34 携挙と再臨(Rapture & Second Coming)

【携挙(空中再臨)に関する聖句】

ヨハネ14:1−3

1コリント15:1−53

1テサロニケ4:13−18

ローマ8:19

1コリント1:7−8

1コリント16:22

ピリピ3:20−21

コロサイ3:4

1テサロニケ1:10

1テサロニケ2:19

1テサロニケ5:9

1テサロニケ5:23

2テサロニケ2:1、(3)

1テモテ6:14

2テモテ4:1

テトス2:13

ヘブル9:28

ヤコブ5:7−9

1ペテロ1:7、13

1ヨハネ2:28−3:2

ユダ21

黙示録2:25

黙示録3:10

携挙予想図?

あなたは携挙の準備はできていますか

以下をクリック

【再臨(地上再臨)に関する聖句】

ダニエル2:44−45

ダニエル7:9−14

ダニエル12:1−3

ゼカリヤ14:1−15

マタイ13:41

マタイ24:15−31

マタイ26:64

マルコ13:14−27

マルコ14:62

ルカ21:25−28

使徒1:9−11

使徒3:19−21

1テサロニケ3:13

2テサロニケ1:6−10

2テサロニケ2:8

2ペテロ3:1−14

ユダ14−15

黙示録1:7

黙示録19:11−20:6

黙示録22:7、12、20

携挙(ラプチャー)の日 全世界からクリスチャンが一斉失踪する日 それはパニックかラブロマンスか

【携挙って一体なんだ?】

それは検挙のように決して恐ろしいものではない。携挙に関するベストセラー小説『レフトビハインド』を映画化したDVDの邦題は『人間消失』。パニック映画を匂わせる。しかし、キリストを信じる者にとって携挙は実話のラブロマンス映画のようなものである。地上のパニック状態から解放され、花婿が花嫁をさらうようにさらわれ、天においてイエス・キリストとのハネムーンを過ごす。それは黙示録19章では「小羊(イエス)の婚宴」と呼ばれている。

最近、ネット上で携挙の年月日を予言している輩がいるが、携挙を誤解して軽挙妄動(軽はずみに何も考えずに行動すること。是非の分別もなく、軽はずみに動くこと)してはならない。このことは聖書でも警告されている。

聖書は携挙のタイミングについて以下のように記している。

●「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)

●「霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人(欧州連合のリーダーとして現われる反キリスト)、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日(携挙後の患難時代=この世の最後の7年間)は来ないからです。」(2テサロニケ2:2ー3)

携挙は、新約聖書に説かれている救いの教理である。携挙は地上から教会が取り去られて雲の中で主と会い、キリストにあって死んだ者も生きている者もみな朽ちることのない栄光のからだをいただくことをいう。この時キリストは地上に降り立つことをしないので空中再臨とも呼ばれる。イエスが世界の最終戦争となるハルマゲドンの戦いの際、さばき主としてこの世に戻ってこられ、オリーブ山の上に降り立つ地上再臨とは区別される。

●「さて兄弟たちよ。私たちの主イエス・キリストが再び来られること(地上再臨)と、私たちが主のみもとに集められること(携挙=空中再臨)に関して、あなたがたにお願いすることがあります。」(2テサロニケ2:1)

私はクリスチャンだが、携挙なんて知らないし、携挙なんて困る、という人は主を愛さない者である。もしあなたが主を愛する花嫁であるなら、携挙は主と結ばれることだから、何よりも待ち望むはずである。

●「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください(原語はアラム語で“マラナサ”。携挙を待望する祈り)。」(1コリント16:22)

●「御霊も花嫁(教会)も言う。『来てください。』これを聞く者は、『来てください。』と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。・・・これらのことをあかしする方(イエス)がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」(黙示録22:17,20)

携挙についてもっと知りたければ、聖書を開くべし。キリスト教原理主義の陰謀などといぶかしく思う前に、あなた自身の手で聖書を開いてみたまえ。聖書もろくに読んだことのない人ほど知ったかぶって「そんなものは信じない」と軽々しく口にするものだ。

【携挙に関する聖書のことば】

※聖句内の( )は本ブログ運営者カズによる補足。

●「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたし(イエス)を信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て(携挙)、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1~3)

●「私たちの住まいである地上の幕屋(肉体)がこわれても、神の下さる建物(携挙時、肉体が贖われること=栄化)があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家(栄化)です。私たちはこの幕屋(肉体)にあってうめき、この天から与えられる住まい(携挙時の栄化)を着たいと望んでいます。それ(携挙時の栄化)を着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋(肉体)の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋(肉体)を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まい(携挙時の栄化)を着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。」(2コリント5:1ー4)

●「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒り(患難時代)から私たちを救い出してくださるイエスが天から来られる(携挙)のを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(1テサロニケ1:10)

●「眠った(キリストにあって死んだ)人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られる(携挙)はずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られる(携挙)ときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます(携挙)。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ(携挙)、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日(携挙後の患難時代)が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒り(患難時代)に会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救い(携挙)を得るようにお定めになったからです。」(1テサロニケ4:13ー5:9)

【携挙に関する聖書のことば】

●「またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光(携挙時の栄化)を望んで大いに喜んでいます。」(ローマ5:2)

●「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒り(患難時代)から救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救い(携挙)にあずかるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9,10)

●「あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現われ(携挙)と、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます(携挙時の栄化)。」(コロサイ3:3,4)

●「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光(携挙時の栄化)に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われ(携挙時の栄化)を待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光(携挙時の栄化)の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われること(携挙時の栄化)を待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ローマ8:18~25)

●「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿(携挙時の栄化)にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光(携挙時の栄化)をお与えになりました。」(ローマ8:28~30)

●「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです(携挙時の栄化)。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。」(1コリント15:51ー53)

●「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになる(携挙)のを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです(携挙時の栄化)。」(ピリピ3:20、21)

●「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われた(携挙)なら、私たちはキリストに似た者となること(携挙時の栄化)がわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。」(1ヨハネ2−3)

【携挙に関する聖書のことば】

●「祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われ(携挙)を待ち望むようにと教えさとしたからです。」(テトス2:3)

●「私たちの主イエスが再び来られる(携挙)とき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。」(1テサロニケ2:19)

●「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われ(携挙)を慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(1テモテ4:8)

●「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日(携挙)に誇ることができます。」(ピリピ2:14~16)

●「ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み、イエス・キリストの現われ(携挙)のときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」(1ペテロ1:13)

●「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救い(携挙)が私たちにもっと近づいているからです。」(ローマ13:11)

●「そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現われる(携挙)とき、私たちが信頼を持ち、その来臨(携挙)のときに、御前で恥じ入るということのないためです。」(1ヨハネ2:28)

以上、携挙に関する聖句の一部を列挙した。携挙は知る人ぞ知る特殊な教えではなく、新約聖書の中に万遍なく語られているクリスチャンにとっては周知の教理であることがわかっていただけたかと思う。特に携挙の教えを明示するテサロニケ人への手紙は、信仰歴3週間のベイビークリスチャンに宛てられたものであることは注目に値しよう。

携挙の日について、読者にこれを肌で感じてもらうために『改訂新版 これからの世界情勢と聖書の預言』(高木慶太・芦田拓也共著)より以下の物語をご紹介する。

『まばたきの瞬間に』(In The Twinkling Of An Eye by Sydney Watson, Fleming H. Revell Co., 1921)の1章を脚色したものであり、架空のストーリーであるが、これと似た失踪事件がいつの日か世界各地で起こると思われる。

※『まばたきの瞬間に』というタイトルは以下の聖句に由来する。「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(1コリント15:52)

「ある手記」

いったい何から話せばよいのかわからない。そもそも朝の起き出しからおかしかった。夜中過ぎまで確かに隣で寝ていた妻が、朝になるといなかったのである。なぜか私は、夜中の二時ごろ一度目が覚めた。内容は覚えていないが、何か恐ろしい夢を見ていた記憶がある。私は汗をびっしょりかいていた。そのときついでに手洗いに行って、すぐまた寝たのだが、そのとき確かに妻は横に寝ていた。

朝、いつのように目を覚まして起きたが、居間にも台所にも妻の姿はない。朝食の用意もなく、新聞も取っていなかった。家の中も、家のまわりも捜したが、どこにも妻はいなかった。今までこんなことは一度もなかった。いつも七時前には起きて、朝食の準備をしてくれるのだが、冷蔵庫からパンと卵を出して、自分で朝食を作った。妻に、「きょうの夜は会合があるから、夕食の準備はいらない」と言おうと思ったのだが、いないので仕方なく用意をして、いつものように出勤した。

歩いて駅まで行くと、すぐに何か様子が変であることに気づいた。いつもの駅員の姿が見えず、駅長が代わりにその仕事をしていた。彼はおこってイライラした様子であった。なぜ駅長が改札のところにいるのだろうかと不思議に思いつつそこを通ったが、間もなく電車がホームに入ってきたので急いで飛び乗った。そのうち私のすぐ横にいた三人連れが話している内容をふと耳にして、私は気が変になりそうになった。私がビックリしたのは、「いったいあの人たちに何が起こったのだろうか」という言葉であった。私はそれ以上聞きたくなかった。言葉に表わせない不安で、胸がしめつけられそうであった。電車の中を見渡すと、どの人も不安な、おびえたような表情をしていた。夢を見ているのかなと、ほほをつねってみた。「これはみな夢なんだ」と自分に言い聞かせてみた。しばらくの間、車内でだれも一言もしゃべらなかった。

突然一人の人が、沈黙を破ってこう言った。「しかし、お宅の奥さんと息子さんに、いったい何が起こったんでしょうね。」その人の友人とおぼしき人の声が聞こえてきた。「全く、キツネにつままれたみたいだ。今朝のニュースによると、たくさんの人が一晩のうちにいなくなったそうだ。恐ろしいことだが、私の息子は、昨晩のようなことが近いうちに起こると前から言っていた。今でもあの子の声が聞こえるような気がする。『クリスチャンがこの地上から一瞬のうちにいなくなる時が来るんだよ。それをケイキョと言うんだ。』つい先日も聖書から引用して、何かそのようなことを言っていた。」

私はゾッとした。私の妻だけではない。昨晩中にいなくなった人がほかにもいるなんて。私はどうしたらいいんだろう。

やがて、私の降りる駅が来た。歩きながら考えたのだが、私は無神論者で、聖書など信じていない。五十歳の今になるまで、過去何十年間というもの、私なりのはっきりとした人生観を持っていて、宗教のようなくだらないことについて人々が私に話しかけるのを、いつも断ってきた。しかし、きょうのは様子が全く違うようである。ただ、これが夢であってほしいと、祈るような気持ちであった。

しかし、どんどん歩いて行くと、町全体が異様な雰囲気に包まれているようで、私が夢を見ているのではないことだけは明らかであった。商店街のはずれにある行きつけの喫茶店のシャッターは下りたままで、勤務先の銀行のすぐそばまで来たとき、「カギがやっと見つかったところだ」という声が聞こえてきた。道行く人はみな黙りこくったままで、何か大きな不幸が来るのを恐れているようであった。

銀行に着くと、従業員たちはみな、ヒソヒソ声で話し合っていた。いつも教会に行っていた支店長代理は、私が内心恐れていたとおり、姿を見せていなかった。

ビジネスの機能が、今や止まったように見えた。時間がたつにつれて活気が出てくるように思っていたが、とうとう活気は戻らなかった。従業員たちも仕事に身が入らない様子で、落ち着かず、朝刊の一面に特大活字で報じられた、大量失踪事件の話でもちきりだった。ラジオのニュースに聞き入っている者もいた。通常の番組が取りやめられて、ニュースばかりが放送されているらしい。出納係が「午後二時から、政府発表の重大ニュースがテレビであるそうです」と言ったら、従業員たちは勤務中なのに、私の許可も得ないで、外へ出て行ってしまった。商店街の中ほどにある電気店へ、店頭のテレビを見に行ったのだろうか。私は一人残されて、どうしたらよいのかわからなかった。責任上、仕事場を離れることもできない。もしそんなことをしたら、銀行が支払い停止したといって、取りつけ騒ぎが起こるであろう。かといって、そこにいることもできなかった。ビジネス界全体がビジネスのことを全く忘れたようで、お金の価値もなくなったような気がした。一人の客も来ないまま、やがて閉店の時間になったので、自分でシャッターを閉めた。

一歩外に出たとき、私が銀行で働いている間に、町全体にどんなことが起こったかすぐわかった。駅前の大通りに出てみると、驚いたことに、どこに行くのか、急ぎ足の人たちでごったがえしていた。昨夜から今朝にかけて、幾つかの自動車事故が重なったために、首都圏の交通網がまだ大混乱していた。

私はその晩、歓迎会が予定されていたレストランへ行った。二十名ほどが集まる予定であったが、定刻を三十分ほど過ぎても、だれ一人来なかった。そのレストランの窓越しに、駅の反対側で火事の炎が赤々と燃えるのが見えた。だが恐ろしいことに、だれも火事にかまっていないようだ。みなそれどころではないようであった。私もそのときには、たとえ町全体が燃えて、私もいっしょに焼け死んでもかまわないという妙な心境になっていた。生れて初めて死に対する恐れがなくなり、死に対して親しみすら覚えていた。

私はその後、どのようにして家にたどりついたか覚えていない。夢遊病者のように歩いたような気がする。玄関の灯もついておらず、家の中も真暗で、やはり妻はいなくなったままであった。昼間、銀行から何度電話しても応答がなかったのだから、一日中だれもいなかったのであろう。明かりをつけようとしてスイッチを入れても、電気が来ていないようだ。居間の棚の引き出しに、小さいローソクがあったのを思い出して、それに火をつけたが、長くはもたなかった。台所まで手さぐりで行って、ウィスキーを飲んだが、少ししか残っていなくて飲んだ効果はなかった。私はニュースを聞こうと思って、ポータブルラジオのスイッチを入れた。

昨夜の出来事のために、国中に混乱があったようである。外国での混乱はもっとひどかったらしい。街頭のインタビューで、一人の人が聖書について話していた。今となって考える価値のある唯一の本は聖書だけのように思えた。インタビューを受けた人が言った。「今私の頭に残っているのは、『だから、よくよく注意していなさい』という聖書の言葉だけです。牧師をしている従兄が引用していた言葉です。」私は腹立たしくなってスイッチを切った。たとえこのことが聖書と関係あったとしても、今さらよく注意しても、どうにもなるものか。

私はふと、同じ町に住んでいる妻の兄一家がクリスチャンであったことを思い出して、その家に行ってみたいという衝動にかられた。小走りで彼の家に行ってみたが、案の定、だれもいなかった。裏庭にまわると、縁側の戸が開いていた。電気のつかない暗やみの中を、ソファーや壁にぶつかりながら、彼の書斎まで行ってみると、やはり思ったとおり彼の聖書があった。失踪する直前まで読んでいたのかもしれない。箴言の箇所が開かれたままになっていた。その頁の傍線の箇所に目がとまった。

「わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう」(1:24-26)。

私はそれまで、神が笑ったり、あざけったりするとは考えたこともなかった。そんなことをするのは人間だけだと思っていた。しかし、人間が笑うときは終わった――それだけは確かである。私は、ちょうど二ヶ月ほど前、義兄が熱心に聖書から話してくれたときのことを思い起こした。彼はその晩、キリストの十字架による罪の赦しと、永遠のいのちについて説明してくれた。私は彼の言うことをまじめに聞かなかった。途中で、「あんたのように、すなおに信じられる人は幸せだ」と、半ばからかって話をそらせたのを覚えている。

彼の部屋から出ようとしたとき、壁にかかっている額に目がとまった。

「確かに今は恵みの時、今は救いの日です。」

そのとき初めて、自分のありのままの姿を見た。私はバカだった。もしあのとき、もっとまじめに耳を傾けていたら・・・。そうすれば、私は神の恵みから取り残されずにすんでいただろうに。

<引用以上>

【カズのコメント】

原作の『まばたきの瞬間に(In The Twinkling Of An Eye)』は1921年の作で、それをアレンジして掲載した『改訂新版 これからの世界情勢と聖書の預言』は、2002年の作である。2011年の現代では、速報ニュースはテレビやラジオよりも真っ先にインターネット、携帯、スマートフォン、カーナビTV等で入手するだろう。ただ緊急時にはネットはつながりにくくなるだろうから、やはりテレビ、ラジオによる情報入手は未だ欠かせないのかもしれない。いずれにしても携挙というイベントを今の自分、今の状況に当てはめてリアルに受けとめてもらいたい。是非具体的にイメージしてほしい。ある日、あなたの家族、友人、知人が忽然と蒸発する様を。まばたきの瞬間に目の前から彼らが消える様を。あなたがクリスチャンなら、伝えておこう。今のうちに。確実に言えることは、今あなたには『まばたきの瞬間に』が書かれた1921年よりも、『改訂新版 これからの世界情勢と聖書の預言』が出版された2002年よりも間違いなく携挙の日は近づいたということだ。

【聖書の預言の成就率は100%を誇る】

これまでに聖書の預言が外れたことは一度もない。旧約聖書のキリストの初臨に関する預言は350以上あるが、そのすべてがナザレのイエスにおいて成就した。彼がすべての預言を成就するのは天文学的確率である。この点にあなたは注目すべきだ。聖書はただの宗教書ではない。神のことばを記した預言書である。約2000年前にキリストがダビデの子孫の処女から生まれ、人類の罪を贖うために十字架にかかって死に、三日目によみがえることが、イエスの誕生の1500年以上前から預言されていた。そのすべてが見事成就した。そして、イエスは再び戻ってこられるということも聖書に預言されている。このこともまた必ず成就する。預言に関して言えば、それは信仰の問題というよりも確率の問題である。

地上から突如クリスチャンがまるで神隠しにあったように失踪するなんて・・・そんな荒唐無稽な話、信じられるか! ビッグバンで突如宇宙が誕生し、アメーバから人間が誕生した。そんな荒唐無稽な話でも教科書で教えられていれば人は容易く信じる。進化論には何の根拠(進化の過程を証明する中間種の化石は未だ発見されていない)もないのに人は平気で信じる。聖書預言には確かな根拠がある。教科書は内容に間違いや新事実が発覚するのでそれまでの定説が覆され、毎年のように改訂されるが、聖書は2000年間改訂されたことは一度もない。携挙はあなたが信じようと信じまいと必ず起こる。聖書は少なくても2000年間に及ぶ迫害に耐えてきた。未だ世界一のロング・ベストセラーである。そしてこれからもそうあり続けるだろう。

●「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55:9~11)

●「わたし(イエス)が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」(マタイ5:17、18)

●「この天地は滅びます。しかし、わたし(イエス)のことばは決して滅びることがありません。」(マルコ13:31)

●「『人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。』とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」(1ペテロ1:24−25)

●「こういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。」(1テサロニケ2:13)

私はあなたが携挙を信じるか、否かを問いたいのではない。実は携挙を信じるかどうかはそれほど問題ではない。たとえ携挙のもれても救いのチャンスはあるからだ。最も重大なのはイエス・キリストを信じているかどうかである。そのことがあなたの永遠を左右する。永遠のいのちか、永遠の滅びか。天国か、地獄か。選ぶのはあなたである。絶対的主権者でおられる神がそのような選択権を人間に与えたのは、イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活による。それがなければ、私たちには選択の余地などなかった。

●「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――」(エペソ2:1~5)

今選択の余地が与えられているのは一重に神の恵みによることを忘れてはならない。

あなたを天国に入れるのは、携挙信仰ではなくキリスト信仰である。ただしキリスト信仰を持ち、キリストを愛すれば愛するほどあなたは携挙信仰を深めるようになる。

携挙信仰をあざける者は多い。そしてこれからますます増えるだろう。しかし、それもまた聖書の中の終末預言の一つである。携挙信仰をあざける者よ、今あなたは以下の聖書預言を成就した。あなたのような携挙信仰をあざける者が多くなればなるほど世の終わりが近いことを私たちに教えてくれる。

●「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。」(2ペテロ3:3ー14)

「あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」これこそが神のハートである。

●「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

携挙はいつ起こっても不思議ではない。即刻この場で悔い改めて、罪からの救い主イエス・キリストを信じよう。そうすればあなたはキリストのものとなり、確実に携挙される。

読者のあなたがこのブログにたどりつけたのは、神の恵みによる。絶対にレフトビハインド(取り残されること)されないように。

「いつかまた・・・」「そのうちに・・・」と言うことは、神の恵みを無駄にすることである。今の恵みは明日にはないかもしれない。

キリストの『空中再臨(携挙)』と『地上再臨』

【シリーズ】

キリストの空中再臨と教会の携挙

キリストの空中再臨と教会の携挙(その二)

キリストの空中再臨と教会の携挙(その三)

キリストの地上再臨の有様とその目的

キリストの地上再臨前の大患難

再臨を祈らぬ教会

聖書を信じまた使徒信経を信条として信じている教会であるならば、主の再臨を信ぜぬわけにはいくまい。しかしこれを信じているばかりで、それを祈り求めぬならば、黙示録二二章にある「主イエスよ、来たりたまえ」と祈りえぬ教会は教会という名があっても、花嫁たる教会ということはできない。世の教会の大多数はこの種の教会である。そのおもなるものは天主教会である。もちろん主の祈りを唱える教会がある。しかしはたして心の底から御国をきたらせたまえと祈っているかが疑問である。形式的に祈っているのでは、これを祈らぬ教会の部類に属していると申してもよい。

聖潔派は概して主の再臨を祈る教会と申してもよい。しかし細別すると種々の信仰に区別されている。その一は、主はくるにはくるが、まず福音がすべての人に伝わり、教会すなわち花嫁のよそおいが十分できてからくるというような千年期後再臨説の焼き直しを説いているのもある。これではとても主の再臨を早めたまえと祈ることができない。その二は、主の再臨は主のご都合次第のものであるから、何ほど信者が祈ったとてだめである。むしろなりゆきにまかせておけばよい、という宿命説である。かかることを信ずる人には真剣に祈る迫力がない。されば父なる神はその権内におきたもう時と期をば、信仰よりいずる祈りに答えてどうでもなしうる御方であると信ずることが足りない。その三は、主の再臨を祈ることは祈っておるけれども、これを第一においていないで、ついでに祈るというのもあるが、これをつけたりの祈祷にしている教会がある。われらはかかる教会を目して再臨を祈る教会とは申さない。聖潔派の教会にかかる教会はなかろうか。反省すべきである。第四は、信仰をもって主の再臨を祈ったから、しかも願うところのものをえたりと信じて祈ったから、携挙せられた、主が再臨した、悪魔が底なき穴に投ぜられたと信じてよろしい。もう主よ、来たりたまえと祈らんでもよろしい。感謝し賛美しておればよろしいと、新しい異端を説く者が起こった。これもこの祈祷を否定し、少なくもこの祈りをわきへそらそうとする悪魔の詭計である。これにひっかかっている者が聖潔派の教会内に起こった。これは大いに警戒すべきことである。第五は、主の再臨の信仰はわれらといささかも違ってはいないが、これを祈り求めることをしない教会である。頭では合点している。しかし祈り求めない。われらとは大いに共鳴する。しかしいっしょに祈り求めない。むしろこれを避けている。かかる教会は主を愛し慕う教会ではない。われらはかかる教会と歩調をともにするわけにはいかない。悪魔のいちばんいやがることはこの祈りをすることである。さればなんのかんのと種々の口実を設けて、この祈りをさせぬように努めている。いかにりっぱな理由があるにしても、この祈りをする口を封ぜんとすることはことごとく悪魔来のものとして排除するがよい。この祈りをする数の中には、脱線屋も起こるだろう。口不調法の者も起こるだろう。しかしそのゆえをもってこの最高、最大、最終の祈りをすることを禁ずべきではない。むしろ指導者は適当に指導していくべきである。

携挙と警告

主イエスよ、来りたまえと祈る祈りは、いよいよ激しくなってきた。聖徒の携挙は実に間近い。かかる際に再臨の主を迎うるために、あれも必要だこれも必要だと種々のことを持ち込まれて、この祈りを弱められるようなことをされぬよう注意せねばならぬ。

伝道も可、牧会もけっこう。しかし主イエスに来ていただくことにまされるものはないではないか。救霊のためにまた花嫁の準備のために、御再臨を延ばしてもらいたいと思う者は、聖潔派の人のうちにおそらくあるまい。もしあらばそれは主の千年期前再臨を信じない人である。

しかしいまこられては滅びるたましいをどうするかと思うあまり、もうしばらくの時がほしいと思うところに認識不足がある。われらは携挙せられたのちに患難の時代がくると信じている。その時なおイスラエルを始めとして、全世界の民が悩むと聖書にしるされている。かくして残されている者は主を叫ぶようになり、またイスラエルがことごとく救われるとある。その時は千年王国少し前で大リバイバルが起こるのである。いまわれわれがやっているような救霊運動のごときものではなく、実に全世界にわたるところのものである。しかし記憶せよ、これは全世界の民が三分の一に減じてのちの出来事であって、第二機会説のような気楽なことではない。いまは恩恵の時または救いの日であるが、その時をあてこんでいるような人はずるい人間であるから残される部類に属する人ではないか。

今夜にも携挙があるとすれば、これにまさる警告は他にあるまい。聖徒がかねがね警告しているとおり携挙されるならば、そのことが千百の説教、万の特別集会にまさるものであって、残されし人々の胸に異様の衝動を与えるに相違ない。それによっていかほどの人々が主を呼ぶようになるかわれらは明言することはできない。とにかくある一部には大恐慌をきたすに相違ない。運よくまた神の特別な御取り計らいにより、かろうじて患難の時代を通過して、イスラエル人とともに主を呼び求める仲間にはいることができるとすれば、彼らは栄化の恵みにあずかることができぬにしても、千年王国の住民となることができるだろうと思う。これを思う時には、よしいまのわれらの警告が携挙前に効果を現わせぬにしても、いつかまたはどこかで実を結ぶと信じて、いっさいを主の御手にまかせて最善を尽くすべきである。いわんやわれらのことばかりでなく、主はわれらの待ち望みの祈りに答えたもうて、われらを携挙なしたもうことが事実となって現われるにおいてをや。それゆえどんなにかれこれ言っている人でも事実の前に降参するに相違ない。われらはこれを信じているから、何はともあれ、主よ来たりたまえと祈るのである。これは自分さえ栄化すればよいという自己満足のためではない。実に全世界の民に対する最大の警告であるからである。もちろんこれはサタンに対する大鉄槌である。

もしこの真理がわかるなれば、なんの思い煩いもなく、主よ来たりたまえと、心底より祈ることができる。なぜなれば、主は再臨したもうならば万物がみな復興するからである。

主の再臨と救霊

この二つは比べて論ずるほどのものではないが、近ごろどちらが肝要であるかと問うだけやぼである。言うまでもなく主の再臨は教会の目的で救霊は使命である。目的と使命とを取り違えるようでは困る。どちらがたいせつであるか問わずともわかることではないか。救霊もたいせつである。しかし主の再臨はこれよりもたいせつである。左に例にしたがい個条書きにするから、祈りつつ読んでもらいたい。

一、神の国と教会がどちらがたいせつかと言えば、むろん神の国がたいせつである。これは主の御目的であり、また教会は何よりもまずこれを求むべきである。

二、全世界の民が救われると神の国ができるのではない。人々がみな救われぬうちに主は再来したもうのである。されば人々の状態いかんにかかわらず、主の御再臨を祈るべきである。

三、されば、主イエスよ来たりたまえと祈ることは、罪人を救いたまえと祈るよりもはるかに重大な祈りであるから、第一になすべきである。

四、祈祷と伝道とどちらに重点をおくべきかというに、言わずともしれたことで、祈祷は第一でそれに重点をおくべきだ。

五、祈りばかりをしておれば伝道せずともよいと言う者があるならば、それは祭司の一面のみを見ているので、神の御旨を確かめて人々に警告する人ではない。伝道することが罪であるように言う者があるとすれば、それはいわゆる脱線屋である。聖霊に全く信頼している者は、よく祈る者であるが、そのおさしずのもとに救霊にもあたるべきである。

六、従来は救霊のための祈りであった。実は祈った結果、救霊となって現われるとなるのがほんとうである。われらは後者をば真の救霊事業と言う。前者は伝道事業を本位とする傾向があるから、主の再臨を待ち望まない。したがって祈りが下火になるのである。

七、われら主の再臨を待ち望む者をば、主のためにあかしもせず、警告もせずにおる者と見るか。福音使はあちこちにつかわされて、祈りの祭壇を築き、また時々聖別会や聖会を開くのはなんのためであるかを知るならば、そう見る人がないはずである。

八、祈りのみして伝道せずにおる人と、伝道ばかりしてろくろく祈りもしない人と、どちらに組みするかと予に問う人あらば、予は前者に加担すると答える。できるならば、聖霊に導かれて野に行きたまいし主と、十日間エルサレムの高殿において、祈りばかりしていた弟子たちのごとくなりたいとは予の念願である。

九、主の再臨を祈る人は神の国を求める人であるから、その一部である天国、すなわち千年王国を待つ者である。されば千年王国の中心的国民であるユダヤ人の回復を祈るようになるのは当然である。伝道は主の花嫁なる教会の完成であると言う人があるが、その完成は主がなしたもうことで、教会がなすべきものではない。教会がおもに求むべきは神の国である。

十、祷告と警告、祷告は第一のもので、警告は次のものである。近日のうちに主は来たりたもうとすれば、何よりもまず祈祷に身をわたすべきではないか。

警戒せよ、悪魔のごまかしを。

中田重治

「携挙」(空中再臨)、患難時代は必ずやって来る! 万が一携挙にもれて地上に取り残された場合の心得

聖書によれば、携挙はいつ起こっても不思議ではない。それはこのブログを読んでいる最中かもしれないし、今晩かもしれないし、あるいは明朝かもしれない。はたまた来週、来月、来年かもしれない。あなたはその前に地上で死んでしまうかもしれないが、それでも携挙はある。その日は近い。

「あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救い(携挙のこと)が私たちにもっと近づいているからです。」(ローマ13:11)

携挙について詳しく知りたければ、前回のブログを読んでほしい。特にチャック・スミスの『患難と教会』http://calvarychapel.com/pdf/translations/ja_tribulation.pdf と、『最終劇』http://calvarychapel.com/pdf/translations/ja_finalact.pdfを読めば、聖書を通して携挙に関する情報を正確に知ることができる。その上で、携挙にしっかり備えてほしい。永遠の祝福があなたを待っている。

今回は、携挙をもっと現実味を帯びたイベントとして切迫感をもって受けとめてほしいので、携挙と携挙にもれた場合の患難時代の様子を映像化したもの(YouTube、その他)を用意した(必ずしも正確な表現とは言えないが、全くイメージできていない人には助けになるだろう)。

末尾に付記した『携挙後のサバイバルガイド』は、携挙されずに地上に残された者たちのために書かれたものである。本ブログの愛読者には不要であってほしいものだが、万が一ということもあって敢えて付け加えた。

聖書によれば、携挙の際、イエス・キリストを信じる者は、空中に引き上げられるが、不信者は携挙されずに地上に取り残される(聖書を文字通り捉える患難前携挙説の立場)。地上から世界中のクリスチャンたちが消滅するので、多少の混乱が予測されるが、イエス・キリストだけが唯一の救い主なる神だと主張するクリスチャンは、和を乱す者という見方があるので、邪魔者が消えて歓迎する向きもあろう。いずれにしても、携挙後ほどなくしてヨーロッパ連合の指導者で、聖書では「反キリスト」と呼ばれる男が、誰もが成し得なかった中東和平を実現し、7年間の平和条約を締結し、政治・経済の世界統一化を図る。そして反キリストの片腕となる、聖書では「にせ預言者」と呼ばれる男が、イスラエルから出て世界宗教の統一化を図る。反キリストはエルサレム神殿を現在のイスラムの岩のドームの隣りに再建することでユダヤ人をも取り込む。その時代を聖書では「患難時代」と呼ぶ。前半の3年半は比較的平和な時代となるが、中間期に反キリストが、エルサレム神殿の至聖所(最も聖なる区域)の中に立ち、「我こそは神である」と宣言する。それ以降、後半の3年半は悪魔の化身である反キリストと、聖書では「獣の像」と呼ばれる反キリストのアンドロイドのような偶像を拝まない者は迫害され、次々処刑されていく。それだけではない。地球規模の未曾有の天変地異が起こり、地上はまさに地獄絵となる。このあたりの話は『携挙後のサバイバルガイド』の中でも詳しく触れているので、これ以上は割愛させていただく。

もう一度言うが、『携挙後のサバイバルガイド』は、あとに残された者たちが、患難時代を生き残るためのガイドである。もしあなたが今、イエス・キリストを信じるなら、あなたは携挙され、患難時代を生きる必要はない。また、もしあなたがクリスチャンでありながら、救いの保証を持っていないなら、自分の罪がすべて赦されているという確信がないのなら、今すぐイエス・キリストを個人的な救い主と信じ、人生の主としてこの方に従って生きてほしい。そうすれば、あなたは間違いなく携挙される。ただし先延ばししないように。携挙は今すぐ起こっても不思議ではないのだから。

以下の映像集はすべて英語だが、言葉がわからない人でもイメージだけはつかんでもらえるに違いない。一部重複する内容もあるが、聖書の記述を思い出しながら見てほしい。そして、自分は携挙に備えて準備ができているかどうか、自問してほしい。

【必見! 携挙と患難時代にまつわる映像集】

Are you ready?

Rapture, Tribulation, Left Behind? The Shocking Events That Will Happen Next!

Rapture: 12 Events That Will Immediately Following The Rapture

Rapture Event (Animation)

The Rapture Left Behind Coming of Christ

The Rapture and Tribulation

The Rapture Of The Church

The Rapture And The Tribulation Period

【レフトビハインド ムービー シリーズ】(英語)

レフトビハインドとは、ティム・ラヘイ、ジェリー・ジェンキンズ共著の聖書に基づいた小説。時は近未来、最後の審判が迫り『ヨハネの黙示録』の預言が実現していく世界を描く。日本語訳はいのちのことば社から刊行されている。公式サイトによれば6300万部を売り上げたベストセラー本である。アメリカ本国では映画化、ゲーム化もなされている。患難前携挙説の立場をとっており、携挙によって信心深い人々や幼い子供が姿を消すところから物語が始まる。

レフトビハインド日本語解説

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Left Behind II: Tribulation Force

Left Behind 3 World at War. Part 1.

Left Behind 3 World at War. Part 2.

Left Behind 3 World at War. Part 3.

Left Behind 3 World at War. Part 4.

Left Behind 3 World at War. Part 5.

Left Behind 3 World at War. Part 6.

Left Behind 3 World at War. Part 7.

Left Behind 3 World at War. Part 8.

Left Behind 3 World at War. Part 9.

Left Behind 3 World at War. Part 10.

『携挙後のサバイバルガイド』

本マニュアルの目的は二つ:

まず初めに、聖書の予言にある携挙に伴い事象が起こる前にこのマニュアルを読む人たちに対し、警告があります。聖書に書かれているこういった事象を読むと、携挙後の地球に住みたいと思う人はまずいないだろうと思います。多くの人が本マニュアルを読み、信じ、神を求め、悔い改め、救われることを願っています。救いは、いとも簡単に受けられます。信じられない程あまり簡単に救いが得られるので、逆に救いを拒否してしまう人が殆どなのです。目で見ることができない信仰により人生が変わるので複雑ともいえますが、その反面イエスが全てのことをしてくださるので簡単です。救いを得て永遠の命を受けたいと思ったら、主イエスに、謙虚な気持ちでひたすら祈ってください。

「主イエスよ、罪人である私からのお願いです。私の罪をお許しください、そして私に新しい心をください。私は自分の人生をあなたに捧げます。」

第二に、携挙後この世に残された人たちにとり、これはまさにサバイバル ガイドです。悔い改め、永遠の命を得るチャンスはまだあります。先ほど述べた通り、救いを乞う祈りをしてください。ただ、地球にいる間、あなたは地獄を垣間見なければならない・・・ここが前者と違っているのです。

ハッキリ言いましょう。携挙後にこのマニュアルを読んでいる方はおそらく長生きできず、多分数年で死にます。これは、精神のサバイバルマニュアルです。あなたが死んだら天国に行くか、地獄に落ちるか、これが最後の問題です。

定義: 携挙・・・ ラッパの響きと共に、イエスがご自身の信奉者(キリスト教徒およびユダヤ人の信者)を呼ばれる時に起こる事象。この信奉者達は、「一瞬にして」この世から姿を消し、天のイエスのもとに運ばれます。

聖書に見る携挙

「ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終わりのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(コリント人への第一の手紙15:51-52)

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。」(テサロニケ人への第一の手紙4:16-17)

「わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。」(ヨハネによる福音書14:2-3)

携挙前の事象・事情

このマニュアルが書かれている時、および、まだ時間が残されている間のこの世の状態を端的にあらわす言葉は、「変化」です。こういった変化は、すべてサタンのなす業です。というのも、サタンは、神の創造物から生じたものが一切我慢できないからです。神がこの世を創造された時、この世は「良い」 と仰ったと、もともと聖書には書かれているのです。これは、この世が完璧であって何も変える必要がなかった、ということです。神ご自身がアダムとエバに与えられた規範も、神の創造物なのです。この規範には、個人としての生き方から正しい家族関係や社会の治め方まで、ありとあらゆるものが含まれています。ところが、神が造られたものや制定したもの全てを変えようとしているサタンは、自分の力とこの世における影響力を利用して神の計画を変えたのです。サタンの目的は、自分の子分(聖書では、獣および反キリストとして知られる独裁者) にこの世の秩序を確立させ、聖書に示された神の御心に反し、全力を費やして神の計画を変えてしまうことです。これは、聖書のダニエル書において、「彼はまた時と律法とを変えようと望む」と予言されている事です。

政治的事象

今日の世界政治環境におき、効果的に人々を率いることができる指導者はいません。国内外の問題に対処できる有力で有能なリーダーは、どこの国にもいません。米国は、過去50 年間世界リーダーの役割を担ってきましたが、米国の歴代政治リーダーには意思決定プロセスを導くようなモラルの核心が欠けているので、他国に対する影響力は年々薄れてきています。しかし、政府や政治リーダーに対する不信感や嫌悪感は米国に限られたものではなく、ヨーロッパや南米、アジアなど全世界に見られる現象なのです。今日の世界にリーダー性が欠如しているため、カリスマ性が豊かで、剛健かつ魅力的な人物が現れる機会が生じました。このような人物が現れ独裁者として国々を統一することが、聖書で予言されています。

一つの政府のもとで世界を統一しようという動きは、1950 年代以来見られましたが、自治権を放棄して紛争への軍事介入(クウェート、ソマリア、ボスニアなど) を国連に委ねる国が多くなっているため、最近ではこれが現実のものとなってきています。こういった紛争におき、これらの国々は国連に自国の人力や機械を寄与しました。軍事介入の際は米国も自治権を放棄し、軍事力ではかなり劣る他国の支配下に米軍を置いたのです。こういった軍事行為だけでなく、NAFTA やGATT を初めとする国際間協定により貿易および労働行為をも統制することに、多くの国が合意しました。

世界を率いるだけの国がないため、民衆の中から台頭し独裁者として世界を統一する人物が現れる時が到来したのです。

社会的事象

社会秩序と平安の要素、つまり、これまで社会の基礎単位であった家族が、ほとんど崩壊してしまいました。家族は、夫、妻、そしてその子どもで構成され、夫が妻と子どもを養い、妻は子どもの養育および躾を行い、そして子どもは親に従うのが本来あるべき姿です。家族が集合した社会においては、成人も子どもも、自分の行いに責任を持ちます。そして、家族は結婚を土台としています。

ところが、結婚は神が制定なさったものであるので、サタンはこれを嫌います。この悪魔は、主にテレビ、映画、およびニュース報道などの通信メディア、ならびにエンタテインメント一般を通し、結婚は自由と人生の目的達成の妨げになると、必死になって女性に訴えかけてきました。女性の性欲はもともと男性のものと同じであり、その違いは文化により生じたのであると女性に信じさせました。そして、男性と女性を隔て、お互いに争い合うように仕向けてきました。男性と女性の間に暴力が激増したのは、これが理由なのです。

この時代は内乱が繰り返され、最後の時が来るまで動乱が続きます。男性 vs. 女性、黒人 vs. 白人、イスラム教 vs. ユダヤ教、カソリック vs. プロテスタント、イスラム教 vs. キリスト教、イスラム教の一派 vs. イスラム教の他の一派、アフリカの一部族vs. アフリカの他の部族、一国家 vs. 一国家、民族 vs. 民族など限りがありません。どのような形の対立であっても、サタンは、これを憎しみや争い、暴力を扇動するために利用します。

同性愛などの倒錯行為が、今日ではノーマルと考えられています。世界の独裁者(反キリスト)自身、女性に対する通常の性欲を持たず、無性的である可能性があります。聖書のダニエル書11:37 に「彼はその先祖の神々を顧みず、また婦人の好む者も、いかなる神をも顧みないでしょう」とあるように、この人物は自分が同性愛者であることを隠さないであろうと、多くの神学者が信じています。従い、携挙後に結婚という行為が阻止されるか違法行為とされ、ホモセクシュアルやレズビアン関係が奨励される可能性は大です。

経済的事象

経済的には、ごく一部の人々のみが富を得、その他の一般大衆は貧困に苦しむであろうと考えられています。富を支配するこういった人々は商業や銀行業の帝王であり、世界政治の陰の力でもあります。小企業は大企業に呑み込まれ、大企業は別の大企業と合併して収益を増やします。その結果、社会、州、国家、人々に何の忠誠心も持たず、幹部と株主の利益だけに忠誠を誓う、巨大な多国籍企業が誕生します。こういった会社の従業員は単なる小百姓に過ぎず、その反面、社長は王としての偉大さを増していきます。自分の富と力を維持するために世界の独裁者を迎え入れるのは、この「王達」 です。未来の商業や売買は、経済活動に参加したい全ての人々の右手もしくは額に押された刻印により支配されるのです。刻印を持つ者だけが売買を行うことができますが、この刻印を受ける者は、永遠の地獄を経験します(ヨハネの黙示録14:9-11)。

ですから、この刻印を受けないようにしてください。生存が困難になり、多分生存は期待できませんが、あなたの精神だけは救っていただきなさい。繰り返します。あなたの右手もしくは額にこの刻印を押されないようにしてください。

地球物理的事象

マタイによる福音書第 24 章に「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」とあるように、これが最後の時の前兆の一つであることをイエスが弟子達に示されました。ノアの時代には「暴虐が地に満ちた」 と創世記に書かれています。ここでいう暴虐とは、個人と個人との間の暴力だけでなく、戦争や内乱、強姦、残虐行為、殺人、堕胎など、無差別かつ無作為な暴虐も含まれます。そして、地震、火山の噴火、ハリケーン、竜巻、洪水、干ばつ、稲妻を伴う嵐などの異常な大気現象が目に見えて増え、この世が破壊されつつあります。これらの事象は過去にも存在したのですが、過去 50 年間にその回数と激しさ、またこういった自然の災害に伴う物的損害も度を増してきています。人類同士で行使される暴力の度合が上がると、それに比例して地球の破壊も度合を増したということになります。

最後の時の前兆

マタイによる福音書第 24 章には、主の再臨と最後の時の前兆について弟子達がイエスに尋ねると、イエスが次のように語ったとあります。

o 戦争および戦争の噂

o 民が他の民に敵対して立ち上がる。民という言葉は、ギリシャ語 「ethnos」の訳であり、これが人種的背景と民族に係る言葉であることは興味深い。1980 年代および1990 年代に起こった戦争や対立の殆どが、人種集団および民族間の争いであった

o 国は国に敵対して立ち上がる

o 飢饉

o 地震は、「産みの苦しみの初め」 のようである。主の再臨が近づくにつれ、この5 つの前兆の頻度および度合が高まる

o 人々がイエスの信奉者を苦しみにあわせ、殺す。これは、中東などのイスラム教国で頻繁に起こるようになった。アフリカの黒人によるイスラム教国では、黒人のキリスト教徒を奴隷扱いしている

o 主の名のゆえに、すべての民に憎まれる。世界のあちこちで、キリスト教徒達はその信仰のために投獄され殺される。米国のキリスト教徒は、メディアおよび自由主義者に憎まれ、婉曲語で 「宗教右派」 と呼ばれる

o 多くの人がつまずく。つまり、自称キリスト教徒の人達の多くが信仰を改め、キリスト教徒を裏切り、憎むようになる

o 多くのにせ預言者があらわれ、多くの人を惑わす

o 不法がはびこり、多くの人の愛が冷える

携挙

これは、隠された事象ではありません。携挙の観念は、既に人々に明かされています。世界中のメディアの冷やかし、侮り、および嘲りの的となりますが、後に残された人々が自分の間違いに気付くよう、神のご配慮により大々的に事前の知らせがあります。万人の目前で携挙が起こるので、後に残された者は皆、誰が携挙するか目撃します。

聖書にあるように、携挙は、突然、予期しない時に稲妻のような速さで「一瞬にして」 起こります。携挙の後には、この現象が起こったことの証拠が世界中に示されます。国家の指導者が消え、エンタテインメント界やスポーツ界の有名人が消え去り、一家ごと消え去る例もあり、信じない人達の目の前で伴侶が消え、子ども達も消え去ります。銀行口座、家、車、ビジネスや人間関係は後に残されます。そして、世界中の指導者達は、携挙など起こっていないと、人々を説得しようと必死になって試みます。携挙は実際に起こったのだと、これらの指導者達が認めるということは、理論上、キリスト教徒達がこれまで言ってきたことやイエスが説き教えたことが全て真実だったということになります。つまり、イエスキリストが神の子であり、救の神であり、メシヤであり、平和の君であり、主の主また王の王であるということです。これが全て真実だとしたら、唯一の論理的な反応は、神の前に跪いて罪の告白と悔い改めを行い、(聖書に示された通り) 神の言葉全てに服従することです。ただ、これは、神の言葉の束縛から自由になること、性的倒錯、物質主義、人の命の価値低下を説く、人の世と相反するものなのです。従い、携挙が万人を驚かせ、これがメディアで報道され、残された者は知人の誰かが消えてしまったことを知りながらも、世界中の指導者達はただちに虚偽の証言を行い、残された人々に向かって携挙などなかったと言います。

では、これはどのように実現されるのでしょうか?後に残された人々は既に騙されているので、実現は容易です。イエスはメシヤでないと言われ、そう信じてきたのですから。こういった人達は、神の言葉が真実でないと聞かされてきたのです。神がもたらす自由と楽園の代わりに、常に痛みと苦しみが生じるようなライフスタイルを信じてきたからです。携挙が起こったのではなく集団的異常興奮が起こっただけであると世界中の指導者達は宣言し、ニュース報道はその政策路線に従います。そして、好都合なことに、戦争や飢饉、疫病などで世界人口の1/4 が携挙直後にいなくなってしまいます。携挙を受けた人々は、死者とみなされます。

携挙後の事象

聖書には、携挙直後、大患難と呼ばれる期間が 7 年間続くと示されています。この大患難期は、イスラエルと敵国との間の和平協定締結で始まり、イエス再臨および王国の建国で終わります。その間の7 年間、地球は恐怖に包まれますが、以下は、7 年間に見られる事象および傾向です。

o 政治および戦争で勝利を続ける人物が現れる (ヨハネの黙示録 13:7)。その急激な台頭と支持により容易に認識できるこの人物は、反キリスト者。ユダヤ教信者だと信じる人が多いが、これは、ユダヤ教信者がメシヤとして受け入れる人物は、ユダヤ人でなければならないからである。ただ、これは絶対条件ではない。聖書には、メシヤがユダヤ人であると特定されておらず、国籍は特定されていない。神を恐れるユダヤ教信者のみが、メシヤがユダヤ人であることを規定する。自由主義で信仰のないユダヤ人達がイスラエルで勢力を振るうが、聖書でいう真実に関しては世界の異教徒と同様に惑わされ、メシヤとみなされるこの人物のカリスマ性、そして世界メディアの欲するところに騙される。今日、米国は 「大サタン」 とも呼ばれているが、これには何か意味があると思われる

o 民と民との間 (部族間の) 戦争および内乱として、世界中に暴虐が増える。地球上から平和が奪われ、人々はお互いに殺しあうようになる(ヨハネの黙示録6:3-4)

o インフレ、貧困、食物不足が極端に激しくなり、一日分の俸給で買えるのは一人一日分の食物のみとなる (ヨハネの黙示録6:5-6)

o 戦争、飢饉、疫病、獣などにより、世界人口の 1/4 が極短期間に命を失う。この獣には、ウイルス、バクテリアなどの細菌も含まれる。1995 年の終わりに、新種の感染症各種がタイム誌で特集され、「悪意に満ちた小さい獣」と同誌では呼んでいた (ヨハネの黙示録 6:7-8)

o 信仰を改め、イエス キリストの信奉者となる人が増えるが、殆どの改宗者は殺される (ダニエル書7:21)

o 大地震が起こり、日は暗くなり、月は血に変わり、全ての山と島 (水中の山) が動く (ヨエル書2:30-32)

o 上記の大地震の後、地球上につかの間の平穏が訪れ、生き延びた人達は虚偽の安心感を抱く

o すい星や流星が地上に落ち、地の 1/3 、木と青草の1/3 が焼けてしまう(ヨハネの黙示録8:7)

o 流星が地上に落ち、海が血で赤く染まり、海の中の生き物の 1/3 が死に、舟の1/3 が壊される(ヨハネの黙示録 8:8-9)

o 「苦 (にが) よもぎ」 と呼ばれる 「星」 が空から地上に落ちてきて、淡水の1/3 が苦くなり、そのため多くの人が死ぬ(ヨハネの黙示録 8:10-11)

o 太陽の 1/3 、月の1/3 、そして星の1/3 が暗くなる。昼の1/3 が明るくなくなり、夜の1/3 もその闇を失う(ヨハネの黙示録 8:12)。地球の回転が変わり、一日が24 時間の代わりに 16 時間になるであろうと考える者もある(ヨハネの黙示録 8:12)

o 恐ろしいいなごのような生き物が地中から出てきて、イエス キリストの信奉者でない人々だけを襲う。襲われた者は激痛を経験するが、この状態が続くのは5 か月間だけである(ヨハネの黙示録 9:1-11)

o 馬に似た生き物 2 億頭を率いる騎兵隊が人類の1/3 を殺害する(ヨハネの黙示録 9:13-19)

o ユダヤ系の人物二人(証人として知られている。以下、第 7 項を参照) が3 年半イエスキリストの福音を説き、7 年間続く患難の中間期に殺される。3 年半続く世界的な干ばつはこの二人の行いによるが、反キリスト者 (聖書中、獣として知られる) に殺害される

o 物の売買を行う者は、右手か額に刻印を受けていなければならない。この刻印を押された者は、醜く激しい体の痛みを短期間経験する (ヨハネの黙示録 13:13-18)

o 海が死人の血 (凝結?) のようになり、その中の生き物がみな死んでしまう (ヨハネの黙示録 16:3)

o 川と水の源がみな血になる (ヨハネの黙示録 16:4-7)。

o 地球上の人々が、太陽の激しい熱で焼かれる (ヨハネの黙示録 16:8-9)

o 反キリストの座と国に暗闇が訪れる (ヨハネの黙示録 16:10-11)

o 日の出る方から来る王達に対し道を備えるために、ユウフラテ川が枯れてしまう (ヨハネの黙示録 16:12)

o 神を相手に戦うため、ハルマゲドンに全世界の王達が集まるが、大地震が起こり山々や島々がことごとく消え去る。100 ポンド (45 キロ) ほどの大きな雹が、集まった兵士達の上に天から降ってくる (ヨハネの黙示録16:17-22)

o この大地震の後間もなく、主の軍勢と共にイエス キリストが戻られ、地球は主のものであると宣言なさる (ゼカリヤ書14:3-5)

二人の証人に関する事象

この二人の証人は、携挙前は主イエスキリストに従わなかったが自分の重大な過ちに気付き神を求めるようになる人々に対し、神が賜わったものです。この証人達は福音を説き、精神の救いをメッセージとして後に残された者達に希望を与えます。ただし、地獄と化したこの世をどうしたら避けることができるかに関するメッセージはありません。何故なら、この患難を避けることはできないからです。もしこの世に置き去りになった場合、あなたは苦しみを味わい恐らく死んで行く運命にあります。但し、まだ救われる望みはあります。二人の証人の言葉を聞き、神に救いを求めるのです。

この二人の証人が誰であるのか、聖書には示されていません。昔の預言者エリヤとエノクは死んでおらず、証人はこの二人であると考える人も多いのです。いずれにしても、この二人の証人が原因でさまざまな自然現象が起こり、この世の財産や経済が混乱状態に陥ります。降雨を止める力を持ち、この二人が死ぬまでの3 年半は地球上に干ばつが生じます。水を血に変えてあらゆる疫病を生じさせ、この世に住む民の人生を惨めなものにするのもこの二人です。また、この証人に立ち向える敵はなく、二人を殺そうと思う者が逆に殺されてしまうほどです。爆破しようと思うと逆に爆破され、銃で撃とうと思うとその銃が自分の手中で炸裂し、毒を盛ろうと試みると逆に毒で死にます。この二人の命を奪うことができるのは世界の独裁者だけですが、これも神がそれを許す時にのみ起こります。

この二人の証人は、何故民に苦しみをもたらすのでしょうか?それは、一人でも多くの人に悔い改め神の救いを求めて欲しいからです。この苦しみがあまりに大きいため、かれらが世界の独裁者に殺されると、世界中の人がクリスマスを祝うようにこれを祝って互いに贈り物をし合います。この死から 3 日半後、万人が見守る中で二人の証人は復活し、神が「ここに上ってきなさい」 と言われると、彼らは天に上って行きます。かれらを殺した直後、世界の独裁者は、自分は神であると宣言しますが、実は反キリスト者なのです。

ユダヤの証人 144,000 人に関する事象

携挙後間もなく、神は 144,000 人のユダヤ人信者からなる軍勢を召集し、世界中のユダヤ人に希望を与えるべく送り出します。ユダヤ人のベストフレンドであり最も忠実な支持者は、いつの世においても、信仰の深い真のキリスト教徒でした。イスラエルおよびユダヤの人々を支援・支持したのも、この人達です。携挙により地球からキリスト教徒が消え去り、ある目的のためにこの144,000 人が喚起されたのです。かれらは、イエスがメシヤであることを世界中のユダヤ人に示します。この144,000 人は、イエスが弟子達に教えたように、二人一組で全世界に送り出されます。保護のためにイスラエルの和平協定締結に反対するのも、反キリスト者を認識するのも、また、ユダヤの砂漠に神が準備された秘密の隠れ場所に世界中のユダヤ人を匿うのもかれらです。かれらは一般の人とは異なります。女に触れたことがなく、勇気を持ち、怖いもの知らずであり、信仰が篤く、おそらくバプテスマのヨハネのような人々です。144,000 人の承認に関する詳細は、ヨハネの黙示録第 14 章を参照してください。

金銭的事象

硬貨は過去のものとなりますが、銀行や政府当局が通貨、硬貨、および書類取引をなくそうと長年試みてきたことを考えると、別に不思議なことではありません。通貨や硬貨は製造費が高くつき、麻薬密売に結びつき、技術が発達したお陰であまりにも簡単にニセガネ造りができます。銀行では、経費項目として出納係の役職を削除してしまい、紙の小切手や紙幣もなくし、金融取引はすべてコンピュータで行うことを望んでいます。個人個人の金融取引は、すべてデビットカードで行われるようになります。但し、携挙後、つまり二人の証人が殺された後のことですが、物の売買を行うには右手か額に刻印を押してもらなければならなくなります。お願いですから、何があっても、どんな理由にしろ、この刻印を押されないようにしてください。「獣の刻印」として知られるこのしるしを受けると、永遠に地獄を経験することになるのです。このしるしを押してもらうことは、反キリスト者に忠誠を誓うことです。あなたにとり地獄は永遠のものとなるので、楽しめるうちに人生を楽しんでください。この段階で、神はすでにキリストの信奉者とサタンに従う者とを区別しているのです。獣の刻印を持つ者は、しるしを持たない者に迫害を加えます。しかし神の裁きにより、刻印を持つ者の体には非常に醜いできものができ、その痛みは耐え切れないほど激しくなります。

では、獣の刻印を持たない者は、どのように生き延びて物の売買をするのでしょうか?殆どの場合生存は不可能ですが、反キリスト政府にいても反キリストを信じない人々がいるのです。こういった人々は、「勝利者」を選ぶ 「生存者」 であり、そういった人間関係から利益を得ようとしているだけに過ぎません。ですから金(きん) を蓄えておいてください。金はこれまでも金銭としての価値を持っていましたが、現金を使わない社会となっても、それは変わりません。こういった不当利得者を探し、この人物から食物や生活必需品が買えます。但し、どれだけの金があり、どこに蓄えてあるかは絶対に教えないようにしてください。こういった人物のカモになるのでなく、ディーラーとしてあなたの価値を上げるのです。但し、額に刻印を持たないと、それなりに払わなければならない代価はあります。明らかに公の場で生きていくことができないので、遠隔地域もしくは大都市の郊外にある森の中に隠れて住むことになるでしょう。あなたはただ生き延びるために食べ、民兵組織に見つからないよう一生逃げ続けるのです。もし見つかったら殺されるか奴隷にさせられる、これがあなたの運命です。

携挙前に本マニュアルを読み、携挙後も生き延びるつもりの方は、食物と生活必需品を蓄えてアクセスしにくい遠隔地域に隠しておくのがよいでしょう。自己防御のための武器や医療用品も生活必需品の一部です。

安全性の問題

今の時代にはこれまでの人類史にも類がないほどの暴虐が蔓延し、死、残虐性、破壊が日常茶飯事となります。携挙後の最後期を最も端的にあらわす状態は、平安の欠如です。世界中で内乱が起こり、人々は無差別にお互いを殺し合うようになります。無作為的な暴力行為に人々は震え上がります。カージャック、家屋侵入、車からの乱射、および爆破事件の数が急激に増えるので、安心感が消え失せてしまいます。

こんな時代を生き延びるには、社会から離れてアクセスしにくい遠隔地に住まなければなりません。同じ考えの人達と共に行動すれば、サポートや安全性も増します。

先ほどもお話しましたが、食物、医薬品、生活必需品、武器、および金を蓄えましょう。7年分の蓄えが必要です。携挙が起こった後、3 年半の間世界的な干ばつが起こり、流星あるいはすい星のような物が地上に 3 回落ちてくるので、野生動物や魚の数が激減し破壊されます。従い、狩猟や魚釣りで食物を補充しようとは思わないでください。3 年半続くこの干ばつは、二人の証人によって引き起こされます。天から落ちてくる最初の物体は、地球上の木と青草の1/3 を破壊します。二番目の物体はどちらかというと流星に近いものですが、これにより海の生物の1/3 および舟の1/3 が破壊されます。三番目の物体は全ての川や水源地の1/3 を汚染し、多くの人々が死んでしまいます。言うまでもなく、これが原因で世界人口に対する食物供給源が極端に減り、食物の値段が暴騰します。これまで食事を一度も欠かしたことがない人、または心配する必要がなかった人々が飢えというものを覚え、長期間食べ物がないという状況を経験するようになります。その結果暴力が増え、人々はますます自己中心的かつ短気になり、足りない食料源を取り合います。イエスはこのような時が来ることを、「多くの人が互いに裏切り、憎み合うであろう・・・また・・・多くの人の愛が冷えるであろう」と弟子達に予言なさりました。

医療問題

携挙前の世界は、健康・医療面での大惨事、新種の感染症、および絶滅した若しくは管理下にあると思われていた病気の再来などを経験します。過去20 年間に見られたのは、エイズやエボラウイルス、人食いバクテリア、結核の再来、不治の淋病、ヘルペスなど実質的に全治不可能な性病多種です。戦争、飢饉、および疫病により世界人口の1/4 が死に、事態は携挙後も回復に向かいません。二人の証人が殺され、右手もしくは額に刻印を押されるようになった後、非常に醜いできものが人々のからだにでき、その痛みは耐え切れないほど激しく、惨めな人生となるのは確実です。

以上に加え、世界的に不景気な経済状態、および 3 年半続く干ばつにより不足する水の供給源のために、ヨーロッパや北米の先進国においても衛生に関する慣習が低下します。水洗トイレや風呂、衣類の洗濯、または下水を水処理施設まで送るだけの水が不足し、その結果、発疹チフス、コレラ、サルモネラ、および E. コリ感染症の件数が増えます。

ですから、携挙でキリストに会う機会を拒んだあなたにとり今後の問題は、携挙後にどう健康を維持していくかです。ビタミンC や E などの酸化防止剤およびミネラルに重きをおいた総合ビタミン剤を蓄えなければなりません。殺菌剤の蓄えをしておくことも大切で、安全な飲料水確保のため、特に水に入れて使用できるものが必要です。

そして、何よりも大切なのが、右手もしくは額に獣の刻印を押されないことです。一旦しるしを受け入れると、もう誰もあなたを救うことができません。悪性のできもので一生苦しむようになります。あなたは口内びらんを経験したことがありますか?経験があれば、小さいタダレが一つあるだけでどれほど痛いかお分かりですね。ここでいうできものは、口内びらんが全身に広がったようなものです。あなたの生殖器や口の中にも広がった悪性のできものを想像してみてください。その激しい痛みを想像しただけでも生きていくのが辛くなります。そして、この苦しみの後には、永遠に地獄の苦しみが待っているのです。ですから、何があっても獣の刻印を受け入れないようにしてください。

以上、『携挙後のサバイバルガイド』(PDF)より転載 http://www.raptureready.com/translation/japanese/survival-guide.pdf

『携挙後のサバイバルガイド』の患難時代の予想内容は、基本的には聖書の記述に基づくものであるが、あくまで現代の視点から見たものなので、少し未来の患難時代においては現実は大分様変わりしているものもあろう。しかしながら、シナリオの大筋は的を射ていると思う。

※もっと詳しく知りたい方は、下記のサイトから『黙示録』の連続講解説教を聴くように。特に「携挙」(患難前携挙説の妥当性など)については黙示録4章、「患難時代」については6~19章で細かく教えている。聖書は究極の人生のサバイバルガイドである。

MGFの型破り牧仕カズによる聖書連続講解説教集

最後にもう一度言う。イエス・キリストを罪からの救い主と信じて、患難時代からも永遠の滅びからも救われてほしい。携挙は近い。なぜなら、患難時代が近いからだ。反キリストの登場する舞台は整った。

「あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。」(1コリント6:9~11)

「・・・血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」(同15:50~52)

「神は言われます。『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』」(2コリント6:2)

携挙の後に残された時、どうするべきか?

携挙の前にこれを見ている信者の方へ。

携挙の後にこれを見ている方へ。

携挙に残された人への手紙