2 MGFの特色(Features Of MGF)

MGF三時代

①飯綱町福井団地時代(2004/1/18〜2009/5/10)

②長野市若槻長野クリスチャンセンター時代(2009/5/17〜2017/4/9)

③長野市上松新会堂時代(2017/4/16〜)

「今教会では、大抵の場合人間がすべての席を占め、神はとても小さくなっている。」

(ジャン・デゥトウール 1920年~2011年 フランスの作家)


「教会は一度も私に質問したことがない。私は神に密着しているがゆえに教会に密着していた。

教会が完全でないからといって教会に入るのを拒むのは、私にしてみれば人生を拒むのと同類なのである。」

(フランソア・マレ・ジョリ 1930年〜 ベルギーの作家)


「教会はパーフェクトな人々のためのものではない。

教会はパーフェクトでない人々がパーフェクトな創造主を礼拝するところである。」

(シェーン・ミューレイ)


「よく教会という所はこの世の最も清らかな人たちが集まっている所だと錯覚して、教会に来る人もあるが、

教会は決して美しい人の集まりではない。

教会は神の前にも、人の前にも頭を上げ得ない罪人だと、自分を思った人たちが集まっている所のはずなのだ。

だから、人に何かを求めるのではなく、神に求めていかなければ、人々は絶望するかもしれない。」

(三浦綾子 1922〜1999年 日本の作家)


「私は聖書を創世記からヨハネの黙示録まで数回通読した。そのたびに教会が頂点にあることが分かった。

教会は神が最初から計画しておられたことの実現なのだ。

キリストの体は、人種、国籍、性別という隔ての壁を打ち壊し、それらの新しい架け橋となる。

この世界のどこにも存在しないコミュニティーを、キリストの教会はつくることができるのである。」

「現在、世の中でもっとも恵みにあふれている場所といえば礼拝と祈りの場所である教会でしょうか?

教会は新しく来た人を心より喜んで受け入れ、豊かな人より経済的に困っている人に暖かく、

誰もが自分の立場より、相手の立場を優先して意見を言う、そのようなところであるべきでしょう。

しかし、その教会が、いつものメンバーで固まり、豊かな人の声をよく聞き、それぞれが自分の意見を主張する、

『恵みにあらざるもの』にあふれ、律法主義的になっていたとしたら、

どこかで道を間違ってしまったのかもしれません。」

(フィリップ・ヤンシー 1949年〜 米国のジャーナリスト、ベストセラー作家)


「教会とは恵みに渇いている人々の集まりである。」(フィリップ・ヤンシー)


フーリドリヒ・ニーチェは教会を「弱くて下劣で、悪く構成されたものすべての味方となった」と非難したが、

ある意味は彼は正しかった。


「教会は偽善者に満ちている」という理由で、イエスを拒絶する人をあなたは知っていますか。そのような人が居ても不思議ではないでしょう。しかし教会でいやなことがあったり、指導者がイエスの弟子として模範的でないと感じたりした時、なぜ人々が教会から離れてしまうかが容易に理解出来ます。しかしそれはイエスを拒む正当な理由でしょうか。

音楽の世界には、モーツァルト、バッハ、ベートーベンのようにクラシック音楽の巨匠と呼ばれる人々が居ます。世界的なオーケストラの卓越した演奏を聴くと、心が魅了されます。しかし例えばバッハの曲を小学5年生のオーケストラが演奏したとします。それは完璧からほど遠いでしょう、しかし誰もバッハの天性の才能を疑わないでしょう。それは当然のことです。しかし教会が完全からほど遠いと、多くの人がイエスに従う意味に疑問をはさみます。

教会を理由にイエスを拒む人にとって、忘れてならない事が二つあります。第一に、教会がどの程度イエスを具現化しているか否かに関わらず、イエスは常に完全なお方であるということ。第二に、イエスの臨在が教会や教会員の間で充分でないと感じられたとしても、それはイエスの意志ではないということです。教会は今なおイエスの働きが進行中の場所なのです。イエスはついに、「しみや、しわや、その類いのものが何一つない」「聖なる、汚れのない」教会にしてくださいます。十代の少年のように、教会は荒削りで、洗練されていないように見えるかもしれません。しかしどんな息を飲むように美しい花嫁でも、かつてはぎこちない少女でした。ある日教会は、キリスト・イエスの花嫁として整えられるでしょう(黙示19:7)。そして聖書が教えるように(黙示22:5)、教会はイエスと共に世々限りなく統治するのです!(「ザ・ホープ」より)


「信仰生活は具体的には教会生活である。聖書によると教会を離れた信仰生活はない。『母なる教会』とか『教会に外に救いなし』という、古くから言われてきた表現も、教会と言う言葉を聖書的に理解するならば、その本質をよく言い表していると言える。」(日本基督教団出版局『信徒必携』より)

「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒2:42)。

MGFは初代教会にならい、①「聖書の学び」、②「交わり」、③「聖餐式」、④「祈り」を教会活動の四本柱としています。

これらの4つを基本的土台に据えることで、教会は健全に成長すると信じます。

MGFは聖霊によって満たされ、聖霊によって導かれ、聖霊によって力を与えられた時流に流されない教会を目指します

(使徒1:8;4:31;9:31;13:2−5、52;15:28;16:6−7)。


「われわれの教会は、神の御言葉のうちにのみ立つ。そして神の御言葉において、われわれは裁かれた者である。

悔い改めのうちに立つ教会は、神を神とする教会であり、それは使徒たちとルターの教会である。」(ディートリッヒ・ボンヘッファー)


「教会とは聖なる会衆であって、福音が純粋に宣べ伝えられ、聖礼典が正しく執行されるところである」というものです。」(アウグスブルク信仰告白)


「私は神が存在するということを否定しない。しかし、一度目を開いて社会を見ると、果たしてどこに神が存在するのかと疑いたくなる。

しかし、ここに一つだけ神の姿が写るところがある。それは教会である。キリストの教会の中には確かに神が存在するということが分かる。」

(ジョン・ヘンリー・ニューマン)


「あなたの家に一番近い教会を探してはならない。聖書に一番近い教会を見つけなさい。」(ポール・ウォッシャー)

プロテスタントは、すべての異教主義から解放された原始キリスト教を回復しようとするものである。」(ヘンリー・H・ハーレイ)


「現代のキリスト教信仰と、これらの手紙(新約聖書の書簡)に描かれている信仰の大きな相違は、

私たちが主として行なおうとしていることを、

彼らは現実に経験しているという相違である。私たちはキリスト信仰を、単なるおきてか、

せいぜい心と生活の規則にしてしまいがちである。

だがこの人たちにとって、それは明らかに、まったく新しい性質をもったいのちの侵入であった。

このことを彼らは、『キリストが自分たちの中に生きておられる』と堂々と言い表した。」

(J・B・フィリップス 『若い教会への手紙』より)


D・M・ロイドジョンズの祈り

「ああ、主よ、私たちの神よ。私たちをあわれんでください。私たちはへりくだって御前に祈ります。

私たちは初代教会のここに描かれた人々の状況から、何とかけ離れていることでしょう。

ああ!神よ、あわれんでください。私たちはへりくだって御前に求めます。

御霊の御力のうちに来て、私たちを目覚めさせてください。

私たちをイエスの血潮へと導いてください。私たちを謙遜にし、打ち砕いて、ひとりよがりと自己満足を取り除き、

私たちを彼らの神を知る民としてください。

『彼らの神』と呼ばれることを、あなたが恥じることのない民としてください。

ああ!主よ、あなたのみわざを再び興こして(リバイブ)してください。あなたの力ある御腕を知らしめてください。

私たちの住むこの邪悪で歪んだ世界の真っただ中で、新しいみわざをなしてください。

そして後、そして後のみ、私たちが栄光のうちにいますその栄誉をとこしえまでも、ほめたたえることができますように。アーメン」

「クリスチャン生活は、生活の改善から始まるのではなく、『変えられる』ことから始まります。

私たちが、心を入れ替えて生活を一新しようと自分から努力することによってではなく、

神ご自身が、私たちに全く新しいいのちを与えてくださること、

すなわち、神のいのちそのものが、私たちのものとなることによって始まるのです。」(The Navigators)


「教会が衰退するのは、神を瞑想することをおろそかにしたからである。」(アンドリュー・マーレー)


「安楽なキリスト教というものは存在しない。われわれは常に教会で自己を見直し、イエス・キリストに従って進まねばならない。」

(A・M・ゲリー 1802-1866 フランスの統計学者)


「キリストは教会のうちに現存する。十字架にかけられたイエスは、復活の主として教会のうちに現存する。

キリストは教会なしではありえず、教会はキリストなしではありえない。、、、、

キリストは教会の全活動のうちに現存する。しかし特に優れた形で、キリストは礼拝集会に現存する者として働く。

われわれは、彼の福音によってこの礼拝集会に呼び招かれるのであり、洗礼によってこれに受け入れられ、

そこにおいて聖餐式を祝い、そこから世界に対する奉仕のために派遣されるのである。」(ハンス・キュンク)


「教会は集まることをもって終わるのではなく、集められるのは散らされるためであり、信徒は、週日のこの世の生活を、

キリストの民として生き抜く力を受けるために主の日の礼拝に集うのであり、いわば派遣されるために共に集うのである。

礼拝の終わりに来る祝祷は、礼拝の終わりの祈りではなく、

礼拝者をこの世の週日の生活に向かって送り出すための派遣の祈りなのであり、

それはマタイの福音書28章の復活の主の大いなる伝道の命令の今日的表現である。

ここで弟子は使者となり、キリストの福音をたずさえて、それを地の果てにまでもたらす使命に向かって出で立つのである。」

(森野善右衛門)


「教会の使命は、二重の使命として理解される。礼拝は、教会が神へと向かう働きを示しており、

伝道は、教会が世界と人々に向かう働きを示している。」(近藤勝彦)


「教会とは、永遠に続くものであり私達も永遠であり、それは宇宙の全てよりも長続きするものだ。」(C・S・ルイス)


「教会が教会たり得るのは、教会が聖書の前にへりくだるときである。」(藤本満)


「教会とは、ある特定の場所に、主にある兄弟姉妹が集まり、互いに仕え合うことによって、

キリストの教えが実現される共同体である。」(デイビッド・プラット)


「実は、教会を成長させることはとても簡単なことです。人々の興味を神のことばに向けさえすればよいのです。

そして、人々の関心を祈りに向けるのです。彼らが互いにつき合うように促し、聖餐式に参加するように促すのです。

そうすれば、主が日々救われる人々を群れに加えてくださるでしょう。」(チャック・スミス)

〔教会の使命〕 from 『組織神学』by ヘンリー・シーセン

1.神の栄光を現すこと。

2.教会自体の徳を高めること。

3.教会自体をきよめること。

4.会員を教育すること。

5.この世に伝道すること。

6.この世において制御力、啓蒙力の役を果たすこと。

7.すべての善を促進すること。

牧師で文筆家のグレッグ・ローリーは、礼拝し、伝道し、学習し、愛を実践する教会が、健全な教会だと言います。私たちは、初代教会のように、このことに熱心であるべきです。

・礼拝:私たちに集まって交わり、聖餐にあずかり、祈り、賛美すべきです(使徒2:42、47)。神の教会では、すべてのことが神中心に行なわれなくてはなりません。

・伝道:みことばを伝えるならば、神は新たに信じる人を教会に加えてくださいます(使徒2:47)。私たちみんなが、神のみことばを広める活動に参加できます。友情を育んだり、福音について書いたものをあげたり、聖句そのものを分かち合うことなどがそれです。

・学び:私たちは、きちんとした指導者の教える健全な教義を学び続けなければなりません(使徒2:42)。聖書は人生に対する教訓で満ちています。ですから、あらゆる機会をとらえて聖書を学び、自分の生活に適用し、他の人にも教えてあげるべきです。

・愛 :私たちは、自分の持っているものを困っている人と分かち合い、クリスチャン同士の交わりを定期的に持つべきです(使徒2:45ー46)。

教会員が礼拝し、伝道し、学習し、愛を実践する教会は、健全な教会です。「すべての民」に好意を持たれ(使徒2:47)、地域に影響力を持つ教会です。

絶望した世界に必要なのは、慈しみ深い親切な教会だ。(デイリーブレッドより)

グレッグ・ローリーは米国の代表的大衆伝道者であり、カルバリー・チャペル系ハーベスト・クリスチャン・フェローシップの主任牧師

MGFの特色

MGFでは、聖書66巻を書物ごと、章ごと、節ごとに学ぶ講解説教と、プレイズ&ワーシップの賛美スタイルを基調とした、シンプルでアット・ホームな集会を毎週行なっています(礼拝プログラムの中に献金袋が回ってくる献金の時間、主の祈りや使徒信条の朗唱といった紋切り型の項目がないので、戸惑うかもしれません)。主イエス・キリストをこよなく愛し、みことばに飢え渇くジーザス・フリーク、バイブル・マニアの老若男女が集まっています。平日の公開バイブル・スタディーは、MGFのメンバー以外でも聖書を学びたい方なら信者、未信者問わず歓迎します。

MGFでは、いわゆる礼拝厳守、奉仕当番、献金等を強いるような律法主義的な教会員制度はありませんので出入り自由です。ただし、MGFは聖書に基づいたメンバーシップの存在意義は認めています。MGFのメンバーシップ(詳しくは下記の”マラナサ・グレイス・フェローシップのメンバーシップについて”を参照)は、単なる名簿上の会員ではなく、キリストのからだの生きた各器官を意味します(コリント12:14,18−20,22−24,27)。各器官(英語で器官のことをメンバーと言う)には、主からの召命と御霊の賜物(役割・機能)が与えられていますので、強いられることなく、プレッシャーを感じることなく、喜びと平安をもってなすべき働きを自発的に行うようになると信じます。

MGFでは、聖書における牧会者(羊飼い)は、神と教会とに仕える者なので、「牧仕(ぼくし)」という呼称(造語)を用い(Ⅱコリント4:5)、牧仕を「先生」と呼ばず、教会員もみな互いを名前で呼び合います。MGFのかしらは、牧仕ではなく、大牧者である主イエス・キリストです(コロサイ1:182:10Ⅰペテロ5:4)。したがって、MGFではキリストが受け入れてくださる人、大牧者が連れてきてくださる羊なら誰でも受け入れます。

MGFでは、礼拝プログラムの中に、いわゆる献金袋が回ってくる”献金の時間”を設けていません。その代わり、会堂内出入り口付近にアガペー・ボックス(木製献金箱)が設置してありますので、主に対して自由にささげてください(マラキ3:7~12Ⅱコリント9:7,8マルコ12:41~44ルカ11:42)。MGFでは献金は単なる教会運営維持費としてではなく、賛美や奉仕同様、礼拝行為として重視しています。 MGFはカルバリー・チャペルの以下の声明に賛同します。「カルバリー・チャペルは、決して献金を要請したりしません。教会員に『信仰の献金』や年ごとの約束献金を求めたりしません。ラジオやテレビなどのために寄付を呼びかけたことも、一度もありません。お金を乞うことは、神に対する不信仰の表れであるというのが、私たちの不文律の一つとなっています。」(チャック・スミス著『収穫の時代』より)

MGFでは、おそらく日本一長い聖書講解・注解説教を礼拝、及びバイブル・スタディーで聴くことが出来ます。みことば三昧を堪能したい人には満腹保証します。ただし、典型的な日本の教会の平均説教時間20~30分に慣れてしまった人は、その3~5倍の長さの説教を楽しむメンバーの姿にカルチャーショックを受けるでしょう。

MGFが模範(モデル)とする教会は、聖書においては使徒の働きのエルサレムの初代教会、黙示録3章の小アジアのフィラデルフィアの教会で、現代においてはアメリカのカルバリー・チャペルです。MGFも以下のようなカルバリー・チャペルと同様のスタンスをとっています。「カルバリー・チャペルでは安易なクリスチャン生活をするための説教をするつもりは、一切ありません。しかし、極端に厳しい教えを説くつもりもありません。映画に行くことも、ダンスに行くことも、たばこを吸うことも禁止して、若者たちをすべて教会から追い出してしまう教会すらあります。私たちカルバリー・チャペルで、このような間違いを犯すことがありませんように。それよりも、神に信頼して、一人ひとりの内におられる聖霊の働きを重視するようにしましょう。御霊に導かれて変わる方がより感動的で真実で、自然なことです。きれいに髭をそり、髪も短く、きちんとした服装といった西洋的クリスチャン社会の慣例をお金持ちになりたいという欲、人生おもしろおかしく過ごせればよいといった生き方に、真の充足や究極的な意味を見いだせないことだけを私たちは宣言します。なぜなら、それらすべての最終地点にあるものは、空しさと失望だからです。」(チャック・スミス著『収穫の時代』より)

MGFの聖餐式は、毎月第一日曜日の礼拝と毎週水曜日午後と金曜日夜のバイブル・スタディーのあとに行なっています。イエス・キリストを信じるクリスチャンならどなたでも参加できます。MGFのメンバーでない人も、信仰告白はしたけれどもまだ受洗していないクリスチャンでもあずかることができます。

MGFでは、ホームスクールに理解を示し、支援・協力します。

「子育てはうまくいかなかった。もう一度子育てするなら、ホームスクーリングをします。」(ビリー・グラハム)

“マラナサ・グレイス・フェローシップ(MGF)のメンバーシップについて”

【MGFには制度的メンバーシップはない】

MGFには、いわゆる礼拝厳守、奉仕当番、献金等を強いるような律法主義的な教会員制度はない。したがって誰でも出入り自由で、礼拝をはじめ、クリスチャンなら誰でも聖礼典(洗礼式・聖餐式)にあずかることができる。また責任を負わせたり、縛り付けることがないため教会員になるよう勧誘されることもない。そのような制度はしばしば組織運営維持や教勢伸展誇示を目的としたもので、極めて形式的で世俗的なものであることが多い。

【MGFにあるのは聖書的・霊的メンバーシップ】

これに対し、MGFは聖書に基づいた霊的メンバーシップの存在意義を認め、これを尊重する。聖書において教会は「キリストのからだ」(エペソ1:23;コロサイ1:18)と呼ばれ、そこに属する者は「キリストのからだの器官」(ローマ12章;1コリント12章参照)と呼ばれている。この「器官」のことを英語で“メンバー”と言う。したがって聖書的メンバーは、名簿上の名ばかりの教会員のことではなく、教会に定期的に集まることで霊的養いを受け、教会内で器官としての機能を発揮することで互いに愛し合い、仕え合い、メンバーと共に健全に霊的成長することを目指す構成員のことである(エペソ4:9~16参照)。

また、「教会」はギリシャ語で「エクレシア」と言い、「呼び出された者の群れ、召し出された者の集まり」という意味である。クリスチャンは必ずどこかの教会につながるように召されている(ヘブル10:25)。MGFの教会員は、みな「教会のかしら」(エペソ5:23;コロサイ1:18)である主イエス・キリストからMGFへ召集されたことを自覚する者たちの集団である。主から「この教会(MGF)に所属しなさい」という召命を受けた者がMGFのメンバーである。無論、メンバーはキリストのからだの器官である以上、クリスチャンでなければならない。メンバーの絶対資格要件はそれだけで、あとは「召命の確信があるか、ないか」が問われるのみである。

【MGFメンバーに加わりたい人へ】

もしこの召命に関して不確かなら、以下の言明に対する同意が確証になる。「できる、できない」は別として、「そうしたいか、そうしたくないか」という尺度で 確認していただきたい。「是非そうしたい、そうなりたい」と強く願う人は、間違いなくMGFのメンバーとして主から召されている人と言えよう。

●その人は、MGFのかしらである主イエス・キリストとそのからだであるメンバーを心から愛し仕える人。

●その人は、MGFにおける礼拝およびバイブル・スタディー等の教会活動に定期的に参加する人(※後述の【MGFメンバーシップ特記事項】も参照のこと)。

●その人は、MGFの教会運営に自発的かつ献身的に関与し、MGFのファミリーメンバーとして責任をもって協力を惜しまない人。

●その人は、菊地一徳(カズ)をMGFの牧仕として承認し、以下の教会政治形態に賛同する人。

教会のかしら・大牧者イエス・キリスト

牧 仕(監督)

役 員(長老・執事)/副牧仕

会 衆

※)原型)イスラエル神権政治(出エジプト記18:13~22) / 実際モデル)初代教会政治(使徒6:1~6)

● その人は、以下のMGF信仰基準(ミッション・ステートメント)に賛同する人。

「マラナサ・グレイス・フェローシップ」(略称:MGF)は、イエス・キリストを主と信じる者の共同体であり、その名称の示す通り、主の来臨(携挙)を共に待ち望み(マラナサ)、主の恵み(グレイス)を共に分かち合う(フェローシップ)、神の家族です。私たちは、教派・教団に所属しない無教派の単立キリスト教会ですが、キリストのからだに属するすべての人と交わりを持ちます。

私たちは、クリスチャンの交わりにおいて真の土台となるのは、キリストの「アガペーの愛」だけであり、これは、私たちが有するどのような相違も超えて卓越したものであり、これなくして自らをクリスチャンと主張する権利はないと信じています(Ⅰコリント13)。事実、主イエスは、私たちの互いの間の愛によって私たちがキリストの弟子であることをすべての人が認める、と教えられました(ヨハネ13:35)。

私たちは、成熟した教会のしるしは、「信仰」と「希望」と「愛」であると信じています(コロサイ1:3~7)。

それゆえ、私たちは、神の御言葉の教えに重点を置きます。なぜなら、御言葉によって「信仰」は成長するからです(ローマ10:17)。

また、私たちは、イエス・キリストの来臨を待ち望みつつ生活します。なぜなら、キリストは祝福された「望み」(希望)と呼ばれるからです(テトス2:13)。

最後に、私たちは、私たちの生活における聖霊の満たしを願います。なぜなら、御霊の実は「愛」だからです(ガラテヤ5:22、23)。

●以上、すべての項目に同意にした者は次の【MGFメンバーシップ特記事項】を確認していただきたい。

※ 尚、たとえ上記に賛同しない者でもMGFの出入りは自由である。また各種集会の参加も歓迎する。

【MGFメンバーシップ特記事項】

◆MGFはメンバーシップ規約を特別設けていない。奉仕や献金等の強制もなければ罰則規定もないし、拘束力も持たないので脱退も自由である。ただし、その場合、どこか別の教会に所属することを奨励する。その上で主からの召命がなかったとみなされ、MGFメンバーシップから外れ、メンバー名簿からも削除される。加えて特別な理由もなく無断で長期的に公同礼拝から遠ざかっている場合、メンバーシップ更新時に名簿より随時削除する。ただし名簿削除は「除名」(教会出入り禁止)を意味しないので、復帰は常時歓迎される。

◆メンバーシップ規約こそないものの、教会運営、およびメンバーシップに関する事柄でトラブルが発生した場合、基本的には聖書に記されているところに従い、みことばの権威と秩序をもって牧仕が責任をもって厳正に対処するので安心していただきたい。

◆他教会から正式な転会を希望する人には所定の手続きに応じるが、MGFの方から転会手続きを要求することはない。またMGFから他教会に転会を希望する人はMGFにはそれに対応するメンバーシップ制度がないので、必要があれば相談に応じる。

◆MGFメンバーは連絡事項伝達の必要性から個人情報保護に留意した上で非公開名簿(連絡網)に氏名及び連絡先の掲載を許諾する。尚、メンバー名簿はメンバーに配布されるものではなく、牧仕と連絡網係が責任をもって管理し、必要に応じて活用するものである。

◆教会によっては、教会員を活動会員(アクティブ・メンバー)と非活動会員(インアクティブ・メンバー)に分けているところもあるが、MGFは活動会員(アクティブ・メンバー)のみを認める。メンバーは器官であるから、もしアクティブでなければ、死んでいるのである。器官はからだにつながっている限りは、誰でもアクティブであるはずだ。したがって非活動会員(インアクティブ・メンバー)なるものは、ナンセンスだと考え、名簿上の名ばかりのクリスチャンは、キリストのからだの器官(メンバー)とは言えない。からだの不自由な人や病気の人でMGFに集いたくても集えない人々もある。それでも彼らは立派な活動会員(アクティブ・メンバー)になり得る。彼らは物理的に活動できないからこそ、いわゆる健常者以上に霊的にアクティブに働くことができる。特に祈りの分野では彼らの右に出る者はいない。

◆「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」(1コリント12:22~27)

◆以上、【MGFメンバーに加わりたい人へ】と【MGFメンバー特記事項】の項目すべてに同意した上でMGFファミリーの一員になりたいと願う人は、牧仕に直接申し入れをし、確認がとれた時点でMGFメンバーとなる。尚、不定期に行なわれるメンバーシップ更新時には既成メンバーも随時更新の意思確認を求められる。

【MGFのメンバーズ特典】

最後に、MGFに出入りする者は差別なく受け入れられるが、メンバーとメンバーでない者の差異は以下のメンバーズ特典によって明瞭となる。

① MGFが地上に存続する限り、牧仕から生涯にわたる霊的サポートを受けられると共に、MGFのメンバーがあなたの家族となる

② MGFにおける重要事項(教会運営に関わること等)や緊急事項を随時連絡網で伝達してもらえる

③ MGFメンバーの「とりなしの祈りのリスト」に名前が登録され、定期的に祈ってもらえる

④ MGFメンバー限定の集い(「イヤリングハート」「キリスト男塾」等)に全参加できる

⑤ MGFにおいて主に示されたメンバーは特定の奉仕(負担の大きい責任の伴う奉仕については牧仕の確認が必要)や教会内の必要を具体的に知ることができるので特定の献金・募金・寄付等をささげることができる

⑥ MGFにおいて奉仕者や指導者に召された者は牧仕夫妻によって直接指導・訓練を受けられる

⑦ メンバーは以下のような牧会ケアを“優先的”に受けられる

●〈各種カウンセリング支援〉(守秘義務のもと男女別、夫婦単位で牧仕夫妻が対応)

*一般カウンセリング:信仰上の問題をはじめ、家庭・経済・健康問題、悪習慣・人間関係の悩み全般に応じる

*プリマリタル・カウンセリング:結婚式前に結婚、家庭生活について聖書から学ぶ

*マリッジ・カウンセリング:結婚後の問題、離婚の危機に対処する

*子育て支援:子育てに行き詰まっている親をサポート。子どものカウンセリングも行なう

●家庭訪問、家庭集会、病床慰問、刑務所慰問、個人ミニストリー協力等の要請に応じる

※ 以上、基本的には予約制だがメンバーの場合は緊急事態には可能な限り24時間対応する

⑧ メンバーは以下のようなキリスト教諸式の執行が“優先的”に受けられる

*教会結婚式:MGF内の牧仕司式による結婚式はクリスチャン同士のみ許可する(ただしすでに不信者と結婚している者や、ほかで不信者と結婚した者を認めないという意味ではない。)

*教会葬式:原則クリスチャンのみだが、事情によってはメンバーの家族の葬儀は受け付ける

*献児式(児童祝福式):赤ちゃんから児童まで公の場で牧仕に祝福を祈ってもらえる

*Renewing Wedding Vows(結婚誓約更新式):結婚前ノンクリスチャンだったカップルの誓約更新及び、結婚記念日の節目(10年、25年、50年等)に更新式を行なうことができる

*起工式:一般に地鎮祭や上棟式にあたるものをキリスト教式で行なう

★【「私は教会に属さなくていい」】

このような考えは現代の若者だけではなく、多くの中高年も、長年の幻滅させるような教会生活の中で同じような思いを持っています。しかし何十年も前、ユダヤ人やクリスチャンにより言われて来たこととはとても異なっています。その当時はコングリゲーションの一部となることは当事者自身の必要性の感じ方に基づくものではなく、むしろ神さまの要求に基づいたものだったのです。神とは畏敬の念を払うべき偉大なる王であると理解されていたのです。もちろん主は愛の神ですが、御心を軽視することは大変危険なことであるとされて来ました。そういうことなので、神さまの祝福と守りの中で歩んでいこうと思う人は、主の御心が何であるかを知り、その御心に自分たちの生活を合わせていった方が良いという考え方が一般的でした。問題は「私は何が必要なのか」ではなく、「主は私に何を求めておられるのか」ということなのです。

イェシュアの信者だと主張するものが、彼ら自身の人生の牧者で監督者としての適任者である長老に服従すべき場である教会(コングリゲーション)に委ねることを神が要求されていると見なさずに新約聖書を読み過ごすことは出来ません(第1ペテロ5:1-5)。長老たちに従い(ヘブル13:7,17)、指導を受け(第1テモテ3、テトス1)、彼らに監督・洞察を受けることが期待される集会において、聖霊の賜物を用いる(第1コリント12、14)といった教会メンバーの長老に対する責任について書かれている全ての箇所を挙げることが出来ます。

加えて、人は神からの啓示なくして、彼らの真実の必要性について判断すべきではありません。それは自動車のようなものです。乗っていて快調に走っている分には、定期点検のため車屋さんに持って行くことも必要ないように思えて来ます。規格として定め推奨されている点検をパスして、全てが上手く走っているように思えても、ある日エンジンが焼付き、修理工場へレッカー移動された後に「エンジン交換が必要です」と言われるのです。

それでも、神さまの見方では、そして主の「必要」の定義においては、私たちは確実に教会生活と長老による監督が必要となります。こちらがその理由です:

1. 神さまは、私たちが説明責任を果たしている長老制度に従っていき、それにより私たちが教えられ、メシアの似姿にまで成長することを期待されています。私は今までに、教会生活なしに信仰を語り、それを深く追求しているような人を知りません。許す事、従う事、仕える事といった教会生活におけるアップダウンにより私たちは成長します。イェシュアに従うという聖書的な命令を満たすには、教会生活が必要なのです。人格的な成長のため、私たちは教会生活が必要です。

2. 聖霊の賜物を用いて成長していくには、教会が必要です。

3.メシアの身体として神さまの御前で定期的な礼拝を行なうため教会が必要です。この事は神殿なる御身体の一部として私たちの責務であり、主の大祭司としての執成しの責任の一部なのです。

4. 私たちが獲得していないものを、すでに獲得している人たちから教えられ、指導を得られるよう、教会が必要です。この事には、結婚や家族の生活から個人デボーションにいたるまで全てを含みます。加えて聖書は、使徒、預言者、伝道者、牧者、教師の5つの賜物を持った人たちが与えられていると述べています (エペソ4:11以降)。しかしもし私たちが教会生活の中におらず、私たちを装備させるための彼らの賜物に従っていないなら、彼らは私たちを備えることができません。

5. 神さまの命令を成就し、神さまに畏敬の念を持って歩み、主の祝福が確実化されるため、教会が必要です。既知の不従順に留まっているなら、私たちの人生において神さまからの祝福を期待する事は出来ないのです。

(ダン・ジャスター)

「教会とは、その会員の資格として、自己の無価値を認めることを要求する世界で唯一の団体である」(ロバート・B・マンガー)


推薦図書)『カルバリー・チャペルの特徴』(チャック・スミス著)のPDF

「教会にはたくさんの悲しい人が集まる。それはあまりにも多い。

というのは教会が一つの祝宴の場だからであるが、

それは王の宮殿ではなく、愛の茅屋(ぼうおく)である」

(ディディエ・ドゥコワン 1945年~ フランスの作家)


「広告、商談、宣伝-これらはビジネスには欠くことのできないものです。

しかし、イエス・キリストの教会は、次のような人々の祝福と力によってのみ導かれることができます。

すなわち、十字架においてへりくだらされ砕かれた人々、

自分自身の無能と失敗の多くの経験を通して神に全面的により頼むことを学んだ人々、

そして、聖霊により恵みの御座において彼をとらえることを教えられた人々、の祝福によってのみ導かれうるのです。」

(アラン・レッドパス) 


「腐っても鯛の骨である。教会は腐っても、聖霊はいまだ全くその内より去りたまわない。

そして私はその内にとどまりたもう聖霊のゆえに教会を尊敬せざるを得ないのである。」(内村鑑三)

「教会は世界の縮図である。世界全体を代表する勢力、関係、混乱、害悪などがある。

キリスト教会の内部ほど、どこにでもあるような悪を責めるに効果的な世界はない。」

(チャールズ・E・ジェファソン)


「そもそも完璧な配偶者や完璧な両親,完璧な子どもなんているのだろうか。欠点があると言って家族を捨てたりしない。

それなのになぜ,教会に見切りをつけるのだろうか。」(フィリップ・ヤンシー)


「完璧さを求めて教会の門をくぐる人は、神の負われたリスクの本質や人間の本質を理解していない。

ロマンチックな人が注意しなければならないのは、結婚は始まりであって終わりではないということだ。

愛を持続させるためには苦闘が伴うことを学ばなければならない。

それと同じように、クリスチャンはだれでも、教会もまた始まりにすぎないということを学ばなければならない。」

(フィリップ・ヤンシー)


「あなたは誰かに指導してもらう必要がある。独りでトレーニングなんてできやしない。

このことはキリスト教にも教会についても当てはまると思う。教会はまさに魂のジムだ。」

(シルベスター・スタローン)


「一個人として、また教会として、私たちが最も恐れなければならないことは、”失敗すること”ではなく、”無意味なことに成功すること”なのです。」

(ティム・キジア)

礼拝のようで礼拝にあらざるもの・・・


日曜日だけクリスチャンになる事。

日曜日だけが礼拝日だと考える事。

特に用事がない時の余暇としての礼拝。

クリスチャンは何処でも、いつ何時でも礼拝できるので、教会にわざわざ足を運ばなくてもよいと言い訳する事。

親睦目的、ご利益目的等、神をほめたたえる事以外の他目的礼拝。

礼拝に遅刻しそうになって慌てて苛立つ事。

教会に着ていく服装のことで口論する事。

礼拝に向かう車中で喧嘩し、教会に到着すると何もなかったかのように敬虔なフリをする事。

礼拝に堂々と遅刻して人目をはばからない事。

教会の椅子を他人の礼拝を観覧する為の客席とする事。

礼拝厳守しない人を蔑視し、さばく事。

賛美を説教前の前座、ウォーミングアップ程度だと考える事。

何も考えずに国歌や校歌のように賛美を習慣的に口ずさむ事。

カラオケのように賛美を歌い自分の歌声に酔いしれる事。

自分に引きつけるような賛美のリード、発表会のような賛美演奏。

人に聞かせる、作文のように読み上げる祈り。

あたかも神が何も知らないかのように情報を並べ立てる祈り。

念仏を唱えるような主の祈り。

長い祈り、美辞麗句のオンパレードが立派な祈りだと考える事。

退屈な決り文句を繰り返す、実のない無味乾燥な祈り。

人の祈りの最中、別のことを考える事。

祈りの課題を他人事として聞き流す事。

礼拝中、時計をチラチラ見る事。

礼拝前に遊び疲れて説教中に居眠りする事。

説教を興味のない講義のように散漫な心で耐え忍ぶ事。

先週の説教内容を忘れる事。

説教を聖書によって吟味せず鵜呑みにする事。

説教をいわゆるお説教として個人攻撃の場とする事。

説教を寄席の興業、独演会のような小劇場だと考える事。

説教を仕込みや下ごしらえを要する手の込んだ料理ではなく、レトルトやインスタント食品のように提供する事。

説教後に説教のポイントを確認するような説教じみた祈りをする事。

神が貧乏であるかのように献金のアピールをする事。

献金を搾り取るような礼拝集金プログラム。

神ではなく、人目を気にしながら献金する事。

会費のように支払う献金。

税金のように嫌々渋々支払う献金。

プレッシャーの伴う献金、プライドの伴う献金。

献金に見返りを求めるご利益主義。

献金で牧師を食わしてやっているという思い上がり。

献金を地域清掃に参加しない出不足金のように考える事。

当番だから、他にやる人がいないから否応なしに機械的にする奉仕。

奉仕に気を取られ、奉仕にかまけて礼拝どころではなくなる事。

主の晩餐よりも今夜の晩餐の方が気になる事。

キリストの裂かれた体と血を象徴するパンとぶどう液をスーパーの試食の如く軽率に口にする事。

同じ礼典でも聖餐式を自分の洗礼式の時のように新鮮な気持ちで受けていない事。

究めつけは、礼拝後が礼拝前よりもキリストの似姿に変えられていない事。

これら全ては礼拝にあらざるもの。私たちは礼拝中に自分が礼拝していない瞬間を断続的に持つ。これら一つ一つを改めていけば、私たちの礼拝はより一層、神に喜ばれるものとなる。礼拝は自分や人を喜ばせるものではなく、神を喜ばせ、主の栄光を現わすもの。天のまことの教会における礼拝者は全てキリストに似た者とされている。そこで私たちは完全な礼拝をほふられた小羊に永続的に捧げるのだ。MGFは地上で礼拝を捧げながら携挙を待ち望みつつ、天の礼拝を目指す。

<2004年8月8日 MGF週報より 筆:菊地一徳>

『安息日の守り方八則』(サムエル・ジョンソン)

一、土曜日は早く寝て日曜日に備える。

二、日曜日の早朝に起きて熱心に祈る。

三、自分の過去の生涯、ことに前の週のことを省み信仰が進歩したのか後退したのか良く考える。

四、持っている聖書の参考書を用いて規律立って聖書を読む。

五、二回会堂に出席すること。

六、理論的又実践的に宗教書を読むこと。

七、自分の家族を愛して訓戒すること。

八、黙想によって前の一週間に受けた、この世の汚れを払い除くこと。


「世は教会の中にはいって来ており、教会は世的になってしまっている。境界線は以前ほどはっきりとはしていない。この区別がはっきりとしていた時代があった。その時代は、いつの場合も、教会の歴史における偉大な時期の一つとなっている。しかし私たちは、絶えずもち出されるあの議論を知っている。私たちは、教会を外部の人にも魅力的にするべきであり、できるだけ外部の人と似たようにすべきであるという考え方に接してきた。第一次世界大戦のときのことであるが、評判のよい軍隊付き牧師たちは、自分の兵隊と親しく付き合っていた。ともにたばこをすったり、ともにいろいろなことをしたりしていた。それは兵隊たちを励ますためであった。彼らはその結果として、戦争が終われば、退役した兵隊たちが群れをなして教会に来るであろうと考えていた。ところがそうはならなかった。かつて一度もそうなったことはない。教会は絶対的に世と相違しているときに、世をひき付ける。ここに福音のすばらしさがある。初めのうち、世は教会を憎むかもしれない。しかし、世が教会のメッセージに耳を傾けさせられるのは、そのときなのである。これが信仰復興の起こる道である。このことは、個人としての私たちにも事実でなければならない。自分はたまたまキリスト者ではあるが、できるだけ非キリスト者と同じようでありたいということが、私たちの希望であってはならない。むしろ、少しでも、また、できるだけ、キリスト者でない人々と違っていたいと切望すべきである。私たちがせつに願うことは、キリストに似ることでなければならない。キリストに似れば似るほど、望ましいことである。」(D・M・ロイドジョンズ)


「私たちの直面している急務は、この世をキリスト教化することではなく、教会をキリスト教化することである。」(チャールズ・E・ジェファソン)


「教会はその統一性をカリス(恵み)に負っているが、その多様性をカリスマ(賜物)に負っているのである。」(ジョン・ストット)


「だが、どんなに入りづらくても、信仰を導いてもらうためには、教会は必要なところなのだ。人と人が交わり、そして、聖書の言葉を聞き、力を与えられその与えられた力で生きるべく、各々の生活の場に向かっていくところでもある。教会はキリストの体と言われる。(「光あるうちに」三浦綾子著より)


教会は地上最強の機関

教会のかしらは、いかなる『人』でもなく、キリストご自身である。

「神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。」(エペソ1章20〜22節)

よって、教会は、神によって定められた地上で最強の機関であり、キリストを見えるかたちで現わすことのできる唯一の共同体である。もし、世界の各地にある神の教会が、聖書の規準に従って完全に機能すれば、人々はそこにキリストご自身を、そして神を、目(ま)の当たりに見ることだろう。


「本当の教会が破綻することがない。教会は岩の上に建てられているから。」(T・S・エリオット)


「世が最も好む教会こそ、確実に神が忌み嫌う教会である。」(チャールズ・スポルジョン)

May God bless you abundantly in His love as we worship and learn of Him together!

本ホームページの聖書本文は断りのない限り新改訳聖書(新日本聖書刊行会)を使用