6 MGFのミニストリー・教会スケジュールカレンダー(Ministry, Church Schedule Calendar)
「人間は主なる神をほめ、あがめ、仕える事を目的として造られた。人間の第一の義務はあがめる事である。
第二はおそれである。そして第三がはじめて奉仕になる。」(イグナチオ・デ・ロヨラ)
「教会には、喜んで何かを行う人々が二組あります。一組は喜んで奉仕に励む人たちであり、
他のもう一組は喜んで彼らに仕事をさせておく人々です。」
(チャールズ・E・カウマン夫人)
「何かをさせようと思ったら、いちばん忙しいやつにやらせろ。それが事を的確にすませる方法だ。」
(ナポレオン・ボナパルト)
上記のスケジュールを覚えてお祈りください。
「主よ、あなたの御旨のままに、あなたの御旨にかなうことを、あなたの御旨の時に」(トマス・ア・ケンピス)
それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。」(Ⅰペテロ4:11)
ミニストリー(Ministries)とは?
ミニストリーとは字義通り”仕えること”
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい・・・
人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためである。」(マタイ20:26−28)
「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」(マルコ9:35)
「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:14−15)
「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、
すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」(コロサイ3:17)
「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです。
ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」(ローマ14:18、19)
「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。
私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」(Ⅱコリント4:5)
「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。」(コロサイ1:25)
「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、
どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9:14)
「こういうわけで、私たちは揺り動かさない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。
こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕することができるのです。」(ヘブル12:28)
「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。」(ローマ12:3−8)
「語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。
「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」(ローマ12:11)
「何の働きもしない愛、そんな愛は無意味です。愛を行動に移さなくてはなりません。それが奉仕です。」(マザー・テレサ)
「各自が解決しなければならない問題は、もしもっとお金を持ち、時間があり、教育を受けていたとしたら、
何をキリストのためにするかということではありません。
現在持っているもので、何をするかということです。問題となるのは、あなたがだれで、何を持っているかということではありません。
キリストがあなたを支配しておられるか否かということです。」(The Navigators)
「隠された愛の奉仕をしなさい。ほめられることを求めてはならない。
賞賛されないことに満足し、自分で軽んぜられ、低く見積もられたことにわずらわされてはならない。」(ジェレミー・テイラー)
「キリスト者共同体の中で、人が他者のためになすことができる第二番目の奉仕は、行動をもって助けることである。
すなわち、まずつまらないと思われる外面的な事柄において援助することである。
人が共に生活するところにはどこにでも、そのようなことは数え切れないほどある。
最も価値の低い奉仕に対しても、価値がありすぎるという人間は存在していない。
他者を助けるため体を少し動かせばできるような些細なことのために失われる時間を懸念する人は、通常自らの職業を神聖視しすぎている。」
(ディートリッヒ・ボンヘッファー)
「『謙遜を身につけるため』にはあなたの隣人のあらゆる弱点や欠点に対して寛容であること。彼らの人間的なもろさをおおい、
優れた点を愛すること。徳を励まし、必要なところに助けの手をのべ、彼らの繁栄を共に喜び、災難に同情を惜しまず、
友情を受け入れ、不親切を見逃し、その悪意をゆるし、下僕たちの下僕となり、
そして、人類の中でも最も低い人々の最も低い業に、おごることなく手をのべることである。」(ウィリアム・ロー)
「もし私たちのうちで一番小さいものが、信仰の最もつつましい奉仕から生ずる永遠の収穫を確信できるなら、
犠牲や骨おりを、言語に絶する栄誉と機会の遺産とみなし、試練や神のための犠牲についてとやかく言うことはないはずである。
そしていつの日か、喜びのあまり我を忘れ、涙を流して叫ぶだろう。」(アルバート・ベンジャミン・シンプソン)
「体なる教会の中では受け身であることはできません。わきに突っ立ってながめていることなどできるはずがありません。
傍観者ほど害になる人はいないからです。私たちが物事において見える役割をしていようがいまいが、それは問題ではありません。
私たちが命がけでそのことをしているか、私たちがいないときにはそれがわかるほどかということ。
『私なんかとるに足りない者だ』などと行ってはいけません。
集会に出て他の人たちが仕事をしているのに単にお客様として出席するようなことがあってはいけません。
私たちはキリストの体であり特別な肢体なのです。そしてすべての肢体が務めを遂行するときに生命が通うのです。」
(ウォッチマン・ニー)
「もし、ある男性が私の娘とデートをしたいと申し出て、それなのにガソリン代や食事代は高すぎるので出したくないと言ったならば、
私は彼が本当に娘を愛しているかどうかを疑います。
同じように、神のために何かをするのにためらっている多くの教会出席者たちのことも、本当に神を愛しているのかを疑います。」(フランシス・チャン)
【奉仕(ミニストリー)の意味】
「御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき・・・。」
神の召しは、私たちを何か特定の奉仕へと召していくものではない。しかし、私たちは神の召しをそのように解釈してしまう。
それは、神の性質に触れることによって、私たちは神のためにしたいことがわかってくるからである。しかし、本質的に、神の召しは、神の性質の現れである。
そして奉仕は、私の性質に合ったものが目に見える形で現されているにすぎない。私たちの使命は、使徒パウロによってはっきり述べられている。
「異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき」と。
奉仕は、神への献身があふれ出たものである。厳密に言うなら、奉仕そのものに召されるということはない。
奉仕は、私が神の性質に一致されたことの自然の結果である。奉仕は私の信仰生活においては、当然のことである。
まず神は、私をご自分との正しい関係に導かれる。そこで、私は神の召命を理解し、神への愛のために自ら進んでものごとをなす。
これが奉仕である。神に奉仕するということは、神の召命の声を聞いた人の愛のささげものである。
奉仕は、私の性質の現れであり、神の召しは、神の性質の現れである。私が神の性質を受け、神の召命を聞く時、奉仕と献身はともに働くようになる。
神の御子は、私のうちにご自身を啓示される。そして私は、彼への献身のゆえに、日々の営みの中において、神に奉仕をする。
【奉仕(ミニストリー)の秘訣】
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり・・・。」
パウロの奉仕観は、主と同じであった。主は言われる。「わたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。」
そしてパウロは言う。「私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。」
牧師として召された者は、他の人とは違う、と私たちは考えてしまう。
しかし、イエス・キリストによれば、牧師とは、他の人々に仕える人のことを言う。霊的な指導者ではあるが、他の人より上に位置するのではない。
パウロの奉仕の原動力は、人々への愛であった。もし私たちが、単に人のために尽くすという考えで奉仕するとしたら、容易に押しつぶされ、
悲嘆に暮れてします。あまりにも人々の反応が冷たいからである。
しかし、もし私たちの奉仕の動機が、神への純粋な愛から出ているなら、相手にどんな態度をとられようと、奉仕の妨げとはならない。
パウロの、他の人々に対する確固とした奉仕の姿勢は、イエス・キリストが彼をどのように扱ってくださったかを認識したことによる。
「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」
私が以前イエス・キリストに対して持っていた悪意、敵意に比べたら、人の私に対する態度など問題ではないというのである。
イエス・キリストは、私の卑しさ、自己中心、罪を知り尽くした上で、私に心から仕えてくださった。
このことがわかると、他の人々から受けるどのような侮辱も、主のために人々に仕える私たちの決意を鈍らせることはない。
オズワルド・チェンバーズ
【ミニストリー】
ミニストリーの土台は、品性であって専門的スキルではない。
ミニストリーの性質は、仕えることであって仕えられることではない。
ミニストリーの動機は、愛であって金や力ではない。
ミニストリーの度合いは、犠牲であって成功ではない。
ミニストリーの権威は、服従であって権威を振りかざすことではない。
ミニストリーの目的は、神の栄光を現すことであって自分たちの栄光を現すことではない。
ミニストリーの道具は、祈りとみことばであってマーケティングのハンドブックではない。
ミニストリーの特権は、成長であってそれは数の多さよりも深さによる。
ミニストリーの力は、聖霊であってプログラムではない。
ミニストリーのモデルは、イエス・キリストであって企業や人ではない。
(チャック・スウィンドル)
「教会の礼拝は一次的に、またその根源という点からしても、またその本質から言っても、何よりもまず神のわざである。
そしてその事に続いて第二次的に、偶発的に人間のわざであると言えるにすぎないのである。
ここで人間のなすべき事、またなしうる事といえば、ただ『仕える』という事だけである。」(カール・バルト)
【神に用いられる条件】
神が用いられる人は次のような特長をもっている。
①自分の不完全さをよく承知していて、神のみこころが成されることだけに関心をもっている。
②自分自身の中にある一切の野心、自己の聡明、力を神に委ね、キリストのみに従う。
③あらゆる状況の中でも信仰の目をもって神の力を信じる。
④日々の祈りを通して神ご自身と神の力を現実的に知っている。
⑤肉の力に死に、キリストにある大能の力をわがものとしている。
(ポール・リトル)
奉仕の成功の秘訣について尋ねた人に向かって、ジョージ・ミュラーは答えた。
「かつて、私が死んだ日、まったく死んだ日がありました。」
彼は話しながら低く低くかがんでゆき、ついに床に触れそうになった。
「ジョージ・ミュラーに対して死に、自分の意見、好み、嗜好、意志に対して死にました。この世に対して死に、その賞賛や非難に対して死にました。
私の兄弟たちや友人たちの賞賛や叱責に対してさえも死にました。そしてそれ以来、私は神に喜んでいただくよう心がけることだけを学んできたのです。」
MGF PRAYER MEETING(祈り会)・・・毎週木曜日午後1時~2時まで。
KOINONIA(コイノニア)・・・ギリシャ語で「交わり(フェローシップ)」の意。聖餐式、祈り、賛美、あかし、分かち合いの時。
TITUS2(タイタス・ツー=テトス2章)・・・みことば暗唱と分かち合いの有志の会。
毎週水曜日午後1時~2時まで暗唱した聖句についてみなで分かち合います。
MGFメンバーのブログ Titus 2 Spiritual relationship http://maranatha-mgf.blogspot.jp
「聖句暗唱ほど、投資された時間に対してすばらしい配当をもたらし、みことばをしっかり把握させてくれるものを、私は知らない。」
(国際ナビゲーター創立者 ドーソン・トロットマン)
「ケースに入った聖書よりも記憶に入った聖書の方がすぐれている。」(チャールズ・スポルジョン)
「私が著作したことで何か功績があるとすれば、それはひとえに、私が幼かった時、母が日毎に聖書のある箇所を読み聞かせ、暗唱させたということにある。」
(ジョン・ラスキン イギリスの評論家、美術評論家、詩人)
「聖書から暗記したものが、もっと暗記するよう休みなく刺激してくれます。100万回読んだ一節でも、
暗記によって1つ1つの文が重要であることに目が向けられると、隠された真理が非常に明瞭に現れるのです。」(ヘンリー・H・ハーレイ)
「聖書全体を覚えていても、神の愛と恵みとがなかったら何のためになるでしょう。」( トマス・ア・ケンピス)
私は宣教師を通して、イエスの山上の説教を全部暗記した男の子のことを聞いた。
この子は記録的な短時間でほとんど努力なしに暗記してしまったので、ある人がその子を呼んで、どのようにしたのか尋ねた。
すると男の子はこう言った。「そうですね。ぼくは一節を暗記して、『それを実行できるように助け手ください』と神様にお願いするのです。
それから次の節を暗記して、『主よ。この通り生活できるようにも助けてください』と言うのです。」(A・W・トウザー)
「キリスト者に求められているのは、何章の何節を暗唱するのはとても大事なことですし、たくさん頭に入ってるということはすばらしいことなのですが、まさか、聖書の中に『西』という言葉があったから西へ行くということはないでしょう。そういう受け取り方をする訳ではないでしょう。暗唱するみことば以上に大切なのは、いつもみことばの世界に生きるということです。みことばに触れていることによって、私たちが忘れていても、いつも必ず記憶していると言えないことも含めて、聖書的判断力を御霊によって養っていただくのです。つまり、イエス様のみこころがどうかということについて考えることができるようにしてくださるのです。それが一番大きなことだと思います。
もしそのような聖書の学び方、神様のみこころを求めることを知らないでいると、聖句を暗唱できるすばらしい聖書信仰があっても、極めて律法的、教条的な解釈というか、本当にみことばが言おうとしている意味ではない、自分に都合のよい解釈がいくらでも出て来るのです。」(舟喜信)
SWEETIES CLUB(スウィーティーズ・クラブ)・・・バイブル・スタディーの間の託児サービス及び教会のこども会。教会外活動も行います。”スウィーティー”とは、英語で愛しい人や小さなわが子に対して用いる愛称。同時に牧仕の愛犬の名。
MGFメッセージ文字起こし隊トランスクライバー・・・MGFの録音されたメッセージのテープ起こしをチームで行う。
チルドレン・ユース・ミニストリーについて
★「壊れた人を修理よりも強い子どもを建て上げる方が容易い。」
(フレデリック・ダグラス 1818 - 1895年 元奴隷、奴隷制度廃止運動家、新聞社主宰、政治家、牧師)
HOME FELLOWSHIP(ホーム・フェローシップ=家庭集会)・・・MGFメンバー宅にて随時開催。牧仕夫妻が家庭訪問もします。
イヤリング・ハート・・・MGF 女性メンバーの集い。不定期開催(現在のところ月1回予定)。
MGF WORSHIP TIME (ワーシップ・タイム)・・・礼拝賛美で歌われている曲を中心に集まった者たちと共にいっぱい賛美します。不定期開催。
祈老会(いのろうかい)・・・祈り労しながら年老いていく会(会員制)。MGFメンバーのためにとりなしの祈りをささげる献身者たち。
ディアコノス・・・ギリシャ語で「塵まみれになって仕える者=給仕する者」の意。食事、掃除等の奉仕を専門に行なう献身者たち。
キリスト男塾・・・MGF男性メンバー限定の集い。男らしいキリスト者を目指す者たち。
「肉から生まれた献身は、一見して非常に魅力がある。しかし、それでは主の弟子になることはできない。そのように献身した者は、いずれはどこかでイエスを否む者となる。」
「神のための働きは、私たちと神との個人的な交わりのいかんによってその価値が決まる。」
「奉仕そのものが偶像となって、奉仕のために必死に働くことは、かえって信仰生活において弊になります。
神様に用いられる人は、いつも主の教えと愛のうちに留まっている者です。」
(オズワルド・チェンバーズ)
「夏の日に、できるだけ沢山の草を刈ろうとしている人を見るがよい。彼はその仕事の途中で休んでいる。彼は怠け者なのだろうか。
その大きな鎌を砥石に当てながら、キュッ、キュッ、キュッと音を立てながらこすりつけている。
これは怠け者の音楽なのだろうか。彼は貴重な時を浪費しているのであろうか。
その大鎌でこうした音楽を響かせている間に、どんなに多くの仕事をすることができたであろうか。
しかし、彼はそのようにして自分の道具を研ぎ澄ましているのであって、力をこめてこの大鎌を振り下ろし、
自分の前に草を切り倒していくことを再び始めた時、どんなに仕事がはかどることであろうか。
まさに、このように、ほんのしばらくの休息が、良きことへの大きな奉仕の業のために心を備えさせるのである。
人は自分の生気を回復しなければならない。そうでないと、ただ衰えていくばかりである。時に応じて休暇をとることは知恵である。
我々はそのようにして聖なる無為と聖化されたレジャーによって主に仕えなければならないのである。」(チャールズ・スポルジョン)
「他人に仕えるためには、私たちは彼らの視線を無視しなければなりません。
つまり、私たちの意味と価値を彼らのバロメーターで測ることを諦めることで、私たちは自由に人々に仕えることができます。」
(ヘンリー・ナーウェン)
「神は、人のわざも、その人も賜物も必要とされない。
神が求めておられるものは、それは、最善を尽くしてご自身の柔和なくびきを負い、最善を尽くしてご自分に仕える人である。」
(ジョン・ミルトン)
「神はご自身への奉仕の価値を成功という尺度だけで計ることはなさらない。」(J・シドロ・バクスター)
私の牧師のチャック・スミスは『カルバリー・チャペルの特徴』という牧師などのリーダー向けに書いた本の中でこの点について次のように述べている。
しばしば人々は私たちの気に障ることをしたり、けっして感謝できないようなことをします。彼らはいろいろと要求するのです。要求するばかりの人々とともにいることは不愉快なものです。
あなたが「彼らに仕えなくてはならない。」と思うならすぐに挫折を味わうことになります。しかしあなたが「主に仕えよう」と思うなら、あなたは仕える働きをこなすことができるでしょう。
たとえ、どのような仕える働きであれ、まず最初に主に向かってやらなければなりません。報酬を与えてくださるのは、他ならぬ主ご自身なのですから。
けっして人々から賞賛を得ようと思ってはなりません。あなたに「ありがとう、あなたがいてくださるから助かるわ。」と言ってくれるのを期待してはなりません。そんなことはまれだからです。
私が人々のために仕えて、仕えて、仕えたとしても、私が仕えるのを止めてしまうと、彼らはひどい仕打ちで返すことがあります。
すべては、主に向かってやるという内なる態度を身につける必要があります。つまるところ、仕える働きとは主ご自身に仕えるものであることを知ってください。
そのとき、あなた自身の報酬を受けるのです。いつでもこのことを忘れてはなりません。私はイエス・キリストの使用人です。主イエスが私のご主人なのです。
主こそが、ミニストリーに報いてくださる方です。主の御前に正しい態度をとると心に決めて、人々に仕える必要があります。主のためにやるのです。
※文中の「仕える働き」は原文ではMinistry(ミニストリー)
国際ナビゲーターの名誉総裁のジェリー・ホワイトの同様のことを『誠実・道徳・良心』という著作の中で、他の人に仕えることについて次のように述べている。
クリスチャンは、神と人とに仕えるしもべであるはずである。
が、私たちの多くは「自分は何をささげられるか」というより、「自分は何をもらえるか」という態度で、商売・仕事など、生活のあらゆる面に向かっている。
自分が神のしもべであると考えると、私たちは励まされる。王のしもべになりたくない者があろうか。だが、人に仕えるとなると、話は違ってくる。
神に仕えることは気高く、人に仕えることは卑しいように思ってしまう。
神に仕えるなら報いを受けられるが、人に仕える場合、ことにお返しのできない人々に仕える場合には、だれからも、恩恵や誉れをもらうことは望めない。神から以外には。
キリストは、私たちに手本を示された。
「人の子が来たの(は)、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」(マタイ20:28)。
神のしもべであるためには、人々のしもべでなければならない。
いかなる仕事に従事していようとも、人に仕えているのだという思いが、私たちのあらゆる行為を支えていなければならない。仕えるとは、仕えようとしている相手のことをまず考えることである。
仕事を通して誠実に仕えている者は、神をあがめているのであり、上に立つ人の心にも深く覚えられることになる。一方、自分に仕える者は、どこの職場でも、重んじられることはないであろう。
主よ、わたしたちふたりは、絶え間なく他人(ひと)に奉仕する習慣を保ってきました。
親しくしている全ての人たちにとって、わたしたちはセントバーナードです。
わたしたちは言うべき言葉を知っているし、
ほほえみが必要なことも、
どんなしぐさが必要かも知っているのです。
わたしたちはよいしもべかも知れませんが、「役に立つしもべ」には絶対なれないでしょう。
なぜなら、わたしたちのこの態度ゆえに、他の人びとはいつまでも小さく、わたしたちは、いつもりっぱな人としてとどまるからです。
彼らが貧しいままでいるのに、わたしたちは富んだ者となり、
ひとたび彼らがわたしたちを必要としなくなれば、だめになってしまう人間なのですから。
主よ、愛することを減らすのではなく、機械的に奉仕することを減らさせてください。
わたしたちは小さくなり、他の人びとが成長しますように。
彼らに前より少なく与え、より多く要求し、
彼らを救おうとする代わりに、彼らを救い手とならせてください。
そうすれば主よ、わたしたちは
恩人でも
親代わりでもなく
兄弟に対する兄弟となることができるでしょう。
ミシェル・クオスト