12 クリスチャンの名言・名句集(Christian Famous Quotes)
クリスチャンの名言・名句は他ページにも散らしてあるので宝探しをしてみよう!
ここで信仰の達人たちの珠玉の名言に必ず出会えるはず。
「祈り」に関する名言は「MGFメンバーによる祈りのリクエスト(MGF Member's Prayer Request)」 のページにまとめられています。
「聖書」に関する名言は「バイブル・スタディーの極意七か条(Seven Points on How To Study the Bible)」のページにまとめられています。
C・S・ルイス(C.S. Lewis 1898-1963 英国の学者・作家・キリスト教弁証家)
「車はガソリンで走る。神は人間が神によって走るように設計された。神ご自身が燃料となり食料とならねばならない。それ以外に幸せになる道はない。」
「神は人がエンジンを発明したように、人を創りました。車はガソリンで走るのです。他のものでは動きません。神も、神自身によって動くように人を造られたのです。神が体内で燃焼して、人の魂に燃料補給することで動き続けるように神は人を創られたのです。だから、宗教と離れたところから神に幸福を祈るのはよくないのです。神は幸福や平和を神から離れた場所では与えてくださらない、そんなところにはないのですから。 」
「私たちは、神様に捧げようとしているものだけを持つことが出来る。自分のために取っておくものは、必ず失うであろう。」
「永遠に続かないものはみな、永遠に役に立たないものである。」
「私たちが自らを神にゆだねていくに従って、私たちは本当の自分自身に帰っていく。なぜなら、神が私たちを造られたからである。神は人間をそれぞれ他の人とは違う者として造られた。あなたにも私にも本来意図されている姿があるのである。・・・私たちがキリストのもとに立ち返り、自分自身を神に明け渡す時、私たちの個性は初めて息を吹き返すのである。」
「神はわれわれの楽しみの中でささやかれ、われわれの良心に語られる。しかし、われわれの痛みの中で叫ばれる。痛みは耳が不自由な世界の人々を覚醒させるメガホン(拡声器)である。」
「誰よりも熱心に働いた人は未来志向の強い人であった。天国を狙え、そうすればあなたとあなたの周りの人々の魂を救う。地上を狙うならあなたはすべてを失う。」
「天国を目指せば、地上も添えて与えられる。だが地上を目指せば、どちらも手に入らない。」
「生き物に願望があるのは、願望を満足させてくれるものが存在しているからだ・・・赤ん坊は空腹を感じる。それは、食べ物というものが存在するからだ。アヒルの雛は泳ごうとする。それは水というものが存在するからだ。人は肉欲を覚える。それはセックスというものが存在するからだ。もし私がこの世界では満たされない願望を抱いているとしたら、それは私が別の世界のために造られたという説明ぐらいしか成り立たないだろう。」
「クリスチャンであるとは、赦しがたい人々を赦すことである。神があなたの中にある、赦しがたいものを赦してくださったからである。」
「天国を選ばずにこの世を選ぶなら、この世ははじめから地獄の一地域にすぎなかったことを人は知るだろう。これに反して、もしこの世を天国の下位におくならば、それははじめから天国そのものの一部であったことがわかるだろう。」
「失敗とは達成に至る道の道しるべである。」
「『すべての人を愛している』と言う人は、人を個人的に愛することの責任逃れの口実を言っているにすぎない。」
「地獄の扉は内側から鍵が掛けられている。」
「赦しとは公平さに関する人間の常識を超えたもので、まったく容赦できないものを容赦することだ。」
「人間の苦しみと愛の神の存在とを矛盾なく理解しようという問題は、私たちが愛という語に通り一遍の意味を付している限り、つまり人間こそが全ての中心であるかのように思いなす限り解決できないのです。人間は中心ではありません。神は人間のために存在したものではないし、人間もまた、人間自らのために存在するのではないのです。」
「神に出会う時、わたしたちはあらゆる点でわれわれよりも無限に優越しているものに直面することになる。神をそのようなものとして理解しない限り――したがって、これと比べれば自分は無に等しいと考えない限り、神を知ったことには全然ならない。われわれは、倣慢である間は、決して神を知ることができない。倣慢な人はいつも事物や人びとを見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのは当たり前である。」
「キリスト教は人々に悔い改めを命じ、かつまた赦しを約束する。したがって、悔い改めなければならないようなことはやった覚えのない、また赦してもらう必要を感じない、そういった人々に対しては、キリスト教は語るべき言葉を全く持っていない。」
「『悔い改めることなしに、あなたのもとに引き返させて下さい』と神に求めるのは、『引き返すことなしに、引き返させて下さい』と求めるのと同じである。」
「自己というものを意識した瞬間、自分が何よりもいちばん可愛いい、自分が世界の中心になりたい、いや、はっきり言って神になりたいという、そういう気持ちを抱く可能性が生ずる。これがまさにサタンの罪であり、またサタンが人間に与えた罪だったのである。」
「神に対するわわれわれの愛について考えるよりも、われわれに対する神の愛を考えた方が安全である。四六時中敬虔な感情を持ち続けることは、だれにもできることではない。仮にできたとしても、神の主要な関心はそのような感情には向けられてはいない。」
「クリスチャン生活のすべては、キリストのそのすばらしい贈物を受け入れることから成り立っている。」
「人間が、神を試験官や取り引きの相手と考えている限り、自分と神との関係を債権・債務といった形で考えている限り、彼はまだ神との正しい関係には入ってはいない。彼は、自分が破産したという事実を発見するまでは、神との正しい関係に入ることはできないのである。」
「教会は人々をキリストの内に引き入れ、彼らを小さいキリストとすること以外のどんな目的のためにも存在しない。もしこのことをやっていないなら、すべての聖堂、牧師、伝道、説教、聖書そのものさえも、単なる時間の浪費に過ぎない。」
「われわれは、自分が犯した個々の罪深い行為のほかに、自分の罪深い性質そのものに気づき始める。自分が行なうことに驚くばかりでなく、自分の心のあり方それ自体に驚くようになる。」
「わたしたちが『自己』というものを除去して、キリストに自己を支配してもらえばもらうほど、わたしたちはますますほんとうの自分になることができる。」
「聖書の言葉に常に戻る必要がある。当然のことながら、私たち人間が神を記述する方法を知っているよりはるかに、よく神はご自身を記述する方法をご存じなのである。」
「神が人となった。これはひとつの『宗教』でもなく、またひとつの『哲学』でもない。それは、これらすべてをまとめあげて実象とするものなのである。」
「人間は結局、二種類に分けられる。神が『汝の意のままになれ』と言う人と、神に『御身の意のままに』と言う人だ。地獄に行く者はみな、自分で地獄を選んでいる。」
「彼らは、罪の快楽について『これだけはやらせてくれ。あとの責任はおれが負うから』などと言う。だが彼らは、呪いが過去へ過去へとひろがって行き、その罪のよろこびをも汚染してしまうことを、夢にも思わないのだ。」
「地獄のうちにある一切の孤独感、怒り、憎しみ、ねたみ、欲望をまるめて一つの経験とし、これを、天国のいと小さき者が感ずる、わずか一瞬間の歓びと並べて、天びんにかけたとしたら、それは目盛りの針を動かすに足るほどの重ささえも持っていないことがわかるだろう。」
「あなたが自分自身を求めるなら、あなたは結局、憎悪と孤独と絶望と怒りと破滅と腐朽とを見出すだけであろう。しかし、あなたがキリストを求めるなら、あなたはキリストを見出し、そのおまけとして、万物をも見出すのである。」
「天賦の美点を持っている人々は、たいてい、自分がキリストを必要としていることをなかなか自覚しない。ついにある日、その天賦の長所が彼らを失望せしめ、彼らの自己満足を粉砕してしまうまでは。この意味における『富める者』が天国に入るのはむずかしいのである。」
「大金持ちであることの危険の一つは、金で買えるようなたぐいの幸福にすっかり満足して、そのために神の必要を認めなくなることである。」
「ほめられたことをあまり喜ばず、自分の立派さを喜ぶという傾向が強まるにつれ、われわれはますます悪に落ちて行く。人の称賛には目もくれず、自分のことばかり考えて喜ぶようになった時、ついにわれわれは悪のどん底にまで達したのである。」
「人にほめられて喜ぶのはプライドではない。問題が起こるのは、『こういうことをやってのけたのだから、わたしはよほど立派な人間であるに違いない』と思うことへ移行したときである。」
「われわれは傲慢である間は、決して神を知ることができない。傲慢な人はいつも事物や人々を見下している。見下している限り、自分の上にあるものが目に入らないのはあたり前である。」
「高慢な者は何かを所有しただけでは喜ばない。人より多く持って初めて喜ぶのである。人は金持ちであることや、頭が良いこと、見目麗しいことなどを誇るのだとわたしたちは言うが、実際にはそうではない。人は、他人よりもお金をより多く所有し、より賢く、より外見が良いときに誇りを感じるのである。人が皆同様に裕福で、頭が良く美しいならば、誇るものは何もない。人を高慢にするのは比較である。すなわち、自分は他よりも優れているという優越感である。競争心という要素がなくなれば、高慢もその姿を消すのである。」
「クリスチャンになった当初、私は自分だけで信仰者としてやっていけると思っていました。部屋にこもって神学書を読めば、教会に行く必要などないだろうと…。私は教会で歌われている賛美歌が大嫌いでした。私には質の余り良くない歌詞が、それよりさらに質の悪い調子っぱずれなメロディに載っかっているものとしか聞こえなかったのです。しかし後に教会に集うことに大きな意味があることを知るようになりました。見た目も教育レベルも全く違う人々に出会うにつれ、最初私の中にあったうぬぼれはじょじょに剥がされていきました。賛美歌は、たとえ音楽的には調子っぱずれであったとしても、心をこめて歌われていたことを、そして隣の席でゴム底の靴をキィキィいわせていた老人は、実は素晴らしい神の人であり、私はその靴をみがく資格すらない者であったことを知ったのです。教会は人をひとりよがりなうぬぼれから引き出してくれるのです。」
「幸いなことに、私たちは自分のうちに傲慢の危険性をテストする方法があります。信仰生活を続けているうちに自分がよい人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べてずっとよい人間であるかのように感じるようになったとしたら、それは神ではなく、悪魔が私たちに働きかけていることなのです。自分の前に神が臨在したもうという確かな証拠は、自分のことをまったく忘れてしまうか、自分をごくちっぽけな、汚らわしいものであると感ずることです。」
「最も難しいことの一つは、聴衆のまえに一貫して真理の問題を置くことです。聴衆はきまって、あなたがキリスト教を説くのは、それが真理ではなく、それがよいものだからだろうと考えています。彼らは討論に対して、『キリスト教は真理か否か?』という問題を避けて、スペインの宗教裁判の問題、フランスの問題、ポーランドの問題など、他のもろもろの問題を取り上げて、その中に逃げ込もうとするでしょう。あなたは彼らを繰り返し、真の問題へとともない帰らなければなりません。そうすることによってはじめてあなたは、『ある程度の宗教は結構だが、凝りすぎるにはどうも』といった考えを切り崩すことができるのです。あなたは指摘しつづけなければなりません。---キリスト教は、もしそれが真理でなかったらまったく無意味だが、真理だとすれば、無限の重要性をもっているということを、ぜったいに受け入れられないのは、『キリスト教もわるくはない』といった考えです。」
「どなたか謙遜さを自分のものにしたいと思う方がおられるなら、わたしはその第一歩を教えて差し上げることができるように思う。その第一歩とは、自分が傲慢だということを自覚することである。----少なくても、この一歩を踏み出すまでは何もすることはできない。」
「家庭管理は世の中で最も重要な仕事である。船や鉄道,鉱山,車,政府などは,人々が各家庭にあって衣食足りて安全な生活が送れるようにすること以外,ほかに何のために存在するというのだろう。……私たちは平和を得るために戦争を行ない,余暇を楽しむために働き,食べるために食物を生産する。あなたの仕事は他のすべての人が存在するために行なう仕事である。」
「手放せなかったものは、実際には自分のものにならないだろう。」
「私たちは、自分はこうであると信じる通りの者である。」
「天は欲得だけの魂が願うものを何一つ与えない。」
「試練というものは、神が私たちを見捨てられたことではない。そういうことでは決してない。それは私たちを引き戻される神の愛である。」
「ひとたび人間が神様に結ばれたなら、彼は、どうやって、永遠に生きられない、と言えるだろうか。ひとたび人間が神様と別れてしまったら、彼には何ができるだろうか。衰えて死ぬしかないだろう。」
「これは、愛すべき点を一つも持たない人々をも愛することを意味する。だが、そう言えば、われわれ自身何か愛すべきところがあるだろうか。ただ自分が可愛いから、自分を愛しているのではないか。神はわれわれに、自分だけでなくすべての人間を、同じように、同じ理由から、愛するように求めたもう ... それは神が私たちを愛する愛し方である... 神がわたしたちを愛したもうのは、われわれに何かよいところとか魅力的なところとかがあるからではなく(自分ではあると思っているかもしれないが)、ただわれわれが魂をもったそんざいであるからである。われわれに愛すべきところなどあろうはずはない。人を憎むことに喜びを感じ、その喜びを断念するのは酒や煙草をやめるほどつらい-これがわれわれのけちな根性なのだから。」
「神の仕事は、私たちにとっては痛みを伴う体験となり得ます。しかし、神の最終ゴールは、私たちをより良い者に造り変えることです。 自分のことを生ける家だと考えてください。神がその家をリフォームするために入って来られます。最初は恐らく、神が何をしようとしておられるか、理解することができるでしょう。神は排水管を修理したり、屋根の雨漏りを止めたりなさいます。このような作業は当然のことですから、その段階では驚くことはありません。 ところが、神は家のあちこちを叩たたき壊し始めます。それが痛いのです。いったい何が起こっているのかと私たちは考えますが、神は私たちが想像もしなかったような新しい家を建てようとしておられるのです。新しい部屋が付け加えられたり、家の階数が増えたり、塔とうが建ったり、中庭が造られたりしていきます。 自分では、すてきな小邸宅が出来上がるのだろうと予想していたのですが、神はそれを王宮に作り変えようとしておられるのです。神はその王宮に来て、ご自身がそこに住まおうとされているのです。」
「罪からまだ抜け出せていない人間を赦すべきだと神に要求することは、 大目にみることと赦すことの意味を混同させているからである。大目にみるとは、悪を見なかったことにし、まるでそれが元々良いものだったように扱うことだ。しかし赦しは受け入れられ、ほどこされることなしに完了しない。罪悪感がない人間には赦しも存在しない。」
「結局は、地獄の教義へ異議申し立てする人々への答えは『あなたは神様に何を望んでいるのか?』と言う疑問になる。過去を消し去り、道をなだらかにし、いかなる代価をも払い、新しい出発を与え、あらゆる奇跡的な助けの手を差し伸べることか? しかし、それはすでにイエスが死なれたカルバリの丘で成し遂げられている。赦しを与えることか? 彼らは赦されようとしない。ほおっておくことか? あぁ、残念ながら主はそのようにされている。」
「人間が罪の中から救われるためには、罪を認めて、苦しみ、悔い改めて死ななければならない。そのためにわれわれは神の助けを必要としている。それは神が義なるゆえに外せないどうしても必要な罪の贖いの過程。しかし、神は本性としてそのようなものをお持ちではない。神は御自分が持っているものなら分け与えることができるが、持っていないものは分け与えることが出来ない。しかし、もし神が人間になったとしたらその融合した人格はわたしたちを助けることが出来る。彼は、人間であるゆえに、自己の意志を放棄し、苦しみ、また死ぬことが出来る。しかも、神であるがゆえに、それを完全に成し遂げることが出来る。・・・神が死ななければ、われわれは神の死にあずかることが出来ない。さらにまた、人間にならなければ、死ぬことが出来ない。このような意味で、神は我々の負債を払い、御自身は全然苦しむ必要のない苦しみをわれわれのために苦しんで下さるのである。」
「悪魔はあなたがどんなどんなに貞潔な勇敢な自尊心に富んだ人間になろうとも、あなたのうちに自尊心という独裁者の支配を確立することさえできれば満足なのです。つまり、人間のうちに(自尊心という)癌を植え付けることを許してもらえるとすれば、手足のしもやけが治っても悪魔は意に介しません。傲慢は、いうなれば霊的な癌です。それは愛や満足、いえ、良識の可能性さえ、蝕んでしまいます。」
「幸いなことに、私たちは自分のうちに傲慢の危険性をテストする方法があります。信仰生活を続けているうちに自分がよい人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べてずっとよい人間であるかのように感じるようになったとしたら、それは神ではなく、悪魔が私たちに働きかけていることなのです。自分の前に神が臨在したもうという確かな証拠は、自分のことをまったく忘れてしまうか、自分をごくちっぽけな、汚らわしいものであると感ずることです。婦たちの姿勢のうち、自分をまったく忘れてしまう方がいいと思います。」
「神は私たちがご自分のものになるまで、私たちを祝福することができません。自分自身のものである領域を保持し続けようとするなら、死の領域を保とうとしているようなものです。それが理由で神は愛の内に、あなたのすべてを要求されるのです。神と駆け引きすることなどできません。」
「私たちは中途半端な生き物である。無限の喜びが提供されているのに、飲酒や性欲や野心で時間を浪費している。まるで何も知らない子どもが、海辺で休日を過ごそうと言われているのに、どういうことか理解できず、そんなことよりスラム街で泥遊びをしていたいと言っているようなものだ。私たちは、あまりにもつまらないもので喜びすぎている。」
「なぜ敬虔で、謙遜で、信じている人々が苦しむのかが問題ではなく、なぜ人々が敬虔で、謙遜で、信じていないのかが問題です。」
「人の霊的健康は、正確に神に対する彼の愛に比例します。」
「神は、待つことが本人のためになるからこそ待たせなさるのであって、そうでなければ決して待たせたもうことはない。」
「キリストはこう言うのだ。『わたしにすべてを与えなさい。わたしは、あなたの時間をこれだけ、あなたのお金をこれだけ、あなたの仕事をこれだけ、欲しいというのではない。あなた自身を欲しいのだ。わたしはあなたの自然のままの自我をいじめにきたのではなく、殺しにきたのだ。中途半端ではなんにもならない。わたしは、この枝あの枝を切り取ろうというのではなく、木全体を切り倒してしまうことを求めているのだ。歯に孔をあけたり、かぶせたり、つめたりしようとするのではなく、それを根もとから抜いてしまおうとしているのだ。生来の自我全体を、あなたが悪い欲望と考えるものばかりでなく、罪のない欲望と考えるものも含めてすべての欲望を、つまり一切合財を、わたしに渡しなさい。そうすれば、わたしはあなたに新しい自我を与えてあげよう。いや、わたし自身を与えよう。わたし自身の意志があなたの意志になるように』。」
「人間は、真理の弁護ばかりしているわけにはいかない。真理によって養われる時も必要だ。」
「自分の信じていることをたえず思い起こすことが、われわれには必要である。キリスト教的信念にせよ、他のいかなる信念にせよ、一度受け入れさえすればあとは自動的に心の内に生き続ける、というようなものではない。」
「わたしが夜の祈りを捧げようとしてその日に犯した罪を数えようとすると、最もあからさまな罪は、十中九まで愛の徳に反するものである。むくれたりとか、がみがみ言ったりとか、そういった罪である。このような罪に対し、すぐに心に浮かんでくる言い訳は、不意をつかれたので気持ちを整える余裕がなかったのだ、という弁解である。しかし、人が不意をつかれてやることは、その人がどういう人間であるかを最もよく示すものではあるまいか・・・」
「ひとつひとつの選択や決断によって、その人の核となる部分、選択を決定づける中心の部分が、少しずつ変えられてゆく。」
「すべての回心は、祝福された敗北の物語です。」
「耐え難い苦難はしばしば、平凡な人々に、非凡な運命のための準備をさせる。」
「世界中の人間がだれ一人としてまぬがれることのできない一つの悪徳がある。人びとはそれを他者の中に見て嫌悪を感じるが、自分もその罪を犯しているとはほとんど夢想だにしない。この悪徳とは何か。それは傲慢あるいはうぬぼれである。悪魔が悪魔となったのは、高ぶりのゆえであった。高ぶりは、人を他のすべての悪へと導いていく。それは完全に反神的な心の状態である。そして、傲慢は本質的に自己が『他と競うとき』に生まれるものである。」
「神様は自分の創造物に任せられることは、御自分でしょうとはなさらないようだ。神は自分なら完璧に、そして瞬く間になしえることを、ゆっくりと不器用に行うように私たちに命令なさる。」
「神は葡萄を創り、根を使って水を汲み上げ、太陽の助けでその水を果汁に変え、果汁が発酵して或る質を帯びるように、その樹に教えました。そのようにして、ノアの時代からわれわれの時代に至るまで、毎年、神は水をワインに変えています。それが、人間には見えないのです。」
「医者が行うのは、体内の自然の機能を刺激するか、障害を取りのぞいてやることなのです。われわれは便宜上傷を治すと言いますが、ある意味で、傷はすべて自分で治るのです。死体の傷にどんな薬を塗っても、新しい皮膚ができることはありません。天体を動かす引力と呼ばれる力、それは体を癒す時には生物学的力と呼ばれるのですが、それが、すべての回復を実際に起こす原因なのです。そして、もし神が存在するならば、その力は、直接にしろ間接的にしろ、神の力なのです。癒される人は皆、神が内なる癒し手として働くことによって、癒されるのです。」
「もし神が人となるということがどのようなことかを知りたいとしたら、あなたがナメクジになったときのことを考えてみるとよい。」
「もしも、あなたが真理を求めるなら、あなたは最終的に慰めを得るようになるだろう。もしもあなたが慰めを求めるならば、慰めも真理にもどちらにも到達しないであろう。それは、柔らかくなった石鹸を手でつかもうとし、まるでそれが手からするすると出て行き、結局は手の内に何も残らないのと同じである。」
「謙遜とは自己を卑下する事ではなく、自分を忘れてしまう事だ。」
「悔改めは楽しいものではありません。それは単に屈辱を甘んじて受けいれるというだけではありません。それは、人類が数千年間にわたって身につけてきたうぬぼれと自己中心主義を無条件に捨て去ることなのです。」
「クリスチャンには他の人間より大きな強みがある。他の人ほど堕落していないからでも、堕落した世界に住む呪いをそれほど受けていないからでもない。自分が堕落した世界の堕落した人間であることを知っているからだ。」
「神があなたを連れ戻す前に、あなたに要求していることが悔い改めではない。もし神がそうしようと思えば、神は悔い改めを免除することができる。悔い改めとはただ、父なる神のもとに戻ることなのである。」
「太陽を直接見なくても他の全てのものが見えることで太陽が昇っていることが信じられるように、私はキリスト教を信じている。」
「悪魔に関して人間は二つの誤謬に陥る可能性がある。その二つは、同じ誤りであり、しかも相反するものでもある。すなわちその一つは、悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度のそして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらいに喜んで歓迎する。即ち唯物主義者と魔法使いとを同じように喜んで歓迎する。」
「神の栄光をたたえよとの命令において、神はご自身を喜ぶようにと私たちを招いておられるのです。」
「何らかの祝福を失うとき、それに取って代わる祝福が、多くの場合、全く予期せぬ形で与えられる。」
「経験は残酷な教師だが、人を大きく成長させてくれる。」
「私は自分ではどうしようもないので祈ります。私は無力なので祈ります。私は寝ても覚めても常時私から溢れ出る必要のために祈ります。祈りは神を変えませんが、私を変えてくれます。」
「神を愛することを学ぶまでは、隣人を自分自身のように愛することはできない。神に従うことを学ぶ以外に神を愛することはできない。」
「毎朝目が覚めたとたん、その日のためのすべての願い事と望みが野生動物のようにあなたの所に押し寄せてきます。毎朝最初にすべき仕事とは、それをすべて後ろに押しやることです。他の声を聞き、他の視点を選び、他の、もっと大きくて、強くて、静かな人生が流れ込んでくるようにするのです。」
「人を救うのは、一歩を踏み出すことによる。そして次のもう一歩を。」
「失敗とは達成に至る道の道しるべである。」
「安全と幸福はお互いに対して、正直で、公正で、親切な個人、集団、国家にだけ訪れる。」
「小さな嘘は小さな妊娠のようだ。それがみんなに分かるまで時間がかからない。」
「失ってしまうだろう何かにあなたの幸せを依存させてはならない。」
「神が父でないならば、人間の同胞愛もありえない。」
「神の硬さ(厳しさ)は、人の柔らかさ(柔弱さ)よりも優しく、神の強制は、私たちの解放なのだ。」
「不幸せな時について素晴らしいのは、それを病気のように少しずつ、時間をかけて、受け止められることです。耐えがたいのは普通、今現在のことではないのです。」
「苦しい体験を乗り越えることは、うんていを渡るのに非常に似ている。あなたは前進するためにある時点で手放さなければならない。」
「もしあなたが自分を本当に心地よく感じさせる宗教を欲しているなら、私は間違いなくキリスト教はお勧めしない。」
「私たちはこの世を模倣しています。主の喜びの代わりになる大衆が願う捏造した楽しみを求め、聖霊の力の代わりになる安っぽく操作された力を得ようとします。」
「人間がキリストとの関係によって天国に行くのと同じように、少なくとも飼いならされた動物は人間との関係性を通じて天国に行くのかもしれない。」
実践的クリスチャンであるとは、「どんな行為も感情も、どんな経験も、喜ばしいものであれ不快なものであれ、すべて神と関連すべきことを意味する。」
「真の神のことばは、キリストご自身であって聖書ではない。正しい霊で読み、良い教師らの指導によって読む聖書は、私たちをキリストのもとへ導くものとなる。私たちは聖書を百科事典から引くように聖句を武器として使用してはならない。」
C・S・ルイスは、長い間、人の罪を憎むことのほんのわずかの違いがどうしてもわからなかった、と述べている。ある人のしたことを憎みながら、その人を憎まずにいるなど、どうしてできるのだろう。
★「しかし何年も後に、ずっとそれをある人に行なってきたことに思い至ったーーつまり自分自身にである。私は自分の臆病やうぬぼれ、貪欲をどれほど嫌っていようが、自分自身を愛し続けていた。そのことに関して、困難はほんの少しもなかった。実際、私がそれらを憎んだその理由は、私がその人を愛していたからで ある。私は自分自身を愛していたため、自分がそれらのことを行なうような人間だったことを発見して残念だったのだ。」
「聖書とキリスト教の伝統では、常に地上の苦しみに比して天国の喜びを思うものだ。このような思いを欠いた苦痛の問題の解決はクリスチャン的とは呼べない。今日、我々は天国について語ることをとても躊躇する。『絵に描いた餅の話か』と冷やかされることを恐れている。しかしながら、『絵に描いた餅』があるか、ないかのどちらかだ。なかったとしたらキリスト教はまやかしだ。なぜなら、(天国があるという)教えはキリスト教教理全体に織り込まれているからだ。もし(天国が)あるなら、この真理は、他のものと同様に、直視するべきだ。」
内村鑑三(Kanzo Uchimura 1861-1930 キリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者)
「人として生まれし最大名誉、最大幸福は、イエスを知り、彼に知られ、彼の友人となることである。」
「クリスチャンは思想の人ではない。さらばとて、また実行の人でない。クリスチャンは聖霊の人である。聖霊によりて神の知恵と大能とを実得するを得し人である。」
「日本国の大困難、その最大困難とは何でありますか、私は明白に申し上げます。それは、日本人がキリスト教を採用せずして、キリスト教的文明を採用したことであります。これが我が国今日凡ての困難の根本であります。…キリスト教文明とは読んで字のごとく、キリスト教によって起こった文明であります。しかるに、日本人はキリスト教的文明を採用し、その根本たり、原因たり、その精神たち、生命たるキリスト教そのものを採用しないのであります。」
「キリスト教は理想ではない、事実である。理想が事実となって顕れたるものである。すなわち真個の理想である。『なすべき』はキリスト教ではない、『なしうる』がキリスト教である。」
「我等は悪を避けんとするよりは、むしろ神と共にあらんことを努むべし。」
「人の計画は成りて敗れ、神の計画は敗れて成る。」
「負けて勝ち、踏みつけられて立ち、殺されて活くるのがキリスト信者の生涯である。」
「キリストの愛神主義は利他・利己両主義の上に超越して最も多く他を利して最も多く己を利するの道を教えたり。」
「信、信仰、信頼、人が成し得る最大の事業は自己を忘れ自己に死し、神を信じ、神に依り頼みて生きることなり。」
「信仰は自信にあらず。神を信ずることなり。世のいわゆる確信にあらず。神にたよることなり。」
「キリスト信者たる栄誉の一つは、よわき取るに足らざるこの身をもって、なおも大望を抱いて、その一部分を遂行しうるにあり。」
「キリストを道徳上の教師と見て、キリスト教ははなはだ厭うべきものとなる。何故となれば、彼の教うるところはあまりに理想的にして、肉なる弱き我らの到底及ぶところではない ことをさとるからである。しかしながらキリストを罪人の救い主と見て、キリスト教は非常に慕わしきものとなる。何故となれば、かかる救いは我らが何よりも要求するところのもの であって、これあれば、汚れたる我らも多少聖き生涯を送り得べしとの確信が我らの心に湧き出づるからである。我はまことに教師としてのイエスを仰ぐのではない、罪人の救い主 としての彼にすがるのである。」
「自分が働くのではない。主が働くのだ。自分が働こうとするから疲れる。主に任せるのだ。」
「わが休息はイエスキリストを信じること。ここに永遠の安らぎがある。」
「キリスト教は西洋の宗教ではない、また東洋の宗教でもない。キリスト教はこの世の宗教ではない、天国の宗教である。 」
「一日は貴い一生である。これを空費してはならない。」
「信仰は人によっては迷信のように見える。信仰は確かに一種の冒険である。これに従うとあるいは失敗に終わるかもしれない。しかしながら、信じるものは信仰が迷信でないことを知る。信仰は心に響く神の声に対する信者の応諾(応答)である。彼は形体(偶像)を見ない。また証明をもたない。しかしながら、彼は確かに信じるのである。まことに信じさせられるのである。彼にとっては信仰そのものが見えない所の物の証拠となるのである。彼はいう、私に信仰が起こった、だからこれに応じる実物がなければならないと。実物を持って信仰を証明するのではない。信仰をもって実物を証明するのである。これが信仰の力である。この力なくして信仰はこれを信仰と称することはできない。」
「キリストと彼の十字架のほかに信仰を求めない信仰。この世の事業の成功を求めない信仰。これは自己のきよめにおいて求めない信仰だ。単純な信仰。大胆な信仰である。イエス・キリストと十字架のほかに、社会事業も道徳もいらない信仰である。あたかもコロンブスが天の星に頼るほか。陸上の何ものも標的をもつこともなく、大洋に乗り出した時のような信仰である。そしてその信仰があってこそ。私たちは大宇宙を逍遥し、人を恐れず罪を恐れず、大声を歓呼して、新大陸でない、新エルサレムへと私たちの船を乗り出すことができるのである。」
「信仰はいつまでも外に発表せられずしているものではありません。」
「私たちはキリストを知ろうと願って聖書を学ぶのである。」
「神に依り頼んで恥辱を受けたことはない。」
「神を信じて天然はすべて奇跡的に解釈せらるるに至る。」
「実に欲しいものはこの信仰である。イエス・キリストと彼の十字架のほかに、社会事業もわが道徳もいらないという信仰である。」
「今の世にありてキリスト教を知らないことは大なる無学であります。」
「新事業を求めようと望んではならない、新生命を求めよ。」
「今もしキリストが世にあらわれたまいまして死者をよみがえらせたもうといたしますれば、これを目撃せし医学者らは、その奇跡なることは認めずして、ただちにその天然的理由の発見に着手するに相違ありません。すなわち神を信ぜざる者の眼には奇跡なるものはありません。」
「キリスト教は理論ではなく事実であり、実験である。」
「もし私に何か善きところがあるによって私が神を信ずるに至ったのでありますならば、私は第一に、なにゆえに世には私にまさってはるかに善い人がありまするのに、その人が神のことを聞くも神を信ずるに至らないか、その事がわかりません。」
「信仰は心に響く神の声に対する信者の応諾である。」
「正義清浄は人にはない。これを彼に要求しても私たちは失望しなくてはならない。しかし神の恩恵は限りなくあり、その清浄は尽きることはない。」
「もしこの世が私どもの持つ唯一の世でありますものならば、生命とはなんとつまらないものではありませんか。」
「私の運命を定める者は、私のために自己を棄てられた私の救い主イエス・キリストである。彼は私のために場所を備えるために父のもとに行かれた。彼はまた来て、あなたがたを私のもとに迎えると約束なさった。」
「人に憎まれるもよい、私はただ神の聖意を知りたいと欲する。」
「罪を発見することはキリストを発見するに至るの道であります。」
「労働は、飢寒を恐れてやむを得ず、いやいやながらわれらが従事すべきはずのものではありません。労働とはその真正の意味においては、神とともに働くことであります。」
「頼るべきは神であり、人ではない。人に依れば失望が絶えず、候伯に頼むと恥辱が多い。」
「神は愛である、したがって神が私たちにお与え下さる最大の恩賜は愛である。」
「信仰の道はなんとたやすいことか、ただお任せすれば足りる。そうすれば光明が私に臨み、能力が私に加わり、汚穢は私を去り、聖霊は私に宿る。信仰は完全に達するための近道である。」
「人は神から許されない間は、心から他人を許さないのである。・・・・・・。私の杯が溢れて後、私は隣人に私の喜びの温かみを伝えられるのである。」
「永遠から永遠に至るまで私の所有できるものは神である。」
「罪の中の罪とは、神を捨て去ることであります。盗むことも、殺すことも、姦淫することも、これにまさるの罪ではありません。否、これらの罪はすべて神を捨て去りし罪の結果として人の行為にあらわれてきたものであります。」
「神の事を知らんと欲せば、ことに神の心を知らんと欲せば、神の霊によるよりほかに道はありません。」
「神に依り頼んで恥辱を受けたことはない。」
「もっとも純粋なるキリスト教が神学校から出てくるかと思うと、けっしてそうではありません。」
「彼は言うのである、私に信仰が起こった、だからこれに応じる実物がなければならないと。実物をもって信仰を証明するのではない、信仰をもって実物を証明するのである。」
「聖書の聖書たるゆえんはまったくこの一事にあります。人が書いたものではありまするが、人が自分で書いたものではありません。神の霊が人の霊にくだって、人をして自由に書かせたものであります。」
「私の全生涯の目的は神を見、彼を私のものとすることにある。そのほかではない。」
「キリストが私の心の内に宿られて、感謝が私の生命となる時に、私のなしえない善は一つもなくなる。」
「あえて大事業をしようとせず、大伝道を試みようとせず、大奇跡を行なおうとせず、ただ神の命を重んじ、彼の言に従い、神を信じることこれが事業であると信じて、無為に類する生涯を送ることである。」
「イエスのかたわらに立ちては、ソクラテスもプラトンもモハメットもゾロアスターも、太陽の前に出た月や星のような者であります。」
「ああ人に死を怖れないものがあろうかです。また人に復活を望まないものがあろうかです。罪の結果として一度は死にあわねばならないならば、罪の赦しの結果として新しい体が与えられることは、人の心の奥底にひそんでいる当然の祈願ではございませんか。」
「栄光は恥辱の後に来る。人に嘲けられ、踏みつけられ、面前で卑しめられ、悪人として偽善者として彼らの蔑視するところとなって、その後に私たちに栄光は来るのである。まことに、恥辱は栄光の先駆であり、開拓者である。」
「神を知ろうと望むならば、この書(聖書)に頼るほかはございません。」
「神が神であるのは、人の善いことを思って悪いことを思わないからである。悪魔が悪魔であるのは、人の悪いことだけを思って人の善いことを思うことができないからである。」
「キリスト教の伝道は義務ではありません。特権であります。快楽であります。」
「教会は信仰を作りませんが、信仰はついに教会を作ります。」
「教会あっての信仰ではなくして、信仰あっての教会であります。」
「私は、罪とは人に対して犯したものではなくして神に対して犯したものであることを知りまするゆえに、この罪の苦悶を取り去ってくれた者はかならず神でなくてはならないことを知ったのであります。」
「信仰の生涯の大部分は忍耐である、静粛である、待望である。」
「聖書が神の書である確証は、それが学識の書ではなくて、実験の書であることにある。」
「キリストを信ずる者は聖書を信じます。聖書を信ずる者はキリストを信じます。しかるを、聖書によってキリストに対する信仰をこぼたんとするのは、親によって子を殺さんとするがごとき措置であります。」
「ただ一つの真の神とそのお遣わしになったキリストを知ること、これが永生である、最大幸福である、最大の賜物である。」
「救済はまず第一に、人を神に連れ帰ることであります。」
「もし私たちを善なる神に導くならば病気もまた善事である。」
「遠くこの宇宙を離れ他の宇宙に至っても、わが父はまたそこにある。」
「聖書はなぜ神の言辞であるかというと、もちろんその中に神でなければとうてい語ることのできないことが書いてあるからである。」
「世の教師は言う、『まず己を浄めてその後に世を浄めよ」 と。しかし神は言われる。『あなたがたは私を仰ぎ望め、そうすれば救われるだろう』と。」
「キリスト教がわかってみますと世人の生涯は夢の生涯であります。物でないものを物と解し、地獄に落ち行くのを天堂に昇り行くのであると解するほどの生涯であります。曰く戦争、曰く外交と。キリストの心をもってこれを見ますれば、これ小の小なる問題であります。」
「神は私のすべてである。神を失って私は私のすべてを失うのである。」
「私は私が罪深い者であるのを感じる、だから私には聖書研究の必要があるのである。」
「もし世に教会を利用して神にいたらんと欲する人がありまするならば、その人はかならず失望します。」
「人生の目的は神を知ることにある。艱難がもしこの目的を達するために必要であるならば、艱難は決して災禍ではない、恩恵である。」
「天国の市民は許された罪人であります。決して君子ではありません。道徳家ではありません。慈善家、神学者の類ではありません。もちろん富豪でも貴族でもありません。自己の罪を悔いて、これを神の前に白状し、ついに神の救いにあずかって、新しい人となったものであります。」
「信仰は書斎に籠り書籍のうちにうずまって獲られるものではない。教師の説教を聞いて獲られるものではない。人生の実際問題に遭遇して、血と涙とをもってその解釈を求めて終に獲られるものである。」
「この身に省みて、この社会に依り頼んで私たちは失望せざるをえない。わが助けは天地を造られた主から来る。」
「私たちが神に対してなしうることはただ一つである。すなわち、神がキリストをもって私たちにお降しになった許しの事実を信じ、罪の身このまま、不信の心このままを彼にささげまつることである。」
「神によって内からも外からも私たちを恵ませて、ゆたかに恩恵に沐浴すべきである。」
「死ぬもよい、願わくは神より離れないことを。」
「私たちはキリストの精神を知りその霊を受けるために聖書に向かうのである。」
「多くの人は、自己は聖書を充分に信じないのに、聖書に訴えて私どもの信仰をくつがえさんといたしまする。これは敵の武器を取って彼を倒す方法かも知れませんが、さりとてまたはなはだ不親切なる方法であります。」
「キリスト教は信仰のことである。キリスト教を学ぶためにオックスフォードまたはケンブリッジに学ぶ必要はないのである。イエスを信じて我ら日本人もまた今日直ちにキリスト教の奥義に達することができるのである。」
「じつに罪の何たるかを知らずしてキリストの誰なるかはとうてい、わからないと信じます。」
「罪を発見することはキリストを発見するに至るの道であります。」
「この人はかならずキリストにきたらんと思うた人がかならず来るとはきまっておりません。否、そう思うた人はたいていはキリストにきたりません。」
「キリストにおける信仰は私を罪から救うものである。けれども信仰もまた神の賜物である。私は信じて救われるのみならず、また信じさせられて救われるものである。ここにいたって私は全く自身を救う力のないものであることを悟った。それでは私は何をなそうか。私は私の信仰をも神から求めるのみ。」
「聖書は戦争の廃止を強いません。しかり、ある所においてはこれを奨励しているようにも見えます。しかしながら聖書は人命の貴重なる理由を教えて、戦争をして、あるべからざるものとなしつつあります。聖書は道徳の原理を教えます。その形式を教えません。」
「聖書に奴隷を廃止せよとは書いてありません。ゆえにある人は、聖書は奴隷制度を許すものであると言います。しかしけっしてそうではありません。聖書は、人の神の子たることを教えて、奴隷制度の土台をこわしました。」
「信仰とは信じてはならないことを信じるのではない。信仰とは信ずべきことを、懼れず、躊躇せず信じることをいうのである。」
「キリストを知る者は神を知り、十字架を解する者は宇宙を解する。私たちはキリストにならい、その犠牲の生涯を送ることによって、哲学者でなくても、よく宇宙を解することができるのである。」
「義人アベルが兄カインの毒手に倒れて以来、社会の腐敗は常に義人の宝血だけで抑止されてきた。」
「私たちは死んで永久に別れるのではない、私たちは後にまた復び会うのである。」
「今になって私は感謝して言う、ああ私は幸いである、人は皆私と争い、私を攻め、私を呪ったので私は神に結ばれてその救済にあずかることができたと。」
「もし私の生涯が私の計画したとおりのものでありましたならば、私はけっしてキリスト教信者とはなりませんでした。」
「私は疾病を怖れず、貧困を怖れず、孤独を怖れず、私はただ神に棄てられてその御心が私に伝えられなくなることを怖れる。」
「信者は神の僕である。主人から特殊の要務をゆだねられた者である。したがって彼はこの要務を果たすまでは死ぬべきではない。そして彼はその時まで決して死なないのである。」
「私が神と共にある時、私は罪を犯そうとしても犯せないだけでなく、罪という観念は私に存在しない。私が不完全で、私が他人を賤しみ、私が欲情のために使役させられる、私が傲慢で、私が人を愛せないのは、皆ことごとく私が神を離れたためである。」
「信じてそして真理がますます明瞭であることがわかる、これを信仰といい、ますます闇黒を加えるようになる、これを迷信という。」
「神を信じて天然はすべて奇跡的に解釈せらるるに至る。」
「神に生きれば私に恐怖はない。」
「またと死別しない会合、これにまさる歓ばしいことがこの世にまた重ねてあるだろうか。」
「私たちは死んで再びこの世に帰ることを望む者ではございません。私たちは死んでさらに新しい生命を与えられ新しい世界に行こうと願うのであります。」
「宇宙とそのうちにある万物を得ても、もし神をわがものとすることができないならば、私たちは真に貧しい者である。」
「疾病を知って疾病と称せざる医師は不親切なる医師であります。そうしてキリスト教は人類のもっとも善き医師でありますから、彼は明らさまにその堕落を唱えます。彼はまたこの堕落を癒やすに足るの充分の能力を持っておりますから、これを唱うるにかかわらず、やはり歓喜の宗教であります。」
「この書(聖書)によらずして、人は何人も神の救済にあずかることができないと堅く信じます。」
「神は己の造ったものを軽んじるだろうか。」
「聖書が神の言葉たる実証は、これを一つの古典として攻究したくらいでわかるものではありません。」
「謙遜は勇気である、しかし意気地なしは卑怯である。二者はその外貌において相似て、その内容において全く相異なる。そして世のいわゆるキリスト的謙遜というものに、卑怯の結果であるものが多い。」
「信者の神学はイエスである。彼の倫理はイエスである。彼の清め(洗礼)はイエスである。彼の完成はイエスである。」
「私は無智の者である、だから聖書研究の必要がある。」
「聖書は神の存在を証拠立てようとはせずに、『原始に神あり』と申します。」
「堕落は清潔をもって癒やさるべきものではありません。堕落を癒やすものは帰順であります。……。そうしてこの帰順を決行して後は、罪はわれらの上に再び勢力なきに至ります。」
「信仰は完全に達するための近道である。」
「人に憎まれるのは神に愛されることであった。」
「神を信じないで神を知ることはできない。初めから神を疑ってかかっては神は永久に疑問である。」
「私は私の事を行なうときに富豪の寄付を仰ぐことはしない、私の仕える天の父は天地万有の造り主である。」
「キリスト再臨の希望は信者の歌の源である、愛の動機である、善行の奨励である。これがあって私たちはこの涙の谷にあって、歌いつつわが父の家へと進んでいくことができるのである。」
「この人は事物のわかった人であるゆえにかならずキリスト教がわかるであろうと思うた人は、たいていは半途にしてキリストを捨て去った人であります。これに反して、かかる人がどうして聖き神の子イエス・キリストを信ずるに至るであろうと思った人が、思いがけなくも堅固なる信者となりました。」
「『初めに、神は天地を創造された』、この一節にキリスト信者の宇宙観と人生観との全部がある。すべて神の造った宇宙である、したがってこれはわが父の園であって私がその内に住んで恐怖はない。神と和し神の子となり、宇宙は美わしい楽園となるのである。」
「信者はかかる事は有り得ることであると信じ、不信者は有り得べからざることであると信ずるのであります。そうして有り得るべしと信ずる者は有りしという証拠を求めんと欲し、有り得べからずと信ずる者は有らずという証拠を見つけんと欲するのであります。」
「私たちは救われるために何をなすべきかとの問いに、ただイエスを仰ぎ見るのみと答えるまでである。……。キリスト者の信仰は、儒者のそれのように内省的であってはならない。」
「キリスト信者は元来他動的である、自動的でない。上から求められたものであって、下から求めたものではない。彼の信仰そのものさえ、聖霊によって起こされたものであって、彼自ら求めて起こったものではない。聖霊によってである。」
「神は聖霊として人の霊に臨まれる。聖霊として光を与え、聖霊として能を加え、聖霊として万事を遂げられる。聖霊によってである。」
「大真理を得たときはこれを感じると感じないとにかかわらず、私たちが一大進歩をとげた時である。これに反して、どれほど感情を起こしても、どれほど涙を流しても、私たちの理性を動かさないような変動は、遠くないうちに消えてあとかたもなくなることになる。」
「聖書が神の言辞であるというのは、その中に神の心が充ち溢れているからである。」
「実行はまことに最も有力な祈祷である。」
「私たちはもはや道徳上の義務として悪を避け善を行うのではなく、キリストの愛に励まされて行うのである。」
「天は失せ、地は消えてもキリストを信じるのみ。」
「キリスト信徒は絶え間なく祈るべきである。まことに彼の生命は祈祷である。彼はなお不完全ならば祈るべきである。彼はなお信仰が足りなければ祈るべきである。彼はよく祈ることができなければ祈るべきである。恵まれても祈るべし、呪われても祈るべし。力なき私、私のできることは祈ることのみ。」
「謙遜であれ、柔和であれ、しかし意気地なしであってはならない。」
「絶対的真理は主イエス・キリストである。彼においてこれを求めないで宇宙においてこれを探ろうと思うために、世は永久に真理を見いだすことができないのである。」
「イエスを信じるのに苦痛と辛惨がないことはない、しかし永生の言は彼をおいてほかにはない。私たちは彼を捨て去った人で、彼の恩寵に勝る幸福をほかに発見できた者のあることを知らない。」
「神の赦免にあずかるまでは罪を根本的に絶つことができません。キリストによらずして、罪をおおうこともできますし、罪を隠すことも、飾ることも、なだめることもできます。しかしながら、これを殺すこと、根から絶つことはできません。」
「私たちはイエスにあって、死そのものにおいてすら神の笑顔を拝し奉るのである。」
「『愛のうちに恐怖はない、全き愛は恐怖を除く』のであるから、私たちは愛をもって敵に向かおうとする。私たちは権能の足りないことを歎かない。愛の足りないのを悲しむ。愛をもって溢れていさえすれば、天上天下怖れるべきものは一つもない。」
「かかる者をさえ救いたもうのみならず、われ幾度か彼を捨てんとせしに彼は永遠の愛をもってわれを愛せりとはこれ何事ぞ。かかる無限の愛は、われ信ぜんと欲して信じがたし。されども聖霊はわが心にささやきて言う、これ事実なりと。ああ、われ、いかにしてこの恩に報いんや。」
「今日の日本の信者がキリスト教の真理を心に受けて、深く神の救済の恩恵を味おうて、その結果、外部より何の制せらるるところなくして自然にできた教会でなくてはなりません。」
「私は神の摂理に余儀なくせられて、むりやりにキリスト信者となさしめられた者であります。ことに福音の宣伝者となりしがごときにいたっては、これ私の幾度か拒んで避けんと欲したことでありまして、私は何者になりてもヤソ教の伝道師にはなるまじと、幾度か決心した者であります。」
「罪によって生まれた私のことですから、私が天使のような純白無垢の人となりうるのは、なお永い後のことでありまして、多分私の肉体が腐敗に帰した後のことであろうと思います。しかし快復がすでに私の心の内に始まったこと、その一事は、私の少しも疑わないところであります。」
「信仰は内より外にむかって発するものでありまして、外より内にむかってつめ込まるべきものではありません。」
「あたかも木から落ちた猿のようなものであって、世にキリストを離れた私のように憐れな者はない。」
「私がもし神に帰るならば、私は善人となれるのである。罪から免れる道はただこの一途だけである。」
「神は己に関する人の詮索を恐れて彼から信仰を要求なさるのではない。至誠なる神は人が至誠をもって彼に近づくのでなければ、その人を恵むことができないからである。」
「私はキリスト教を転覆するような歴史的事実の挙がる時は未来永劫けっして来ないと思います。」
「新しい思想を得たいと望み、また広い交際に入ろうと望んで彼(キリスト)に来た者も、また彼を棄てることになるだろう。その罪を贖われその霊魂を救われようと望んで彼に来た者だけが、よく永久に彼と共にとどまることができるだろう。」
「私の口と筆とをもって私の信仰を表白したからといって私は信者ではない、私は愛するだけ、それだけの信者であるのみ。」
「人は何びとも自ら望んで天国の市民になることはできない、血肉は神の国を嗣ぐことはできず、人の智も才も富も位も、彼を神の子となすには足りない、ただ神が選ばれた者のみが主をその栄光において見ることができる。」
「キリストの降臨といい、十字架上の罪の贖いといい、皆要するに霊魂を救うための神の行為でありますから、これらの出来事を霊魂以外の事がらに当てはめては、その真義は少しもわからないのでございます。」
「世につらい事とて、人の善を思うてその人に憎まれることほどつらい事はありません。しかしながら、これ人生の常でありまして、少しくまじめに世を渡らんと欲せし者は、たいていはこのつらき実験を経過いたします。」
「キリスト教はある人がいう仏教のような哲学の一種ではございません。また禅宗のような胆力鍛錬のための工夫でもありません。キリスト教とは霊魂を救うための神の大能であります。」
「雄飛というような、疾走というような、絶叫というようなことをせず、忍耐をもって神に依り頼み、その命に従って静かに日々の生涯を送ることである。」
「キリストに従うのは私の利徳ではない、これは今は私の生存上の必要である。」
「生まれつきのままの人の心をもってしてはとうてい神を見ることはできません。彼が神の事をわかろうと思えば、まったく自己を捨てて神の光明を仰がなければなりません。」
「神は今やキリストにあって人類を見ておられるのである。」
「神は一つである、だから彼は単純である。……。清い心をもってすれば、何びとにも理解できるものであるに相違ない。」
「かの、世に多く存在する、他人の欠点を摘指するのほか自己の可能力を自覚しあたわざる、批評家と称する人士のごときは、みなこの信仰を持たない者であると思います。無限の能力の所在を知り、またこれを獲るの道を知る者は、他人の欠点を発見して自己に満足を買うの必要はありません。」
「神によって人を救おうと望むべきで、人によって世を救おうと望んではならない。」
「悪とは申すまでもなく心の状態でありまして、これは知識の上達をもって除くことのできるものではありません。」
「安全は退いて求めるべきものではなく、進んで達すべきものである。歓喜と満足とは前にあって後ろにはない。臆病者に平和はない。進め、どこまでも進め。」
「単純な信仰、信仰のみの信仰、結果に目を注がない信仰、信仰のみをもって満足する信仰。この信仰があって信者に初めて真の平和があるのである。」
「私どもは天国とその義とを求むれば足ります。その他の事は、神が何かの方法をもって私どもに加えらるると、私どもは固く信じます。」
「貧するもよい、私はただ神の御心を知りたいと欲する。」
「神のためになそうと願えば、まず自己に死ななければならない。」
「自己に死んで後、私は初めて神において生きる。」
「最も善い聖書の註解は人生の実験そのものである。これがなかったら、すべての学識、すべての修養を行なっても聖書の根本的教義を探ることはできない。」
「人の愛をもって神の愛を量るのは、曲がれる定木をもって宇宙を量るの類であります。人の愛をもってしてはとうてい神の愛を知ることはできません。」
「他の宗教が一定の時期を経過すれば必ず死んでいくのに、キリスト教のみが年ごとに新しいのはなぜか。・・・・・・。キリスト教の不朽であるのは神が不朽であることによるのである。活きた神が常にこれに伴い、その真理をもって人の心に働かれるからである。」
「愛なる父上。私は信じる、あなたは私たちを罰するために艱難をお下しにはならないことを。罰という語は、あなたがどのような者かを知る者の字典の中にあるべき語ではない。罰は法律上の語であって、キリスト教という法律以上の教えにおいては用もなく意味もない名詞である。」
「自己の罪を恥じ、良心の平安を宇宙に求めて得ず、煩悶の極、援助を天にむかって求めました時に、十字架上のキリストが心の眼に映り、その結果として、罪の重荷はまったく私の心より取り去られました。その時に私は初めて自分らしき者となりました。」
「私に糧がある、聖書のうちにある。私に力がある、祈祷のうちにある。」
「理性以上の機能によって知ることのできる心理でなければ、これを神に関する真理ということはできません。」
「われらの伝道はキリストの愛に励まされてであります。われらは沈黙を守らんと欲して守りきれないからであります。わがごとき罪人を救いたもう神の恩恵を考えて、いても起ってもいられなくなるからであります。」
「私は聖書によるのでなければ、人類はとうてい神の御旨を悟ることができないと信じる。聖書は実に世界唯一の書である。聖書は実に神の書である。」
「信者は天のことを念って地のことを念ってはならない。その理由は何かといえば、彼は地に対してはすでに死んだ者であって、その生命はキリストと共に神に蔵れているからである。天と未来とをもつ信者は、地と現世とにとらわれて低い卑しい生涯を送ってはならないとの意である。」
「われらキリストを信ずる者は社会改良を目的として伝道に従事することはできません。社会は改まろうが、改まるまいが、それらのことは福音の宣伝者の眼中にはあまり重きをなしません。キリストの愛、永遠の愛をもってわれを救いたまいし神の愛、これが、われら伝道者の心を支配する唯一の勢力であります。」
「キリストに従うのは私の利徳ではない、これは今は私の生存上の必要である。」
「キリストは道徳を説いてわずかに人心の改善を計ろうとはなさいませんでした。彼は罪そのものを滅ぼされました。すなわちキリストによって神と人との間にあった離隔は取り去られました。」
「キリストは誰か、神と人との間に立つ一位の仲保者、人を神に執り成して下さる者、人の罪の軽減と赦免とを希う者、柔和な救い主、罪人の友……。」
「伝道は説教でもなければ牧会でもない。伝道は自分の心に実験した神の救済を世に発表することである。この実験がなくてはどんなに該博な神学教育を受けた者であってもキリスト教の伝道師ではない。また、この実験があれば誰でも有力な伝道師であることができる。」
「聖霊は単に祈っただけでは得られない。聖書を研究しただけでは得られない、決心と勇気とをもって神の命令を実行して裕かに与えられるものである。」
「教会何者ぞ、儀式何者ぞ、教義何者ぞ。もし私に愛がないならば、私は無神の徒であり、異端の魁である。私の口と筆とをもって私の信仰を表白したからといって私は信者ではない、私は愛するだけ、それだけの信者であるのみ。私の愛以上に私の信仰はなく、また私の愛以下に私の宗教というものはない。」
「愛は欺かれてもその勤労を止めない。なぜなら、愛は報酬がなくてもそのもの自身が快楽だからである。」
「迫害がないのは、福音がない証拠である。罪は病と等しく、苦痛なしに癒されるものではない。艱難の伴わない福音は、偽りの福音である。世に嘉納される福音は、キリストの福音ではない。・・・迫害がないのは、福音がない証拠である。それと同時に、歓喜がないのもまた、福音がない証拠である。しかもその歓喜は、財産蓄積の歓喜ではなく、また位階昇進の歓喜でもなく、聖霊降臨の歓喜である。人の思いを超えた、聖なる深い歓喜である。」
「『人はその拝する神の如し』という言葉がある。人は崇拝物を変えるまでは、その本性を改めることは出来ない。死んだ神に仕える者は死に、活ける神に仕える者は活きる。そして世は、真神が活きておられることを知らなくても、これに仕える者に活気があるのを見て、それが真に活ける真の神であることを知るのである。」
「伝道は、実に聖なる結婚の一種である。そして神が合わせられた者は、人はそれを離すことが出来ないのである。そうです。神が合わせられる者でなければ、人はこれを結ぶことが出来ないのである。」
「私どもはキリストに救われんがためには、神に自己の罪を暴露されて、消え入るばかりの恥辱の淵に臨まなければなりません。」
「光明的半面に着眼する者、これ信者なり。暗黒的半面に注目する者、これ不信者なり。」
「科学は天然界における事実の観察なり。宗教は心霊界における事実の観察なり。二者同じく事実の観察なり。科学と宗教は善き兄弟なり。」
「経済の背後に政治あり 政治の背後に社会あり 社会の背後に道徳あり 道徳の背後に宗教あり 宗教は始めにして経済は終りなり。宗教の結果はついに経済において顕れる。」
「腐敗せる教会の特徴は預言研究を嫌ふにある。」
「キリストの再来こそ新約聖書の到る所に高唱する最大真理である。(中略)聖書の中心的真理は即ち之れである。」
「再臨は聖書の中心真理と云わんよりは寧(むし)ろ其(その)最終真理と称すべきである。…十字架が聖書の心臓であるならば再臨は其頭脳であろう。再臨なくして十字架は意味を為さない。」
「再臨問題は聖書問題である。聖書全部を神の言なりと信じて基督再臨を信ぜざるを得ない。又再臨を拒否して聖書の大部分を拒否せざるを得ない。・・・再臨の信仰と聖書無謬説、是れ同一の信仰の両面に過ぎない。」
「最良の聖書の注解書は、苦難である。人生苦である。人生で苦しまずに、聖書はわからない。」
「死に勝つに生をもってし、暗(ヤミ)を遂うに光をもってし、怨を滅するに愛をもってす、これ神の救済なり。」
「悪に酬いるに悪をもってするは悪に負けたのである。何をも酬いないで、ただ忍んでいるのは戦わないことである。善をもって悪に対するのが悪と戦って悪に勝つことである。」
「困難は我をして神に接近せしめ、また人に鍛接せしむ。困難は我の単独を破り、我をして人類の一員たらしむ。尊むべきかな困難!」
「人は止まらんとし、神は動かんとし給う。人は固執せんとし、神は溶解せんとし給う。人は制定せんとし、神は産出せんとし給う。」
「人は神より赦されない間は、心から他人を赦さない。」
「愛に恐怖なし、最上の道徳たればなり。愛に疑惑なし。最大の真理たればなり。愛に束縛なし、真箇(しんこ)の自由なればなり。」
「主を畏るるは天然(自然)科学のもとなり、哲学のもとなり、倫理道徳のもとなり、いっさいの学問または教育のもとなり。」
「聖書は神の書である。故に世界の書であり人類の書である。それ故に日本人の書である。 」
「われキリストにならわんと欲して、キリスト伝を学ぶ。
学んでしかしてますます倣うの難さを知り、
知りてしかして失望し、失望してしかして自己の罪を覚り、
覚りてしかして、ついに彼の十字架にすがり、
すがりてしかして、やや少しく倣いうるにいたる。」
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーベン(1770-1827 ドイツ 作曲家)
「神は形をもちたまわない。私たちは神を見ることはできない。しかし、神の成したまえる御業により、神は永遠で、全知、全能、遍在なるお方であることを知ることができる。」
「神が与えた私の人生は、数多くの苦難にも関わらず、憐れみと慈しみにより、最後の聖餐式を受けることを許され、幸いな人生のフィナーレを感謝をもって終わる。」
「それゆえ、私は心を静めてすべての矛盾を甘受し、永遠のあなたの善なる本質に強い信頼をおくのです。神よ! わが魂は、変ることなき存在であるあなたによって喜びます。わが岩となって下さい。わが光となり、永遠にわが信頼となって下さい。」
「全能の主よ。あなたは私の胸の奥にある私の魂を覗かれ、私の心を見抜いておられます。私の心の内に人類への愛と善をなしたいという要求とが満たされているのを主よ、あなたは御存知です。」
「僕には友がいない。独りぼっちで生きていかなければならない。だが分っている。創造主は誰よりも僕の近くにおられるのだ。どんな時でもこのお方が僕と共におられることが分る。そして僕は主がどのようなお方かということも知っている。」(40歳の時に記した手紙の一節)
「つねに行為の動機のみを重んじて、帰着する結果を思うな。報酬への期待を行為のバネとする人々の一人になるな。」
「悩みを突き抜けて歓喜にいたれ!」
「憎しみは、それをいだいた人間のうえにはね返ってくる。」
「沈黙を学べ。ああ。わが友よ。言葉は銀にも等しい。だが時にかなった沈黙は純金だ。」
「苦難の時に動揺しないこと。これは真に賞賛すべき卓越した人物の証拠である。」
ハドソン・テーラー(Hudson Taylor 1832-1905 英国 宣教師 中国奥地宣教団創設者)
「神の働きを神の方法でするなら、神の供給に欠けることはない。」
「神とともに働き、神にすべてを求めるという、この原則は、いくら強調してもしすぎることはありません。もしその働きが神の命令によるものならば、必要としている働き人が与えられることを完全に信頼して、神の御前に出ることができるはずです。資金があってもなくてもです。」
「神は、弱くて彼に頼るのに十分弱い人を用いてくださいます。」
「主は私の羊飼いである。日曜日も、月曜日も、1週間のすべての日を通して、主はそうである! 1月もそうである。12月もそうである。1年中のすべての月を通して、主はそうである。家にいる時も、中国においてもそうである。平穏無事の時も、戦いの時も、富める時も貧しい時も、主は私の羊飼いである!」
「宣教師は、家を建てるために必要なやぐらです。建築がすすめばやぐらは消え去って行くものです。」
「人が自己をささげ、献身し、専念しても、もし訓練されていないなら、その価値は乏しい。」
私はかつて「私を助けてください」とよく神に祈っていた。やがて私は「あなたをお助けすることはありませんか?」と祈り始めた。最後には「私を通してあなたのみ業をなさってください」と祈るようになっていた。
「イエスを高く、高く、高く掲げよう。 御言葉に深く、深く、深く、根を下ろそう。」
「これほどの神を持ちながら、信仰が不足しているというのはいったいどういうことなのだろうか。」
「一つの地域教会、あるいは一つの教団・教派だけの働きでは、全世界のすべての国民に福音を宣べ伝えることは不可能である。」
「休息の場所は、力の源−すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。−マタイ十一・二八−イエス様は、決して飢えた者、弱っている者、病気の者、悲しんでいる者を遣わしたりはなさいませんでした。どれほどの人が、魂の救いについて人々に語らなければならないと思っていながらも、その力がない自分を見て、ひどい苦悩を味わっていることでしょうか?ああ、それらの人が、まずイエスのもとに来て、休息を得ることができていたら、どんなに違っていたことでしょう。もしそうしていたなら、彼らの喜びに満ちた表情が、心に迫るどんな言葉よりも多くを語り、誰もその顔を見て、「彼らの宗教は全くひどいものに違いない」などとは、思わなかったはずです。『(わたしのところに)来なさい』という言葉は、『(世の中に出て)行きなさい』ということを除外していることばではなく、むしろ、出ていくための準備の言葉なのです。」
「自分のために使う額が減り、他の人に与える額が多くなればなるほど、私の魂はさらに幸福と祝福で満たされるようになった。」
「私はすべてのことを、永遠において獲得できる価値によって判断する。」
「お金が私といっしょにいつづけることは決してない。もしお金がとどまったとしたら、私を燃えつくしてしまうだろう。私はお金はなるべく早く手放すようにしている。そうしないと、お金は私の心に入り込んできてしまうからだ。」
「あなたの心を神に向かって健全なものにしなさい。神の中に、そして神のみにあなたの幸福を捜し求めなさい。塵に固着しないように気をつけなさい。此の地上はあなたの場所ではない。此の地上を乱用しないで使うように注意しなさい。此の世を使って、そして神を楽しみなさい。」
「一日の中で最もよい時間を、神と交わるためにささげなさい。」
「悔い改める人が健康な人です。」
「神様の働きには三つの段階があります。不可能、困難、そして完成です。」
「宣教大命令は、検討すべきのオプションではなく、従わないといけない命令です。」
「信仰を得るために、あるいは私たちの信仰を増すために懸命に努力するのではなく、忠実なお方を仰ぐ―今も後も永遠に、愛するお方のうちにあって安息する。これが、私たちの必要とするすべてではないだろうか。」
「私たちの信仰の先祖たちも弱い人々でしたが、彼らは主の存在とその力に頼ったので、偉大なことを行うことができました。」
「神は生きておられます。聖書の中で語られたように、神は話したことを行い、約束したことをすべて行います。」
「クリスチャンの成長は、子どもらしさを捨てて大人になるのではなく、子どもになり、子どものままにとどまり、その態度に徹することである。」
「宣教のためには3つの要件が不可欠である。1.忍耐 2.忍耐 3.忍耐」
「神の御心にそい、神の御業を実行するのに、どうして神がお見捨てになろうか。必ずや道は開けるものだ。」
「もう祈る力が残っていないほど激しく、キリストのために働いてはいけない。なぜなら、祈りは“力”を必要とするからである。」
「人々が地獄へ行くのに、私が休んでいることのないように、地獄を現実なものとして体験させてください。また、人々を導かないではいられないほど、天国を教えてください。」
「人は祈りなしに働くことができても、働きなしに祈ることはできない。」
「私たちは皆ためこんでしまう危険がある。それは一つには配慮のなさから、一つには仕事の必要に迫られてであろう。とにかく他の人にこそ有用であれ、今の自分には少しも必要のない物をためこむ。すると知らず知らずに祝福を失うことになる。」
「イエス・キリストはすべての主か、それとも全く主ではないかのどちらかである。」
「人々のための、書物としての聖書の存在は、人類がかつて経験した内で、もっとも大きな益である。その価値を減じさせようとする如何なる企ても、人道への罪悪となる。」(インマヌエル・カント)
「憐れみの座にやって来ようとする時、私たちは、何と様々な障害に遭うことでとであろうか! それなのに祈りの価値を知る者たちは、しばしばそこにいることを望む。」(ウィリアム・クーパー)
「人は信仰を伴って世に出る。理屈や知識は信仰のずっと後に身に付くものだ。物事を理解するためには、何かを信じている必要があり、道理というものは、信仰を分析することに他ならない。」(フランツ・シューベルト)
「人間の基本的問題は、神は存在する、私が神である、だれもがそう信じていることです。」(神学者ダニエル・トンク)
トーマス・エジソン(1847~1931 アメリカ 発明王)
「哲学的思考力を持っている人なら、認めざるをえない事実は受け入れるはずである。森羅万象が表現している状態から察しても、宇宙は実に全能者の意志の偉大なる成就である。もし至上の権能者の存在を否定するというなら、自分の知識をないがしろにするにも等しい。科学と信仰とは同一の源から出ているのであり、決して互いに矛盾したり衝突したりすることはあり得ない。」
「私は、すべての発明家に対し、なかでも最大の発明家である神に、これ以上ない尊敬と感嘆の情を捧げたい。」
「よくある失敗は、成功まであと一歩というところで、そうとは知らずあきらめてしまうことだ。」
「私たちの最も大きな弱点は、あきらめることである。成功するための最も確かな方法は、いつも、もう一回だけトライすることである。」
「実行しない幻(ビジョン)は、幻覚である。」
ジョージ・マクドナルド(1824-1905 スコットランド 小説家、詩人、聖職者)
「神の子が苦しみの果てにあのような死を遂げられたのは、人間が苦しまないためではなく、人間の苦しみもまた、彼のそれに似るためであった。」
「私がなおいっそう心をこめて神さまを愛するとき、私は一番ふさわしい方法であなたを愛することができる。」(妻に言った言葉)
「困難な物事はみな、我々の人生論が今なお奉じている以上のものを指し示している。」
「隣人を愛することは、憂いや悲しみから自分自身を救い出す唯一の方法である。」
「キリストはわたしたちを救うために死んでくださった。苦しみからではなく、わたしたち自身から。不正からではなく、ましてや、正義からでもなく、わたしたち自身が正しからざる者であるということから。」
「愛は、すべてのものを愛すべきものとする。憎しみは、憎んでやまない一つのものにおのれを集中する。」
「死ぬことを拒んでいる間は、きみは死んだ状態にある。」
「わたしたちは日ごとに死ぬ。死んで日ごとによみがえる人は幸いである。」
「仕事のみが人にたえず要求されるわけではない。聖なる無為というものがある。そうした無為の開発は今日、ひどくなおざりにされているのである。」
「神のかたちにかたどって創造された人間は、神を知らないかぎり、悲惨である。」
「自我がわたしたちに与えられているのは、献げるためである。」
「朝ごとにわたしの生命は、わたしのまわりに新たにこびりつく自我の殻を砕かねばならない。」
「私たちが求めるべきことは、神が私たちに与えてくださるものではなく、神ご自身です。」
「神よ、わたしの祈りは、偽りのわたしから流れ出ます。しかし、あなたの答えのみが、わたしを本当のわたしにしてくださるでしょう。」
「人はただ義を行なえばいいので、他人の下らない批判についてくよくよ思い悩むべきではない。」
「自分の罪についてくよくよ考えることをやめなさい。それはただきみ自身の目にきみの罪が大きくなるか、いっそう大きくなるかという結果しか生まない。それを主イエスのもとに携えて行き、彼の裁きに委ねなさい。」
「隣人を愛することこそ、自己という牢獄からの唯一の出口である。」
「神は祈りなしでもわたしたちにすべてのものを与えることがおできになるが、子がひざまずいて祈るように、人間が乞い求めるように、賜物を留保なさることがある。」
「祈っているときに、ときおりこんな思いが胸をよぎることがある。『いっそあきらめてしまうほうがいいのではないだろうか?』 こうした考えは、子どもらしさと無邪気な信頼が欠けていることからくる。」
「地獄の唯一の原則は、『おれはおれ自身のものだ!』である。」
「わたしたちが求めるのは神であって、天国ではない。」
「わたしたちは日ごとに死ぬ。死んで日ごとによみがえる人は幸いである。」
「わたしたちがクリスチャンとしていさぎよくないのは、またそうありつづけるのは、わたしたちが自分の姿を見て、キリストを見ないからである。」
「人は隣人を選ぶべきではない。神が送りたもうた隣人を、ただあるがままに受けいれるべきである。」
「間違ったものを求める者の祈りも、ときとして聞かれることがある。パンを求める子に、父なる神が石をお与えになることはない。しかし石を求める子に石をお与えになることがけっしてないとはいいきれない。」
「苦しんでいるクリスチャンたちよ。安心しなさい。主が人を特別に用いようとする場合、主はその人を火の中に入れます。」
「神の練習帳で次のページは明かされない。分かるのは、今のページだけである。今の課題を学び終えて初めて、次に進めるのだ。」
「現在の重荷に耐えきれない人間はいない。現在の重荷に過去の重荷が加わるから、耐えられなくなるのだ。未来に対する最上の準備は、現在をしっかり見つめること。なさねばならぬ義務を果たすことである。」
「もし、神の子が死んでよみがえったと信じるなら、あなたの将来は人生という丘の向こうから永遠に沈まない太陽が昇る夜明けのようだ。そのような希望は、最高の想像力に恵まれた詩人の心にさえ思い浮かばない。」
「神は火を以て清めようと思うほど人間を愛しておられる。」
「私たちがことの現実を最も良く知っているときは、神を最も必要としていることに気づき、神に最も信頼できるときである。どのようなかたちでも、どのような種類でも、どのようなあり方でもその容赦のない現実を認めることは、私たちの心をさらにより現実に向け、より高度な、よい深遠な存在へと導いてくれる。」
「人と親しく心を交えるようになるのは、愛されることではなく、愛することによる。」
「獣は、自分が獣であることを知らない。人が獣のようになればなるほど、人は自分が獣のようになっていることが分からなくなる。」
「人は求めるものを得るのに苦労する。最高のものを求めないからだ。神は与えるのに苦労する。神は最高のものを与えたくても、人がそれを受け取ろうとしないからだ。」
「赦すこととは、与えることです。そして、だから生命を受け取ることになるのです。」
「赦すことを拒否するのは、人を殺すことよりも悪い。殺人は一時的な衝動によるものであるのに対し、赦しの拒否は、冷徹で意図的な選択だからだ。」
「子どもが門口や庭先に遊びに来ないような人は、キリスト者だと言っても信用しない。」
A・W・トウザー(A. W. Tozer 1897-1963 米国 牧師、説教者、著述家、「20世紀の預言者」)
「神に関して何を信じているかということが私たちにとって最も重要なことである。」
「多くの人が未だに悩み続け、求め続けていながら、ほとんど進歩らしい進歩を遂げていないのは、彼らがまだ自分の限界に達していないからです。私たちは未だに自分の考えで物事を進め、神が私たちを通して働かれようとしているのに、それを邪魔しているのです。」
「御霊は緊急の必要である。永遠の御霊だけが永遠の行為をすることができる。」
「自己否定ということは、個人的苦痛や苦行を科することではない。自己否定とは自分のために生活するという原則を断念することである。私たちの存在と意思の方向を完全に変え、もはや、自分にどのような影響があるかを基準に行動するのでなく、神と他の人々に、どのような影響を及ぼすかという一事に思いを寄せるようにさせるものである。」
「私たちが最もしなければならないことは、『わたしはある』という神のために場所を設けることである。」
「信仰とは、本質的に言うと、被造物たる人間の、創造者つまり神に対する応答にほかならない。」
「偶像礼拝の本質は、真の神にふさわしくない神に関する考えをもてあそぶことだ。」
「聖書に掲示された権威によって確信をもって言うが、この地上のどんな人でも、もし礼拝がつまらなく、暇な時間であるなら、その人は天国への準備ができていない。」
「神は最高だと解らない限り、だれも神を正しく礼拝することはできない。」
「お金は多くの場合卑しむべきものであるが、永遠の宝へと姿を変えることもある。お金は空腹な人の食事となり、貧しい人の衣類となる。失われた人々の魂を勝ち取り福音の光へと導く宣教師の精力的な働きが、継続して行なわれるために用いられる。そのようにしてお金は、天的な価値を持つものに姿を変えるのである。どんな一時的な所有物も永遠の富に変えることができる。キリストにささげられたものは、即座に不滅のものとなる。」
「救いは、私たちの側では選択ですが、神様の側では私たちをとらえ、理解し、導こうとするいと高き方の介入です。ですから、私たちが救いを受け入れることは反応であって、行為ではありません。選択の決断は、いつも神様の御手にあります。 」
「私が雄弁で、神学的な用語で神様に祈るのではなく、ただ黙って、上を仰ぎ見、神様が私に話す時まで待つと、神様は私が鉛筆とノートで書かなければならないほど、私の心に力強く語られます。 」
「私たちはこの世を模倣しています。主の喜びの代わりになる大衆が願う捏造した楽しみを求め、聖霊の力の変わりになる安っぽく操作された力を得ようとします。」
「聖なる人生でなければ、幸せな人生ではありません。神様の御心を知り、行うためにすべてを費やす者は、幸せな人生をキリストに任せている者です。」
「人々の行動が聖いものが世俗的なものかを決めるのは、その人が何を行うのかではなく、その人がなぜそれを行うのかによります。」
「信仰とはだまされやすいことではない。何でも信じる人は何も信じない人と同じくらい神から離れている。」
「時には少しばかりの健全な不信仰が(健全な信仰のために)必要である。」
「もしもあなたが説得されてキリスト教に入ったのならば、だれか賢い人に説得されてキリスト教から離れることもあるだろう。しかし、聖霊が内側を照らし明らかにするなら、だれもあなたを説得してキリスト教から離れさせることはできない。」
「キリスト教の最高の目的は、人々を神のようにさせ、その結果、神のように行動させることである。」
「神のために働く思いと熱意があるだけでは、十分ではない。その働き自体が神のものでなければならない。これはキリスト者が召されている死の中でも最も厳しい死である。本当に私たちの働きは、まずカルバリの血に浸され、十字架刑のしるしを帯びていなければ、神には受け入れられず、私たち自身も他の人々にも役に立たない。それは私たちの働きであることをやめ、その結果、神の働き、神だけの働きにならなければならない。」
「人間の惨めさの一つに、我意があるが、至福の秘訣の一つは、自分自身の意思を征服することである。それを神に明け渡すことは、休息であり、平和である。」
「世の霊は、福音の精神と相容れるものではない。それは、誇りであって謙遜ではなく、自己犠牲ではなく、むしろわがままの霊である。世の人々は、富、栄誉、楽しみを、最大の目標として追求している。キリスト者の持っている霊は、これらのものを克服したのである。」
「金槌というのはとても役に立つ道具だ。しかし、もし私たちを釘の側においてみれば、話は違う。金槌はいいけれども、金槌でガツンガツン叩かれる釘だと思った時に、こんな厄介な存在はいない。もし釘に理性や感情があったとしたならば、こんなに厄介な相手はいません。自分の頭をいつもガツンガツンと叩くのですから。でも釘は金槌のことだけを考えてはなりません。釘は金槌を握っている大工の手を思い出すべきです。もし釘が金槌ではなく、それを握っている大工の手を思い出すなら、釘は大工が立派な家を建てるために自分が用いられているということがわかるでしょう。でも私たちは、往々にして金槌のことばかりを考えて、どうしてこれほどの試練が?どうしてこれほどのストレスが? なぜ私は叩かれるのか? ということばかりに気持ちを持って行ってしまう。」
「キリスト者の特質の中で、謙遜は特に必要なものである。これが欠けている所では、すべてのものが欠けている。」
「私に起こったすべてのことが私をもっとキリストのようにすることを理解した時、多くの不安が解消されました。」
「私たちが真のクリスチャンであるなら、次のことを知ることができる。無限の神の限りない御力が、私たちの周囲にくまなく存在し、私たちを取り囲み、現されるよう用意されている救いをいただけるよう、私たちを安全に守っておられるということを。私たちは、信頼をもって神を見つめ神の全能の御力の働きを期待しようではないか。」
「十字架の向こうにある喜びを思うと、十字架は厭(いと)わないでしょう。」
「天国をもっている幸いな人々はすべての外的なものを捨て、心から一切の所有欲を抜き取ってしまった人たちである。これらの人々こそ「心の貧しい者」にほかならない。それは圧迫者と戦うことによってではなく、かえって神に降伏することで行われたのである。彼らはあらゆる所有欲から解放されながら、万物を所有している。」
「信仰は耐え忍ぶ人への神からの賜物であり、彼らがもたらす観念もしくは情報とは全く関連は無い。信仰は奇跡である。それは神の御子を信頼するよう我々に神が与えて下さる能力である。」
「大抵の場合、私たちの霊的経験における貧しさの原因は、市場を駆け回る子どものように、神の国の廊下をスキップして回るのが癖になっているせいではないでしょうか。あらゆることについておしゃべりしてはいても、一つのことについて、その本当の価値を知るために、立ち止まってじっくり考えるということが全くないのです。」
「神と正しくあることは、しばしば人々とトラブル定めにある。」
「礼拝が、私たちのうちにおられるキリストよりも私たちの周りにあるカルチャーを反映する時、それはもはや礼拝ではない。」
「興奮を煽る教会は新約の教会でもなんでもない。表面的刺激への欲求は堕落の性質のしるしであり、まさにキリストがそれから私たちを救うために死なれたものである。」
「キリストが仲保者の王座にいましたもう限り、その日その日が良き日であり、どの日も全て救いの日なのだ。」
「今日、私たちが失敗しているのは、事前の孤独、不活動がないまま、宗教的活動をしていることである。それは神の御霊に満たされるまで、神と二人だけになり、黙って静けさの中で神を待つことである。それから行動に移るなら、私たちの活動は神によって整えられたものとなり、実際に成果を挙げることになる。」
「現代は、キリストに関する教義を正しく説く、聖書の教師は不足していない。しかし、その教師たちの大多数は毎年毎年信仰の基本的要素を教えること満足しているらしく、彼らの牧会には神の明らかな臨在はなく、また彼らの個人的生活にはなんらの変化も起こっていない。不思議なことに、彼らはこのことに気づいていないのである。彼らは絶えず、胸の中に神への憧憬を抱く信者たちを牧会していながら、その憧憬に満足を与えることができないでいる。」
「イエスは最悪のあなたを知っている。それでもなお彼は誰よりもあなたを愛される。」
「今日最も広まっている誤りの一つで、そこから福音派のグループにおける騒がしく大げさな宗教活動が生み出される原因となっているものは、時代が変われば教会もそれと共に変わらなければならない、という考えである。映画の都ハリウッド(ホーリー・ウッド)的スタイルこそが聖なる都(ホーリー・シティ)にふさわしいスタイルであると勘違いしてしまっているような精神構造は、実に危険で誤ったものであり、神の聖霊に面と向かって逆らうような常軌を逸した考えが、れっきとしたクリスチャンたちに襲いかかったとしか説明のしようがない。」
「イエス・キリストは一番ひどいときのあなたを知っておられる。にもかかわらず彼はあなたを一番愛してくだるお方である。」
「人工的な大教会より小さくても本物の教会を持つ方がよい。」
「もし神があなたにあと数年くださるとしたら、それはあなたのものでないことを覚えなさい。あなたの時間は神をたたえるものでなければならない、あなたの家庭は神をたたえるものでなければならない、あなたの活動は神をたたえるものでなければならない、あなたがなすことすべては神をたたえるものでなければならない。」
「私たちは愛のうちに祈り、憎しみのうちに生きることはできないのに、なお私たちは神を礼拝していると思い込んでいる。」
「教会員の90%は救われていない。」
「もしあなたが月曜日にその前日にしたのと同じように礼拝していないなら、おそらくあなたは神を全く礼拝していない。」
「クリスチャンで、もしその人が神と正しい関係にあるなら、その人は自身の人生において何かを隠す必要が全くないであろう。」
「宗教は個人の生活を改変(リフォーム)できるが、個人を一変(トランスフォーム)することは決してできない。それができるのは聖霊だけである!」
「キリスト教は、自助努力の欠如を当然のこととしており、ただ神の力のみを提供している。」
「神の臨在の感覚なしに幸福になろうとすることは、ちょうど太陽なしによく晴れた日を持とうとするようなものだ。」
「リバイバルを欲しながらも、同時に個人的祈りとディボーションをおろそかにすることは、一方向を望みながらも逆方向に進むことである。」
「教会は立憲君主制のようであり、イエスには地位が与えられているが、権威が与えられていないのでどのような決定をも下すことはできない。」
「神が教会とご自身の働きにおいて願っておられることは、教会の力ではなく、主の力と臨在が最も弱いしもべたちに働いて、大勝利に導いてくださる様子を世界が見るようになることである。」
「私たちは、ただ地獄に行くことを欲しながらそれでも教会に属している人たちの関心を保つために私たちのクリスチャンの基準を下げることを許すことはできない。」
「自分の罪によって自分を台無しにすることは、この地上で最も神に似せられて造られたものを台無しにすることに値する。これは人にとって最も悲惨なことであり、神が最も悲しむことである。」
「羊にとって安全な場所はただ一つ、羊飼いのそばだけだ。悪魔は羊を恐れることはなく、ただ羊飼いだけを恐れるからだ。」
「私の身に起こることすべてが私をよりキリストに似せるものだとわかる時、相当量の不安は解消される。」
「イエスは神に近づくための多くの道の中の一つでもないし、いくつかの道の中の最高のものでもない。イエスは唯一の道である。」
「神のみこころの外に私の欲するものは何もない。神のみこころの内に私が恐れるものは何もない。」
「クリスチャンになったばかりの人が回心した後に、一刻も早く教えられなければならない唯一のことは、『イエス・キリストが、あなたの必要のすべてである。』ということである。」
「私たちは神のことばの明確な教えを大多数に覆されるようなことを決して許してはならない。」
「十字架を身につけることがあなたを弟子にするのではない、あなたの十字架を負うことがあなたを弟子にする。」
「恐れの父は不信仰。」
「おびえた世には怖いもの知らずの教会が必要である。」
「私の心の中の罪のことを知れば知るほど、私はますます神の恵みを知りたくなる。」
「礼拝者は決して教会を去らない。私たちはどこに行くにも私たちと共に私たちの聖所を運んで行く。」
「私たちは神のことばが私たちを励ますのと同様に私たちを正することも認めなければならない。」
「キリスト教会の上に今日のしかかっている最も重い義務は、キリストの教会の神の概念をもう一度神にーーそして教会にーーふさわしいまでに、きよめかつ高めることです。教会のあらゆる祈りや働きの中で、このことが第一になるべきことです。」
「キリスト教は、自助努力の欠如を当然のこととしており、ただ神の力のみを提供している。」
「神のみこころの外に私の欲するものは何もない。神のみこころの内に私が恐れるものは何もない。」
「クリスチャンはこの世で最も大胆な人々であるべきだ。偉そうな自信過剰家ではなく、彼(キリスト)を確信している者として。」
「神のために働く思いと熱意があるだけでは、十分ではない。その働き自体が神のものでなければならない。これはキリスト者が召されている死の中でも最も厳しい死である。本当に私たちの働きは、まずカルバリの血に浸され、十字架刑のしるしを帯びていなければ、神には受け入れられず、私たち自身も他の人々にも役に立たない。それは私たちの働きであることをやめ、その結果、神の働き、神だけの働きにならなければならない。」
「開かれた聖書とノートと鉛筆を持つ正直な人は、必ず自分自身の欠点にあっという間に気づきます。」
古い十字架は 人を方向転換させていた。
一方、新しい十字架は 人を娯楽にふけらせている。
古い十字架は 罪を責めていた。
一方、新しい十字架は 人を楽しませている。
古い十字架は 肉にある自負心を打ち壊いていた。
一方、新しい十字架は それを肯定し 助長させている。
ウィリアム・ティンダル
「エヴァンゲリオン(我々がゴスペル:福音とよんでいる言葉)はギリシャ語で、「良く(good)て、陽気で(merry)喜びの(glad)嬉しい(joyful)たより(tidings)を表していて、それは人の心を喜ばせ、歌わせ、躍らせ、喜びに跳びあがらさせるものだったのです。」
ウィリアム・ブース(1829~1912年 英国 救世軍創始者)
「人の強さというのは、どれだけその人が降伏しているかによって測られる。」(その人の力がどれだけ大きいかは、どれだけ自分を放棄できるかで測られる)
「女性が泣いている限り、わたしは戦う。幼い子供が飢えている限り、わたしは戦う。男たちが刑務所に出入りする限り、わたしは戦う。酔っぱらいが残っている限り、街頭に哀れな女性がいる限り、神の光を受けていない一人の魂でもある限り、わたしは戦う。終わりまで戦う。」
「救霊にあらざる社会事業はなく 、社会事業にあらざる救霊はなし。」
「人生とは、天においての喜びと職務と交わりにふさわしい性質と品性を得るために神との調和の中を歩み、かつ悩む人々に真の幸福を与えるために働き抜くことにほかならない。」
「人間として最善の事業は救霊である。」
「わたしは8人の子宝に恵まれたけれども、皆、大変、よい子であった。このような子供たちであるなら80人ぐらいほしかった。」
「来たる(20)世紀が直面する最大の危機は、聖霊なしの宗教、キリストなしのキリスト教、悔い改めなしの罪の赦し、再生なしの救い、神なしの政治、そして地獄なしの天国となるであろう。」
「使命、富、友人、名誉などを失うのは、大きな損失である。しかし、愛の心を失うことこそ最大の損失である。思想も金銭も音楽も学術も、愛なくしては人を感化し得ないであろう。」
「世は適者の生存を信ず、われらは不適者の救いを信ず。」
「人類を悲惨から永久に解放する唯一の希望は、イエス・キリストによる聖霊の力をもってする、個人の生まれ変わりにある。」
「人生の失敗の理由が、品性と行為にある場合は、その人物を改変せよ。境遇が窮迫の原因であり、彼の力ではいかんともし難き場合は、境遇を改変せよ。」
「救世軍の宗教は、『失せたる者を尋ねて救う』救霊の宗教、『貧しい者は、福音を聞かせられる』民衆の宗教、『人を強いて連れてきたる』進撃の宗教、『飢えたとき食べさせ、渇いた者に飲ませる』実行の宗教、『男も女もなく、キリスト・イエスにあって一体なる』世界同胞主義の宗教である。」
スタンレー・ジョーンズ(1884~1973年 宣教師)
「もしあなたがキリストに降伏しないならば、あなたは無秩序へ降伏することになる。」
「幸福な人は、他人のため自分の重荷を進んで負う人、不幸な人は他人のためには、自分の損になることを何もしない人。」
「私には外国伝道に対する甘い夢はなくなりました。さまざまな障害があることはよく分かっています。皆さんは、私がインドに戻っても、ただ失望や失敗があるだけで、何の成果も見ることができないだろうと言うかも知れません。しかし、私にとってそれは途中のほんのわずかな出来事にすぎないのです。私は、神からインドへ行けとの召しを受けています。その召しに忠誠を尽くすのが、私のやるべき唯一のことです。成功や失敗は、私の関知することではありません。ただ私は、神に対して忠実か否かだけなのです。」
「自分の感情がついてこないのに新しい方法で行動しなければならない時もあり、自分で行動して新しい方法で、感じなければならない時もある。信仰は基本的に行動だ。信仰は(感情ではなく)行動に表現され、生活される信念であり、遅かれ早かれある種の感情も生み出す。これが神の順序だ。それを逆にしてはいけない。それを逆にすると、あらゆることで安定性のない、幼稚なクリスチャンになります。」
「がらがら蛇は追い詰められると、非常に怒って自分の身を噛むという。この自分の身を噛むということが、人に対して憎しみや恨みを持ち続ける人の経験することだ。われわれは、恨みや憎しみは人に痛手を与えるものと思っているが、実は自分に最大の痛手を与えるのである。」
「孤立的な信仰というものはあり得ない。もし信仰が孤立的だとすれば、それは信仰ではない。イエスは、信仰をば、神を愛することと、人を愛することとしておられるからである。人を愛するということは、人との関係において実行しなければ到底あり得ない。”存在するとは、関係のうちに存在することだ”。クリスチャンの生活とは、与え、受ける共同体のうちに生きることである。」
V・レイモンド・エドマン(V. Raymond Edman 1900-1967 米国の神学者)
「神が光の下で言われたことを、決して暗闇の中で疑ってはならない」
「もし周囲の人がみな度を失ってあなたを非難しても、落着きを失うことがないなら/もしみんなの者があなたを疑っても、自分に確信を持ち、人の疑いを思いやることができるなら/もしあなたが待つことができ、待ちくたびれることがないなら/もし偽りを言われても、偽りを返さないなら/そして善人ぶったり、りこうぶったりしないなら、…私の子よ。もうあなたは一人前だ。」
「自分の行くべき道について熟考し、与えられた事についてよく検討してから行動する、慎重さは、確かに必要である。しかし、同時に、どんな困難があろうとも与えられた義務を遂行するという「敢行」の態度も、また必要である。必要以上に慎重になりすぎると、疑念がその人の力を麻痺させてしまう。神が、私たちを導いてくださる時に事を敢行するなら、人間的には不可能なことも可能となり、ついには完全な勝利に導かれるのである。すなわち、敢行するかしないかによって、任務遂行の喜びを得るか、それとも任務怠慢のための敗北を招くかが決まるのである。」
「福音書が最も多く、そして最も深く語っているのは、この世界や社会問題ではなく、来るべき永遠の世界と社会的義務である。」(P・T・フォーサイス)
ディートリッヒ・ボンヘッファー(1906~1945 ナチスに反対したために殉教したドイツの牧師)
「クリスチャン共同体よりも、自分で夢に思い描いている共同体を愛する人は、クリスチャン共同体の破壊者となります。・・・そこですばらしい体験ができずに、また特に発見すべきものがなく、弱さや信仰の欠けや困難ばかりが目につくからと言って、自分が置かれているそのクリスチャンの交わりに対して、感謝することもなく、文句ばかり言い続けるなら、私たちはその交わりを育もうとしておられる神の働きを妨げることになるのです。」
「キリストが人を召されるとき、来たりて、死ねと命じられる。」
「絶えず私の悪口を言い、私を侮辱し、私に対して公然と不正を行ない、おりさえあれば私を苦しめ悩ます隣人が(あるいは他人が)ここ