの人々は自分たちのFacebookとツイッターを1日に17回チェックする、それは基本的に起きている間、1時間に1回はそうすることだ。もし私たちが1日に17回祈るとしたら、何が起こるだろうか?」

「霊的にヘルシーな人々は霊的にハングリーな人々だ。私たちはイエスをもっと欲する。」

「救いは聖霊の仕事。福音宣教は私たちの仕事。」

「最後に神は『よくやった。良い成功したしもべだ』とは言わず、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』と言われる。」

「イエスが私たちのためにしてくださったことを知れば知る程、私たちは彼のためにもっとしたくなる。」

「もしあなたがそのことを祝福してくださいと主にお願いできないなら、そのことはしてはならない!」

「あなたはサンタとその小人の妖精たち、真っ赤なお鼻のルドルフとスノーマンのフロスティなしでもクリスマスを持てます。しかしあなたはイエスなしでは間違いなくクリスマスを持つことはできません。」

「自分で決めたら、自分で決めたことが自分を決める。」

「あなたは自分の欠点と欠陥ばかり見るだろう。神はあなたに将来のあなたを見る。」

「苦難は私たちに思い起こさせます。私たちの故郷は地上ではなく天国だということを。」

「クリスマスは、インマヌエルのゆえに私たちは決して再び一人ぼっちにならないことを意味する。イエスは私たちのそばに一緒にいてくださる。」

セオドア・ルーズベルト(1858-1919 米国 アメリカ合衆国第26代大統領 ノーベル平和賞受賞者)

「聖書に精通することは、大学教育にまさる価値がある。」

「聖書を教えない、単なる教育は、無責任な人に鉄砲を渡すようなものである。」

「今いるところで今持っているものであなたが出来ることをやりなさい。」

「実際に行動を起こす人こそ称えられるべきである。勇気をもって戦い、熱心に、そして献身的に、価値あるものに向かって奮闘するその人こそ。その人は、良い時には達成した喜びを知り、もし失敗することがあったとしても、決して最後まで恐れずに挑み続ける。その人は、勝利も敗北も味わったことがない、冷淡で臆病な人たちの仲間に入ることは決してないのだ。」

「長期的に見れば、品性が個人の人生や国家の盛衰においても、最も決定的要因である。」

ローレン・カニンガム(YWAMの創設者)

「本当の異端、背教の背後にあるのはプライドという罪であり、それは故意に神のみ言葉につけ加えたり、み言葉から何かを取り去ったりするのです。私たちはこのようなことに自分が陥らないように自分を見張り、すべての真理に導いてくださる聖霊の助けにより、真理の霊によって交わりを持たねばなりません。」

「不一致が不和を生み出すのではありません。赦しの欠如が、不和を生み出すのです。」

ディビッド・クラークソン

「もし、強盗や放火魔があなたの家族を殺そうとして潜んでいる時、それを知りながら、そのことをあなたから隠し、あなたに知らせないような友がいるなら、それはもはや友と呼ばれる資格など持っていない。そして、罪こそ、どんな強盗、殺人者、放火魔よりもまさって危険な存在である。罪が潜んでいる時に、沈黙や隠蔽は裏切りにも等しい。私たちの罪を率直に指摘し、気付かせてくれる者こそ、最も忠実な友であり、尊敬と愛を受けるにふさわしい者である。最初に例に出した友は、偽りの友でしかなく、愛しているような振りはしても、実際は心の中で兄弟を憎んでいる者なのである。」

国際ナビゲーター

「神は、私たちを取り扱われるすべての面で、私たちのために働いておられる。私たちが繁栄するときには、主は私たちの感謝をためされ、平穏なときには、私たちの満足を、不運にあっては、私たちの従順さを試みられる。また人生のやみの中にあるとき、そしてどのようなときでも、主は私たちの従順さと主に対する信頼をためされる。」

「私たちが神の約束に信頼して生活するように、神はときどきご自身の目的を隠されます。その理由を探ろうとしたり、未来を恐れたりしてはなりません。神の約束は、彼が支配しておられることを私たちが確信するのに十分なのです。」

「悪魔は神のみことばに対して疑いを起こさせ、御子の信用を傷つけることをいつも仕事にしている。」

「サタンは最善のものを約束し、最悪のものを支払う。彼は生まれながらの偽り者である。愚かなものは彼に欺かれる。約束された冠は首吊りの縄となり、安らぎは苦悩に変わり、誉れは恥となり、天国は地獄となる。」

「安全は危険がないことによって確かにされるのではなく、主がおられることによって、初めて確かにされる。」

「誘惑に負けないようにと祈りながら、しかもなお誘惑に身を任せることは、指を火に突っ込みながら、火傷をしないようと願っているようなものである。」

「クリスチャンが間違った場所にいるとき、彼のいるべき正しい場所はからになっている。」

「聖書について無知な者は、キリストについても無知である。」

「私たちの多くは、自分の足で宣教の働き場に出て行くことはできない。しかし、私たちはひざまずくことによって働き場に行くことができる。充実した永続性のある宣教の働きは、ささげられた祈りによって――それが中国からであろうと、インドからであろうと、または、アメリカからであろうとにかかわらず―完遂されるのである。」

「もし、ソクラテスが部屋にはいって来たら、私たちは、みな立ち上がって、彼に敬意を表するであろう。しかし、もし、イエス・キリストが部屋にはいって来たなら、私たちはひれ伏して、彼を拝するであろう。」

「キリストを知ることは、貧しい者を富ませ、キリストを知らないことは、最も富める者をも貧しくする。」「宇宙の保持者であられるキリストに、私たちの心の保持者としての地位をも与えるべきである。」

「自分がなす行ないと、語ることばによって、あなたは福音を、毎日1章ずつ書いていく。それがゆがめられたものであっても、あるいは、真実であっても、人々は、あなたが書いた福音を読む。あなたの福音は、どのようなものであろうか。」

「クリスチャンにとって、キリストとの交わりは、潜水夫に対する空気のようなものである。彼がどんなに誠実であり、経験に富んでいても、これなしには彼は全く役に立たない。」

「従順なクリスチャンは、その心を通してキリストが考え、その生活を通してキリストがご自身を現わし、その口を通してキリストが語り、その手を通してキリストが他の人を助ける。」

「私が大統領執務室にいて酒場にいない理由はただひとつ。私は信仰を得て神を見出しました。私が今あるのは祈りの力のおかげです。」(ジョージ・W・ブッシュ)

ジョン・ウィクリフ

「この聖書は人民の、人民による、人民のための統治に資するものである。」

フジ子・ヘミング

「クリスチャンとして、人間はそのためにこの世に生きていると子供のときから教えを受け、やれるだけのことはやろうと頑張っています。特に虐げられた子供や動物のためにはできるだけのことをしたいし、他の方々にも、心だけでなく行動を取ってもらいたいです。愛とは行動をすることです。」

「信仰は子供の頃から自然についていました。青山学院でクリスチャンの教育を受け、教会の日曜学校でも子供ながらに牧師の話と姿に心打たれたものです。もちろん、芸術家は信仰と宗教なしにはうつろなものです。」

ルキウス・カエキリウス・フィルミアヌス・ラクタンティウス

「私たちの間には 奴隷も主人もない。私たちの間に区別はなく、兄弟と呼び合っている。キリスト教はこの世にとって、人を 愛し助け守る天からの助けである。」

ライス・ブルークス

「神が悪を許していると怒ることは、神が、あなた自身が生まれ、生きることを許していることに怒ることでもあるのです。」

「聖霊の助けなしに聖書を読むのは、まるでケーブル接続のない状態でテレビを見るようなものです。」

「私たちは、体の病には立ち向かおうとします。しかし、たましいの病については諦めてしまいがちです。」(マーク・ブキャナン)

車田秋次(1887 - 1987年 日本ホーリネス教団の創設者)

「みことばの伴わない信仰経験は幻想である。」

「礼拝とは、主イエス・キリストに出会うことである。」

「もし国の法律と神の法律が矛盾することがある場合は、自分は国の法律以上に神の律法に従う。結局、殉教するしかない。」

「教会の民は、どのようにして人々を教会に来させるかを考える。御国の民は、教会をどのようにして世界に届かせるかを考える。教会の民は、世界が教会を変えるのではないかと心配する。御国の民は、教会が世界を変えるのを見るために働く。」(ハワード・スナイダー)

「もしあなたが癌を治癒する方法を持っていたなら、それを伝えないだろうか? あなたは死を治癒する方法を持っている。出て行ってそれ伝えよう。」(カーク・キャメロン)

「信仰はあらゆることを可能にするが、愛はあらゆることを容易にする。」(エヴァン・H・ホプキンス)

「悔い改め、救いを求めている罪人のかたわらにひざをかがめる時、わたしは、この人がイエスの再臨前に救われる最後の人かもしれないと考える。」(エミル・マルム)

「子どもがあなたの話をまったく聞かないと心配してはいけない。子どもがあなたの行動をいつも見ていることを心配しなさい。」(ロバート・フルガム)

「神は平凡な人々を用いて他の人生に非凡なことをなされる。」(ポール・デイヴィッド・トリップ)

「キリスト信仰がユニークなのは、人間の弱さ”にも関わらず”でなく、その弱さの”ゆえ”に、神が私たちを通して輝き出られることにある。」(ポール・スティーヴンス)

「今日、リバイバルが与えられないのは、私たちが分裂してしまっていて、互いに愛し合っていないからである。未信の者たちは、初代教会について、『見よ。何とキリスト者たちは互いに愛し合っていることよ』と言ったが、今の私たちについては言うことができない。」(スティーブン・オルフォード)

アンセルムス

「ただ神のことを考えるだけで、私たちは神が実在していると知ることができる。」

「神はそれより偉大なものが考えられ得ないものだからである。このことをよく理解している者は、それが存在しないことは思考のうちにおいてさえ不可能であるほどに存在している、ということを明らかに理解している。それゆえ、神がこのように存在していることを理解している者は、神が存在しないと考えることは出来ないのである。

善き主よ、あなたに感謝します。以前あなたの恩寵により信じていたことを、今あなたの光によって理解し、そのために、たとえ私があなたの存在することを信じることを望まなくても、存在することを理解しないことが私には不可能であることを、あなたに感謝します。」

「主よ、私はあなたの高みを極めることを試みる者ではありません。私は、私の理解力をけっしてそれと比較することもないからです。しかし、私の心が信じまた愛しているあなたの真理を、いくらかでも理解することを望みます。そもそも私は信じるために理解することは望まず、理解するために信じています。私は、『信じていなかったならば、理解しないであろう』〔イザヤ七:九〕ということもまた信じているからです。」

日野原重明

「私たちに与えられた恵みを数えてみれば、どんな逆境にあったとしても、受けているものの方が、与えるものよりも多いことに気付く。」

「神の感謝はそのいつくしみを増やします。不幸に対する神への感謝は、その不幸を取り除きます。」(ウィリアム・ダイナー 17世紀の英国の牧師)

「私は、私の人生の春を通り過ぎた。夏の暑さに耐えた。秋の果実を集めた。そして今、人生の冬の厳しさを耐え忍んでいる。しかし、ほど遠くないところに、私は、新しい永遠の春が近づいているのを見る。ハレルヤ!」(アダム・クラーク)

「あなたの心にあって、神との平和を乱す全てのことは罪である。」(ルベン・ヘッション)

「罪とは常に正当化する必要がある状態。」(藤井康男)

ポール・トゥルニエ

「子どもは、大人から敬意をはらわれている度合いに応じて自分の人格を意識し、自分の人間としての尊厳を自覚して自分自身を尊重するようになります。後に大人になってからの道徳的態度全体に影響を与えます。」

「老いの意味とは、死、すなわち神との巡り合いのために身を整え、この世のもろもろのことを諦め、天国に入る準備をすることなのだ。」

「神との接触から生まれる強さだけが本当の創造的な強さなのだ。」

スイスの心理学者ポール・トゥルニエ博士は「心配や思い煩い」を解決する最も有効な方法7つを挙げている。

1)主に栄光を帰することを日々の生活の目的とする。

2)聖書の御言葉を日々黙想し、適用するために最大限の努力をする。

3)心の苦い水をなくす。

4)家族や親しい友人たちとより親密に暮らすよう努力し交流を通して得た楽しい気分と感情を素直に表現する。

5)信じる友人たちと定期的に会う。幸せは伝染する。

6)日常的な仕事も忠実にこなし、結果に満足すること。

7)他者に善を施す。人を助ける時、人は幸せになる。

選択するのはあなた。思い煩いを捨てて喜びをを選ぼう。幸福は選択の結果である。

「過去の出来事とは関係なく、今日あなたが主に留まるなら、あなたの過去があなたの明日を支配することはありません。」(トニー・エヴァンズ)

スミス・ウィグルスワース

「偉大な信仰は偉大な試練から来る。」

「私たちは何も出来なくても、 神にあっては私たちに出来ないことはない。」

「私たちは私たちの肉体には一日三回できたての食事を与えるが、私たちの霊には一週間に一回冷めた食事を与える。私たちが霊的に弱々しいのはなぜだろう。」

「私は、感情によって神を理解することはできません。私は、感情によってイエス・キリストを理解することはできません。私は、神のことばを通して神を理解し、イエス様を理解します。神は、みことばが、『彼はこういう方である』と言っている通りの方です。みことばを通して神と知り合いになりなさい。みことばを通してイエス・キリストと知り合いになりなさい。」

「私は自分が見ることによって動かされません。

私は自分が感じることによって動かされません。

私は自分が信じることによってのみ動かされます。

霊的なことは自然のことよりも現実的であることを知りなさい。

自分の霊に目を向けることを学びなさい。

あなたの霊があなたに語ります。

あなたの霊はあなたの頭が知らないことを知っています。」

「赦されない罪とは、『私は罪人で、とても恵みを受けることはできない。私は聖霊に見捨てられてひとりぼっちなのだ』と言い続けることである。」(アブサロム・B・アール)

デビッド・アウグスバーガー

「赦しとは、悔い改めが真実であり、正しい関係が回復し、成就することを、互いに認め合うことにほかならない。赦しは痛みのできごとを否定するのではない。会話を避けることではない。何もなかったようなふりをすることでもない。現実に存在した悪を見逃す寛大さではない。困難な道をたどるのを避ける弱さではない。また相手のひとよりも高い所にいることを誇示して、不問に付することでもない。悔い改めの会話を進めるという、困難で痛みの多い、リスクに満ちた道を一緒に歩くことである。

赦しは一つの行為ではなくむしろ過程である。単独の折衝ではなく一連の段階である。一回限りの全面解決といった単純な赦しの理解には注意しなければならない。即席の解決は赦しであるよりはむしろ問題からの逃避、問題の否定にすぎないことが多い。赦しには時間がかかる。自分の様々な感情を点検し、痛みと怒りに注意を払い、相手の見方を理解しようとするための時間が必要なのだ。そのようにして痛みが解決し、未来が再び開くことになる。」

トーマス・ワトソン

「富を失っても、何も失ってはいない。命を失えば、少し失っている。しかしイエス様を失えば、すべて失ったのである。」

「罪は悔い改めの涙のうちに溺死しなければならない。もしくは魂が地獄のうちに焼かれなければならない。」

「罪が苦々しくなるまで、キリストが甘美な方になることはない。」

「知識を持っていることが、あなたを信仰者とする証明にはならない。悪魔も知識を持っているが、従順に欠けている。それこそ彼を悪魔にしたのものだ。」

「人は健康と毒の両方を愛することはできない。同様に神と罪の両方を愛することはできない。」

「ペテロを牢屋から連れて来たのは御使いであったが、御使いを連れて来たのは祈りであった。」

「説教中の眠気に用心してください。眠気は不誠実さの顕著な現れです。なんと多くの人が、世に出ては生き生きしているのに、神の礼拝の場で眠そうにしていることでしょう。まるで、悪魔に麻薬でも与えられたかのように。あなたは罪の赦しを祈っているのではないのですか?囚人が釈放を乞うている最中に、眠ってしまうでしょうか?説教の時、あなたはいのちのパンを与えられているのでしょう?食事中に眠ってしまう人など、いるでしょうか?」

「イエスは弟子たちに3つのことを約束された。ーーそれは、完全に恐れのない状態、不思議な幸福、それに絶えることのない揉め事である。」(F・R・モルトビィ)

「霊的成長の欠如は霊的には死んでいるということを示す。」(マイケル・グリーン)

「もしあなたが変えてほしいと神に願う状況がまさにあなたを変えるために神が用いているとしたら?」(マーク・バターソン)

「本来神の御子であられる方が、限りある人間となられた。これこそあり得ない奇跡にほかならない。無限が有限になられた。本来見えない方が見えるようになられた。全てを維持しておられる方が、他に頼って生きる人となられた。全能者は弱い人となられたのである。」(ジョン・マレー)

「我々の救いは歴史上の事実に基づく。聖書は歴史的な事実を語っている。もしも、その歴史が真実でなければ聖書の権威はなくなり、聖書に信頼を置いている我々に希望はない。」(J・グレシャム・メイチェン)

「超自然的なキリストと超自然的な救いは、それは必然的に、我々を超自然的に救うのでである。」(B.・B・ウォーフィールド)

「すべてが、変わり果てて、腐っていく。しかし、主なる神は決して変わることがない。その主は我と共におられる。」(ヘンリー・ライト)

「教会のリーダーになろうとしている父親がいる場合、まずその親が自分の子供たちにどのように相対しているかを観察する必要がある。自分の子供の教師になれない親に他人の子を導くことはできない。幼少の時から成長するまでの期間、ずっと教育し導いてきたはずである。もし、自分の血族である子供に権威と規律をもって相対してきていないなら、そのような指導は教会の益にならない。お金儲けとこの世のことに奔走し、子供のしつけなどを二次的な関心事として大した注意も払わず、価値がないこととしてきたなら、もとより彼のリーダーシップは無意味である。自分の富を子供よりも大切にしていたのであるから、子供に愛情や気遣いも払わない、そのような者が教会の先頭に立って、他の人を導く立場に相応しいはずがあろうか? 例えば自分の子供のしつけすらできないなら、それこそ人格的弱点がある証拠である。自分の子供に関心もない者が他の人々を世話することなどできようか?」(ウィリアム・D・マウンス)

「現代人の悲劇は神を否定するか、あるいは神なしで、すませようとすることである。」(ミシェル・クオスト)

ポール・ウォッシャー

「あなたの家に一番近い教会を探してはならない。聖書に一番近い教会を見つけなさい。」

「もしあなたが肉的手段を使って人を惹き付けようとするなら、あなたは肉的人を惹き付けることになる。そして彼らを教会の中に留めたければさらなる肉的手段を使い続けなければならない。」

「あなたが次の一息をするのは、ただ神があなたにそれを下さっているから。」

「クリスチャンを自称する人々とあなた自身を比較してはならない。聖書とあなた自身を比較しなさい。」

「人々は私に言う『さばいてはならない、あなたもさばかれないために』と。私はいつも彼らに言う『聖書を曲解してはならない、あなたもサタンのようにならないために』と。」

「もしあなたがイエスに従いたいというのが、イエスに自分の結婚を修復してもらうことを理由としているなら、もしあなたがイエスに従いたいというのが、イエスにもっとましな生活を与えてもらうことを理由としているなら、それは偶像礼拝である。キリストのためにキリストに従いなさい。彼はそれに値するお方である。」

「罪について多くの認識のズレがあるのは『神がどのようなお方か』という認識がズレているからだ。多くの人は、聖書的な神観を持たない。彼らの神観は彼ら自身の意見に基づいており、彼らは自分の想像や好みで神を作り上げているのだ。それゆえその『お好みの神』は、自分の好き嫌いにいつも同意してくれる。」

「私たちの生涯を神の言葉に従わせることは過激なキリスト教ではなく、基本的なキリスト教です。」

「問題は、『あなたは天国に行きたいか?』ではなく、問題は、『あなたは神を欲するか?』です。」

「一人の女性に満足しない男は、多くの女性によっても決して満足することはない。なぜならその罪は無制限だから。」

「あなたは、自分の腕に『JESUS』を刻む必要はない。自分の心に神の律法を刻む必要がある。」

「信仰義認の証拠は、聖霊による聖化の継続的働きである。」

「どのような礼拝なら行ってみたいと思うか、未回心者に何千ものアンケートを取ろうと考える人達は、知るべきです。一万もの肉的な人々が声を揃えて言う事柄が幾つあろうとも、神の御言葉の権威の前には、それらはかけら程の意味も持たない、ということを。」

「支持され、評価されることへの欲求は、神の人にとって猛毒である。だが、多くの者が噛まれている(心奪われている)ように思われる。」

悔い改めを説くことは、福音を宣べ伝える上で絶対に必要です。ゆえに私たちは、悔い改めとはどのようなものか、真の回心がどのように明らかにされるかを、正しく理解しなければなりません。真に聖書的な悔い改めには、8つの本質的な特徴があります。

・思考が変わること

・罪を嘆くこと

・自分の罪を認識し告白すること

・(習慣的な)罪から離れること

・自分の義と善行(による救い)を否定すること

・神を求めること

・実生活で神に従うこと

・悔い改めが継続し、より深まっていること

デイビッド・プラット

「教会とは、ある特定の場所に、主にある兄弟姉妹が集まり、互いに仕え合うことによって、キリストの教えが実現される共同体である。」

「偽りの教え:イエスのもとに来て健康、富、繁栄を得なさい。いいえ。イエスのもとに来てイエスを得なさい。」

「なぜ、私たちは、自分の力以上のものを与えないキリスト教や、自分の能力以上の働きができない教会で、満足してしまうのだろうか。イエスを死者の中からよみがえらせた力を持つ方が、私たちのうちに生きておられるのだから、私たちは、自分の限界の中で生きる必要はないのだ。私たちが最もしなければならないことは、常に全能者である父なる神にひれ伏し、「私たちのうちに、私たちを通して、圧倒的な力を見せてください。そして、自分の力だけでは絶対にできないことでもできる力を与えて、神の栄光を現してください」と祈ることである。私たちがこのように生きるなら、自分が、自分の限界をはるかに超えた目的、聖霊の力によらなければなしえない目的のために生かされていることに気づくだろう。」

「感じの良い中産階級のアメリカ人のようなイエス。物質主義にも目をつぶり、持っているものをすべて捨てろ何て言わないイエス。イエスだけを愛するために最も親しい人々とも別れろなんて言わないイエス。快適な生活を邪魔せず、表面的な献身でも許してくれるイエス。イエスはありのままの私たちを愛してくださる方なのだから。革新的(ラディカル)な信仰を避け、バランスのとれた信仰を持つことを望むイエス。私たちに快適で豊かな生活をもたらし、クリスチャンのアメリカンドリーム話を実現させてくれるイエス。しかし、あなたも私も、この時点で自分たちが何をしているのか気づいているだろうか。自分好みのイエスの姿に着せ替えているのだ。イエスの姿がますます自分に似てくる。結局のところ、私たちは、自分とつき合うときが一番気楽だからだ。今さらされている危険は、私たちが教会堂に集まって手を挙げて賛美をしている時、実は聖書のイエスではなく、自分自身を礼拝しているかもしれないという危険である。」

「あなたは自分自身のために望むものを手に入れるべく信仰を利用することはできない。信仰は神があなたのために望むものをあなたにもたらすだけである。」(K・P・ヨハナン)

デイヴィッド・アラン・キャンベル

「もし聖書があなたのつま先を踏む(感情を害する)なら、それはあなたの足が間違ったところにあるからだ。」

「世界中で起こっているありとあらゆるひどいことは、私たちがより多くの人たちにイエスのことを伝え、はっきりとイエスこそ必要なお方だということを伝えるようにかき立てるべきものだ。」

「結婚して従う男性を自分で選べることがどんなに幸運か考えたことがありますか。親は選べないのに、従わなければなりませんでした。教師も選べず、どの公権力に従うかもほとんど選べません。しかし、人生で最も理解のある権威者だけは自分で選んでよいのです。」(エリザベス・ライス・ハンドフォード)

ユージン・ピーターソン

「もし牧師として成功していることが親として失敗していることを意味するなら、あなたはすでに牧師として失敗している。」

「復活は、私たちの死後だけに関係している事柄ではない。今現在、どう生きているかに関わってくる。」

「私たちの信仰は、喜びに始まり、喜びに終わる。始まりと終わり、そしてその間のすべてが喜びである。喜びは神の創造物であり、神からの贈り物である。本物の聖書信仰であるなら、喜びに満たされないはずはない。」

「牧師という召命について、私はまだ多くの事を学ぶ必要がありますが、一つのことは分かっています。祈りの働きは、すべてのものの中心です。神との会話が、私が考えること、言うことのすべてに交差しなければならない。教会の中でも道端でも。」

「結婚するように召されていることは、独身に召されていることより優れているわけではありません。既婚者であろうと独身者であろうと、本当の幸せとは結婚にあるのではなく、神との正しい関係を築くことにあります。」

(ゲーリー・チャップマン)

ピーター・スキャゼロ

「福音は、私たちには自分が思う以上に罪深く欠点があることを語っている。しかし私たちは、自分が望む以上に受け入れられ、愛されている。それはイエスが私達のために生き、そして死んでくださったからである。」

「教会には、神や人が自分の期待に応えてくれないと、その度に家を出てしまう弟息子がたくさんいる。また、怒って不機嫌になる兄息子も多くいる。そう。私はその両方だ。しかし今日最も必要なのは、あなたも私も信仰の父や母となるべく成長していくことではないか。」

「教会は一人一人がそれぞれの家族全員の歴史を引き連れて集まっている所である、と考えるだけで、圧倒されてしまうかもしれない。しかしこれはかなり正確なイメージだと言ってよいと思う。教会を導くということが、いかに複雑極まりないものであるかがわかるだろう。」

「最も大切なのは、教会が痛みをしっかりと味わい、痛みを通して成長することを学ぶことであり、他の人に対して神のような共感の心を結実させることであろう。喪失や悲しみを受け止めることができれば、イエスがなさったように人を愛することができるようになるだろう。」

「神は私たちを変えるために、しばしば苦痛を用いられる。過去二十年間で、私が牧師として人々との関わりの中から確信させられたことは、もし悩みや苦しみがなければ、ほとんどの人は、内側を深く正直に見つめるような大変な作業をしないということだ。」

「ある調査によれば、教えられたことを四十八時間から七十二時間の間に何かしら実行に移さなければ、ただ良いお話を聞いたというだけで、自分の生き方に反映しないということだ。」

「今も神は肌を持っておられ、見ることができ、触れ、聞き、味わうことができる。どのようにしてか。それは神のからだ、つまりご自身が住まわれる教会を通してである。私たちはイエスの名において、また聖霊の内住によって、周囲の人たちのために神の『肌』になるようにと召されているのである。」

「クリスチャン生活を通して行使される力や賜物のレベルと霊的成熟の間にはほとんど相関関係がない。パウロは、霊の賜物を使うことができても、霊的に赤ん坊である可能性があることも、明白に指摘している。…御霊が働いていることを示すものは、賜物や成功ではなく、超自然的な愛なのだ。」

「私たちには理解できない人類の歴史の最も悲惨な出来事も神のすばらしい永遠の計画の中の堆肥にすぎないということである。地獄でさえもそうである。最悪な出来事と見えるイエスの死から、最高の善が生み出された。神は悪の現実を軽減することなく、悪を良いものに変えることがおできになるのだ。」

「一瞬だけ幸福になりたいのなら、復讐しなさい。永遠に幸福になりたいのなら、赦しなさい。」(アンリ・ラコルデール)

「神は大いなる方。神はあなたが大いなる者になることを要求しておられない。あなたが従順であることを望んでおられる。」

(マット・チャンドラー)

「神はあなたが強くあることを必要としない。神はあなたの力になることを欲する。」(ジョン・ブルーム)

「神の助けによって私が変えることのできる唯一の人間は私自身だけである。」(ポール・ウェストブルック)

C・H・マッキントッシュ

「信仰は神を視野に入れる。それゆえ信仰は絶対に何ものも困難とは思わないー然り、不可能を笑い飛ばすのだ。信仰の計りでは、神がすべての問題に対する十分な答えである―。信仰にとっては一億であろうと一兆であろうと少しも問題ではない。神がすべてを満たす方であると知っているからである。信仰はすべての助けを主のうちに見出す。不信仰は言う。『そんなことがどうしてできるだろう。』それは『どうして』ばかりである。しかし信仰は何千という『どうして』に対してたった一つの偉大な解答を出す。その答えとは『神』なのである。」

「人々を火の中から救い出すためには、自分がその火の中に飛び込まなければならないと考えるのは、致命的な間違いだ。これは絶対にうまくいかない。人々を悪しき状態から救い出す最善な方法は、自分自身がその状況から完全に離れていることである。」

「結婚生活がうまくいくためには、これぞと思う相手を見つけるだけではだめである。自分がこれぞと思う人にならなければならない。」(B・R・ブリックナー)

「悪い夫を手に入れる女性は、たいがい結婚を急ぎすぎた人です。よい夫を得られるなら、いくら結婚が遅れても遅すぎることはありません。」(ダニエル・デフォー 『ロビンソン・クルーソー』の作者)

「結婚は決してあなたを幸せにするためにデザインされたのではありません。あなたが結婚を幸せなものにするです。」(レス・パロット)

スティーブン・ローソン

「もしイエスがあなたの人生を変えていないなら、あなたの出会ったイエスは別のイエスです。」

「地獄は決して新生していない誠実で宗教的な人たちで満ちている。そして天国は悔い改めキリストを信じた不道徳な人たちで満ちている。」

「昨今の平均的教会に立ち入ると、その礼拝は神の畏れを奨励よりも除去するように意図されているものになりそうだ。」

「神の御言葉の第一の目的は、御言葉の神ご自身を明らかにすることである。」

「キリストを知ることは最高の喜び、キリストに従うことは最高の追求、キリストの栄光を現すことは最高の目標。」

「教会員の霊的成長に心を砕く牧師は、神と神のことばを自身のミニストリーの中核としなければならない。」

「殉教者たちは命よりも死を選んだ。なぜなら彼らは異端よりも真理を選んだから。」

「キリストは私たちの代わりに死んでくださっただけではなく、私たちの代わりに生きてもくださる。」

ルイス・スペリー・チェイファー

「『正しい人』が天国へいける計画なら、誰でも編み出すことはできる。神の『敵』である『罪人』が天国へいける計画を編み出せるのは、神お一人だけである。」

「重要なのは、自己努力ではなく、神が与えてくださっている力によって生活し奉仕することを学ぶ必要がある。真の霊的生活はさらにもっと能動的に広げられ、活力にあふれたものである。神の無限の力が私たちを活気づけてくださるからだ。」

「そんなことがあり得るだろうか。神がある人間をたいそう愛されて、彼のために死ぬようにご自分のひとり子を与えてくださり、彼が神の恵みを請い願えば叶うほどまで愛してくださり、ついにはそのたましいをご自身の家族として獲得し、ご自分の聖なるご性質を分け与えることによって新しく造り直しておきながら、ご自分のすべてを与えて獲得したその者がそのあとどうなるかについて気になさらない、などということが。」

C・I・スコフィールド

「神の恵みが探し求めているのは、良しと求められる「正しい人」ではない。正しいことを認めるのは恵みではなく、正義すぎないからだ。だが恵が求めているのは、神様の裁きによる死刑を宣告された罪深い、言葉もなく無力な者たちである。彼らは恵みによって救われ、清められ、栄光を与えられるのである。」

「過去を思えば感謝。現在は平安。将来は信頼あるのみ。」(米田豊)

ジョセフ・ジュベール(Joseph Joubert 1754年~1824年 フランスのモラリスト)

「神の怒りは一時のものであり、神の慈悲は永遠のものである。」

「宗教は、手本によって燃え続ける火である。人に伝えなければ消えてしまう。」

「子供には批評よりも手本が必要である。」

「妻の忍耐ほど彼女の名誉となるものはなく、夫の忍耐ほど妻の名誉とならないものはない。」

「論争や討論の目的は勝利であってはならず、改革でなければならない。」

「自分の意見を引っ込めない者は、真実を愛する以上に我が身を愛する人間である。」

「教えることは二度学ぶことである。」

「悪口は意地の悪い人の慰めである。」

「親切とは、人びとを愛することから成るが、彼らがそれに値する以上にだ。」

「私は知恵を貨幣に鋳造したい。つまり、知恵を鋳造して、覚えやすく、伝えやすい箴言と、格言と、ことわざにしたい。」

「迷信は下劣な魂の持ち主たちの可能な唯一の宗教である。」

「快楽は肉体のある一点の幸福にすぎない。真の幸福、唯一の幸福、全くの幸福は、魂の全体の平穏な裡(うち)に存する。」

ヴォディー・バウハム(Voddie Baucham)

「もし私が息子にボールから目を離してはダメだと教えながら、キリストから目を離さないことを教えるのに失敗するなら、私は父親として失敗者だ。」

「もし人が教会を愛していなら、彼らはイエスを愛していない。」

ジェイムズ・ホワイト(James White)

「クリスチャンであるなら、あなたは神学者です。他の選択肢はありません。神学とは、シンプルに「神を知る」ということだからです。実際クリスチャンは神についての知識を豊かにするよう命じられていますから、クリスチャン人生のゴールの一つは神学です。神学はその人生の日常であり、その他すべてを高みに引き上げるものです。」

チャールズ・プライス(Charles Price)

「苦しみと逆境の只中以上に、私たちが神に近づく場所はありません。神に頼って生き始める時、神はそのご計画を私たちの心に置き、その平安で満たして下さいます。神は愛する人々をいやし、即座に困難を取り去って下さることもあれば、そうされないこともあるでしょうが、それでも私たちは、あらゆる状況において万事を益として下さる全能なる神がおられるという事実に、安心して寄りかかるのです。」

ステファン・チャーノック(Stephen Charnock)

「神だけが永遠なる方に他ならない。神だけが愛する価値のある方に他ならない。」

「行いは心を良くする事はないが、良い心は行いを良くする。」

「高慢な信仰は、謙遜な悪魔と同じほど矛盾している。」

「人は神学的に物知りでありながら霊的に無知であるかもしれない。」

「私たちは私たちを慰める杖のもとよりも私たちを打つ鞭のもとでより多く神のことをより学ぶ。」

「全能性が計り知れない海に似ているように、それが与える慰めもまた、涸れることのない川のようです。御心のままに何でもできる神がいて下さると知るのは、何という慰めでしょうか。神に成し遂げられないほど困難な物事はなく、神に倒せないほど強力な存在もいません! 人を恐れる必要などありません。彼らを抑制できる方がついておられるのですから。悪霊を恐れる必要もありません。悪霊を鎖で縛ることのできる方がついておられるのですから。神の御力は、天地創造によって使い果たされたりはしませんでした。万物を維持することによって、その御力が弱まることもありません。一体神は、ご自分の民以外の誰に対して、そのとこしえの御腕や、不可思議な御力のとどろきを誇示したいと望まれるでしょうか?」

フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ

「夫婦とは二つの半分になるのではなく、一つの全体になることだ。」

エリザベス2世

「私たちが今日、その誕生を祝う、平和の君であるイエス・キリストの生涯そのものが私の人生の感化であり錨です。愛、受容、癒しの御手を伸べる彼は和解と赦しの模範です。キリストの姿が私に、信者、未信者の区別なく、すべての人を敬い尊重することを教えました。」

ダスティン・ベンジ

「恵みを知る者は恵み深い。」

「真の信者は、他者の罪にゾッとする以上に自分自身の罪にゾッとする。」

「もしあなたが、あなたの隣人を本当に愛したいなら、イエスについて彼らに語りなさい。」

「キリストの誕生が意味することは、私たちが自らの罪の中に置きっぱなしにされたままでいることを神が絶対にしたくなかったということである。」

デイリーブレッド

「神は初めから終わりまでご存じだから、どのプロセスにいても信頼できる。」

「すべての人は、神と向き合わなければならない。救い主としてか、裁き主としてか・・・。」

「天国でかぶる冠は、地上で獲得せねばならない。」

「神のみことばの種蒔きに季節はずれはない。」

「苦しみに対する応答の仕方によって、成長するか絶望するかが決まる。」

「偽善者は、日曜日は敬虔だが、月曜日になると隣人を食い物にする。」

「私の必要はすべて神が満たしてくださるから、私は貧しい人の必要のためにささげよう。」

「悪しきものを憎むことができないなら、善なるものを愛することはできない。」

「キリストに魅せられれば魅せられるほど世俗的な影響から離れられる。」

「世の中はあなたを見ています。そこにイエスが見えますか。」

「自分がしたことでは救われない。キリストがなされたことを信じるなら救われる。」

「迷惑をかける人は、神が差し向けた人かもしれない。」

「だれも割り込む隙がないくらい、神に近づこう。」

「貧困よりも富によって、人の品性は試される。」

「神は私たちを住まいとされた。それは私たちが神とともに住むためだ。」

「神は成功を求めない。ただ従順だけをお求めになる。」

「孤独とは、どこででもいっしょにいてくださる神に気づかない状態のことだ。」

「私たちのすべての所有物は神から借りたものだ。」

「イエスの地上の生涯は、不可能で始まり不可能で終わっている。処女の受胎と死者のよみがりだ。」

「イエスはすべてを私たちにくださった。私たちはすべてを主にささげるべきだ。」

「明日、天国の光の中で過ごしたいなら、今日、御子を受け入れなければならない。」

「キリストに照準を当てれば、すべてがはっきり見える。」

「神を知っていればへりくだる。自分を知っていれば誇れない。」

「キリストのように変えられつつあるか否かの基準は、人の苦しみにどれほど敏感であるかということだ。」

「罪人を愛するとはイエスのようになることだ。」

「神にもっとも喜ばれる人は、神をどこまでも信頼する人だ。」

「イエスに従うことは常に簡単だとは限らないが、必ず正しい。」

「もっと感謝すべき物は要らない。ただ、もっと感謝すべきだ。」

「善意は行動に移して初めて善だ。」

「神の恵みをいったん味わえば、世俗的なものに対する渇きは失われる。」

「悪癖を直すために神に信頼するという良い癖をつけよう。」

「問題が大きくなると、人格があらわになる。」

「持っているもので満足するなら、あなたは豊かだ。」

「思いやりのない世界で思いやりのある人になろう。」

「神は、私たちを弱体化させるためではなく、改善向上させるため、試練を与えられる。」

「クリスチャンは、未来に希望があるので、過去に立ち向かうことができる。」

「イエスを知っているなら、喜べる理由は常にある。」

「何が不当なのか定める権利があるのは神だけだ。」

「今日、耳を傾けてあげることが、一番の愛かもしれない。」

「グチを言い連ねるのではなく、祝福を数えて時を過ごそう。」

「クリスチャンが一致できるのは、キリストと一致しているからだ。」

「ある場所での日没は、別の場所での夜明けだ。」

「キリストへの信仰は、凡人を英雄にする。」

「明日刈り取る実は、今日蒔く種で決まる。」

「あなたの人生が幸福かどうかは、あなたの心の中の良し悪しで決まる。」

「神は驚くべきことをなすために、普通の人々を捜しておられる。」

「神は、災難の嵐の中から祝福の雨をもたらしてくださる。」

「カルバリの十字架は、天国への道と地獄への道との交差点だ。」

「私たちが成功をすることを、神は求めておられない。むしろ、忠実であることを、求めておられる。」

「神の臨在を感じないときでも、神の慈悲は周囲に満ちている。」

「自分の心を燃やさなければ、ほかの人の心に火をつけることはできない。」

「神は何のために今日、その出来事を起こされたのかは、明日までわからないこともある。」

「イエスの血はどんな罪もきよめるが、言い訳を正当化してはくれない。」

「人生に打たれて膝をついたのなら、祈るのにちょうどよい姿勢だ。」

「クリスチャンの人生は窓だ。人々は、そこを通してイエスを見ることができる。」

「もっとも賢い人たちは、神が最善をご存じだと知っている。」

「クリスチャンは死んだときに生き始める。」

「バラにはとげがあると不平を言うのではなく、とげの中にバラが咲いていると感謝しよう。」

「子どものために使う一番よいものはあなたの時間だ。」

「どんな言葉で祈るかではなく、どんな心で祈るかが問題だ。」

「神の召しにはそれを成し遂げる力も含まれている。」

「今日の重荷は、明日のために私たちを強めてくれる。」

「どんな大きな問題も、神の偉大さにはかならない。」

「天国の報いは、地上の損失を補って余りある。」

「キリストを人生から押し出すものすべてを人生から閉め出そう。」

「聖書に自分を当てはめ、聖書を自分に当てはめよう。」

「イエスとの友情を深めるために時間を使うなら、時間はあなたの味方になってくれる。」

「クリスチャンの生き方が、この世の聖書だ。」

「嵐が来れば、どこが本物の避け所かわかる。」

「塩けのあるクリスチャンは、いのちの水への渇きを起こさせる。」

「人生の重荷は、私たちを壊すためではなく、神へと導くために備えられた。」

「日々イエスのために生きるためには、日々自分に死ぬことが要求される。」

「満足とは、すべて必要なものは、神からすでにもらっていると気づくことだ。」

「サタンが騒がしいこともあるかもしれない。でも、すでに彼は負けている。」

「心から謝っても過去は変わらないが、それは未来を明るくする。」

「欠点を探さずに、改善策を探そう。」

「良い知らせは、みんなに知らせるべきだ。」

「クリスチャンはどん底まで落ちると、キリストという確かな土台がそこにあると気づく。」

「奉仕に強いが、献身に弱いクリスチャンが多い。」

「神の恵みとは自分勝手に生きてよいという許可証ではない。神を喜ばすという自由だ。」

「神の御声を聴くために、世の中の音量を下げよう。」

「仲間はずれを恐れて口をつぐむより、真実を伝えて拒絶されるほうがよい。」

「世界で最良の消しゴムは、神に正直に告白することだ。」

「イエスの友になるということは、罪人の友になることだ。」

「良いことをするのに忙殺されて、正しいことをし忘れないようにしよう。」

「クリスチャンが職場で働くなら、それは神に奉仕しているのである。」

「信じる価値のある信仰は、分かち合う価値もある。」

「良い動機が自分本位にふれると悪い行為になる。」

「キリストを信じるとは、一度だけの行為ではなく、生涯、主イエスと歩み続けることだ。」

「警告は愛の表れであり、脅しは支配欲の表れだ。」

「祈りとは、重荷の担い手が交代する場所だ。」

作者不詳(anonymous)

「悪い関係を良いものに変える最速の方法は、相手のために祈り始めることだ。」

「しもべの心を持っているかどうかは、どうやってわかるでしょうか? それは、しもべのように扱われた時に、どう振る舞うかによってです。」

「私が出世すると、友だちは私がだれかを知ることができる。私が倒れると、誰が私の友だちであるかを知ることができる。」

「人生は嵐が過ぎ去るのを待つことではなく、雨の中で踊ることを学ぶことである。」

「神様のいない私たちの一週間は、罪の日(sinday)、悲しむ日(mourn-day)、嘆く日(tearsday)、無駄な日(wasteday)、渇望の日(thirstday)、喧嘩の日(fightday)、挫ける日(shatterday)で、神様のいない一週間は壊れやすいものになります。」

「新しいことをするのを恐れないでください。たった一人の素人が箱舟を造り、職人の集団がタイタニック号を造ったことを思い出してください。」

「もしあなたが謙遜になりたいと願っていたら肝に銘じなさい。謙遜(humility)は屈辱(humiliation)を通して学ぶことを。」

「明日には恐れと信仰という二つの取っ手があります。私たちはその二者択一をしなければなりません。」

「私が出世すると、友だちは私がだれかを知ることができる。私が倒れると、誰が私の友だちであるかを知ることができる。」

「信仰とは人的偶然を、神的必然と捉え直す決断である。」

「相手がどれほど憎くても、明日、その人が死ぬと考えてみなさい。そうすれば、いくら憎い相手だとしても赦すことが出来る。」

「神は、喜んで与える人を愛される。しかし、ぐちを言いながら与える人の献金も一応受け取られる。」

「不可能に挑戦するまで、神の資源を体験することはできない。」

「『そんなことは不可能だ』と言う人は、それをしている人の邪魔をしてはいけない。」

「ストレスは、すべて今すぐなされなければならないものだと信じさせる。信仰は、すべて神のタイミングでなされるものだと安心させる!」

「あなたが過ちを犯したからといって神を避けることは、ちょうどあなたが病気になったからといって医者を避けるのと同じである。あなたはあなたがまさに必要な方から逃げている。」

「神を遠くに感じるなら、動いたのは誰なのか考えなさい。」

「最初に謝る人は最も勇敢な人。最初に赦す人は最も強い人。最初に忘れる人は最も幸せな人。」

「人生について考えるとき、次のことを思い出そう。どれほどの罪悪感でも過去を解決することはできない。どれほどの心配でも未来を変えることはできない。」

「過去においてあなたを傷つけたことは忘れよう。だが、それで学んだことは決して忘れてはならない。」

「することが何もない時に何をするかによって、あなたがどんな人間かがわかる。」

「地獄への道は、誰でもやってるから、ちょっとだけだから、見つからなければ、という3つの石(意思)で舗装されている。」

「どんな人間でも無価値だと言ってはならない。キリストはその人のために死んだのだから。」

「あなたを傷つけた相手に対してすぐにやりかえそうとする者は未熟者。あなたを傷つけた相手の事情をまず理解しようと努める者は成熟者。」

「心配することは何も変えないが、神に信頼することはすべてを変える。」

「あなたが誰かの背後でしていることは何でもまた神は目の前で行っていることを心を留めておきなさい。」

「イエスがあなたの物語のうちにおられる時、それはいつも違った結末になる。そう、思いもよらぬ最高の結末に!」

「もし神があなたの喜びの源であるなら、あなたの喜びをあなたから取り去ることは決してできない。」

「恨みを抱くことはあなたを強くしない。あなたを苦々しくする。赦すことをあなたを弱くしない。あなたを自由にする。」

「私たちの問題を神の御手の中に置く時、神はご自身の平安を私たちの心の中に置いてくださる。」

「どんな落胆にも神があなたに与えたい祝福を盗み取らせてはならない。」

「時に神の祝福は神が与えることにあるのではなく、神が取り去ることにある。」

「教会で嫌な体験をしたことで教会に通うことをやめてしまわないように。私たちはレストランで嫌な体験をしたことで外食をやめてしまうことなど決してありません。」

「天国のことをはるか彼方のものだと言っている人々がいる。しかし事実、天国は、天国に属する者たちの声の届く範囲内に存在するのである。」

「もし神が、あなたが失うことを夢にも思わなかった何かを取り去ることができるなら、神はあなたが持つことを夢にも思わなかった何かとそれを取り替えることができることを信じなさい。」

To love God is the greatest of virtues; to be loved by God is the greatest of blessings.

「神を愛することは最高の美徳であり、神に愛されることは最高の祝福だ。」

A truly rich man is one whose children run into his arms when his hands are empty.

「真に豊かな者は、その手に何一つないときに、子供たちがその腕に飛び込んでくる者だ。」

It is easier to build a boy than to mend a man.

「男を矯正するよりも、少年を育て上げる方が易しい。」

The secret of contentment is the realization that life is a gift, not a right.

「充実した生き方の秘訣は、人生は権利ではなく、贈物だとということを知ることです。」

If you cannot get what you like, why not try to like what you get?

「もしあなたの欲しいものが得られないなら、あなたが得ているものを好きになればいい。」

Many who plan to seek God at the eleventh hour die at 10:30.

「11時に神を探そうとしているものの多くは、10時半に死ぬ。」

Hell is truth seen too late.

「地獄は、それを見たときはもう遅すぎる。」

Home: The place in which you are treated the best and grumble the most.

「家庭とは、あなたが最高に扱われ、そして最も不平を言う場所だ。」

He who forgives ends the quarrel.

「許すものは争いを終わらせる。」

Write injuries in sand, kindnesses in marble.

「受けた傷を砂に書き、受けた親切を大理石に書きなさい。」

To a friend’s house, the road is never long.

「友人の家へ行く道は、決して長くない。」

Spend and God will send.

「お金を使いなさい、神がくださる。」

If you don’t want anyone to know, don’t do it.

「誰にも知られたくなければ、それをするな。」

Without free will, how shall God judge the world? Without grace, how shall God save the world?

「自由意思がなければ、どうやって神は世界を裁けるだろうか?恵みがなければ、どうやって神は世界を救えるだろうか?」

It is the laden bough that hangs low, and the most fruitful Christian who is the most humble.

「苦労した大枝は低く下がり、もっとも実り多いクリスチャンはもっとも謙遜だ。」

Don’t marry for money; you can borrow it cheaper.

「金のために結婚するな、もっと安く借りられる。」

Making marriage work is like running a farm. You have to start all over again each morning.

「結婚生活を成功させるのは農園を営むようなものだ。毎朝、最初からやり直さないといけない。」

God is not against us because of our sin. He is with us against our sin.

「神は我々の罪ゆえに責めない。我々の罪に立ち向かうために共にする。」

A stumble may prevent a fall.

「つまづくことは、こけることを防ぐかもしれない。」

It is the crushed grape that yields the wine.

「ぐちゃぐちゃになったブドウこそが、ワインを産み出すのだ。」

Smooth seas do not make skillful sailors.

「穏やかな海では、腕のいい船乗りは育たない。」

Be stronger than your excuses.

「自分の言い訳よりもつよくなりなさい。」

It takes seventeen muscles to smile and forty-three to frown.

「笑顔には17の筋肉を、しかめっ面には43の筋肉を使う。」

Being happy doesn't mean that everything is perfect. It means that you've decided to look beyond the imperfections.

「幸せであるというのは、すべてが完全であるという意味ではない。それは、不完全さの向こう側を見る決心をすることである。」

Life is simple, it's just not easy.

「人生は単純である。ただ簡単ではない。」

A man should be like tea; his real strength appearing when he gets in hot water.

「男は紅茶のようであるべきだ。彼の強さは困難(熱い湯)の中でこそ現れる。」

Your mind is a garden, your thoughts are the seeds. You can grow flowers or you can grow weeds.

「あなたの思いは花畑であり、あなたの考えは種である。あなたは花を育てることもできるし、雑草を育てることもできる。」

Happiness will never come to those who fail to appreciate what they already have.

「幸せはすでに持っているものに感謝しない人には決してやって来ない。」

Don't just wait out the storm. Learn to ride the waves.

「嵐が過ぎ去るのを待つだけであってはならない。波に乗ることを学びなさい。」

“We have no right to ask when a sorrow comes, 'Why did this happen to me?' unless we ask the same question for every joy that comes our way.”

「私たちには悲しみが来たとき、『どうしてこんなことが起こったのか?』という問いをする権利はない。同じ問いを私たちに起こるすべての喜びに対してするまでは。」

To wish you were someone else is to waste the person you are.

「自分が誰か他の人であればと願うことは、自分自身を浪費することである。」

Never be afraid to do something new. Remember, amateurs built the ark; professionals built the titanic.

「何か新しいことをするのを決して恐れてはいけません。アマチュアが箱舟を作り、プロがタイタニックを作ったことを思い出しなさい。」

Gossip is saying behind their back what you would not say to their face…

Flattery is saying to their face what you would not say behind their back…

「陰口とは面と向かって言わないことを背後で言うことである。お世辞とは背後で言わないことを面と向かって言うことである。」

None of the secrets of success will work unless you do.

「どんな秘訣も行うまでは役に立たない。」

※ついでに英語ならではの表現を紹介する。

Anger is one letter short of danger.

「怒りは危険より一文字短いだけだ。」

※Anger(怒り)とDanger(危険)は一字違いですね。

In marriage there are three rings – the engagement ring, the wedding ring, and the suffer-ring.

「結婚において、3つのリングがある。婚約リング、結婚リング、サファリング(災難)。」

Every day is a gift from God; that is why we call today the present.

「毎日が神からの贈り物です。だから私たちは今日のことをプレゼント(現在)と呼ぶのです。」

何かを言うかする前に・・・

T - is it True(本当か)?

H - is it Helpful(役立つか)?

I - is it Inspiring(奮い立たせるか)?

N - is it Necessary(必要か)?

K - is it Kind(思いやりがあるか)?

という5つのことを考えるようにしよう。

この5つのことの頭文字をつなげると、THINK = 「考える」となる。

The six most important words -- "I admit I made a mistake."

The five most important words -- "You did a good job."

The four most important words -- "What is your opinion?"

The three most important words -- "If you please…"

The two most important words -- "Thank you!"

The one most important word -- "We."

The least important word -- "I."

最も大切な6つのことば(単語)「私は失敗したことを認めます」

最も大切な5つのことば(単語)「上手くできたね」

最も大切な4つのことば(単語)「あなたの意見は?」

最も大切な3つのことば(単語)「よろしければ」

最も大切な2つのことば(単語)「ありがとう」

最も大切な1つのことば(単語)「私たちは」

最も大切でない1つのことば(単語)「私は」

キリストバカズ(1971年~携挙? 牧仕 日本)の迷言語録?

「必要なのはいいマニュアルではなく、インマヌエルだ。」

「クリスチャンの行くコンビニはマタイのセブンイレブン(7:11)。」

「どんなクリスチャンがかけてもぐらつかないイスとは? グレイス。このイスなら安心して人生をかけられる。」

「人生火事だ!詩篇119篇。」

「詩篇119篇は、あなたの魂をレスキューする『119番』である。」

「先立つものは金(カネ)ではなく、神。」

「金持ちよりも神持ちになれ。」

「『神様しかいない』と思った瞬間、そこは天国である。『自分しかいない』と思った瞬間、そこは地獄である。」

「通貨をあなたから通過させよ。それは実に痛快だ。」

「十分の一は主のもの(レビ27:30)だから、十分の一献金は、正しくは十分の一返金である。他人のものを返金しなければ泥棒だ(マラキ3:8−10)。」

「神を礼拝する以上に、大切なことがあると感じるなら、礼拝よりも他のことを優先するなら、その人は神の偉大さを本当に知らない人である。」

「祈祷は祈闘である。」

「キリストなしでは墓があってもはかない人生。」

「クリスチャンはみなついている。イエス・キリストがついている。」

「教会で受けた傷は教会でしか癒せない。キリストのからだの一部なら、からだにつながってはじめて癒される。」

「神の召しにあずかる者は日々の飯にあずかる。」

「サタンは良いものを与えて神の最良が与えられないようにする。」

「御霊に満たされていなければ、肉に満たされている。」

「あなたの罪がどれほどのものか、私は知らない。しかし、私はキリストがあなたや私のためにどれほどのことをしてくれたか、知っている。」

「恵みとは分不相応な者に対する過分な親切。」

「謙遜とは自己卑下することではなく、自己忘却すること。」

「聖書は、人間が書こうとして書けるような本ではないし、人間に書けたとしても書こうとするような本ではない。」

「聖書のゴールデン・ルール(マタイ7:12)によって生活するなら、毎週がゴールデン・ウィーク!」

「財政と霊性は切っても切り離せない。実際、その人の霊性が最も顕著に現れるはその人の財政面である。」

「神は人に借りを作らない。人は神に貸しを作れない。」

「互いに仕え合わない夫婦は不仕合わせになる。」

「主に降伏したときから、真に幸福な人生が始まる。」

「出発、信仰!」

「起動する前に祈祷!」

「聖書は唯一の命言集」

「後悔のない説教をしたければ講解説教に限る。」

「リバイバルはリバイブル。」

「テレビジョンばかり見ているから、神のビジョンが見えてこない。」

「礼拝は心配を締め出す。」

「自己過信は神不信のはじまり。」

「クリスチャンのアカウンタビリティーの関係とは、クリスチャンが同性のクリスチャンに両者が持つクリスチャン原則に基づき、問いかけや対決、忠告、アドバイス、励まし、その他の勧告を与える目的で自分の生活に口を挟んでもいいです、と許可を与える関係のこと。」

「信仰は、『あるものにもたれかかる』という意味。頭だけでうなずくという理屈ではなく、確かなものに寄りかかる行為を指す。」

「イエスを乗せれば子ロバでもころばない。」

「献金は献身のあらわれ。」

「慈善活動なのか、偽善活動なのか?」

「『人の振り見て我が振り直せ』も悪くない。しかしベストは『人の子の振りを見て我が振りを直すこと』。」

「過去に引き戻されるのではなく、神に引き戻されよ!」

「礼拝に没頭! 教会に殺到!」

「断食においてやることは、食材を忘れることではなく、贖罪を覚えることである。」

「主を畏(かしこ)む人は最も賢い人である。」

「キリスト教の悔い改めはパンと杯をもって食い改める。」

「神に無条件降伏する者は神から無条件幸福をいただく。」

「天に自分の宝を積み上げない者は、地上に自分の罪を積み上げるだけだ。」

「人間の心理を学ぶよりキリストの真理を学ぶことのほうがずっと価値がある。」

「人生を無駄にしない生き方、それはキリストの死を無駄にしない生き方。」

「自信をなくせば”神信”が見つかる。」

「指導者とは仕導者のこと。」

「牧師の本分は僕仕。」

「頭は愛しているけど、からだは愛さない、という人はいない。いるとしたらその人は異常な人だ。キリストは愛しているけど、キリストのからだである教会は愛さないというクリスチャンはいない。いるとしたらその人は異常なクリスチャンだ。」

「ゴシップは賢明な人の耳に届いた時に死ぬ。」

「今日が命日だと思えば、もう迷日はない。」

「日曜大工が本物の大工ではないように日曜クリスチャンも本物のクリスチャンではない。」

「対人関係は対神関係によって築かれる。」

「見神者は献身者となる。」

「イエスの血潮で私たちは『地塩』になった。 」

「キリストなしで今日死する者は狂死する。」

「イエスは悪人を善人にするためにこの世に来られたのではなく、死者を生者にするために来られた。」

「説教はインプットするだけでなくアウトプットするために聞く。」

「召命とは命を召すこと。」

「生前に神を一番に追求しなかった者は、死後に神に一番にそのことを追及される。」

「教会は、通う場所ではなく、通い合う家族。」

「牧師は、こりをもみほぐして患部を気持ちよくしてくれるマッサージ師ではなく、神とのしこりを打ち砕いて神関係を良くしてくれるメッセージ師。」

「お言葉に甘えるのも良いが、み言葉に甘える方が遥かに良い。」

ユダヤの格言 タルムード

「ゴシップは、殺人よりも危険である。殺人は一人しか殺さないが、ゴシップは必ず三人の人間を殺す。ゴシップを言いふらす人自身、それを反対せずに聞いている人、その話題になっている人。」

「賢人とは、あらゆる人から学べる人。強い人とは、感情を抑えられる人。豊かな人とは、自分の持っているもので満ち足りている人。人に愛される人は、あらゆる人をほめる人。」

「自分が相手と同じ立場に立ったことがないのなら、その相手を批判する資格はあなたにはない。」

「子供は、両親が家で話すことを街でしゃべる。」

「子供は、両親の話し方をまねる。性格はその話し方で解る。」

「自分のことだけ考えている人間は、自分である資格すらない。」

「豊かな人とは自分の持っているもので、満足できる人のことである。」

「人を賞賛できる人こそ、本当に誉れ高き人である。」

「どんな質問でも、必ずしも答える価値があるとは限らない。」

「失敗を恐れる方が、失敗を犯すよりも悪い。」

「もしあなたの周囲に傑出した人がいないなら、あなたがならなければならない。」

「貧乏人と病人の忠告にはいつも真意がある。」

「小さな穴は、大きな船を沈めてしまう。」

「利害関係ができたときにはじめて、友人かどうかが分かる。」

「人は仕事がないと政治に関わり始める。」

「自分の力ではどうにもならないことは、心配するな。」

「一日勉強しなければ、それを取り戻すのに二日かかる。」

「学んだことを復習するのは、覚えるためではない。何回も復習するうちに、新しい発見があるからだ。」

「最も大切な事は、学習ではなく、実行である。」

「出逢った人すべてから、何かを学べる人が最も賢い。」

「偉人を過大に評価してはならない。同じように、小人を過小に評価してはならない。」

賢人になる七つの条件

  1. 自分より賢い人がいるときは沈黙。

  2. 人の話の腰を折らない。

  3. 答えるときにあわてない。

  4. 常に的を射た質問をし、筋道だった答えをする。

  5. まずしなければならないことから手を付け、後回しにできるものは最後にする。

  6. 自分が知らないときはそれを認める。

  7. 真実を認める。