4 MGF信仰基準(Statement Of Faith)

「マラナサ・グレイス・フェローシップ」(略称:MGF)は、イエス・キリストを主と信じる者の共同体であり、その名称の示す通り、主の来臨(携挙)を共に待ち望み(マラナサ)、主の恵み(グレイス)を共に分かち合う(フェローシップ)、神の家族です。私たちは、教派・教団に所属しない無教派の単立キリスト教会ですが、キリストのからだに属するすべての人と交わりを持ちます。

私たちは、クリスチャンの交わりにおいて真の土台となるのは、キリストの「アガペーの愛」だけであり、これは、私たちが有するどのような相違も超えて卓越したものであり、これなくして自らをクリスチャンと主張する権利はないと信じています(Ⅰコリント13章)。事実、主イエスは、私たちの互いの間の愛によって私たちがキリストの弟子であることをすべての人が認める、と教えられました(ヨハネ13:35)。

私たちは、成熟した教会のしるしは、「信仰」「希望」「愛」であると信じています(コロサイ1:3~7)。

それゆえ、私たちは、神の御言葉の教えに重点を置きます。なぜなら、御言葉によって「信仰」は成長するからです(ローマ10:17)。

また、私たちは、イエス・キリストの来臨を待ち望みつつ生活します。なぜなら、キリストは祝福された「望み」(希望)と呼ばれるからです(テトス2:13)。

最後に、私たちは、私たちの生活における聖霊の満たしを願います。なぜなら、御霊の実は「愛」だからです(ガラテヤ5:22、23)。

※これは社訓ならぬ教会訓のようなもの

「愛するとは愛し難い者を愛すること。赦すとは赦し難い者を赦すこと。信仰とは信じ難いことを信じること。希望とは何もかも絶望的に見える時に希望を持つこと。」(ギルバート・ケイス・チェスタートン)

「神の愛は、人間的な次元を超えています。あなたはそのような愛を一度も経験したことがありません。

それは不変の愛であり、純粋な愛であり、強い愛です。弱点や失敗を克服し、ひたすら最良で最高のものを求める愛です。」

(チャック・スミス)

牧仕の私も妻も共にカルバリー・チャペル・コスタ・メサ付属のカルバリー・チャペル・バイブル・カレッジ本校を卒業した。特に妻は感謝なことに同教会から2年間にわたり奨学金をいただいた。私自身も1年以上、同カレッジのスタッフ・牧師インターンとして経済的サポートを受けた。私たちは卒業後、同教会でチャック・スミス牧師により結婚式まで挙げていただいたので、私たち夫婦の母教会はカルバリー・チャペル・コスタ・メサであると自認している。私は牧会インターンも含め、同教会内で4年間フルタイムで働きながら学び、私個人の牧会哲学(理念)は、チャック・スミス牧師の薫陶を受け、カルバリー・チャペルで培われた。従ってマラナサ・グレイス・フェローシップの信仰基準もカルバリー・チャペルのそれに準ずるものと考えている。ただし、マラナサ・グレイス・フェローシップは、公式にはカルバリー・チャペル・グループには加盟していない(牧仕:菊地一徳)。

以下はカルバリー・チャペルの信仰基準。 上段が英語オリジナル版、下段が邦訳版。

http://www.calvarychapelcostamesa.com/pages/aboutus

http://www.calvarytokorozawa.com/statementoffaith_ja.html

さらにMGFの教会観、牧会哲学(理念)等を詳しく知りたい方は以下を参考にしていただきたい。

<チャック・スミス牧師による書籍>

カルバリー・チャペルの特徴 (PDFファイル)』 カルバリー・チャペル・ジャパンパブリッシング刊行

『収穫の時代』 プリズム社

<カルバリー・チャペル紹介ビデオ>

A Venture In Faith英語 約2時間)

冒険的信仰のドキュメンタリー・ビデオ。カルバリー・チャペルの歴史、特徴、ミニストリー理念、チャック・スミス牧師の人物像がわかる

Carles Ward Smith (Chuck Smith)について(英語)

ブログ記事 カルバリー・チャペルの特徴とマラナサ・グレイス・フェローシップの特徴

一般的にはファンダメンタリスト(根本主義、原理主義、福音派)とペンテコステ派(聖霊派)の中間に位置すると見られている。MGFは聖書と聖霊のバランスを重んじる。

聖書主義聖霊主導キリスト中心教会

聖書無謬・無誤説・逐語霊感説・十全霊感を信じる(本文批評)。

父なる神、子なる神(イエス・キリスト)、聖霊なる神の三位一体の神を信じる。

終末論は患難前携挙説、前千年王国説に立つ。

聖霊の賜物は今日も有効である(継続説。終焉説はとらない)。ただし、それらは聖書に定められた秩序(Ⅰコリント14章)に従って行使されるべきである。異言は聖霊のバプテスマのしるしであるとか、救われた証拠であるという考えは退ける。

創造論は字義解釈説(1日24時間6日間創造説=若い地球説〈特殊創造説〉)。

救済論はカルヴァン主義とアルミニウス主義の両極端な教えを退け、バランスを見出す。

教会政治は旧約聖書のイスラエル神権政治(出エジプト記18:13~22)に原型を見出し、新約聖書の聖霊主導の初代教会政治(使徒6:1~6)をモデルとする。

置換神学は退ける。教会はイスラエルに取って代わった霊的イスラエルであるとは信じない。クリスチャン・シオニズムを支持する。プロイスラエルの立場。

女性牧師は非聖書的であるとして認めない(MGFでは按手しない)。

中絶は殺人の罪であるとして反対(プロライフ)。犯してしまった罪は神だけが赦すことできる。

同性愛は聖書では明確に罪であると断じている。神だけがいやすことができる。

エキュメニズム(世界教会主義)は聖書信仰の妥協につながるとして賛同しない。

ディスペンセーション(聖約期)主義。

参考)

「福音主義とは、終始一貫、ただ使徒的キリスト教を信奉するキリスト者のことである。」(ジェームズ・パッカー)

福音主義とは?(新キリスト教辞典より)

「自由主義神学はキリスト教とは別の宗教。」、「現代におけるキリスト教の主要な敵は、自由主義神学である。」「キリスト教は聖書の上に立てられているが、自由主義神学は罪人の感情の上に立てられる。」(ジョン・グレッサム・メイチェン著『キリスト教と自由主義神学』)

「堕落に堕落を重ね、俗化に俗化を重ねてきた現代の神学が段々俗了されてきて、ホイットフィールド時代のものと比較して天地の差のあるようなものになってきた。これを名づけて新神学と称するが、いずこに新の字をつける値があるのか、神学の神学たるゆえんを没却してまったく俗化してしまったのである。神学には違いないが神を抜きにした一種の“学”になってきて、神の教理ではなくて、人の作った教理を宣伝するようになった。今日において、リバイバルは先ず第一に健全なる教理よりはじめねばならない。」(チャールズ・スポルジョン)

6日創造を信じない福音派!?

ユダヤ人である私がなぜ科学的創造論に立つ科学者になったか

ディスペンセーショナリズム v.s. 契約神学

神の救いの御計画 アルミニアニズムとカルヴィニズムの比較

アルミニウス主義、カルヴァン主義、ハイパー・カルヴァン主義の基本的な違い

ワード・オブ・フェイス運動は聖書的ですか?

日本におけるキリスト再臨の信仰(中田重治)

わが国において、再臨を説き始めたのは明治二十年ごろであるとおぼゆる。ブラックストン氏の「イエスは来たる」という本は、キリスト千年期前再臨説という名で出版せられたのはそのころである。訳者は本多監督の弟君で西館武雄という人で、それに尽力したる人はメソジスト教会の宣教師スワルツ氏であった。しかるにいま同派の中に、この真理を力説する人の少ないのは不思議である。日清戦争前後に、この教理を熱心に説いたのは、プレマス派の人々と、笹尾兄や河辺兄たちの「小さき群れ」ととなうる一団であった。そのころは多数の信者は、再臨の信仰をば潮笑の材料にしていたようであった。しかし外国宣教師の中で、ことに婦人宣教師の大多数は各派を通じて信仰し来たったものである。されば再臨の信仰は今日まで表だって広く高唱せられなかったけれども、各派を通じてこの信仰は根深く植えつけられていたのである。今度われわれは各地に集会を開いてみて、いよいよその事実なるを認むるのである。使徒信経を重んずるすべての教会は、これを信ずるのは当然のことである。これを個人の信仰にしているところもあり、その団体の信条の中に入れているものもある。東洋宣教会のごときすなわちそれである。

この信仰を有している人はだいたい左のことにおいて一致している。

一、聖書をことごとく神のことばとして信じていること。これを信仰の土台としていること

二、キリストは神の子なること。聖霊をもちろん三位一体の一位として信ずること

三、キリストの花嫁なる純教会は、各国民、また各派を通じてあるところの神妙なる団体なること

四、キリストは自己の教会をば、やがて空中まで来たり携え上げたもうこと

五、現世はだんだん道徳的に悪くなっておると信ずること。人間の努力によりてこの世は根本的に平和になるとは信ぜざること

六、キリストの空中再臨後、この世は混沌たる状態に変わり、その時にせキリストが現われ、ついにキリストの地上再臨によりて彼は滅ぼされること

七、キリストの地上再臨によりて、全世界は改まりて千年王国となり、神政政治が実現し、そののち大審判があって新天新地に移ること

同じ再臨信者でも、一から十まで一致しているわけではない。しかし右にあげたるところはその一致の要点である。

「三位一体の神は道徳的教義であります。これを信じることによって人の人生観は全く一変します。これを拒みます時に品性の変化は始まります。キリスト教のすべての教訓はこの教義と大きな関係を持っています。これを取っても捨ててもいいという人は、未だキリスト教を了解しない人であります。そうしてキリスト教が世を救うために実際的勢力であります以上は、三位一体の神を信じないでこの勢力を維持することはできません。私は私の聖書に照らし出してみましても、また、私の理性に訴えてみましても、ことに私の実験的生涯に応用しましても、主なる神は三位一体の神でなくしてならないことを信じて疑わないのであります。」(内村鑑三)

「聖書は、神が三位の人格であると教えています。これはわれわれには到底理解できない秘儀であります。聖書は三人の神があるとは教えておりません。神はただ1人です。にもかかわらず、このひとりの神は三位の人格として表現されているのです。すなわち、父なる神、子なる神、御霊なる神であります。」(ビリー・グラハム)

「人間を理解できる虫けらを持って来なさい。そうしたら私も三位一体の神を理解する人間を見せてあげよう。」(ジョン・ウェスレー)

「ファンダメンタリストとは、聖書の権威、キリストの処女降誕、贖罪の死、からだの復活、再臨、 そして神の恵みと信仰による個人的救いを受け入れ、かつ信じる者のことであるならば、 私はファンダメンタリストである。」(ビリー・グラハム)

「私たちは中道を辿り、述べるものである。すなわち大切なことは、命令することでもなく、右でも左でもないのである。私たちは教皇派でもなく、カールシュタット派でもなく、自由でしかもキリスト教的なのである。したがって、サクラメントを奉挙するもしないも、方法も場所も、時も、時間の長さも、私たちの心にかなうままであり、神が私たちに与えてくださった自由のままである。」(マルティン・ルター)

「ウェスレーは、教団教派の違いや歴史的背景や独自の主張に目をつぶることなく、自らはそれらをしっかりと捉えていました。しかし、それらを越えて相互に理解を深め、お互いを受け入れ、公同教会の四肢として、互いに交わりの手を差し伸べるべきだ、というのです。」(藤本満)

「様々な歴史的背景からいくつもの教団教派が出現し、それぞれが特色を帯びた働きを展開しながらも、語られているのは異なった福音ではなく、同じ福音なのです。同じ福音によって生かされている限り、私たちキリスト者はみな一つ、同じキリストの身体に連なっているのです。何が福音の本質に関わることなのかをしっかりと見定める見識を私たちは培う必要があります。」(藤本満)

「犬は、主人がおそわれると、ほえる。わたしは、神の真理が攻撃されているのを知りながら、なにも発言せず、沈黙をまもるなら、犬にもおとる臆病者である。」(ジャン・カルヴァン)

「誤った教理に次第に浸蝕されつつあったバプテスト同盟から脱退したスポルジョンに対し、当時多くの者が、彼が同盟に残っていたならばもっと大きな影響を及ぼし得たとして、彼の脱退を遺憾とした。だが、スポルジョンの態度は明確であった。「クリスチャンとして、キリストの福音を宣べ伝えない牧師たちと関係し続けることは、道徳的犯罪行為を構成するといわれねばならない。その加盟諸教会が共通の信仰をもつかどうかあずかり知らず、ただ団体としての継続を主張するような同盟は、いかなる聖書的な働きをもなしうるとおもえない。教派組織の存置は、それが教会内の異端を戒規処分になしえないときには、『キリスト教の一致性』の保持を理由とするばあいにも、正当化なしえない。それは、教会の一致性をやぶる誤ちであり、このような誤ちを大目にみる教派的体制のなかにとどまることは、分派を支持する意志を表明することになる。」(チャールズ・スポルジョン)

「戦いのために握り締められた拳、神学という拳銃を腰にぶら下げて世の中を歩き回ってはいけない。」(チャールズ・スポルジョン)

スポルジョンは、14歳のとき、英国国教会の学校で授業中に司祭の先生と交わしたやりとりで幼児洗礼の間違いと、信仰者のバプテスマという聖書の教えに気づき、罪との葛藤を経て15歳の1月の猛吹雪の朝にプリミティブメソジスト教会の説教を聞いて回心します。バプテスマを受けることの大切さを感じた彼は1850年3月アイルハムのバプテスト教会で全身浸礼を受けます。彼は自身のバプテスマのことをこのように証言しています。「私は教会に加入するために、またバプテストになるために外的儀式を遂行したのではありません、使徒たちのやり方にならってクリスチャンになるために行ったのです。使徒たちは信じてバプテスマを受けたからです。」

「洗礼については、次のように洗礼を授けなさい。上に述べたことすべてをあらかじめ述べた上で、流れる水によって、父と子と聖霊の名をもって洗礼を授けなさい・・・。流れる水がない場合には、他の水で洗礼を授けなさい。冷たい水でできない場合には、温かい水でなさい。どちらの水もない場合には、頭に水を三度、父と子と聖霊の名をもって注ぎなさい。洗礼の前には、授洗者、受洗者、また他に可能な人たちがいるならば、(その人たちも共々)断食をなさい。受洗者には、(洗礼に)先立つ一日か二日断食するように命じなさい。」(『十二使徒の教訓(ディダケー)』より)

「聖霊に満たされた第一のしるしは、愛と宣教への情熱です。異言を話さない人であっても、聖霊に満たされた人はみな、必ず神への愛と人への愛、そして福音宣教への強い情熱を持っているのです。 同様なことは、集会で"後ろに倒れる"という現象に関しても言えます。 私たちは聖霊に満たされるために、あるいは満たされたしるしとして、集会で"後ろに倒れる"必要があるのでしょうか。 ありません。たとえ"後ろに倒れ"なくても、あなたのうちに愛と、福音宣教への情熱が強く心にわき上がって来るなら、あなたはすでに聖霊に満たされているのです。 使徒の働きの中には、聖霊に満たされた人は後ろに倒れた、と書かれているでしょうか。書かれていません。ペンテコステの日に屋上の間にいたあのクリスチャンたちは、聖霊に満たされたとき、倒れたのではありません。 『みことばを大胆に語らせて下さい』とここで祈った弟子たちも、聖霊に満たされたとき『倒れた』とは書かれてありません。彼らは立ったままだったでしょう。 もし、聖霊に満たされるために倒れる必要があるとか、倒れなければ聖霊に満たされていないと考えるならば、それは誤りです。倒れることは、聖霊に満たされるための条件でも、満たされたしるしでもありません。 倒れなくても、私たちは信仰によって聖霊の満たしを受けることができるのです。 私たちは、聖霊に満たされるとき、あるときは電気に打たれたようになります。またあるときは、心が熱く燃えるのを感じるようになります。 しかし、あるときは非常に静かな心の状態で、人知を越えた平安の内に神の御思いに満たされて、聖霊に満たされることがあります。聖霊の御働きは、非常に多様なものです。 いずれにしても、聖霊に満たされると、神への愛と人への愛、そして福音宣教への尽きない情熱に満たされます。これが第一の事柄です。(ビリー・グラハム)

If God were small enough to figure out, He wouldn’t be big enough to worship.

もし神が理解できるほど小さな方なら、彼は礼拝するに値するほど大きな方ではない。

「教会にそびえ立つ唯一の名前は、主イエス・キリストであり、それにまさる重要な教理はほかにはない。

神が望まれるのは合併ではなく一致である。そしてそれはいのちと愛の問題である。」(A・W・トウザー)

「真理なしの一致は背任である。」(マルティン・ルター)

「大事においては一致、小事においては自由、すべてのことにおいては愛。」(アウグスティヌス)

「キリストは、すべてのクリスチャンのうちに内在され、少数のクリスチャンの間で認められる。

しかし、きわめて少数のクリスチャンのうちにのみ、キリストは最高の座を占められる。」

「宇宙の保持者であられるキリストに、私たちの心の保持者としての地位をも与えるべきである。」(The Navigators)

「あなたがただけが真に神の教会であるとほのめかすならば、

あなたがたは、争いという収穫を産み出す種をばら播いていることになる。」(チャールズ・スポルジョン)

「わたしたちが確信していることは、合同を促進する最善の方法は、真理を強く打ち出すということである。

お互いのあやまちを許容することによって、すべてのものが結び合わされても、

それはわたしたちの役には立たないであろう。」 (チャールズ・スポルジョン)

「画一的に表された統一は、せいぜい表面的なもので、大抵がそうです。

他方、多様性を背景とした統一は、必ず深いものです。」(R・B・カイパー)

「福音なしの一致(協調)は無価値の一致であり、それはまさに地獄の一致そのものである。」(J・C・ライル)

「真理を犠牲にして獲得する一致には何の価値もない。それは神を喜ばせる一致ではない。」(J・C・ライル)

「一致は画一性を意味しない。」(ラビ・ザカライアス)

「聖句における立場が人を論争的にし、律法的にし、あつれきを生じるもととなるなら、私のその立場の妥当性を疑います。

自分がもっと愛情深く親切になり、もっと赦し、慈悲深くなることに役立つことを受け入れたいと望みます。

そうして私はさらに主に似た者となりつつあることを知るのです。」(チャック・スミス)

「カルバリー・チャペルと呼ばれる美しさを知っていますか?

それはあなたが実際どの立場をとっているか、人々にはわからないところにあるのです。」(チャック・スミス)

「もしあなたが教義にこだわり、それが他のイエスを追う者との関係を裂くものとなるなら、

あなたの教義はあなたの偶像になっているといえますし、それは捨て去らねばなりません。」(ローレン・カニングハム)

シカゴ市内にムーディー・メモリアル・チャーチという大変歴史のある教会があります。私も1度だけそこの礼拝に出席したことがあります。ある日のこと、そのムーディー教会のハリー・アイロンサイド牧師のもとに一人の若い女性がやって来て言いました。「私は完全な教会を探し歩いています。そして見つかったらそこに所属したいと思っています。」牧師は答えました。「きっとあなたはずっと探し続けることになるでしょう。見つけることができるとは思えません。もし万一見つかったとしても、あなたがそこに所属したら、その教会はもはや完全ではなくなるでしょう。なぜならあなたがその教会の一員なのですから。」ハリー牧師は特にこの女性を責めたわけではありません。教会は罪赦された罪人の集まりですから、完全な教会などありえないと言いたかったのです。

「あなたの家に一番近い教会を探してはならない。聖書に一番近い教会を見つけなさい。」(ポール・ウォッシャー)

*MGFは以下の「使徒信条」に賛同する教会だが、礼拝プログラムの中で特別朗唱することはない。

「今日の使徒信条のすべてのことばを受け入れながら、しかも自己の本質に触れさせないままにしておくことも可能である。」(E・スタンレー・ジョーンズ)

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。

我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、

ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、

天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこよりきたりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、

からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。

アーメン

*MGFは以下の「主の祈り」を祈りの模範(「贖われた教会にとってのただ一つの霊感を受けた祈祷文」)と認める教会だが、礼拝プログラムの中で祈祷文として朗唱することはない。

「主の祈りは、世界最大の殉教者のひとりである。なぜなら、それはあまりにもしばしば、あまりにも無分別に用いられているからである。」(マルティン・ルター)

「主の祈りを公の礼拝の行為として朗唱することについて、多くの人々の心に疑問があるかもしれない。この点について論争があるのは正当だし、意見の相違があるのも正当である。けれども、私には、この特定の祈りの型を、人々がどんなに心に思い起こしても、思いすぎることは決してないように思われる。」(D・M・ロイドジョンズ)

主の祈り

天にまします我らの父よ

願わくは

み名をあがめさせたまえ

み国を来たらせたまえ

み心の天に成る如く地にもなさせたまえ

我らの日用の糧を今日も与えたまえ

我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ

我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ

国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり

アーメン

ニカイア信条

我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、

すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。

我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。

主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神)、光からの光、

まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、

天地万物は総べて彼によりて創造されたり。

主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、

苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。

また我らは聖霊を信ず。

主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、

また存在し得ぬものより生れ、

神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、

変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、

公同なる使徒的教会は、呪うべし。

清教徒の教理問答(C・H・スポルジョン編)

マルチン・ルターの小信仰問答書

ウェストミンスター大教理問答書

ウェストミンスター小教理問答書

ハイデンベルク信仰問答

『五つのソラ』

プロテスタント宗教改革と改革神学者たちの神学を要約したラテン語の語句。

ソラ・スクリプトゥラ (Sola scriptura)=「聖書のみ」

②ソラ・フィデ (Sola fide)=「信仰のみ」

③ソラ・グラティア (Sola gratia) =「恵みのみ」

④ソルス・クリストゥス (Solus Christus) =「キリストのみ」

⑤ソリ・デオ・グロリア (Soli Deo gloria) =「神の栄光のみ」

私は、聖書が霊感された神の言葉であること――単なる人間の書物における霊感とは全く異なった意味において霊感されていること――を信ずる。

私は、イエス・キリストが、神の御子であられること、人間の父によらず聖霊によってみごもられ、処女マリヤからお生まれになったことを信ずる。

私は、すべての人が例外なく、生まれながらにして罪人であり、神から離れ、そして全く罪の中に失われていることを信ずる。

神の御子ご自身が、この地上に来られ、十字架上に御血を流されたことによって、全世界の罪の無限の代価を支払って下さった。このように、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れた者は、彼の最初の誕生が確かな事実であると同様の確かさをもって、霊的に新生したのであり、このように霊的に新生した者は新しい特権と、渇望と、愛情を持ち、全く変えられた存在であることを、私は信ずる。

だれも、よい行いによって、あるいは一般的に「道徳生活」として知られているものによっては、自分自身を救うことができないことを、私は信ずる。そのような行いは、内なる信仰の必然的な実であり証拠であるものにすぎないのであって、救いののちに来るものである。

私は、サタンが、人間の堕落、人間の罪、または正当な支配者であられる神に対する人間の反逆の原因であることを信ずる。サタンは、この世のすべての王国の君である。しかし、最後には穴の中に投げ込まれ、害を与えないようにされる。

キリストは、この地上から去って行かれたように、再び栄光のうちにこの地上を支配するために来られる。そして私は日々、彼のご再臨を待ち望んでいるのである。

私は、聖書が神のみことばであることを信ずる。なぜなら、私が霊的な食物として聖書を用いるとき、自分の生活が一変し、また私と同様に聖書を用いている他の人々の生活が一変するのを発見するからである。すなわち、邪悪な傾向は正され、感情はきよめられ、清純な望みが与えられ、聖書を用いていない人々が全く知ることのできない神の義について教えられるのである。まことに聖霊は、パンが肉体の糧であるように、霊の糧である。

おそらく、私が聖書を信ずる最も強力な理由な一つは、それが、他のいかなる書物にもできないような方法で、医師のように私の霊的状態を診断し、それを私に明らかにすることであろう。それは私に、はっきりと、私が生まれつきどのような者であるかを示す。すなわち、私が罪の中に失われた者であり、神にある生活から遠ざかっている者であることを示すのである。私は聖書が、神――生まれながらの人のどのような想像をもはるかに絶した神――のご人格の、首尾一貫した驚くべき啓示であることを見いだす。

聖書はまた、キリストにおいて、神が優しい方であり、私たちに近くおられる方であることを啓示している。それは心のあこがれを満たし、無限なる神、世界の創造者なる神は、私たちと同じ人性をとられたこと、それは彼が無限の愛をもってご自分の民をあがなうためであったことを示すのである。私は聖書を信ずる。なぜなら、それはすべての階級、すべての人種に適応した信仰を啓示しているからである。そして、聖書を知りながらそれを信じないのは、知的自殺なのである。

ハワード・A・ケリ博士

参 考

日本基督公会は、1872(明治5)年3月10日に横浜公会として設立された日本で最初のプロテスタント教会。現在は、日本キリスト公会・横浜海岸教会。

「我輩の公会は宗派に属せず。

ただ主イエス・キリストの名に依て建る所なれば、単に聖書を標準とし、是を信じ、

是を勉むる者は、皆是キリストの僕(しもべ)、

我等の兄弟なれば、各中の各員全世界の信者を同視して一家の親愛を尽くすべし。

是故にこの会を日本基督公会と称す。」

(公会条例第二条例『公会の基礎』)。

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サミュエル・ロビンス・ブラウンは日本基督公会について述べていった。

「神よ願わくは、日本におけるキリスト教の発達に関心を持つ者として、同一なる公会の精神と統一した目的とに結合されて、キリスト教国における教会の美をはばむ分派をば、できるかぎり、この国から排除せられんことを。そして、もし、ただ組合教会とか、長老教会とか、リフォームド教会とかの相違が、異教徒に見えないよう、かくされてしまって、教会のこれらの分派が、少しもあらわれずに……すべてのものが、ひとりの共通の『主』と『かしら』につらなって、一つの教壇に立ちうるようになったならば、わたしたちの後から日本に来るものは、どんなに幸いでありましょう。」

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「自由教会とは何ぞや、

ただキリストのみを首領と認め、国家の抑圧、支配以外に立ちて、

キリストの法律を解釈し、これを施行する権利を運用する教会すなわちこれなり。」

植村正久

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「最も願わしく思われる事は、我らの宗派(聖公会)のどの線にも従わず、

すべての日本人クリスチャンを一つの会衆に結合させる日本人教会があることである。」

「真の宣教の終局の目的は、決して西洋のキリスト教の教派的教会を輸入してこの国に建てることではない。

その国の国民によって成る純然たる教会を、聖書及び霊的基準にしたがって築くことを奨励するのである。」

バークレー・バックストン

Sola scriptura